WALK AROUND TIME(日常・6)
6/1(木)
ピストルで背中を撃たれる夢と、日本刀で背中から斬りつけられる夢をたてつづけにみた。肩から背中にかけて、バリバリに凝っているからだろう。凝っているとうより、右肩から背中の左半分にかけて、斜めに、何か異物が埋め込まれているような感じ。
除草作業によって刈りとられた雑草が、麻の袋にぎっしりと詰め込まれて、パンパンに膨らんだその袋が5つまとめて、木の影に置いてある。近くを通ると、濃い緑と土のにおいで、むっとするほど。
緑地へと降りてゆく。強い光をちらちらと反射する黄緑の葉。日射しが強くなればなるほど、光を遮られた場所の影は濃くなり、そこの地面は湿り気が増してくる。湿った土と腐りかけの落ち葉のすえたようなにおいも強くなる。たった今、湿った土のなかから出てきたばかりというような、ヌラヌラとぬめって輝くミミズが、生々しく伸縮しながらうねっている。6/5(月)
昼間は晴れて、昨日に劣らず気持ちの良い天気だったが、夕方くもって、風がつよくなる。目の前で、強風にあおられて、並べて停めてあった自転車が、ドミノ倒しのようにして10台くらいバタバタバタッと倒れた。6/6(火)
連日の良い天気。しばらく外に立っていて、日の光をあびていると、皮膚の内側に熱が溜まってゆくような感じ。その後、冷房の効いた部屋に入ると、毛穴から熱が少しづつ染み出てゆくようだ。
平らに均されて固められたアスファルトがどこまでも拡がっている駐車場、の、すさまじい照り返し。子供が、Tシャツを風でブルブルと震わせて、チャリンコで疾走している。
春先には、いろいろな花や、若葉や枯れ葉などでいろどられてカラフルだったグランドの脇の斜面も、今では、ほぼ緑の濃淡のみで埋めつくされている。強い風にのって、どこからか香水のにおいが運ばれてきた。どこから来たのかは分らない。6/7(水)
眠い。やたらと眠い。なぜ眠いかといえば、寝不足だからだ。それに加えて、睡眠が不規則で小刻みだからか。1時間寝て、起きて活動し、2時間寝ては、また起きる、という、1日24時間でまわっている生物のサイクルを無視した生活をしてしまっているからだろう。この悪循環を絶ち切るには、夜になるまで眠くても無理して起きていて、夜中に目覚めても、根性で朝まで眠る、という必要があるだろう。
電車に乗る。5分乗って、乗り換えて、10分乗ってはまた乗り換え、つぎも5分乗る。立っていたり歩いていたりするときは平気なのだが、電車で座ると突然、強烈な眠気が襲ってくる。しかし短時間しか乗らないので、ここで眠ると乗り越してしまう。必死で堪えるが、意識はいつの間にか現実の世界から夢の世界へと連続的に切れ目なく移行していってしまう。ぽかぽかとイイ陽気のせいもあって、心地よい眠気が身体じゅうを甘く痺れさせる。しかしここで誘惑に負けてしまっては・・・。なにしろ乗り換えが多いので、ひとつ乗り過ごすと、時間が大幅に遅れてしまう。午前中のややキツめの眩しいくらいの日射し。開いた窓からは程よく風が流れて身体を優しく撫でる。うー、寝てはいけない。でも・・・。こんな苦痛でもあると同時にむず痒い快楽でもあるような眠気とともに、電車は行くのだった。6/8(金)
緑のなかを電車ははしる。別に山奥をはしっている訳ではない。小田急線で新宿方向へ向かっている。線路のまわりは何故か緑が多い。ここんとこ続いている素晴らしい天気で、緑がくっきりと栄えている。こんなに気持ちの良い陽気なのに、アトリエに籠っていたりするのは馬鹿馬鹿しい、なんていう理由をつけてはサボッて、ふらふらする日々。
友人に会うなり、どうかした、大丈夫、と聞かれる。別に、どうして。なんか凄く疲れた顔してるよ。そうかなあ、睡眠不足のせいかなあ。ホントに大丈夫、と、何度もしつこく言われた。体が弱く、いつも、ここが調子悪い、あそこが調子悪い、とピーピー言っているその友人にそこまで言われるのは、余程疲れた顔をしていたのだろう。自分ではほとんど自覚症状がなかったのだけど、何度も言われているうち、だんだんかったるいような気がしてきた。仕舞いには、なんか凄く不幸な事があった、って訳じゃないよね、とまで言われた。考えてみれば、朝からエビアンしか口に入れてなかった。町田のインド料理屋でカレーを食べ、日本最大の100円ショップといわれるところで、ツボ指圧グッズを購入。今日はたっぷりと寝ようと決意する。6/9(金)
