9/2(土)
●アトリエの大家さんのところへ家賃を払いにいった。いつも通される居間に、大きな遺影や花があった。気のせいか、婆さんはひとまわり縮んでしまたような印象。爺さんが入院してから、昼間だけ家政婦が来ていた以外1人で住んでいたと思うのだが、今日は、居間には、おそらく娘さんだろう人と、娘さんの孫だと思われる男の子がいて、子供はブロックを組み立てて遊んでいた。しばらくは1人にしておけない、という感じなのだろう。婆さんは、いつもは、ひとつひとつの細かい動作やダンドリをきちっとする人なのだけど、動作が何となく投げやりな感じにぼくの目には写った。
アトリエの今後についての話はでなかった。というより、それを切り出すような雰囲気ではなかった。9/3(日)
●真昼でも結構陽は傾いていて、影がながくのびるようになった。地面におちている枯れ葉が、くるくると巻き込む風で舞い上がる。空は高く青が澄んできて、荒い繊維のまま不器用にすかれた和紙のようにボコボコした鱗雲が、空に貼り付いている。視覚から入ってくる情報は、もう夏がすでにその盛りを過ぎていることを知らせている。なのに、肌に感じるこの蒸し暑さは何なのか。昨日の、ちょっとどうかしているんじゃないか、と思う程の暑さではないものの、夏の盛りのような暑さだ。
「俺なんて、子供のときはさあ、夏休みの宿題とかで毎日温度つけるでしょ、そんとき32
度なんていったら、もうそれだけで驚いちゃたもんね、えーっ、なんてね、30度過ぎたらもう、あちーなー今日はなんてさ、でも今は32、3度なんて当たり前でしょ、昨日の37度なんてひっくり返っちゃったもんね、昔なら考えられなかったね、どうしちゃたのかね。」とSさんは早口で話す。
●道ばたに、仰向けになった蝉の死骸があったので、拾ってみたら、いきなりブルブルと震えだし、ジジジジジと掠れるような大きな音を出してから飛んでゆき、ついでに小便もひっかけられた。あんだけ弱っていて、あんなにスカスカの身体から、あんなデカい音がでるのだった。今日、友人から教えられたのだが、蝉は鳴くのは雄だけで、鳴くというのは求愛行動だそうだ。しかし求愛行動にしてはあまりに騒がしくて過剰で、しかも経済効率として良くないのではないか。しかも官能性とか優雅さとかを決定的に欠いている。でも、官能性や優雅さや湿り気を欠いた、乾いていてスカスカでノイジーな求愛行動による生殖というのは、同じように、乾いていてスカスカでノイジーで、その上過剰な騒がしさに満ちたものなのだろう。それって何かちょっと羨ましい気がするのだが・・・。9/6(水)
●午前中、用事て出かけた先のスターバックスで「スターバックス・ラテ」を飲んだ。涼しかったのでオ−プン・スペースになっている外のベンチに座っていた。と、ジ、ジジジジ、という掠れて弱々しい蝉の声が、ぽつん、ぽつん、と立っている痩せて貧相な街路樹の方から聞こえてきた。立ち上がりの時の弱々しい声は、かかりの悪いエンジンみたいに、しばらく燻った後、すぐに乾いてガサガサした大きな声になっていった。蝉の声が大きく響くようになると、急に、日射しがカッと強くなり、気温が上がった。時計を見ると11時18分だった。9/8(木)
●雨降り。暑くはないが、じめじめしている。あれだけ汗まみれの日々だったのに、ここ数日であまり汗をかかなくなった。Yさんがギックリ腰になったそうだ。こういう陽気はヤバいらしい。どこか身体に不調な部分をもった人が近くにいると、気象状態が人の身体にどれだけおおきな影響をもっているかを改めて感じることになる。生物の身体の多くの部分が水で出来ているとすれば、とりわれ湿気に反応してしまうのも頷けることだ。
●ぼくの身体が、まわりの環境の温度や湿度の変化に知らず知らずのうちに影響されてしまっているように、ぼくが目をひらいているかぎり、目に入ってしまう様々なものに、好むと好まざるとに関わらず、決定的に影響されてしまっている。
秋から冬にかけての、変色した落ち葉の色は、ぼくにとって一種のカラーチャートのようなものになる。葉の色を基準として作品の色彩設計をする、という訳ではないが、制作の途中で頭や感覚が混乱してしまった時のための(ぼくは、しばしば混乱するのだけど)、ある基準点のようなもの、というか、ちっょとした仮設の拠り所みたいなものになってくれる。(溺れるものは、藁をも掴む、という感じか。)乾燥して最早死にかけてはいるが、逆にそのことによって植物的な生々しさが一層したような枯れ葉たち。
