2/3(木)
1. 絵を描くということは、イメージを操作する技術というより、どちらかというと事物を加工する技術だったりする。ただ、絵画の場合、その事物が特殊な物体であって、平べったかったりする。
ある「 事物 」にぼくの「 身体 」を介入させることによって「 加工 」し、その事物に何ごとかを語らせる技術。「 事物 」そのものを、ある種の「 イメージ 」に変換する技術。あるいは、事物そのものから、イメージを浮かびあがらせる技術。(ここでいう「 事物 」とはモデルやモチーフになる物のことではなくて、カンバスや絵具という、直接絵画の素材になるもののこと)
2. ここで下手をすると、絵画というのは「 私の目から見た(身体を通した)世界像 」ということになってしまう。私という特殊なフィルターあるいはレンズによって変形された世界。つまりそこには「 個性的な作家 」という存在がいて、そこそこ個性的に歪んだレンズをもっている、と。しかしそんなものはもうどうでもいい。
(絵画に限らず、作品というものが、ひとつのパースペクティブのものと、幾つかのイメージなり記号なりが配置されたもの、つまりは、ある世界観を示すようなものでしかないとしたら、ぼくはそんなものに興味はない。それなりには尊重されるべき、無数のマイナーな世界観たち。しかし、世界とはおそらく、一つのパースペクティブや世界観というものなど決して成立出来ないような場所のことなのだ。)
3. 絵画においては、事物を加工するのはどうしても私の身体ということになってしまう。写真や映画なんかだと、事物とイメージとの間に、カメラという機械が介入してくるのだけれど(光学的か機械とてのカメラ、化学的な物質としてのフィルム)、絵画の場合、事物とイメージの間には、私の身体しかない。私は絵具やカンバスに直接(筆などを通してであっても)触れることによってしか、事物を加工することが出来ない。
4. 前田英樹は、生きている身体による知覚は「 中枢的 」なものでしかなく、その身体の行動の可能性と結びつかないものは排除される、と言っている。それに対し、カメラという機械による知覚は、非中枢的なものであり、人間はカメラという機械(ことに、絵画を模倣したような肖像写真ではなく、スナップショットのようなもの)によって初めて、非中枢的な知覚に触れたのだ、と言う。
おそらくそれは正しい。しかし、人間の身体という非常に複雑に出来てしまっている組織が、本当にそんなに簡単に、有機的な統一体として中枢化されてしまっているのだろうか。
5. わざわざフロイトなどという名前を出すまでもなく、人間の身体とはひとつで既に複数であるようなものなのだ。それは本質的に潜在的なアクセス可能性によって開かれた構造をもつ、いくらでも柔軟に変形し分裂しうる、非中枢的な場なのだ、といえないだろうか。
事実、現代の我々の身体は、いくつものメディアとの接続によって、ますますその分裂の度合いを深めている。テレビを観ながらお菓子をつまみ、さらに友人と電話で会話する、なんていうことは日常的にあたりまえにおこなわれている。
6. セザンヌやマティスやピカソ(ピカソについてはやや保留が必要だけれど)のような、偉大な近代絵画の作家たちがひらいた、絵画作品における複数性という地平を、戦後のアメリカ型絵画が、モダニズムの名のもとに、今、ここにある、ひとつのもの、として一元化してしまった。そしてそれによって、事実上、絵画を殺してしまった。こういう言い方はあまりに一面的すぎることは良くわかっているけど・・・・(ぼく自身、戦後のアメリカ型絵画から最も強い影響をうけている訳だけれど・・・)でも、今は、あえてそう言い切ってしまうべきではないか、と思う。
7. なにも(例えばリヒターのように)カメラという非中枢的な知覚をもつ機械の力を借りなくても、我々の身体が既に複数に分裂したものの束でしかないのだから、我々は自らの分裂した身体によって、新たな複数性の絵画をひらくことが可能なのではないだろうか。
(しかし、ぼくは、複数のパネルやイメージを同時に並べる、といった安易な複数性には違和感を感じる。あくまで、一枚の絵画が、そのままそれとして複数であってほしいのだ。)2/6(日)