雨、強風。大粒で方向の定まらないまばらな雨は、傘をどの方向へ向けてさしても、結局は濡れてしまうのだった。特に足元なんかすぐにぐっしょり。並木道の木々が強い風にあおられて、しなっては戻り、しなっては戻り、している。細い枝は、なぶられるように風に踊らされ、葉と葉が擦れあって、荒れた海の上にいるような乱れた音をたてている。風のゴーゴーいう音。電線がしなってひゅんびゅんいう音。交通標識やミラーがガタガタと揺れる。ビニール袋がバサバサいって道を転がる。
それでも空はあかるく、ところどころ青い晴れ間さえ覗いている。道ばたで座り込んでしまう。6/10(土)
細かい雨。濡れそぼった橋の欄干の上を、みすぼらしい、茶色にトラ縞の猫が、滑り落ちそうになりながらも器用に、しかし、とぼとぼとあるいていた、午前6時前。
黄緑色の、2?足らずの小さな虫。細い胴体は、内蔵(って言うのか?)が透けて見えるような透明色。向こう側さえも、透けて見える。ごくごく小さな頭部のほとんどを占めている赤い大きな眼。弧を描いて長くのびている触覚が、常に微かに何かを探るようにうごいている。うんと細工の細かいレース編みのような羽根は、奇跡的に薄く、しかし身体全体よりおおきい。前足が短く、後ろ足が長いので、常に前傾姿勢。そんな虫が、バインダーに挟んである白い紙のうえにいた。いつづける。じっとしている。湿った朝。6/12(月)
雨のなか、紺色の雨具に身をつつんだ清掃作業員が、あちら、こちら、にバラバラと散って、ゴミを集めている。どんより曇った空からの灰色の光であたり一面がくすんでいるなかで、彼らのもっているチリトリのエメラルドグリーンが、ひときわ際立って鮮やかに見えた。
木の上から飛び下りてきたカラスが、しばらくそのまま地面ギリギリのところを、グライダーのように羽根をおおきく拡げたまま動かさずに、スーッと低空飛行してゆき、バサッ、バサッ、という大きな羽ばたきを2、3度しただけで、みるみる高度を上げ、空高く飛び去った。羽ばたきのとき、空を切るような鋭いヒュンヒュンという音をたてていた。
朝からの雨は、昼頃1度あがる。気温は上がらない。しかしまた、しばらくして降り出した。6/14(水)
雨。ビルが解体されて、そのビルによって隠されていた隣のビルの壁が露出している。黒ずんで、染みや汚れの目立つその壁が、雨の水分をたっぷりと含んで、さらに黒ずみ、重たい色に染まっている。じとっとした空気。
夕方には雨があがる。もっている傘は、乾くと雨臭い。
午前中に洗濯。とろろ蕎麦とチョコレート。コーヒー。午後から、出かける。
国立西洋美術館で、ピカソ展(2回目)。カサハラ画廊で山田正亮・展。ベイス・ギャラリーで大竹伸郎・展。ギャラリー・山口で岩尾恵都子・展。NCアート・ギャラリーで日下芝・展。ギャラリー現で大森裕美子・展。ギャラリー21+葉で田中龍子・展。6/15(水)
恐ろしい夢で、目が覚めた。まだ寝入ってから1時間ちょとくらい。細かい事は憶えていないけど、自由を奪われて、カッター、それも刃の先が錆びているような切れないやつで、身体じゅうのあちこちを切り付けられるとか、そんな感じだったと思う。スパッとではなく、ぐちぐちと押し込むように肉を抉られ切り裂かれているような。傷口がでろでろしているような。寒い訳ではないのに、ブルブル身震いがするので、Tシャツの上から長そでのシャツを着込む。恐ろしさや悪寒はすぐになくなったのだけど、なんとなく眠れなくなってしまう。しばらく、ぼっーと音楽を聞いていたりしたのだけど、ちっとも眠くならないので、近くの自動販売機まで飲み物を買いに行った。確か、大江健三郎に、死に先立つ肉体的な苦痛への恐怖についての小説があったよなあ、とか思いながら。真夜中の静かな通り。西の空には、ぽつんと丸くておおきな月がでていた。ああ、これで明日も眠たい1日になるのだなあ、もう、今日だけど。6/17(土)
午前中はくもり。
ずっとつづいていた雨のせいか、池はどろどろに濁っていた。大きな魚がバチャッと跳ねて、水面に大きく波紋が拡がる。同時に、生臭いにおいも漂ってきた。