●ぼくは確かに、落ち葉の色をカラー・チャートとするし、拾った枝を使って線を引く訳だが、こんなことを言うと、何かエコロジー派というか、自然回帰、自然保護を訴えるような画家だと思われてしまうだろうが、しかしぼくは、あくまで「モダニスト」であるのだ。ぼくは、作品は大地(地球でも、ガイアでもいいのだが)から採れるもの、大地の恵みのようなもの、環境と切れ目なく繋がっているようなもの、などでは決してなくて、そこからほんの僅かでも飛翔したい、宙にぽっかりと浮いたものでありたい、という欲望から生まれるものでなければ詰まらないと思っている。
だから、落ち葉や木の枝を拾い、それら(ぼくが現に今、そのなかにいる環境)を頼りに制作するのは、「そこから出発する」ためであって、間違っても「そこに着地する」ためではない。問題なのは、そこから始めて、一体何処まで、どんなとんでもない地点まで、行くことが出来るのか、というところにこそあるのだった。9/8(金)
●テレビのニユースで、ジェーン・バーキンの来日というのをやっていた。フレンチ・ロリータももう53歳になるらしい。年齢のせいか、一時の恐ろしいほどの獰猛で野蛮な感じに比べると、幾分か柔らかな表情になったような気がする。ぼくは、ゲンズブールニよって仕立てあげられた、フレンチ・ロリータとしてのジェーン・バーキンについてはほとんど知らなくて、主にジャック・ドワイヨンとか、ジャック・リヴェットとかの映画に出ている時の印象しかないので、もしかしたら「恐ろしいほどの獰猛で野蛮な感じ」というイメージは一般的ではないのかもしれないが、あの、痛々しいほど細い身体から湧出してくる、背筋が凍るくらいの獰猛な表情は、ドワイヨンの映画などを観た人なら忘れられないだろう。
で、ニュースでは「その自由奔放な生き方が、若い女性から圧倒的に支持されているジェーン・バーキンさん」とかいうコメントがついてしまうのだった。まあ、ニュース番組だし、様々な深刻なニュースの合間の時間つなぎのようなニュースなのだろうから、多くを期待するのは間違っているとはいえ、ジェーン・バーキン=自由奔放な生き方、なんていう言葉で説明した気になってしまうというのは、紋切り型という以前の、言葉で人に何かを伝えようとする意識が全くみられない怠惰な態度だと言えるのではないか。たしかにジェーン・バーキン=自由奔放な生き方というのは決して間違ってはいないのだろうが、間違っていないという以上のものでは全くなくて、つまりその言葉は「何ものも表現していない」のだ。人と出会った時には、相手に何の感情も持っていなくても、よう、久しぶりだね、元気、とか言ってればそれで済んでしまう、というように、ジェーン・バーキンと言えば、自由奔放とでも言っておきゃあ間違いねえだろう、みたいな態度。しかし実はそのような態度ほどジェーン・バーキンから遠いものはないのではないか。そこにあるのは、少しでもものを感じたり考えたりする労力を抑えて、ものごとを最小限の努力で経済的に処理してしまおうという、事物や事柄に対する軽蔑しきった態度だと言えるだろう。9/10(日)
●夜。アスファルトから立ち上ってくる熱気と湿気。様々な種類の音がいくつも混じり、不快な程かん高くキンキンする虫の声。人気の少ない、真直ぐにずっと先まで伸びている道。網戸越しに漏れている薄青い光。そこから流れるテレビの音。ゆっくりと夜の空間を移動してゆくこの個体が自分であるということの不思議さ。暑いけど、汗ばむという程ではない。信号が目の前で赤にかわる。びゅん、びゅん、と重さをもった風を起こしては行き過ぎてゆくいくつものヘッドライト。店先の、半分閉じているシャッターのなかから店員たちのお喋りの声が漏れてくる。えーっ、ちょーカッコよくない、どこがぁー、カッコいーじゃん、あのなかで見るからそう見えるだけだよー。意識が、自分の身体の輪郭から外へはみ出してしまうような感じ。あるいは、熱気をともなった湿った空気のように、意識が辺りに散らばって風で流れてしまうような感じ。この感じは不快ではない。踏み切りの砂利を足の裏に感じながら渡る。蛍光灯は、青っぽい光のものと赤っぽい光のものがある。線路際にある駐輪場の蛍光灯のぼうっとした光。青っぽい光と赤っぽい光がまだらになってついている。