(追記 2005/04/15)
後になって当時これを書いた状況とは随分変わりました。最終的にはトルシエには攻撃の型もありました。一番の型は中盤でのリスクを避けてFW鈴木へめがけてロングボールを蹴る、で結局僕の嗜好でいうと嫌いであることは変わりませんでしたが。それでも、ジーコのほんとに選手任せにくらべると随分ましかも。
トルシエ・サッカーが嫌いな理由(わけ)
2000/04/09
トルシエのサッカーが嫌いです。
ただしこれは、トルシエのサッカーは駄目だ、というのとは違います。あくまでも僕の嗜好の話です。
よくあるトルシエ批判に「攻めの型がない」があります。基本的には、僕がトルシエのサッカーが嫌いな理由もそれなのですが、この言い方はちょっと語弊があると思うし、トルシエのやり方でも認める部分があります。いえ、むしろ必要と感じることすらあります。このあたり、簡単ではないのですが説明してみましょう。
サッカーの好きか嫌いかを語るには、様々な要素があります。「システム」や「戦術」の話。あるいは、より具体的な、例えば「フラット3」であったり「リベロ」であったり、あるいはカウンター主体のサッカーというような戦い方の話であったり。しかし今回はそれらについては考えません。逆に言うと、どういうシステムや戦術であろうと、僕はそれを支持する可能性があります。しかし、これから述べることは、どういうシステムや戦術であろうと、僕の嗜好としては最も重要な要素です。その要素を象徴している言葉が、この「攻撃の型」という言葉です。(実は攻撃だけではないのですが。)
さて、いわゆる「攻撃の型がない」とはどういうことでしょうか?
それは、行き当たりばったりのプレー、ということだと思います。
ちょっとここで、はっきりと僕が嫌いなプレーの具体例を挙げておきましょう。
例えば、ある選手がポストプレーをしようと引いてきた(後方に下がってきた)のに、パスはディフェンスラインの裏(前方)に出てしまった。あるいは、パスの先に複数の選手が重なること。または、ある選手がドリブルを始めて、そこにいる味方選手をそのまま追い越して行くシーン。特に追い越される選手はぼけっとプレーを見ているだけ。(こういうのは南米のチームなんかではよくありますが。)
言うならばこれらが行き当たりばったりのプレー。
僕がこれらのプレーが嫌いなのは、そのプレーによって無駄が生じているから。理由もなく同じ場所にふたりの選手がいることは無駄です。その選手が別のポジションをとっていたら、なんらかの役に立つはず。もちろん、同じようにドリブルをするケースでも、その選手が特別なドリブラーで、彼を前に出すのが戦術であるなら構いません。それは行き当たりばったりではありません。
そのような無駄があるプレー、同時にボールを取りに行ったり、「何をするんだろう?」と見てしまったりする原因は明らかです。選手間の意思統一がないからです。攻撃スタイルが、ショートパスを繋ぐ方法であろうと、ロングパスを放り込む方法であろうと、選手間の意思統一があるならば、そんなプレーは出てこないはず。それを称して「攻撃の型」という言い方があるのだと思います。
つまり、僕が嫌いなプレーは、行き当たりばったりのプレー。すなわち、選手間の意思統一が感じられないプレーです。
では、選手間の意思統一とは、どのように生まれるのでしょうか?
選手間の意思統一を考えるには「選手の自由な発想」と「約束の動き」といったプレーについて考える必要があります。
「約束の動き」、つまり選手同士で決まり事があり、それを選手が守ること。その場合は、必ず意思統一があるわけです。さらに「約束の動き」には実際には 2種類あります。
ひとつは「セオリー」。「セオリー」は、ワンツーやオーバーラップなど、サッカーやってる人なら誰でも知ってる基本的な攻撃パターン。これは監督が教えるような内容ではありません。監督がそれらを、多用や、禁止を指示することはあるかもしれませんが。
そしてもうひとつは「約束事」。「約束事」は、監督あるいは選手同士があらかじめ話し合って決める具体的な動きで、例えば「ツートップの FW のうち、必ずある選手がニアサイドで、もうひとりがファーサイドに入ろう」とか「この形になったら、前の選手はサイドに開いてスペースを作ろう」などです。セットプレーのフォーメーションなどはまさに「約束事」そのものです。
これら以外のプレーが、「選手間の自由な発想」によるプレーです。
「選手の自由な発想」だと意思統一がなく、「約束の動き」だと意思統一がある、まずはこれが基本だと考えて良いでしょう。ところが、話はこんなに単純でありません。
さて、この「選手の自由な発想」と「約束の動き」。どちらが優れているのでしょうか?
