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走れ!バカップル列車
第19号 常磐線の白い鈍行電車



   二

 その日は朝から雨が降っていた。
 二○○六年五月二七日土曜日。競馬の日本ダービーが開催されるこのころは、概して晴天の日が多いのだが、年によっては梅雨の走りというか、雨が多くなることもある。今年はどうやら雨の年らしい。
 乗車する列車は、10時16分発、10時52分発、11時12分発のどれかだが、このうちのどれに乗るかはまだ決めていない。
 二人で上野駅九番線のホームまで来て列車を待った。ベンチに座っていると、反対側の八番線ホームの屋根からはどういう訳か雨樋が一本突き出ていて、雨水がジャージャー流れて出ている。それが八番線に停まっている電車の屋根に落ちて、ものすごい水しぶきが飛んでくる。その車両の雨樋からは雨水がザーザー落ちている。
「あの雨樋、なんとかならないのかな」
「なんだろね」
「雨が降るたびに、ああなるのかな」
「わからん」
 暇なので、雨水をぼんやり見るぐらいしか、することがない。
 候補となっている三本の鈍行電車のうち、どれに乗るかはその時にどんな車両が来るかで決めようと思う。
 常磐線の「中電」鈍行電車の車両にはいくつかの種類がある。
 製造時期や性能によって少しずつ種類が違うのであるが、403系とか415系とか、E501系とか新型のE531系とかいった電車がまぜこぜに走っている。
 このうち403系と415系は国鉄時代から製造された三扉の中距離型電車で、403系はすべて白い車体に青帯の入った車両であるが、415系には製造時期によって白い車体のものと、ステンレスの車体に青帯が入ったものとの二種類がある。
 JRになってから製造されたのはE501系とE531系である。E501系は四扉の通勤電車のような車両で、ステンレス車体に緑の帯がある。すべて山手線のようなロングシートでトイレもないため、中距離利用客からは不評で、途中で製造中止されている。最新のE531系はステンレス車体に青帯があり、四扉ではあるが、403系と415系と同じように、向かい合わせの四人がけボックス席やトイレもあって、中距離用に改善されている。
 JRは二○○六年度中を目途に、常磐線上野発着の「中電」をすべてE531系に置き換える計画を立てているようだ。国鉄時代からの403系、415系や評判の悪かったE501系は上野駅から姿を消してしまう。特に製造年代の古い403系などは上野撤退と共に廃車されてしまうだろうから、やはりいまのうちに古くて白い鈍行電車に乗っておきたい。
 だから、10時16分発、10時52分発、11時12分発のうちどれに乗るかの判断のポイントは、一番古い403系の、しかも窓が作り込み窓になっている車両が連結されているかどうかにある。
 ところが10時16分の列車はすべてステンレス車体の電車だったので、見送ることにした。
 またしばらくぼんやり待って、10時52分の列車が入って来る。こちらは白い車体に青帯の電車も連結されていたが、窓はすべてユニット窓である。
「どうする?」
 みつこさんが訊く。乗るべきか見送るべきか迷う。
「もう一本だけ待ってもいいかな」
「いいよ」
「次の電車が、もし全部ユニット窓でも、次の電車には必ず乗るから」
「わかた」
 そうして念じるような気持ちで11時12分発の367M列車を待つことにした。
 時間が来て、秋葉原方向から電車が回送されて来る。
 先頭はステンレス車体の415系電車である。
(やはり、ダメだったか)
 そう思っていたら、後ろの方には403系の白い電車がつながっていて、その中には作り込み窓の車両も連結されていた。
「おお、これだよ、これ!」
「ひろさん、よかったじゃん」
「待った甲斐があったってものだな」
 車体の裾に「モハ402‐16」と書かれた、作り込み窓の車両に乗り込み、四人がけのボックス席に二人で陣取った。
 出発時間が近づくにつれ、乗客が増えてきて、座席が埋まって行く。

 11時12分になり、常磐線367Mいわき行きが発車した。
 往年の上野駅の面影をそのまま残す広い構内をゆっくりと進む。いくつものポイントを渡りながら、上野の山の下のカーブを左に曲がってゆく。スピードが出る間もなく日暮里に停車。
 日暮里を出るとようやくスピードが出てきて、こんどは右に急カーブして進行方向を北西から東へ。Uターンに近いぐらいの方向転換をする。
 常磐線は、もともと私鉄日本鉄道の路線であった。一部水戸鉄道の線路を譲り受けた区間もあるが、ほとんどの区間の建設は日本鉄道によって行われたと言っていい。いまは閉山されてしまった常磐炭鉱の石炭を品川線(品川〜赤羽間・山手線の原型)を通じて東海道線方面に輸送することを主な目的として建設された。
 当時は上野駅と東海道線はつながっていなかったので、常磐線(土浦線と呼ばれていた)を上野側につなげても意味がない。なので品川方面への輸送を重視して新しく設置された田端を起点としたのである(一八九六(明治二九)年)。のちに上野発水戸方面の列車も走ることとなったが、田端駅でのスイッチバックが必要だった。
 このスイッチバックを解消するために作られたのが日暮里〜三河島間の短絡線である。一九○五(明治三八)年のことだった。後でとってつけたような形なので、不自然な急カーブの線路となった。
 短絡線が開通しても田端〜三河島間の線路は残り、いまは貨物線となっている。三河島で貨物線と短絡線が合流する地点で起きた衝突事故が一九六二(昭和三七)年の三河島事故である。私が常磐線に乗る機会はとても少ないが、ここを通るときはいつも心の中で手を合わせる。
 三河島に停車した。二○○四年三月まで「普通」列車だった「中電」は三河島と南千住は通過していて、「快速」電車はこの二駅に停車するという紛らわしい現象になっていたため、「中電」と「快速」の停車駅を統一し、さらに取手までの区間では「中電」も旅客案内上「快速」と表示して、乗り間違えなどがないよう改善されている。



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