プロフェッショナルファール
1999/06/20
後編:マリーシアとスポーツ教育
前回(「定義と現状」)に続いて、サッカーにおける「プロフェッショナルファール」についてです。
さて、今回のテーマにわざわざ “サッカーにおける” という注釈をつけたのには理由があります。バスケットにおいては「プロフェッショナルファール」と言う必要はありません。バスケットではわざとファールするのは、珍しくないプレーだからです。
バスケットにおける故意のファールについて少し解説しておきましょう。
試合終盤で時間稼ぎされる場合、わざとファールして時計を止め、相手チームのフリースローから試合を再開させます。「ファールゲームに持ち込む」という言葉があるくらいの当たり前のプレー。今時は高校生でもやるでしょう。
また、フリースローが下手な選手がゴール下からシュートする際にファールして止めるというのあります。マンガ「スラムダンク」でもそういう作戦が指示されるシーンがありました。
あるいはダンクシュートをされると相手チームのムードが良くなるので、「ファールしてでもダンクだけはやらせない」というのもありますね。
このように、バスケで故意にファールをするのは“文化的に”認められています。公式にではありません。公式には故意のファールはアンスポーツマンライクファールとなり、より厳しい罰が与えられます。しかしながら、現実問題としてアンスポーツマンライクファールは、次のようなケースに限って判定されていると思います。
ひとつは程度。よっぽどひどいファールとそうでないものを区別するため。
もうひとつは、内容の問題。かっとなって故意にするもの。(これは大抵危険なファールになる)
審判も観客も分かった上でこれらの判定が行われ、結局、文化的に「プロフェッショナルファール」が認めら、実際のプレーが行われているのです。
このサッカーとバスケットの違いは、そのスポーツの成り立ちに由来しているのではないかと思います。サッカーやラグビーは「紳士のスポーツ」として生まれました。ですから「わざとファールする」ということが許されなかったのです。しかし長い時間を経て、世界のナンバーワンスポーツになったサッカーでは、世界中に広まり、プレーされるうちに現実としてそういう反則が現れてきたのです。
一方のアメリカ生まれのバスケットは、反則と代償が釣り合っているならば、その反則が故意であっても特に危険でないならば戦術の一種として許されます。これは「紳士のスポーツ」的な面からはなれた純粋な楽しむ為の「ゲーム」という違いだと思います。
つまり、こういった違いはプレーが行われる国々独自の文化に影響すると思うのです。
文化の違いといえば、数年前、野球のオリンピック予選か何かの、日本とオーストラリアの試合でこんなことがあったはずです。
大量リードしている日本が、試合の終盤で盗塁をしました。その盗塁に怒ってピッチャーは次のバッターに報復としてビーンボールを投げたのだそうです。アメリカなどでは、大量リード後の盗塁は「死者に鞭打つ」に相当する行為で通常行われないらしいのです。アメリカでホームランを打っても派手にガッツポーズをすると、次に打席ではビーンボールが来るとも言われます。同じスポーツをやっていながら、日本とはこれほど文化が違うのです。
(個人的というか日本の感覚で言うと、大量得点後の盗塁より、報復のビーンボールの方がどうかしてると思いますが。)
一時、マリーシアという言葉がはやりました。適当な翻訳する言葉がないらしいのですが「ずるがしこい」というような意味に相当するようです。「日本のサッカーにはマリーシアが足りない」とよく言われます。しかし、どこまでがマリーシアかという議論はいろいろあります。
思い付くマリーシアの候補としては
・点差に合わせた試合運びや時間稼ぎ
・故意のファール(プロフェショナルファール)
・審判の目を盗んで反則すること
・相手を挑発していらいらさせること
・削りのファール(威嚇の意味をも含むファール)
・危険なファール
辺りが考えられるでしょう。
最後のは絶対に許されないと思いますが、それ以外はその国の文化によって、あるいは個人の価値観によっても違いがあるでしょう。
こんな話を聞いたことがあります。
「マラドーナはヨーロッパではそれほど人気がない」
例の「神の手」のせいです。ヨーロッパでは、審判の目を盗んで利益を得るようなプレーは嫌われる傾向があるようです。
では、ヨーロッパがすべてそうかというと……
軍司貞則の「オフト革命」によると、オフトが最初にヤマハ発動機のコーチにきた際、DF には審判からファールを取られない巧妙なずるいタックルを教え、FW には実際にはファールを受けていないのに、上手に転んで PK をもらうテクニックを教えたそうです。
とはいえ、オフト・ジュビロがそんなに汚いサッカーだったかというと、そうではありませんでした。
このように、同じマリーシアと言っても国によって、人によってその範囲が違います。その程度も違うでしょう。
日本では、マリーシアは反則することは含まないと主張する人(エスパルスの斉藤など)もいます。僕の定義した「プロフェッショナルファール」は単なる汚いプレーだと。
ではJリーグでも毎試合見られる、素早いリスタートを防ぐために相手にボールを渡さなかったり、セットされたボールの前に立ってすぐに蹴らせないのはどうなのでしょう?それは厳密には遅延行為、すなわち非紳士的行為ではないのか?ちょっとぐらいだったらいい?ちょっとっていうのはどのくらい? 審判が警告を出さなければ反則でない?だったら、審判を騙すプレーが正当化されるのでは?
