11/8(月)
絵画は、ヴィジョン(視)とイメージ(像)とオブジェクト(物)が、渾然一体になったものとしてこの世界に存在している。だから厚みがない。こんな特異なものは、他にはないはず。やっぱりすごく変なものなんだよね、絶対。
11/10(水)
夕方からアトリエ。3年ぶりくらいに、油絵具を試している。久々に使うと、アクリル系の絵具とのあまりにも違うのを痛感する。油絵具という絵具は、いわゆる油絵っぽい絵を描くように強制してくるのだ。透明感、粘り、独自の艶、これらのものが本当に厄介だ。しかし、独特の豊かな強い質感と色があり、これはとても魅力的。油絵具を使いながら、いわゆる油絵っぽさ、に抵抗するには、体力が必要。ほとんど格闘伎のように制作する。11/13(土)
、誰だったか忘れたけど、確かどこかの漫画家が、「私は、読者を、決してあなどったりはしないけれど、読者に期待なんかしていない。」とか、そんなような意味のことを言っていた。なるほど、御立派な態度だ。さすが、職業作家だ。甘くないぞ。11/16(火)
ぼくは書く、という言葉を書くことと、実際に、今、ぼくがこうして書いている、という事実そのものは、全く別の事柄だ。ぼくが、今、現に、生きている、という事実と、ぼくは生きている、と、書いたり、言ったりすることとの間には、決定的なズレがある。
この違いが分かっていない人は、作品をつくることも、理解することも出来ない。
作品が作品であるために必然的に持たざるを得ない「抽象性」と、その作品が実際に(物理的に)どのように存在しているのかという「具体性」という、全く異質な二つの次元が共存している。
(これを「内容」と「形式」という言い方に直してしまうと、重要なことがみえなくなる。)
言いたいことを素直に言うだけでは、本当は言いたいことなど何も言えていない。というか、人は、自分が言いたいと思っていることと、違うことしか言うことが出来ない。もっと言えば、言いたいと思っていたこと、よりも、実際に言ってしまったこと、の方が、はるかに重要だ。(つまり、精神分析って、そういうことでしょ)
だとしたら、「私のこの作品のコンセプトは・・云々・・」などと"言う"ことに何の意味があるのか? 作品、というものの"ありかた"ってもっと複雑なものだし、それに、複雑でない作品に何の意味がある ! というか、意味が濃くて複雑でないものを、なんでわざわざ苦労してつくる必要があるの? なんでわざわざそんなものを見る必要がある? 単純なものを面白がるほど、ぼくには(自分が生きている、ということに対して)余裕がない。薄っぺらで希薄なものを持ち上げて、みんなで盛り上がって楽しんだりしている、時間の余裕があるのか? 人生の時間は限られいるのに。11/18(木)
油絵具の使い方をすこしづつだけど、体得しつつある感じ。いわゆる油絵的なものとは違ったやりかたで。3、4年前に油絵具で描いていたころとは、油絵具、というものに対するアプローチのしかたが全然違ってきている、なんて内心思って調子にのってたら、技術的なトラブル、本当に、技術的な、としか言い様のないトラブルが続出する。参った。油絵具って奴は本当に厄介な奴で、少しでもこちら側に引き付けて使おうとすると、とたんにこういう反撃に出てくる。
油絵具の強いてくる制作のリズムと、ぼく自身の生理的な制作のリズム感が、基本的に食い違っているのか。それともただ技術的な勉強不足なのか。それにどうしても油絵具のあの表面の光沢が気に入らない。でも、セザンヌやマティスの絵には、こんな光沢は出てないぞ。いったい何が違うのか ? 困った。先が見えない。前途多難。かなり深刻。11/19(金)
「下品」について。
ぼくが下品という言葉を使う時は、大抵、半分くらいは肯定的な意味を含んでしまう。半分くらいは肯定的、とはどういう意味か。
それは、前にも書いたけど、ぼくの「趣味」には合わないにもかかわらず、ぼくに対して何かしらの力をもって働きかけてくるもののことを、下品と言うとしたら、趣味を超えてまでもぼくに働きかけてくるその「力」の存在の方を肯定的にとらえるなら、肯定であるし、そんな「下品」なものに力を感じてしまう「ぼく自身」の側(の判断力)を否定的なものとして捕らえるなら、否定である、ということ。
