ヒロシマの原爆の話
2005/08/15
TBS でやっていた、戦後60年特集企画 「ヒロシマ」。
広島原爆被爆者と原爆を開発した科学者との対面などがあった番組です。全部観たわけではないのですが、それに関連して思ったことを書きます。
僕は山口県の西部で育ちましたから “ヒロシマ” に関する知識は比較的ある方ではないかと思います。小学校の時には平和公園、原爆ドーム、原爆資料館に行っています。というか実際親戚に被爆者が数名いましたので、その人達から直接というわけではなかったのですが、親から当時の話なども聞いていました。
また、戦争自体についても知識は多い方です。戦車や軍艦のプラモデルが好きだったこともあり、東南アジアの陸軍の侵攻や太平洋の海軍の侵攻など、子供向けの書物でしたが一通り読んで知っています。特に海戦の話ならそこそこ知識あります。
一応それらの最低限の知識は持っている、とした上での話ですが、今回の番組で “兵器開発者個人に対して謝罪を求める” というのはやり過ぎだ、と思いました。
それだったら日本の当時の優秀な兵器を作った科学者にも謝罪が求められるのでしょうか? 高性能の戦闘機、水深の浅い真珠湾でも使える魚雷、従来より速度の出せる球形艦首、航空母艦が主役となる戦術転換、……、などなど当時日本で開発された技術や戦術はたくさんあります。それらの話を忘れ去って原爆開発者にだけ謝罪を求めるのはおかしいと思います。
国家の指導者たる立場の人が代表して責任を問われるのはわかります。しかし、それ以外の人は戦場の兵士だろうと後方支援だろうと兵器開発者だろうと違いはありません。すべて等しく戦争の当事者で、誰に責任というのはできないと思います。
それにしても原爆の問題はなかなか難しいです。まずは責任を問う話は問題を分けて考える必要があると感じました。ひとつは政府や政治家に対する法的な責任の話。そしてもうひとつは戦争に参加した個人の道義的な責任の話です。
まず、ひとつめの政府や政治家に対する法的な責任の話ですが、これは今回のテーマではありません。ここでは僕の考える結論だけを述べます。
原子爆弾のような大量虐殺兵器は国際法違反であること。広島、長崎で使用されたことに対して、本来ならば法的責任が問われるのが当然であること。この問題に関して法律家や学者がそう主張するのは当然で、将来の歴史家も最終的にはそう判断するはず。ただし、政治的にそういう理屈通りにならないことはある。
以上です。
さて、今回テーマとして考えてみたいのはふたつめの話。戦争の当事者には違いないけれど、責任を問うことができない市民や兵士、兵器開発者などは原爆に対してどう考えるべきかという話です。僕の考えた結論は以下。
『核兵器の使用を決断した政治家にその責任を負わせる事はできるが、当然兵士や一般市民にその責任を負わせることはできない。その代わり、兵士や一般市民は社会の一員として戦争が始まったことについては責任を持っている。だから、その責任の取り方とは “二度と戦争を起こさないようにすること” である。』
今回、被爆者が科学者に謝罪を要求しました。彼らは “原爆 (核兵器) は特別なんだ” と主張しているようです。
上記にあるように、政府や政治家に法的な責任をとらせるという話であるなら、これは全くもって正しいと思います。しかし、一般市民の道義的責任を考えるような場合に “通常兵器と核兵器” の区別 はするべきではないと考えます。核兵器が通常兵器と比較にならないくらいな悲惨な状況を生み出し、後遺症など大きな問題を抱えることなどは確かです。だからといって “ヒロシマは別格” と言うのは違うと思います。それは例えばこういうことです。仮に将来、核兵器よりも甚大な被害をもたらす兵器が使用されたとします。 すると “ヒロシマは一位から二位に下がりました” となるのでしょうか? そんなことはないはずです。使われた兵器によって死者がランク分けされるのはおかしいです。
本来目指すべきことは “核兵器廃絶” ではなくて “戦争を無くすこと”。核兵器廃絶運動をしている人が “通常兵器は今のままでいい” と考えているなら、僕はその活動は支持できません。“戦争を無くす” という大目的があって、その過程に特に被害が甚大な核兵器をなくそうという話なら理解できます。
“原爆では一般市民が犠牲になったから話が別だ” という主張もあるようです。
これも上記と同じで、政府や政治家に法的な責任をとらせる場合には正しいです。国際法的に一般市民の虐殺は戦争犯罪となり兵士の死とは全く別の意味を持ちます。しかし、これまで述べてきたような一般市民の道義的責任を問う場合には “兵士の死と一般市民の死” の区別をするべきではないと考えます。 “兵士だったら死んでもいい” なんておかしいです。全ての兵士が望んで戦地に赴いたわけではありませんし。
“罪のない子供が犠牲になるのはおかしい” という意見があるかもしれませんが、これは実はピント外れだと思います。戦争の発生は、政治家、兵士、一般市民、全て含めた社会の責任です。だからこそ社会の一員である子供に犠牲が出てしまったのです。社会が致命的なミスを犯したから、社会が損害を被ったのです。
むしろこのあたりの主張は “戦争は軍部のせいだ” という無責任さを感じます。戦争が始まったこと自体は明らかに社会全体の責任です。やはり我々がすべきなのは、兵士、一般市民に関わらず犠牲者が出ないように “戦争を無くすこと” です。
“原爆は必要ではなかった” というのも番組で伝えられていた内容でした。戦後の対ソ連を意識したから使われたのであって、本来は必要のない原爆を使ったのだ、と。
これについては事実である可能性も高いのではないかと思いす。しかしこの件に関しては、もっと広い視野で考えるべきではないでしょうか。太平洋戦争だけを見れば上記はその通りかもしれません。太平洋戦争の終了には必要はなかった。けれども歴史に切れ目はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他の多くの戦争/紛争から、最近の世界的なテロの発生まで、様々な不幸なできごとは全て歴史の帯で繋がっているものです。アメリカは戦略的に必要だから原爆を使用したことは間違いありません。ということは、太平洋戦争で原爆が使われなかったとしたらおそらく代わりに朝鮮半島で使われていたでしょう。問題は (一見、局地的な戦闘がない時期であっても) 戦争状態 (武力によって相手より優位に立つという考え方) は太平世戦争の前も後もずっと続いているということです。たまたま “日本で” 使われたことを過剰に問題視するのはあまり意味がないように思えます。“日本で” 使われようが、他の国で使われようが、我々は “戦争を無くすこと” を主張すべきで、その上で核兵器廃絶を訴えるべきです。
繰り返しますが、本来目指すべきことは “戦争を無くすこと”。
そのために、いかに核兵器の被害や後遺症などの影響が悲惨なものであるか、一般市民が被害者となったかなどの事実を調査したり公表することは意味があります。今回の番組のようなそういった活動は続けるべきです。様々な事実をつきつけることで我々が今後どうするべきかという考えを持てるわけですから。
実際のところ、“戦争を無くすこと” の具体策は、そのように過去の過ちを学ぶこと以外には有効な手段はあまり思い当たりません。だからこそ、その過去の過ちを学ぶ際に “開発者は謝るべき” とか “核兵器は特別だ” とか “一般市民なのに” とか “あの場面で使用する必要はなかった” とか、あまり本質でない方向に入り込んでしまうのは良くないと思うのです。