「ネットの中にだって現実はある」 の話
2004/10/10
NHK の 「しゃべり場」 ネタ。
いつも見ているわけじゃないので、ほんとにたまたま目に付いた内容の時だけ取り上げてるだけですが。
本題の前にちょっと 「しゃべり場」 について。
この番組が多少その傾向が強いのではないかと思うのですが、素人参加の討論番組に共通していえるのは、あまり議論になってないということです。各自が単発に意見を言うことが中心になっていて、議論というよりは意見の発表会。その原因にひとつは明らかに、前提のレベル合わせなしで議論を始めてしまうからでしょう。
一般的な評論家同士の討論や、会社などにおける会議は、基本的にはその参加者の知識や意識のレベルが近い人の集まりです。評論家達は議論するテーマの背景などの基本的な知識を持っているのが当たり前です。会社員だったら自分達の会社にとっての利益という共通目標であったり現在の会社の状況など、共通理解を持っています。だからすぐに議論をはじめることができるわけです。
それに対して 「しゃべり場」 のような議論の場というのは、(彼らが共通認識として持っている若者独自の文化についてのテーマを除くと) あまりに前提条件が違っている人が多すぎます。本当に有意義な議論をしたいならば、議論の前にせめて用語の定義などから入るべきです。それらなしに始めてしまうものだから議論が噛み合わないと感じてしまいます。
もうひとつの議論にならない原因が、体験談主体で話が進むからではないかと思います。自分の主張の根拠を自分の体験に持ってくるわけです。これは普通の議論とは違います。普通の議論っていうものは客観的データや一般論があってから、“個人的には” という注釈をつけて同意したり反対したりするのが普通。この番組は体験談のオンパレードで、そりゃ人の体験をベースにした意見は自分と違っても否定のしようがありません。このあたりが結局子供の議論なのかなぁ?とも思いますが、そもそも 「しゃべり場」 に出ているような人は間違いなく自己顕示欲が強いわけですから、自分の体験を話したくて仕方ない、というのが根底にあるせいかもしれません。
まあ 「しゃべり場」 自体、確か結論不要を宣言していたはずですからこれでいいのでしょう。そもそも客観的なデータを出した議論は見た記憶ないですし、要は世の中に自分以外の考えの人がいることを知る、それがこの番組の目的なのかもしれません。
閑話休題。数日前放送していたテーマがこの 「ネットの中にだって現実はある」 でした。きっと同様に感じる人が多いのではないかと信じますが、これ、テーマからして 「なんじゃそりゃ」 ですよね。“ネットの中にだって現実” って何よそれ。ここでいう “現実” の定義は何? とつっこみたい心境ですが、番組の中身は 「私はネットを有効に活用する」、「私はネットは信用していない」 とそれぞれの根拠となる体験談を根拠に主張し合っているだけ。
せめてこのいい加減なテーマから話を絞って、ネットの有効な面、危険な面を整理したら有意義な議論かもと思いますが、まあそれは番組の目的ではないのでしょう。
さて、番組の話は終わりです。
これでこのコラムが終わりかというと、さすがにそんなことはありません。(ネットにコラムを掲載するような自己顕示欲の強い者がテーマとして) 取り上げたからには何か言いたいことがあるわけで、今回はそれを発表させてもらうことにします。
実はずいぶん前から考えていたネタです。それは、ネットを語るにあたって 「じゃあネット社会っていったいどんなもの?」 という問いがあるとしたら、どう回答するかという話。それに対してふたつの例え話を考えていました。
ひとつめ。ネットは街頭演説のようなもの。
ネットの掲示板などが、ネット以外のもので最も近いと考えられるのはこれでしょう。街頭演説といっても近頃の選挙で立候補者がやってるような演説ではなくて、(見たことはありませんが) 自由民権運動だの学生運動だのの時代、意見を言いたい人が台に上って演説する (していたと思われる) ようなイメージです。いや、むしろ単に人が往来する通りで大声で意見を発しているという方が近いかもしれません。
これらの特徴としては、それを聞いている人が不特定多数であること。そして、まるっきり聞き流して無視されることもあれば思わぬ反論が帰ってくることもあるでしょう。言いがかりとしか言いようがない非難や、もしかしたら暴力的な妨害活動があるかもしれません。
これを言い換えると、ネットでの発言などをきっかけとして各種トラブルなどが起きるのは仕方がないということです。上記のような状況でトラブルが起きる可能性は誰にだって分かりますよね。それと同じことです。加えて個人情報などを流すと危険が増すのも当然です。
ふたつめ。ネットの文化は外国の文化のようなもの。
国によって様々な文化があるように、ネットにも独特の特徴を持つ文化があります。それは匿名性であることからの発言のしやすさや、建前のない率直さであったり、あるいは無責任さであったり。ですから、今回取り上げた 「しゃべり場」 の出演者のように、ネットを好む者と、嫌う者がいても不思議ではないです。日本の社会より、他国の社会が好きで、実際に移住する人もいるわけじゃないですか。ネットの社会で引きこもったり、ネットを毛嫌いする人がいるのもこれと似たようなものです。
このふたつの例え話で主張したいのは、ネット社会といっても世の中の社会の一部でありちっとも特別なものではないということです。治安が悪い場所へ行けば危険に遭遇する可能性は高くなるし、人と遭遇する場所はどんなところであっても良い人に会うこともあれば悪い人に会うこともあります。それらと同じです。違うのはその可能性が高いか低いかというだけ。
具体的なツールの話をするなら、メールは手紙や電話と対等なもの。検索サイトは百科事典や図書館の図書カードと対等なもの。それぞれの固有の特徴があるだけのことです。自転車と電車とバスと飛行機がそれぞれ対等なのと同じです。
ですから、ネットを全否定するのは “飛行機に乗らない” と宣言するのと同じようなものです。それは全く個人の自由であるわけですが、その便利さを知っている人からはもったいないな、と思われる、それだけの話です。
(追記 2004/10/13)
これを書いた直後にちょっとショッキングな事件がありました。集団自殺です。ネットで知り合ったメンバーによる行為だといわれていますが、確かにネットがなければこういったの事件が起きることは考え難いです。ということは、やっぱりネットって良くない?
上で上げた他の例で考えてみましょう。例えば年間1万人近くの人が亡くなる自動車事故。これは自動車社会、そして車というツールがもたらす一面です。しかし交通事故で命を落とす人もいれば、救急車のおかげで命が助かった人もいるはずです。何事にも良い面や悪い面があります。悪い一面だけで何かを決め付けてはいけません。
それにこの交通事故についてですが、以前は年間は1万人以上が当たり前でした。しかし年々減り続けており現在は八千人程度になってきています。罰則の強化であったり、啓蒙活動などの成果もあるでしょう。そのツールを上手く運用することで状況は改善することができるはず。ネットだって全く同じことが言えるはずです。
過去に書いた 「しゃべり場」 ネタのコラム
『敬語について』