平成14年刑(わ)第3696号、第4021号

 被告人  松 崎  博 己
 同    羽 廣   憲
 同    富 田  益 行
 同    東     元
 同    橘   日 出 夫
 同    原 田  隆 司
 同    小 泉   伸
 同    向 山  和 光

 公 訴 棄 却 申 立 書

          2003年4月21日

東 京 地 方 裁 判 所
刑 事 第 一 〇 部
御 中

標記事件は、憲法13・19・21@・25・27・28・31・34・36・37B・38@条等の直接適用、ないしは、刑事訴訟法338条4号に基いて公訴棄却がなされるべきである。
 全被告人の即時釈放を求める。
 
                       被告人弁護人
         別紙のとおり
           

申   立   の   趣   旨

1、 本件公訴提起は、被告人らが国労本部の腐敗と屈服路線を、現場の国労組合員として批判し、労働組合としての団結を維持し発展させようとして行った、全く正当な組合活動を抑圧し、かつ他の組合員を威嚇して批判を封じて、国労としての組合活動を妨害破壊するとともに、更には被告人らを意識的組合活動から脱落転向せしめようとするところの、権力機関の政治的意図に基づく、不当な弾圧行為である。被告人の中には拷問されたものさえいる。

 (なお被告人向山は国労組合員ではなく、本件説得活動に於ては具体的に何の行為も行っていない。このように捜査機関が問題としている事案とは無関係の者であるにもかかわらず、公安警察・政治検察は、ただただ、「本件は外部勢力による国労の活動に対する介入である。」などとの、虚偽の事件構成をなすために、敢えて事件関係者として逮捕起訴したものである。)

2、 このような本件公訴提起は、刑事訴訟法上違法(1・199・207・248条等違反)であることはもちろんであるが、更に憲法13条(幸福追求権)19条(思想信条の自由)・第21条1項(表現・結社の自由)・第25条(健康で文化的な生活を営む権利)・27条(勤労する権利)・28条(労働者の団結権の保障)・第31条(適正手続の保障)・第36条(公務員による拷問の禁止)第34条/37条3項(弁護人選任権)・第38条1項(黙秘権の保障)等にも違反する、違憲の行為である。

3、 かかる違憲違法の公訴提起行為は、刑事訴訟法338条4号に該当するものであることは当然であるが、まず何よりも、憲法に違反するものとして当該憲法条項の直接適用によって、形式判決が下され、全被告人は即刻解放されなければならない。

申   立   の   理   由

第1 本申立の構成について

1、 問題点の所在

 (1) 本件立件の問題性については、すでに弁護人の冒頭意見に於て詳論したところである。この意見に於て瀝然として明らかな如く、本件は、被告人の基本的人権・労働者の団結権をも顧みず、ないしは積極的にこれに攻撃を加えてきた政治的起訴であり、弾圧事件そのものである。

(2) 弁護人らは、本件は実体上無罪であることは当然であるが、この公訴提起の違法性の問題を重視し、本件は実体審理に入るまでもなく、現段階での形式判決によって、被告人全員が即時に釈放されることを要求するものである。

(3) ところで、こうした要求はこれまで、公訴権の濫用として、刑訴法338条4号に基づく公訴棄却を求めるものとして行われて来ることが多かった。
  しかるに、この申立に対しては裁判所は、いわゆる「チッソ五井工場事件」についての最高裁による決定(昭和55・12・17)を援用し、これに依拠して、「検察官の公訴提起に裁量逸脱はなかった」として検察官を救済するのが常である。

(4) だが、このような解釈運用は、公訴棄却制度の生命を絶つに等しい誤ったもので ある。
我々は、この決定およびその前提としての公訴権濫用論を克服し、公訴棄却制度本来の趣旨を再生せんとするものである。

 2、 公訴棄却制度における公訴権濫用論と、その限界

 (1) 周知の如く、刑事裁判に於ける公訴棄却は、長らくいわゆる公訴権論を中心に理論構築され、公訴権濫用論として一定の理論的判例的地平に達した。
 しかしながら、チッソ五井工場事件に関する最高裁昭和55年12月17日決定は、その具体的結論はともかくとして、公訴権濫用について、一般論に於て極めて狭小な要件論を定立し、実務上公訴棄却の道を事実上閉ざし、これを無意味化してしまった。この最高裁の判断は決定的に誤っている。しかも、この誤謬によって失われるものは甚だ大であって、早急にこれは克服されなければならない。

(2) この立場からするならば、戦後の刑事訴訟制度に於て公訴権濫用論は、大きな役割を果たしたものとして、その意義は十分に評価さるべきであるが、しかし現時点にあっては改めて、公訴棄却論のそもそもの出発点、すなわち、なぜ公訴棄却が必要として先人法曹の苦闘がなされたのか、その原点に立返っての考察がなされなければならない。その時は我々は、もはや公訴権濫用論に立脚することは許されず、またその必要性も無いことを確認することができる。
 なぜなら公訴権濫用論は、検察官の権限行使上の濫用性の有無という、あくまで検察官の行為・主観に則して、その違法性の有無を審査する方法である。このためにその方法評価については、起訴便宜主義制度に立つ我が法制にあっては、検察官の裁量権を重視し、これに偏した立場から評価を行うという、その構造に於てすでに誤った方法論に陥る可能性が否定できないからである。
 上記最高裁決定は、この誤謬性が端的に露呈したものである。すなわちそれは、広汎な裁量性を前提に、違法とまで言いうるほどの逸脱とは、との論理に呪縛されてしまった結果、濫用のありうることは一応は認めながらも、しかし、現実にはそれは「公訴提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られる」などとの、およそ非現実的・非実用的な場合にこれを限定してしまったのである。
 かくしてこの決定は、実務上、公訴棄却制度を無意味化してしまった。

(3) そもそも戦後の早い時期から、実務上公訴棄却が実践的に問題にされたことの根拠には、次の事がある。それは、そもそも当該事案が刑事事件として構成され、国民が被告人として審判廷に立たされるということそれ自体が、国民の法律感情にそぐわないという事案の存在していることが厳然たる事実であるからである。(これについては例えば、ポツダム宣言受諾後に於て、なお「不敬罪」が適用されたいわゆる「プラカード事件」などが直ちに想起される。ただしこの件は、公訴棄却されず、法律の廃止による免訴とされた。ここには、当時の刑事訴訟理論・実務の立ち後れが示されている。)
 このような事案についての妥当な解決は、いかになされるべきであるのか。それは、かかる理不尽な裁判については、実体審理に敢えて入るまでもなく、形式判決を以て早期に終結し、無意味ないし不当な刑事手続に縛られている国民を早く解放することではないか。この当然の疑問・要請に、刑事訴訟法学・実務が実践的に応えようとした。戦後の公訴棄却論の発展の根拠は、ここに存していたのである。

