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走れ!バカップル列車
第49号 仙石線と仙山線



   五

 白い大皿に宝石の粒のようなお寿司がきらきらと載ってやってきた。
「わあ、おいしそう!」
 みつこさんの目がものすごく輝いている。トロが二貫もあって、ウニもイクラもある。黒い桶でなく白い皿に盛られてくるのは意外だったが、寿司が白い皿に映えてどれもおいしそうだ。たしかに「すし哲」の味はほかの店とさほど変わらないのかもしれないが、寿司をおいしそうに見せる演出が、ほかの店とはだいぶ違うのかもしれない。私たちがわあわあ騒いで写真やビデオを撮ってる間に、姐御はにこにこ笑いながら小皿に醤油を注いでくれた。
「おいし〜い」
 店中に響くんじゃないかと心配になるぐらいみつこさんは大声で感激している。
「塩竈はマグロの漁獲高日本第二位なんだよ」
 姐御がいう。
「え、そうなの?」
 マグロといえば、三崎とか大間とかが有名だが、塩竈がそれほどとは知らなかった。結局はブランド化しているかどうかなのかの違いなのだろう。
 話は震災の日の夜のことになった。
 姐御は多賀城の家でご両親と一緒に暮らしている。
「家に帰ったって電気は止まっているから灯りもつかないし、テレビも見られないのよ。ラジオだけ。電池のラジオがあったから、それを真っ暗な部屋で聞いてるしかなかったの」
 寿司をもぐもぐ頬張りながら私たちは姐御の話を聞いていた。
「ラジオでね、未確認情報ですが、仙台市若林区の荒浜地区に二百から三百人の遺体が発見されたって言ってたんだけど……」
「ああ、東京でもそのニュース流れてた」
「私、なんのこと言ってるのか、さっぱりわからなかったの。津波っていったって、こんなところまで来るとはそのときは思ってなかったからね」
「でも、あれ、本当だったんだよね」
「最初は誰かあのあたりのマンションとかに住んでる人が高いところから見つけて通報したのかしらね。そのときは報道の人なんて来なかっただろうから。だから未確認情報だったのよね」
「ずっと停電だったってことは、姐御は津波の映像とかは見てないんだね」
「うん、みてない」
「こっちはもう嫌になるくらい、繰り返し流れたよ。何度も何度も。高台に避難しても子供が泣いちゃってたり、ライトのついてるクルマが流されていたり。リアルタイムの映像もあったりしてね」
「ふうん」
「仙台市内も、中心部の一番町あたりも揺れたんだよね? 街灯とかがすごい揺れて、歩いている人が歩けなくてしゃがんでる映像とかも見たよ」
「それ、私、みてないわ」
 私たちが多賀城に来るからと、姐御は「すし哲」が震災後営業しているか、電話で問い合わせてくれたらしい。いまはこうしてなんでもないように営業しているが、この店だって二メートル近くの津波が襲ったところなのだ。座敷だってあがれたし、トイレも使えた。このなんでもないようなことのありがたさが身にしみる。
 電車で三駅戻って多賀城で降りた。多賀城駅は高架化工事中で、現在上り線だけが高架駅になっている。駅前は再開発途中の広場があり、自衛隊が駐屯して浴場を提供している。
「末の松山っていう名所があるのよ」
 姐御がいうので付いていくと、住宅街の真ん中に忽然とお寺とお墓が現れる。
 この一帯も津波の被害に遭ったところでお寺の門にも泥水が通った跡がしっかりと刻まれている。お墓の向こう側に回るとやや小高くなっていて「末の松山」とされているらしい立派な松の木が二本ほど立っている。
「末の松山」は歌枕として名高く、芭蕉の「奥の細道」にも紹介されているほどで、現地の案内板や石碑では次の歌が紹介されている。

 君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山波もこえなむ
                (古今和歌集 東歌)

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは
                (後拾遺和歌集 清原元輔)

 どちらも恋の約束を歌ったものだが、二人の破局が「ありえない」ことの比喩として「末の松山を波が越える」という表現をしているのが興味深い。
 千年に一度といわれる津波が襲来して、海から二キロは離れているこの寺の門までたしかに波はやってきたのである。松のある小高い山のぎりぎりのところまで津波が来た。しかしその波が末の松山を越えることはなかった。平安時代の人びとが「津波がこの近くまでは来るけど、末の松山を越えることはありえないよ」ということをもし知っていたのだとしたら、これはものすごく核心を突いた中世からの暗示といえるだろう。
 その後、姐御が案内してくれたのは「沖の井」もしくは「沖の石」と呼ばれている史跡だった。
 住宅街の中の周りより一段窪んだ区画がごつごつした岩で覆われていて、松が生えて、桃が咲いている。岩のごつごつしたところに落ちたら危なそうだが、あったはずの囲いは地震で壊れてしまったようだ。
「これはなに?」
 どういう謂われのある史跡なのかがいまひとつわかりにくい。
「私もよくわかんないんだけどね」
 いいながら、姐御はにこにこ笑っている。
 国道45号線まで出てきた。片側二車線計四車線の幹線道路である。歩道橋を渡って付近の街並みを見渡す。紳士服チェーン店やファストフード店、ガソリンスタンドなどが沿線に並んでいるが、どの店も一階部分は流されていて、営業できていない。
 姐御によれば、地震の日の夜は津波から逃れた人たちがこの歩道橋に押し寄せ、雪降る寒さの中、波が引くまでぎゅうぎゅう詰めの状態で一晩を過ごしていたらしい。
 歩道橋の下をみると、乗用車やトラックがひっきりなしに行き交っている。
「津波の後は、道路全体にクルマが積み重なってたんだけど、とりあえず道路を通さなきゃいけないということで、しばらく端に寄せてあったのね」
 いまは沿道に積み重なってた自動車は撤去されているが、街道から一歩入って私有地を見れば、窓ガラスが割れたり、原型すら留めていない乗用車がまだたくさん放置されている。
「道路にあるものは県や市が拾ってってくれるんだけど、私有地にあるのは勝手に動かせないとかいって撤去してくれないのよ」
「そんなこと言ったって、自力じゃ自動車なんて動かせないですよねっ!」
 みつこさんは役所の怠慢におかんむりである。
 三月十一日午後、姐御は職場が解散になったあとこの45号線を歩いて家に帰った。
「私も一応、海から遠い側を歩いたんだけどね」
 そうは言うが、まさか本当にここまで津波が来るとは考えていなかったという。このあたりは海は見えないし、潮の香りすらしない。二キロほど先にある海の存在を感じさせるものはほとんどないので、津波が来ることを想像するほうが難しいだろう。国道まで津波が押し寄せたのはちょうど姐御が家に着くころだった。
 姐御はぎりぎりのところで難を逃れたのである。



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