結局、どこからなら OK という線を引くなんてことは不可能だと思います
僕は世界的な共通認識として線が引けるとしたら、相手に怪我をさせないこと、だけだと考えています。それ以外に規制をかけることはできないだろう、と。
日本におけるこういう価値基準は、どうしても教育と密接な関わりがあります。日本においてはスポーツは教育の道具です。審判の目を盗むのはもちろん、故意のファールも許されません。
日本においては、スポーツで道徳を教えます。いえ、道徳といえば聞こえはいいですが、実際、その大部分は道徳というよりも軍隊教育の名残です。高校野球の不祥事による出場停止という連帯責任などが分かりやすい例でしょう。今でこそ少なくなりましたが、全員の丸刈りもそう。先輩、後輩間の秩序もそう。
そういえば日本で「おかしいな」と思うこと。 TV の解説者などが審判の間違いを指摘しないこと。「微妙なプレーでしたね」が決まり文句。いくらんなんでも不自然すぎます。プレーヤーがあれだけミスをするのです。審判だってミスをするのは当たり前。なのに審判のミスを正しく指摘することがありません。プロ野球解説が特にそう。ビデオで間違った判定であることが明らかなのに「〜〜のようにも見えますねぇ。」「一番近くで見ている人を信用しましょう。」
サッカーも野球解説のスタイルに合わせているのか、ほとんど同じです。
一方、バスケットは違います。アトランタ五輪の女子バスケットの日本代表の試合で、解説者が「今のはミスジャッジですね。仕方ない。気を取り直していきましょう。」とさらっと言ってのけたのは新鮮でした。
そういえば、バスケでは(失点を防ぐような)ファールをしたら「ナイスファール」といいますが、サッカーだと「ファールになってしまいましたが良いプレーでした」というような言い方をします。「ナイスファール」と言うことは、今後もなさそうです。この辺りも、やはりバスケとは文化的に随分違うのかも。
どうして野球やサッカーでは審判が間違った、と言えないのでしょう。審判は絶対だから?ミスがあったと指摘することと、審判の判定に従うのは別の話だと思うのですが。
これも日本の教育の、先輩、先生、上官の言うことは絶対、という成果ではないかと思うのです。
海外では、学校に体育の授業というものはないそうです。スポーツは地域のクラブのようなところで自由に行われ、しかも生涯通じて行われる市民の権利なのです。 (追記 2003/10/14 複数の国に滞在経験のある帰国子女に確認したのですが、体育の授業が無いというのは間違いのようです。)
日本でやっているように、スポーツが教育の一環としてあるべき存在なのでしょうか?
僕はそうは思いません。そもそも、スポーツは単に社会の一部分そのものだと思います。上記で述べたようなファウルの考え方や、マリーシアなどは、その社会が反映されているだけなのです。
馬鹿正直にやることとか、連帯責任とか、日本だけが、実際の世の中とは違うことを不自然にスポーツに取り込んで教育として行っていると思うのです。
たとえば、特に南米の選手などが時々見せる審判の目を盗んだり、あるいは騙すようなプレーがあります。
よく聞く話として、海外旅行で日本人が隙を見せれば盗難に遭ったりするのはご存知通り。それで治安が悪いと文句を言っても盗まれたものは戻ってきません。言えるのは、盗む方も悪いが隙を見せる方も悪いというくらい。こういう考えは、日本よりヨーロッパが、ヨーロッパよりは南米の方がよりも強いのではないでしょうか?社会がそうだからこそ、どちらかというとヨーロッパより南米の選手の方がそういうずるいプレーが多い傾向があるのではないかと思うのです。隙を見せたやつが悪い、と。だから、隙を見せない選手やチームがほんとに優れた選手やチームなのだ、と。
そしておそらくこの例以外の様々なことについて、ヨーロッパの国々で彼らの文化的基準があり、南米の国々で彼らの文化的基準があり、アジアにも、アフリカにもそれぞれの文化的基準があり、それらの“折り合うところ”でサッカーがプレーされている。これこそ「サッカーが世界の共通言語である」という言葉の、本当の意味ではないでしょうか。
世界中でサッカーが行われ、クラブや選手が交流することで「ここまでやると汚いプレー」「これは許されるプレー」「これは許されないプレー」という世界基準が出来上がっていくのだと思うのです。
それは、政治家が決めたりする国際的なルールなんかよりも、遥かに多くの人々に支持される基準になると思います。(「追記:プロフェッショナルファール」 に続きます。)