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走れ!バカップル列車 《10周年記念号》
第65号 大船渡線・気仙沼線BRT



   三

 気仙沼駅は港町から坂を登った高台にある。そのため駅は被害を免れた。大船渡線の一ノ関〜気仙沼間が震災からひと月経たない四月一日に運転再開されたのも被害が最小限に留まったからだ。一つ先の鹿折唐桑(ししおりからくわ)の駅前に大型漁船が居座り、気仙沼線の南気仙沼周辺が数か月経っても水が引かなかったのとは対照的である。
 BRTの乗り場は昨年までは駅前のバス停だったが、いまはもともと列車が走っていたホームの一番線である。かさ上げと舗装工事が済んでことし四月に移ってきたらしい。
 発車五分前になってようやくバスが来た。
「あんま人がいないな」みつこさんがぽつりという。
 三陸鉄道には観光客が来る。そればかり見てきたみつこさんにしてみれば意外なことなのかもしれない。BRTで復旧したところで観光客の数は少ないようだ。
 数人の客を乗せて定刻12時56分、バスが発車した。しばらくの間、大船渡線の線路が右に並んで走る。こちらはかつての気仙沼線を舗装した道路を走り、やがて左にカーブして大船渡線と分かれる。
 次の不動の沢で高校生たちがぞろぞろ乗ってくる。賑やかになるかと思ったらすぐに居眠りをはじめてしまい静かである。隣のみつこさんもすでに眠りの世界に旅立っている。
 不動の沢を出るとバスは県道を走る。南気仙沼のバス停も県道沿いに移され、「南気仙沼(市立病院入口)」を名乗っている。
 松岩、最知、陸前階上付近は気仙沼湾に面して走る。震災の日、この付近を走っていた列車が一時行方不明といわれていた。あたりはそれまでどのような風景だったか想像がつかないほど草茫々の原っぱである。
 バスは線路跡の専用道路を走ったり、再び国道に出たりしている。最知から陸前階上までは専用道路でバス停も元の駅を利用している。
 鉄道の単線の線路に使う敷地の幅は通常、三メートルから四メートル程度である。線路跡をそのまま舗装した道路は、バス一台がちょうど通れる幅で二台がすれ違うことはできない。だから専用道路区間ではところどころ幅を広くしてすれ違いができる場所をつくっている。広いところから狭いところに出る手前に信号機と遮断機が設置されている。バスはそこで必ず一時停止して青になるのを待ってから発車する。こうしてバス同士が正面衝突するのを防いでいる。この手法、JRなだけに、単線区間の鉄道とちょっと似ている。違うのはバスにはGPSが付いていて、互いに位置を確認しながらすれ違う場所を探すところだ。鉄道ほど定時運転が徹底できないので、そこは新技術を採り入れたのだろう。GPSの位置情報は駅のモニターにも流れていて、それぞれのバスがいまどこを走っているのか、あとどのくらいでバスが到着するか、一目でわかるようになっている。
 専用道路が一般道と交差するところは路面が黄色くペイントされていて、境界のところにも遮断機がある。これは一般車両が専用道路に誤って進入するのを防ぐためである。遮断機が一般道にではなく、専用道路側についているところが鉄道の踏切と違うところだ。
 大谷海岸から小金沢付近は国道45号線を走る。線路は海岸沿いを走っていて津波の被害が酷かったのだろう。小金沢を過ぎてしばらく走ると再び専用道路だ。トンネルを連続して通過して本吉駅の手前で専用道路を外れ、くるりと右に曲がる。曲がったところにバス停があった。13時40分着。本吉は気仙沼から柳津までのBRT区間のちょうど真ん中あたりにあり、ここで運転士も交替する。

 本吉駅は標高二十七メートルの高台にあり、駅設備はホーム、跨線橋などほぼそのまま残っている。震災後しばらくは赤く錆びたレールがそのまま残っていたが、いまは線路も剥がされ草が生えるばかりである。
 三分ほど遅れていたがしっかり三分停車し、三分遅れたまま13時43分、バスは発車した。市街地を一般道で抜け、国道45号線を南下する。
 陸前小泉の手前では気仙沼線の途切れたコンクリート橋の下をくぐり、蔵内の手前から再び専用道路に入り、歌津の手前までトンネル、駅、またトンネルを繰り返しながら快調に走る。
 歌津では駅の手前で専用道路から外れ、もとの駅の前にバス停がある。三年前の秋(二○一一年十月)、代行バスで歌津を通ったとき、国道が流されていたため市街地内を抜ける道路をくねくねと走った。運転士がハンドルを握りながら、「ここから海なんて見えなかったんだ。ぜんぶ家が建ってたんだ」とだれかに訴えるようにいっていた。
 歌津からは国道を走る。何か所か分断されたコンクリート橋を再度くぐり、清水浜(しずはま)に着く。もとの駅はコンクリート橋の先の盛土の上に残されている。
 バスはその先の丘の上で国道から外れてベイサイドアリーナに立ち寄る。ベイサイドアリーナというのは南三陸町総合体育館のことで、いまは役場、診療所など南三陸町の行政機能が移転してきている。当初の代行バスがバス停を設置したのをBRTが引き継いで臨時駅となったのだろう。体育館が閉館している早朝・深夜はバスはここには立ち寄らない。
 国道に戻り、坂を下ると南三陸町志津川の市街地だったところに出る。津波被害のあとかろうじて残っていた志津川病院などの建物はすでに解体されてしまった。土砂が作りかけのピラミッドのように積まれているところもあるが、あとは原っぱが広がるばかり。その中に、防災庁舎の赤い鉄骨だけがぽつんと立っている。
「献花台があったね」みつこさんが車窓を眺めながらつぶやく。
 震災の日、町職員の遠藤美希さんはこの庁舎から「早く逃げてください」と最後まで放送で呼びかけ、自身は津波にのまれて命を落とした。防災庁舎の鉄骨はそのエピソードで全国に知られることになった震災の遺構である。近くの空き地に観光バスが二台ほど停まっていた。
 三年前、私は代行バスの空き時間を利用して小一時間ほど志津川の中心街を歩いた。中心街といっても泥というか、乾燥しつつあるヘドロのようなふわふわしたもので覆われた荒れ地だった。木材、長靴、衣類、雑貨などが瓦礫と化して散乱していた。志津川病院の二階部分には漁船が載っていて、一部の区画では行方不明者の捜索も行われていた。海に近いところではチリ地震の津波被害記念碑やC58形蒸気機関車が横倒しになっていた。
 当時のバス停は元の気仙沼線志津川駅の駅前だった。バスを降りてもなにもなかった。駅舎もそのほかの駅施設も流されていた。盛土の下を抜ける通路を入り階段を登るとホーム跡に出た。ホーム端の黄色いタイルだけがかろうじてここがホームだったことを物語っていた。レールや枕木は撤去されたのか、砂利の隙間から雑草が生えるばかりだった。



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