道の真ん中に、握りこぶしよりやや大きいくらいの真っ黒な子猫が1匹ぽつんと居た。後ろ姿だけだと何だか全く分らず、もう少しで足で蹴ってしまうところだった。
午後から、雨が降り出す。
建物の軒に走り込んできた女の子が、カバンから、着ているシャツと同じ色同じ柄の折り畳み傘を取り出して、それをさして行った。白地に赤いチェックの、全くのおそろいだった。
風を背にして歩いている人の傘の、何て言うのか、ホネに張ってある膜の部分が、ブルブルと音をたてて小刻みに振動していた。
ブック・オフで、神代辰己『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』、フィリップ・ガレル『もうギターは聞こえない』のビデオを安価で購入。カラオケではじめて『闇に降る雨』と『弁解ドビッシー』を歌ってみた。「♪だって淀んだ水が薫るピアノなんだもん」6/18(日)
最近の作品を撮影したものの現像があがってきたので、作品の資料を整理していて、この10年くらいの自分の作品を観て、結局何にも変わってないじゃねえか、と感じ、うんざりしてしまう。結局、自分は、こういう奴でしかないのだ、ということを、思い知らされる。
これでいいのか ?6/19(月)
駅の階段のとこに付いている窓。長方形で、高さが少しづつズレて並んでいる窓。そこから曇った空の白い光が入ってきて、ぼうっと光っている。階段をのばりながらそれを見上げている。目の前には足があり、尻がある。のぼりきったところの正面には、でっかい予備校のポスターが貼ってある。その右側にも、今度は大きな窓が開いていて、そこからは駅前の駐輪場の屋上が見下ろせる。びっしりと並んだ自転車の隙間で、作業服を着たおっちゃんたちが働いている。駅前を見下ろすちょっとした高さ。ガラス張りのパチンコ屋、マクドナルドの大きなM、世界カット・パーマ・チャンピョンの店、ドラッグストア。歩いている人々を上から見る。顔を上げ、視線を水平に戻すと、目に入ってくるのは、曇った空。6/20(火)
●駅と駅との間に新設された新しい駅の周辺。まだ人家は全く建っていなくて、区画ごとに金網で囲まれた整地された土地には、背の高い青々とした雑草がびっしりと生えている。ほとんど風がないので、雑草は静止したまま。空き地たちを区切るような道路だけは目新しく立派に整備され、人気のない道路には、工事用のトラックが土ぼこりをたてて通っているだけだ。ぼくはそれを、はしっている電車の窓からみている。
その次の駅(ここにはいくつかの大学があるので、乗降客が多い)のホームとその外を隔てる金網の外にも、黄緑色の葉をめいっぱい繁らせた雑草が生えて、編みに絡み付いている。草の影がホームにおちている。その向こうには、線路に沿うように家が並んでいて、ベランダに布団が干している。白いシーツに光が反射してまぶしい。電車のドアが閉まって、発車する。窓の外の風景が移動する。冷房が効いている。
●建物の外に置いてある洗濯機のフタの部分には、土ぼこりがびっしりと付着している。ホースは黒ずんでいる。その脇には、錆び付いた1斗缶が置かれていて、なかには濁った水がたまっている。淀んだ水のにおい。水分を吸い込んでかたちの歪んだ木製のサッシ。細長い発砲スチロールに土を詰め、そこに植物を植えている。それが何個も並んでいる。地面に落ちる前に、蜘蛛の巣にひっかかってしまった枯れ葉が、吊られたままで、風に舞ってくるくるまわっている。それらのものに目をやりながら歩く。6/21(水)
アパートのちょうど裏で、地区の公民館が解体され、新しく建て直されている。今日、前を通ったら、コンクリートで土台をつくっていた。地面を刳り貫くように掘ったところに、木の板を組んで型をつくり、その型のなかにミキサー車から生コンを流しこんでいる。コンクリートの土台というのはこういう風にしてつくられるのか、と初めて知った。建築現場の作業というのは見ていてとても面白いのだけど、あまりジロジロ見る訳にもいかないので、何度か前を行ったり来たりしながら、横目でチラチラと見ていた。
