福西のハンド事件についての見解 (前編 〜未必の故意〜)

2005/03/12

よりによってJリーグ開幕戦のもっとも注目される試合で起きた事件でした。横浜Fマリノス対ジュビロ磐田の試合は試合終盤まで 0-0 で均衡。しかし試合終了間際のセットプレーにおいて福西の手ではじかれたボールがゴールへ。これが決勝点となったのです。
さて、このプレーについての個人的な見解を述べたいと思います。

まずは事実関係から明確にしておきましょう。“疑惑のゴール” などと見出しになったプレーですが、実際は疑惑でもなんでもなく、当たり前にハンドの反則で間違いないでしょう。おそらくあれと全く同じシーンがもう一度あったとしたら、十中八九、いや “八” ということはなく、間違いなく “九” 回は必ずハンドの判定が出るのではないでしょうか。ただし、十回全てとは言い切れません。それは今回のように審判が見落とす可能性などがあるからです。

今回の判定で整理しておかなければならないのは問題とされる点がふたつあることです。一つは後の調査で審判が報告しているように、審判のハンドの場面の見落としだったということ。これに関してはここでは議論の対象としません。大きな結果を生んだとはいえ単純な技術ミスなので議論の余地はないのです。もっとよく見ろ、というだけの話。
今回議論となるべきはもうひとつの項目で、日本サッカー協会の審判委員会が 「判定は正しかった」 と発表したことです。
ではその議論に入る前の前提として、ルールの話を整理しておきましょう。

競技規則ではファールの規定の中でいわゆるハンドは 『ボールを意図的に手で扱う』 と定義されています。しかし、このハンドに関する解釈、実は昔と今で違います。以前は “故意でなくてもそのプレーで利益を得たらハンドの反則” という解釈をされていました。たとえばトラップミスをして跳ね上がったボールが手に当たってもハンドが取られていました。ところが (具体的にいつだったかは忘れましたが) 数年前に文字通り “故意でなければハンドはとらない” と解釈するという通達がされました。(国際的なものなのか国内だけだったのかはわかりません。) 以後、たとえばそのトラップミスのプレーではハンドは取られなくなりました。実際そういう場面をTVで見て、解釈変更を実感した記憶もあります。(最近はJのレベルが上がったのでトラップミスが手に当たるシーンを見ることはまずないですが。)

この解釈の変更ですが、どうもサッカー経験者でも知らない人が多いようで、特に昔サッカーをプレーしていた人はこの通達が反映されたジャッジは理解できずに混乱することが多いようです。しかし、混乱しているのは観客だけではないようにも見えます。正直、ワールドカップのような大舞台においても審判によってこの解釈の差を感じますから。もしかしたら国によっては微妙に解釈が違うままでやってるのかもしれません。
これらの混乱の原因は、FIFA (国際サッカー連盟) の方針として “審判の主観による部分を増やす方向” にあるでしょう。オフサイドのルール変更もそうですが、審判の主観の要素を増やすことで以前よりジャッジが難しくなっているように思います。しかし、わざわざそういう変更をしてきた意図は理解できないわけではありません。不条理な出来事を排除したいという考えがスタート地点なのです。例えばどう考えてもアンラッキーとしか思えないハンドで PK をとられる、待ち伏せしているわけでもないのにオフサイドをとられる、そういった不条理を審判の主観によって取り除こうというわけです。ところがその結果、審判の主観が引き起こす全く別の不条理に巻き込まれるのは本末転倒としかいいようがないわけです。とはいえ、これはどちらかを選択しろという話なのでしょう。そして、FIFA は “審判のレベルが上がりさえすれば、審判の主観に任せる方がより不条理が減る” という判断をした、ということです。(確かに理屈はその通り。ところが、審判のレベルが低い場合は逆に不条理が増えるという不幸を生んでいるわけです。)

さて、FIFA (国際サッカー連盟) の判断の是非はともかくとして、とにかく現状では “故意でなければハンドはとらない” という解釈となりました。従って試合後に出された横浜Fマリノスからの質問書に対しての日本サッカー協会の 「福西のプレーは故意とは認められないのでジャッジは正しい」 という表明は、理論的思考としては正しいです。筋が通っています。福西が故意にボールを手で扱おうとしなければ、手にあたったボールがゴールに転がり込んでもハンドではなくゴールです。
ただし、僕はこの 「福西のプレーは故意とは認められない」 に関して日本サッカー協会とは見解が異なります。僕はサッカーのジャッジにおいても、法律でいうところの “未必の故意” の考え方を導入するべきだと考えています。