両者には一長一短があり、それはまったく相反する要素となります。
「選手の自由な発想」は、上で書いたように無駄が発生する可能性が高いです。さらに、1対1の能力で相手チームに劣っている場合、ドリブルを仕掛けようが、スルーパスを狙おうが、全て押え込まれてしまう可能性があります。そういう場合「約束の動き」を使うことで対抗できる可能性が出てきます。約束の動きなら、より早い動き出しが可能になり、能力で劣っていてもより早いプレーが可能になるからです。ところが、この「約束の動き」には大きな弱点があります。相手に研究され、手が読まれてしまっては、むしろ全てを封じ込まれ完全に攻め手を失ってしまうのです。攻め手を封じ込まれてしまったらどうするか?その場合は「選手の自由な発想」によって、それを打破するしかないのです。
これらから明らかなように「選手の自由な発想」と「約束の動き」をバランスよく持つことが理想です。 (もちろん、突出した技術を持つブラジル代表などは「選手の自由な発想」に偏っていても十分なのです。)
さて、話を戻して、もう少し考えなければいけないのが、ほんとに「選手の自由な発想」だけだと意思統一がなくなるのかということです。
答えは否。
南米や欧州のサッカー大国では、子供の頃から自国の伝統的なサッカーの形を見慣れていることで、自由な発想でありながらも他の選手との意思疎通が取れるのではないかと思います。より柔軟なセオリーをよく知っている、と言えるかもしれません。また、技術があるからこそという側面があるでしょう。この人にボールを預ければ、必ずパスが出る。この人なら必ずセンタリングしてくれる。そういった、単純なミスをすることがないという信頼関係があれば、自信を持って次のプレーを選択できます。これが意思統一しているように見えるに違いありません。
そしてこれこそが、Jリーグなどの外国人選抜チームが、初めてチームを組んでも意思疎通を欠くことなくプレーできる理由だと思います。
では、技術が低く、監督が何も約束事を作らないチームは意思統一ができないのでしょうか?
もうひとつだけ意思統一する方法があります。ずっと長い時間をかけてチームを組むことです。そうすると味方選手のプレーの特徴を覚えます。そうなれば、そのレベルなりの意思統一が出来上がるはずです。
このように、単純に意思統一と言っても、意識的に決めたルールに基づくものや、自然に出来上がった物などいろいろあるわけです。また、「攻撃の型」と言っても意図的に約束を決めずに「選手の自由な発想」に重点を置くことが、その監督にとっての「型」であるかもしれません。
さて、最初の話に戻りましょう。よくあるトルシエ批判にあるのが「攻めの形がない」です。これ、言わんとすることはわかりますが、正確な表現ではないと思います。
トルシエの攻めの型とは、そこに(トルシエが信じる)適材の選手を配置し、あとは基本的にはその「選手の自由な発想」で攻撃させる、というものだと思います。つまり、「攻めの型」がないのではなく、約束事が少ない方法を採用しているのではないかと思われます。
トルシエのサッカーは、守りに関しては約束事が多いし、おそらく攻めの起点周辺においては約束事があると思われます。しかし、おそらく相手ゴールに近づいてからは約束事はないのではないかと思います。これは僕の見るかぎりの印象です。とはいえ、セットプレーを除くと、攻撃に関しては DF をつけての練習をほとんどしていない、という報道からもそれが裏付けられます。
その結果出てきた最悪の結果が、昨年のコパ・アメリカの日本代表でした。まわりの選手が何を意図してプレーしているのか、何を要求しているのかわかりません。仕方なく「個人発想」によるプレーをします。ところがそこは本気の南米諸国。技術で劣る日本人では部分的な技術でしか成果を上げられず、得点までは程遠い結果となりました。
ところが一方で、時間をかけて一緒に試合をこなしていけば、約束がなくてもだんだんチームはまとまってきます。これが、ユース代表や五輪代表です。 きっとA代表だって、試合を重なるにしたがって内容が良くなるのは間違いありません。
また、トルシエのチームの特徴として、新しく代表に選ばれたばかりの選手が、最初はうまく馴染めず、全く普段の力を出せないケースがあるように感じられます。これも同じ理由で、その選手がチームに慣れていなくて、どうプレーしたらいいのかわからない状態だからだと思います。
ということで、まとめてみます。
