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走れ!バカップル列車
第22号 かしてつの老気動車



   二

 鹿島鉄道のルーツは鹿島参宮鉄道である。一九二四(大正十三)年に石岡〜常陸小川間が開業している。一九二六(大正十五)年八月に浜まで、一九二八(昭和三)年二月に玉造町まで延伸され、一九二九(昭和四)年五月に現在の終点である鉾田まで全通している。
 その後、一九六五(昭和四○)年に常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、関東鉄道鉾田線となるが、一九七九(昭和五四)年に関東鉄道から分離され鹿島鉄道となった。
「鹿島」や「参宮」といっても、現在の鹿嶋市からも鹿島神宮からもだいぶ離れている。鹿島参宮鉄道というくらいだから、もともとは鹿島神宮への参拝客を輸送するために敷設された鉄道だろうが、なぜ鉾田までの尻切れトンボになったのか。
 いま、東京から鹿島神宮まで鉄道で行くとすれば、JR鹿島線を利用することになるだろう。いや、実際には高速バスが早くて便利なので鹿島線に乗る人はほとんどいないのだが、もし鉄道で行くとすれば、総武本線から成田線を経由して鹿島線で行くルートが最短といえる(一一四・五キロ)。
 なにが言いたいのかといえば、鹿島参宮鉄道は、なぜ鹿島神宮へ行くのに茨城県の石岡まで遠回りするルートを選んだのかがわからないのである。上野から石岡まで常磐線で八五・八キロ、石岡から玉造町まで一五・八キロ、玉造町から延方まで鉄道が開通したとして推定でおよそ二二キロ。合計で一二三・六キロ。そこからまた船に乗り換えてようやく鹿島神宮にたどり着く。
 鉄道を敷く上で霞ヶ浦が邪魔だったといえばそれまでである。それなら、なぜ千葉県の佐原方面から鉄道を敷かなかったのだろうか。利根川や北浦を跨ぐ鉄橋の建設は当時としては難しかっただろうが、それだけなら途中で船に乗り換えさせる方法もあったはずである。
 疑問の答えは『関東鉄道株式会社七○年史』(一九九三年)にあった。
 鹿島参宮鉄道の創業者は、東京の実業家で代議士の高柳淳之助という人物である。出身は茨城県行方(なめかた)郡要村。いまは行方郡北浦町になっていて、霞ヶ浦の西浦と北浦に挟まれた地域である。
 自分の郷里に鉄道を敷設したいという高柳の思いが、鹿島参宮鉄道のそもそもの動機のようである(高柳は鹿島参宮鉄道を発案したころ、筑波山にケーブルカーを敷設している)。当初の構想は常磐線で石岡の一つ上野寄りの高浜を起点とし、鉾田に至る鉄道だったという。鉄道事業の免許も最初は一九二一(大正一○)年に石岡から玉造まで、次いで一九二二(大正十一)年に玉造から鉾田までを取得している。
 途中分岐駅から鹿島神宮の対岸である延方(のぶかた)までの敷設免許は、一九二六(大正一五)年に取得しているが、タイミングからして後回しである。実際の建設も鉾田までの延長に力を入れるあまり手が回らず、結局一度もレールを敷かないままに免許は失効してしまう。せめて延方まで線路が延びれば、名実ともに鹿島参宮鉄道なのであるが、ついに実現はしなかった。
 鹿島神宮をまったく無視していた訳ではもちろんない。鹿島神宮への参拝客を取り込むことは増収のため、そして出資を募るためには重要だったようだし、船舶事業の免許も取得して、一九二七(昭和二)年には参拝客のために途中駅の浜から鹿島神宮までの航路を開設している(一九三一(昭和六)年に廃止)。
 要するに、「鹿島参宮鉄道」という名称に惑わされてはいけないということなのだ。故郷に鉄道を敷きたい。でもそれだけじゃ経営も資金調達もままならない。この鉄道が生まれつき抱えてしまった矛盾のようなものが、「鹿島参宮鉄道」という名前に現れているのだろう。