(4) この場合に、その実定的根拠・手段としては、すでに法律として存在しており、公訴提起に於る違法無効による公訴棄却を明定しているところの刑訴法338条4号が着目されるに至った。
 そこでこれを有効に機能させる必要性・目的から、検察官の「公訴権」についての理論的検討が刑事訴訟法学によって深化され、「濫用論」として結実し、一定の有効性を持つ実務的な根拠法規として機能するに至ったのである。

(5) しかしながら、ここで考えられなければならないことがある。それは、公訴提起に違法があって無効な場合に、当該訴訟が公訴棄却されるべきは、もちろん当然のことであるが、しかし、公訴棄却の必要性・妥当性は、このような場合に限られるのであろうか、あるいは、公訴提起が違法でなければ公訴棄却判決は不可能なのであろうか、との問題である。
 しかして、改めてこれを検討するならば、公訴権濫用は公訴棄却されるべき場合の、あくまで一箇の典型的理由ではあっても、だがこれに限定されるということではないことが明らかである。両者は、沿革上多分に同一のものとして論じられてきた面が存するが、しかしこれらは完全に次元を異にしているものである。

(6) けだし、「このような刑事裁判は、設定されること自体がそもそもおかしいのではないか。間違っているのではないか。」という問題は、検察官の公訴提起のみに関係する問題ではなく、当該裁判の根拠そのものが問題にされているものであるからである。
 ここにおいては、検察官の公訴提起の適法性の問題は、裁判設営を構成する一要素であるから、その違法が裁判設定自体を無効ならしめる原因となることはもちろんであるが、しかし、この問題に全面的に係らせなければならないという、論理的必然性は全く存在しないのである。その意味で、公訴権濫用論は公訴棄却相当の場合の一部を構成するものではあるが、その全てでも何でもないのである。
 それは、公訴棄却を出来する最も端的な場合であることと、実定法的根拠を与えるものであることから、沿革上、公訴棄却論の中心とされてきたものであるが、それ以上の本質性を有するものではないのである。不必要にこれに拘泥し、最高裁の如くに非実際的思考に陥ることは、厳に戒められなければならない。
 このように公訴権濫用論は、前記のとおりの理論的弱点を有し、公訴棄却制度の要請に十分に応え得ない事が明白となった現在、より根元的で有効な公訴棄却論が必要となっているのである。

 3、 訴訟条件論としての公訴棄却論、および憲法条項の直接適用による形式判決

(1) このような要請に応えるものが訴訟条件論としての公訴棄却論であり、その根拠としての憲法条項の直接適用による公訴棄却論である。これは、

(1) 公訴棄却制度を、公訴権濫用論から切り離して、刑事裁判の一般的な成立根拠から考察すること

(2) それゆえに、刑訴法388条4号のみに立脚することをせず、上記@の立場から、これに最も相応しい実定的根拠を設定すること

との要請に応えるものものである。

(2) すなわち、当該刑事裁判設営の根拠の有無・当否を原理的に検討すると共に、検察官の行為に則した評価に全面的に依拠するのではなく、より客観的全体的な情況(公訴権濫用も含まれる)を、憲法の立場から判断しようとするものである。これによって、最高裁の誤謬は克服され、公訴棄却制度本来の趣旨がより有効に達成されるであろう。
 本申立は、この理を明らかにし、これを前提として、本件に於ける公訴棄却判決相当性を主張するものである。

第2 公訴棄却制度について

 1 刑事司法の理念と裁判のあるべき姿

 (1) 刑事訴訟制度は、一定の事実に対して法を適用することにより正義を実現・回復するものとして、設営されている。
 一般人に復讐を禁止しつつ、基本的人権に対する直接的制限を内容とする諸手続・権限が、権力機関に付与されている根拠の究極も、ここに存しているものと考えられている。

 (2) そうであるがゆえに、このような目的のもとに設定される刑事裁判に於て、判断作用の前提である<事実>が、主権者の社会的正義感にそぐわないようなものであるときには、そのような司法実践は、司法機関・その作用に対する授権の、究極の淵源者たる主権者からは到底支持されるものではない。それらは如上の趣旨からして、司法作用のそもそもの存在意義・趣旨にも背馳し、主権者を裏切り、司法の権威を害なうものとなることになる。

 (3) 逆に、裁判所の判断が、社会の真実に踏まえ、この正義感に適ったものであるときには、主権者はそれを支持し、司法制度への信頼感を更に強めることになる。
   主権者にとって裁判制度の意義は、何よりも
    @ そこにいかに真実が語られているか
    A その真実に踏まえて、いかに情理兼ね備わった判断が示されているか、にこそ存しているのである。
 それゆえに、単に法技術によってのみ形式的に組み立てられたというだけの判決は、或いは当該裁判官はその構築の精緻性完成性に、安心ないし満足しているのかも知れないが、しかしそのような判決は、実際は、主権者からは失望され、却って軽侮され、結果、裁判所の権威を大きく害なってしまっているのである。

2 裁判に要求されるコモンセンスと、いわゆるチッソ五井工場事件公訴棄却判決の意義

(1) この点につき想いをめぐらせるとき、殆ど必然的に想起されるのが、いわゆるチッソ水俣病事件に関して、我が国の民事・刑事裁判所が示した諸判断の意義である。それらは、文明史的ともいうべき未曾有の悲惨深刻な公害事件・企業犯罪について、多くの制度的・法理論的限界に難渋しながらも、正義の回復・宣明という司法の任務に背かない一定の判断を示し、我が国の司法史上に名をとどめるものとなったのである。

(2) 被害者の直接的救済に関する民事判決は、いわゆる四大公害事件判決の一として、悲惨な被害の救済に高い役割を果たした。
 因果関係論・証明責任論等々における訴訟関係者、裁判所の苦闘は、我々法曹にとって、裁判理論の在り方についての深甚な省察を迫っているものである。

