古谷利裕
最近DVDソフト化されたルノアールの『ボヴァリー夫人』は、映画によってはじめて経験出来るような感覚を我々に提示しているように思われる。例えていえば、それは、複数の人物が一斉に、それぞれバラバラな方向に、バラバラな速度で、バラバラな仕種をしつつ動き出すのを目の当たりにするような感覚だと言える。一つの例として、エンマとロドルフが馬で郊外の森に出掛ける場面の、ロドルフがエンマに抱きつこうとして拒否されるショットが挙げられる。このショットで見ることの出来るものは、エンマとロドルフを演じる二人の人物(の演技や衣装)、その後ろで尻尾を振り、口をモゴモゴと動かしている白馬、そこに射している眩しいばかりの陽光、そしてそれらの背景にある森、なのだが、この、それぞれ独立した四つの系は、互いに同調することで一つの場面を形作ろうという気配はまるでなく、それぞれが勝手に存在し、分離したままで別々の時間が進行しているように見える。エンマがロドルフを拒否する身ぶりは、その後ろでそんな騒ぎをまるで感知せずにモゴモゴと口を動かし、尻尾を降っている白馬と、ほぼ同等の強さを持つショットの構成要素の一つでしかないし、その両者を共に照らしている光も、人間や馬の都合とは関係なく、おそらくフレームの外にある木の枝の揺れにあわせ、ただゆらゆらと動いているだけだ。(だからこのショットは、エンマとロドルフのショットであるのと同等の重さで、白馬のショットでもあり、木漏れ日のショットでもある。エンマとロドルフのドラマは、このショットに存在する複数の流れのうちの一つに過ぎない。)この無頓着なバラバラさこそが、我々を撃つのだ。そして、この「バラバラである」という感覚は、分離した複数の系が、一つのフレーム(それ自体一つの持続である一つのショット=時間)によって貫かれ、仮留めされていることによって、生まれるのだろう。映画は、それ自体が一つの持続である「ショット」というフレームによって、複数の分離した時間を貫くことで、肉眼では見えないものを示すことが出来る。
ところで、美術作品は映画に撮られることでどのような変質を被るのだろうか。(ここではとりあえず、その「絵」が複製かオリジナルかという問題は棚上げにしておく。)ある絵画を5秒間見つめることと、その絵画を撮影したショットが5秒間持続することは、どのように違うのだろう。絵の前に立つ観客が「5秒間」その絵を見つめることは、その観客の自由な意志や気まぐれによるだろう。つまりそれは、観客と絵との関係によって導かれた時間だと言うことが出来る。しかし、映画に撮られた絵画は、観客の都合とは無関係にきっちりと5秒間だけ持続し、そして消え去る。観客の目は、自動的に、そして強制的に、次のショットへと移っていかざるをえない。絵画は、強制的にあるリニアな時間の流れ(配置)のなかに置かれ、つまり、物語(展開)の一つの要素としてそのなかに配置される。絵の前にいる観客を考えた場合、絵から目を逸らしても絵はそこにありつづけ、観客は依然として目の端でそれを捉えてつづけているかもしれないし、他へ向かって数歩歩きだして(あるいは画集のページをめくって)から気が変わり、再び振り返って(めくり返して)、その絵を見るかもしれない。しかし映画のなかの絵画は、決まった時間だけ姿を顕わし、それを見たという記憶の印象のみを残し、跡形も無く消えてしまうだろう。
一度、ある絵画作品の全体が映し出され、しばらく全体を見せた後に特定の部分にズームアップされ、その部分が大きく示される。ややあってショットがかわり、同じ絵の別の部分が大写しにされ、絵の流れを追うようにそこからゆっくりとフレームが移動してゆく。そのような、カメラワークや編集によって、1枚の絵は、時間のなかでの展開をもつようになる。勿論、実際に絵の前に立っている観客も、時間の流れのなかで絵を見ていることにかわりはない。画面のなかに視線を泳がせ、時に近寄って細部を確かめ、あるいは遠ざかって全体を眺めたりするだろう。しかしその時間(展開)は、それを見ている身体の運動の流れのなかにある。絵画を「見る」ことは、ただそれを見るという行為だけがあるのではなく、眼球を動かし、首を動かし、足を動かす身体の動きのなかに置かれることによって意味をもつ。見ることは身体の運動との自然な繋がりのなかにあり、見ること(入力)は、動くこと(出力)を生み、その動きによってまた「見えること」(入力)そのものも動いてゆき、その結果、次の動き(出力)に変化を生じさせもする。同じ絵を見ても、見るたびに視線の動き、絵に近寄ったり遠ざかったりする動きは異なるだろうし、興味のない絵の前を一瞥しただけで通り過ぎようとして、ふと、気になる何ものかをみとめ、改めて近寄ってそれをよく見る、ということもあるだろう。つまり、絵を認識しようとするための身体の動きは、絵から認識されたものによって刻々と変化し、その動き(展開)が事前に決まっているわけではない。気付くことによって動きをかえ、動きをかえることによって、あらたなことに気付く。対して、撮影され、編集された映画における絵画を見る視線は、上映される度ごとに、正確に機械的にその展開(動き)を反復させるだろう。映画のアクションは、映画それ自体の進行する時間のアクセントの配置であり、それは観客が動きを止めることを要求するが、絵画作品はそれ自体が動かないことによって、観客を動かす。