『私は行為が不利な結果に終わっても、それは結果であって行為そのものではないのだから、原則として、それを価値の観点から考えることをやめる立場をとるだろう。結果がわるいと、自分が行ったことを判断する正しい目を失いがちなものである。・・・自分のある行為が失敗した場合、失敗したからこそ、なおさらその行為に対して敬意をもちつづける--この方が私の道徳律にかなうのである。』《ニーチェ》2/9(水)
人はどのようにして何かを知ることができるのか。というか、何かを知ることとは、どういうことなのか。
何かを知るには時間がかかる。そのものの傍らにいて、長い時間を過ごす。時にはそのものの傍らにいる、ということさえ忘れてしまったりもしながら・・・。そうでなければ、人は、何か、今までに知らなかったことを知ることなんかできない。
あるものの傍らにいて、それとともに長い時間を過ごす。しかし、それで本当に何かを知ることができたと言えるのだろうか。そのことによって、見えなくなることも多いのではないか。その街に長いこと住んでいる人は、確かにその街の隅から隅まで知り尽くしているかもしれないけれど、初めてその街を訪れた人のような、ヴィヴィッドな印象を感じることはできなくなってしまっている。ぼくは、ぼくの身体が発している臭いを、感じることができなくなってしまっている。人は、あるものを得ることによって、あるものを失う。だとしたら、どのような距離、どのような位置関係でもって、事物やことがらと触れあうことが、より良く知る、ということになるのだろうか。
おそらくぼくは、少しばかり混乱してしまっている。かなり長いこと一緒に過ごしている作品たちの前で、これらのものたちを、自分でどのように評価したらよいのか、そもそも評価すべきなのか、自分の作った作品を自分で評価するとしたら、それはどのような基準によるのか、評価したからどうだというのか、もしもこれらのものが、徹底的に駄目だとしたら、その事実はぼくにとってどのような意味をもつのか。こういう考えを巡らしていること自体が、どうしようもなく無駄なことだと言えるのではないのか。
自分の作品を知る ?。知る、という言葉を使うのがいけないのだろうか。知る、という言葉のなかには支配するというニュアンスが分かち難く含まれている。知る、ことによって対象を支配=操作する。問題なのは、あるものの傍らでは長い間佇み、別のものとは、近くを通るだけでそのまま行ってしまう、という事実そのものの方にあるのだろう。それとともにあること、一瞬だけ触れること、触れることもなく擦れ違うこと、遠くから、ただ眺めること。
ところで、絵を描くとは触れることである。比喩的な言い方でもなんでもなく、ただ、絵具やカンバスに触れる、ということ。しかし、絵を観るには、距離が必要で、触れることではない。イメージに触れることはできない。このバカみたいに単純な、触れることと観ることの分裂が、絵画というメディアの魅力の本質なのだ、とかなんとか・・・。2/10(木)
金井美恵子の「 軽いめまい 」をぱらぱらと読み返す。桑原甲子雄に関する記述。
『写真に撮られている様々な大人も子供も女性も当然持ってそれを生きた個人的な人生の歴史という物語から切り離され、けれども、想像してみるのにそう難しくはない人生を生きただろう見知らぬ人々のざわめきが見る者にめまいに似た感覚を呼びおこす。』
『ノスタルジイと失われた時間への甘美さにむろん、桑原甲子雄の写真を見ることで、人々は浸りきることなど、本当は出来はしないのだ。ここに集められた写真は、六十年という時間の流れの幅の微妙にゆらめくあえかな襞のリアルさの質において、すなわち、カメラを持った人物の、作家意識として大仰な言葉では決して語られたことのない、淡々とした足の速度と街の光景の持つある瞬間に向けられた穏やかな官能ときわめて個人的な好奇心がカメラというメディアによって、ひそやかにそっと薄くその表面を剥ぎ取った光の時間が、その光の今を寡黙にそっと主張するだけだ。》
桑原甲子雄の写真集を、しばし眺める。。2/13(日)