(3) 一方、刑事事件の関係に於て、何よりも特筆さるべきが、いわゆるチッソ五井工場事件について、公訴権濫用論を高等裁判所判決において初めて適用し、公訴棄却の形式判決を以て、公害の被害者でありながら刑事裁判の被告とされていた川本氏を解放した画期的な東京高裁判決(昭和52年6月14日)である。
すなわち、この判決は、検察官に公訴提起の裁量権が広く認められていることは認めつつも、検察官の裁量による権限の濫用が甚だしく、特に不当な起訴処分によって被告人の法の下の平等の権利等の基本的人権を侵害し、これを是正しなければ著しく正義に反するようなときには、刑訴法338条4号をもって公訴を棄却すべきとしたものである。
 事実認識、問題設定において水俣病問題総体を社会全体的に俯瞰し、真実を把握しようとしたその事実認定手法と、断固たる法適用の姿勢に於いて高く評価された判決である。
 この判決は、社会的に大きな注目を集めた。そして強い共感を呼び、支持された。

(4) なぜならそれは、高裁としての公訴権濫用論の初適用という点もさることながら、何よりも、そのような理論の適用によって、水俣病問題・チッソ五井工場事件について、真に正義を回復宣明するものとして、社会的に受け止められたからである。それは、この件には次のような経過・事情が存在していたからである、すなわち

 @ 川本氏はチッソ水俣工場による不法行為の被害者である。
 A にもかかわらず、行政上の救済からも無視され、放置され続けてきていた。
 B 当日、チッソの職員は川本氏ら抗議団に対してあからさまな暴力を揮った。
 C それまでに、チッソが処罰された事はなかった。 

という諸事実がそれである。
  こうした経過であるにもかかわらず、そのような被害者が、チッソ五井工場における一定のトラブルに藉口され、チッソ職員に対する傷害罪をもって訴追されたのである。

(5) だがしかし、このトラブルとは何であったのか。
  この日の実状としてはむしろ、抗議を拒否しようとしたチッソの職員によって、川本氏を含む抗議団の人達に対して暴力が揮われたのであった。このため例えば、社会派写真家として世界的に著名なユージン・スミス氏が、取材撮影のため現場に臨場していたところ、職員は同氏にも暴行を揮い、結果、同氏は片目を失明した。
 (しかるに、川本氏を起訴した検察によって、この職員が責任を追求されたという話は聞かれない。)
 
(6) このような事案の真実からして、川本氏がチッソ職員に対する傷害罪をもって刑事責任を追求されるということには、社会は割切れない思いを、ひとしく、強く抱かされていた。
 なぜ、スミス氏への(失明にも及ぶ)傷害行為は不問に付され、一方、本来深刻な被害者であり、しかも救済を拒否されてきている川本氏について、なにゆえに「(人を失明させるという程の傷害を与えた)チッソの職員が、暴行を揮われた」などとして、傷害罪として刑事責任まで問われることになるのか・・・・。
 なぜこのような不公平が、許容されるのか・・・・・。
 司法は、やはりは所詮、企業の味方なのか・・・・・。

(7) これは、水俣病問題について、多少とも意識的に認識しようとしている国民の多くが、素朴に抱いた疑問であった。
 だがこれに対して東京高裁は、画期的な公訴棄却判決を以て、明快にこの問題に答え、これを解決した。それは、悲惨な被害の発生被害者の社会的放置等の反正義的現実を、事実として認定した上で、この事案をこうした巨大な社会的不正義の中に位置づけて考察し、更に当日の実状等をも勘案しつつ、問題の全体性に対して、個別事案の裁判として迫りうる、ギリギリの可能性を追求したものであった。

(8) 如上のとおり、川本事件については、その後最高裁によって、いわゆる公訴権濫用論そのものに、判例理論上一定の限界が示されることとなった。だがしかし、この判決が社会と裁判との関係で果たした役割の大きさ・重要性は、現在に於ても、決して忘れられてはならない。
 ( なお、公訴権濫用論についての判例理論については前述のとおりであるが、検察の上告にもかかわらず、形式判決による川本氏の解放という東京高裁判決の結論そのものは、最高裁によっても支持されたことは周知のとおりである。
  ことほど左様に、チッソ川本判決は、刑事裁判に於ける正義という問題を、司法全体に突きつけた事案であったのである。)

(9) それは当然にも、水俣病問題解決(いわゆる未認定患者の救済)に多大の影響を与えた。また、違法捜査を理由として、初めて公訴棄却判決が下された昭和40年大森簡裁判決と並んで、<刑事裁判における正義>を、現在に至るも提起しているものである。

3 公訴棄却制度の重要性

(1) ところで、これほどまでに大きな役割を果たしてきた、この東京高裁判決の意義はどこに存するであろうか。
 それは何よりも、その事実認識・問題設定において、水俣病問題総体を社会全体的に俯瞰観察し、真実を把握しようとした、その事実認定の方法論に存したのである。
 すなわち、この日の極く限られた時間帯での、かつ川本氏の行動にのみ着目、切り取られたところの、チッソ五井工場での一シチュエーション、これがいかに刑法的に細かく分析構成されていたところで、そのようなものの中に、いかほどの真実が存在しているであろうか。(実はこの件の第一審判決がそのようなものであった。)
 水俣病事件という問題の巨大性・深刻性・複雑性をすでに知る全国民の目よりするならば、その誤謬は、もはや論ずるまでもないところであった。
 それゆえにこそ、最高裁ですら、判例理論としての公訴棄却論に関しては、より慎重な立場を採る旨を述べながらも、他方で
 「 ・・・・本件公訴提起の相当性について疑いをさしはさましめるのは、むしろ、水俣病を惹起したとされるチッソ株式会社の側と被告人を含む患者側との相互のあいだに発生した種々の違法行為につき、警察・検察当局による捜査権乃至公訴権の発動の状況に不公平があったとされる点にあるだろう。原判決も、また、この点を重視しているものと考えられる。・・・・・
 しかしながら、本件については第一審が・・・の判決を言い渡し、これに対しては検察官からの控訴の申立はなく、被告人からの控訴に基づき原判決が公訴を棄却したものであるところ、、記録に現われた本件のきわめて特異な背景事情に加えて、・・・・・、また、被告人が右公害によって父親を失い自らも健康を損なう結果を被っていることなどをかれこれ考えあわせると、原判決を破棄して第一審判決の執行猶予付きの罰金刑を復活させなければ著しく正義に反することになるとは考えられず、いまだ刑訴法411条を適用すべきものとは認められない。」
と、明確に述べ、東京高裁判決の結論は維持したのである。