そいうえば子供の頃、木の柱が露出した、まだ骨組みだけしか出来ていない家の建築現場でよく遊んだという記憶があるのだけど、今から考えると、何故そんなことが出来たのか不思議だ。(ジャングルジムの大きいのっていう感覚だったのだろう。そういえばぼくは、異様にジャングルジムが好きな子供だった。がっちりと構築的であるのに、全く内部が充実していないスカスカな空間。)大工さんが休みの日とか、帰った後とかに遊んだのだろうけど、普通、建てかけの人の家でなんか遊んでたら叱られると思うけど。
小学校に上がる前くらいの記憶で、はっきりはしていない。その頃、家のあたりでは、建て前、という行事が一般的にあって、家を建てるときに、大体骨組みが出来上がったあたりで、近所の人たちを集めて、お酒や簡単な料理などが振る舞われるという習慣があったので、そんな時の記憶と、普通に遊んでいる時の記憶がごっちゃになっているのかもしれない。どちらにしても、建築途中の建物というのがとても魅惑的な空間だったことは間違いがない。
建築途中の現場みたいなものを、そのまま『作品』とするインスタレーションのようものを、どうしても「不純だ」と感じてしまい受け入れがたいのは、実際の現場の方がずっと面白いじゃん、という思いが抜け切らないからかもしれない。(でもそれは、出来上がってしまうと面白くもなんともなくて、ぼくは、建築、というものには全く興味がもてないのだった。)6/22(木)
きな粉をまぶしたような色の死にかけた蛾が、羽根をブルブルと震わせて、アスファルトの地面の上にいた。必死に飛ぼうとしていて、羽根をめいっぱい動かして、ようやく少し浮いたかと思うと、方向を制御できないらしくて、すぐに地面に激突する。それでもまだ飛び立とうとして、その場でブルブルと震えつづけている。羽撃く、というより痙攣にちかい。
きのうは夏至だった。夏至を過ぎて、1日1日とだんだん日が短くなってくるのが、なんとなく悲しいのは何故なのだろうか。別に、暗くなったら遊びを中断して家にかえらなくちゃいけない子供じゃないんだし、太陽の下で身体を動かすのが好きなアウトドア派でもないのに。それどころか、どちらかというと日の光を避けるように、夜中に活動したりする方だったりするのに。この悲しさは、フィジカルなもの、季節の変化に対する人体の反応みたいなものに由来するのだろうか。これからも、まだまだどんどん暑くなってゆくというのに、真夏の暑い盛りにも、実は少しづつ日は短くなってゆくのだった。
流しの壁に貼ってあるクリーム色のタイルに、窓の外からの光が反射して、光があたっている部分に、外の風景がうすぼやけてではあるけれど、映っている。タイルの表面の僅かな歪みで、風景は波うつように変形している。しかしそこには確かに、窓の外にある木々の緑や、灰色がかった空の色が認められる。
夕方、ほんの一瞬だけヒグラシの声を聞いたような気がするのだけど、空耳だったのだろうか。6/23(金)
細かくて薄くて軽い雨。降っているというより、水分が漂っているという感じの雨。
『生きられねばならない人生などないように、読まれねばならない本などない。』
くーっ、言ってくれちゃいますね、いつものことながら。これは今日手にした松浦寿輝・編の『文学のすすめ』(筑摩書房)という本の末尾につけられたブック・ガイドでの丹生谷貴志が書き付けている言葉。(この後、「だからリストは無限だしゼロでもある。」とつづく。)この巻末のガイドでは、執筆者がそれぞれの分野での推薦の本を紹介しているのだけど、ほとんどの人が、ブック・ガイドなどをあてにして本を選ぶな、みたいな前置きをしてから、本の紹介を始めるという回りくどさで、そんなこと言うなら始めからこんな原稿書くな、と言いたいのだが、この丹生谷貴志の言葉の投げやりさというか無気力さは中でも群を抜いていて、ここまで言ってくれちゃうとむしろ清々しいというか、カッコいい。
ある画廊で、作家(女性)とオーナー(女性・作家でもある)と話していて、
『古谷くんは男だから、そうやって自分を追い込んだり、苦しめたりして、(制作している時間を)楽しめるのかもしれないけど、わたしは、やったことの結果がすぐ現れないと嫌なの・・・』
