12/16(木)
<作品については、考え得ることはすべて考え、考えに考えぬかなければいけないと思うが、しかし、あまり考え込んでしまうと、身体が硬くなって、何も出来なくなってしまう。あらゆることを考えた末に、あとは全て、運を天にまかせて、いいかげんともいえる態度で、えい、やぁーっ、っと、やってしまうしかないだろう。どうせ、全てを一人の人間がコントロールすることなんて出来ないんだし、コントロールなんかしちゃいけないのだから。>
<絵画は、空間的な把握力と、触覚的な感性とを、同時に要求する(つくる側に対しても、見る側に対しても)形式だと思う。少なくとも、西洋近代絵画以降においては、間違いなく、そうである。
近代以前の西洋美術においては、空間的な把握力の方が勝っていたのかもしれないし、西洋以外の地域の美術においては、触覚的な感性の方が、一般的には勝っているのかもしれないのだが、西洋近代絵画が偉大なのは、その両方を同時に自らに要求し、それを成立させることを可能にしたからだろう。(例えば、色、に関しても、ぼくには、明らかに、空間的な使用の仕方と、触覚的な使用の仕方があるように感じられる。しかし、セザンヌ、マティス、ゴッホ、モネ、などの作品では、その両方が分かち難く結びついている。)
近代絵画において、空間構造を構築することと、マテリアルの触覚的な感触に迫り、触れようとすることは、切り離して考えることができない。しかし、戦後のアメリカ美術によって、その結びつきが、多少、弱いものになってしまったことも事実だろう。>
<ぼく自身の制作に関して言えば、まず、とっかかりとして、触覚的なイメージが先にあり、それを、空間的なイメージにまで発展させて行く、という感じが強い。勿論これは極度に単純化した言い方で、実際にはそんなに単純に分りやすい筋道で制作ができる訳ではないのだけど。
ぼく自身の根底には、どうしても触覚的なイメージが、先行して重要なものとしてあるのだけど、それが空間的なイメージへと発展して初めて、解放されるというか、イメージとして強く、鍛えられたものになるように感じる。触覚的なイメージのままでは、それは閉鎖的で幼稚な、というか、いまだに潜在的なものでしかなく、それを、表に引っぱり出すには、何かしらの、空間性を必要とする。
別の言い方をすれば、触覚的なイメージを、形あるもの、にするために、絵画は最も有効な形式であるのだと言えるのではないか。>1/5(水)
感覚を全開にして、その場、そのもの、それ自体を、自分の身体を通して感じ、触れることは、勿論大切だし、そういう感性ががさつな奴には、結局重要なことは何も見る事ができないとは思うけど、でもそれだけじゃ、全然足りない。やはり、抽象的な思考、論理的、形式的、もっと言ってしまえば、あえて貧しく図式的に思考することさえ、必要だと思う。 抽象的な思考とは、多分、身体を亡くして生きる、亡霊の思考だとも、言える。現代を生きる人間であるなら、誰でも幾分かは亡霊である、ということからは逃れられない。生き生きとしたもの、ばかりを追いかける人は、そのこと(自らも亡霊であること)から目を背けて、誤摩化してしまっているのだ。 抽象的な思考は、日常生活に何の役にも立たない。それは人をしばしば孤立させる。それによって人は、決して豊かにはなれない。それでも"それ"は必要なのだ。でも、何故・・・。1/12(水)
1, どのようなイメージも、何かしらのメディア抜きでは我々に届かない。(純粋なイメージには決して到達出来ない。)
2, だからイメージの質の多くの部分は、そのイメージをもたらすメディアの特性に規定されてしまっている。
3, 近代的な芸術のひとつの大きな流れでは、表現されるイメージを積極的にメディアの特性によって規定してしまおうという主張があった。例えば、絵画は絵画でしか表現できないものを、表現すべきだ、とか、もっと極端に、絵画は「 絵画 」というイデアのみを表現する、だとか。勿論それは、転倒した思考でしかない。イメージはたしかにメディアによって規定されてしまうのだけど、イメージは決してメディアの内部にあるのではなく、その外側に存在しているのだから。しかし、そのような転倒を転倒として徹底的に生ききってしまった(やりきってしまった)ということの「 凄み 」は肯定されなければいけないだろう。でも、我々がそれと同じ事をする訳にはいかない。