ぽつん、ぽつん、とまばらに置いてある自転車を照らしている。ぼうっと拡がる蛍光灯の光の届く路上で、輪になって地面に尻をぺったり着けて座っている数人の若者たちの鼻にかかった甘ったるい声がアタマの隅に引っ掛かっり、それをずりずりーっと引き摺ったまま歩いている。甘ったるい声が、スキージーで引き延ばした絵具のように夜の空間のなかに掠れた線を描いて残る。あらゆるものがその輪郭を曖昧にして茫洋と拡がっている夜の空間のなかで、垂直に立ったままで移動していることの不合理。顔に、飛んできた虫がぶつかる。雲がかかった空に月が滲んで見える。雲が動いている。車が一台も停まっていない駐車場の四隅から生え出ている雑草の緑が、街灯の光でビニールのような質感で輝いている。内側から黄色く光っている大きな看板が見えてくる。
ビデオを3本返却した。(『スクリーム・3』『シャンドライの恋』『スリーピー・ホロウ』)延滞料を支払う。9/11(月)
●日記を書いている今、12日の午前0時過ぎ、外ではもの凄い音をたてて雨がおちてきている。9/12(火)
●雨は降ったり止んだりをくり返しながら、結局午後までつづいた。強く降っていた雨がまばらになってくると、唐突に1匹の蝉がから元気のような声で鳴きはじめ、それにつられていくつもの蝉の声が交錯して聞こえてきたので、もうこのまま雨はあがるのだろうなと思っていると、しばらくすると大粒のやつがポツリポツリときはじめて、やがてザーッとなるのだった。大量の雨が降ると、普段平坦だと思っていた地面に微妙な凹凸があることが分る。すこしでも凹んでいる場所には水がかなりの量溜まっていて、歩く時そこを迂回しなければならない。処理できる量を超えた下水への排水口からは、ぼこぼこと湧き水のように水が溢れ出している。鋪装された地面の僅かばかりの凹凸にあわせて水溜まりは不定型にひろがっている。蝉はすこしでも雨脚が弱くなると、待ちかねていたように鳴きはじめるが、ようやく鳴き声がひとしきり拡がった頃にはまた降りが強くなる。
降ったり止んだりを繰り返すうちに、それでも空はすこしづつ明るくなってゆき、雲の薄くなった部分からは陽の光も射してくるようになり、グレーの空は、シルバーメタリックのような輝きをみせる。あちこちに拡がっている水溜まりに空が写っている。その水溜まりを跳ねるようにして飛び越える人々。しぶきをあげて突っ切る自動車。停まっている車のボンネットやフロントグラスにも秋らしい雲の像が反射している。薄い雲を通ってきた弱くて白い光は、陸上競技場の芝生を、内側からの光っているようにぼうっと輝かせる。非常階段の途中に仰向けになっている蝉の死骸が落ちていた。拾うと、ギギギギーッと空疎な音をたてて羽根をバタつかせてみせたけど、それだけでそのまま動かなくなった。9/16(土)
●外ではバリバリと雷が炸裂し、大粒の雨が屋根や地面を強く連打する音が響いている。一瞬、ブレーカーが落ちて部屋が真っ暗になる。灯りをつけたまま眠っていたので、暗くなって目が覚めた。ブレーカーを上げて、また眠った。
体調が悪くて、1日じゅう眠っていた。
途中で2度ほど電話があったのだが、もう寝たくてしょうがなかったので、かなりいい加減でぞんざいな対応になってしまっただろう。電話機の時計が10分ほど遅れていたので、あの後も何度か停電だか、ブレーカーが落ちただか、があったのだろう。9/18(月)
●久しぶりの晴れ。団地のベランダに開いた傘が並べて干してある。窪んだ場所にはまだ残っているおおきな水たまりに、透明感のある空が映っている。空が高くなったせいなのか、自分の身長が縮んだような感じがする。妙に静かに思えるのは、蝉の声に勢いがなくなってきたせいなのだろうか。全く聞こえない訳ではなく、ところどころでポツポツと聞こえるツクツクホーシの声が、やけにか細く、か弱く、感じられる。(そうは言っても、午後になるとそれなりに騒がしく鳴きはじめるのだつたが。)
雨のせいなのか、枯れていない緑の葉が地面にたくさん散らばっている。湿って、酸味のつよいお茶のような匂いをさせている。体育館の横で、応援団が練習をしている。横っ面を殴られるようなバカでかい太鼓の音が、ヘンなリズムを叩く。低いダミ声で歌う応援歌。ドン、ドン、と叩かれる度に心臓の鼓動が乱されるような破裂音が、少し離れた場所にある高い建物にぶつかって、微妙な隙間と揺らぎをもって跳ね返ってくる。9/19(火)