(2) この判決については、例えば田宮裕教授によって、「最高裁の答えは、微妙なそして大へん苦悩にみちたものであった」と評されている。(「刑事訴訟法判例一〇〇選<第五版>」60〜頁)
 たしかに、最高裁決定文は、いかにも歯切れの悪い膠着的文章で表現されている。そこには、敢えてそのような屈折的表現の重畳に、この件に関する無限の含意が託されているかの如くである。「苦悩にみちた」と評される所以である。
 しかし翻って考えてみれば、最高裁は一体何ゆえにそれほど「苦悩」することになるのであろうか。公訴棄却に関する法理論についてであろうか。勿論そうではない。公訴棄却論自体について、最高裁が東京高裁の理論的立場を否定すること、これにそのように異例に苦悩した、ということは事柄の性質上ない、このことは本件決定によっても明らかである。では何が一体、苦悩の原因であったのか。

(3) それは、東京高裁判決の公訴棄却に対する否定、この結論はしかし、直ちに、「チッソ五井工場におけるチッソ職員の暴行の容認」ひいては水俣病問題それ自体に対して、「要するに最高裁はチッソの味方じゃないか!」との社会感情を誘起することになるという問題こそであった。
  最高裁は、いつものように「それは法律制度・裁判というものを解さない者の『雑音』」などとして無視しさる、ということは出来なかった。ここにこそ苦悩があったのである。それは何故か。明らかである。最高裁自身が水俣病問題について怒り・不正義との問題意識を心の奥底で抱いていたからである。この、最高裁にとって殆どアンビバレンツというべき困難な課題に、ドラスティックな検察批判の形を何とか避け、以降の検察批判についての抑止を考慮しつつ、しかも具体的妥当性をもって社会に受容される決着を実現する事、ここに最高裁の屈折に屈折を重ねた決定の、「苦悩」の原因が存したのである。

(4) (なお田宮教授も、末尾に次のように記して、この評釈を結んでいることが注目される。
「なお、本件においては、水俣病公害にからむ特殊な事情、およびこれにからむ刑訴法411条論こそ重要であるが、標題(「公訴権の濫用」・・弁護人注)にてらし、解説を一般論に限ったことをおことわりしたい。」
しかし、このような「断り書き」が、なにゆえにわざわざされたのであろうか。
おもうにそれは、誰の目にも、本件の底には、社会的正義の問題が存していること、そしてこのことを考え抜き、かつこれの受け止めについて、実定法に基づいても解決を示し得ない限り、いかに法・裁判が論ぜられても、それは空虚なものでしかないのだ、との認識が普遍的に存在していたこと、これこそが田宮教授をして、敢えてこのようなことわりをもって筆を措かせた理由であったと考えられるのである。)

(5) このように、チッソ五井工場事件に関する裁判経過・結果においては、(公訴棄却論自体については誤った決着であったと言わざるを得ないが)、社会的正義と法・裁判との関係についての、極めて深く重い問題が、実践的に提示されたのであった。
 そして、この東京高裁判決は、裁判制度に対する主権者の信頼感の、重要な根拠として機能し続けてきているのである。
 その理由は、前述のとおり、局視的な事実の把握・法の適用ではなく、当該事案を一個の社会的事象として措定し、全法律体系の中にこれを裁判を位置づけ、結論が導かれたという点にこそ存していたのである。
 およそ裁判が主権者に支持されるための根拠は、このように、その裁判が事案を如何なる事実として捉えているか、またそれを前提に、いかなる説得的議論が尽くされ展開されているか、にこそ存していることが明白である。
しかして、このことは、最高裁自身が認めざるをえなかったように、通常の如くに裁判を行ってはならない事案が厳然として存在すること、そしてこのような事案の処断には、公訴棄却こそが最も有効であることを示しているのである。

4 公訴棄却の実定的根拠

(1) 公訴権濫用論の限界と訴訟条件論

 前記のとおり、チッソ事件に関する最高裁決定の誤謬性は、検察官の公訴提起行為の限界はどこかという問題構造の設定、すなわち検察官の広汎な訴追裁量権をまず措定し、そこからの逸脱を問題にする視点に由来する。そして、これは「検察官の訴追行為を違法とまで言ってよいか」とあくまで検察官の行為の次元・範囲でことを論ずる公訴権濫用論自体の限界でもあったのである。
 なお、前記最高裁は結論としては東京高裁判決を維持しながらも、「川本氏を起訴した検察官の行為が職務犯罪をも構成する」とは言っていないのであるから、その自己矛盾性は明らかである。職務犯罪を構成するような場合でなくとも、公訴棄却が相応しい場合の存することを、最高裁も認めてしまっているのである。この矛盾は要するに、最高裁の定立した要件論の誤謬により必然化したのである。最高裁はこれを「水俣病問題」の特殊性を以て説明しようとしている。しかし、この件以外に、今後こうした問題は絶対にありえないとまでは言い切れないであろう。だとすると、最高裁の立てたこの要件が、正しい判決がなされる上での無用の桎梏となることは明らかである。いずれにせよ、百害あって一利ないところの、最高裁の55年決定は早期に廃棄されなければならない。

(2) しかし、このように、形式判決による早期打切りの必要性の高い事件の存在自体は、(当の最高裁ですら)否定できない。
 そうであるとするならば、我々は、公訴権濫用論の果たした成果については、依然としてこれを評価した上で、同理論のこのような限界を克服して、事態を前へ進めなければならない。
 この点については学説にあっても同様の問題意識から理論的提起がなされ、実践的理論構築の試みが続けられてきている。すなわち例えば、鈴木茂嗣教授からも夙に、いわゆる実体法説(処罰不相当説)の立場から

「本来の意味での公訴権濫用に相応しいのは<悪意の起訴>であり、その他のものを公訴権濫用論の名の下に論じることは、検察官の主観的意図の重視を導き、かえって議論を混乱させるおそれがある。
それらの問題は適正手続、あるいは被告人保護という観点から訴訟条件の欠如の問題として処理してゆく方がよい。」(「刑事訴訟法」107〜110頁)
と述べられているところなどが、その典型である。