と言われる。これは、作品をつくる時間やその出来上がり方につてい話していたときに、オーナーが言った言葉。これには虚を突かれるとうか、なるほどと納得させられてしまう。男とか女とかいうのはどうか分らないけど、ぼくはどうしても、濃縮されたもの、というか、熱いもの、充実したものを求めてしまうという傾向が確かにあって、それが必ずしも悪いことだとは思わないけど、でも、それだけじゃ駄目なんだ、ということを、結構忘れがちなところがあったりする。というか、結局その熱さって、自己満足(それを楽しんでいるだけ)でしかないのだ、という突き放し方が出来なければ、熱さなんてものは醜くて犯罪的なものでしかないのだ。(でも、どうしても希薄さに充足することは出来なくて、それはまあ、そういう奴なんだからしょうがない、と言うしかないのだろう。)
確か中井久夫が書いていたと思うのだけど、分裂病には妙な癒着性のようなものがあって、患者はその苦しみに対して愛着に近い感情を無意識のうちに抱いてしまい、それが回復の妨げになることが、ままある、らしいのだけど、ぼくにもそれに近い「間違った頑さ」みたいなものに陥りがちなところが、どうしてもあるんだよなあ。
歩いていて、菅原清実さんと擦れ違う。「よおっ」という威勢のいい職人風の声で気がついた。「なんか元気そうだねえ」と、「きよみ」(男性)という名前に似合わないガラガラ声で言われた。6/28(水)
とても色の淡い、ほとんど白にちかい紫陽花の花。つよい雨、つよい風。風にあおられて、街路樹の葉が「掌を返す」ような感じでヒラヒラと裏返っていく。次々とひるがえる沢山の掌たち。風に飛ばされた、千切れて枝から落ちた葉っぱが、靴に貼り付いた。
ぴん、と張られた傘の布に、大粒の雨が次々と当って、乱打された太鼓みたいな、低く響く音、ランダムなリズム、だだだだだ、だ、だだ、だだだ。
アスファルトの地面に当った雨粒が、砕けてから、随分高くまで跳ねあがっている。
緑地へと降りてゆく道には、細い水の流れが下の方へ向かって流れている。視界に入るかぎりのきまぎまな種類の緑色した葉っぱが、それぞれに異なる振幅、それぞれに異なるスピードで、それぞれに異なる軌跡を描いて、ごうごうとうなる風に揺れている。濃淡や質感の違うそれぞれの葉は、みな一様に表面が濡れて光沢をたたえて光っている。湿った空気のなかに、青臭い匂いが濃い濃度で満たしていて、それは匂うというより肌にまとわりつき、湿り気とともに表皮に付着する。
名前も知らない紫色の花のまわりに張られていた小さな蜘蛛の巣に、びっしりと小さな水滴がくっついていて、その水滴の重さで下へとしなって、Uのような形で垂れている。蒸し暑くて、歩くと汗ばむ。ぬるぬるした汗。6/29(木)
生活が不規則で、睡眠も不規則なので、たまには1日じゅうこんこんと眠りつづけるような日が必要。朝帰りして、朝食の後、眠る。昼くらいまでのつもりだったので、12時頃起きる。目覚ましのため、テレビをつけて、お湯を沸かしてコーヒーをいれ、ぼんやりした頭でコーヒーを飲みながらテレビを観ている。でも、カップのなかのコーヒーが空になる前に、また眠り込んでしまう。しばらくして目覚め、つけっぱなしのテレビに目をやりながら(離婚会見をする近藤サト)、カップに残っている冷めたコーヒーを一気に飲み干す。またお湯を沸かし、今度は紅茶をいれてフーフーと息をかけて冷まして飲む。でも今度も空にならないうちに寝てしまっていた。次に目が覚めたのはトイレに行くため。(テレビでは、まだ離婚会見をする近藤サト)冷めた紅茶をゴクゴクと飲んで、またまた眠りのなかへ。結局起きたのは夕方の5時過ぎ。顔を洗ってテレビを消し、アトリエへ向かう。6/30(金)
バカみたいな話だけど、最近、あたたかい紅茶にミルクを入れて飲むと美味しいということを、発見した。勿論、今までもミルクティーくらい飲んではいたけど、何故紅茶にわざわざミルクを入れなくてはならないのか、という必然性が理解出来ていなかった。ただ世の中に『ミルクティー』というものが既にあるから、そういうものだと思ってそうしていたに過ぎなかったのだ。でもある日、何故かミルクティーというものが無性に飲みたくなって喫茶店(特別においしい店なんかではない、どこにでもあるチェーン店)に入ってダージリンティーを頼んで、それにミルクを入れて飲んだ時、衝撃的にその必然性を発見したのだった。ああ、そうか、そうだったのか。それにしても今までこれに気づかなかったとは、ぼくは一体、何を見て、何を感じて生きてきたというのか。