夕方から、アトリエで製作。最近、以前よりますます、一枚の作品を仕上げるのに時間がかかるようになってきている。本当に小さいサイズの(例えばF20とかF30くらいの)作品を一点つくるのに、平気で3〜4ヶ月かかってしまったりする。まあ、何点かの作品を平行して製作しているし、以前に放棄してそのままの作品に、手が入るようになったりとかもするので、1ヶ月に一点くらいは出来るのだけど、しかし、F20が1ヶ月一点というのは、あまりに生産性が低すぎないか。決して、サボっている訳でも、製作の時間がとれない訳でもないのに。
まあ、ぼくの作品になにかしらの内容(意味)があるとしたら、そのなかにたっぷりと含まれている時間、というもの以外にはない訳で、仕方がないといえば仕方がないのだが。でも、絵画を形式という側面からしか観ない人なら、何故こんなものにそんなに時間がかかっているのか、理解できないだろう。確かに、結果、というか、その見栄え(ヴィジュアル)だけ観て、同じようなものをつくれと言われれば、ぼくだって1〜2時間もあればできてしまう。ぼくの作品に含まれている「 時間 」が、果たして他人にどこまで通じるものなのか、こんなことを今どきやることに何か意味があるのか、という事に関しては、全く自信も確信もないのだけど。
でも、少なくとも絵画というものに対してぼくが信用できることは、現在ではほぼその一点に尽きるのだから、まあ、それに賭けるしかない訳だ。一つの平面が、複数の質の異なる時間の層で成り立っている、ということ。視覚的にはフラット(に近く)見えても、そこには様々な相容れない(不連続な)時間のせめぎ合いが存在していて、穴だらけであること。(穴、を埋めてしまわない、ということにこそ、最大にして細心の注意が払われている訳です。)色彩は、決して純粋なものではなく、物質の色彩であること、しかし、物質であることによってこそ、色彩はある抽象性を獲得することが出来る・・・・等々。
こんなことを、自分で解説しても全然意味ないか。こういうのは、あくまでも、ひとつのもの、というか、作品をつくるための、作業上の仮説のようなものでしかなくて、問題なのは実際にどんなものが出来るか(どんな効果を持ちうるのか)、というところにしかないのだから。2/16(水)
濃い色の空。冷たい空気。乾燥する唇。小鳥が地面に落ちた木の実を鋭く尖った嘴でつついている。霜のために、もこもこ盛り上がってしまった地面。緑地のなかにある池の、水かさが、かなり減っている。ドローイングに使うための木の枝をひろう。これは、モチーフにするのではなく、これで描くのだった。葉は、濃い緑色なのだけど、枝と葉の間にすこしだけ覗く茎の部分が、鮮やかに赤い木があった。葉は、上に向かって生えているのではなく、バナナの房のようにして、何枚か重なって束になって垂れている。どんぐりを拾って、齧ってみると、青臭かった。
コンクリートの壁に、濡れたままのモップが立て掛けてあって、モップの水分が壁に染みて、丸いかたちの跡がついてしまっている。
ドローイングを、わざわざ拾ってきた枝などを使って描くのは、別にナチュラリズムとかエコロジーとかとは、何の関係もない。自然なんて全然信用していない。ただ、描きづらい描画材料で描くため。規格外の、変に曲がったり捩じれたりしていて、先端もきれいに揃っていない『筆』を使うことで、自分の『描く身体』に、常にある種の刺激というか、違和感を与えつづけながら、作業をするため。自分の『手癖』に対して、いつも意識的であろうとするため。
あと、単純に、筆とかペンとかに触っているより、木の枝に触っていた方が気持ちがいい、という幼児的なフェティシズムってのもあるかもしれない。支持体としての紙なんかにしても、ぼくは和紙のような、繊細で洗練されたものは苦手で、もっとごつごつとしていて、物質的な抵抗感の強い、不器用な感じのする洋紙の方が、触りがいがあって好きだったりする。)2/20(日)