●どこのBBSでみたのか忘れちゃったけど、何でも芸祭で森村泰昌と辻仁成のトークショーみたいのがあって、お互いに相手のことを「あなたは自分に酔っている」と言って批判していたらしい。どっちもどっちというか、どっちもどうでもいいのだけど。どうも2人とも、「全く批評性を欠いた自己陶酔」こそが自分の芸風だ、ということを、自覚してやっている訳ではないらしい。
●詰まらない用事で1日が潰れる。寝過ごしてしまい、起きて時計を見た時、もうどうせ間に合わないのだから今日の予定はキャンセルしちゃおうかなあ、と思うのだが、次の瞬間には服を着替えて家を出ていた。確かTくんが言っていたことだが「無意識は自分が思っているよりずっと生真面目」なのだった。こんな時に限ってやたらと交通機関の連絡がよくて、なんとかギリギリ間に合ってしまうのだった。もし明らかに間に合わない、という状態であれば、途中でバックレて、方向を変えてどっかへ遊びに行く、ということも出来たのだが。9/21(木)
●夜、ガラス窓の向こう側に、片方の腕を引きちぎられた大きなカマキリが、貼り付いていた。ライトの光をかざしてみても、ピクリとも動かない。カマキリを裏側から見ると、胴体の一部や腹は、とても美しい、ほんのりとしたオレンジ色をしていた。9/22(金)
●夜。アパートの庭、といっても壁から塀までの僅かな間、に生えている雑草を、自分の部屋の窓からもれる蛍光灯の光だけを光源にしてビデオで撮影してみる。ここはかなり「荒れた」感じで雑草が伸び放題になっている。塀のすぐ先は隣の家の壁になっているので、夜中にこんな所でビデオカメラを持ってしゃがみ込んでいる姿はども考えても相当アヤしくて、見つかったりしたらヤバいなあ、と思いながらもビデオを回す。蚊に刺される。
カーテンを閉めたままの自分の部屋からの微かな光だけで薄っすら浮かび上がる雑草。暗すぎるので、ファインダーを覗いてもフレームを確認できない。果たして写っているのかどうかも分らない。猫の通り道になっている塀の上を、猫が通りすぎてゆく時、こちらの方を不思議そうに見ていた。
部屋に戻って、テレビのモニターで撮影したものを見てみる。ビデオ画面特有の、ぬるまったい中途半端な暗闇のなかに、微かに、蛍光灯の光を受けた雑草が、電気的な、すごく変な色でぼんやりと浮かび上がっていた。ぬめっとした気味の悪い質感の緑。時々画面に荒れたようなノイズがはしる以外に、まったく変化のない映像が続く。一体、自分は何をやりたかったのだろうか、と考えながらぼんやりとその画面を見つづける。モニターから聞こえてくる虫の声と、窓の外から聞こえる声とが、妙な感じで呼応している。
時間が再生されるということ。しかし、さっき庭に出て雑草のなかでしゃがみ込んでいた時間と、このモニター上での時間は、やはり異質なものでもある。カメラ、それも時間までもが写り込んでしまうビデオカメラというのは、つくづく不思議なものだと思った。(別に、これを作品に利用してやろうなどというスケベ心は始めからないのだが。)9/24(日)
●雨上がりの朝。薄く曇った空はかえって眩しい。アスファルトの上に水たまり。電線と雲が反射して写っている。アスファルトは黒に近い色なので、きれいに反映する。排水溝のなか、つまり地面の下の方から、水の流れるサラサラいう音が聞こえてくる。落ち葉が濡れたアスファルトにぺったり貼り付いている。
●緑地へと降りてゆく途中の芝生の所に、何時の間にか、気味が悪い程たくさん、にょきにょきと彼岸花が生え出ていた。この妙に無機質で気持ちが悪いほどツルッとした茎をもつ真っ赤な花の、その真っ赤な色が地面の低い部分の至る所に点在していて、その赤が、ずうずうしく、しかしじんわりと目から染み込んでくる。この花の色は、いつもアタマを軋ませるような感じだ。芝生の上の蕁麻疹のような花。この花は、消えるときも、あっという間で、いつのまにか枯れた茎だけの状態になっているのだ。
●緑地には、夏のようなじとっとした湿気はなく、雨あがりで地面がぬかるんではいても、きつい青臭いにおいもむっとする腐食した土のにおいもあまりしない。むしろ風は乾いている。足元には、ところどころ、様々な(妖しげな)色や形状の茸が、こんなところに ! 、という場所ににょきにょき生えている。そのなかの幾つかは、もう既に傘の部分が割れて、あたりに胞子を放出している。たぷん、今、この林のなかにはたくさんの目には見えない、割れた茸の傘から飛び散った胞子が充満し、ただよっているのだろう。それはぼくの身体に付着して外へも運ばれ、空気とともにぼくの身体のなかにも運ばれているのだろう。9/26(火)