4, 感覚の直接性というものを信仰してはいけない。我々の身体そのものが既にひとつのメディアであるし、身体は幾つもの異なるメディア(視覚、聴覚、触覚、等)の複合体としてある。視覚によって「 私 」にもたらされるイメージと、触覚によって「 私 」にもたらされるイメーは、異質のものであるし、両者は隔たっている。「 私 」は複数の異なるメディアからの異なるイメージを併置=モンタージュすることによって世界像を構成する。
世界は、ア・ブリオリに存在するのではなく、複数の異なるメディアから届けられた、異質のイメージ同士の接続、接続し損ない、落差、矛盾、等によって構成されるものだ。(そこに、より抽象的な次元の「 別の 」イメージが生まれている。)
5. しかし、確かに物に(世界に)直接的に触れている、と感じられることがある。それは、もしかするとイメージになりきらないノイズのようなものに触れているのかもしれない。イメージに上手く納まりきらないノイズが、異質なメディアによる異質なイメージを不意に結びつけてしまう、という役割を担っているのかもしれない。ノイズを特権化しても仕方がないが、ノイズを切り捨ててしまうことだけは、絶対に避けなければいけない。ノイズを感じることのできる繊細さと、ノイズにたえることのできる強靱さ。
6, 複数の異なるメディアからバラバラに送り届けられてくる異質のイメージが共存し、それらが、結びついたり、反発したり、ズレたり、出会ったり、出会い損ねたり、衝突したり、短絡したり、すること。おそらくそれが、出来事、というものなのだろうと思う。
ぼくにとって絵画を制作するということは、視覚と触覚という異なるメディアによってぼくに届けられた異質なイメージの偏差=隔たりそのもののなかへ入り込むということなのだろう。しかし、重要なのは、そのことによって、具体的にどのようなあたらしいイメージを生み出すことができるのか、ということなのだけれど・・・。12/20(月)
<絵画にとってとても重要なことのひとつに、特別な技術なんてなくても、誰でもが、簡単に描くことが出来るということがあると思う。誰でもが歌を口ずさむことが出来るのと同じように、誰でもが、ふと思い立って、身近にあるものを使って気軽に絵を描くことが出来る。
絵を描くのは全く単純でプリミティブな行為だ。こんなに簡単なことはない。なにしろ、子供や赤ん坊にも、象やチンパンジーにだって出来てしまうのだ。
「 ぼくは絵をやってるんです 」「 彼は絵を描く人だから・・ 」「 絵が描けるなんてうらやましい。」こんな言い方には抵抗がある。だって、絵なんて誰にだって描けるでしょう。
誰にでも出来る分、自覚的に、意識的に、絵を描くのは難しい、とも言えるのだけど、でも、やはり、絵なんて、誰でもが鼻唄なんか歌いながらてもサラサラッと描けてしまうものなのだ、ということを忘れてはいけない。それは、全然、特別なことなんかじゃない。
誰にでも出来る、特別な技術を必要としないものだからこそ、本質的なものが露呈してしまうのだ。だから、ナメてはいけない。これが、最も基本的なことなのではないだろうか。
(専門家とか、スペシャリストとかいうのは、だいたいにおいて碌なものではなくて、既得権を守ろうとする役人なんかとちっとも変わらないのだ。そういう人たちがものごとの見通しや風通しを悪くする。専門家、は、決して解放なんかされないだろう。)
勿論、それとは別にコンテキストというものがあることは事実。例えばぼくは、西洋的なファインアートというコンテキストの内部で絵を描いている。そして、ファインアートという文脈のなかでも、様々なローカルな言語の間の権力抗争があり、作品を発表するということは、そのような権力抗争に何かしらの効果を与えることを期待してのことだ、と言えるだろう。これは、どうしようもない現実だけど、でも、ぼくが絵を描くのは、そんなことのためじゃない。大切なのはそんなんじゃない。>