 さいきんの鹿島鉄道の貨客合わせた収入は、一九八四(昭和五九)年の五億二千七百万円をピークに着実に減ってきている。貨物輸送のピークは一九八五(昭和六○)年の一億六千万円で、全体の約三○%を支えていた。通学客や貨物輸送の増加により収入は一時的に持ち直すこともあったが、一九九九(平成五)年以降は一度も上昇に転じることはなく、言ってみれば右肩下がりで、近年は二億円をどうにか超えるといった具合である。
 貨物輸送は百里基地と榎本駅を結ぶパイプラインの老朽化を理由に二○○二年四月に廃止されてしまった。これに追い打ちをかけたのがつくばエクスプレスである。鹿島鉄道は、貨物輸送のほか親会社である関東鉄道からの経営支援によって生きながらえていたのだが、頼りの親が傾きかけてしまった。
 取手から守谷(つくばエクスプレス乗換駅)を経由して下館に至る常総線だけではない。東京〜つくば間の高速バスがつくばエクスプレスのおかげで大打撃を受けたのだ。関東鉄道からの経営支援は当然打ち切られ、鹿島鉄道の存続はほぼ絶望的となった。地元の高校生たちも、二○キロほどむこうにやって来た新しい鉄道が自分の生活に影響を及ぼそうとは、よもや考えなかったに違いない。
 鹿島鉄道は二○○六年三月、国土交通省へ二○○七年四月一日を廃止日とする廃止届を提出した。
 地元だってこの事態をただ指をくわえて眺めていたわけではない。
 貨物輸送が廃止された二○○一年ごろから地元自治体が鹿島鉄道対策協議会を組織し、公的支援を実施した。住民や中高生たちも立ち上がり、経営改善のためのアイデアを募集したり、募金活動を進めたりもした。しかし公的支援も五年間だけと期限が定められていたし、中高生たちの「かしてつ応援団」も具体的な成果を出すのは難しかった。
 最後の頼みの綱は、新しい事業者の公募であった。和歌山電鐵のように力強い経営者が現れてくれれば鉄道の存続もありうる。公募には市民団体が設立した新会社と旅行代理店の二社が応じたが、鉄道事業者の認可を持っていない、資産を有償で譲り受けなければならないなどの理由で、どちらも受け容れられず、二○○七年四月一日の廃止(営業は三月三一日まで)はもはやどうにも避けられないことになった。
 鹿島鉄道は、その八十三年の歴史に幕を閉じることがついに決まってしまったのである。

 みつこさんと私は、鹿島鉄道への最初で最後の旅に出た。
 立春を過ぎたとはいえ、まだまだ冷える二○○七年二月十二日。雲一つない青空の朝であった。王子から上野駅まで出て、上野を11時30分に出る常磐線の特急「フレッシュひたち21号」に乗る。
「フレッシュひたち」は私たちが乗車すると間もなく一七番線を発車し、東京の下町を走り抜けてゆく。
 鹿島鉄道への乗換駅石岡までは五十三分。きょうは少し遅めの出発で、向こうへ着くころは昼を回っているし、沿線にお昼ごはんを食べられる食堂が見つからないことも考えられるので、駅弁を買っておいた。みつこさんは少々おなかの調子が悪いというので、珍しくこぢんまりしたサンドウィッチ、私は「おふくろの味 上野弁当」である。この弁当は「上野駅限定」と謳ってはいるものの、鮭の載ったのり弁というところがちょっと違うくらいで、あとはふつうの幕の内弁当のような感じだった。
 特急列車は関東平野をひた走る。窓から差しこむ日射しがまぶしい。
 乗換え駅石岡は律令時代より常陸国の国府があったとされる土地で、江戸時代までは常陸府中と呼ばれていた。国分寺、国分尼寺跡もあるという。大和国を起点とする古代東海道の東端でもある。
 話は再びそれてしまうが、およそ八十年前、鹿島参宮鉄道が目指したとされた鹿島神宮は、律令時代の記録にも残る歴史の深い神社である。律令の細目を定めるもので、いまで言えば施行規則のような「延喜式」(えんぎしき)には、伊勢の神宮(三重県)、香取神宮(千葉県)と鹿島神宮だけが「神宮」として記録されているという。
 香取神宮と鹿島神宮は十数キロしか離れていない位置にあり、大和国から見ればずいぶんと三社の分布が偏っている。これはどうも、香取神宮と鹿島神宮は、蝦夷(えみし)に対する大和朝廷の東の前線に当たっているためらしい。
 東海道の東端が石岡にあり、鹿島神宮、香取神宮が対蝦夷の前線だったとすれば、日本第二の湖霞ヶ浦があるこの付近が大和朝廷と蝦夷の勢力との境界だったのだろう。
 特急は12時23分、石岡駅一番線に到着した。駅のそこここに「のりかえ 鹿島鉄道線」「5番線」という案内がある。
 二人で跨線橋の階段を登り、五番線へ向かうことにした。



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