当たり前だけど、われわれの脳というのは、目的論的に進化した訳ではない。進化、という言葉には、何か、神によって定められた道を、目的へ向かって前へと進んで行く、というニュアンスが付きまとってしまうけど、つまりそれは、単に突然変移と自然淘汰の気の遠くなるほどの積み重ね、ということなのだ。人間の脳の複雑さとは、言ってみれば、煩雑で行き当たりばったりな変化が、幾重にも複雑に織り重ねられた結果、としての『複雑さ』なのだ。それを後から振り返ってみれば、いかにもそれが合理的で理にかなったもののようにみえる、ということでしかない。だから脳には不必要で無駄な部分も多いはずだし、それが必ずしもシステムとして合理的に作動する(整備されている)とは限らない。
そしてわれわれの認識や行動は、そういう脳の構造自体のもっている、出来の悪さ(合理的ではない不必要な複雑さ)に決定的に規定されてしまっている。われわれが世界から感じるリアリティーというのは、世界の真実というより、ただ脳の構造によるものでしかないかもしれない。
物質としての脳、というか、情報処理器官としての脳のあり方が明らかになりつつある現代、こういう問題は、たんに哲学的な思弁とてではなく、あからさまに唯物的な事実として目の前に立ちはだかる。
しかし、ここで忘れてはならないのは、脳は決してそれ自体として完結したものではない、ということ。脳は、もともと生体維持に必要な感覚器官の神経を束ねる必要に応じて、その機能のために生まれて、それが、その後に複雑化したものだ。つまり生体が存在するための外界(世界)との関係なくして脳という存在はありえない。(当たり前だけど、脳、というのも世界の一部にすぎないのだ)大胆に言ってしまえば、脳が知覚神経を制御しているのではなく、知覚神経の発達のために、脳の複雑化がある、とも言えないことはないのだ。
唐突だけど、画家は、自分の身体(脳も含めて)が、空間のなかに存在することをけっして忘れない。絵画とはそういうものなのだ。そういうものでなければ意味がない。しかし、それと同時に、現代絵画は、身体を複雑に分裂させずには成立し得ない、とも思う。3/8(水)
大学時代の知人が個展に来て、鼻先で、フッ、と笑い「 雲をつかむような絵だね。」と、かなり軽蔑を込めた口調で言った。
まあ、これは相当的確な指摘ではある。確かにぼくがやろうとしていることは、『雲をつかむ』ことなのだ。おそらく知人は、そんなあやふやなことやってたって、成果はあがんないよ、と冷笑的に忠告してくれたのだろうけど。でも、少なくとも彼には、ぼくのやろうとしていることがかなり正確に伝わったのだから、それだけでも大したものでしょう。
雲をつかむようなこと、を、あやふやにではなく、出来る限りクリアーに、実現したい。
本当は、ぼくが『雲をつかむような』ことをする、のではなく、ぼくの絵を観る、という行為が『雲をつかむような』ことであってほしいのだが。目の前に実際に作品があるにもかかわらず、それを観ることで、それが本当にその位置に実在しているのかあやふやに思えてしまうような、絵と、観る人との距離の変化や、注意の向け方ひとつで、その作品が全く別の表情をもったものとして、見えてしまうような。
人間のもつ、感覚器官と情報処理能力の容量を超えた情報量をもつ作品、とでもいうのか。たかだか一枚の平面でしかない絵画が、時間や空間を含みもつ、というのは、そういうことでしょ。多分。3/9(木)
ぼくの作品は、描いているとき、木枠に麻布をきちんと張ってなくて、仮留めの、ゆるゆるの張りの状態で作業をして、ほぼ出来上がった時点で張り直すので、作業中、水を吸ったりした麻布が伸びたり縮んだりしていて、どうしてもきれいには張れずに、シワや弛みがのこってしまう。シワや弛みを、意図的につくっている訳ではないけど、作業の行程の必然性によって出来るのだから、これには当然意味があると思っている。むしろこれを消してしまって、きっちりきれいに張ると、嘘くさくなってしまうし、それまで自分がしてきた行為に対する裏切りになってしまうと考えている。
でも、人によっては(特に平面の作品をつくっている作家の方などが特に)この弛みがとても気になる(気にさわる)らしく、これはきちんと張るべきじゃないの、としばしば指摘される。つまり、弛みやシワがあると、支持体の物質性が露呈してしまって、絵画が絵画として完結しないからだ(別の意味をもってしまう)。しかし、ぼくは支持体の物質性や構造まで含めて絵画だと思っているし、ぼくの作品はそれらの要素がなければ描きはじめることも出来ない。(ぼくは物質や構造に依って描く)
