意 見 陳 述

被告人 東 元  
【国労近畿地方本部環状地域分会】 

 暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件について、私の意見は以下のとおりです。
まず冒頭、私は無実であることを主張します。今回の逮捕・起訴は不当な政治的弾圧であり、国家権力による団結権の侵害であり、不当労働行為そのものです。以下4点にわたり今回の逮捕・起訴の不当性を述べていきます。そして直ちに私たちを釈放することを強く要求します。
(1)1点目として、私には逮捕・起訴される理由がなく、無実であること。
(2)2点目として、闘争団の闘いは私の人生そのものであること。
(3)3点目として、JRになってから不当配属との闘いと現在に至るまで。
(4)4点目として、今回の逮捕―取り調べにおける不当性について。

1、1点目として、私には逮捕・起訴される理由がな く、無実であることを主張します。

 今回の逮捕にあたって警視庁公安部は私の逮捕状を「職業不詳」「住所不詳」として申請しました。私がJR職員であり、国労組合員であることを意図的に隠して逮捕・拘束が強行されたのです。職場を早退して途中から家宅捜索に立ち合った妻が「職業不詳なのになぜ職場を知っていたのか」「住所不詳なのになぜ家を知っていたのか」と問いつめると、10人の公安刑事は誰一人として答えることが出来ませんでした。それほどウソとペテンに満ちた不正義の弾圧であり、卑劣な手口をもって意図的に行なわれた逮捕状請求であるからです。
 しかも国家権力は、私が病気であることを十分知ったうえで逮捕し、転向と裏切りをそそのかす取り調べに終始しました。このことはまったく物証がなく、ウソの自白をデッチあげることで弾圧を強行しようとしたことを示しています。
 そして私が完默を貫いたことに打撃を受けた権力は、見せしめに独房に閉じ込め、接見禁止攻撃を加え、信頼する医者によるカウンセリングの要求を却下し、病気をいやすためにもっとも必要な、職場の同僚や国労の仲間たち、何より家族との人間的なふれあいを奪い続けています。すでに120日近くになる勾留は私が病気であることを使った残虐な拷問そのものです。
 そもそも今回の弾圧は、四党合意をついに破産に追いやり、私たちの国鉄闘争が敵を追いつめて勝利がそこまで来ているからだということ、そして本当に戦争が近いんだなあということ、労働者と労働組合運動をつぶせないままの国家総動員体制は労働者の革命的総反乱に転じかねないということです。そしていま国労共闘をつぶしておかないと闘争団や国労本体と結びついてしまい、1047名闘争を媒介に日本の労働運動全体の階級的発展に一気に突き進みかねないこと――などからきたものです。私たちの国鉄闘争が敵に恐れられる存在になったからです。それが敵の激しい焦りをひきだし、この攻撃をかけさせてきたのです。
 こうして見てきた時、私に対する逮捕・起訴はまったく一片の正義性もないデッチあげ弾圧であることは明らかであり、直ちに釈放すべきです。そして私はこの弾圧の当事者として法廷に立ち、正々堂々と私たちの正義と国家権力と国労本部派の不正義を徹底的にあばき裁く場として公判闘争を闘い抜きます。

2、2点目として、闘争団の闘いは私の人生そのものであることについて述べます。

 労働者は人生において幾多の試練をうけ、社会からきたえあげられて生きていきます。政府・自民党及び国家権力が、労働者としての「意識、意欲、思想、生き方」の否定を強要して、強行させたのが国鉄分割・民営化の国労解体攻撃でした。これだけは絶対労働者として認められないとして首になってもこの不正義を弾劾している存在である闘争団は私の分身そのものであり、闘争団の1047名を守ることは私自身の国労人生の原点であり、魂そのものです。労働者は資本主義・帝国主義のもとでいかに非人間的な搾取・収奪・抑圧にさられようと人間であることをやめることはできない。そうである限り、生死をかけて団結を守り抜くのが労働者階級であり、それが闘争団なのです。
 ある北海道の闘争団員は毎朝4時30分に起きて、缶詰工場でアルバイトをして生活しています。そしてある九州の闘争団員は3つのアルバイトをかけもちして生計を立てています。それも毎日くたくたになりながらです。どんな仕事につこうとも、この国家的不当労働行為と闘っていこうとする決意が15年をへても消えることなく燃えつづけているのです。ですから闘争団を守るということは日本の労働者階級全体、いや世界の労働者階級人民の普遍的利害です。
 その闘争団の闘いを圧殺しようとしていたのが5・27臨大であったわけです。国労本部が5・27臨大で決定しようとしていたことは何だったのか。「採用差別事件に対する裁判の取り下げ」「JRに法的責任がないこと」「鉄建公団訴訟を行なっている闘争団を処分、除名するための査問委員会の設置」、そして生活援助資金の打ち切り、物販支援の打ち切り等々が大会で決定されようとしていたのです。
 私が病気をおして臨大に参加したのは何としても絶対にこれを阻止しなければならないと強く思ったからです。そして5月27日の朝、国労本部の人達に対して「不当な闘争団つぶしはやめてくれ」と説得し、ビラまき行為を行なったのです。
 私はこれからも闘争団と一体となってこの分割・民営化の国家的不当労働行為の生き証人として闘っていく決意です。