“故意でなければハンドをとらない” という考え方は、まったくもって避けることのできないアクシデントに対してのみ適用すべきです。たとえば、ゴール前に向かって蹴りこまれようとするクロスに対して (とっさに避けることが不可能なくらいの) 至近距離でマークしていた DF の手に当たったとか、強烈なシュートに対して偶然ゴール前にいた味方選手の手にあたってゴールしたとか、ボールを奪い合っている時に弾かれたボールがたまたま手に当たったとか、そういうケースです。ただしこれらの絶対的な条件として、それらの手に当たった選手の体勢が不自然でなかった場合に限ります。
不自然な体勢とは、たとえばサイドからクロスを上げる選手をマークしている選手が両手を広げて構えているとき。これは明らかに何かに期待して両手を広げているわけです。すなわち、この両手を広げている状況だけで “未必の故意” に相当するというのが僕の考えです。

実際、福西が “手で直接ゴールを狙った” とは思いません。しかし “手を広げてキーパーの方向へ伸ばすことで何かが起きるのを期待した” のは間違いないと思います。ボールに触れて軌道が変わりキーパーがキャッチミスするとか、キーパーに体に接触してキャッチミスを促すとか、その辺りです。そういったズルさもサッカーのうちであることは違いないですから、それらのプレーを100%否定する気もないです。しかし、ジャッジとしての話は別です。ズルいプレーは審判との駆け引き。ズルいプレーをするなら見つかった時に相応の処罰を受ける覚悟をするべきです。

個人的な結論を言わせてもらうと、今回の福西のプレーに対するジャッジとしては、ハンドに対するファールと反スポーツ的行為のイエローカードが妥当だと思います。
ゴールに関係するハンドはレッドカード一発退場が規定されていますが、今回はたまたまゴールに関わっただけで、未必の故意の発生時点ではゴールと直結していたわけではない、と考えます。しかし “つい手が出た” という種類のファールに比べると悪質であると考えると、カードなしというのは甘すぎる、と判断します。
ジャッジは主観的なものですからこれが絶対と主張するつもりはありません。しかし、カードに関しては出ないという判定もアリかとは思いますがハンドという判定は絶対に近いレベルのプレーだと思います。


さて、引き続き後編では、サッカーとミスジャッジについて考えてみようと思います。


日本サッカー協会 競技規則


(追記 2005/09/27)

このコラムを読まれた方よりご意見をいただきました。要約するとこうなります。
『未必の故意の考え方は理解するが、今回のケース、福西のプレーは空中でバランスを崩した為に手を広げたからであってハンドではない。』
これは “見解の相違” ですね。“見解の相違” は仕方ありません。それ以上の議論しても合意は難しいでしょう。


折角の機会なので、“見解の相違” について少し書いておくことにします。
審判のジャッジなどを論じるにおいて “見解の相違” があるのは仕方ありません。他のコラムでも書いたことがありますが、例えばファールかファールでないの明確なラインは実は存在しません。それを決めるのは主審です。同じプレーを見てもファールをとる審判もいれば、とらない審判もいます。今回の福西の体勢を、意図があるととる人もいれば、偶然であると感じる人もいるということです。 (個人的にはあまりいないだろうと思っていたのですが。)

そういう考え方で整理すると、一連の騒動はもしかしたら 単純にこういう話なのかもしれません。
『福西のプレーを審判委員会は全く偶然のアクシデントだと考えた。しかし、抗議文を提出した横浜Fマリノス、疑問を表明した川淵キャプテン、批判したマスコミ、(そしてこのコラムを書いた僕) などはそうではないと考えた。』

おそらく、“見解の相違” が埋まることは永遠にないでしょう。しかしその “見解の相違” はなるべく埋める努力をしなければなりません。それを埋めていくにはどうすればいいでしょうか?
例えば、激しいプレーとファールの違いはどこか? それはプレーヤー、審判、観客が感じる “ある合意点” がそれになります。(だから国によってジャッジ基準が異なる。) ところが前述のようにしばしば “見解の相違” が発生してしまうために、審判と選手の信頼関係が失われてゲームが壊れてしまったり、サポーターが大暴れしてしまうわけです。それでもなるべく (もちろん理想としては世界レベルでの) “合意点” を見つけるべく努力をしなければなりません。その “合意点” とはなるべく多くの人が納得するところ。言うならばゆるやかな多数決です。多数決的に考えるとすると、あるプレーの判定に多くの人が疑問を持つならば、やはりそのプレーの判定は注意して再検討するべきものなのです。

ただ、今回の福西のプレーについては “ハンドに関する正しいルール理解の不徹底” の影響が大きすぎて、多数決的な合意点を見つけるのは難しいでしょうね。