『「 まだ絶望ではない 」と大きな声で言ってみるのはいいことである。もう一度「 まだ絶望ではない 」と。しかし、それが役にたつだろうか。』(マルテの手記)
そうですよね、リルケさん。お互い緩くないッスよね。実際。キツいッスよ。マジで。2/18(土)
講義。今期、最終日。ゴッホ及びセザンヌ。セザンヌについて、以前ぼくがある人に出したメールの一部を引用したい。(無断で引用します。すいません。)
<ぼくが今回(画集で)セザンヌをみてあらためて感じたのは、ひどく抽象的でしかも大
雑把な言い方になってしまいますが、「軸がぶれている」という感じでした。
セザンヌにおいては、ひとつひとつのストロークの軸が既にブレていて、ストローク
を重ねるごとにそれが増幅してゆき、ブレとブレとが互いに干渉し相殺しあうような
場所で、ある深さをもった<歪みとしての世界>を構築している、という感じでしょう
か。(ワケの分からない言い方ですね)高橋悠治がエピクロスについてかいた
「原子の雨がまっすぐにおち、どこかでかすかにかたよる結果、むすびつき、ぶつか
り、とびちり、世界をつくる原子の、かぞえきれないくみあわせがうまれる。この原
因のない、かすかなかたよりが、魂からおこるのを、エピクロスは友情とよんだ」
という文章にちかい感じ、と言えばいいのか・・・(ちょっと違うか・・・)軸のぶれや歪みといったものは、セザンヌにとって世界の本質に関わるようなことで、
だから、セザンヌの絵画は、調和、や、幸福、といったこととは、根本的に無縁なの
ではないでしょうか。たとえ、セザンヌ自身が調和や幸福をどんなに強く望んでいた
としても・・・。(ぼくにはあの「水浴図」というのは、セザンヌの調和や幸福に対す
る強い希求のようなものとしてしか理解できません。しかしそれにはかなり無理があ
るように感じてしまいます。)>
以上。この文章でぼくは、セザンヌの「 芸術家個人の実存 」のようなものを強調しすぎているかもしれない。でも、セザンヌが、世界と触れあおうとするとき、必ずブレが起きてしまう、というか、世界をがちっと掴むことが出来ず、するりと斜めにズレていってしまう、という感覚に強く支配されていたのだろう、ということは重要なことだと思う。だからセザンヌは、過剰なまでの構築への意志と、構築の不可能さの間で、あんなにも激しく密度の濃い仕事をすることが出来た(せざるをえなかった)のだと思う。
このことをもし見ないとするなら、セザンヌは単なる近代の巨匠、昔の偉い人、ということにしかならない。今、セザンヌの人気が無い、というのは、多分、そのような部分を見抜く能力が失われているか、そうでなければ、出来るだけ、そんなヘヴィなものには触れずに、見ないですませて生きてゆきたい、という気分が支配的だからなのではないだろうか。でも、一生誤摩化し続けることは出来ないんじゃないのかなあ・・・。どっかで一遍にツケを払うことになると思う。
あと、セザンヌについて、眼と精神、というようなことが言われるけれど、ぼくのイメージだと、眼と手の間にある精神、という感じだ。近代絵画で、セザンヌほど、手、という問題が明確に出てきている人はいないのではないか。手、というのは印象派的な筆触というのでも、手技(技術)というのでもなく、まさに手による思考というか、手を動かすことで考えるということ。眼による思考と、手による思考が、擦れ違う場所に精神が発生する、という感じ。たとえば、ゴッホなんかだと、圧倒的に眼が手にたいして優位にあるのだけど、セザンヌはどちらが優位とは言えない。
唐突だけど樫村晴香という哲学者の「 言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確認のメカニズム 」というとても面白い論文の一部を引用する。
<彼らの(人間のこと)脳は、基本的には聴覚分節と、そこからフィードバックを受けた口腔運動があるだけで、これらの装置が後発的に言語演算に転用されている。>
