意 見 陳 述

被告人 小泉 伸  
【国労近畿地方本部吹田地域分会】

 暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件について、私の意見は以下のとおりです。

1、私は無実です

私は5月27日ホテル前で国労本部派に一切暴行を加えていません。私は無実であり、私への逮捕・起訴は全く不当です。一刻も早く不当な勾留をやめ、直ちに釈放することを要求します。
 検察官は、起訴状で「多衆の威力を示して暴行を加えた」と言っていますが、そんな事実はまったくありません。私は、国労組合員としてビラ撒き・説得活動を行いましたが、暴行を加えた事実はまったくありません。したがって、私は、この裁判で、真正面から無実を訴え、無罪を勝ち取るために検察官と闘います。
 私たちに対する不当な逮捕は、2002年11月の国労大会の直前に行われました。11月の大会は、権力にとって、国労に「四党合意」の実行を迫る最後の機会でした。闘争団員を除名させ、解雇撤回闘争を全面的に放棄させることを狙っていました。国家権力は、「四党合意」に反対する私たちを見せしめに弾圧することによって、「四党合意」反対派をたたきつぶし、闘う組合としての国労を解体しようとしたのです。
 しかし、こんな不正義の弾圧によって、分割・民営化以来、十数年間闘ってきた解雇撤回闘争がつぶされるわけがありません。実際、12月の「与党3党離脱声明」によって、「四党合意」は、完全に崩壊し、権力のもくろみは破綻しました。闘争団と仲間は鉄建公団訴訟や「四党合意」地労委闘争を継続し、ますます意気揚々と闘っています。
 私たち被告全員は、この裁判で、検察官の主張する「暴力行為」が、まったく事実無根のものであることを証明するとともに、私たちが、昨年5月27日当日に訴えた「四党合意」反対、闘争団の除名反対の主張が、国労組合員として正当な主張であり、正義の主張であることを明らかにしていきたいと思います。

2、闘争団の解雇撤回は正義の闘いです

 2000年5月の「四党合意」は、国家権力による国労解体攻撃の集大成をめざしたものでした。しかし「四党合意」受け入れを決定しようとした2000年7・1臨時大会での闘争団の決起を突破口にして、解雇撤回闘争を貫き、国家的不当労働行為とあくまで闘う「四党合意」反対派の勢力がつくり出されました。私自身、「四党合意」が出てからの2年間、「四党合意」を絶対に認めさせない闘いを行ってきました。
 国家権力は、「四党合意」をもって国労に「JRに法的責任がない」事を認めさせ、国鉄闘争を解体に追い込もうとしました。国鉄分割・民営化に際して国家的不当労働行為が行なわれたという厳然たる事実さえ消し去って、闘争団員に屈服を強いようとしたのです。国労本部がこの攻撃の手先となる中で、闘争団を始めとした闘う国労組合員はぎりぎりの所から起死回生の反撃に決起しました。
 新たな鉄建公団訴訟や、「四党合意」地労委の闘争は、「四党合意」を押し通そうとする政府・自民党と国労中央執行部に大きな打撃を与えました。こうして「四党合意」の破産に直面した政府・自民党は、国労本部に闘争団の除名と切り捨てを露骨に迫る「与党三党声明」を出しました。
 5・27臨時大会は、国家権力の意志に屈した国労本部が闘争団への統制処分を発動する為に、組合民主主義のルールを踏みにじり、もっぱら機動隊の暴力に頼って開催を強行したものでした。
 JR採用差別を強行した国家権力の求めに応じて、国労が闘争団員を除名し切り捨てて解雇撤回闘争の非を認める、こんな事がまかり通ったら国労はもはや国労たりえず、日本の労働運動は一気に壊滅に追い込まれかねません。だからこそ国労闘争団は、鉄建公団訴訟に決起し、さらに全動労争議団・動労千葉争議団と肩を並べて国鉄闘争共闘会議を結成し、解雇撤回闘争を闘い抜く道を押し開いているのです。
1047名もの被解雇者が今も不屈に闘いを続け、全国に波紋を広げている状況は、戦後労働運動の歴史上前例のない事です。1047名闘争が支配体制ののどに突き刺さった最大のトゲとして国家権力やJRを揺るがし続けているからこそ、こうした闘いを包み込む支援の陣形は更に大きく広がっているのです。
 その力の総体が、遂に2002年12月6日、与党3党に「四党合意」からの離脱を正式表明させたのです。これをもって「四党合意」は最終的に崩壊しました。権力は、国労本部を屈服させることはできても、国鉄闘争の正義、労働者の正義を覆すことはできなかったのです。私は、原則的に闘えば1047名原地原職奪還・国鉄闘争に完全勝利できると確信します。