ビルの2階にあるその喫茶店の窓際の席に座って紅茶をのんでいて、そのビルと道を1本挟んで向いのビル、1階がおばさん向けの婦人服の店になっているビルの屋上が、かなり本格的な空中庭園になっていることに気づいた。ここからだとそれほどよくは見えないけど、ガーデニングなんていうレヴェルじゃなくて、かなり立派な手入れされた大きな木が、外からの視線を遮るようにして整然と並んでいる。あれほどの樹木を植えるためには、相当の量の土を屋上に盛らなければならないのではないだろうか。毎日のようにその下を通っているビルの屋上が、あんな風になっているなんて知らなかった。7/1(土)
●胸がムカつき、吐き気がするほど暑い。白いシャツ、白い壁、白い看板、催し物用のテントの白い屋根、等に反射した光が眩しく目に突き刺さる。アスファルトからの照り返し。湿気を帯びた熱気が足元から、もわ〜っ、と昇ってくる。
剪定作業をしている造園業者。アタマにタオルを巻き、長そで、手袋で、汗だくだ。片刃のチェーンソーのようなもので、大胆にざっくりと植物を刈り込んでゆく。斬り付けられた植物の痛々しい切り口から、ツンとするほど濃い、緑の刺激臭が立ち昇り、もわ〜っとした熱気と混じって辺りに蔓延する。チェーンソーのたてるギューン、ガガガガーッ、という音が、さらに暑苦しさをまきちらしている。空気がゆらゆらするし、アタマもゆらゆらする。
駐車場のまわりを取り囲むようにして、こぼれるほどに咲いているくちなしの白い花から漂ってくる甘くて強い香りさえも、この湿った暑さのなかでは、重くしつこく胃のなかに粘って沈澱している食べ物のように鬱陶しくて、みぞおちのあたりを圧迫して、ムカつきを増幅させてしまう。
●Oさん(男性)に、手作りのアジアンテイストのデザート・コースを御馳走になった。マンゴー入りアンニン豆腐。マンゴーをキンキンに冷やしたものを細かく切り、マンゴープリンをシャーベット状にしたものと合わせ、ヨーグルトで和えたもの(これは無茶苦茶美味しかった。冷やしたマンゴーは何故か枇杷を思わせる味。)。タピオカ・ココナッツに、中国茶の茶葉を混ぜたもの。その後何故か、エスニック風のホイコーロー丼を作ってくれて、最後のデザートは、しゃりしゃりに凍らせたタピオカ・ココナッツ。なんか出鱈目な取り合わせというか、Oさんがテキトーにいろいろ試したものを、ぼくが分けてもらって味見した、ということなんだけど、暑かったし、このテのものを食べなれてないので、とても美味しかった、というか、新鮮だった。しかし、どうやらOさんは普段から1人でこんなものばかり食ってるらしい。7/2(日)
新宿駅の自動販売機で缶コーヒーを買ったら、飲み口にガムがべっとり付着してていた。勿論それはすぐ捨てて、なんだかコーヒーを飲む気もなくなってしまって、キオスクでミネラル・ウォーターを買った。水分を身体に入れると、すぐに汗が吹き出る。昔、妹が持っていたミルク飲み人形を連想してしまう。7/4(火)
昼過ぎから、すこし眠ろうとしたけど、暑くて寝つかれない。うとうとしたと思うと、嫌な夢で目が覚める。随分と沢山の夢をみた気がするけど、時計を見ると10分とか15分とかしか経っていない。それでも眠いのでまた努力して眠ろうとする。カーテンを閉じたままの部屋で、半眠半覚の状態でいても、外の気象が変化してきたのが分る。何故分るのか分らないのだけど、空気の感じが変わってきていた。そのうち遠くの方で、雷がゴロゴロいいはじめるのが聞こえる。半分眠りながらも、雷が近くなったり、遠ざかったりするのを感じていた。サーッという音とともに雨が落ちる気配がして、窓から涼しい風が入り込んできたかと思うと、しばらくしてその湿気が、一層の蒸し暑さの呼び水となってしまう。
