福西のハンド事件についての見解 (後編 〜サッカーの特性〜)

2005/03/20

前編からの続きですが、全く別の観点からの話になります。 (実は今までここのコラムで書いたことの焼き直しになりますが。)

特にサッカーという競技の特徴といえると思うのですが、こういった不条理ともいえるミスジャッジが極めて多いスポーツです。そのミスジャッジにどう向き合うか。もしかしたらサッカーがある限り続く、永遠の課題なのかもしれません。
さて、個人的な意見では “ミスジャッジに対して過剰に目くじらを立てるべきではない” と考えています。あくまでも “過剰に” ですが。理由はみっつあります。

ひとつめの理由。
もちろん極力ミスジャッジをなくすような努力をすることは大切だし、否定する気はありません。しかしそれでもきっとミスジャッジはなくならないと思います。その大きな理由として、この欧州発のスポーツの背景文化自体がミスジャッジの発生を認めている節があることです。ミスジャッジに限りません、様々な “不条理” を競技のうちとして認めているように思われます。

これにはその対極であるアメリカのスポーツと比較してみることでわかります。アメリカのスポーツは欧州のスポーツとは異なった特徴を持っています。まず、審判の人数を増やしミスジャッジの発生を減らそうとしています。NFL (アメリカンフットボール) の審判の多さはご存知でしょう。NBA でも以前から審判 3人で実施。また NFL、NHL(ホッケー) では審判のジャッジに対してビデオで確認する権利を行使するルールがあるそうです。また、戦力均衡を保つ仕組みも特徴的です。ドラフト制度やサラリーキャップなどのルールによってチーム戦力の均衡を図ります。どのチームにも優勝のチャンスの目が生まれるきっかけを作っているのです。
これらが何を意味するかというと、アメリカではそのスポーツを管理下に置こうとする気持ちが強いということです。不公平の少ない管理下にある調和のとれたきれいな箱庭の中のショーをみんなで覗き込むイメージでしょうか。

その対極といえるのが欧州スポーツ、サッカーです。戦力の均衡などは考えもしません。お金のあるチームが世界中から優れた選手を集めても誰も文句をいいません。貧乏チームが苦労するのは当たり前。それから審判のミスジャッジ。そのミスジャッジで得をするチームも損をするチームもあるわけで不条理そのものです。それ以外のルールからして不条理な要素が含まれます。「退場者が出たらそのままひとり少ないままでやれ」 なわけですから。
僕はこれらが意味するのは、サッカーを人生と同等な物として扱っている、ということだと考えます。「なになに、サッカーで不条理な目にあった? そういうこともあるさ、人生だって同じだろ?」 「金持ちチームがどんどん補強する?貧乏チームはいつまでたっても不利? 人生だってそんなものだろ?」

僕は比較的このサッカーの思想に賛同しており、「ミスジャッジゼロを目指すべきだ」 とまでは思いません。ミスジャッジで得することもあれば、損をすることもある、それでいいじゃないか、と。そういう向き合い方もあるのではないかと思います。これが “過剰にミスジャッジに目くじらを立てるべきではない” と思う理由です。 (繰り返しますが、もちろん “過剰に” がポイントです。更に、それに加えて補足しておくと、ミスと不正は全く別物。ここではそちらには触れません。)


今度は別の観点から考えましょう。

ふたつめの理由。
明らかなミスジャッジが試合結果に影響したら確かにそれは不愉快です。特に負けた時の腹立たしさは上に書いたような理屈なんかは吹き飛ばしてしまうでしょう。けれどもそんな中であっても、一歩引いて考えたいです。ほんとにそのミスジャッジで試合が決まったのか? そのせいで負けたのか?
逆の例で考えてみてはどうでしょうか。ミスジャッジの決勝点で勝利したとします。じゃあ勝利は審判のおかげ? それは違うと断言できます。たとえその試合において我がチームの攻撃陣がふがいなかったとしても、余計な失点をしなかった守備陣が勝利に貢献したはず。勝利は彼らが頑張った結果でもあるはずです。
同様に相手FW が決定機を外してくれたおかげで完封勝利できたとします。勝利は相手FW のおかげ? それも違いますよね。我がチームの選手が頑張ったからです。

ミスジャッジは審判のミスです。ミスジャッジで負けた (といわれる) 試合において、自分達の選手のミスはなかったのでしょうか? FW は決定機を外さなかったか? DF や GK はゴール前で致命的なミスをしなかったか? 中盤の選手は不用意なミスでボールの支配率を下げるようなプレーをしなかったか? ミスジャッジがなかった試合だって同じことです。勝った試合は FW が得点したことだけが勝因ではないし、GK が致命的なミスをしたからといって敗因はそれが全てではありません。あくまでもチーム全体が出した結果です。それは出場している選手だけではなくフロントの力もあるかもしれないし、もしかしたらスタジアムの雰囲気を作り出すサポーターにも一因があるかもしれません。

サッカーという競技はかなり “運” の要素が含まれと言われます。いや勘違いをしてはいけません。本当は “運” でなくて “確率” なのです。交通事故のような不運の失点で負けることもあれば、ラッキーゴールで勝つこともあります。サッカーにおいてそれらワンプレー毎の結果を問うのは大して意味はありません。問うべきなのは、そのワンプレーが勝利への確率を高めるプレーだったかどうかなのです。結果的には得点できなかったけど良いチャレンジのシュートだったとか、結果的には失点につながらなかったけど軽率なプレーだったとか、そういった内容が問われるべきです。そして選手はひとつひとつのプレーで勝利の確率を高めるために最善のプレーをしています。そして長いシーズンの間に最も得点する確率の高いプレーをした選手が得点王となり、最も勝利の確率を高めたプレーをしたチームがチャンピオンとなるのです。
審判のジャッジの結果を問う事も、そのワンプレーに一喜一憂するのと同じ話です。ひとつのミスやひとつの素晴らしいプレーは、確かに勝負を左右する大きなポイントですが、やはり “全て” ではありません。従って “ミスジャッジに対して過剰に目くじらを立てるべきではない” と考えます。


みっつめの理由。
これは上記のふたつ目の理由に密接に関わる話です。上に書いたように試合はミスジャッジだけ決まるわけではありません。試合で負けたことをミスジャッジのせいにすることは選手の成長にとって大きな阻害要素です。ミスジャッジで負けたせいにすることで、自分のミスを忘れてしまうからです。もっと他に勝利へつながる確率を高めることができはずなのに。

その点で今回の話の元である横浜Fマリノスvsジュビロ磐田の試合において、横浜Fマリノスの中澤の試合後の発言は注目に値します。他の選手が福西のプレーや審判への批判コメントを残す中、彼は違いました。「あの時間にあの場所でセットプレーを与えてしまったことを反省するべき」
非の打ち所のないコメントです。彼はより高いところを目指しているし、実際成長するに違いありません。というよりも、そういうコメントが出てくることこそ、彼が練習生から日本代表まで成長し続けた理由だと考えるべきです。彼のような選手がチームの中心であることが横浜Fマリノスの最大の幸運です。日本代表でもキャプテンマークを巻くのが相応しい選手といえるでしょう。