(3) 憲法条項直接適用論

@ そこで要求されるのは、上に述べた如く、「公訴提起の有効性の限界」論に縛られた発想ではなく、「当該事案について憲法上裁判が可能であるのか」との、訴訟条件論(憲法論的・実定法的)的発想への視点の転換である。 
こうして我々は、訴訟条件論として公訴棄却の問題を構成すべきなのであるが、次に必要となるのは、この公訴棄却論は最高裁的発想に陥りやすい刑訴法338条4号に代わる実定的根拠の措定である。
 それは憲法条項それ自体の直接適用によって達成されうる。
けだし、そもそも刑事裁判制度の設定運営は、憲法によって国家権力に委ねられているのであるから、当該事案についてこの設定運営がそれ自体が憲法に違反するという事態は、根本的背理であって憲法の容認するところではなく、裁判自体が不可能であると考えられるべきであるからである。

A ところで注目すべきは、このような論理は、実は、すでに最高裁自身が採用しているということである。 

@ その一は、いわゆる「高田事件判決」である。
 周知のとおり同判決は、憲法37条1項(迅速な裁判を受ける権利)について
「・・・本条一項は、迅速な裁判を一般的に保障するために必要な立法上・司法行政上の措置を要請するにとどまらず、個々の事件につき、審理の著しい遅延の結果被告人の迅速な裁判を受ける権利が害されたと認められる場合には、具体的規定がなくても、審理打ち切りの非常手段がとられることを認める趣旨である。」 
と宣明し、憲法37条1項の直接適用による形式判決(免訴)を下した。(最高裁昭和47年12月20日判決)
 この判決の論理については、さしたる反論を見ない。また以降、最高裁自身によっても具体的結論はともかくとして、この一般理論は否定されることなく、これに基づいた判断が続けられてきている。
 この判決において注目されるべきは、いうまでもなくある事件について、重大な憲法違反的事態が生じている場合には、憲法条項の直接適用によって、形式判決がなされうるとした点である。

A そして今一つ注目されるのが、違法収集証拠の排除に関する、最高裁昭和53年9月7日判決である。
 これも周知のとおり、この判決は、「証拠物の押収等の手続に、憲法35条及びこれを受けた刑訴法218条1項の所期する令状主義の精神を没却する  ような重大な違法があり、これを証拠として許容することが将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合には、その証拠能力は否定される。」として、いわゆる違法排除説をとることを鮮明に打ち出したものである。ここに憲法35条が明言されていることが、極めて重要である。かってこの問題については、いわゆる「虚偽排除説」「人権保障説」等の形で議論の低徊状況が存在していた。しかし最高裁は、躊躇なく上位規範である憲法の立場から判断し、端的明快に「違法排除説」にたって断をを下したのである。
最高裁は、「憲法の精神を没却する違法」を根拠に、その効力として、刑事訴訟法上の個々の手続の違法・排除がもたらされるものであることを、ここに明らかにしたのである。

B ところで、以上の重要な2箇の判断は次のことを示している。 すなわち、このような最高裁自身が判例において採っている理論を前提にするならば、当然、他の条項にあっても重大な憲法違反的事態の生じている場合には、当該条項を直接適用し、形式判決をもって、被告人を早期に解放すべきであり、またそれは理論的にも可能であるということである。 

C そもそも根本的には、公訴棄却制度の必要性・重要性の認識の根拠は、もちろん、「公訴権濫用論」という法律論に由来するものではない。それはあくまでも、公訴棄却の基礎を築かんが為の道具的理論作業であったにすぎない。何よりも、不正義で不合理な事態に対する妥当な解決の追求、ということに本来の趣旨が存したのである。
 それゆえに、最高裁等による誤った公訴棄却論にもかかわらず、下級審現場にあっては、刑事司法の前進に心を砕く努力が営々と続けられてきた。我々は、これら先進的裁判例の精神を高く評価し、その理論構成の苦心に学ぶものである。

D 例えば早くには、逮捕に際しての警察官の理不尽な暴力行使を問題にし、我が国で最初に公訴権濫用論に基づく公訴棄却判決を下した、大森簡易裁判所昭和40・4・5判決なども、決して忘れられてはならない画期的なものである。

E また、いわゆる赤碕町町長選挙違反事件( 町長選挙に於て、町長の反対派に対してのみ強制捜査を展開し起訴した事案)判決(広島高裁松江支部昭和55年2月4日判決)は、
 「憲法14条違反の差別捜査に基づいて、差別された一方だけに対して公訴が提起された場合、右公訴提起は憲法31条に違反するから、差別の程度、犯罪軽重等を総合的に考慮して、これを放置することが憲法の人権保障規定に照らして容認しがたく、他にこれを救済するための適切な方途がない場合には、憲法31条の保障を貫徹するため、刑訴法338条4号を準用ないし類推適用して、公訴棄却の判決をするのが相当である。」
と明言している。これは直接の実定的根拠としては刑訴法338条4号の適用・ないし準用という手法によったものであるが、しかしその違法判断の前提としては、憲法違反が強調されており、実質上憲法14条の適用論とも評価されたものである。
 (なお、この判決については最高裁は、例の公訴権濫用論に基づいてこれを覆した。手続の適正・司法の廉潔性ということについての現場の裁判官の真摯な人権感覚に比して、最高裁がいかに遅れているか、司法として腐敗堕落しているかが、如実に示された経過であった。
 しかし、このような正義の意識を欠如した誤謬の論によっては、この松江支部判決の価値は、些かもそこなわれるものではない。)

F 更に、比較的最近では、山口簡裁平成2・10・22判決(判時1366・158)が存在している。
 これは、ごく数分の駐車違反について、通常は口頭警告で済まされているところ、検挙、起訴した事案について、
 「杜撰な捜査に基づき、結局は被告人に不公正な処罰を求めているものである。」
として、敢えて公訴権濫用の理論により公訴棄却の結論を下している。
 これらは現実への適用能力を欠いた最高裁の理論より、はるかに妥当な司法としての発展性に富むと評価さるべきである。  

G これらはいずれも、公訴棄却の実定的根拠としてはなお、刑訴法338条4号をも援用する形をとっているが、赤碕町町長選挙違反事件判決の行文にも窺われるように、憲法条項への適合性についての強い意識が明らかにされているところに、極めて注目すべき点があると言わねばならない。
 (根拠として援用される実定法規については、現場の裁判官としては、憲法に違反する公訴提起は違法であるのだから、これに基づき、338条4号の問題として構成したものと考えられる。あるいは、憲法の直接適用というドラスティックな構成よりも、その方が手堅いと考えられたのであろうか。たしかにこの手法によれば、338条4号の適用という公訴棄却についての伝統的法理に立脚することになるという意味での安定性は存する。しかし反面、「公訴権濫用論」に依拠するために、最高裁の誤った理論の枠組に位置付けられるということが避けられなくなったことは、不徹底であり折角の憲法意識が無にされ貶められてしまうことになってしまった。まことに惜しまるべきことであった。
 それゆえにこそ、現時点にあっては、刑訴法338条4号に依拠しようとすることなく、端的に憲法それ自体の問題として処理されるべきなのである。)

