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走れ!バカップル列車
第2号 箱根登山電車



   四

 電車は再び発車する。こんどは後ろ向きに走り出す。私も運転手を追いかけて反対側の運転席の後ろに行こうとするが、通路は混雑していて、車内を移動するのは大変である。駅なら電車のドアが開くので、ホームを歩いてさっと向こう側の車両に乗り移れるのだが、出山は信号場なのでそれは出来ない。それでも人をかき分けて前の方に行くと、みつこさんとゆかがいた。ゆかは座席に座って、みつこさんは吊革につかまって立っている。みつこさんが私を見かけるなり、こう言う。
「なんで立って来ちゃったの? せっかく座れたのに」
「え、でも、電車が反対に進むから……」
 そう言っても、わかってもらえそうもない。
 さらに進んで隣の車両に移ろうとした私はここで愕然とした。前後の車両に移動するための貫通扉がないのである。これにはいまのいままで気づかなかった。線路が急カーブの連続で車両を移るのは危険だから、はじめから貫通路を設けていないのだという。
 私もついに諦めて、立ったまま窓の外を眺めることになる。
 電車は箱根の深い谷を見下ろしながら、黙々と80パーミルの急坂を登り続けている。山の緑は色が濃く、雨に濡れて青みがかっている。雲は低く垂れ込めて、その切れ端が谷の底を漂っている。まさに深山幽谷の世界である。
 大平台の駅に着いた。ここでやっとドアが開く。みつこさんとゆかとは強羅でまた会うことにして、私だけ隣の車両に移って、反対側の運転席から前方を眺めることにする。しかし、この大平台もスイッチバックの駅である。運転手と車掌がまた入れ替わって電車は後ろ向きに走り出す。ただしこのバック運転は短くて、すぐにまた戻る。66・7パーミルの勾配で約460メートル進んだ先に次の上大平台信号場があって、三回目のスイッチバックをするからである。この上大平台が最後のスイッチバックで、ここから先は強羅まで真っ直ぐ進む。
 運転手と車掌はスイッチバックの度に入れ替わる。再び運転手がやって来て、電車は前向きに走り始める。上大平台から先も急斜面の谷間を等高線に沿いながら80パーミルで登る。箱根登山電車のすごいところは、極限ともいえる80パーミルがある限られた箇所だけにあるのではなくて、ごく「普通」に連続していることである。箱根湯本〜強羅間の8・9キロのうち、47%に当たる4・2キロが80パーミルの区間となっている。

 トンネルを抜け、仙人台の信号場を過ぎると、今度は半径30メートルの曲線が登場する。早川に流れ込む小さな沢が刻んだ谷を、この超急カーブで律儀に回り込む。
 線路の両側に繁っているのは紫陽花で、梅雨の頃はきれいな花に囲まれて走る。このため登山電車は別名「あじさい電車」とも呼ばれている。
 宮ノ下の駅を出て周辺の家並みを右に見ながら、また80パーミルを登る。小涌谷の駅で箱根湯本行き電車とのすれ違いのため3分停車する。この辺りはもう箱根の中央火口丘群の山麓になり、緩やかな斜面の上を走る。勾配も小さくなって、もう強羅まで80パーミルの区間はない。
 彫刻の森の駅に停車して、11時11分、終点強羅に着いた。強羅駅の標高は553メートルなので湯本から445メートル登ったことになる。平均勾配にすると50パーミルという計算である。
 ホームに降りると、みつこさんとゆかがいる。雨がしとしと降る中、三人で線路沿いの道を湯本方向へ歩いていく。まだ八月だというのに、長袖でないと寒いぐらいだ。石畳の踏切を渡ると懐石料理花壇である。ここで上品でおいしい料理を楽しむ。
 そして、いよいよゆかが楽しみにしていた彫刻の森美術館に向かうことになる。入場券を買って入ったのは13時半ごろであった。広い庭園には彫刻がいくつも並んでいるのだが、ゆかは迷わず特別展「ミッフィーのたのしいびじゅつかん」に直行した。こちらは屋内で、ミッフィーのイラストや絵本が展示されていたり、迷路やぬりえやパズルや積木のコーナーがあって、子供が遊んでいたりする。
 三人でミッフィーグッズコーナーを物色したり、臨時郵便局の脇で葉書を書いてたりしているうちにあっと言う間に時間が過ぎた。
「あ、もう、3時になるよ」
 ゆかが気づいた。遅くとも彫刻の森駅を15時33分の電車に乗らないと帰りのロマンスカーに間に合わない。
 少し急ぎながら駅まで歩いたら、ちょっと早すぎたようで15時03分の電車に乗ることになった。



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