意 見 陳 述

     2003年3月3日     
     弁護人 葉 山 岳 夫

第1部 国鉄分割民営化反対闘争と1047名解雇撤回闘争

はじめに

 当弁護人は、1967年から1987年までの20年間国鉄労働組合本部弁護団に所属し、その間1971年以降の国鉄当局による生産性向上運動、いわゆるマル生反対闘争にともなう不当逮捕刑事事件、解雇取消訴訟、1975年のスト権ストに対する、当時の自民党中曽根康弘幹事長が強硬に主張して提訴された202億損害賠償訴訟等を弁護団の一員として担当してきた。1979年3月の国鉄千葉動力車労働組合の分離独立後は動労千葉弁護団の代表をつとめて各種事件を担当し、現在にいたったものである。
 本件刑事事件は、国鉄分割民営化にひき続く、小泉内閣の「4党合意」による国鉄労働運動つぶしの策動が、闘う国労闘争団を中心とした全力をあげた闘いによって、まさに粉砕されようとした時点で、小泉政権と結びついた警察、検察当局が国労本部派の労働者売渡し策動と相まってこの闘いを戦前からの労働運動、農民運動鎮圧法である暴力行為等処罰に関する法律を用いて制圧せんとしたものである。まさに国鉄労働運動に対する国家権力による違法きわまる介入行為であり、不当弾圧として厳しく弾劾されなければならない。
 一方、労働組合の第一の使命は、使用者、資本による不当解雇に対しては、一人の首切りも許すことなく、闘い抜くことであり、また不当に逮捕、起訴された労働者を徹底的に守り抜くことにあると考える。しかるに国労本部執行部が1047名の原職復帰を求める闘いに対して、こともあろうにJRに対して法的責任がないことを自ら認め、鉄建公団訴訟や最高裁での第三者訴訟に参加した国労闘争団を除名を含む統制処分の対象にし、闘う労働者のビラまき説得活動に対して刑事弾圧に加担するに至っては、労働運動の本分に背くものであり労働運動の指導部たる資格は全くなく、その地位に一刻も止まることは許されない。すみやかに退陣すべきである。史上前例のない、組合本部が労働者を警察に引き渡すという事態に対しては、国労本部の責任は、重大である。
 本公判においては、本件逮捕、公訴提起が国家的不当労働行為と軌を一にする不当きわまる刑事弾圧であることを明らかにするとともに、「4党合意」の国家的不当労働行為性、その大元をなす国鉄分割・民営化の国家的不当労働行為性、その大反動を明らかにすることによって、被告の行動の全面的正当性を明らかにすることをその目標とするものである。
 「4党合意」とは、清算事業団によって二度目の解雇処分を受けた1047名の解雇撤回、原職復帰闘争の中心組合たる国鉄労働組合に対して、臨時大会を開かせ「JRに法的責任がないこと」すなわちJRに採用差別に関する不当労働行為がなかったことを国労自体に認めさせて、解雇撤回闘争のみならず国労の存在そのものを解体せしめる攻撃であり、まさに国家的不当労働行為であった。
 以下、国鉄分割民営化の国家的不当労働行為性、反動性と「4党合意」成立にいたる過程における「政治解決」の名の下での国労本部の裏切り行為および被告らのこれと対決した行動の正当性を明らかにする。

第1 国鉄分割・民営化による大量首切りと国労つぶし

1 総説

 国鉄分割民営化反対闘争を抜きにしては、「4党合意」反対闘争は、ありえない。両者は密接不可分の関係にある。そして両者は、いずれも国家的不当労働行為の密集した塊に他ならない。国鉄分割・民営化は、政府、自民党なかんずく中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線の中軸として、国鉄労働組合つぶしのために強行された国家的不当労働行為であった。中曽根元首相は、「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」(アエラ 1996.12.30〜1997.1.6号 現代の肖像 64頁)。「(専売や電電とは)まるっきり違いましたね、国労というのは。国労があって、総評があって、社会党があったわけですからね。」「問題は、総評と国労でした」(中曽根康弘・天地有情 1996年9月)(問)「結局あなたは、大きな意味で、日本の『左』を潰した男ですよね?」(中曽根)「そうですよ。私の標榜する新保守・自由主義ってのは、そういうものです。」「社会主義、社会民主主義と闘ってきたんです、一貫して」(アエラ 同上)
 中曽根元首相の前記述懐の中に分割民営化の意図は、明らかである。政府、自民党は中曽根首相を先頭に、戦後労働運動の軸をなす国鉄労働運動を敵視し、その壊滅を意図したものである。