●真っ青な空とたくさんの雲。太陽に雲がかかっている時と、かかっていない時、太陽にかかっている雲の厚みの違い、などによって、短い時間のうちにも光の状態がめまぐるしく変わる。光が強く射してくると、まだ蝉の声が聞こえてくる。木々の影が長くて複雑な曲線を描いて地面におちる。空の明るさは一定なのに、地上の光だけが急激に変化する。
●西日が窓から入って、机の上を照らす。オレンジがかった暖色の光。バインダーに挟んだ紙が白く輝き、その上に、斜めに横たわるポールペンとその影が際立つ。ブラインドを下ろす。縞々に射す光が、窓際の鉢植えの植物にあたって、複雑な光が緑の葉の上で撥ねる。消えているテレビモニターの画面に、部屋じゅうの様子が魚眼レンズのように歪んで写っている。鉢植えの土のにおい。9/27(水)
●朝の澄んだ空気。塗りつぶしたみたいに、距離感を失わせるような空の色。空を背景にして、にょきにょきと伸びている高層住宅を見ていると、質の悪い合成画面を見ているようでクラクラする。窓というフレーム越しに見ると、一層現実感が失われる。建物の後ろに空が貼り付いているみたいで気持ちが悪いほどだ。
●やたらに生野菜が食べたくて仕方が無くなり、青い菜ものの野菜ばかり大量に買ってきて、ドレッシングをかけて手づかみで、まるでウサギにでもなったかのようにバリバリと喰らう。青くさい強い香り、青くさい味、青くさい水分、ドレッシングの酸味、これらが欲しくてしょうがない、という状態。手や口のまわりが、ドレッシングでベタベタになる。ゾンビが死骸でも喰らうような食べ方だ、と自分でも思う。10/3(火)
●明け方に、寒くて目が覚めた。寒さで目が覚める、という感覚はしばらく忘れていたものだったので少し新鮮に感じた。もう一枚重ね着して、トイレへいってから、また眠った。布団のなかがあたたかいことの心地よさ、も、しばらくぶりで感じた。外はまだ雨が降っている。
●雨の朝。今にもやみそうでいて、しぶとく降りつづけている。きのうからずっとこんな感じ。空気はひんやりとしていて、どんよりと薄暗い。もやもやしてはっきりしない天気。傘の表面が細かい水滴でびっしりと埋まるけれど、それが、つーっと下へと流れて垂れるほどまではいかない、という降り。つかつかと大股で駅へと向かう人たちの流れも、なんとなく重ったるいようにみえる。
●午後、窓からの光景。幼稚園から返ってくるバスを待ついつもの母と子供。母親は薄いピンクのトレーナーに白いチノパン。子供は、白地に細くて青い横ストライプの半袖シャツに短パン。ちっちゃい麦わら帽子のようなものを被っている。2人の後ろには空き地。夏の盛りは、もくもくと溢れ、零れてしまいそうなほどの勢いで茂っていた雑草も、今では、かなり落ちついて、枯れて黄色い部分も目立つ。すすきが何本も並んで生え、雑草たちのなかから頭を突き出している。穂が空に向いて伸びていて、風で揺れている。
子供は、いつもの通りに元気(元気すぎ)て、ほんの一瞬も止まっていない。立ったりしゃがんだり、奇声を発して手を叩いたり、はしゃぎながら走りまわる。母親はその相手をしながら、子供が車道へ出ないように上手にガードしている。しかし、子供があまりにちょこちょこ走りまわるので、母親は子供を抱き上げる。抱き上げられた子供は、それでもバタバタ動いていて、ずり落ちてしまいそうなくらい。
バスが着く。お兄ちゃんらしい子供(白いシャツ、黒い短パンとサスペンダー、紅色のベレー帽。)が降りてくる。お兄ちゃんのカバンを持つ母親。チビを手から下ろす。3人で歩きだすが、チビはあいかわらずちょろちょろしていて、1人で先を歩いていると思うと、いきなりあらぬ方向へ走っいゆく。母親はあわてて連れ戻す。大人の背よりもずっと高いススキの生えている空き地の横の道を、3人は歩いてゆく。10/4(水)
●住んでいるアパートを出て、左に曲がってすぐのところにある和菓子屋が解体された。朝、前を通る時には、道路に、荷台にショベルカーを載せたダンプが停まっていて、解体の時に舞い散るゴミやホコリを防ぐビニールシートを張るための、木の足場が組まれているところだった。夕方に、もう一度通ったら、既に3分の2くらいは解体されてしまっていて、青いビニールシートの隙間から、解体されて出た木のクズが、折り重なって山になっているのが見えた。解体をしている作業員たちが、地面に座って、お茶を飲んでいた。
