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走れ!バカップル列車
第70号 上野東京ライン



   二

「列車線」の建設といっても、工事の難易度は一様ではない。東北新幹線東京駅延長後も東京駅から神田方向の数百メートルは東海道線列車の留置線・引上線としてかつての「回送線」が残されていた。同じく上野からも秋葉原まで貨物駅や貨物線、「回送線」の名残があって、東北線・高崎線・常磐線電車の留置線として使われていた。これらは高速で列車が走れるように線路改良すれば「列車線」としての復活は可能であった。
 問題は神田駅の前後およそ一・三キロである。この付近のレールは東北新幹線の線路用地捻出のため、一九八三(昭和五八)年一月以降、完全に撤去されている。
 神田・日本橋地区は江戸時代からの住宅密集地区で、山手線の中でもっとも最後に線路が完成したのも一九二五(大正一四)年の秋葉原〜神田間であった。この当時からすでに用地買収が困難だったと想像できる。いちばん初めの重層化の計画(一九九三年ごろ)でさえ大反対が起きたことを考えれば、新たに用地買収することなどできるはずもなかった。
 やはり神田駅付近に限っては東北新幹線の上に新たな「列車線」の高架線を重層的に建設するしかない。
 しかしそれも簡単なことではない。実際に営業運転をしている新幹線の上に高架線を建設すること自体、前代未聞だった。失敗は許されない。新幹線の最終列車が通過し、翌朝の始発列車が通過するまでの実質わずか三時間の間でしか工事は進められなかった。しかもそもそも土地が不足している地域なので工事用地の確保すらままならない。なにをするにも制約ずくめの難工事であった。
 重層部前後のアプローチ部にも問題があった。神田付近で新幹線の直上十数メートル(地上から二十〜二十四メートル)の場所に線路を通すには東京から神田まで、あるいは秋葉原から神田までに坂道が必要である。しかし東京〜神田間のちょうど真ん中付近に首都高速都心環状線が頭上を通過しており、また秋葉原にも頭上に総武線ホームがある。神田付近の重層部が六百メートルに及ぶとなるとアプローチ部は前後それぞれ三百五十メートルずつしか確保できない。わずか三百五十メートルで十数メートルの高低差を稼ぐためにはおよそ三十五パーミル(‰)の勾配が必要になる。鉄道にとってはかなりの急坂だ。

 改正ダイヤが載っている『時刻表』三月号は、読み出すと止まらなかった。北陸新幹線も楽しみだったが、やはり上野東京ラインのページに目が行った。東海道線と東北線・高崎線の直通列車は、湘南新宿ラインとは違って、従来の列車をほぼそのままつなげたようなダイヤになる。発駅と着駅の組み合わせが豊富で、そのバリエーションを見つけるのが楽しかった。長距離のパターンでは前橋〜沼津間を四時間三十九分で走る列車、熱海〜黒磯間を四時間四十八分で走る列車などが目を引く。
 そこに品川発着の常磐線が絡んでくる。上野駅の充分とは言えない線路とホームでラッシュ時間帯の列車をどうさばくのか。昼下がりの上野発黒磯行きがなくなって、夕刊を運ぶ電車はどうなったのか。
 謎は読むほどに生まれ、さらに読みながらその答えを導き出すのが面白すぎて、明け方近くまでつい読みふけってしまった。
 それほど楽しみにしていた上野東京ラインだが、開業初日の三月十四日には乗ることができなかった。
 改正から三日ほど経った二○一五年三月十七日、いろいろな用事から解放されて、私はみつこさんと御茶ノ水のカフェでのんびりランチを食べていた。
「みちゃん」食後のお茶を飲みながらのことである。
「なに」
 嫌な予感がしたのか、みつこさんは一瞬身構えた風だったが、かまわず続けた。
「このあと東京駅に行って、上野東京ラインに乗ろうと思うんだけど、いいかな?」
「うん、いいけど……」特に用事もないのでイヤとはいえないという感じだった。
 私にしてみれば、きょうなら行けそうだという日をようやく迎えたのである。みつこさんがいまひとつ乗り気でないのが気になるが、どちらにしても東京から上野までの三・六キロでしかない。熱海〜黒磯間など長距離を走る列車も魅力的だが、きょうのところは新規開業区間の東京〜上野間だけの乗車に留めることにした。バカップル列車史上、最短列車の出発である。



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