3、私は国労組合員としての誇りをもって闘ってきました

 次に、私が国鉄労働者になって以降、とりわけ国鉄分割・民営化以降の私自身の闘いについて述べます。
私は、国鉄労働者として、信念をもって国鉄労働組合つまり国労に加入しました。国鉄の他の労働組合と比較して見た時、闘う路線をもち、仲間を売らないことが一番はっきりしているのが国労であると思ったからです。実際、この国労の誇るべき原則が、闘争団、組合員の一体となった15年以上にわたる解雇撤回闘争を実現してきたのです。
私は、国労組合員として私なりに闘う人生を歩んできました。1981年6月、森ノ宮電車区で待望の電車運転士になり、他方、組合活動では青年部役員として積極的に活動に参加してきました。
 やがて中曽根が首相になって分割・民営化攻撃が始まりました。分割・民営化反対を一緒に闘い、5千万人反対署名をしていた動労が180度方針転換して賛成派に転落し、森ノ宮電車区では反対して闘う組合は国労と全動労だけになりました。
 分割・民営化が迫ると、多能化教育という名目で電気機関士への転換教育攻撃がかけられ、私は、当局から、「JRに採用される条件の一つとして電車運転士から電気機関士への転換試験を受ける事、合格しなければ不採用」と言い渡されました。森ノ宮電車区でこの転換攻撃を受けたのは、国労では私1名、それに全動労が1名の2名でした。私は、必死の思いで勉強して、電車と全然内容の違う運転取扱や作業基準をマスターして2名とも合格しましたが、帰区すると不当にも、2名共「人材活用センター」への辞令が発令されていました。
 この時橘さんが中心となって人材活用センター裁判が闘われていました。私はちょうどこの時期に分割・民営化反対を唯一ストライキで闘う動労千葉のように闘う決意を固め、人材活用センター裁判に参加しました。そして人材活用センター裁判は勝利し、私は、人材活用センターから解放されました。私は、乗務することを前提とした日勤予備勤務となりましたが、国鉄最後の日1987年3月31日まで不当にも乗務できませんでした。私の電車運転士の歴史はこれで終わりました。
日勤予備勤務の時、国労大阪地方本部でも鉄道産業労働組合への分裂があり、国労森ノ宮電車区分会も8割が国労から脱退してしまいました。何としても、我々の手で国労森ノ宮電車区分会の再結成を勝ち取ることを決意して、残った2割の組合員で分会結成大会を成功させました。闘う方針を決定し、橘さんが分会長に、私は執行委員になりました。大会では私自ら議長となり「北海道や九州中心に、仲間である国鉄労働者が不当にも多数首を切られます。闘う方針を決定しましょう」と発言しました。
 分割・民営化が行われた1987年4月1日、私は、JR貨物に電気機関車の運転士として採用されました。しかし、不当にもJR西日本近畿圏運行本部大阪電車区への出向扱いの勤務となりました。不当労働行為を受け、何かにつけて弾圧的に攻撃され、昇給については毎回1号俸カット、期末手当は毎回5%カットされ、乗務に関することで難クセをつけられ、ほとんど1カ月ごとに乗務したり、日勤をさせられたりの繰り返しでした。私は、森ノ宮電車区では、無事故記録約20万キロで、運転技量で10本の指に入ると言われていましたが、当局は国労であるという理由で、不当な差別的扱いを続けました。