ぼくが今住んでいる所に越してきた頃、8年くらい前にはもうそこにこの店はあった。通りに面しているウインドウというのか、ガラスの面はとても小さく、中も暗いので、しばらくはそこが和菓子屋だとは気付かなかった。中を覗いてみても、とても小振りのショーケースが一個あって、そこにほんの数種類の和菓子がこじんまり並んでいるだけだった。店番の人もめったにいないし、客が入っているのを見たこともない。ただ、通りに面している壁面の上の方に、かなり立派な屋号が、看板ではなく、壁からじかに文字が浮き出るようにつくってあった。多分、老夫婦がほとんど趣味で家の一角を改築してつくったような店なのだろう。アパートを出ると、駅へ行くにも、コンビニへ行くにも、郵便局や図書館に行くにも、まず左へ曲がるので、ほぼ外出の度にそこの前を徹のだが、一度もそこで買い物をしたことがない。普段は、そこが和菓子屋だということさえほとんど忘れて(意識しないで)通ってしまう。たまに、一度くらいあそこで買い物をしてみよう、と思いつくのだけど、結局それをしないままに、こうなってしまった。
もし、この店が儲けとかとは関係なく、老夫婦の趣味としてつづいていたような店なら、それをいきなりたたむ、というのは何らかの理由があるはずだろう。商売がたちゆかなくなった、とか、こんな店やってても将来はしれてる、とか、そういうのではない理由が。まあ、普通に考えて、一番自然に思い浮かぶのは、店を切り盛りしている人が亡くなったということだろうが、この家(店の裏は、家につづいている。)で最近葬式があった、ということはない。(でも、最近では家で葬式を出す、ということの方が少ないのかもしれないが。)だとすると、家族の意見(とは言っても、この家は2世帯、3世帯同居という感じではなく、小じまりしたつくりだから、他所に住んでいるのだろうが。)で、最近では景気も回復しつつあるし、地価の下落も止まったし、駅前には大きなマンションもできるし、そんなこんなで、土地をもっと有効に利用しなくては、とかなんとか言い含められてしまったというところだろうか。
この辺りは、学生の街であると同時に、老人の街でもあって、昔ながらの(それでも戦前から、という程ではないだろうが。)、ほとんど意味不明とも思える空間の無駄遣いとしか言えない建物がかなりあるのだが、それでもここ2、3年くらいで、急速に壊され、「ちゃんとした」建物に建てかえられてしまっている。この店の斜め向いにあった公民館(木の壁に、手垢や手の脂が染み込んで、黒びかりしているような感じだった。)も、今、建て替え工事中だし。
そういえば、店の前には、いつも旗というか「のぽり」(○○饅頭、とか書いてあるやつ)のようなものが、何本か立っていて風に吹かれていたような気もするだが、それは駅前にある和菓子屋と記憶がごっちゃになってしまっているのかもしれない。あたりまえにそこに「あった」ものが急に「なく」なってしまうと、それについての記憶も、急激にあやふやなものになってしまう。10/6(金)
●確か綿毛と言うのだっけ、と思って辞書をひいてみたら、「綿毛」というのはやわらかい毛のことなのだった。そうではなくて、タンポポなどで花が咲いた後にできる、あの白くてふわふわした、中心に細長い種がついていて、そこから白くて長くて軽い毛が沢山生えている、ほんのわずかな風で、あちこちへと飛んでゆくやつ。綿ぼうしというのは雪のことだし・・・。
「それ」が、窓を開けっ放しにしていたら外から飛んできた。飛んできた「それ」を掌に載せて捕獲してから、その形状をよく見ようと机の上に置いてみるのだけど、身体では全く風を感じないのに、微妙な空気の循環があるらしくて、「それ」はまるで無数の細長い足をもった蜘蛛のような虫が歩くように、ぞぞぞぞぞぞ、と机の上を移動してしまうのだった。窓を締めてから机の中心に置きなおしても、また同じような軌跡を描きながら、ぞぞぞぞぞぞぞ、と移動し、机の隅のある地点で止まるのだった。10/7(土)