弛みについて突っ込まれたとき、だいたい上記のような説明をした後、ふと、『ぼくの作品は《弛み(垂るみ)系》だから・・』という言葉が口から出てしまった。でも、《たるみ系》って結構イイ感じの言葉かも。3/10(金)
絵を描くというのは、なんか、壁の前で、壁に向かって、遠投をイメージしながらシャドウ・ピッチングをしているようなものなのではないか、なんて思ってしまう。
かといって、それが空しかったり、苦しかったりする訳ではない。そんなことをしていながら、空しいとも苦しいとも思わないというのは、ぼくの頭のネジがどこかで何本か足りていないからなのかもしれない。ネジが足りないことこそ、ぼくの才能だ、と言ってしまってもいいかもしれない。いや、言ってしまいます。
壁に向かって、ありもしない遠くを見ながら、ひたすら空を斬りつづけること。バカみたいな、滑稽なことだ。決してそれに満足してる訳じゃないけど、でもそれ以外のやり方は知らない。今んとこは。
(勿論、実際に作品をつくるときは、結構、姑息な計算とか、してる訳だけどね、部分的には。)3/21(火)
気になった言葉。ヴェンダースが、『ことの次第』で組んだアンリ・アルカンの仕事について訪ねられた時の答え。《私が彼の仕事を理解するにはかなり時間がかかりました。つまり彼の照明設計は、光と影をもとにして考えられたものではないんですね。それは、完全なまでに灰色のもつ様々な価値についての考察から出発していました。つまり、彼にとっては灰色さえしっかり出ていれば、影などどうでもいい。》これこそが、フランス的な光。3/22(水)
Tくんと道元の話し。禅の公案に、ある男が座禅をしているところへ師がやって来て『何をしている』と問う。『座禅です』『座禅をすることで何をしようとしているのだ』『座禅をすることで、仏になることを目指しています』すると師は、傍らにあった瓦を石に擦りつけ始める。『何をなさっているのです』『瓦を磨いている』『瓦を磨いて何をしようとするのですか』『瓦を磨いて鏡にする』『いくら磨いても瓦は鏡にはなりません』『瓦を磨いて鏡にならないなら、何故、座禅をして仏になれるのか』と、いうのがあるらしい。
この公案を受けて道元は、大丈夫(立派な男)が瓦を磨くとしたら、誰も他人の力を借りないであろうから、瓦は鏡にはならない。しかし、孤独に瓦を磨く行為そのものが鏡となる。その、目にも止まらぬ速さ、と、書いているそうだ。(このへんの話は、スティーブ・レイシーが誰かと共演するとき、誰と共演しても、まわりと関係なく全く孤独に演奏している感じがする、これは一体どういう事なんだ、という話の流れから始まった。)
この公案そのものは大して面白いものではない。しかし道元はこの公案の意味をほとんど無視して、そこから『瓦を必死に磨いている』という行為だけを取り出す。決して鏡にはならないものを、鏡にすべく、ただひたすら孤独(独力)で磨きつづける。その行為そのものが既に、鏡、となっているのだ、という強引な意味のレヴェルの飛躍を行い、さらにそこに、その目にも止まらぬ速さ、という意味を取りかねる文を付け加える。道元の思想の深遠は知らないけど、ここにはほとんどナンセンスといっていい、思考の運動の輝きがあるように感じる。
多分、ナンセンスとは短絡のことなのだと思う。体系的な、合理的な思考の道筋とは、別の通路を通って思考が動いて(流れて)しまうこと。それに対する驚きと恐れ、その強さ、その強さに対して感じてしまう美的な感情。そしてこれらの事態に主体が対処できるとしたら、ただ笑うことだけしかないのだ。決して鏡にはならない瓦を磨きつづけることのナンセンスさを笑いつつ、それを続ける。その行為そのものが鏡となる。さらに笑いは増幅され、ついに、目にも止まらぬ速さにまで達する。
これはたんにヤマカンに過ぎないのだけど、イメージはナンセンスと深く関わっている。見る事は、それ(対象) が目の前にある、ということの意味の無さを肯定し、それに耐えることだろう。絵画、少なくとも近代絵画は、意味によってではなく、無意味の強さによって輝いているように思う。つまり、どれだけ笑えるか、ということが勝負。(本当かよ・・・)3/26(日)
