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走れ!バカップル列車
第49号 仙石線と仙山線



   三

 五月四日はタクシーを呼んでもらって、朝八時前にホテルを出発した。残雪のメンズダウンヒルコースに別れを告げ、雫石の町まで下ってくるとこの周辺は桜が咲いていた。雫石駅から8時24分発「こまち116号」に乗って仙台に向かう。
 姐御とは何度かのメールのやりとりの結果、四日に会うことになっていた。最後に会ったのは一九九九年だから、もう十二年ぶりになる。
 三月十一日の地震で東北地方太平洋岸に津波が押し寄せたと聞いて、まず頭によぎったのは姐御のことだった。後で調べてみると多賀城付近も仙台港と塩釜港の両方から津波がやって来て相当の被害が出たようだ。犠牲者も多数出ている。姐御のことが心配だったとはいえ、家がごたごたしていたり、まだ気分的にも混乱していたから、しばらくは姐御に電話をかけたりはできなかった。
 地震から二週間ほど経ってようやく私も落ち着いてきて、電話をかけられるようになった。ところが知っていた番号になんどかけても、電波が届かないといったアナウンスが流れるばかりだった。
 新聞の情報欄も食いつくように見回した。避難所暮らしをしている人の中にその名はなかったが、死亡した人の欄に姐御の名があった。年齢はよくおぼえていないが、そのくらいだろう。しばらく私は呆然とその名を見つめた。
 姐御の本名は同姓同名の多い名でもある。それに姐御はなんだかんだいって運が良い。諦めるのはまだ早いとも思った。人違いであってくれと思いつつ電話もかけ続けた。四月に入り、ようやく通じたと思ったら、知らないおっさんが出てきた。姐御に関係ある人かと思っておっさんに訊いてみたが、そんな人は知りませんと言われプツっと切られてしまった。絶望的な気分になった。やはり姐御は津波に流されてしまったのだろうか。
 葉書を送ってみることにした。なかなか会えなくなっても年賀状のやりとりはしていたから住所はわかる。これが最後の手段だ。これでなにも連絡が来なかったら、諦めようと自分にも言い聞かせた。
 何日かして姐御から電子メールが届いた。
「無事です……この辺は、安全地帯でした。でもちょっと行けば、すさまじい光景が広がっています……最寄りの駅にも、今日からやっと電車が復旧しました……東京も計画停電などで大変でしょう……」
 うれしいのか、なんなのか、よくわからないけど涙が出てきた。とにかく姐御が生きてて良かった。東京より多賀城のほうがよほどたいへんなのにこちらのことまで心配してくれている。
 そうして姐御にいよいよ会えるときがきた。きょうは一日予定を空けてくれて、多賀城の被災地を案内してもらうことになっている。最初に本塩釜でお寿司を食べるので待ち合わせは仙石線の電車だ。私たちの乗る電車に姐御は途中の下馬駅から乗ってくる。

 仙石(せんせき)線の仙台駅は二○○○(平成十二)年に完成した地下駅だ。ピカピカで設備も良くて気分がいいのだが、東京の地下鉄となにも変わらなくてなんだかそっけない。以前の仙石線仙台駅は東北線のホームからかなり外れたところにぽつんと短い島式ホームが一本あるだけで、独自の駅舎もあったりしてそれがまた私鉄の駅っぽくて好きだったのだけど、地下駅完成後にすべて取り壊されてしまった。
 実際仙石線は一九二五(大正十四)年に仙台〜西塩釜間で開業した宮城電気鉄道を前身としている。松島あたりでは東北線と並行していて一部交差している区間があったり、周りのJR線が交流電化なのに仙石線だけは直流電化になっていたりするのは、そういった設備が私鉄時代につくられたものだからである。
 宮城電気鉄道はその後も延伸を続け、一九二八(昭和三)年には石巻まで延びて全線開業を果たすが、戦時買収により一九四四(昭和十九)年に国有化されてしまう。仙台と石巻から一文字ずつとった仙石線という名称はこのときに決められている。電化方式が首都圏と同じだったため、車両には山手線などのお古ともいえる通勤型電車が投入され、戦後は日本最北の国電として通勤・通学や松島観光などに活躍した。
 いまの地下トンネルは仙台市地下鉄と直通運転の計画があったためにつくられたもので、地下化にあたり仙石線は○・五キロほど西に延伸してあおば通り駅が開業している。
 そんな経緯からいまの仙石線はあおば通りが起点となっている。バカップル列車は列車の始発から終点まで乗るのがルールで、きょうもあおば通りから乗るべきだったが、姐御との待ち合わせに緊張するあまり、だいぶ早めに仙台駅に着いていて五百メートルぐらいすぐ往復できたにもかかわらず、そんなことはついに思いつきもしなかった。現在仙石線は東塩釜〜石巻間が不通になっていて、どっちにしても全線の走破はできないから、いつの日か全線が復旧したときに再びバカップル列車を走らせたい。
 姐御と待ち合わせている電車は仙台発10時41分の東塩釜行きである。いまはあおば通り〜東塩釜間のみの再開だから臨時ダイヤで運転されている。
 あおば通りから41分発の電車がやってきた。車両はかつて山手線で活躍していたと思われるステンレス車体の通勤電車四両編成だが、車体側面にはカラフルなラインが引かれ、先頭車の一部座席は進行方向に向かって座るクロスシートに改造されている。
 先頭車に乗り込む。車内は空いているが、イス取り競争には敗退し、クロスシートは確保できなかったので横向きについているシートに座った。
 定刻になり電車は発車した。榴ヶ岡、陸前原ノ町などは昔からある駅名だが、つまんない地下駅になっている。かつてこの付近は民家の軒先をくねくねと走り抜けるような感じでスピードもあまり出せなかったから、線路改良もできて、踏切も解消でき、地下化のメリットは大きかったのだろう。
 陸前原ノ町には車庫があったから、もう地上に出るなと思い、運転席の後ろから前方をみるともうトンネルの出口が見えている。ところが急勾配でトンネルを抜けるとそのまま高架線になってしまい、次の苦竹のホームが見えてきた。
 陸前原ノ町にあった車庫はどこに行っちゃったのだろう? と、疑問を抱きつつ前を見続ける。そうこうするうちに小鶴新田に到着。震災後最初に復旧したのがあおば通り〜小鶴新田間だった。小鶴新田は二○○四(平成十六)年に新設された駅で、駅構内には折り返し設備がないから、車庫はこの先に移転されたのか。
 国道4号線の陸橋をくぐり、次の福田町に着くころになって左側に車庫が見えてきた。こちらが仙石線の電車のねぐらだ。陸前原ノ町電車区はとっくのむかしにこちらに移転されていたようだ。この車庫は仙台車両センター宮城野派出所という長ったらしい名称になっている。
 仙石線の電車は青空の下、仙台郊外の平野をたんたんと走り抜ける。左右は新興住宅地になっていて、金太郎飴のような建て売り住宅や高層マンションなどが建ち並ぶ。高架線になって仙台臨海鉄道の貨物線を越える。その貨物線脇の土手で乗用車が前のめりになって倒れている。広場の隅には瓦礫の山ができていたり、すでに津波の爪跡が見えている。
 多賀城を出ると次は下馬である。姐御はここから乗ってくる。
 ホームが見えてきた。デニムのジャケットを着た髪の長い女のひとの姿がみえる。姐御だ。電車が姐御の脇を通り過ぎた。窓から手を降ると姐御も気づいて、にこにこ笑いながら追いかけてきた。



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