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走れ!バカップル列車
第70号 上野東京ライン



   一

 日本の鉄道はいずれ、新幹線と大都市圏の通勤電車しか残らないだろう。全国的に人口減少・過疎化が進む中にあって、大量の乗客を日常的・定期的に取り込める鉄道しか将来的には存続し得ない。鉄道おたくが自らそんなことを言うのは問題発言なのかもしれないが、営利企業として巨額の投資額を回収しながら利益を上げていけるかどうかを冷静にみると、夜行列車もローカル線もいずれは消えてゆく運命にあるとしか思えない。
 その意味で、二○一五年三月十四日のJRダイヤ改正は日本の鉄道史を語る上で大きなターニングポイントといえる。改正の目玉は、北陸新幹線(長野〜金沢間)延伸開業、上野東京ライン開業。その一方で寝台特急「トワイライトエクスプレス」と「北斗星」が惜しまれつつも消えていった。
 夜行列車の整理と新幹線・通勤電車の開業。今回のダイヤ改正ではこれが同時に行われた。日本の鉄道が将来に向かって姿を変えてゆくその動きを、ここまで加速させるダイヤ改正はかつてなかったといえるだろう。
 残念なことも多いけれど、私は今回のダイヤ改正を楽しみにしていた。なにより上野東京ラインの開業を心待ちにしていた。神田、秋葉原付近で次々と高架橋が建設されてゆく様子をときどき写真に撮ったり、二○一四年八月から始まった試運転列車を秋葉原の駅前から眺めたりしていた。
 東京の電車区間(旧国電区間)で複々線になっている区間は、おおまかにいって中・長距離列車が走る「列車線」と短距離電車が走る「電車線」に分かれている。「列車線」を走る東海道線は東京駅止まり、同じく「列車線」を走る東北線・高崎線と常磐線(特急列車、土浦・勝田方面の特別快速・普通列車、取手・成田方面の快速電車。以下同じ)は上野駅止まりとなっていて、これらの路線の乗客は東京駅、上野駅での乗り換えを余儀なくされていた。
 東京〜上野間の三・六キロを結ぶのは山手線と京浜東北線の「電車線」だけで、肝心の都心部に大きな空白が出来ていたのである。
 この空白は輸送上の大きなネックになっていた。東北線・高崎線・常磐線の乗客は上野駅まで来たあと、全体の四十五パーセントほどが山手線外回り・京浜東北線南行に乗り換える。朝のラッシュ時間帯、十五両編成の電車にぎゅうぎゅう詰めに乗っていた人たちが、十両、十一両編成の山手線・京浜東北線に乗り換えるのである。その混雑ぶりは熾烈を極めた。バブル期のもっとも混雑していたときの上野〜御徒町間の乗車率は、山手線外回りが二七四%(一九八九年、一九九○年)、京浜東北線南行が二七七%(一九九○年)であった。
 JRも手をこまぬいていたわけではなく、京浜東北線の本数を増やしたり、山手線の編成を一両増やして十一両編成にしたりといった対策を打った。二○○一年に開業した湘南新宿ラインも混雑緩和に貢献しただろう。直近のデータ(二○一三年)では上野〜御徒町間の乗車率は、山手線外回りが二○二%、京浜東北線南行が二○○%まで低減している。それでもこの混雑率は首都圏で一、二を争うワースト記録である。
 根本的に混雑を緩和するには、東京〜上野間に「列車線」を敷くしかない。距離にしてわずか三・六キロではあるが、東海道線と東北線・高崎線・常磐線がつながれば、首都圏の交通体系は湘南新宿ラインが開通したとき以上に、しかも単純に空白区間を埋める以上に、もっと有機的に機能するはずである。

 じつは戦前から東京〜上野間には「列車線」が通っていた。東北線・高崎線・常磐線方面の列車は、もちろん基本的には上野駅始発だったが、東京駅を発着する列車も何本か設定されていて、一時は青森行きの「はつかり」、新潟行きの「とき」などもあって意外に華やかであった。しかし東京駅の新幹線ホーム増設工事で在来線ホームが不足するため、定期列車としての東京発着の東北線・高崎線・常磐線の列車は一九七三(昭和四八)年三月に廃止されてしまう。
 その後も回送列車、臨時列車などのため、「列車線」は残っていた。定期列車の運転がないので「回送線」などと呼ばれていた。この時期、私は小学校の修学旅行電車でこの回送線を通ったことがある。川崎から日光へ向かう専用列車がたしかに東京駅と上野駅を通過して行った。ところが一九八三(昭和五八)年一月、この回送線は東北新幹線の東京駅延長工事のためついに廃止となる。神田駅付近では用地が不足するので現実に線路が撤去されてしまった。
 やがて国鉄がJRになり、バブル景気の時代が来た。そのさなかの一九九一(平成三)年六月に東北・上越新幹線が東京駅に乗り入れた。山手線・京浜東北線の混雑率がピークに達したのもこのころである。
 一九九三(平成五)年ごろJRは一度、「列車線」の復活を計画したらしい。常磐線の秋葉原駅への延長を優先したもので、一九九二(平成四)年に着工がはじまったつくばエクスプレス(常磐新線)への乗客流出を抑える目的もあったようだ。神田駅付近で東北新幹線の上に重層的に高架線を建設するという計画はこのとき初めて明らかにされた。しかしこの計画は神田駅付近の住民の反対にあい、結局進まなかった。
 次に計画が具体化したのは二○○○(平成十二)年の運輸政策審議会の答申である。「JR東北線、高崎線及び常磐線の延伸・上野〜東京間」が二○一五(平成二七)年までに整備することが適当との意見が出され、混雑率を一八○%まで抑えることが目標とされた。このころからこの新たな計画線は「東北縦貫線」と呼ばれるようになった。
 事業区間は東京駅構内の改良区間も含めて東京〜上野駅間の三・八キロである。当時の運輸省の試算では秋葉原に駅を設置した場合で四百二十億円、秋葉原を通過する場合で三百三十億円とされ、秋葉原には駅を設置しないことで計画が進められた。
 沿線の反対運動も激しかった。神田駅付近の住民からは建設中止を求める裁判が提訴された。着工は大幅に遅れ、二○○八(平成二○)年五月となった。当初は二○一三(平成二五)年には開業の見込みであったが、沿線住民への配慮や東日本大震災を受けての計画変更などもあり、完成はさらにずれ込んだ。
 二○一三年十二月、JR東日本は「東北縦貫線」の線路愛称を「上野東京ライン」とすること、開業は二○一四年度末(二○一五年三月)となることを発表した。建設費用は最終的に四百億円。その全額をJRが負担する。



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