僕はサッカーはある程度の約束による意思統一がある方が見ていても楽しいし、実際に強いと思うのです。特に、技術で劣るチームは約束事なしで強豪国と戦うのは無理だと確信しています。
ところが、トルシエによるサッカーは、(特にA代表の試合は、)攻撃時の選手間の意思統一があまり感じられません。もちろん、今の五輪代表などには、多少感じられる部分もあります。しかし、それはトルシエが作ったものではありません。
これが、僕がトルシエ・サッカーが嫌いな理由です。僕が見たいのは、基本的には約束事(パターン)があるサッカーです。その約束があってこそ、それ崩す意外性が面白いのだと思うのです。
しかし、最初に書いたように、トルシエのやり方が悪いとは言えない、と感じているのです。
ちょっと2年ほど前のことを思い出しましょう。主に左サイドに攻撃の型を持っていた加茂日本代表は、当初は好成績を続けていました。ところが、最も大切な本番のワールドカップ予選ではそれを研究され、攻撃の起点を潰されてしまい、また、カズという一人の絶対的だったストライカーの調子が落ちてしまったことで、チームは泥沼にはまってしまいました。
こうなった場合、その型を外して相手の研究の裏をかく、個人の発想や能力で打破する必要が出てくるのです。しかし、それは突然やれと言われてもおそらく出来ません。少なくとも当時の日本代表にはそんな力はありませんでした。(その前の日本代表ならラモスの自由なアイデアと技術でそれを補うことが出来たかもしれません。) ですから、これをどこかで実践して学ぶ必要があるのです。そして、加茂、岡田という日本人監督の組織的な攻撃に偏りすぎた感のある今現在、トルシエの個人寄りの攻撃をやることが必要なのではないかと思うのです。
個人的には、もう少し約束事を持つことでチームはより早く強くなるはずで、おそらく今の代表では通用しない、もしかしたらぼこぼこにやられてしまうであろう個人レベルが高いチームにも対抗できると信じています。つまり、同じ戦力ならば、トルシエとは違うやり方をした方が強くなる、と思っています。
しかし、それはより大きくなるかもしれない可能性のある個人の力を伸ばすことに対し、弊害になる危険性もあるのです。
今、トルシエを解任すべきかという話題は、僕が言い換えるとこういうことです。2002年までに、今、個人の力を伸ばすべきか、組織作りを始めるべきか?
2002年に結果を出すのが目的なら、そろそろ組織作りを始めるべきかもしれません。しかし、次の監督がほんとに有能かどうか分かりませんし、もしトルシエがこれからチームを固めたら、丁度 2002 年の頃に自然に熟成したチームになっているかもしれません。それらを判断するには、トルシエは今のところ確証となる物は何も見せてくれていません。チャンスが少なかったのも事実ですが。
強いて判断せよと言われるならば、現時点の思いとしては、Jリーグ誕生という日本サッカー界がその全力を注ぎ込んだ大事業の報酬として手に入れた、有望な若い選手達(言うまでもなく五輪代表のことです。)のことを考えると、今は個人の力を伸ばす方が大事かもしれない、そんな気になってきました。あくまでもトルシエのサッカーは嫌いなんだけど。
(追記 2000/04/10) とはいっても、トルシエが若手選手を育てたなんて思っていません。日本選手の能力が上がったのは、Jリーグが出来たことや、全国にあるトレセン制度など、サッカー協会をはじめとする、全国のサッカー指導者の努力が実った結果。トルシエは、その能力を生かして戦うという戦術を選択しただけ。具体的に言うと、これまで日本サッカーは個人の勝負を避けるという戦い方を目指していたのを、個人の勝負で勝つという世界標準の方向でやろうとしているわけです。個人的な意見では、世界に合わせる必要はないと思うし、日本のオリジナリティがある方が好きなんだけど、確かにそういう面も必要かと。
ちなみに、トルシエがそこまで考えてやってるとは思いません。偶然だと思います。
ということで、実は「ワールドカップがやってくる」に書いた、『2002年の日本代表の成績はどうでもいいや』というのは、これも理由となっている台詞だったのです。もしかしたら、2006年や、2010年に、それ以上の報酬を手に入れることができるかもしれないから。
逆に言うと、それ以後の日本は、小子化の影響で期待できないのではないかと思うのです。 日本サッカーが世界に羽ばたく可能性があるのは、これからの 10年が最初で最後のチャンス、ではないかと思ったりしているのですが……。