視線を遮る物がなにもない場所で、雲ひとつない空を見るとどうなるか。つまり視覚のなかに、像を結ぶ対象物がなにもなく、ただ青い色だけがあるとき、どう見えるのか。以前、それをちょっと試してみたことがある。目は、どうしても何かにピントを合わせようとするのだが、その対象がない。すると、眼球の表面を覆う、涙の層に貼り付いていると思われる、ホコリに焦点が合ってしまうのだ。水色の空を地として、眼球の上を涙の流れとともにゆっくりと移動してゆくホコリがみえるのだった。つまり、目は、何も見ないということができない、というか、何もない、空っぽな空間だけを見ることはできないのだ。
このとき、目のレンズは無理して不自然に近い物にピントを合わせているので、すごく疲れる。しばらくすると頭が痛くなった。3/26(日)
最近、多分ピカソ展を観てからだと思うのだけど、また絵を観るのがとても面白く思えてきた。単純に楽しく観られる。ちょっと前までは、絵なんてもううんざり、という感じだったのに。今日も古本屋を覗いて、古い『みづえ』のゴーキーが載っているやつを買ってしまった。ゴーキーはかなりちゃんとした画集を持っているのだけど、それに載っていないマイナーな作品が何点か載っていたから。画家の才能とか資質とかいうのは、どちらかというと『代表作』のようなものより、中途半端な、ちゃんと完成していないような作品の方により露にあらわれてしまう。(特にピカソなんかは、画集に載っているような『名作』は大抵つまんない作品であることが多い。)そういう作品は、観ていて面白いというだけでなく、その作家の可能性というか、学ぶべきものが、とても多く含まれている。
(確かに、ピカソやゴーキーを観ることはとても楽しいし、喜びではあるのだけど、自分がつくる作品に関しては、このような、視覚的な構築を信じているような作品は、ちょっとつくろうとは思えない。ぼくは今、ほとんど、視覚性というものを信じることができない。ぼくの作品に、物質的な構築性あっても、視覚的な構築性はほとんど希薄になってきている。フレームというものに対する考え方も、視覚的な意識とは別の場所で考えられている。フレームはむしろ時間に関わっている。にもかかわらず、ぼくのつくろうとしているの物質ではなくては絵画だし、それは近代絵画の視覚性や空間性に多くを負っているだろう。このへんの屈折というか、ねじれそれ自体が、ぼくにとってリアリティということなのだけど、それが作品として成功しているかどうかは、また別の話。)4/14(金)
展覧会が終わって1ヶ月ちょっと。図書館で借りてきた武田花の本の写真を見ていて、そろそろムズムズと新しい作品をつくりたくなってきた。もうちょっと我慢して、この欲望にある程度確信がもてるようになったら、また、頭を製作モードに切り替えてゆこうと思う。
インスピレーションという言葉は大げさ過ぎて、そんなに大層なものではないのだけど、作品をつくろうとする動機というか、きっかけのようなもの、ある、始まりの取っ掛かりのような『感じ』というようなものはあって、そういう『感じ』を得られるのはそうしょっちゅうという訳にはいかず、せいぜい年に一度とかそのくらいなのだけど、その『感じ』から始まって、様々な試みや、作業の構築というのが組み立てられる。もしかしたら武田花による一枚の写真が、その取っ掛かりになってくれるかもしれない、という予感がちょっとだけあるのだけど、、本当にそうなるのかどうかはまだまだ何ともいえない。
実際に作品が形になるのは、取っ掛かりとなる『感じ』からは、まだまだずっと遠くの、先の先の話なのだから。(ぼくの場合、正確なイメージというのは、絵具や画布という物質を前にして、実際に作業しているなかでしか、計測することが出来ない。)
でも、こういう、取っ掛かりの『感じ』から、実際に形になるまでの、『遠さ』『遅さ』というのは、現代の社会の流れのスピード感に対して、ちょっとどうなんだろうか、という気もする。実際、ぼく自身の生活のリズム感からも、大きくズレてしまっているのではないのか。こういう『遅さ』というのは、絵画というメディアに特有のものなのか、それともぼくという人物の固有性によるものなのか。4/23(日)