1988年5月1日にはJR貨物・吹田機関区に転勤となり、運転士の職名なのに資材倉庫担当にされました。何度も「不当だ。乗務させろ」と要求したところ同年6月1日、機関区の構内運転士への配属となり、機関車の入れ換え運転をすることになりました。業務になれて「定年退職まで構内運転士でいいです」と当局に返答したところ、1989年8月1日から9月30日まで本線運転見習いを命じられました。ここでも、2カ月間で単独運転できるようになりましたが、又難クセをつけられ、「出向へ行け」と言われました。「不当だ。出向へは絶対に行かない」と答えると、又10月1日から31日の1カ月間、見習いとして乗務することになりました。
 次に、11月1日から運転指導の補助業務を12月20日頃まで担当していると、事務助役に「運転士の職名なら出向先が決まっていて、帰区は約束できないし、3号俸減額になるが、当区に在籍したければ、車両技術係に職名変更し、関連事業の仕事がある」と言われました。不当差別・不当配属ですが、当局と組合の力関係から判断して、やむにやまれぬ気持ちで、JR貨物の運転職場では当区だけにある関連事業室の配属となりました。これまでの多数の不当労働行為がありましたが、胸中は悔しさをばねに闘って何がなんでも絶対勝利する気持ちでいっぱいでした。腹の中は怒りで煮えたぎる思いでいっぱいでした。
 出勤したら毎日、不当労働行為の連続、昇給毎回1号俸カット、期末手当毎回5%カットの連続で、業務内容は、当区構内環境整備・管理として掃除・除草(駐車場・留置線)とペンキ塗装(駐車場・中古コンテナ〔雨漏り等修繕含む〕)の他に、ジュース・タバコのベンディング・管理と、旅行関係や保険等増収になるあらゆる業務や、当区が主体となってするイベントの手伝いをさせられました。
 この間、国労がだんだんと右傾化し、闘いから逃げ始めたので、このままではどうなるのかと不安な気持ちと怒りが煮えたぎって腹の底から爆発する思いで、不当労働行為の救済を地方労働委員会に申し立てました。大阪地方労働委員会で賃金カットが不当労働行為として認められ、現在中央労働委員会の最終審議も済み、審査結果待ちになっています。
 こうした闘いの結果、2000年度の昇給で等級が4から5に回復し、2001年8月1日付で、職名である車両技術係として機関車の検査・修理業務の担当になり、本来業務を奪還する事が出来ました。
  私が、分割・民営化以来、JR資本の不当労働行為、配転、昇級差別と闘い、勝利することができたのは、国労の闘う路線と仲間を売らない原則を堅持し、1047名闘争団と共に闘う労働者・仲間を信じ、協力し合い、家族も国労のために闘ってきたからです。
 現在この国労の誇るべき原則を堅持して闘っているのは、闘う闘争団を先頭とした我々反対派組合員です。闘争団は、国鉄改革法の適用で解雇されて15年以上、更に清算事業団から2度目の解雇をされてから13年以上、中労委和解勧告を拒否して10年以上、98年5・28東京地裁反動判決以来4年以上もの間、1000名以上の労働者が原地原職復帰を求めて、アルバイトや事業展開で自活しながら、あくまでも政府・資本の解雇攻撃と不屈に闘いぬいています。国労の誇りである原則的な闘いを続ける闘う闘争団と私たち反対派組合員は一体です。
 この歴史に残る1047名の闘いを中心とする国鉄闘争は、労働運動の戦闘的再生の軸となり、労働者階級全体の未来を決する位置をもつ闘いです。私は、今回不当な弾圧を受け、仲間を権力に売り渡すという国労中央の裏切りに直面しましたが、闘う路線をもち、仲間を売らないという、国労の原則にますます確信を持ち、誇りを持つものです。
 私は、闘う国鉄労働運動の再生と闘う国労の再生の為に、今回の不当な刑事弾圧と人生をかけて闘います。

