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走れ!バカップル列車
第2号 箱根登山電車



   五

 三両編成の箱根湯本行き電車はこんどは急勾配を下る。時速30キロぐらいの速度でゆっくりと走ってゆく。
 登山電車の運転席には二つのレバーがあって、左側がモーターを制御するレバー、右側がブレーキレバーになっている。
 左側のレバーは手前に引くと「力行」となってモーターが回り出す。坂を登るとき、運転手はこのレバーを引きっぱなしにして、ひたすらモーターを回し続ける。
 左側のレバーは向こう側に押せるようにもなっていて、これを押すと「抑速」となってモーターを発電機として使う電磁ブレーキがかかる。自動車で言えばエンジンブレーキのようなもので、坂を下るとき、運転手はこのレバーを押しっぱなしにして、電磁ブレーキをかけ続ける。右側のブレーキレバーを使う空気ブレーキは駅や信号場に停車するときしか使わない。
 登山電車には、留置用の手動ブレーキ、減速・停止用の空気ブレーキ、下り坂走行用の電磁ブレーキのほかに、レールを直接抑えつけるレール圧着ブレーキというのがあるのだが、その操作はどのレバーを使うのか、運転席を覗く限りではわからない。
 とにかく坂道は登るときより、下るときの方が難しい。そのため登山電車のブレーキは二重、三重にもなっていて、万全の安全性を備えている。
 そうして電車は来た道を戻り、三度のスイッチバックを経て15時31分、箱根湯本に着いた。帰りのロマンスカーは16時18分発の「はこね32号」である。
 妹ゆかは買い込んだミッフィーグッズを大事そうに抱えて町田で降りた。新宿には17時45分に到着。おいしい料理を食べたり、ミッフィーのイラストを見たり、登山電車に乗ったり、少なくとも箱根にいるうちは盗難のことを忘れることができた。箱根に行って、やっぱり良かったと思う。

 しかし東京に来れば、また現実が戻って来る。
 新宿に来たついでに伊勢丹のカルティエ・ブティックに行くことにした。新婚旅行のときにミラノで買ったカルティエの時計の箱と保証書と時間を調節するためのピンが盗まれたのである。時計本体は当日腕に着けて出掛けたのでどうにか助かった。箱と保証書は諦めるにしても、時間を調節するピンはないと困る。
 カルティエの店で事情を説明してピンを欲しいというと、消費税込みで6万3千円だと言われた。針金をちょこっと曲げたような小さなピンが6万もすると聞いて、みつこさんはまた怒りを覚えたようだ。別にカルティエが悪いわけではなく、泥棒に腹を立てているのである。6万かかっても仕方ないので取り寄せてもらうことにして、家に帰り着いた。
 昼ご飯はちょっと贅沢をしたので、夜は簡単に家で食べる。
「きょうはレトルトカレーだよ。簡単ですまんのう」
「いいやあ」
 そうして夕ご飯の仕度ができた。カレーの上には、伊勢丹の地下で買ったコロッケが乗っている。
「やっぱりカレーマルシェはおいしいのう」
「ごめん。これ、マルシェじゃないんだ」
「え?」
「家に着いたらマルシェがなかったから、ディナーカレーなんだ。いかんかったかのう」
「いやぁ。マッシュルームはいつも通りだけど、いやにお肉がごろごろと大きいと思ったんだ」
「そうなんだよ。ディナーカレーはお肉が大きいんだよ。なかなかのもんだろ?」
「うん、なかなかだな」
 そうして食べ終わるころ、みつこさんが言う。
「こうして、二人でごはん食べられるってことが、幸せなんだよ」
 盗まれた物は、二人が健康ならまた取り戻せる。しばらくはショックで沈んでいるかも知れないが、なるべくそう考えるようにしようと思う。
「みちゃん、よかったよ」
「そうだね、ひろさん」
 時計を見たら、もう9時になっている。窓の外では、虫がジージーと鳴き続けていた。



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