2 第二臨調、三塚委員会による分割民営化方針の推進

 1981年3月、鈴木善幸自民党内閣は第二臨時行政調査会(以下第二臨調という)を発足させ、中曽根康弘を行政管理庁長官(行政改革担当大臣)に起用して、第二臨調を取り仕切らせ、分割民営化を推進させた。
 一方、自民党は1982年5月国鉄基本問題調査会のもとに「国鉄再建に関する小委員会」(三塚博議員を委員長とするので以下三塚委員会という)を発足させた。

3 第二臨調から国鉄再建監理委員会へ

 第二臨調は、1982年7月30日臨調第三次答申(基本答申)を提出し、国鉄に対して「7ブロック程度に分割した上、民営化する」方向を提起した。これとともに緊急対策として職場規律の確立をはかるためと称して国鉄労働者が営々としてかちとって来た職場における労使慣行、現場協議制度に対する攻撃を加えて、現場協議制度を骨抜きにする改悪などを提唱し、国鉄労働運動の基盤をなす現場における労働運動制圧の方針を打ち出した。また市区町村の議員を兼ねていた国鉄職員排除を意図して兼職議員は認めないことを提唱した。鈴木自民党内閣は、1982年8月10日臨調答申を最大限尊重する旨の閣議決定を行って、分割民営化への歩を進めた。
 1982年11月中曽根内閣が発足した。いわゆる国鉄再建監理委員会法は、1983年5月成立し、同年6月10日同委員会が発足し、委員長に亀井正夫(住友電工会長)、委員に住田正二(後のJR東日本社長、会長)、隅谷三喜男(後に成田空港反対闘争の幕引きを意図した成田空港問題シンポジウムにおける隅谷調査団団長)、加藤寛らが選任された。同委員会は、中曽根人脈で構成されたものである。
 亀井正夫は、「国労と動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動史の終焉を、国鉄分割によって目指す」(亀井正夫・文芸春秋1985年9月号)、「組合対策には分割・民営化しかない」(読売新聞1985年7月30日)と公言した国労敵視者であり、住田正二は「常盤総武鉄道はオレが経営したい。ついては千葉鉄道管理局管内に中核派の千葉動労という厄介な集団がいるな。あの連中の首を切っといてくれ」(住田正二・文芸春秋1985年9月号)とJR東日本社長になる前に国鉄千葉動力車労働組合つぶしを高言した人物である。
 後に国鉄再建監理委員会は1985年7月26日の「国鉄改革に関する意見−鉄道の未来を拓くために」と題する最終答申を中曽根首相の意を受けて同首相に提出し、国鉄事業の分割民営化が不可欠との基本方針を打ち出した。その骨子は、旅客部門を6地域に分割、貨物部門は切離して1社とし、約9万3千人を余剰人員としてその整理案を提示するものであった。中曽根内閣は同年7月30日の閣議で、当然にも「答申を最大限尊重し、その具体化に全力を傾注する」との決定を行うとともに「国鉄改革に関する関係閣僚会議」を設置した。