つまり、人間の言語活動を可能にしているのは、単一の言語的なシステムではなく、聴覚による分節と、口腔運動という、脳のなかの本来別々に働くユニットが、特異で危うい連繋を行うことで辛うじて成立しているというのだ。
<もともと何かを理解するとは、何かを聞き取ることであり、考えるとは、口を動かすことである。そして口腔運動の結果発する音声が、自分で聴覚分節/理解されるなら、そのとき彼らの言語的思考は、より完全なものになる。>
人間において、「 理解すること 」と、「 考える 」こととは全く別の行為である、ということ。そして自分が考えたこと(口を動かすこと)を理解した(聴くことができた)とき、言語活動は初めて完成する。脳のはたらきとしては、考えること、と、理解すること、は、全く別のやり方でなされる情報処理行為であって、それがたまたま、自分の声を聴く、という閉じたループ(しかしそれは、人間の身体の外=空間を必要とする)によって、微かに繋がるという地点で言語は可能になるというのだ。
これはそのまま、絵画記号における、手を動かすこと(考えること)と、それを見ること(理解すること)との連繋や分裂という問題に繋がる。多くの人は、自分が考えたこと(手を動かして描いたこと)を理解すること(見ること)ができない。そこでは絵画記号が成立しない。つまり、絵が下手だ、ということ。だからこれは、観客と画家との対立などではなくて、あくまで一人の画家の脳のシステムの内部で行われている、徹底的に、自閉的な出来事なのだ。
セザンヌにおける、キャンバスと絵具というマテリアルを通過した、自閉症的なループの密度の濃さ、は、だから、言葉をあやつることのできる全ての人間にとって、無関係ではないはずなのだ、と思うのだが・・・。
(補遺)
18日の樫村晴香の論文の引用について。あれだけだとあまりに不十分で、樫村が、デカルト的な、私の意識の同一性を保障するための声、つまり、「 私は存在する 」と発語し、それを聴くことの出来た、私、は存在する、(我思う故に我あり)という図式を肯定しているかのように見えてしまうかもしれない。が、勿論それは違う。
経験的自我(発話する私)と超越論的自我(それを聴く私)との同一性を保障する「 声-意識(フォネー) 」。例えばデリダは有名な「 声と現象 」で、このようなデカルト的な図式を精密にしたものとしてのフッサールを批判している。
「 私は存在する 」という発話は、ひとつの表現であり、それは物質的基盤=支持体(この場合、声=空気)を必要とする。そして物質は私の外側に、私とは無関係に存在している。つまり「 声 」である「 私は存在する 」は、私から切り離されてある。だからその私の発話は、私の耳に届かない可能性もあるし、テープなどに録音されれば、私の死後(存在しない時)にも、私の声、である「 私は存在する 」が響くこともある。つまり、「 私は存在する 」という発話は、必ずしも私の存在を保障するものではない。と。
フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念は、このような思考を基盤としている。(表現の物質性)勿論、樫村もこのような言説を前提とする。しかし樫村は、それを哲学的=比喩的な言語ではなく、工学的=システマティックな言語で言おうとしている。
例えば、声、は、必ずしも自我の同一性を保障しない、ということを、分裂病者の自動思考を例として次のように記述する。
<例えば「 汚れた者は償われなければならない 」という考えがくり返し生じるとき、それを産出する脳は自分自身の考えを理解できず、そのため彼は何者かに思考が操作されていると想像する。しかしそのとき外から見ると、彼は往々わずかに口を動かして、思考の中身=語鎖列を発声している。つまり被操作化しているのは、思考・変換過程の統一的全体でなく、出力側の口腔発声ユニットであり、しかも発声はそこで潜在的なものにとどまるため、脳は形成された言葉=音を結局自分の耳で聞き取れない。・・略・・つまりこれらの例では、通常の思考では駆動する、口から耳への「 頭の外側 」の「 閉じられた(空間的)ループ 」が存在しない。>(「 言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確認のメカニズム 」 )