1枚の絵を、あるいは画集のあるページを、我々は長時間飽きもせずに眺めつづけることができる。しかし、映画で、フィックスで撮影され、そこにナレーション(言葉による展開)も音楽(による展開)もなく、ただ1枚の絵の全体が示されているだけのショットを、長時間にわたって見続けることが出来るだろうか。何故、1枚の絵をぼーっと眺めつづけることが出来て、1枚の絵を撮ったショットをぼーっと眺めつづけることが困難なのだろう。それは、映画にははじめから決まった(強制された)一つの時間の流れがあり、ショットには、あらかじめ決まった持続時間があるため、そのショットがいつ終わるのかということが、常に意識のどこかで気になってしまうからではないだろうか。だが、例えば、そのショットが「美術館の一画」という場所(空間)をも同時に示すショットで、時折、その絵を見る人の後ろ姿が通り過ぎてゆくとしたら、我々はかなり長い時間でも、そのショットを見続けることが出来るのではないだろうか。つまりこの時、ショットの内部に、ずっとそこにありつづける絵画と、その前を時折通り過ぎる動く人物という、二つの異なる系列の時間が生まれるため、そのショット自体が持続する時間という「たった一つの(強制された)時間の流れ」が後退するからではないだろうか。予め確定された時間を含まない絵画のフレームは、それ自体として特定の時間(持続)をもつ映画のフレームとは決して一致しないのだが、そこにあり得ない一致を目指すのではなく、映画のもつ唯一の時間のなかに、絵画と人物という、複数の異なる流れが同時に捉えられた時、その一項として(そのショットの構成要素の一つとして)、ふいに「絵画」が映画のフレームの内部に出現してくるように思える。
『美の美』のボッシュ篇をポレポレ東中のという映画館に観に行った時、上映に先立って吉田喜重監督によるトークを聞くことができた。吉田監督は、乱れることのない一定のペース、独自のイントネーションを持った、澱むことのないおだやかな調子で、この番組に関わった経緯や、美術に関する考え方などを、約40分ほど話された。トークが終了し、上映が始まると、それと全く同じ調子の同じ声が、ナレーションとして画面の方から聞こえてくることに不思議な印象を感じた。その後、横浜美術館でも『美の美』の他の作品の上映があった。ここでは、吉田監督が構成・演出を手がけながら、ナレーションを別の人が担当した蕪村篇も上映された。それを見て一層強く、『美の美』というシリーズが、吉田監督自身の語り(声)によって、その特異性が刻まれていることを感じた。時にまわりくどく、時に滑稽にさえ感じられる程に断定を避ける言い回しを徹底するそのナレーションが、この作品の調子を決定し、断定している、というのは逆説的ではあるけれど。
しかし勿論、この声=語りは、作品全体を専制的に制御しているのではない。観客は、この魅力的な語りによって作品内部へと誘い込まれてゆくが、声=言葉が語ることは、主に作家の人生であり、作品の解釈であり、その時代背景であろう。しかし、画面の展開が見せているのは、作品そのものや作品の部分であり、その作品が置かれている場所であり、作家にゆかりのある土地の(撮影当時の)「現在」の風景であり、あるいは、(作品を見ている)吉田監督の背中である。そのそれぞれは、互いに一部で重なりながらも、それぞれが独立してある。ナレーションの言葉が組み立てる物語=時間と、画面の連鎖が組み立てる展開=時間とは、きれいに重なり合うことはない。画面の外から語っている声と、画面の内部に時折ふっとあらわれる絵を見ている背中とが、同一人物のものであることは、『美の美』という作品の外からくる知識によって知ることが出来るのであって、ただ『美の美』という作品の画面と音の連鎖を見るだけでは、この、声と背中との結びつきを保証するものはない。むしろ、同一人物のものであるはずの声と背中が分離されていることによってこそ、『美の美』という作品は、その内部に美術作品を招き入れることを可能にしているのではないかとさえ思える。例えば、ボッシュの作品を捉えたショットと、ボッシュの生きたであろう土地の現在を捉えた風景のショットとが、どちらが主でどちらが従ということもなく、同等な強さで併置される時、観客はその結びつき(関係)をナレーションの言葉によって知らされているにも関わらず、その二つのイメージの混じり合わなさを感じるだろう。その時二つのイメージは、互いに混じり合わないまま(関係を確定できないまま)、互いを照らし合うことになるだろう。同様に、絵画作品そのものを映し出すショットと、その作品についての解釈が語られる声(言葉)ともまた、どちらが主でも、どちらが従でもなく、同等であることによって(背中と声との関係のように)分離するだろう。そして、イメージと言葉ともまた、分離することで、互いを、それぞれの視点から照らし合うだろう。それら、分離したものたちが、分離したまま(分離することによって)互いに照らし合うことが可能なのは、それらが、映画の展開が強いる、一つのリニアな時間(のフレーム)によって貫かれ、仮留めされているからだ、と言えるのではないだろうか。
(「吉田喜重 反映画-はじまりの映画、おわりの映画」パンフレット)