4 再建監理委員会最終答申に対する労働組合の闘い

(1) 国労は1985年7月29日から8月2日にわたり国労第48回定期全国大会を開き、分割民営化を打ち出した再建監理委員会答申に対決する方針を決定し5000万署名に全力をあげること、重要段階ではストライキで闘い抜くことなどを決定し、山崎俊一委員長以下の執行部を選出した。
そして、国労は同委員会答申に抗議して国鉄の分割民営化阻止を目標にして同年8月5日全国統一ストを実施しこの闘いに全地本1585分会・職場において6万7702人が参加した。
 しかしながら国労は以後分割民営化反対5000万署名に全力をあげることになり、職場におけるストライキ闘争をはじめとする闘争を実施することはほとんどなくなった。基本的には社会党を中心とした国会における議会活動、総評を中心とする5000万署名に依拠する闘いとなった。
(2) 一方、動労千葉は、1985年9月の第10回大会で、同委員会答申に反対して国鉄分割民営化阻止、10万人首切り合理化攻撃粉砕、ひとりの首切りも許すな、運転保安確立、未曽有の国鉄労働運動解体攻撃粉砕などのスローガンをかかげてストライキを11月に行う方針を決定し、11月28、29日総武快速、緩行線を中心にストライキに突入、国労傘下の労働者の決起をよびかけた。
 動労千葉はついで1986年2月15日には国鉄分割民営化反対不当処分撤回、業務移管粉砕をスローガンに津田沼、千葉、成田を拠点とする24時間ストライキ闘争を行った。
(3) この国鉄分割・民営化は動労革マル松崎明の協力なしには不可能だった。また、動労本部は、1978年7月の第34回定期大会において、三里塚芝山連合空港反対同盟とは一線を画する方針を強行、貨物安定輸送宣言を決定するなど変質を深め、1970年代後半には動労本部は革マル派の支配するところとなった。
 1985年6月の第41回大会で松崎明を執行委員長に選出した後は、国鉄の合理化提案等を基本的に応諾する方針に転換し、同年11月には雇用安定協約を締結し、合理化、人べらしの方針を受け入れ、1986年1月には松崎委員長らは三塚運輸大臣と会見した上同月鉄労、全施労とともに国鉄当局との間で労使共同宣言を発表し、松崎委員長は1986年4月には自民党機関誌「自由新報」に登場し「民営でいかざるをえない」「鉄労に学ばなければならない」「国労に未来はない」などと発言し、翼賛型労働組合を指導して、分割民営化の尖兵となることを宣明した。
 1986年7月には杉浦総裁が動労42回大会に出席し「動労の華麗な転身は戦後労働運動史上の大きな節目となると同時にこれが国鉄改革の推進力ともなっている」と賞賛した。同年7月には動労、鉄労、全施労、真国労の4組合は国鉄改革労働組合協議会を結成し、同月動労本部革マル派は総評からの脱退を決定した。同年8月、第二次労使共同宣言を労使で締結し、国鉄は、動労本部の態度を受け入れ翌日202億ストライキ損害賠償訴訟を取下げた。動労本部革マル派は、国労、動労千葉の破壊攻撃を強め国労を脱退させて組織を拡大する行動を強め、第二組合の性格を明確にして、資本と対決しつつ労働者の権利を擁護発展させる本来の労働運動から脱落するにいたった。

5 三塚委員会による国労解体攻撃の展開

(1) 前述のとおり、自民党内に設置された国鉄基本問題調査会のもとの国鉄再建小委員会(三塚委員会)は1982年2月発足した。同委員会は、自民党が国鉄の実質的支配者、実質的使用者である実態をその活動の中で明白にした。
 三塚委員会は、いわゆる国鉄再建の基軸は、国鉄労働運動の基礎である現場における労働運動を制圧することにあることを支配政党としての視点から正確に見抜き、職場規律問題すなわち集団的労使関係への支配介入に焦点を絞って徹底的な不当労働行為を重ねるにいたった。
 三塚委員会はその事務局に葛西敬之(現JR東海社長)をはじめとする20名近い国鉄官僚を置き、1か月に7〜10回という頻繁な委員会に副総裁、理事、職員局長、時には総裁をも出席させて、国鉄当局が国労との間で築いた労使関係をつき崩す方向で圧力を加え、国鉄当局者はこの圧力を利用して国鉄労働運動の基礎たる現場における労使関係の破壊を遂行した。
 たとえば国鉄職員の議員兼職をやめることに当初難色を示した高木総裁に対しては、三塚委員会の中で自民党が国鉄の実質的使用者であることを遺憾なく発揮するかのような言辞を弄して、以下のようなつるし上げ的追及を行った。
「これは(自民党)総務会の決定をいただいたことでありますから、これをきっちりとおやりいただけませんと…党がこれだけのことをやってなめられておるようなことじゃ、これはどうしようもない」「やらねえような総裁は首はねりゃいいんだ」「総裁、こんなことじゃ、党の決定も無視だね。あんた、どこで選ばれた総裁なんだよ」「総裁、あんた頭がおかしいんじゃないのか」「ちょっと総裁、あんた酒飲み過ぎじゃないですか」(三塚委員会会議録662〜676頁)
(2) 三塚委員会は特に現場協議制度について、これを「諸悪の元凶」として攻撃を集中した。現場協議制度は1968年国鉄労使が締結した労働協約に基づいて発足したものであり、多種多岐にわたる日常の業務について、現場に設置した労使が協議、決定することが合理的なので交渉権を現場に付与したものである。
 同委員会は「現場では…これがほとんどの悪慣行、ヤミ協定といわれるものの発生原因となっている」(会議録737頁)等と主張し、マスメディアによる悪質なヤミ手当、カラ出張キャンペーンと相まって国労を追い込んだ。
 また国労等に対する組合嫌悪、憎悪は、同委員会において噴出している。「国労、動労は労働組合じゃないんだわ。革命組合ですから」(640頁)、「国労、動労というのは革命政党で、普通の労使関係にはない」(652頁)、「はっきり言ってあなた方の雇っている連中は、ヤクザより悪いんだから。…直してくださいなんていったってね、直らねえんだよ。…もうならず者相手だ」(340頁)等々聞くに耐えない言辞を弄しての国労攻撃であった。
 三塚委員会によって代表される自民党の「国鉄再建・国鉄改革」は徹底的な団結権の侵害、解体であり、国鉄当局と共謀した不当労働行為の全面的発動に他ならなかった。