3、3点目として、JRになってからの不当配属との闘いと現在に至るまでを述べていきます。

 ここから私の15年にも及ぶ国労つぶし、不当配属攻撃との闘いが始まっています。国鉄赤字問題をはじめ闘う労働組合の破壊を目的として強行成立されたJR体制は今日においてもその矛盾は根本的解決には至らず、今も国労は存在しているし、そのシンボルとしての闘争団の闘いはその歴史を物語っています。
 私は1980年に国鉄に入り、すぐ国労組合員となり、最初は梅田の貨物駅に1年勤務し、その後大阪環状線の電車基地にあたる森ノ宮電車区の検修係として働いていました。
 その頃の政治情勢は中曽根内閣の「国鉄再建監理委員会」設置をはじめ、84年頃から政府が意識的にマスコミをつかった情報操作のもと、「国鉄労働者は働かない」キャンペーンが始められていました。そして86年7月には「人材活用センター」が全国の職場に設置され、森ノ宮電車区でも私を含めて余剰人員とした国労組合員を多数「人活センター」に入れて本来業務からはずす攻撃がくわえられてきました。それらは分割・民営化に向けた布石であったわけです。
 そして私は分割・民営化を前にして森ノ宮電車区から不当配転されることになります。次の職場は「人材活用センター」に入っていた国労組合員が多数いる大阪第二事業所というところでした。怒りなしには語れませんが、電車区を紙切れ一枚で追い出され、何の予備知識もなく突然、大阪環状線京橋駅構内の喫茶店に業務命令でいくことを余儀なくされました。電車運転手か検修の仕事で国鉄生活を送ろうと思っていた私にとって、それは怒りを通りこした激しい抵抗運動の始まりでもありました。喫茶店と輸入肉の販売を1年間強制されることになります。
 そして1年後にこんどもまた紙切れ一枚で学研都市線放出(はなてん)駅構内でのアイスクリーム売りをさせられることになります。何の将来展望もなく国労組合員を虫けら同然に扱うやり方がここでもみられました。とにかく私達を本務の国労の仲間から遠ざけ、孤立感を味あわせ、団結やきずなをひきさくやり方は不当労働行為以外のなにものでもありません。この仕事も採算がとれないとみるや3カ月で閉店となりました。これらすべては本人の同意がないまま、ましてや元職場などへは一切返さない徹底した攻撃でした。
 次に不当配転させられた職場は環状線西九条駅から出ている桜島線の安治川口駅近くにあるコンクリートづくりを専門とする職場でした。ひらたくいえば線路とほ道をくぎるコンクリートの柱中(しちゅう)をつくる職場です。ここも国労組合員が8名、全動労組合員が2名の不当配属職場です。はじめてする仕事であるのと、ほんの少しのコンクリート造りの勉強をしただけで「さあコンクリートの柱をつくれ」と言われても、管理者すらわからないのでうまくいくはずがありません。ここでは仲間意識や団結が強かったこともあって、まったく不当にも毎年、夏と冬の一時金の5%をカットされつづけられました。やはり会社のねらいは徹底した本務組合員との隔離であり孤立化でした。ここも会社の一方的判断で5年間でつぶされることになります。とにかく国労組合員を1人でも脱退させるのが目的でした。とにかく会社は、どんな仕事でもいいから、駅勤務や運転手、車掌、保線や電力の仕事といったところには絶対もどさない政策をとっていました。
 そして次に不当配転された職場は、環状線玉造駅の高架下の駐車場の管理人の仕事でした。駐車スペースはたった16台、それも日曜などは1台も車が入ってこない日がいく日もありました。1日中人と話す機会もなく狭い部屋で隔離され、仲間意識や連帯感といったことはすべて奪いつくす全く許すことのできない職場でした。特にひどかったのは倉庫が休憩室になっていて、暗くて、ほこりっぽくとても休憩する場所とは言えるものではなかったことです。この職場は15年間の不当配属職場の中でも一番非人間的な扱いをうけた所でした。
 そしてそれは毎日が拷問に等しい苦痛でした。それでも歯をくいしばって4年間勤務しましたが、私の体に異変がおこり始めたのもこの頃からでした。最大の理由はストレスですが、その中身と言えば、電車の修理をしたり、仲間と一緒に働いて何かものをつくったり、その仕事が社会的責任がある仕事だったりすることとはおよそ無縁な、それらから一切疎外され孤立を強制させられることのひどさです。そしてそれが怒りとして正しく発散されたらいいのですが、まったく人と話す機会がないものですからストレスはどんどんひどくなっていき、とうとう通院しなければならないことになりました。そして診断された病名はうつ病でした。その為、なんどか病気休職を余儀なくさせられました。私をここまで追いやったJRに対して怒りが一層深くなっていきました。そしてこの職場では私は仕事ができなくなりました。
 次に配属させられた職場は、植物栽培のいわゆる「グリーン」職場でした。この職場も国労組合員が8名いる不当配属職場でした。駐車場とちがって一定人数がいるので仲間と話す機会もあり病気は少しづづよくなっていきましたが、しかし私が希望している元職場ではない為、自分の体を維持するのが精一杯で、仕事に対する意欲といったものはなかなかわいてきませんでした。私はこの職場でも国労バッヂをずうーとつけていましたので、管理者は国労脱退攻撃として毎日、朝の点呼の時「組合バッジをはずせ。はずさなければ就業規則違反で現認するぞ」と毎日、毎日執拗に国労バッジ攻撃をつづけてきました。私は不当配属15年間で一度も国労バッジをはずしたことはありません。それは自分自身の闘いであり、国労組合員として当然の事と思っていたからです。