起きることにして、薬缶を火にかけて、郵便受けをチェックしに外へ出ると、もう雨は上がっていた。顔を洗い、お茶を飲んでから、ヒゲは剃らずにそのまま、アトリエへ行くことにする。家を出る頃には、またポツポツと降りだしていて、電車に乗ってアトリエのある駅に降りた時には、不規則な方向から落ちてくる乱れた雨が舞っていた。大きな傘をさしても、ズボンは濡れてしまうような降り。途中で缶コーヒーを買って飲んだら、こぼして白いTシャツにコーヒー染みをつけてしまう。アトリエの隣、この前書いた、大学の同級生の女の子とは反対側の部屋には、老夫婦と犬が住んでいる。よく吠える犬。今にも飛びかかってきそうな勢いで吠えるのだけど、こちらから目をじっと見つめて近づいてゆくと、シュンと小さくなってしまうような犬。老夫婦は、懐メロのCDを買ったらしく、聞いたことはあるけどタイトルの分らない曲と、それにあわせて歌うじいさんの声が、開けっ放しの窓から聞こえてくる。次から次へと曲が変わり、次から次へとじいさんは歌う。どれも聞いたことがある。いわゆる演歌みたいなものはなくて、流行歌とでもいうものばかりなので助かる。演歌なんかガンガンかけられたら鬱陶しくて制作できない。ばあさんはいつも、CDなんかなくても、大声で歌ったり、犬に話しかけたりしているのだけど、今日は静かに聞いているみたいだ。制作に集中しているうちに、それらの音は耳に入らなくなり、気がつくと、いつの間にかテレビニュースの音にかわっていた。もう外はすっかり暗い。7/8(土)
台風が行ってしまった後、気のせいか道路の両側に生えている木々の緑が、まるでこちらに迫ってくるようにいつもよりももくもくと茂っていているように感じられる。
道路の端、やや低くなっていて、そこから下水へと通じる穴が開いているところから、まるでわき水のように、水がさらさらと溢れて流れ出ている。その水がアスファルトを黒く濡らし、おおきな水たまりをつくっている。水たまりの水面には、台風一過の、まだ雲が多く残ってはいるものの真っ青な空が映っている。たまに通る自動車がその水面を乱し、水飛沫をあげて通り過ぎ、濡れたタイヤの跡が乾いた道路上に2本平行に並んでつく。強風で倒れかかった木が、斜めになって道路に迫り出している。
真冬のように澄んだ空。やけに明るく白い光を発して輝く雲。濃く澄んだ空の青は、あまりに明るい雲の白とのコントラストで暗くみえてしまうほど。地上でも、明暗のコントラストが異様な程はっきり強く出ている。人の背丈くらいの木。親指の爪くらいの小さな葉をびっしりとつけ、さらにそれより小さいラッパ状のビンクの花がそのなかに散らばって咲いている。花の色は、太陽を背にして見るときと、太陽に向かっているとき見るのとでは、ぜんぜん違った印象になる。つよい日射しで太陽の下は暑いけど、湿気があまり無いせいか、影になっている場所は涼しい。何のか目的があるのか、家の脇にに置かれている大きな鉢だか壷だかに、いっぱいいっぱい水が張っていて、角度によっては太陽が反射して眩しい。螺旋状になっている非常階段の影が、ビルの壁に奇妙な形になって落ちている。歩いていると、まだ至る所に水たまりが残って風景を反射している。テニスコートの横の道を、ガラガラガラと大きな音をたてて、黄色いテニスボールがびっしり詰まったカートを押して歩く2人組。
木々が生い茂る林の真ん中を突っ切る道を通り抜けている時、いきなり、という感じでジィーッ、とかザァーッとかいうノイズ音のようなものにぶつかった。何の音だろうと思ってしばらく行くと、だんだん焦点が合ってくるように音にまとまりが出てくる。どうやら蝉の声らしいと気づく。一方からだけ聞こえていた音が、そのうちあちらからもこちらからも聞こえてくるようになる。真夏の図々しいほど無遠慮に迫ってくるようなジージーいう音よりも力弱い、心もとない音。生まれたて(変態したて)でまだ羽が濡れて柔らかい、とか、そんな感じの音。(本当にそうなのかは知らないけど・・)まさに今、鳴きはじめたところにぶつかった、という感じの音。(本当にそうなのかは知らないけど・・)
西瓜のようなあまいにおいの風が吹いた。7/10(月)
あけっぱなしの窓から、蜻蛉が迷いこんできた。方向を失ってあちこちの壁にガンガンぶつかって、それでも外へ出られないのでパニックに陥ったらしく、やたらと羽根をバタつかせてはスピードを増しさらに出鱈目な方向へ迷走して激しく何度も壁にぶちあたる。やがて、冷静になったのかあきらめたのか静かになった。しかししばらく間をおくと、再び迷走しては壁にぶつかることを何度も何度も繰り返す。激しい羽根の動きでブンブン音がする。
捕まえて外へ逃がしてやろうにも、あまりに激しくあがいているので、捕まらない。そのうち疲れるだろうと思って、放っておくことにした。部屋を縦横無尽に飛びまわっては、至る所に頭をぶつけつづける。