H すなわち、公訴棄却制度の現実的運用の必要性についての認識は、刑事裁判の現場では非常に高いのである。まぜならそれが、何よりも司法の現場での実践に基づくものであるからである。最高裁決定が何を言おうとも、それによって本質的に影響があるものではもとよりないのである。
 かくして以上のとおり、重大な憲法違反の事態に対しては、これに何とか妥当な結論を付与しようとの、真摯な努力が続けられていることが注目されなければならない。

I このような状況にふまえ、上記の2箇の最高裁の判断の理論的根拠に立脚するならば、憲法違反を無視し得ない事案については端的に、当該条項の直接適用によって形式判決を下し、被告人を早期に解放すること、これが要求されているのであり、また可能なのである。

第3 本件における公訴棄却

1、 以上の公訴棄却論を前提に、本件の全経過・総体を検討するならば、本件には以下のとおりの重大な憲法違反が存在している。
  よって、各憲法条項を直接適用して公訴棄却判決がなされ、速やかに手続が打切られるべきである。 

2、 本件に於ける事実経過

これについては、すでに弁護人冒頭意見に於て縷説されているところである。本申立は、これらを全面的に援用し、これに基づいてなされるものであるが、極く簡単に要点を摘記するならば、以下のとおりである。
 (1) 2002年5月27日における被告人の行為は、全く正当な労働組合活動であった。

 (2) すなわち、国家的不当労働行為である国鉄分割民営化政策の最後的掃討攻撃である、いわゆる「四党合意」について、4月26日、与党3党から威嚇督励された国鉄労働組合中央本部は、5月27日、大部隊の警察機動隊の援護までをも恃んで開催を強行した臨時大会において、最終的にこの攻撃に屈服し、むしろ自ら、攻撃の尖兵となって、自身の組合員に採用差別無効確認請求等の訴訟への参加申立お取下げを強要し、あるいは最も原則的組合員である国労闘争団の団員を国労外に放逐せんとの方針を決定しようとしていた。
 これは、国労のみならず全日本の労働者の団結に対する解体政策を自ら先導し、権力に差出すことを意味していた。

 (3) このような情況にあって、国労組合員として、またとりわけて松崎・羽廣両氏は、国家的不当労働行為の最も激しい攻撃を受けてきている者として、当然にもそのような屈服路線を批判し、同じ国労組合員でありながらこれを推進しようとしている本部支持派の組合員に対して、その誤謬性を指摘するとともに、翻意を要請しようとしたのである。
 これは労働組合としての当然の意思形成行為であり、また組合員としての全く正当な団結活動であった。

(4) にもかかわらず公安警察・公安検察は、このような正当な労働組合活動に介入して、国労本部の誤った方針を正そうとする現場組合員を弾圧すると共に、志を同じくする多数の組合員に対して威嚇を行って批判を封じ込めて、今や自分達の尖兵である本部を救済しようとした。また更には、個人的にも被告人らを転向させて意識的組合活動から脱落させんとして、暴力行為等処罰に関する法律なる、憲法違反の法律まで動員して、本件刑事手続を開始し維持しようとしているのである。(なお、この過程においては、極めて卑劣な人格攻撃までが行われた。)

(5) また、被告人向山については、同人は国労の組合員でもなく、また本件説得活動にも直接には無関係であった。にもかかわらず、支援者としてたまたま近隣に現在していたことを奇貨として、本件で殊更に云々されているような事象とも無関係であることが証拠上も明らかであるのに、「外部勢力(中核派)による大会破壊」なる、公安警察・公安検察の虚構を構成せんがために、同人の組織的立場性に藉口して、敢えて逮捕起訴したものである。
 (同人の冒頭意見にも明らかな如く、向山被告はむしろ逆に、長年国鉄闘争を支援してきた者として、この日は、万が一にもあってはならない刑事弾圧を監視する目的から現場に駆けつけた者である。しかるに公安機関はこれを逆手にとって、事案に引きずり込み、外部勢力論による事件仮構の目的に利用したのである。)

3 よって本件には、以下のとおりの憲法違反が存在している。

 (1) 正当な労働組合への弾圧的介入(憲法28条違反)

 (2) 労働組合にあっては日常的であったに過ぎない情況について
 国鉄問題・国労問題の極めて重要な情勢ゆえに、本部を批判する部分に対する弾圧意図からこれを、殊更に刑事事件化したこと。(憲法31・19・21条違反)

 (3) 被告人は本件不当逮捕、更に長期の勾留によって、労働現場から暴力的に剥離され勤労生活が不可能となった。また被告人の多くは現職のJR西日本の職員である組合員である。それでなくとも不当労働行為を構造的に多発させているJR西日本が今後被告人らの契約上の地位に対して熾烈な労働攻撃をかけてくることは必至である。(憲法27条違反)

(4) このような刑事事件化に際して、無関係であり、証拠も存在していない被告(向山被告)を、政治的意図から殊更に逮捕し起訴したこと。(憲法13・19・21・31条違反)

(5) この刑事事件仮構について、憲法違反の弾圧立法を根拠として援用したこと。(憲法31条違反)

(6) 各被告に対して取調に藉口して熾烈な転向強要を行ったこと(憲法13・19・21・28・31・38条1項違反)

(7) 捜査段階に於て全被告が、救援連絡センターに所属する弁護士を弁護人として選任していたが、取調官は、その転向攻撃の実を挙げるために「今の弁護人を解任せよ。」と、弁護士個人に対する誹謗中傷までまじえながら、露骨に解任を慫慂した。
(憲法34・37条3項違反)

(8) 東被告に対して、検察官は適切な治療を受ける機会を殊更に与えず、これを妨害したばかりでなく、むしろ勾留制度を人格に対する攻撃に活用した。そして、この精神に対する明白な拷問というべき人格攻撃を以て自己の取調の手段とした。(憲法13・25・36条違反)