4、弾圧の違法・不当性ついて

国労本部が5・27臨時大会でやろうとしていた事は何なのか。国労本部は、与党三党声明を受けて闘争団の除名と切り捨てを決定し、解雇撤回闘争を闘う国労の解体を策動していたのです。これは「1人の仲間の首切りも許さない」という国労の原則を投げ捨てるものであり、解雇された仲間を外部の与党3党(甘利声明)の不当介入によって切り捨てるというとうてい許すことの出来ない事態でした。
4月26日「与党三党声明」が出され、自民党・甘利氏の指示により「1カ月以内」の期限で大会日程が決まりました。臨時大会代議員は、今回の臨時大会に際し新たに選出された者ではなく、定期大会の代議員がそのまま代議員になるものでした。議案を組合で討議する時間は極めて不十分で、傍聴も制限され、闘争団や一般組合員の意見を正当に反映するものとはとうてい言えるものではありませんでした。
「四党合意」受け入れを決定した2001年の1月大会以来、国労大会は、中央執行部の要請によって機動隊が全面的に導入され、大会会場でのビラ撒き・説得活動はできない状態になりました。大会参加者は前日から宿舎に泊り込み、バスでそのまま会場に行くので、反対の意志を伝えるのは宿舎からバスに乗車するまでの間しかありませんでした。
私は、大会での闘争団の除名を絶対に認めるわけにはいかず、やむにやまれぬ気持ちで宿舎前でのビラまきと説得活動を行なったのです。「闘争団の除名をやめろ」「闘う国労を守れ」「警察に守られた大会だ。恥を知れ」と国労本部派の組合員に訴えました。
 この行動は国労組合員として当然の行為であり、正当な組合活動です。
そもそも、労働組合内で意見の違いや対立が生じることはごく当たり前のことであり、それを徹底的な討論をとおして一致をかちとっていく中で組合員の団結がうち固められるのです。
 裁判官に、国鉄分割・民営化攻撃の中での国労の屈服的な路線転換を食い止めた1986年の修善寺大会で採択された「国労の団結と統一を守り、闘いぬく臨時全国大会のアピール」を紹介したいと思います。そのアピールは、「私たち国鉄労働組合は、10月9日、10日の2日間、火のでるような激しい激論の末、政府・自民党、国鉄当局からの『労使共同宣言』締結攻撃を排し、国労の歴史的伝統と『国労綱領』にもとづいて、国鉄の分割・民営化に反対し、闘いぬくことを決定しました」と述べています。
 この静岡県修善寺で開催された第50回臨時大会では、「労使共同宣言」を締結するという屈服路線をとろうとした当時の山崎執行部が総辞職という形で打倒され、六本木委員長を先頭とする新執行部が選出されました。直接意見をぶつけ合うことは、労働組合の原則です。本部執行部は、反対派の意見を直接聞く義務があるのです。そして、直接意見をぶつけ合うならば、「四党合意」反対派に正義があることは明らかなのです。
ところが、私たちの意見を聞く唯一の機会であった5月27日当日の宿舎前で、40名位の国労本部派の組合員は、私たちがビラを渡そうとしても受け取ろうとせず、私たちが「闘争団を除名するな」などと訴えてもなにひとつ聞こうとしませんでした。彼らは、私たちの意見を無視することを意志一致していたかのように、一団となって宿舎から出てきました。私たちは、宿舎からの通路の入口付近で、彼らにビラを渡し、私たちの主張を聞いてもらおうとしました。しかし、彼らは、立ち止まって私たちの言っていることを聞くという、同じ労働組合にいる者同士が当然とるべき態度をまったくとろうせず、執行部としての主張を述べることもできず、ただ、おし黙ったまま、意見を言おうとする私や仲間を突き飛ばしたり、両腕で押しのけて、バスに乗り込んでいきました。この日の国労本部派の態度はまったく許せないものでした。
 これが、5月27日、宿舎前での出来事です。
 国家権力は、この宿舎前での出来事を口実に国労組合員7名と支援1名を逮捕・起訴しました。しかも、4か月以上もたってから逮捕してきたのです。本当に無法・デタラメな弾圧だと言わざるを得ません。私たちに対する今回の逮捕・起訴は、国家権力による労働組合への不当介入です。労働組合の団結権に対する重大な侵害であり、団結自治の破壊です。断じて許されません。
国労本部は、組合内の討論による組合内的な解決の追求を放棄し、私たち反対派勢力を国家権力に売り渡すという前代未聞のことをしました。「四党合意」に反対し、闘争団への除名、切り捨てを弾劾した私たち反対派に正義があることが余りにも明らかであるがゆえに、まともな討論ができず、卑劣な方法で、権力の弾圧に道を開いたのです。
 また、国家権力は解雇撤回闘争を軸とする国鉄闘争を破壊する為に、その最先頭で闘う「四党合意」反対派の国労組合員を弾圧してきたのです。
 このような中央本部の組合員売り渡しと、権力の不当な逮捕・起訴を認めてしまうことは、労働者の団結権の否定、労働組合の死を意味します。
 国家権力は不当にも戦前からの労働運動圧殺法である「暴力行為等処罰に関する法律」をもって刑事弾圧を加えるというエスカレートした攻撃にでてきました。戦争と大失業の時代にあって、日本帝国主義は、あたりまえの労働運動の発展の中に自ら打倒されかねない力を見てあせっているのです。
 この攻撃に対して、逮捕された私たち国労組合員と支援者は完默・非転向の闘いを全力で闘いぬき、初戦は完全に粉砕しました。追いつめられた国家権力は8名を不当にも起訴し、接見禁止と長期勾留攻撃を加えています。その上警察は私たちの家族にも、捜査を行うなど不当な弾圧を加えています。絶対に許されません。
 私たちの家族は、獄中の夫・父を一刻も早く釈放・奪還する為に、「5・27臨大弾圧国労家族の会」を結成して、生活・家計が非常に苦しい中お互いに助け合って頑張っています。私は、被告団の仲間と共に、闘う国労の仲間、そして家族と共に、こんな不当な弾圧に負ける事なく、闘い抜きます。

