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走れ!バカップル列車
第80号 不思議の国の鶴見線



   四

 浅野で海芝浦支線に乗り換える。正真正銘の海芝浦支線との分岐駅で、駅の鶴見側で複線が平面交差で分岐している。
 構内踏切を渡って駅舎と海芝浦支線下りホームのある側へと移る。
 海芝浦支線も半径一六○メートルのカーブで分岐しているので、直線とカーブに挟まれたホームは三角形をしていて広い。同じ一六○メートルでも、かつての武蔵白石の大川支線のホームには停車できず、浅野には停まれるのがなんとも不思議だが、表記上は同じ「半径一六○メートル」でも、カーブの長さやホームの状態などが微妙に違っていたのだろう。
 次に海芝浦へ向かう電車は18時30分発で、二十四分もの空き時間がある。海芝浦からの鶴見行きが17分に、浜川崎行きが24分に出て行った。乗らない電車はたくさん来る。みつこさんはこちらのホームだけベンチがないので不満顔だ。しかも蚊に刺されまくっている。
 駅の北側にはテニスコートがあって、球を打つ音が規則的に聞こえてくる。その向こうに橙色に染まった夕陽が沈んでゆく。
 ようやく海芝浦行きの電車が来た。車両とホームとの隙間が三、四○センチほども開いている。うっかりしたらスポッと線路に落ちてしまいそうだ。
 電車は定刻より一分ほど遅れて発車。急カーブを右に曲がるとすぐ左側に旭運河が近づいてくる。曲がりきったところは埋立地の東の縁で、右側の広い敷地にはJFEエンジニアリングの工場、東芝の工場が続く。
 新芝浦からは単線になり、土地はすべて東芝の敷地になり公道もない。工場へ続く線路の跡があるが使われてはいないようだ。急カーブでさらに九○度右に曲がる。
 広々とした京浜運河沿いに細いホームが一本現れて、ここが終点海芝浦である。一分遅れのまま18時35分に着いた。
「わあ、なにここー?」
 ホームに降り立つなり、みつこさんは目を大きく見開いている。ホームの数メートル下は運河で、いまにも波飛沫が飛んで来そうな距離感である。海に近い駅としても有名で、家族連れや若者グループ、カップルなどいま降りてきた乗客のほとんど全員が「観光客」だ。
 ホームを降りると右が改札口になっているが、東芝の敷地に直結しているので社員でないと駅から出られない。まっすぐ進むと見学客のためにつくられた海芝公園というのがあって、いま来た乗客たちの多くはこの公園に散っていった。
 駅から出られず、ここから浅野、鶴見方面へ向かう公道もないから、この駅に行き来するには鶴見線に乗るしかない。ある意味、秘境の駅である。公園の入口には「必ず、帰りの『電車の時刻』確認して下さい 鶴見線、本数少ないです」という張り紙がある。終電に乗り遅れたら翌朝まで帰れない。
「こんな駅もあるんだねえ」
 私はみつこさんをいろんな駅に連れ回しているが、みつこさんのこの驚きぶりは全国でも五本の指に入るだろう。
 わずかだけあるホーム屋根の海側に板塀があるのだが、その下の端とホームとが十センチほど開いていて、波が揺れているのが見える。みつこさんがわざわざその隙間をのぞき込んでこわいと言っている。
 板塀がないところは、細い鉄柵があるだけで、眺めはとても良い。京浜運河の向かいは扇島という埋立地で工場や発電所などが並んでいる。首都高速の扇島と大黒ふ頭を結ぶのは鶴見つばさ橋という大きな斜張橋だ。さらにその右の奥のほうにはベイブリッジも見える。ちょうど日没の時刻で、空の色が時々刻々と変化してゆく。
「あ、お月さんだ」
 みつこさんが指さす。明日満月というまん丸なお月さんが東の空に顔を出している。空気が霞んでいるからか、地平線に近いのに白っぽい。

 折り返しの鶴見行き電車は定刻18時50分に発車した。「観光客」たちは一本見送るようで、帰りの電車は来たときよりも空いている。
 浅野で本線と合流、次の弁天橋には北側に電車の車庫がある。
 ゆるやかに右にカーブして産業道路と首都高速の下をくぐると、景色は工場地帯から住宅地へと一変する。鶴見小野を出ると坂道を登り高架線になる。全線がほぼ平坦な鶴見線には珍しい勾配区間だ。鶴見川の鉄橋を渡ると国道駅である。鶴見まであと一駅だがここで途中下車。19時ちょうどの到着。川向こうのマンションの上にオレンジ色の月が浮かんでいる。
 国道もまた興味深い駅である。アーチを描くホーム屋根の鉄骨は、電車の架線も支えている。階段を降りると高架下は古い商店街だ。中央に通路があって、左右に店舗が並ぶ。鶴見臨港鉄道として開業した当初からの建物だ。通路も建物も線路と同じように緩やかなカーブを描く。通路の天井は高く、半円形のアーチになっていて大正レトロといった具合だ。
 不動産屋、定食屋、釣り船屋などの看板が並び、ところどころ電気も点いてるようだが、営業している気配はない。唯一「国道下」という居酒屋が元気に赤提灯を灯している。通路に出したテーブルにおっちゃんたちが座って大声をあげて飲んでいる。
 通路を北西側に抜けたところが国道15号線。駅名の由来となった道だ。通路の東南側は細い生活道路だがじつは旧東海道である。生麦事件の現場が近いらしい。
 次の次の19時25分発に乗って鶴見へ向かう。
 線路はさらに右に曲がって、京浜急行、東海道線、京浜東北線、横須賀線など一気に越える。終着鶴見には19時27分に着いた。15時13分発の尻手から鶴見まで四時間十四分もかかったが、乗車距離はわずか一六・八キロ、乗車時間は正味三十三分だった。
 鶴見駅で京浜東北線に乗換えるところに改札口がある。一瞬、鶴見臨海鉄道の名残かと思ったが、ともにJRとなった現代もわざわざ自動改札機に取り替えてまで残されている。無人駅ばかりだから不正乗車を防ぐためだろうが、見かたを変えれば不思議の国への入場ゲートにも見えてくる。
 本来は通勤路線なのである。だからこそ列車が一日三本しか来ない駅とか駅から出られない駅なんてものが存在し得るのだろう。でもそれが非日常的に乗る者には別世界のものに映る。海に近い駅、猫のいる駅、大正レトロの駅、ロープ式遮断機、構内踏切、隣の駅への案内図……。
「観光客」にとってつまり鶴見線はテーマパークなのであり、電車は園内をめぐるアトラクションだったのである。



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