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走れ!バカップル列車
第70号 上野東京ライン



   二

 札沼線は札幌の隣の桑園(そうえん)から新十津川まで七六・五キロの路線である。起点の桑園で函館本線と接続するだけの盲腸線だ。
 昭和二(一九二七)年に両端の石狩沼田、桑園から建設がはじまり、桑園〜石狩当別間は札沼南(さっしょうなん)線、石狩沼田〜浦臼間は札沼北(さっしょうほく)線と呼ばれた。昭和十(一九三五)年、石狩当別〜浦臼間がつながって桑園〜石狩沼田間が全通し、路線名が札沼線となった。札幌と石狩沼田から一文字ずつとった名称だ。戦時中は鉄材供出のため一部線路が撤去され、戦後再び再建されたものの沼田炭坑の閉山で利用客が減り、昭和四七(一九七二)年に新十津川〜石狩沼田間が廃止されてしまう。
 しかも桑園〜新十津川間の線路は函館本線の札幌〜滝川間とほぼ並行していて、石狩川の左岸を函館本線が走り、右岸を札沼線が走るという違いでしかない。函館本線が札幌から旭川までの主なルートとなる一方で、札沼線は鄙びたローカル線としての運命をたどるしかなかった。
 転機は昭和四九(一九七四)年、沿線に東日本学園大学が設置されたことだろう。昭和五六(一九八一)年に大学前仮乗降場が開業し、翌年駅に昇格している。大学名が北海道医療大学と変更されたので駅名も北海道医療大学に改称された。さらに一九八○年代以降、札幌の都市圏拡大に伴い、沿線にあいの里などの住宅地が相次いで造成され、北海道医療大学までの区間が通勤通学路線へと変貌したのである。
「学園都市線」という愛称名がつけられたのは一九九一(平成三)年のことだ。そもそも石狩沼田までたどりつかない路線を札沼線と呼ぶのはもはや実態に合わないので、現地の旅客案内では「学園都市線」ばかりが使われている。正式路線名であるはずの札沼線は時刻表などに書かれているくらいで、地元の人に札沼線と言っても通じないかもしれない。
 今回の北海道行きの最初の稿であるバカップル列車71号の冒頭に、私はJR北海道が公表した輸送密度(単位:人/キロ/日)を示した。このうち札沼線に関する部分を再掲すると次のようになる。
「ご利用が多い区間」
 五位 札沼線・桑園〜北海道医療大学 一六、八七三
「ご利用が少ない区間」
 一位 札沼線・北海道医療大学〜新十津川   八一
 ベストファイブとワーストワンはどちらも札沼線で、輸送密度にはおよそ二百倍もの差がある。ワーストの方は廃止が決定した留萌本線よりも乗客が少ないのだ。大都市通勤路線と地方ローカル線。ここまで極端に違う区間が同じ路線の中で隣り合っている例はほかにあまりないだろう。
 この違いは運転系統に如実に表れている。運転系統上の始発駅である札幌から新十津川まで全区間を通して走る列車は設定されていない。札幌発着の列車は途中のあいの里公園、石狩当別、北海道医療大学のいずれかで折返し、上下合わせて百十本の列車がある。これに対し北海道医療大学〜石狩月形間は上下十五本(七往復半)、石狩月形〜浦臼間は上下十三本(六往復半)、浦臼〜新十津川に至っては上下六本(三往復)しか列車が走らない。桑園〜北海道医療大学間は一部が複線化、高架化されている電化区間で電車が最大六両で行き来している。北海道医療大学〜新十津川間は単線非電化区間でディーゼルカー一両だけのワンマン列車だ。

 昨夜は途中で打ち切りになるかと覚悟したバカップル列車だが、義母の容態も急を要するほどではなく、このまま運転続行となった。
 二○一五年十月十二日、みつこさんと私は朝八時前に宿を出発した。
 旭川駅へ向かうタクシーの中で運転手さんが、最近はあったかくなったと半ば嘆くように言う。
「むかしはマイナス二○度どころか三○度の日もあった。三○度はさすがに寒いよォ。朝起きると鼻、口あたりのふとんがパリパリに凍ってた。息の水分が凍るから。それがいまは二○度の日なんて年に一、二回ぐらいだ」
 一度はダイヤモンドダストを見てみたいと思っているのだが、見られる機会も減ってしまったということか。
「明日は初雪が降るらしいね。根雪にはならないだろうけど」
 旭川を8時10分に発車する函館本線普通列車岩見沢行きに乗る。電車は地元の乗客を運びながら軽快に走り、8時53分に滝川に着いた。
 札沼線の終点新十津川駅までは再びタクシーに乗る。滝川から新十津川までは直線距離にして二キロほどなのだ。二つの駅の間には石狩川が流れていて橋の位置の関係でまっすぐには行けないが、広大な北海道の中で二キロは至近距離といってよい。
 タクシーに乗っているうちに雨が降ってきた。
「またかよォ」
 昨日の留萌線といい、今日の札沼線といい、列車に乗り降りするタイミングに限って雨が降ってくる。しかもかなり強い。タクシーは水しぶきをあげながら空知大橋を渡る。十分ほどで新十津川駅に着いた。
 雨ざらしのホームで列車を待つことになったらどうしようかと思ったが、思いの外立派な木造駅舎があり、みつこさんと私はクルマを降りるなり駅舎に駆け込んだ。
 駅舎内には右の窓側に簡単なベンチがあって、左の壁には地元の人が書いた新十津川の歴史の話、新聞の切り抜きなどが貼ってある。その手前にテーブルがあってなぜか木彫りの熊やアイヌ伝統の人形がごろごろ並べられていた。
 駅には私たちと同じく札沼線に乗りに来たと思われる鉄道おたくのお兄さんが四、五人いて、そのうちの一人はずっと独り言をしゃべっている。
 突然、どこかのおばちゃんが「おはようございまーす」と元気よく入ってきて、列車を待つ乗客たちになにやら絵はがきを配りはじめた。
「きょうは雨で子供たちが来れないんです。ごめんなさーい」
 と言いながら、みつこさんや私にもはがきを配ってくれる。
「子供たち?」私がいうと、
「保育所の子供たちが毎朝電車を見送ってくれるんだよ」みつこさんが答えてくれる。
「みちゃん」
「なに」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「だってあそこの新聞に書いてあるもん」
「へ?」
 さっきはざっとしか見ていなかった。近づいて見てみると、たしかにその切り抜きには新十津川駅近くの病院に保育所が併設されていて、二○一一年の夏以来、朝一本目の列車の発着を園児たちが見送ってくれるという記事が書いてあった。朝一本目とはまさしく私たちがこれから乗ろうとする列車である。
「きょうは雨で子供たちが来れないから、代わりに先生が来てくれたんだね」
 どこかのおばちゃんと思っていた人はその保育所の先生だったのだ。はがきは園児たちが描いた塗り絵で、駅舎の前で子供二人が手を振っている。



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