4 上記3についての補足説明

   上記3について、若干の説明を加えておく。

  (1)「(1)(2)(3)(4)(6)(7)について」

@ 本件当日の状況については、先に詳論したとおりである。
これによれば、本件の状況は、労働組合に於て、極めて日常的な事象であったことが明らかである。
 そもそも労働組合は大衆組織であって、各組合員の価値観や政治的心情は一元的に同一というのではない。このことを当然の前提にしたうえで、一定の目標に向けて、運動方針・活動方針について、現場組合員個人の検討・議論、また各級機関での討論を経て、その意思形成がなされる構造となっている。
 また、労働組合は資本と対決し、あるいは社会的にも様々な課題に取組んでこれに積極的にコミットしてゆくことが予定されている組織であるから、情勢の認識・一定の方針の提起・これの可否当否をめぐって、組合員間に大小様々の意見の相違対立の存在しているのが、むしろ当然であって、これらは討論はもとより、場合によれば激しい論争が展開され、その際に一寸した揉合い状態なども生ずることが稀ではない。これらは、事の性質上、労働組合にとっての日常的な風景なのである。

A このようなことは、社会的常識であるし、もとより、日頃から労働組合を敵視し、常時監視している公安警察・検察にとってももとより承知の事柄である。
 そのような存在である公安警察は、本件の取調に於て要旨次のようなことを執拗に述べて、被告人らの「自白」を迫った。曰く「今回のようなことは、労働組合ではしょっちゅうあることで、とりたてて問題になることではない。我々もそんなことはよく解っている。
 しかし今回は違う。後ろに中核がいて、組織的計画的にやっているから問題なんだ。それが無ければ我々だってこんな事を一々事件にしようとは思わない。
 どっちみち中核は君を利用しようとしているだけなのだから、何も彼らに義理立てすることはない。このまま君が黙っていれば、中核と同視されて起訴されるだけだ。起訴されたら何年間も出てこれない。そんな割の悪いことはないではないか。
 だから、君さえ当日の事実を喋舌ってくれれば、もともと事件になるようなことではないんだし、君が中核とは無関係だということが明らかになるから、事件にしないことが出来る。だから、黙秘は止めて話した方がよい。
 救援連絡センターの弁護士も解任した方がよい。彼らは組織のことしか考えていない。適当な弁護士を紹介してもよい。 云々」

B なお更に、これら取調に於ては、本件の性格を端的に示していると思われるところの、次のような言辞さえもが吐かれたということがあった。
 すなわち、
 「(国労)東京地本には、警察は貸しがある。機動隊だって只で出しているわけではないんだ。今度は、こういう形で(貸しを)返して貰ったということだ。」
「お前らは、東京地本がこういう風に(警察に)取込まれているということについて、認識が甘かったようだな。」
とまで言明したのである。

C ここには、次のことが明らかになっている。

@  本件は、労働組合において日常的に存在しているような事象であって、格別刑
事事件として手続がとられるようなものではないこと。また、被疑者は現場の国労組合員であって或いは更に国労組合員であるが故に首を切られた当事者そのものであって、「中核派」であるから行動しているのではないということ。

A  このことについては、捜査官自身も認識を有していたこと。

B  しかしそのような事案であっても、現情勢にあっては、このような形を以て本部を批判する国労組合員は「中核派」であるとして、刑事事件化の対象とすること。(事実、そのようにされた。)

C  現場組合員からの反対の声を封じるために、警察機動隊の暴力に頼って大会を開催し運営するという、近年の国労本部・東京地本等のあり方については、組合内外から強く批判されてきたところであるが、当然にも公安警察は、こうした助力の要請を労働組合への介入・弾圧の好機と捉え、実際にもそのように活用してきていること。

D しかしてこれらは、更に次のような組合活動への介入としての効果を有していた。

@ すでに弁護人「冒頭意見」において詳論した如く、国労本部の方針は、最も忠
実な組合員であった闘争団員を切捨て、国労外に放逐するというものであった。そのためには、これまで自ら救済を求めてきた労働委員会をすら裏切るというものであった。

A  当然これに対しては、当事者である闘争団から強い反撥が起こり、本部に対する批判を行っていた。また、15年間余に亘って国労の闘争を支援してきた全国の労働組合・支援者も国労本部に対する批判を強めていた。全国大会は、「このような情勢の重要な結節点であった。
 しかるに、この大会を目前にしたこの時期に、本部の方針に対して反対の立場をとる組合員に対して刑事弾圧が開始されたという事態は、他の組合員に対する強烈な威嚇の意味を有するものであった。なぜなら、従前は国労やその他の労働組合において当たり前の日常的状況であっても、この情勢に於ては「国労破壊分子」などとして刑事弾圧の対象にする、との国家権力・公安警察・公安検察の意思が、明確に示されたことを意味していたからである・ 

B  すなわち、現在の国労本部のあり方・方針に対する不満・批判は、国労内に急速に拡大してきている。とりわけ4党合意受諾路線を強行するために、本部が組合員にまで嘘をついていたという事実が甘利 明座長の言明等から明らかになって以降は、これまで本部方針に素朴に従っていたところの組合員などにも、急速に広がってきていた。国労内の考え方、活動者団体は多様であって、そのような本部批判者は、何ら「中核派」に限られているわけではない。ただ、従前より最も原則的な批判を展開してきた部分として存在していたから、反対する者は何でもかんでも「中核派」と呼称されているに過ぎない。
 こうして、
 「労働組合として当たり前のことであっても、現情勢においては、その当たり前のことでも『中核派』とみなす。そして刑事弾圧の対象とする」
との現実は、本部批判に動こうとする他の部分に対する強烈な威嚇としての意味を有することになったのである。
これは、直接的には、国労本部へのバックアップであるがそれにとどまるものではなお。それは更には、本部のような形で資本・権力に包摂され同化してゆくことを頑強に拒否しようとする労働運動勢力が拡大し強化されてゆくことを、権力的に牽制し抑圧しようとしたのである。

