スポーツと芸術
2000/10/08
「サッカーは芸術だ」というフレーズをよく耳にします。おそらくこの言葉は、サッカーにおいて一部のスタープレーヤーが見せる、他の人が思いつかないような発想によるプレーや、信じられないようなスーパープレーを指して言われた言葉でしょう。同じようにバスケットボールのマイケル・ジョーダンらの空中でのプレーが芸術に例えられることも良くあります。その他の種目においても、例えば鍛えられた肉体美の純粋な美しさなどは、芸術と結び付けられることがあるでしょう。
しかし、そういった見た目の華やかではない部分で、スポーツと芸術の共通点を見つけました。それは小さな積み重ねという話。
小さな積み重ねとは具体的にはこんなものです。
たとえばサッカーだったら、チームの強さとは、選手の個人能力や、システム、対戦相手との相性など、複雑な要素が絡み合っています。その中のひとつである選手の個人能力をとってみても、複雑な要素で一杯です。単純なパスやシュートの技術や、スピードや体力といった身体能力、それだけでなく、トラップを落とす位置、ボールを受ける体の向き、危機察知能力、そういった細かな積み重ねの結果です。
ひとつの基本プレーの積み重ねといえば、僕はシドニー五輪女子ソフトボール決勝戦の最後のシーンを思い出します。雨の中、レフトが落球してサヨナラ負けしたシーンです。
あのシーンのレフトの足の運びは基本的ミスといえるものでした。両足を揃えてのバックは転倒の危険があるため絶対にやってはいけないというのは、中学生でも知っている基本。後方のボールは必ず半身になって追わなければいけません。そのための足の運び (ステップ) も練習しているはず。しかし、雨や、打球の速さ、五輪という雰囲気、いろんな要因が理由でしょうが、とにかく落下地点を予測しそこない、両足が揃った状態でのバックをしてしまいました。その結果不安定な体勢となりサヨナラエラー。
もちろん、あれが敗因という話をしているのではありません。あのシーンがたまたまサヨナラエラーになっただけで、実はそれまでのプレーひとつひとつが積み重なって試合結果を生み出しているのです。しかしその一方で、チームの力とは個人のひとつひとつのプレーの積み重ねであり、あの場面であの基本に反するようなミスが出ないチームが、より強いチームであるというのも確かなのです。
では、芸術はどうなのか。
例えば音楽。今時の音楽製作の方法をご存知でしょうか?ひとつひとつの音を別々に録音し、それぞれの音を調整し、最後にそれらをミックスします。このひとつひとつの音の調整は、非常に微妙なものです。プロレベルのミュージシャンは一般の人には聞こえない音の違いを聞き分けられます。そのひとつひとつの調整は、違いがわからないような微妙なものなのですが、その積み重ねで、全部の音が同時に鳴った時に違いが出るのです。アマチュア・バンドの音がプロの音に追いつけないのは、演奏技術よりもこの辺りの違いの方が大きいはずです。
映画なんかもそうでしょう。リアリティを出すために、画面には写らないかもしれない部分のセットまで力をいれて作ること。そういった積み重ねがリアリティを出します。そして、ひとつのカットに拘り、ひとつの台詞に拘り、設定に拘り、衣装に拘り、見る人がその細かい部分を意識しなかったとしても、そういった結果が最終的な作品としての印象にもつながっていくのです。
ダンスや、舞台劇なんかでも同じでしょう。
この辺りについては、芸術とスポーツの中間とも言えるかもしれない、シンクロナイズド・スイミングの例がわかりやすいかもしれません。シドニー五輪の日本代表のエピソードとしてご存知の方が多いと思います。手足の短い日本人が、映える演技をする為にどうするか?単純に手を上げるのではなく、まずは陸の上で肩から動かして手を上げることをトレーニングした、と。この、一見しただけでは気が付かないかもしれない小さな違いが積み重なったとき、今までとは違う大きな差が出るのです。
そもそも、もともとオリンピックには、芸術競技という種目があったそうです。このことからも、芸術とスポーツは、普段我々が考えているより近いもので、実は、単に結果の順位が明確にわかるのがスポーツで、はっきりとはわからないのが芸術、というだけなのではないでしょうか。
ところで本論とはずれるのですが、ソフトボールの話で書いた後方へのボールを追う時の話について。
両足揃えてのバックに転倒の危険があるのは、同じ芝の上で行うサッカーでも同じはずです。しかし、前からずーっと気になっていたのですが、ジュビロ磐田の山西選手がよく両足揃えて後退するんですよね。サッカーではあれは基本に反していると問題にならないんでしょうか?あれを見る限り、まだジュビロ磐田が一流とはいえないなぁと思うのですが…。