単に無視しておけばよいものなら無視していればよいのに、それをわざわざ、下品、と名指してしまうということは、ぼく自身がその下品なものに何かしらの作用を受けてしまっている、ということだ。何かしらの力を感じているにもかかわらず、その力をどうしてもすんなり肯定できない、という際どい感覚をどのように処理してよいか途方に暮れそうなときに、ぼくはしばしば、ぶっきらぼうに、下品だ、といって、とりあえずの安定を得ようとしてしまうみたいだ。
だから本当は下品なものについてはきちんと考えなければいけないのだ。それに力を感じてしまうのが自分の「甘さ」なのか、それともその、下品なもの、に本当に何かしらの「価値(意味)」があるのかを。
もっと分りやすく言ってしまうと、ぼくにとって、肯定し難いけど確かに強い力で作用してくるもの、とは、どうも「通俗的な甘さ」とか「退廃的な毒」のようなものと結びついているらしい。「通俗的な甘さ」とか「退廃的な毒」に対する<媚び>のような表情に接して反応する時、どうしてもぼくは、下品だ ! 、と言ってしまいたくなるみたい。11/24(水)
洗濯。買い物。すこし眠って、午後からアトリエで制作。
紙パレットとパレットナイフを買う。ここ数年、ぼくはナイフもパレットも、筆さえほとんど使わずに、直接、画面の上に絵具をのせて、画面上で全ての作業、つまり絵具やメディウムや顔料を混ぜたり練ったりすることと、描くことを同時に画面上でやるということ、をしていたのだけど、油絵具でそれをやるのはかなり難しい。とりあえず、油絵具に一歩譲って、パレットを使って、絵具の堅さや練りをある程度調整してから、画面にのせてみようか、と思ったのだが、実際にアトリエに行って、作品を見て、それはやめることにした。買い物が無駄になったが、まあ、しょうがない。でも、最近、筆はかなり使うようになった。一枚の画面で一本しか使わないけど。12/2(木)
阿部良雄「 シャルル・ボードレール 」からの引用。
<表象手段の物質性を切りつめて、表象の対象の像があたかもそれ自体として--物質的手段の助けを借りることなく--現れ出るかのような錯覚をを抱かせるその際、油彩の層の薄さが、表象手段消滅の換喩となるところに、十九世紀アカデミー絵画の特徴--対象再現性ゆえに、レアリズムの名を( 誤って )冠せられる特徴--があった。他方、油彩画の物質性が現実世界の物質性のむしろ隠喩として機能することこそ、クールベによって代表されるレアリズムが、アカデミー絵画に真っ向から対立するゆえんに他ならない。>
とても重要な指摘だと思う。近代絵画の全てがここ(クールベによって代表されるレアリズム)から始まる。12/3(金)
ぼくの作品や発言など、もう絶望的にマイナーな場所から発せられる、マイナーな主張でしかない。それは何も動かさないし変えることもしない。でも、もし誰もがそういう徹底してマイナーな「 趣味 」を主張しなくなったらどうなる。そんなことにでもなれば、ますます、資本の論理というか、マーケットの原理によってあらゆる価値に線が引かれ、マーケットの価値判断が全てを決定してしまうだろう。そんな場所では、少なくともぼくは生きては行けない。
だから決して「 マイナーな趣味/価値判断 」を主張することをやめてはいけないのだ。たとえそれが砂を噛むようなむなしい行為だとしても。「 そんな"趣味"なんて近代ヨーロッパで成立したローカルで歴史的なものでしかないし、もう、そんなの終わっちゃってんじゃないの 」という、たしかに正当な言説になんか負けてはいけない。ぼくはあくまで"近代絵画"を描く。これは反動なんかじゃない。12/4(土)
今日の午前中は講義。いよいよ大トリのゴッホ。ゴッホは対象に肉迫するタイプの画家で、想像力(あるいは構想力)において弱いところがある、という指摘は重要。つまり目に見えているものしか描けない、ということ。しかし、そこにある見えているものから、とんでもないものまでを見てしまう。幻視者というより、見者という言葉の方がぴったりくるように思う。見者は、すごいものを見てしまう能力はあっても、それによって何かが実現出来る訳ではない。せいぜい絵を描くことによってヴィジョンを示すくらいしか出来ない。
ぼくには、マウフェが死んだ後に描かれた桃の木の絵がとても気になった。尊敬する人の死の悲しみを、あんなにも晴れ渡った美しい空間の中に見てしまう、というのはちょっと凄いことだ。しかし、だからといって、その凄いヴィジョンによって死の悲しみや、人の死そのものが救われる訳では少しもなくて、かえって、人の死そのもの、が際立ってしまう。
