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走れ!バカップル列車
第60号 京阪電車大津線



   一

 春分の日の朝、なぜか六時前に目が覚めた。カーテン越しに明るい光が射し込んでいる。きょうは天気が良さそうだ。
 みつこさんが平日も休日も関係なく六時二十分にセットしている目覚ましが鳴ったときに声をかけた。
「みちゃん」
「なに」
 みつこさんはまだ寝ぼけ眼だ。声もかすれている。
「京都、行こう」
 そう言うと、次の瞬間、
「ええっ!?」
 みつこさんが布団をガバッとめくって起き上がった。「なんだって?」
「京都、行こう」JRのコマーシャルみたいなセリフを、もう一度いった。
 みつこさんが頭を掻きむしりながら、私を見る。
「……きょう?」
「うん、きょう」
「なにしに?」
「二藤さんの展示を見に」
「京都って、あの京都だよね?」
「うん、あの京都」そこまでいうと、みつこさんは寝ぼけ眼だけど、はっきりした口調で「わかった」と言って、シャワーに向かった。
 二藤さんは、二藤健人といって、オル太の展示を見ているときに出会った美術家さんである。泥の中に石膏を流し込んだり、全身に赤い絵の具を塗って実母に抱きついたり、度肝を抜く作品を次々と発表している。いま京都で開催されている「傘の内側に降る雨」という展示のコンセプトを読んで、ぜひ見に行きたいと考えていた。自分の予定と会期とをよくよく照らし合わせてみると、行くとしたらきょうしかない。かなり強引だが、きょう、京都へ行こうと思い立った。
 もちろん、二藤さんの展示を見るだけでは日帰りでも時間があり余る。ほかにどこに行こうか、なにを見ようか。みつこさんがシャワーしている時間を使って、行き方や最寄り駅などをネット検索してみた。
 だいたいの目星はつけてあった。ひとつは伏見城で、私がいま密かに進めている歴史の研究のため、ぜひその立地をじかに足を運んで確かめておきたい。もうひとつは、かねてから友達に勧められていた京阪電車の京津(けいしん)線と石山坂本(いしやまさかもと)線だ。とくにこの二つの路線(二路線合わせて「大津線」と呼ばれる)が合流する浜大津駅付近は四両編成の電車が道路上を走るという日本でもここしかない驚愕の光景が見られる場所として知られている。これはぜひ見ておけと強く勧められているので、この機会に乗っておきたい。
 調べてみると、伏見城から京津線までは京都市営地下鉄東西線を利用すればスムーズに行けることがわかった。とくに時刻は決めないが、おおよそこのルートで出かけることにした。出かける仕度が済んで、二○一四年三月二一日朝の八時ごろ、みつこさんと私は家を出た。

 ふだん我が家から東京駅へ行くときは本郷三丁目から丸ノ内線に乗るのだが、きょうはJR水道橋から乗ることにした。京都行きは今朝決めたことだから、まだ切符がない。新幹線の切符を東京駅で買うのは億劫なのでその前に買っておきたい。
 水道橋駅東口の指定席券売機で東海道新幹線の切符を買おうとしたところ、八時台、九時台の「のぞみ」「ひかり」の指定席はすべて売り切れだった。
「えっ!」
 二人で驚いた。こんなことってあるものなのか? 当日切符を買うということ自体あまりしたことがないが、記憶にある限り、こんなのは初めてである。
「まあ、三連休の初日だからなぁ」みつこさんがぼそっとつぶやく。
「えっ!?」その言葉に驚く。
「えっ!?」みつこさんも私の反応に驚く。
「きょうって三連休だったの?」
「どうして知らないの。どうしてきょう京都行こうって思ったの」
「休みだと思ったから……春分の日だし」
「そこまで知ってて、三連休とは思わなかったの?」
「う、うん……そこまで頭が回らなかった」
 みつこさんは呆れ顔である。さいきん歳のせいか、こんな感じで頭の血のめぐりが少々悪い。あともう少しというところまで近づいているのに、その少しのところから進めず、その先のことになかなか気づかないということがままある。
「で、どうするの? 京都に行けないの?」
「いや、自由席の切符を買うよ。東京駅からだったら座れるでしょ」
 それでもまだ呑気にそう考えて、「のぞみ」の自由席に乗れる特定特急券を買った。
 しかし東京駅の混雑は想像を絶するものだった。
 人がわらわらと湧いて出ていた。少し暖かくなったから、地中で冬眠していた生き物が一斉に地面に出て来た感じだ。新幹線乗り換え口は人びとで埋め尽くされ、もはやどこが改札口かさえわからない。ふだんの東京駅じゃない。どこか別の場所にいるような錯覚さえおぼえる。偶然とはいえ、水道橋で切符を買っておいてよかった。人びとが密集するあまり、みどりの窓口もどこが行列なのか判別できない。
 もうひとつラッキーだったのは、水道橋駅へ向かう途中のコンビニで朝ごはんを買っておいたことである。みつこさんが「サンドイッチ買っときたい」というので、私もつき合っておにぎりを買っておいた。いつもなら東京駅で駅弁買おうといってるところだが、きょうそれをしたら、いつになったら朝ごはんにありつけるかわかったもんじゃない。
 ようやくたどり着いた新幹線の改札も、激しい行列になっていて、しかもなかなか進まない。休みの日で新幹線の自動改札に慣れてない人が多く、しかもキャスター付きのゴロゴロを自分で御しきれない人も多く、混雑が混雑を呼んでいる。水道橋で切符を買うときは8時50分の「のぞみ」に乗れればいいだろうとぼんやり考えていたが、そんなのはすでに発車してしまい、九時ちょうどの「のぞみ213号」に乗れるかさえ怪しい。
 やっとのことで改札を抜けた。まだ9時00分発「のぞみ」に間に合う。みつこさんの手を取って一四番線へ駆け上がる。
「ダメだ……」ため息をつかざるを得ない。一号車から三号車までの自由席は大きな荷物を抱えた乗客がデッキにまで溢れている。
「さすがに立って京都までいくのはゴメンだよ」みつこさんがいう。それは私だって同じだ。
「着くのがちょっと遅くなるけど『ひかり』なら空いてるかも」
 階段を降りて昇って9時03分発「ひかり465号」の一七番線に来る。「ひかり」は五号車までが自由席だが、こちらも満席。デッキに立っている乗客がいる。
「このままここで待ってようよ」
 早くも疲れ気味の様子でみつこさんがいうので、そうすることにした。次にこのホームから発車するのは、9時23分発「のぞみ313号」だ。列に並んでいるのは五組ほど。新幹線一車両の定員は八十人〜百人だから、いま列の後ろにつけば、どんなに間抜けでも席にはありつける。



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