5、裁判闘争に勝利する決意

私たちは無実です。不当な勾留をやめ、一刻も早く釈放することを要求します。
 私には病気で入院している年老いた父がいますので大変心配ですし、母も年老いています。さらに愛する妻と息子がいます。また家族同然の伝次郎という名前の愛犬がいます。裁判官は、獄中で愛犬のことを思う労働者の気持ちがわかりますか。獄中生活は本当に苦痛と不便の連続です。まして無実で拘束されているくやしさは言葉になりません。しかも、私には「椎間板ヘルニア」による腰痛と「ヘルペス」の持病があります。
 以上のことから一刻も早く私と仲間の被告全員を釈放することを要求します。
 権力は不当にも「証拠隠滅」「逃亡のおそれ」をデッチ上げてすでに3か月以上も勾留を続けています。何という事でしょうか。私たちには仕事があり、住居もあります。しかも、15年以上にわたって家族と共に、国鉄闘争や闘う労働運動の再生にまさに人生をかけて闘っているのですから、勾留の理由はありません。
 私たちは、本裁判の中で、国鉄分割・民営化の国家的不当労働行為性や、破産した「四党合意」の不正義さを更に徹底的に暴きます。
本件裁判は1047名解雇撤回闘争の不屈の闘いと一体となって、鉄建公団訴訟と両輪で、国労の再生を勝ち取る闘いです。私は、必ず無罪を勝ち取り、この不当な刑事弾圧を粉砕できると確信しています。

 2003年2月3日