6 職員管理調書の作成と人材活用センターの設置

(1) 中曽根内閣、運輸省、自民党は、前述のとおり国鉄当局に分割民営化に向けて圧力をかけ続けて、これに消極的な高木総裁を1982年12月に辞任させ、後任に仁杉巌氏をおいたが、1985年6月仁杉総裁が国鉄分割に消極的であるとみるや同人に辞任を迫り辞職させて、杉浦喬也前運輸省事務次官を就任させ、国鉄内部の人事を分割民営化推進派で固めさせた。
(2) 国鉄は分割民営化に際しての不当差別に使用する意図をもって1986年3月一般職 25万人の職員管理調書を全国一斉に作成することを発表、作成作業に入った。
 この調書は動労がいわゆる鬼の動労として激しく闘った1983年以前の労働処分は免責する趣旨で過去3年間の労働処分、一般処分、賞罰を記載させたほか、分割民営化への現状認識度、ワッペン・バッヂの着用を記入する等、組合差別に満ちた内容であった。
(3) そして、1986年7月、国鉄当局は全国331か所の人材活用センターに上記職員管理調書等に基づき国労等の組合活動家を余剰人員として狙い打ち的に配置した。いわゆる人活センターは、まさに現代の強制収容所ともいうべきものであった。有能な労働者を本来の職務から外して草むしり等の作業をさせ、これに耐えきれずに退職するように仕向けたもので労働基本権はもとより、人権をいちじるしく侵害するものであった事実は、被告意見陳述のとおりである。人活センターへの職員配置は、1986年11月時点で全国1438か所1万8510人、うち国労1万4960人、全動労430人等であった。

7 国労の動揺と修善寺大会(第50回)における闘う方針の確立

 1986年は国労に対する組織破壊攻撃が最高潮に達した年であった。
 1986年5月21日国鉄本社職員局の次長(当時、現JR東海社長)葛西敬之は動労新幹線各支部三役会議に出席し、「私はこれから、山崎(当時の国労委員長)の腹をブン殴ってやろうと思っています。みんなを不幸にし、道連れにされないようにやっていかなければならない……。不当労働行為をやれば法律で禁止されていますので私は不当労働行為をやらないという時点で、つまりやらないということはうまくやるということでありまして…」と発言し、国労に対する支配介入の意思をあらわにした。
 また翌1987年5月25日の発言であるが松田昌士(当時JR東日本常務取締役、元JR東日本社長、会長)は「反対派はしゅん別し断固として排除する。等距離外交など考えてもいない。処分、注意、処分、注意をくりかえし、それでも直らない場合は、解雇する。」と公言した。この発言は国鉄当時から引き続いたJR東日本の不当労働行為意思を明証するものである。
 国労は、動揺し、1986年7月の第49回定期大会において「労使共同宣言」に調印し雇用安定協約を締結するという総評の誤った指導方針を容認する方向での「大胆な妥協」方針を決定するにいたった。しかし、同年10月9日、10日修善寺町で開催された第50回臨時大会において、同年7月人材活用センターに追いやられた組合員を先頭に全国から結集した闘う国鉄労働者は山崎本部執行部の提案した緊急対処方針に激しく反対し、大会代議員に対する必死のビラまき、説得活動を展開した。この緊急対処方針は、国鉄分割民営化を前提とする労使共同宣言と雇用安定協定の締結、不当労働行為などの提訴取り下げ等を内容とするものであった。
 大会二日目には、山崎執行部派は、この緊急対処方針を採決した場合には敗れると判断してボイコット戦術に出て、流会をたくらむにいたった。これに対しては、ボイコット代議員への説得団がいくつか形成され、代議員宿舎を一軒一軒訪ねて懸命の説得活動を行ったことが功を奏してボイコット戦術をついに断念して大会が再開され、採決の結果賛成101対反対183という感動的票決で否決された。この瞬間大会場の内外で大歓声が上がり、国鉄分割民営化反対の大方針が確立した。山崎執行部は総辞職し六本木敏委員長をはじめとする新執行部が発足し分割民営化反対方針が確立するにいたった。ビラまき説得活動の輝かしい成果であった。
 その後山崎執行部派は国労を脱退し、1987年2月日本鉄道産業労働組合総連合(鉄産総連)を結成し、総評、全交運はそれぞれが加盟を認めた後にいわゆるJR連合に移行した。

