homepage
走れ!バカップル列車 《10周年記念号》
第63号 全線復旧三陸鉄道(北リアス線・後編)



   二

 島越駅まで戻ってもらうことにした。
 道の脇にところどころ牧草ロールが置いてある。
「なんで、牛いないの?」と、みつこさんがいうので、運転手のお兄さんが「雨だから外に出てないんじゃないですかねえ」
 いいながら、牛舎のあるあたりで徐行してくれた。みつこさんが牛舎の中をのぞく。
「ああ、いますね」お兄さんが指さす。白と黒の乳牛らしい牛のお尻がみえる。
「あ、いた」みつこさんも見つけたようだ。「いたね」満足げにそう繰り返す。
 地震当日の話になった。そのとき営業に出ていたのはお兄さんが乗っていたクルマだけだったが、ちょうど高台を走っていて難を逃れたという。社員は無事だったが、ほかのクルマはみんな流されてしまった。
 昨年、田野畑から小本まで乗ったときも同じような話を聞いた。まさにその残った一台がこのクルマですと言われた。マニュアルミッションの旧式の乗用車だった。しかしそのときそのクルマを運転していたのはきょうのお兄さんだったのだろうか。昨年のお兄さんは自分が運転していたといっていたか、別の運転手が運転していたといっていたか、そのあたりの記憶が曖昧で、やはり昨年と同一人物だったか確信が持てない。昨年乗ったときのすぐにわかりそうな出来事の話でもすれば、「あのときの?」とお互いわかりあえるのだが、とっさにそういったわかりやすい出来事を思い出すこともできない。
 私があれこれ思いをめぐらしているうちにもお兄さんは、地震の日、お父さんが行方不明になり誰もが死んだと思った三日目に戻ってきた、などといった話を面白おかしく話してくれて、みつこさんがけらけらと笑っていた。
 そうこうするうちに島越に着いた。ちょうど一時間の観光だった。
 元の駅前でロータリーの形に道が残っているところに停めてもらう。料金を払ってプリウスを降りる。結局、昨年と同じ運転手さんだったかわからないままだった。胸にもやもやを抱えたまま、タクシーは去ってしまった。
 元の駅前に停めてもらったのは、津波に耐えてわずかに残った駅へ続く九段の階段と宮沢賢治の詩碑を見るためだ。
「これだよ」と指さして案内するが、みつこさんは「いいから早く駅に戻ろうよ」とあまり関心がないようだ。
 駅に戻り、売店でお茶を買ったり、宮古までの切符や入場券を買ったりしているうちに、次の列車がいきなりやって来た。時計を見たら、15時03分。「あれ? 早く着いたのかな」と思っていたが、そんなはずもなく、自分が時刻を間違えておぼえていたようだ。
 乗り遅れてはいけないので、慌ててホームに出る。ツアーの団体がいてホームは混雑している。団体は二両連結の後ろに乗るので、こちらは雨のホームを小走りに走って前の車両に乗り込んだ。完全にお昼ごはんを食べ損ねてしまった。

 宮古行き114D列車が発車した。運転席の横に立って窓から前方の様子を見る。真新しい巨大な盛土の上を列車が走る。みるみる加速し、山の中腹に残った二軒の家が近づいてくる。「フオン」とタイフォンが鳴り、トンネルに入った。
 運転士からツアー客への案内がある。
「この先、トンネルの多い区間となります。予めご了承ください」
 アナウンスのとおり、ここから宮古まで、特に田老までの区間はほとんどがトンネル区間だ。小本までにある小本トンネル(五一七四メートル)、摂待と田老の間にあって三陸鉄道最長の真崎トンネル(六五三二メートル)など五キロを超える長大トンネルが続く。いったん外に出たと思っても、すぐまた次のトンネルに入ってしまう。
 トンネルが長いのは建設時期が比較的新しいというのもあるが、海岸段丘というこの周辺の地形も関係している。平らな段丘面は線路を通しやすいが、集落は海に面した谷にあって、二百メートル以上も高低差がある。鉄道は人に乗ってもらわなければならないから、駅はどうしても谷につくる。道路なら集落付近は谷を通り、それ以外のところは急坂で段丘面に登るといったルートがとれるし、実際、国道45号線にはそのような箇所がある。自動車道なら谷と段丘面を器用に行き来できても、急勾配の苦手な鉄道はそんなことができない。だから谷と谷の間はトンネルを掘るという選択になる。
 話は少々脱線するが、この旅は国道45号線を南下する旅でもある。この国道は仙台から青森まで太平洋沿岸を走り、今回は八戸から気仙沼線柳津までの長いつき合いである。バス移動では実際に45号線を走る区間も多い。
 列車がトンネルに入ると見るところもなくなるので、運転席後方にあるロングシートに座る。向かいはトイレになっていて、その隣にはカラオケができる音響装置や飲み物の自動販売機がある。おなかが空いているのでビスコやチョコレートをぽりぽりと食べる。
 小本を発車した。また運転席の横に立って前方を見る。その先の小本川橋梁は珍しいコンクリート製の斜張橋である。橋を渡るとトンネルで、抜けると摂待に着く。
 六キロを超える真崎トンネルを抜けると田老の町が見えてくる。見えてからも二つ、三つ、短いトンネルを抜ける。最初に町が見えてくるときはまだ家並みも見えるのだが、駅に近づくに連れて更地ばかりになる。野田玉川付近と同じように、車内の空気がどんより重くなってくる。
 田老駅に着いた。ホームと線路は町の山側の高さ十メートルほどの盛土の上にあって幸い流失は免れたが、一時は線路の上に民家の屋根など瓦礫が散乱していたという。それでも瓦礫を撤去して列車は走れるようになった。地震からわずか九日後の三月二十日に宮古〜田老間が運転再開されている。
 田老の町は「万里の長城」と呼ばれ、総延長二・四キロほどの防潮堤に囲まれていたが、津波はそれを乗り越え町を飲み尽くしてしまった。
「バカップル列車 第50号」で田老を訪れたとき、みつこさんはただはらはらと涙を流していた。以前の街並みを知っていたわけではないけれど、ただただ涙が出てくるのである。
 そんなことがあっただけに田老という町の名はみつこさんの胸に深く刻まれている。列車が田老に近づくとみつこさんは後ろを向いて窓の外をじっと見つめている。どんな表情で見ているのか、こちらからはわからない。
 列車が発車するとみつこさんはようやく私の方を向いて、深くうなずいた。そして寂しそうにひと言「なにもないなあ」といった。
 みつこさんが田老に来たのは三年ぶりで、そのときと比べれば瓦礫はずいぶん片づいている。私が昨年来たときよりも、地盤のかさ上げ工事が一部では進んでいた。しかし、概していえば、更地が続くばかりである。この場所に町が興る気配はいまのところ感じられない。
 北リアス線のレールは田老を出ると海から離れ、山あいに入る。佐羽根までの区間はトンネルも少なく、赤や黄色に染まった木々の葉が窓の外を流れてゆく。一の渡はトンネルとトンネルに挟まれた駅。二八七○メートルの猿峠トンネルを抜け、山口団地に停車して、定刻15時46分、終点宮古に着いた。



next page 三
homepage