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走れ!バカップル列車
第6号 ブルートレインあさかぜ



   一

 寝台特急「あさかぜ」は、日本で最初のブルートレインである。
 その登場は東海道本線全線電化の昭和三十一年(一九五六年)十一月十九日。戦後初の夜行特急列車として、東京〜博多間で運転を開始した。この時はまだブルートレインではなく従来型客車による地味な編成であったが、東京と九州を結ぶことに目的を限定したダイヤは、大阪停車が真夜中になるというそれまでの常識ではとても考えられなかった画期的なものであった。
「あさかぜ」はその利便性から好評を博し、昭和三十三年(一九五八年)には新たに開発された20系客車に衣替えをする。青いスマートな車体に三本の白いラインの入ったこの車両は、全車冷暖房完備という豪華な設備を誇り、「走るホテル」の異名を取る。この20系客車の車体がブルーであったことから、いつしか寝台特急のことをブルートレインと呼ぶようになったのである。
 話はそれるが、私もこの20系寝台車に乗ったことがある。中学三年生だったから、最初の登場から二十五年が経過しており、すでに寝台特急からは引退し、寝台急行に格下げされていた。B寝台車は三段式で寝台幅は五十二センチ。頭はつっかえるし、寝返りもままならないし、なんでこれが「走るホテル」なんだろうと思ったものである。
 もちろんデビュー当初はそれまでと比べれば格段に快適だったのだろう。それに私が乗ったのはB寝台である。20系の真骨頂はむしろA寝台にあったといえる。昭和三十八年ごろの「あさかぜ」は全十五両中、実に六両がA寝台であった。なかでも頂点はナロネ20で、ルーメットと呼ばれる一人用個室が十室、二人用個室が四室という、いまで言えば「北斗星」などの個室寝台に匹敵するような豪華車両であった。飛行機は一般的でなく、高速道路もなく、まさに鉄道が全盛だった時代の話である。
 私は「あさかぜ」に乗ったことがない。もちろん機会はいくらでもあっただろうし、「あさかぜ」以外の寝台特急には「ゆうづる」「彗星」「瀬戸」「あけぼの」「北斗星」「はくつる」「さくら」「出雲」など、さすがに鉄道おたくだけにいくつも乗ったことがある。
 私たちのバカップル列車で、「あさかぜ」に乗ろうという計画がなかった訳ではない。「第4号 根室本線2429D」で少し書いたが、山陽本線の下関を12時01分に発車する上り列車三石行き(425・7キロを7時間10分かけて走る当時最長の普通列車)に乗ろうと密かに計画したことがある。この列車に乗るには下関に09時55分に着く下り「あさかぜ」で行くと都合が良い。
 ところが昨年(二○○四年)十月十六日のダイヤ改正で、この山陽線普通列車は三石の41キロ手前の岡山止まりに短縮される。最長の普通列車ではなくなってしまったのである。もしこのダイヤ改正のことを先に知っていれば、私たちは根室本線には行かずに山陽本線に行っただろうが、北海道行きの飛行機を予約してしまった後ではどうにもならない。根室本線に行って、山陽本線にも行くというのは家計が許さない。

 結局、「あさかぜ」には乗ることなく日々が過ぎていったのであるが、暮れも押し詰まった十二月二十二日、私たち鉄道ファンにとって非常にショッキングなニュースが流れる。
 寝台特急「あさかぜ」「さくら」が廃止されることになったのである。
 この日、JR各社から翌年(二○○五年)三月一日ダイヤ改正の概要が発表された。たとえばJR東日本の場合、越後湯沢と北陸方面を結ぶ特急「はくたか」の増発、常磐線特急「フレッシュひたち」の編成増強など明るい話題にならんで、「寝台特急をご利用に合わせた体系とします」とあって、「あさかぜ」「さくら」の廃止が記されている。つまり二月二十八日限りで、この二つの寝台特急は姿を消す。
「ご利用に合わせた」というのは、要するに乗る人がいなくなったということである。古いデータ(平成十二年)を用いた大ざっぱな分析だが、東京都から福岡県に出掛けた人は年間で215万5千人。そのうち、83・8%にあたる180万7千人が航空機利用である。鉄道利用は13・5%にあたる29万1千人で、航空機の6分の1以下に過ぎない。鉄道利用者の内訳を示すデータは見つからなかったが、29万人いると言っても、多くは新幹線利用と思われる。
 だから、「九州特急」と言われ隆盛を極めた寝台特急も徐々に縮小されていくのは当然のことで、いずれこうなることはわかっていた。
 いまや東京駅を夕方に発車する寝台特急は、「富士」大分行き(16時56分発)、「はやぶさ」熊本行きと「さくら」長崎行き(18時05分発)、「あさかぜ」下関行き(19時00分発)、「出雲」出雲市行き(21時10分発)、「サンライズ瀬戸」高松行きと「サンライズ出雲」出雲市行き(22時00分発)の七列車のみである。
「あさかぜ」も昭和四十年代は一日三往復走っていたが、一九七五年(昭和五十年)には山陽新幹線が開通して二往復になる。バブル景気の頃(一九八六年)、B寝台車や食堂車がグレードアップされたりもしたが、一九九三年(平成五年)には食堂車が廃止、その翌年には東京〜博多間の元祖「あさかぜ」が廃止されて、以降東京〜下関間の一往復が残るのみとなってしまった。
 交通機関はスピードとコストとの戦いである。より速い航空機が飛んでいれば、より安い高速バスが走っていれば、そっちに客が流れるのは無理もない。かく言う私だって福岡出張はすべて飛行機利用。新幹線で東京〜博多間を通して乗ったのはわずかに二回だし、東京〜九州間で寝台特急に乗ったことは一度もない。ブルートレインが次々と消えていくのは寂しいことである。「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」のように豪華列車として、あるいは「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」のように高速化・個室化するなどして、なんとか存続の道を開けなかったものかとは思う。だが、乗りもしない私には夜行寝台の廃止に文句を言う資格はないだろう。



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