8 分割民営化関連法案の策定と分割民営化の実施

(1) 中曽根内閣は、1986年2月日本国有鉄道法をはじめとする国鉄分割民営化関連5法案を閣議決定し、同年11月28日分割民営化法案(「国鉄改革」8法案)が国会で成立した。すなわち以下の8法案である。@日本国有鉄道改革法A旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律B新幹線鉄道保有機構C日本国有鉄道清算事業団法D日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職促進に関する特別措置法(以上5法案が分割民営化の基本法)E鉄道事業法F日本国有鉄道改革法等施行法G地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律。
 同日、参議院国鉄改革特別委員会は13項目の付帯決議を成立させたがその第9項は「国鉄職員の雇用と生活の安定を図るため、@新会社の採用基準と選定方式は本人の希望を尊重し、所属労組で差別をされぬよう特段の留意をする」等をその内容としていたが上記決議とまったくうらはらな事態が進行したことは後述のとおりである。
(2) 国鉄分割民営化の本質は、前述のとおり、総評の中軸となり戦後労働運動の中軸を担ってきた国労、動労千葉などの闘う労働組合を解体崩壊せしめ戦後政治の総決算を図るための一大柱をなすものである。これととともに、三菱地所、三井不動産、住友不動産等の巨大不動産資本に東京駅周辺、汐留、品川、飯田橋、川崎等の不動産を売り渡し、巨大な利権を獲得せしめるためのものであった。その目的として巨額の国鉄赤字を解決した上での再建が第一に、高唱されたが、分割民営後15年を経過した現在JR関連の赤字がかえって増大していることは、その虚構性を明証しているものである。
 中曽根内閣、運輸省、国鉄当局が意図したのは国労などの組合活動家を新会社JRから排除し採用させないことにあった。
 前記第二臨調最終答申に基づき国鉄の分割民営化と電電、専売の民営化が決められたうち電電、専売は民営化されただけで財産も人もすべて新会社に移行した。しかし国鉄だけは、これと異なり、国鉄改革法23条を策定し、国鉄が新会社に採用すべき者を選定して名簿を作成し、その名簿に登録された者から設立委員が採用通知を出した者のみが新会社に採用されるという仕組みを作って採用差別を行った。すなわち、国鉄が名簿に登録しないことによって、国労労働者を新会社に採用しないことができるという仕組みである。
 国労労働者らをいかにして新会社から排除するかに苦慮していた葛西敬之ら国鉄職員局に対して「目からウロコが落ち」るような指導助言を与えて、不当差別を可能ならしめる法律を策定するために寄与したのは、1984年4月1日最高裁調査官から国鉄総裁室法務課調査役として国鉄に出向し1987年5月31日までその地位にあった江見弘武判事(現東京高裁総括判事)であった。当時国鉄職員局職員課長、同局次長の地位にあった葛西敬之(現JR東海社長)が「未完の「国鉄改革」」261頁以下でその一端を述べている。
 国鉄改革法23条は、国労差別につき法的根拠を与えるもので23条を含む同法自体が不当労働行為に該当し憲法違反というべきである。国鉄分割民営化による不当労働行為については裁判官も加担した事実は弾劾されなければならない。
 なお、23条の下でも、国鉄とJR各社との実体的同一性、設立委員の役割、法的地位、新会社職員の一連の採用過程から見て、日本国憲法、労働組合法の下で国労組合員を差別して採用しないことは、不当労働行為に該当し、該当者をJRは職員として採用しなければならないものである。
(3) 政府、国鉄当局は、人活センター配置、国労からの脱退強要ー解雇の激しい攻撃とともに、もう一方で国鉄労働者を希望退職という実質的解雇に大量に追い込んでいった。その数は1985年時点で約40万人いた国鉄労働者が、87年JR 発足直前には何と約20万人にまで激減した。
 まさに分割・民営化は、史上最大の大量首切りだった。その結果、閣議決定された基本計画において新会社の職員数として定められた21万5,000人に対し、採用者総数は20万5,586人で9,414名の定員割れという前代未聞の事態が出来した。しかし、北海道、九州の会社では本件被告を含む7,400名が不採用となった。また、本州3社では8,913名の定員割れにもかかわらず国労活動家を採用するなという鉄道労連からの強硬かつ不当極まる要求に国鉄当局が応じて、前記職員管理調書を利用して6か月以上の停職処分を受けた者又は2回以上の停職処分を受けたものは採用名簿に登載しないという、労働処分を理由とする不当差別によって約80名が不採用、実質において、解雇処分を受け清算事業団に送られた。
 1987年4月1日JR東日本、同西日本、同九州、同貨物等のJR各社および清算事業団が発足した。
 この間の猛烈きわまる組織破壊攻撃は、羽廣被告人らが意見陳述において「人間の尊厳を根底から踏みにじる、まさに人間破壊攻撃」と弾劾しているように、言語に絶する形で行われた。
 その結果1981年6月1日現在244,834人いた国労組合員は、1987年4月時点で約20万人減少して44,012人に激減し、そのうち1986年6月から1987年3月までのたった1年足らずの間に91,212名もの大量の組合員が国労から脱退せしめられた。そして1990年4月1日の2度目の解雇までの期間を含めれば何と200名にも上る国労組合員が自殺に追い込まれたのである。
 一方、1981年6月1日現在動労、鉄労、その他の組合の人数は、動労44,404人、鉄労45,678人、その他の組合7,379人であったが、1987年2月2日の鉄道労連結成後動労、鉄労、全施労等が鉄道労連に合流して同年4月時点では89,876人となった。同年3月31日付で2万5000人が希望退職者として退職したにもかかわらず、約7500人の減にとどまった。
 まさに、国鉄分割・民営化は、国鉄労働者20万人の大量首切りと国労つぶしを狙った、労働運動史上かつてない大攻撃であった。