●ぐったりと疲れているのに、頭の芯が妙に興奮しているのか、眠っても眠りがとても浅くて、10分おきくらいに目が覚めてしまう。はっと目が覚めて時計を見ると、まだ10分位しか経っていない、というのを何度もくり返しながら、それでも疲れていて眠いので、また眠り、しかしすぐに目が覚めてしまう。
眠る、とは言っても、半分は覚醒しているような状態で、眠りながらも、今、自分が部屋の中で横になっているという状況を把握しているのだった。それでも半分は眠っているので、夢を見ていて、結果、自分が実際に眠っている部屋のなかを、数人の人物が、どたどた行き来するのを、眠りながら見ている、というヘンなことになってしまう。ぼくが眠っているにもかかわらず、ぼくの部屋のなかで、人々が口論したり、何かわめいたり、笑い合ったりしながら、乱暴に歩いたり、走りまわったりしている。ぼくは、うるせーなーと思いながらも、横になったままで眠っている。勿論これは幽霊などてはなく、とても中途半端な状態で夢を見ているのであって、この、やたらとごちゃごちゃ人物たちが錯綜している状況は、ぼくの頭の状態の混乱ぶりをそのまま反映しているのだろう。(これは、現実のなかに夢が流入している、と言うべきなのか、それとも、夢のなかに現実が流入している、というべきなのだろうか。)そしてまたしばらくして、はっと、目が覚める。
そんな感じで2時間くらい眠ったり起きたりしていたのだが、これではぐっすりと気持ちよく眠るという訳にはいかないだろうと覚悟を決めて、いかにも「だるー」という感じで起きたのだった。10/9(月)
●コンクリートの建物は、あたりの湿気によって敏感に表情をかえる。空気が乾いているときは、パサパサしているし、湿気ているときは、しっとりした感じだ。雨おがりのコンクリートは、焼けたようなヘンなにおいがする。外に露出している、じかに雨を受けて染みができているような場所ではなく、奥まったところの濡れていない場所でも、手で触ってみると、周囲の水分を充分に吸収した、しっとりとした感触で掌に吸い付く。10/10(火)
●今年初めて蝉の声を聞いた日のことは、この日記のどこかに記述してあるのだけど、蝉の声を全く聞かなくなったのは、一体何時頃からだろうか。9月のかなり遅くまで、よく晴れて暑い日には、カッと陽が照りだしたりすると、一体今まで何処にいたのだろうかと思うほどいきなり、ミーン、ミンミンミン、ミーンというカラ元気のようなギザギサしたデカい音が聞こえてきたりしたのだが。10/12(木)
●電車に乗っていた。耳は、コンパクトMDからのヘッドフォンで塞がれていた。駅で停まり、割と派手めなお兄ちゃんの2人連れが乗ってきた。別に、その2人を特に見ていたという訳ではない。ただ、目の隅の方でその姿を捉えていた。2人は、電車が動きだすと、やけにリズム感のいい手話で会話を始めた。ぼくは正面を向いていたのだけど、右側にいたその2人の手の動きは、目の隅にちらちらとうつっている。こんなにリズム感のいい手話というのがあるのか、手さばきのキレもよく、さすがに若くて派手めのお兄ちゃんたちだけあって、手話のこなし方が、やたらとカッコいいじゃん、なんて思っていた。外からの音は、ヘッドフォンをしているのでほとんど入ってはこない。しばらくして、その手話がかなりおかしいことに気付く。何のことはない、その2人はパラパラの練習をしているのだった。1人は座っていて、もう1人はその正面に立っていたので、足の動きがなく、電車のなかという遠慮もあったのか、アクションも小さめだったので、手話に見えてしまったのだった。
しかしそれにしても、パラパラの練習を見て、「やけにリズム感のいい手話」に見えてしまうとは、ぼくの感覚も相当ズレているというか、全く当てにならないものだと、痛感したのだった。10/14(金)
●アパートを出て左へ曲がったところ、もともと小さな和菓子屋があった場所(10/4の日記、参照)はもうすっかり平坦な土地にならされていて、テントが吊られ、紅白の幕が張られ、パイプ椅子が並んだ「地鎮祭」も済み、今では、土地のちょうど真ん中あたりに盛り土がされていて、そこに榊の枝が挿してあり、あれは何というのか、しめ縄などについている「白い紙」がヒラヒラとしている。
●午前10時過ぎ、今期初めての、毒々しい青をべったりと塗り付けたような、本格的な秋の空だった。雲ひとつない。土曜日の午前中。おもちゃの車に乗った子供が、坂道をダーッと下ってくる。道ゆく人々の何人もが、空を見上げている。緑地のなかでは、風で揺すられて、枯れ葉がまるで雪のようにハラハラと舞い落ちている。ゆっくりとした速度で。木漏れ日のなかに猫。3匹いて、ギャーギャーと悲鳴のような声でわめきあっていた。10/15(日)
