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走れ!バカップル列車
第50号 三陸鉄道復興支援列車



   一

 後悔先に立たず、とはいうが、これほど深い後悔もそうはないだろう。
 三陸鉄道に乗るにしても、まさか自分が大津波のあとに乗ることになろうとは夢にも思わなかった。三陸鉄道が開業したのは一九八四(昭和五九)年のことで、私が高校生のころだ。
 紀行作家の宮脇俊三は三陸鉄道には開業後はもちろん、国鉄線時代の久慈線、宮古線、盛線や建設工事中のトンネルや鉄橋も訪れている(「全線開通版・線路のない時刻表」(講談社文庫・一九九八年)ほか)。その情熱には本当に頭が下がる。私にしたって開業から二十七年も経っていれば、乗る機会はいくらでもあっただろうに、なかなかたどり着けなかった。そのうち乗ればいい。いつか乗れる。そうした油断と怠慢がこの後悔を招いてしまった。
 三陸に鉄道を敷こうという構想は古くからあった。一八九六(明治二九)年に明治三陸大津波がこの地域を襲い、その復興、沿岸地域開発、軍事上の必要などのため、「三陸鉄道創立申請書」が当時の逓信大臣宛に出されたのがはじまりといわれる。その「申請」は結局実現しなかったが、以来、鉄道の建設は内陸部との交通が不便で陸の孤島といわれた三陸地方の悲願となった。
 大正から昭和初期にかけて、八戸から久慈への八戸線、一ノ関から大船渡への大船渡線、盛岡から陸中山田への山田線が建設されていった。その過程の中で、一九二二(大正十一)年に改正鉄道敷設法が施行され、未開通であった陸中山田〜大船渡間、久慈〜宮古間が予定鉄道路線に加えられた。一九三九(昭和十四)年に山田線が陸中山田〜釜石まで延長されたのは、釜石からの鉄製品輸送が急務だったからである。
 戦後になり三陸の鉄道構想は、八戸〜久慈〜宮古〜釜石〜盛〜気仙沼〜前谷地と、およそ三百五十キロを鉄道で直結する「三陸縦貫鉄道」へと発展し、新規建設路線は幹線並みの線路規格で建設されていった。
 一九七七(昭和五二)年に気仙沼線が全通すると、三陸縦貫鉄道の完成まで、普代〜田老間、釜石〜吉浜間を残すばかりとなった。この区間がつながれば、八戸から前谷地までの線路が一本に結ばれる。工事は着々と進み、鉄橋もトンネルも路盤も完成し、あとはレールを敷いたり、駅舎をつくったりするぐらいまでになった。
 ところがその矢先の一九八○(昭和五五)年、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法、いわゆる「国鉄再建法」が成立し、新線の建設は中止となり、すでに開業していた久慈線の久慈〜普代間、宮古線の田老〜宮古間、盛線の吉浜〜盛間までもが廃止対象路線にされてしまう。もはや国鉄が三陸縦貫鉄道を開通させる可能性はゼロとなった。
 万事休すの状態で地元が選んだのは、国鉄の計画路線・廃止路線を転換することにより開業・存続させる第三セクター鉄道としての道だった。公営でもなく、民間でもない、第三の事業主体として新会社がその後の路線を運営することになれば、すでにある路線は無償で提供を受けることができ、未開通区間の工事も再開される。
 そうして岩手県や県内市町村、地元民間企業などの出資により一九八一(昭和五六)年、三陸鉄道株式会社が発足し、三陸縦貫鉄道を運営することになった。廃止対象路線となった久慈線、宮古線、盛線が引き継がれ、未開通の普代〜田老間、釜石〜吉浜間は工事を完成させた上で三陸鉄道の路線となる。
 山田線の宮古〜釜石間が国鉄のまま存続されるので、三陸鉄道の路線は久慈〜宮古間、釜石〜盛間とで分断されてしまう。不便だがこの二つの路線に分断されたまま、三陸鉄道は一九八四(昭和五九)年四月一日に開業する。久慈〜宮古間は「北リアス線」、釜石〜盛間は「南リアス線」という路線名となった。
 国鉄廃止路線を引き継いだ第三セクターとしては第一号ということもあって、三陸鉄道は赤字ローカル線を抱える自治体や、ファンの注目を集めた。乗客や見学者が全国から多数押し寄せ、当初は開業五年で黒字に転じるという計画だったが、開業初年度からいきなり黒字決算となった。

 遅すぎる感はあるが、三陸鉄道に乗ろうと思う。
 旅程は六月はじめにおおよそ決めたが、切符や宿の予約をとることまではしていなかった。今回の旅は私たちにとって出かけるべき旅行だと思っていたが、自分ではそう思っていても、現地のひとたちからみて招かれざる客になることが恐かった。浮き浮きとした気分で出かける旅ではなかった。週間天気予報もあまり良いものではなく、一時は延期しようとも考えた。そんなことをあれこれ迷っているうちにとうとう前日になってしまった。
 当初の予定では、東京6時40分発の「はやて115号」で盛岡まで行き、盛岡から11時04分発の山田線快速「リアス号」に乗り換え、宮古までたどり着くはずだった。そうすれば、宮古13時10分発の三陸鉄道小本行きの復興支援列車に乗れる。
 ところが指定席がどの列車も満席で、「はやて115号」に乗れない。自由席のある一本前の「やまびこ251号」に乗るしかない。
「みちゃん」
「なに」
「あした、6時12分の新幹線でもいいかな?」
 なにぶん朝早い出発なので、おそるおそる言ってみる。
「うん、いいよ」
 みつこさんは快諾してくれた。
「そうかい。自由席だから早めに行けば、どうにか座れると思うんだ」
「何時ごろ?」
「家を五時に出て、五時半ごろに東京駅に着くような感じかな」
「じゃあ、朝ごはんは新幹線で食べるんだね。四時半ごろ起きればいいかな」
「そうだね」
「わかた」
 そういいながら、旅のしたくの済んだのが、日付も変わった当日の一時過ぎだった。



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