第2 1047名解雇撤回闘争と「4党合意」に至る政府・自民党・JR各社の攻撃

1 分割民営化後の国労に対する組織破壊攻撃

(1) 国鉄分割民営化により国鉄清算事業団に送られた職員は全体で約2万3700人であり、そのうち事業団本来業務職員は約2500人、公務員関係採用内定者が約1万1500人で再就職未定のままJR各社への採用を拒否されたまま送り込まれた労働者が約7800名(北海道4300人、九州2400人、本州などが約1100人)であった。
 このような大規模な採用差別以後も国労、動労千葉などJR職場に残った組合員に対しては配置差別、出向差別、昇格・昇給差別などが続けられ、定員割れの結果やむなく採用された活動家はすべて缶コーヒー等の販売を扱うベンディング職場やそば屋などの売店や無人駅などへの配属差別を受けた。
 国労本部はこれらの不当差別に対して現場からの団体行動等による闘争方針を提起、指導することなく地方労働委員会への不当労働行為申立てを行った。この各地における不当労働行為申立闘争は、JR側が改革法23条によって国鉄当時の不当労働行為が仮に存在してもJRは別会社なので一切承継しないことを主張して審問をボイコットしたことなども一つの原因となって大成功をかちとった。
 大阪における1988年11月28日付84名の組合員につきJR西日本等に採用したものとして取扱うことを命じた地労委命令を先頭に、神奈川、北海道、福岡、長崎、佐賀、大分、鹿児島、宮崎、岩手、京都等全国で採用差別を受け清算事業団に送られた組合員につきJRに採用したものとして取扱うことを命じた命令が相次いだ。
 動労千葉に対しても清算事業団に送られた12名について1990年2月27日付でJR東日本およびJR貨物に対して「昭和62年4月1日付で社員に採用したものとして取扱わなければならない」などを命じる救済命令を発した。とくに北海道地労委では1704名全員の採用を命じる救済命令を発した。