●窓を開けたら、雨が降っているような音がした。雨ではなく、落ち葉が風で舞って擦れあっている音だった。擦れている葉と葉が、乾燥しているせいか、音がやけに粒だって聞こえた。木枯らし、というと大げさだけど。夏から秋への季節の変化は、気温によるよりもむしろ、湿度の変化によって感じられるのかもしれない。10/21(土)
●雨は夜中には上がって、早朝、一面に真っ白な靄がかかっていた。半透明な白い光が、不均一な濃度で散らばって、そこここに引っ掛かり、滞っている。白く発光する太陽を、直視できるくらいにヴェールがかかっている。太陽にカメラを向けてシャッターを切ってみる。空中に浮遊している細かな水滴に光が当って砕け、漂うように拡散する。光源がはっきりせず、光がそこに留まり空間を満たす。乳白色に視覚化された空気の塊が、建物や立ち木に重く纏わりついているように見える。10/27(金)
●Oさんがフィルムを入れる丸いプラスチックのケースのなかにパイプタバコの葉を入れていた。フタをあけると、タバコの葉とは思えないような軽くて柑橘系のとてもよいにおいがした。どちらかというと、お茶の葉のようなにおい。どちらも、植物を乾燥させて醗酵させたものだということでは違いはないのだろうが。
Oさんはそれを、パイプに詰めるのではなく、紙に巻いて吸っていた。大粒できめの不揃いな葉が、くるくると紙に巻かれる。その煙りも、タバコのように尖っていて鼻や咽をギザギサと擦るようなものではなく、甘くて丸い感じの、口のなかでチョコレートが溶けたときのようなにおいだった。まろやかで当たりはキツくはないのだけど、決して軽くなくて、グッと胃にくるような重たい感じの煙り。ぼくはタバコは吸わないので、自分で吸った訳ではなく、吸っているOさんの隣でその煙りを浴びていただけなのだけど。10/29(日)
●冷たい雨が強くなってきた。街路樹から落ちて、地面に沢山散らばっている落ち葉に、雨粒が当って、鈍い音があちこちで響いている。ボボッ、ボボッ、ボボッ、ボボッ。
●赤い葉、黄色い葉、オレンジの葉、緑の葉、赤い実、黄色い花。空に複雑な線を描く枝。寒くて手がかじかむ。濡れた地面に濡れた葉がぴたっと貼り付いている。その色があまりに鮮やかで目についたので何枚か拾ってポケットに入れる。帰ってから見てみると、色がやけにくすんで見えた。
●夜、雨があがる。街灯の光に後ろから照らされている木の葉に、水滴が沢山ついている。湿った地面が街灯をやわらかく跳ね返している。曇った空がぼんやり光っている。チャリンコをこいで坂を昇る。高い場所から見下ろすと、建物や道路の灯が靄で微かに霞んでいる。自動販売機の発する光が眩しい。販売機がブーンという音をたてている。10/30(月)
●新作『スペース・カウボーイ』が久々に大々的に公開されるせいか、ここ最近何度かテレビでインタビューを受けるクリント・イーストウッドを観ることがあった。今日も夕方のニュースに出ていた。テレビで見るイーストウッドはスクリーンで観るのとは随分印象が違っていて、何だかすごく「爺さん」に見える。表情はゆるんでいて、赤ら顔で、椅子に深く腰掛けて背もたれにどかっと身を任せている背中の線は丸くて、スクリーン上での、背筋をキッと延ばしたままの禁欲的な体制で、自身の肉体の崩壊にじっと耐えている感じとは異なる、やわらかくニコニコ笑いながら、どちらかと言うと大らかに歳を重ねている老人という印象。テレビカメラの前で、一応スターとしての威厳を保とうという気もないらしく、服装なんかにも無頓着にみえる。なまじ、人並みはずれて身長が高くて手足も長いし、肉も引き締まっているせいで、リラックスした感じの老人風の服がハマッてなくて、ちょっとだらしない感じにさえ見えてしまうかもしれない。おそらく、実生活ではイーストウッドというのはこういう人なのだろう。
だとしたら、イーストウッドの映画俳優=映画作家としての苛烈な歩み(フィルムに焼きつけられた生)と、実人生での「気のいい爺さん」としての生の、この乖離は一体何なのだろうか、と考えてしまう。これは決して「虚像」と「実像」なんてものではなく、両方とも「実像」であることには間違いはないと思うのだが。