4、4点目として、逮捕・取り調べの不当性と非人道性について述べます。

 取り調べ刑事及び検事らは口裏をあわせたように「だれだれはもう調書に応じているぞ」「今すぐ支援と手を切るべきだ。後のことはオレ達が守るから」と私に対して仲間への不信をあおり、屈服を強要してきました。留置場の警察官も「弁護士は言わないだろうがもうすでに一人出た人間もいるぞ」と不信をあおりました。これらのことは後からウソであることがわかりました。それにしてもひどいやり方です。
 私が特に強調したいのは、取り調べ検事が行なった家族、特に子供を人質にした数かぎりない許すことのできない言辞です。「お父さんがいないと子供が学校でいじめられているぞ」「このままでは子供の人格形成において重大なあやまちをおかすことになるぞ」「お父さんのいない家庭はどんなにひどいものか」等々、密室で、公安刑事の取り調べとあわせて1日8時間以上、連日20日間にわたって私に転向・屈服を強要してきたのです。今思えば本当に腹の底から怒りがこみあげてきます。
 ほとんど何の物証もないままに逮捕し、自白の強要をとおして、ありもしない「共謀」をデッチあげて大弾圧を強行しようとしてきたのです。そして私の病気への不安をあおって脅しつづけたことも許せません。医療接見の要求に対してもかたくなにこれを拒否し、今なお独房に拘束していることの非人道性と不正義性はとうてい許されるものではありません。
 最後になりますが、私が病気であること、家族のことや仕事のことを考え長期投獄を覚悟することは、たいへん辛いものがありました。しかしそれを乗り越えたのは、今、全世界でまきおこっているイラク反戦闘争への労働者階級人民の決起があり、私の中に労働者としてそのことへのはらの底からの信頼があるからです。そして何よりも街頭で必死に私たちの釈放を訴える家族の姿です。小学校1年生の一人息子に人間として、労働者の先輩として、胸をはって進むべき道を示したい。それが父親として今私ができる、しなければならないことだと思ったからです。私の獄中での苦しみは労働者が主人公の社会を作り出すための試練だと受けとめています。
 以上述べてきたことから明らかなように、今回の事件にかんして私は無実であり、無罪です。逮捕・起訴はまったく不当であるので一日も早く公訴を取り下げ、私たちをただちに釈放すべきです。
 以上で私の意見陳述を終わります。

 2003年2月13日