2 国労本部による屈服路線への傾斜、転換

(1) JR側は、すべての地労委命令に対して中労委に再審査を申し立てた。これに対して国労本部は1989年6月の臨時大会で「全面一括解決要求方針」という、202億円損害賠償訴訟までからめて、和解において解決するという方針を決定した。これは、採用差別問題をも妥協の対象とするというきわめて疑問な方針であった。
 中労委の和解工作は、JR側の拒絶と国労闘争団の解雇撤回・地元JR復帰という正しい方針のもとに挫折し、中労委は1993年12月24日きわめて反動的な命令を下した。
 地労委の1704名という救済対象者に対して、ごく一部しか救済しなかった北海道事件中労委命令に対してもJR側は東京地裁へ取消訴訟を提起して国労、動労千葉、全動労に対して解雇撤回・原職復帰の要求を全面的に拒否するにいたった。この間清算事業団から1990年3月31日をもって本件松崎、羽廣両被告
を含む1047名という多数の者が解雇され、国労は36の闘争団を組織し、動労千葉も争議団を組織して、あくまで解雇撤回・原職復帰を要求して闘いに立ち上がった。この1047名の闘争団の存在と闘いによってこそ国労はすでに3万人余りとなっていたが、国労が国労として存在することが出来たものである。国労は、現場からの労働運動を展開する中で解雇撤回・原職復帰の闘いを発展すべきであった。
 しかるに、村山内閣の下で亀井静香運輸大臣の主導で、1994年12月24日国鉄を承継した国鉄清算事業団と国労とはスト権スト202億円損害賠償訴訟の取下と国労会館明渡しに関する合意に調印した。上記合意の前提には「国労において国鉄が分割民営化されたことを認め、健全かつ正常な労使関係の構築に努力する」などの文言が明記されていた。
 国労は上記訴訟取下と会館明渡しの合意の際の回答として1996年8月30日JR7社に対して「紛争の全面解決と労使正常化のための申し入れ」(以下8・30申入れという)を行い、国鉄分割民営化を正式に認め、「健全かつ正常な労使関係の構築を図る」ことを申入れて1047人問題を非妥協で闘い抜く路線から屈服路線へと転換を開始するにいたった。国鉄分割民営化反対闘争は、国鉄改革法等による国家的不当労働行為を絶対に許さないこと、とりわけ1047名の不当解雇を撤回させることをもって核心としている。「健全かつ正常な労使関係の構築」とは、「国鉄改革法に基づいて推移している現状を承認するとともに、JR各社の発展に寄与する」ことであり、1047名の不当解雇撤回闘争の幕引きを図る意思をあからさまにしていく裏切りへの転換点をなすものであった。
(2) 1998年5月28日 東京地裁民事11部萩尾保繁裁判長は、JR貨物、JR北海道、中労委、国労等を当事者とする平成6年(行ウ)第8号、同第71号事件について、同地裁民事第19部高世三郎裁判長はJR貨物、JR北海道、中労委、全日本建設交運一般労働組合、全国鉄道本部(旧名称全国鉄動力車労働組合すなわち全動労、以下単に全動労という)全動労北海道本部等との間の平成6年(行ウ)第67号事件についてそれぞれ労働裁判史上画期的ともいうべき反動判決を下した。
 前記地民11部萩尾判決はJRの当事者性を否定した粗雑な内容であり、前記地民19部高世判決は、設立委員の使用者性したがってJRの使用者性を認めるが、本件は新規採用というべきであり、新規採用には労働組合法7条1号前段の不利益取扱禁止規定は適用されないなどという誤った判断に基づく不当きわまる判決であった。
 上記両判決に国鉄労働者は、裁判所の釈明権行使の内容、態度などから勝訴を確信していたため、大きな衝撃を受けた。とりわけ、国労本部は解雇撤回の闘争について、弁護団などによる裁判闘争に依拠し、現場の労働運動によって闘う姿勢をとっていなかったためにこの敗北によって大きな打撃を受け、その後の裏切りの決定的契機となった。
(3) この結果、国労本部指導部は、政府、運輸省、自民党に政治解決を要望するという屈服路線への傾斜を強めることとなった。
 1998年8月の国労定期大会に宮坂義久書記長は、突如、当日に宮坂補強5項目案なる議案を提出した。これは @国鉄改革法の承認 A全不当労働行為申立事件の申立取下げ B国労の「組織のあり方」「名称」の検討 CJR連合との共同行動 DJR各社との「胸襟を開いて話し合う」ことをその内容とするものであり、国労が自ら路線転換、解体への道を歩み出すことを意味した。
 これに対しては国労内部の強い反対で大会で決定することは出来なかった。
 しかし国労本部は、なおも闘争団切り捨ての策動を捨てず翌1999年3月18日の臨時全国大会では国鉄改革法承認を強行した。
 同年3月30日以降自民党、社民党間の政党間協議が開始され、4月には自民党に、国労は国鉄改革法の趣旨を認めたこと、旧国鉄時代の訴訟は解決の方向付けが明らかとなった適当な時期に取下げる旨の念書を提出し、翌5月には自由党に対しても同様の念書を提出し、政治解決を要望した。
 同年6月10日には、政府、自民党と通謀した運輸当局から4党合意と同趣旨の「運輸省メモ」が出されたが、同じ頃開催された国労闘争団全国連絡会議が開催され、解雇撤回・地元JR復帰を闘争団の譲れない要求とすることが確認され、自民党社民党間の政党間協議は凍結された。その後11月18日ILO結社の自由委員会による中間報告が出され、東京地裁の1998年5月28日の判決を実質的に否定して、政府が責任を持って国労組合員の原状回復に向けて話合いを促進することを勧告した。これと同趣旨のILO最終勧告が翌年秋以降出された場合には、1047名の不採用者に対する解雇撤回・原職復帰の路線、すなわちJRの法的責任を追及するという原則的闘争を継続する方針をとらざるを得ないことから、2000年になって国労本部は、屈服路線たる政治解決を求めるにいたり、社民党村山氏、伊藤氏らを動かし、その結果2000年5月30日付をもって「JR不採用問題の打開について」と題する自由民主党、公明党、保守党、社会民主党の4党による「4党合意」が発せられた。国労中央執行委員長は、直ちに同日社民党村山元党首、伊藤茂副党首や連合中執ら関係者に感謝するとともに、「JR各社との間に正常かつ民主的な労使関係の確立をめざします」と言明する長文の声明を発し「4党合意」を受け入れた。