緑や黄緑の葉、黄色や赤の花、そのなかで一際浮き上がって見える、薄紫の花。(例によって名前は知らない。)枝は細くスジばっていて、数が多く、反り返るようにいきおいよく上に向かっている。枝の勢いある上への動きを抑制するように、ぼやっとした薄紫の花が、枝の細さに対して、垂れるように沢山ついている。そこに木漏れ日が不均一に当っている。
驚くべき色、驚くべきイメージ。
そのイメージを、記憶しようとする。なるべく言葉を介さないでイメージを記憶する。イメージとは視覚的なことだけではない。その時その場にいてそれを見ている、ことに関するあらゆる事を、言葉による変換なしに記憶しようとする。おそらく人間の脳は、イメージをそのまま記憶するにはメモリーが不足している。だからその情報を言葉に変換・圧縮して処理する。しかし、それとは別種の情報処理のやり方が必要なのだ。
イメージによって記憶する、といっても、それは明解な視覚像によるものではない。(ぼくは視覚をそれほど信用しない。)イメージは、どうしてもあるあやふやな『気分』のようなものとしてしか記憶できない。しかし、人がある気分を持つとき、そこには十分な理由があるはずだ。というか、気分とは、ぼんやりとしたスカスカなものではなく、そのなかに情報が(処理できないほど)ギッシリと詰まった『塊』なのだと思う。気分を『気分的に』ではなく、理知的に把握すること。できるだけ正確に、厳密に、把握すること。
例えばぼくが、薄紫の花のイメージによって制作しようとするときに問題なのは、そのイメージを再現または表象しようとすることにあるのではない。絵画のイメージは、絵具そのものであり、画布そのものでしかない。問題なのは、絵具そのもの、画布そのもののイメージでしかないものと、薄紫の花のイメージとが、どのような通路によって連結しうるのか、関係しうるのか、ということにあるのだ。(世界そのものと『作品』とは、どのような通路で繋がっているのか。あるいはどの程度『断絶』しているのか。)その関係は、再現でもなければ表象でも暗喩でもないとすれば何なのか。というときに苦し紛れに『気分』と呟いてみる。しかしその気分は決して恣意的なものではなく、厳密なものなのだ。
体育館のドーム型になっている銀色の屋根が、鈍い光でギラリと光った。
自分が常に、同時に、ある特定の空間のなかにいる、ということと、『自分が存在している特定の空間』の外にいる、ということ。4/29(土)
相変わらず、あたらしい作品にとりかかる『きっかけ』というか『とっかかり』を得ることができないまま、日々、茫洋と過ごしてしまっている。たしかに、なにかしら手を動かせば、それなりのものを捏造することはできるだろう。しかし、何か、今までの仕事の延長をそのまま続行することに対して、ちょっとした引っ掛かりのようなものを感じてしまっている。この半端な迷いを脱するためには、『仮の思い込み』のような推進力となるものが必要だ。あくまで、作業に向かうための、作業を組み立てるための『仮設された確信』みたいなもの。思うようにはいかなかったり、先が全く見えなかったりする行為を、ある一定の強度をもって持続させるためには、やはり根拠となる『思い込み』が必要で、でもそんなものは実際には、何の根拠にもならないのだ、ということも、同時に意識していなければいけないだろう。
何かしらの飛躍が必要なのだけど、人は結局、自分の資質に従って仕事をしてゆく他ないのだろうから、どこまでも資質に寄り添いながらも資質を超えて行くことができないのなら、この行き止まりは、いつまでもつづくのだろう。でも、もしかしたら、飛躍を望むこと自体が間違いで、この行き止まりの内部にとどまりつつ、その熱を高めてゆくしかないのかも。
つーか、つべこべ言わずに手を動かせ、で、考えるのはそれからだ、ってのもありか。
それとも、描けないときは、寝てろ、ってのが正解か。5月7日(日)
『ロスト・イン・アメリカ』というアメリカ映画についての本で、青山真治は、スピルバーグとキャメロンの『タイタニック』に共通する要素として、スペクタクルの肝心なポイントで、横のものが縦になる、と発言している。
