人間は中身か

2000/01/23

最初は特になんとも思っていなかったのに、ある時から気になるようになった TV CM があります。森永乳業アロエヨーグルトの CM 。BGM がドリカム(「なんて恋したんだろ」)で、お姉さんが洋服をとっかえひっかえしてはしゃいでると、妹から 「お姉ちゃん、人間中身よ」 と言われるやつ。ま、ヨーグルトの CM ですから、体にいいもの食べて中からきれいになりましょう、というのとひっかけてあるんでしょうけど。
でも、そのお姉ちゃんの一人ファッションショー、(確かにバカっぽいけど)可愛いじゃん、と思うのです。(個人的には緑のワンピースの時の仕種とか。) 少なくとも、その後で姉妹で並んでヨーグルト食べてる時なんかよりもずっと。で、その可愛さは、そんなに簡単に否定してもいいものか?と。

この“中身”でない部分として否定されたのは、まあ普通に考えて“外見”ってことでしょうね。もちろん、一般論として言い古されている言葉ですから、その主旨は理解できます。しかし、この“外見”そんなに簡単に否定していいのでしょうか?
その笑顔やポーズは実は地道な訓練の結果かもしれないし、メイクやファッションは実は日々の研究の成果かもしれません。スタイルを維持する努力とか、姿勢の矯正なんかはわかりやすい例かも。
だとしたら、それら努力の結果かもしれないものを安直に否定するのはちょっとおかしいです。

その逆に“中身”の要素ついて。例えば「優しい」とか「意思が強い」とか「好奇心旺盛」などの性格って、本人が努力して獲得したものと言えるでしょうか? どちらかいえば、遺伝だったり、あるいは子供の頃の教育に依る部分の方が大きいのではないかと思うのです。


さて、では他に「人間○○よ」にふさわしい言葉があるとしたらそれは何でしょう?
僕は「人間、アウトプットだよ」ではないかと思います。

「優しい」性格は生まれつきかもしれませんが「あの人は親切だ」というのは、きっと親切にしたシーンに遭遇したからこそ出てきた評価に違いありません。心の中でどんなに「優しい気持ち」を持っていても、その程度は外からは知ることはできません。アウトプットがあってこそ、それを判断することができます。
例えば、芸術やスポーツという分野での才能は、まさにアウトプットから判断されるものですね。あるいは、努力家と認められるのは、学歴や資格や専門家などのアウトプットがあってこそでしょう。
「人間中身よ」 にしたって、アウトプットを見ての判断です。「好奇心旺盛」 という“中身”からは、多様な趣味や知識というアウトプットが出てくるでしょうし、「強い意志」 という“中身” があったとしたら、それはなんらかのアウトプットがあったからこそ、それが証明されたに違いありません。

結局、外からの評価は、外から見える部分でしか判断できません。それは、生まれつきの要素であろうと、努力で獲得した要素であろうとに関わらずです。生まれつきの性格という“中身”がそのままアウトプットされていても、努力の成果がアウトプットされていても、それは、外から見えるという点において、質的な差はありません。それは“外見”についても全く同じです。結局、どこまでが生まれつきで、どこからが努力であるのかは、区別できないのです。だから、それらは最初から区別すべきでないのです。結論としては”外見”もひとつの要素として評価に加えるべきです。

そうだからこそ、一方で、人間を評価する重要なポイントとして、「ひとつのアウトプットだけでは評価してはいけない」ということですね。生まれつきか、努力の結果かが判別できないひとつのアウトプットだけで、人の評価はできないのです。また、生まれつき不得意分野があるのが当然で、わざわざそこを見る必要はないです。全分野が満点であるべき、という思想は間違い。
このことから、判定方法は、減点方式でなく、加点方式で見なければいけない、ということになりますね。
それにしては、僕たちは学校教育で減点方式ばかり学びすぎているかもしれません。