3 国労本部の屈服に抗した、闘争団を先頭とする「解雇撤回・JR復帰」の闘い

 2度の首切りから「4党合意」に至る過程は、政府・自民党によって一貫して国鉄1047名闘争と国労の解体攻撃が続けられた過程であった。その攻撃の核心は、国労本部の「政治解決路線」という和解路線の屈服性を見透かし、国労本部を取り込んで屈服させ、国鉄闘争と国労を解体する政策であった。「4党合意」とは、その集大成の攻撃であった。
 国労本部は、先に述べたように96年「8・30申し入れ」のころから路線転換を顕著にし、闘争団を切り捨て、国鉄闘争を自ら解体する策動を深めてきた。四党合意とは、こうした国労本部の屈服と転落の行き着いた先である。
 同時にこの過程は、こうした政府・自民党の攻撃、それにたいする国労本部の屈服にもかかわらず、修善寺大会を引き継ぎ、90年4月の闘争団の結成に示される「解雇撤回・JR復帰」へ向かった反撃と闘いが国労内から不屈に連綿と起こった過程でもあった。
 被告らの多くは、96年「8・30申し入れ」以来の路線転換を顕著にしはじめた国労本部の屈服にたいして、いち早く警鐘と弾劾の声をあげ、一貫して闘争団の切り捨てに反対し、国労の闘う旗を守ろうと奮闘してきた国労組合員らである。
 今回の弾圧は、国労闘争団の闘いが2000年7・1臨時全国大会以来の闘いを生み出し、四党合意を破産に追いやろうとしていることに焦りにかられた国家権力の報復弾圧にほかならない。
 裁判官におかれては、被告らが2002年5月27日の国労臨時大会の当日にとったビラまき説得活動は、国鉄分割・民営化攻撃による20万人の大量首切りと国労つぶしにたいする怒り、この攻撃の集大成としての「4党合意」へのやむにやまれぬ思いの故に行われた正当な組合活動であることを明確に認識していただきたい。