横のものが縦になることで、負荷がかかり、ある緊張感が生まれる。縦のものが横になっても、それは自然になったという感じで、そこには緊張は生まれない。かえって緊張は解決された、というか解消したという感じになる。横のものを縦にすることは、緊張感を生むもっとも原始的で単純なやり方といえるだろう。横たわるものが縦になる(立ち上がる)と言っても、それは必ずしも、何かを打ち立てる(建立する)ということではない。スピルバーグの『ロスト・ワールド』で2連結車が崖から落ちそうになるときでも、あるいはキャメロンの『タイタニック』などは当然なのだけど、横のものが縦になる瞬間というのは、むしろ何かが崩れる、崩壊する、瞬間でもあるのだ。しかし崩壊が完了してしまえば、それは再び横になる。(ドゥルーズは確か、ベケット論で、ベケットにおいては立っているものが横になることによって、その最終的な形態を得る、と書いていた。)何かが崩壊する直前に、横たわっていたものが立ち上がる。この時の衝撃に無感覚であってはならない。
ぼくは自分の作品をつくるとき、画布を床に寝かせて制作する。これはとても重要なことなのだ。ぼくは立っているカンバスに手を入れることに対して、とても抵抗を感じてしまう。これは多分ぼく自身の人格的な欠陥のようなものと結びついていて、何かを強い意志でもって、抵抗にも屈せずに成し遂げようという気がないのだ。だからまずぼくは、自分自身の資質を一旦受け入れ、横たわった画布に絵具をのせてゆくことから始めなければならない。しかし絵画は最終的には立ち上がらなければならない。なぜ、立ち上がらなければならないのかは、よく分らないのだけど。大学の時などは、枠に張らない画布を、床に置いたままの状態で展示したり、ルイ・カーヌのように半分壁に、半分床に、という工合にL字型に展示したりしたこともあるのだけど、それだとどうもなにか違う。多分、絵画は自然なものではないからだろう。絵画は、意志の力で立ち上がらなければいけないのだ。
横になっているものが、ただ縦になっただけでは、それは立ち上がったことにはならない。自分の力で立てる、堅さ、をもつ必要があるように、どうしても感じてしまう。例えば、紙に描いたものを壁に張っただけでは、それはまだ自然に近くて、周囲の環境と地続きなままなので、横になっているのと大してかわらない。画布は、パネルや木枠に張られて周囲から切り離されることで、それ自体として立つことができるようになる。例えば、壁に立て掛けて置いても立っていられる。(それでも、立て掛けるための壁、は、必要なんだけど。)それで初めて、絵画が環境から引き剥がされたものとしての、平面、という次元を獲得する。ちなみにぼくは、描き始める時点では画布を木枠にきちんと張ってはいない。きちんと張られたカンバスは、もうそれだけで出来上がっているので、そこに何か加えようとしても跳ね返されてしまうような感じなのだ。ここにもぼくの意志の弱さが出てしまっているのだが、だからとりあえずぼくは、自然に近い状態から描き始め、それを徐々に平面という次元に近づけてゆくしかないのだった。
横にして描き始められた絵画が、ある瞬間に縦になる。ある程度手が加えられた作品を、1度、壁に立て掛けてみる。これはやはり衝撃的な瞬間で、このとき、何かちょっとした、しかし決定的な変質が起こるのだ。しかしその一度目の変質だけでは足りず、それは再び崩れて横になり、そこにまた手が加えられる。
描き始める時点で、完全に平面として周囲から切り離されてはいない状態で始められるぼくの作品は、多分、最終的にも、完全には平面としての次元を獲得することは出来てはいない。(ごく単純な問題として、たるみ、や、しわ、が残ってしまうし。)とても中途半端な状態でありつづけるだろう。でもそれは決して悪いことだとは思っていない。むしろその中途半端さにこそ意味があるのではないか、とさえ思う。
繰り返すけど、絵画は自然ではない。それは横たわっていたものが縦になる、その時の衝撃で成り立っている。でもそれは建立するというより崩壊することに近い。崩壊寸前で、最後のひとふんばりで、なんとか持ちこたえるようなものなのだと思う。