  E ところで、上述のとおり、当時国労は、11月24〜25日に定期全国大会を開催し、政府3党から「四党合意」受諾の履行として断行するよう強請されていたところの、国労闘争団員の除名処分を含む重大な方針決定を行おうとしていた。国労は、その方針に於る重大な分水嶺にあったのである。それゆえ、この大会がどのようなものとして実現することになるのか、国労組合員はもとより、全国の労働者市民、また権力・資本の側も深い関心をもって自体を注視している状況にあった。
 そして10月7日、国労中央選挙管理委員会からこの大会の代議員の選出のための選挙が告示された。被告人らはもちろん、この選挙を重視し、自ら代議員に立候補し、ないしは職場の仲間を推薦して選挙運動を展開する万端の準備を整えていた。
 しかるに公安警察は、この日を狙い澄まして被告人らを逮捕した。まさしく、被告人らが行う国労組合員としての権利行使・活動を物理的に不可能ならしめるためにも、この強制的刑事手続が発動されたのである。しれゆえ取調官は取調室に於て公然と、こう述べた。
「どうだ、選挙の初日にこんなことになって驚いただろう!」
と。
当時、被告人原田は代議員立候補予定であり、また他の被告は、仲間が代議員に立候補するため、その推薦・応援活動を入ろうとしていた矢先であった。この時期を狙い澄ました公安警察・公安検察の介入のため、これら活動が大きな制約を受けたことはいうまでもない。
 本件が、労働組合活動に対する介入であり弾圧であることは、この一言に瀝然としているのである。

(2) 「(5)について」

@ 本件公訴提起に於て援用されているところの「暴力行為等処罰に関する法律」は、明治憲法体制下にあって、稀代の悪法である治安維持法と並んで、内務省特高警察或いは司法省思想検察が、思想弾圧・大衆弾圧の武器として最大限活用したものである。これら悪法体制が、戦前戦中の日本において民主主義の発達をいかに妨げたか、国民の軍国主義への統合戦争体制への動員が達成される上でいかに大きな役割を果たしたかについては、改めて述べるまでもない。

A これら悪法は、ポツダム宣言の受諾、更には日本国憲法の制定によって、完全に無効となったのである。たまたま、本法については具体的廃止手続がネグレクトされたままに現在に至ってしまっているのであるが、もとより憲法に牴触・違反するものであって無効の法律である。

B これらについては、すでに弁護人冒頭意見に於て詳論したところである。

(3)「(8)について」

@ 東被告は、現在一定の精神疾患に苦しめられている。これはJR西日本による国労組合員に対する陰湿な攻撃に起因するものであって、東被告はその犠牲者なのであるが、同被告はこの間医療施設に於て専門医の治療を受けつつ、職務に専念してきた。

A そのような東被告の現在の心身状況からすれば、狭い監房に隔離収容する勾留それ自体、同人の健康に対して極めて有害であることが誰の目にも明らかである。その意味では、同被告は本来勾留されてはならなかったのである。

B ところで、上記のとおりなのであるから、仮に百歩を譲って、勾留の可否についての議論は措いたとしても、検察官は同被告の心身の状況に注意を怠らず、その健康維持について最大限の配慮をなすべき義務が存していたことが明らかである。
 しかるに、この間検察官が行ったことは、全くその逆であった。
 すなわち、事態を憂慮した主治医が、とにかく患者である東氏に面会し、然るべき治療を行おうと申出て下さったので、弁護人から、医師について接見禁止の一部解除を申立てた。しかるに何と、検察官はこれに対してまで強硬に反対し、これに影響された裁判官も不当にも一部解除を認めなかった。このため東被告は、健常人であってさえ強いストレスが掛かり、心身のバランスを崩しがちである勾留・監獄という劣悪な環境に置かれ、起訴・失職の脅しをまじえた取調を受けさせられるという、まさに病者としては最悪の環境に長期に置かれるという危機に曝されたうえ、しかも、専門家である主治医の治療を全く受けられないままに、放置されてしまったのである。
 検察官・勾留裁判官は、この病気の危険性・病者の人権、治療を受ける権利について、一体どのような認識を有していたのであろうか。

C  この問題については、更に怒りに堪えないことがある。
 それは捜査末期に、このような状況に於て東被告の症状は確実に悪化しており関係者一同憂慮に耐えなかったところ、このような不当な圧力にも東被告はギリギリのところで耐えこれに屈することなく、転向慫慂に応じないで闘い抜いていた。しかるに、このことに焦慮を深めた検察官は、次のように病者である東被告を威嚇し、自己の意に添わせようとした。曰く、
 「起訴されると東京拘置所に移監されることになる。しかし、閉所恐怖症である君は、東拘ではとてももたないであろう。」
などとあけすけに言ったのである!
 「もたない。」とはどういうことか。それは、症状が決定的に悪化することを意味しているであろう。ということは、
検察官は「起訴されると君の症状は、決定的に悪くなることになる。」と言っているのである。何ということであろうか!
 これは、もはや精神に対する拷問である。検察官として、もし被疑者被告人の健康悪化について、そのような見通しを持っているというのであれば、必要なことはまず勾留を止めることである。ないしは、どうしても勾留するというのであれば、心身の状態が悪化するなどということが万が一にもないように、最大限の配慮をなすべきである。
 しかるに検察官は、わざわざ大阪から上京して、面会室の遮蔽越しではあっても、最大限の治療のために面会したいと言って下さっている、主治医の面会申請に対してさえ強硬に反対する一方で、「君は悪化するだろう。」などとの脅迫まで行って、自己の取調目的を達しようとしたのである。
このように検察官は、東被告の症状が更に重篤化しても構わないとの故意的容認の態度を以て、東被告の病気を取調に利用するとの、極めて非人間的な所業を行った。

D  しかも、このような検察官の暴行凌虐行為は、更に、移監措置において貫徹された。すなわち周知のとおり、当時東京拘置所は建替中のために、被告人の移監は総じて遅れ気味であった。本件にあっても通常よりは相当程度移監は遅れた。しかるにである。
 東被告は、原田被告に次いで、二番目に早々と神田警察署から東京拘置所に移監されたのであった。「(移監先の)東拘では、君はもたないだろう。」などと公然と言い向けていた検察官は、殊更に他の被告人に先駆けて病者である東被告を、そのシビアな環境に送り込んだのである。

第4 <  結  語  >

   以上の諸事実に徴すれば、本件は多くの憲法条項に違反した、ダーティーそのものの公訴提起というほかないのであって、憲法31条の根本にあるクリーンハンズの精神からしても、違法無効であることはもちろん、そもそも、裁判所が公判を設営し、これを進行させるための基礎的条件を欠落しているものである。
 よって、本日付 弁護人「証拠調請求書」記載のとおりの、本問題に関するしかるべき証拠調を早急に行ったうえ、憲法各条項を適用して、即刻公訴棄却判決がなされるべきである。

以 上