敬語について

2004/04/03

以前書いた 『 「結果が全て」 について 』 と同様に NHK の 「しゃべり場」 ネタです。

今回も深夜にやっていた再放送を途中だけ見たのですが 「敬語がどうのこうの〜」 という話をしていました。後で調べてみると、どうやら 「先生や先輩って本当にエライの?」 というテーマだったみたいです。 僕の取り上げたい内容と主題はちょっと違ったのですが、面白い話だと思ったので、ここで考察してみます。

まずいきなりですが、テーマの 「先生や先輩って本当にエライの?」 については最初にバッサリと結論出しちゃいましょう。
この言葉通りの問いかけ自体は無意味です。まず、エライとかエラクナイというのが主観的なものであるということ、そして、先生とか先輩という集合体を型にはめるなど、全く意味はありません。“先生や先輩の中にも、エライ人もいれば、エラクナイ人もいるし、人によっても評価が違う” というのが結論。

しかし、今回の議論で僕が面白いと思ったのは “敬語を使う” ことについてです。このテーマを出した中学生の女の子は “先生や先輩の中にも、エライ人もいれば、エラクナイ人もいるので、敬語を使う必要はない!”、“敬語を使わなくても尊敬は示せるし、敬語を使っても尊敬しているとは限らない” と主張していました。
その主張の背景には上下関係を作らない (=敬語不要) 方が世の中合理的だ、という意図があったようですが、このこと自体は番組中でも反論されていました。上下関係こそ社会において合理的なのだ、と。


ここでは上下関係の話はしません。敬語の話だけに絞りたいと思います。
彼女の主張で注目すべきは 「エラクナイ人には敬語を使う必要がない」 という点です。確かに、敬語を使っているから尊敬しているとは限らないという主張は正しいでしょう。しかし、それでも敬語を使う方がいいのではないかと僕は考えます。その場にいた多くの参加者も、僕と同じように考える人が少なくなかったようです。

ここでちょっと、敬語を使わないケースの話を整理しておきましょう。
全ての家庭がそうだとは言いませんが、一般的には家族相手には敬語は使わないでしょう。友達にだって使いません。これらの場合敬語を使わないことは親しみの表現であり、敬語を使わないから相手を軽んじているわけではない、というのは明らかです。この点に関しては確かに彼女の主張、「敬語だからといって尊敬を示すわけではない」 は正しいです。すなわち、もし敬語の目的が “尊敬を示す” だけだったとするならば、家族や友達相手に敬語を使わないように、上司や年配の方相手に敬語使う必然性はないと言えるでしょう。
ところが現実にはエライ人ばかりでなく、エラクナイかもしれない初めて会った人相手にも敬語を使うわけです。つまり、僕はそもそも敬語の目的は “尊敬を示す” ものではないのではないかと思うのです。

さて、ではエラクナイ人にも、敬語を使うのは何故か?
番組内で出ていたひとつの意見は “社会に出た時へ備えての練習” でした。これは一理あります。というか、学校というポジションにおいては間違いなく重要な理由のひとつでしょう。しかし、社会に出た後でもエラクナイかもしれない人相手に敬語を使う理由、すなわち、何故その練習が必要なのかを説明しないと本質的な理由とは言えません。
番組内で出ていたもうひとつの意見は “敬語も使えないようでは常識がないと思われて損だから” でした。これも現実的な理由であることは確かです。しかし、“敬語を使えないことが非常識である” ことの説明をしないと、やはり本質的な理由とは言えません。


さて、僕の考える “敬語を使う理由” は以下です。
敬語を使うという事は、“謙虚さの表明” ではないかと思うのです。「自分は傲慢ではありません」、「あなたのことを (あまり知らないけど) 尊敬し、良い点を見習おうと思っています」 という意思の表明です。そしてこの背景には、“謙虚” という日本文化の尊重があるのだと思うのです。多くの人が “敬語を使えないと非常識” と感じるのは、敬語という日本語の用法の習得自体の問題もありますが、無意識ながら背景の日本文化を軽んじている印象を感じているからではないかと思うのです。
外国語のことは詳しくないですが、おそらく “謙虚” であることより “自己アピール” に価値を見出す文化の言語は、日本語と比べると敬語的な用法が少ないのではないでしょうか?

実際、僕はこの日の 「
しゃべり場」 を見ていて、彼女と彼女に同意する人達には “謙虚さ” を感じませんでした。「自分の方がチャラチャラ遊んでいる年上の人より頑張ってるのに何故……」、「自分はあんな苦労こんな苦労してるのに何故……」。それらは事実かもしれません。ほんとに頑張っているのかもしれません。けれどもやっぱり、自分はエライ、大変だった、苦労した、という主張 (僕はこれを “大変だ自慢” と読んでますが…。) は “謙虚さ” から離れたものであることは確かでしょう。やはりそういった思いがベースにあるからこそ、彼女らは “敬語を使う必要がない” という考えに至るのではないかと思うのです。


日本語の乱れ、などについてはいろいろ話題となることが多いです。僕は言葉は文化の反映だと考えます。言葉が時代によって変わって行くことも重々承知していますが、文化の反映である言葉は、極力伝統を守るべきではないかと思います。文化財や伝統芸能を守るのと同じように……。


補足しておきますが、謙虚でなければいけないってことはないですね。ただしその場合、謙虚でない人は絶対的な実力を持っていないと他人には認められません。しかも、同じ絶対的な実力を持っているなら、謙虚な人の方が間違いなく他人に好まれます。

もう一点。見落とすと良くないだろうと思うのは、あくまでも敬語を使うことは “謙虚さの表明” であって実際に謙虚であるかどうかは別問題ってこと。うわべだけの謙虚っていうのもありそうですから。とはいえ、謙虚であるには、まず謙虚であることの表明から始めないと始まらないし……。


関連リンク

敬語大百科