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走れ!バカップル列車
第80号 不思議の国の鶴見線



   一

 みつこさんと喧嘩になった。まぁ、ふつうの言い争いではある。
 昨年の春先からみつこさんの肩が痛み出して、一年あまりが経った。最初、右肩が痛んだのだが、後に左肩まで痛み出し、最近では左肩のほうがひどい状況である。
 みつこさんは毎日「痛い痛い」というが、ここ数か月はこれといった治療はしていない。はじめのころはドクターショッピングと言われそうなほど整復院や整形外科をあちこち回った。あそこの病院が良いと聞けば、どこにでも行った。いくぶん楽になることもあった。それでも何回か通って治る気配がないとなると、みつこさんは医者に通うのをやめてしまう。それでいて、ことあるごとに「痛い痛い」と訴える。
 忘れもしない二○一七年五月三日、晩ごはんを食べに行ったとんかつ屋で口論になった。
「痛い痛いと言ってるだけじゃ治らない。諦めず良くなるまでキチンと医者に通わなきゃダメだ」
 私がいうと、みつこさんは涙を浮かべて声を荒らげた。
「どこのお医者さんも治してくれない。時間だって限界があるし、治らない医者にどうして通わなきゃいけないの!」店内が一瞬静かになった。
 気持ちはよくわかる。どこへ行っても診断は同じ「五十肩」だ。原因はわからない。いつ治るかもわからない。そうした見立ても異口同音。それでしばらく様子を見ましょうと言われたところで、明るい気持ちになれないのがふつうだろう。むしろその先にあるのは落胆しかない。それでもまだ通い続けろという方が酷かもしれない。
 私の考え方は違った。義母の介護に追われ、通うことをやめるうちに、自分の肩をちゃんと治そうというみつこさんの意志までもが折れるように思えてしまうからだ。たいせつなのは本人の治す意志。それを途切れさせないためにも医者に足を運ぶことをやめてはいけない。
 店員さんがそれとなく私たちを見守る中、私はそういって通院を続けるべきだと訴えた。私も必死だ。
 みつこさんはわかってくれた。連休が明けたら通院を再開すると約束してくれた。最後は二人笑顔でとんかつ屋を出た。
 みつこさんはいちばん最初に診てもらった整復院に再び通いはじめた。これからは週に一度のペースで通い続けるという。
 私も覚悟を決めた。いままで以上にみつこさんの治療と家事に協力することにした。みつこさんを泊まりがけの旅に連れ出すのも、肩が治るまではやめようと思う。
 バカップル列車が運休になる訳ではない。バカップル列車の第1号と第3号は久留里線だし、第2号は箱根登山電車だ。そもそもは近場の日帰り旅からはじまったのである。しばらくの間、旅先は日帰り圏で決めるのがいい。
 ではどこを走るか。改めて考えたとき、最初に思いついたのは鶴見線であった。
 鉄道紀行作家の宮脇俊三さんも、東京近郊で手軽に旅の気分を味わいたかったら鶴見線が良いといくつかの紀行文で書いている。新たな気分でバカップル列車を運転するにはちょうどいい。

 二○一七年七月八日、みつこさんと私は中央総武線、京浜東北線を乗り継ぎ、川崎から南武線に一駅乗って15時01分に尻手に着いた。
 ここ尻手が今回のバカップル列車の出発駅である。二本の支線が枝分かれになっていて、しかも日中の運転本数が極端に少ない鶴見線に少しでも効率的に乗るには、ここから南武線の支線(尻手〜浜川崎間四・一キロ)に乗って浜川崎から鶴見線に乗るのが良いのである。
 南武支線の次の浜川崎行きは向かいの三番線から15時13分の発車。それほど広くないホームは部活帰りの中高生たちであふれていた。
 しばらく待つと、浜川崎方向から二両編成の電車がトコトコやってきた。前方を見たいので、浜川崎寄りの先頭車に乗り込む。賑やかな中高生のほとんどは後ろの車両に乗った。こちらの車両は中高生より中高年の方が多いようだ。まだ時間があるのでいったん席に座る。
 発車まであと一、二分というところで、パパが幼い男の子とベビーカーに乗せた女の子を連れて電車に乗ってきた。運転席すぐ後ろのスペースを陣取る。男の子はパパに抱っこしてもらい前方の窓を見て満足げである。
「場所、取られちゃったね」みつこさんが私を気遣う。まぁ、しかたがない。イクメンパパが一人で二人の子供を連れて歩くというだけでも頭が下がる。お兄ちゃんは窓の外に飽きると妹のベビーカーにちゃっかり座ってしまった。
 浜川崎行き電車が発車した。単線の高架線で国道1号線を越え、住宅街の中を行く。尻手から浜川崎までの線路は南東方向にほぼまっすぐだ。左にごみ処理場の巨大な煙突が見えて、京浜東北線と東海道線の線路を越える。
 右側から複線の貨物線が近づいてくる。こちらは単線なので貨物線の方が立派に見える。それもそのはず、この線路は東海道貨物線といって東海道を行き来する貨物の大動脈なのである。
 貨物線がぴったり寄り添ったところで八丁畷(はっちょうなわて)着。下を京浜急行が通る乗換駅である。
 国道15号線を越えると下り勾配になり高架線から地上に降りる。左右には住宅街が続く。
 単線と複線とで併走していた南武支線と東海道貨物線は川崎新町駅構内で複雑なポイントを経て合流する。この複線の線路は浜川崎の手前まで続く。八丁畷〜浜川崎間は路線名こそ南武支線だが、実態は東海道貨物線にローカル電車が間借りしているような格好である。
 次は小田栄に停車。周辺は新興住宅街で、昨年(二○一六年)三月に開業したばかりの出来たてほやほやの駅だ。パパと小さな兄妹の三人連れが降りてゆく。
「いまの親子……」隣でみつこさんがくすくす笑う。「お兄ちゃんがベビーカー座っちゃってたでしょ。女の子、しかたないから立ってて」
「電車揺れると、よろよろしてたよな……」
「転んじゃったりしてるのパパが起こしてあげたりして」
「危ないよね」
「お兄ちゃん、妹になんて言ったと思う?」
「?」
「『大丈夫?』だって。ベビーカーから声かけてんの」
「えーっ」
「あたしは心の中で叫んだよ。お前が立てよ!って」
 電車は小田栄を出ると渡り線を通って貨物線の右側の側線に出た。貨物線の隅っこにちょこんとつくられたホームが見えてきて、線路の先は行き止まりになっている。ゆっくりゆっくり進みながら停車。15時20分着。



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