『席を譲らなかった若者』 雑感
2005/05/01
時として、一つのサイトに書かれた文章に対してたくさんの人が注目するのは、インターネットでは珍しいことではありません。Blog が広まるにつれてその傾向はますます強くなってきたといえるでしょう。
ある Blog で書かれた 「席を譲らなかった若者」 という文章が話題になっています。なかなか面白いネタだったのでここで取り上げみたいと思います。(まずはリンク先を読んでいただくと良いでしょう。) おそらくしばらくは毎日数万というアクセスが続くでしょうから、元文章がネットから消えることもないと思いますが、念の為にあらすじも書いておきます。贅肉をそぎ落とした話の筋は 『電車において、若者が席を譲らないことを嫌味を言うことで批判するお年寄りが現れたが、それに対して若者がこっぴどく嫌味な反論をして席を譲らなかった』 です。
さて、最初に “面白いネタ” という言い方をしました。面白いと思ったのは元のお話自体もそうなのですが、この Blog 方式で書かれた文章に対して多くの人が書き込みやトラックバックをして意見を表明したことも面白いと感じました。このお話が TV や新聞で話題になっても不思議ではないのですが、違うのはこのような大量の意見の表明が瞬時に行われること。これこそがインターネットが持つ双方向性を生かした特徴といえるでしょう。書かれた内容は本当に千差万別です。みんなが同じ意見を書くようだとそれはそれで気持ちが悪いわけで、いろんな意見が書かれることは自体はほんとに健全だなぁと感じます。
ただし残念なのは、あまりに多くの人が多くの観点から意見をいうので、意見の表明だけで議論にはなっていないことでしょう。その若者を “支持する”、“支持しない” と言い合ってもそれぞれが根拠とする観点がずれていては全く噛み合わない議論です。残念ながら現在の Blog におけるコメントやトラックバックでは、それらテーマがずれていることを修正していくようなシステムは難しそうです。
(もしかしたら将来はこういった噛み合った議論できるような仕組みが出来上がるかもしれません。そうなったら、ひとりの人間が脳内で考えるような思考と同じ方法で、インターネット上で多人数の意見による論理が構築されるようになるのかも。)
さて、話を元ネタに戻して、個人的な意見の表明をしてみたいと思います。
まず、論点を整理しなければなりません。多くの人が、“老人の言い方”、“若者の反論の内容” に着目していますが、まずはそれらをそぎ落とした話からするべきではないでしょうか。つまり、このようなケースに置き換えて考えてみたいです。
『電車において、老人が丁寧に席を譲ってくれるように要請したが、若者が丁寧に断った』
この場合はどうなのでしょう?
おそらく 『社会的弱者を優遇するべきである』 という大前提を否定する人はいないでしょう。実際、それを否定するような書き込みは見あたらなかったように思います。(否定する考えをしている人も世の中にいるのは間違いないでしょうが、そういう人は議論に参加するはずもないわけで…。) “寝たふりをする” だの “本を読んだふりをする” などの発言が出てきますが、これらの対応もこの大前提を理解した上での罪悪感を伴った行為のはず。
その大前提の上で考えると、このお話のポイントは 『誰が弱者であることを判断するのか』 です。今回の話だと、“疲れている自分”、“山歩きをしてきた老人”、その比較をしなければなりません。“山歩きをしてきた老人” が弱者かどうか、というと確かに微妙な問題です。
結論を言ってしまうと、正解かどうかはともかくこの判断は “席を譲る側” しかできません。“疲れている自分” は他人にはわからないからです。仮にそれがどんなに疑わしいことであっても他の人には判断する権限はありません。
こうやって結論してしまった時点で、今回の話の大筋は終わりです。丁寧な言い方で席を要求しようが嫌味を言って高圧的に要求しようが、要請を丁寧に断ろうが断った挙句に嫌味を言おうが関係ありません。席を譲る譲らないの正当性は、“席を譲る側” しか決められないのです。
さて、では書き込みで多くの人が問題視にしている “老人の嫌味な言い方での席の要求”、“若者の拒否と老人に対する嫌味な発言” とは一体何なのでしょう。
はっきり言って、老人や若者が発言した内容に大した意味はありません。なぜならそれらは “自分の思い通りにならない相手に嫌な思いをさせてやりたい”、“自分に嫌な思いをさせた相手に嫌な思いをさせたい” という行動だからです。実はそこで行われたのが、“がんをとばす” (関西ったら “めんちきる”) のような威嚇する行為だったり、あるいは実際の暴力だったとしても同じことです。ただただ、相手に嫌な思いをさせたかったという行動に違いはありません。
それらに反感を持つ人が多いというのは、社会において人が嫌がるようなことは止めようよ、という考えが主流ということでしょう。すなわちこれらは単純なマナーの問題だと考えて良いです。多くの人が、みんなが気持ちよく暮らす為にマナーを守ろうよ、と思っているところでマナー違反な事をするから多くの人が不快に思うのです。電車とか老人とかに依存しない一般的なお話。
ただし、面白いのは比較的若者への擁護の意見が多いこと。これはマナーを守ることを求めつつも、“先に嫌な思いをさせられたんだからやり返しても良い” と考える人が多いということでしょう。
付け加えると、その反対の若者だけに批判をしてる人はおそらく、 “自分は疲れてるってのは言い訳でしょ?” と思っているのでしょう。それは事実かもしれません。でもそれは既に書いたように第三者が断定できることではないですから言っては駄目。
それ以外の観点としては、“老人への敬意” というもの出ていますね。確かに多くの経験を持っている人生の先輩である老人へ敬意を持つとべき、という考えはあるでしょう。けれども電車における対人関係ということでは、別に人生の先輩がどうのではなく社会的弱者という観点で優遇されるべき、と多くの人が考えるわけで、今回の話とは実はあまり関係ないのではないかと思います。
そんな感じにお話の内容を分析してきましたが、では今回のようなお話において当事者でない第三者はどうするべきでしょうか。席を譲るかどうかは “席を譲る側” に一任されるわけで、第三者には何もできない話?
我々にできることがあるとしたら、励まして応援することかもしれません。最初から席を譲る気がない人には何を言っても仕方ありませんが、“疲れている” ことで席を譲らない人に対してなら応援することで変化を生むことができるかもしれません。“確かに仕事で疲れてるだろうけど、まだ頑張れるのでは?” と。もちろんその場で応援するってわけにもいかないでしょうから、普段から “頑張る雰囲気” を作るのです。それは、今回のような議論をすることであったり、あるいは率先して行動すること、あたりになるのでしょう。
どうせなら今回の議論が、若者を支持する/支持しない/どっちもどっち、で終わらずに、どうすれば多くの人が気持ちよく生活できる?という議論まで進むとよいと思うのですが。
随分昔に書いたコラム。全く別方向からのお話ですが、電車の席絡みなので。
『親切に関する考察』