我思う故に我あり=私が-話すのを-聞く、という閉じたループ=自我の内部に、すでに外側の世界=物質が媒介として入り込んでしまっている。だからこそ我々の精神-身体は様々なメディアに接続可能なのであり、また、様々なメディアとの接続なしに、『私』はありえない。1/19(水)
前にも書いたけど、作品が少しづつ完成に近づいてくる、というのは、今まで漠然とした「 夢 」のようなものだったのが、徐々に、ミもフタもない現実としての姿を見せ始める、ということであって、それはそれでかなりキツいことなのだが、それでも、作品というのは、現実とは少し違った次元で成立するものでもあるのだった。
『伯母さんは、夢想にふけりながら同時に働く事のできる人だった。しかも、夢想のために仕事をおろそかにしたり、仕事のために夢想をいいかげんにしたりすることは、けっしてなかった。だから、伯母さんの夢想はちゃんと道理にかなっていたし、伯母さんの仕事ぶりは、やさしい夢のように軽やかだった。』(アンリ・ボスコ「 島の狐 」)
夢想が、ちゃんと道理にかなったものであること!!!!1/15(土)
見ること、聞くこと、考えること、等は、主観的な出来事ではなく、客観的(物質的)に"起こっている"ことだ。つまりそれは、脳の何らかの物質的な変化として測定しうる。脳の電気的、化学的な反応=変化。知覚や思考は、それだけで熱量を発するひとつの行為なのだ。しかしその熱量はあまりに微弱なので、他者にはほとんど影響を与えない。そしてその熱は、熱力学の第2法則によって、大気のなかに散らばって消えてしまう。時間は、不可逆であるから、2度ともとには戻らない。
知覚し、思考することは、発熱することでもある。しかし、時間の流れとともに、熱は散ってゆく。
イメージの物質性、あるいはイメージが物質として保存されるということ、あるいは、物質がそのままイメージとなる、ということ。
ひとつのイメージをつくること。これは誰にでもできることだ。そしてそのイメージを、誰か他人に示すこと。これも誰にでもできる。そして、その示されたイメージに、誰かが、もうひとつ別のイメージを付け加えること。そのふたつを突き合わせて、それらについて考えること。話し合うこと。美術というのは、そのようなシンプルな行為としてしかありえない。というか、そうでなければ意味がない。1/18(火)
もっと繊細で、もっと自由で、そしてもっと強くあるためには、より小さく、より少なく、より貧しく、あってよいのではないだろうか。ささやかなもののもつ驚くほどの強靱さを感じるためには、もっと身軽であることが必要だ。
余計なものは削ぎ落とし、自分の身体を粉々に砕いて、たくさんの小さな粒のようなものにすること。風で運ばれる、砂や塵や花粉のようなものになること。
夜中じゅう音楽を聴いていて、朝方窓をあける。冷たい朝の空気が入ってくる。肌に当たる冷気。やはりぼくの身体は、重さや表面積をもってしまっている。そこからは逃げられない。
作家は、何かをやりたくて作品を作るのではない。ある仕掛けを設定して、そこに様々な、人物やら出来事やら事物やらを、投入し、横断させ、交錯させて、そこで一体何があらわれるのかを、実験するために、作品をつくるのだ。
(作家は作品を完璧にコントロールすることは出来ないし、また、してはならないのだ。自らのつくりだすイメージについて、責任はもたなければならないが、イメージの支配者であってはいけない。)
実験的な作品に対して、アーチストのひとりよがりだ、みたいなことを言う人がいるけど、そういう人は、他人からサービスされたり、手取り足取り教えてもらったりしないと、面白がったり、気持ちよくなったり、出来ないような人なのだろうと思う。わざわざそんな人に観てもらう必要なんか少しもない。出来合いのものだけで満足してりゃあいいんだ。』(おいおい、一体、何に対してそんなに苛立っているのだ、ぼくは・・・。)