以下の文章、たまたま東野圭吾の本を読んだことがきっかけであって、(読んでいただければ明白にわかりますけど)東野圭吾個人へ批判の意図は全くありません。小説などのフィクションに関する一般論のお話の例として出しただけです。また以下の文章内に作品 「分身」 のネタばれ要素、含まれています。
フィクションにおけるリアリティ
2002/12/15
東野圭吾の 「分身」 を読みました。現代科学の最先端を取り入れた内容の昨品なのですが、彼の オフィシャルサイトに本人によるこんな記述が……。
『〜 発表当時、「どうせ出来るわけのない架空の話」と生命工学のことを知りもしない連中にいわれたのは腹が立った。直後に、ある国で実験に成功し、今では誰もが可能な技術だと思っている。〜』
この記述に僕が引っかかるのは、どうやら 「“どうせ出来るわけのない架空の話” かどうか、という判断基準が存在する」 ということについて。つまり、SF や ファンタジーのような 「どうせ出来るわけのない架空の話」 を、(馬鹿にしているとまでは言いませんが、) 別枠の評価基準に置くという考え方がある、ということです。
それってどうだろう?と単純に疑問に思うわけです。
例えばこの 「分身」 という作品の本質は、「遺伝子工学が進んでこんなことができるんだぞ! 知ってるかい?」 ではないはず。(以下ネタばれになりますが、) クローンである自分と全く同じ遺伝子の人間へ反発や共感、自分は存在すべき人間なのかという問い、それらの心情描写の方が重要な要素であるはず。もちろん 「こんなことができるんだぞ!知ってるかい?」 っという要素が全くないとは言いませんが、それらは舞台としてひとつの素材であって、メインではないはず。
そしてこの素材は、既に随分前に SF の世界で使われているものです。例えば新井素子の作品に、大きな怪我をした主人公が、自分の体のパーツとして利用されるクローン達のことを想う心情描写が描かれていたものがあったはず。
もちろん、それらを先に書いたのが偉いという話をしているのではありません。仮に同じネタであっても、どれだけ素晴らしい心情描写を文章として表現したかどうかに価値があるはず。“どうせ出来るわけがない架空の話” という理由で価値が落ちるのはおかしいと思うのです。
例えばその話を新井素子が描いた時点では、東野圭吾が書いた時点に比べると “より” 架空な話だったかもしれません。しかし、実現していなかったということでは同じです。どこからが現実味がある話など、決められるわけがありません。極端な話をすると、100年前に全く科学的根拠なく想像でクローン人間の心情描写を作品にしていたとしても、それらの作品の価値は 「どれだけ素晴らしい心情描写をしたか」 で評価するべきであって、分け隔てなく対等に比較されるべきだと思うのです。
(むしろ、SF というジャンル内だけでの評価ならば、先にアイデアを思いついて作品化したという価値は認めるべきかもしれませんが。)
とはいえ、最初の主張の理由もわからないわけではありません。つまり 「“リアリティ” がない物語は、描かれる心情描写もリアリティが感じられなくなってしまう」 ということが言いたいのでしょう。 「そんな話あるわけない」 と感じてしまった時点で、もはやその小説に描かれる全て内容が、どんなに優れた描写でもリアリティに欠ける、と。
しかしこれは、ある意味では受けて側の問題であるかもしれません。つまり、「どうせ出来るわけない」 と思ってしまうのは、「出来る」 という想像が働かないせいでリアリティを感じる事ができないから、とも言えると思うのです。
例えば映画を見ると、最後になって 「これは実話に基づいて作られた」 ということが分かる映画があります。けれども、その映画が事実だったかどうかは、大筋としてはたいした問題ではないですよね。もちろん 「そうなのか、実話だったのか!」 と感心することはありますが、その物語が面白いかどうかの決定的な要素ではないはず。リアリティそのものである実話であろうと、つまらない映画はやっぱりつまらないですから。つまり我々は、(ほとんどの) 映画や小説は作り話であることを理解しており、それを受け入れた上で、その物語のリアリティを感じたりしているわけです。
こんな例で考えてみましょう。僕がとても気に入ってる鶴田謙二という漫画家がいるのですが、彼のある短編にこんなお語があります。
『火星旅行の物語。火星へ向かう方法は、宇宙空間のエーテルの流れを利用して帆船と同様の方法で宇宙旅行する。』
エーテルといえば、宇宙関連の科学の歴史に興味を持った人なら誰でも聞いたことがある名前でしょう。その存在がずっと議論し続けられ、最終的には存在が否定された物質です。(厳密には完全な否定と言い切っていいのか不明ですが……。)
とするとこのお話、“まったくあり得ない話” と言えるでしょう。普通、SF というジャンルは、未来などで実現するかもしれないという要素をお話に組み込むことでリアリティを感じさせようとするわけですが、このお話は、(もちろん故意に)ほとんどの読者が知っている嘘を物語のベースにもって来ています。では、それだとリアリティがないお話なのか、という議論なわけですが、僕はこう考えます。このような話の場合にはまず “ベースとなる嘘” を認めます。その上にちゃんと理論的にお話を組み立てるわけで、そこから上に積まれたお話が理論的で納得感が得られたら、それはリアリティがある、と思うのです。
この “ベースとなる嘘” は、SF やファンタジーでなくたってあります。一般の物語でありそうなのは、複雑な家庭環境だったり、驚くべき事件や偶然だったり、超人 (スターや英雄や天才) の存在だったり。それらを認めることができるのに、SF やファンタジーの “ベースとなる嘘” にを認めることができないのは、単にそういう方面での想像力が欠如しているからです。
SF やファンタジーを楽しむには 「出来もしないこと」 を 「出来るもの」 として感じる想像力がないといけないのです。
その鶴田謙二のある作品中に浜松が出てきます。くるのですが、どうも出身地が浜松っぽいです。
その浜松は地球温暖化で海中に沈んでいるので、浜松城が海辺にあったりするのですが、“御給(ごきゅう)“ というバス停跡、遠州浜三丁目の信号跡が水中にあったり。
そして作品中、浜松が水没する前の思い出話で出てくる 『満留華』 というそば屋。これ、きっと実在するはず。どなたか知ってます?