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走れ!バカップル列車
第17号 ふるさと銀河線普通列車



   二

 北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線というのが、池田から北見まで通じる鉄道の正式な名称である。一九八九(平成元)年、沿線自治体などの共同出資により発足した北海道唯一の第三セクター鉄道で、国鉄末期に廃止対象となったJR池北線を引き継いだ路線である。
 140・0キロの長いレールは、池田町、本別町、足寄町、陸別町、置戸町、訓子府町、北見市という七つの自治体を通っている。「ふるさと銀河線」という路線名は一般公募によって決まったが、これら七つの町を銀河の星になぞらえてもいる。
 沿線は人口が少なく過疎化が進み、自然環境も厳しい。陸別町は冬期最低気温の平均値が日本一低く、氷点下30度以下になることも多い。
 ふるさと銀河線は、そうした厳しい条件の中で走り始めた。開業二年目の一九九○年度は年間乗客数が百万人を超えたが、その後は次第に減少、二○○三(平成十五)年度には半分の五十万人を下回ってしまった。自治体が拠出した経営安定基金は毎年発生する四億とも五億とも言われる赤字によって取り崩され、それもいよいよ底を突く。二○○五年三月には取締役会、同年四月には臨時株主総会でふるさと銀河線の廃止が決定。ついに二○○六年四月二十一日をもって廃止されることになってしまった。
 陸別町は最後までこの廃止に反対したという。沿線の七つの自治体のうち唯一バスの通わない町である。鉄道がなくなれば公共交通機関がなくなってしまう。

 いわゆる「国鉄再建法」が成立した昭和五十五(一九八○)年頃、北海道には国鉄線が約4000キロ走っていたが、現在のJR線は約2500キロに過ぎない。ふるさと銀河線を入れても以前の三分の二にまで減ってしまっている。
 北海道は人口が少ない割に鉄道路線の多いことが関係しているのだろう。
 その理由はいくつか考えられるが、よく言われるのは、鉄道が北海道の開拓を担っていたということである。本州以南の鉄道は旧街道に沿って敷設され、かつての宿場町あるいは城下町の近くに駅を設けるという形が多いが、北海道では鉄道が人を導く役割を果たしたといえる。
 北海道に最初に開通した鉄道は、港町小樽の手宮と札幌を結んだ。この鉄道は明治十三(一八八○)年の開通で、新橋〜横浜間、京都〜神戸間に次いで日本で三番目に古い鉄道である。日本鉄道上野〜熊谷間の開通が明治十六年だから、札幌駅の歴史は上野駅より古い。北海道において鉄道がいかに重要な位置を占めていたか、このことからも窺い知ることができる。
 石炭輸送も重要な役割であった。手宮〜札幌間の鉄道が明治十五年に幌内まで延長されたほか多数の炭鉱鉄道が建設され、北海道中部で産出した石炭を港に運ぶ使命を果たしていた。
 そして北海道に鉄道路線が多いもう一つの理由として付け加えたいのは、建設技術発達によるルート変更である。
 北海道には、中央に北見山地、石狩山地、夕張山地、日高山脈など険しい山々が南北に連なっている。道央と道東を結ぶ鉄道はこれらの山々を越えなければならないが、明治の頃は建設技術、特にトンネル掘削技術が未発達であるため、当初は山を越えるというより、山を迂回することによって敷設が進められた。
 時代が進むにつれて建設技術が発達すると、目的地により速く到達するため、トンネルを掘り新線が建設されるようになる。これによって旧線は当初の目的を失うのだが、すでに地域の足になっていることもあって、その廃止はなかなか難しい。
 結果として旧線・新線ともに存在することになり、路線距離が伸び、密度が高くなっていった。

 ふるさと銀河線はまさにルート変更によって役割を失った幹線の残像である。
 網走に至る路線は、明治二十九(一八九六)年の北海道鉄道敷設法に定められた「十勝国利別ヨリ北見国相ノ内ニ至ル鉄道」として計画されている。明治三十八(一九○五)年には経路を「池田網走間」に変更した上で建設の優先順位が繰り上げられ、明治四十年に池田から着工された。
 明治四十三(一九一○)年には淕別(現・陸別)まで開通、淕別以北は深い渓谷で工事は困難を極めたが、翌明治四十四年には野付牛(現・北見)に達し、大正元(一九一二)年には網走まで開通した。
 この鉄道で網走に行くには、旭川まで行き、富良野、帯広を経て、池田から北見へ抜けるという遠回りをしなければならない。旭川〜網走間をこの経路で行くと397・5キロにもなる(現路線の営業キロで計算)。現在の石北本線だと同じ区間が237・7キロだから、じつに1・6倍も長い。網走まで開通した翌年(大正二年)には滝川〜富良野間をショートカットする路線が開通したので(現・根室本線)、若干距離は縮んではいるが、依然大迂回路線である。
 池田〜網走間は網走本線と命名され、道央と網走を結ぶ唯一つの鉄道として重要な役割を担った。
 しかし、その時代はそう長くは続かない。大正十(一九二一)年になると、宗谷本線の名寄から紋別、遠軽を経て野付牛に至る名寄線、湧別線が開通し、池田経由より若干短いルートが開通した(旭川〜網走間327・5キロ)。さらに時代が下って昭和七(一九三二)年には、北見山地を4356メートルの石北トンネルで抜ける石北線が開通。現在の石北本線のルートが完成する。網走までの主要ルートはこの時点で石北線に譲っていたと考えていい。
 網走本線の名はその後、昭和三十六(一九六一)年まで残されたが、この年、名実ともに本線の座を譲った池田〜北見間の鉄道は、起点・終点駅の頭文字を取って「池北(ちほく)線」と名づけられた。もとより人口の少ない地域である。その先に、北見、網走があるからこそ成り立っていた路線は、その目的を失えば一ローカル線でしかない。
 運命はこの時、定められていたのだろうか。昭和四十七(一九七二)年刊行の『日本国有鉄道百年史 第9巻』には短くこうある。
「北見地方に対しては、明治40年代に池田から網走線が建設されたが、これは昭和7年の石北線の開通によりその意義を減じた。」
 八年後の昭和五十五年、「国鉄再建法」が成立、池北線は特定地方交通線として廃止・転換の対象となる。



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