静かになったので、そろりそろりと近寄ってその蜻蛉の羽根を2本の指で挟むようにして捕まえて外へ逃がした。蜻蛉や蝶を捕まえるには、素手で、ピースマークをつくり、人指し指と中指で、サッ、とその羽根を挟んでやるのが一番確実だ。網も必要ないし、昆虫自体をほとんど傷つけずにすむ。ぼくはこのやり方を、中学のとき、同じ学校の特殊学級にいた、「ムシトリ」とよばれていた虫捕りの名人の男の子から教わった。
今年初めて見た蜻蛉だった。この蜻蛉のせいで、何年も思い出すことさえなかった「ムシトリ」という人物のことを思い出したし、蜻蛉を捕るなんて無茶苦茶久しぶりなのに、ムシトリ直伝のやり方だと簡単にできるのだ、ということを知ることにもなった。7/12(水)
今日もあつい。ウチから線路を挟んで反対側、踏み切りを抜けてゆるやかに上る坂道の途中にある商業高校のフェンス沿いに並ぶ背の高い並木では、蝉がジージーと大声で鳴いていた。近くの建築現場の隅にある、簡易トイレの換気用ファンがくるくると廻っている。しかしこの中、無茶苦茶あつそう。駅前に並ぶ自転車の1台。後ろのカゴのなかに、白いフワフワした毛並みの和犬がちょこんと乗せられていた。飼い主は買い物中らしい。7/13(木)
何か身近にあるはずのものをなくしてしまい、必死に探すのだけれど見つからず、一体どうしたのだろうと思いながらも、さらに探しているうち、はたと、そういえば自分はまだそのものを手に入れてはいなかったのだ、と思い至り、なんだそれなら見つからなくて当然ではないか、と納得したところで目が覚めた。
咽がカラカラだったので、流しでコップ一杯の水をゴクゴクと流し込んだら、どっと汗が吹き出し、その汗に惹き付けられたのか、汗が出たとたんに腕や首筋や顔にまで蚊に刺されてしまった。蚊に刺されたこところがみるみる赤く膨らんでゆく。
林檎の表面をタオルでゴシゴシ擦るとテカテカとした光沢が現れ、甘い匂いも漂ってくる。林檎を齧りモシャモシャ噛んでいると口内でパサパサした皮とシャリシャリした果肉が次第に混じり合って、テレビのスイッチを入れると今日のニュースが次々と流れ出てくる。芯だけを残した、既に僅かに黒ずみはじめている林檎の成れの果てをゴミ箱に捨てて、汗でぐっしょり濡れたTシャツを脱ぎ捨てて、流しの水で顔を洗い、髪を洗い、歯を磨いて、ようやく多少頭が働くようになる。
一面に薄く雲に覆われていて白い空は光を乱反射していて眩しくて見上げていられないくらい。道沿いにずっとつづいている並木の緑の葉がぴくりとも動かずに静止しているほど風がない。日向も日陰も同じくらいに蒸しあつい。もくもくと湧き出てくる泡のように生い茂る濃い緑の雑草のなかにも、まるで炎であぶられて焼けてしまったかのように枯れているものが混じっていた。7/14(金)
何日か前に、ようやく今年初めての焦点の定まらない力弱い鳴き声を聞いたばかりだというのに、蝉は、もうそれが聞こえてくるのが当然だとでもいうような調子でずうずうしくジージーと鳴き散らしている。
今にも雨が落ちてきそうな夜9時過ぎ。並木道の真ん中を自転車で走っていると、後ろから背中や首筋を撫でてくるように生あたたかくて湿った風が吹いてきて、左右両側から伸びてアーチ状になって頭上を覆っている枝や茂った葉がわさわさと揺れて、葉と葉が擦れ合うシャーッという音が後ろからやってきて、自転車を追い抜き、前方へ向かって移動してゆく。街灯によって出来た枝や葉の影が地面に黒々とした塊のように気味わるく落ちていて、その影もうねうねと蠢くように揺れている。地面からたちのぼってくる熱気。地面の下から響いているように虫のジージーいう声。大粒の水滴がぽつりぽつりと落ちてきて、やべえ、降ってきそうだなあ、と思い、強くペダルを踏んで家へと急ぐのだけど、その雨はすぐにあがってしまって、相変わらずの蒸し暑さがつづいた。7/15(土)
本をパラパラめくっていたら、ページの間に、見知らぬ名前と電話番号をメモした紙が挟んであった。全く憶えがない。それは男の名前で、ぼくは用事もない知らない男の連絡先を聞く趣味などないのだから、おそらく何かしら連絡すべき用事があったのだろうけど、どうしても思い当たる節がないのだった。A・Kって、お前は誰だ。