だからぼくらは、強烈なヴィジョンを味わったり賛美したりするのではなくて、ただ、それに耐えるしかない、と思う。絵画には、ここまでのことが可能なのだ。こんなことまで出来てしまうのだ、ということに驚く感性が必要だ。それが無い人には、絵画なんてスカしたアートか教養でしかないだろう。
ただ、そのような凄いヴィジョンが、天才の手によっていきなり現れる、という訳ではない、ということも忘れてはいけない。ゴッホが一生掛けて行った、様々な試行錯誤や学習、地味な努力、数々の失敗や思い違い、等の果てに、それらは辛うじて生まれ得たものなのだ。ただ漫然と、天才や傑作を待ち望んでいても、そこからは何も生まれないだろう。12/14(火)
マルグリット・デュラスの引用。
「 労働することは、予想もつかないもの、明白なものがやって来れるように空白をつくること。放棄する、それからまたつかまえる、後戻りする、放棄したことに対しても慰められない、そのままにしておいたことに対しても慰められないでいること。自己をきれいに片付けちゃうこと。そして、ときどきは、そうね、書くことでもあるわね。みんな、自己自身から引きこもるあの瞬間、誰もが隠し持っているあの自己自身に対する無名性を求めているのよ。そこでしているのが何なのか分らないのだけどね。何も知らないのだけどね。 」12/23(木)
制作について。いままで、どうしても少しズレている感じだったのが、少しだけ、とっかかりというか、入り口になりそうな感覚が掴めそうな気配が見えてきた。といっても、まだまだ気配とか雰囲気とか、そんな微弱なフィーリングにすぎないのだけど。
あまりに微弱なものなので、歩いていてちょっと躓いたり、テレビでも見てて大笑いとかしたはずみに、ぱっと、消えてしまってもおかしくない。しばらくは緊張感を持続して、手探りでやっていかなければ。まあ、飛躍的な進歩の兆し、とか、そういうんじゃ、全然ないんだけど。今、やろうとしている事が、ちょっとだけ噛み合ってきそう、という程度。12/26(日)
ゴホゴホ咳をしたり、鼻水たらしたりしながら、軽く部屋を整理してたら、三年くらい前、制作にすっかり行き詰まって、自分のやりたい事が全くみえなくなってしまっていた時に、毎日林檎のデッサンばかり描いていたスケッチブックがみつかる。この頃は、とにかく何をやったら良いのか分らなくて、何でもいいから手がかりになる対象がほしくて、スーパーの果物・野菜売り場で、一際、面白い形態と良い色をしていた林檎が目について、それを馬鹿みたいに毎日、何枚も何枚も描いていたのだった。
こういうものは恥ずかしいので絶対人には見せないからこそ、こんなことが言えるのだけど、これが凄く良いんだ。ぼくはいつの間にこんなにデッサンが上手になったんだろうか。いやあ、気合いもビシビシ伝わってくるし。凄い、凄い。って、文字通り「 自画自賛 」。
これは、墨汁とジェッソを使って割り箸で描いたのだった。ぼくには、こういう「 描きづらい 」描画材料が必要なんだ、と気づいたのも、この時だったんだなあ、と思い出した。
いやあ、やっぱ、林檎は、近代絵画の基本でしょう。1/11(火)
制作について。去年、一昨年、の個展で発表した作品が、冬の絵画、だとすると、今、作りつつある作品は、春の絵画、になりそぅな気配がする。それはなにも、暖かい春の日溜まりのような絵画、というのではなくて、春になるとアブナイ人が増える、とか、そういう、何かざわざわとした、ものぐるおしい季節、としての春、という意味。去年、一昨年の作品は、かなりストイックな抑制を自らに課していたのだが、それがやや崩れて、ヤバいものが表面に出てくるような感じ。とはいっても、ちょっと見には、ほとんど変わってないのだけど。問題なのは、このヤバさを、どこまで認めてしまっていいのか、ということ。このヤバさに、どこまで身を任せてしまってもいいのか。どこまで自分をコントロールし、どこまでコントロールを放棄してしまっても良いのか。どの辺までのだらしなさを自分に許すのか。この辺の躊躇が、作品をイマイチ中途半端なものにしてしまっているようだ。
まだまだ予断を許さず、どこに着地するのか先の見えていない制作の過程を、こんな風に言葉にしてしまうのはマズイのではないか、という気持ちもあるのだが、これはひとつの実験として、あえて言葉にしてしまいました。どうなることやら。