If I should Fall from Grace with God(映画、読書、その他・40)

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マティス展(国立西洋美術館)について
  (1)マティス展を巡る岡崎乾二郎と林道郎の対話(から勝手に思ったこと)
  (2)『模様のある背景の装飾的人体』/人格と人体
  (3)点描あるいはフォーブ時代のマティス/白い断層
  (4)マティスと装飾
  (5)言葉と視覚/人文的視覚論への不信/マティス展カタログ
青木淳悟『クレーターのほとりで』
大道珠貴『ミルク』
法月綸太郎『生首に聞いてみろ』は面白かった
法月綸太郎『カットアウト』は面白いとは思えなかった
ガルシア=マルケス『落葉』
マルセル・デュシャンの遺作は...
リオタールによるバーネット・ニューマン論
『10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス』をDVDで
 鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』をDVDで観た
今ここの意味は、今ここでは完結せず...
書道用の筆を使った筆触が面白いのは...
東京国際フォーラムのジョアン・ジルベルト
トチノミやイガグリが...


マティス展(国立西洋美術館)について
  
マティス展を巡る岡崎乾二郎と林道郎の対話(から勝手に思ったこと)
04/09/21(火)
●「美術手帖」10月号にはマティス展を巡っての岡崎乾二郎と林道郎の対談が載っていた。美術手帖もたまにはまともな記事も載せるのだ。 そこではいろいろと面白い話が語られているのだけど、特に興味深かったのは、「ヴァリエーション」と作品を作品として制御する「実在性」の話だ。(以下の記述は対談の要約ではない。)
例えばピカソによるヴァリエーションは力動的・多産的であり、それはメタモルフォーゼの力に支えられている。画家の「描く」という行為の力動によって神話的な記憶のようなものが駆動され、それが描く形態の変化させ、次々と新たな形態を産出してゆく。だからそれは事物の実在性というよりも、記憶や身体的な情動・感情に起源をもち、(クラウスが言うように)パラパラマンガのようにどこまでも展開する。言い換えればそれは、身体的な表出のリアリティがなくなってしまえば、たんにマンガのようなもの(あるいは順列組み合わせ的な、ポストモダン的な多様性)でしかなくなる。ピカソの作品から強く表出されるのは、何よりもまずピカソという「描く身体」の実在性であろう。対してマティスによるヴァリエーションは、同一の対象を、何度も改めて、見直し、触り直し、においを嗅ぎ直す、ことをくり返すというような感じで展開する。それが同一の対象であるという事実は、見直され、触り直され、においを嗅ぎ直されるたびに、対象が微妙に違った表情をみせることで複数の層へと分裂し、解体してしまう寸前までゆくのだが、しかし、くり返し、見直し、触り直し、嗅ぎ直すことが行われるなかで、見ることも、触ることも、嗅ぐこともできない「何か」として、その対象物の「実在性」のようなものが「コツを掴む」ようにして掴まれ、それによって作品はかろうじて「一つの作品」として統合される。(マティスにおいてヴァリエーションは主に、製作途中の写真として示され、一枚の絵画のなかに重ね合わされている。)逆に言えば、マティスは事物の「実在性」を信じていたからこそ、あるいは実在性への「把握力」を信じていたからこそ、過激なまでの媒体の解体や分裂を押し進めることが可能となった。(岡崎氏の発言を引用すれば、《いかなる外的な判断もあてにできず、自分の目だけで判断しなければならない条件に自ら追い込まれる。この切実な状況を作り出しているものこそが、いわば外的対象を超えて、きっと存在する実在性というものでしょう。》ということになる。)

  『模様のある背景の装飾的人体』/人格と人体
04/09/22(水)
●国立西洋美術館でマティス展を観て来た。プロセスとバリエーションという展覧会のテーマの設定やその意義についての評価などはともかくとして、マティスによる「人体」の作品をたくさん観られたというのがごく素朴な感想だ。ぼくは今までマティスには「室内空間」の画家という印象を強く持っていたのだが、その一方で、きわめてオーソドックスな西洋画家として、「人体」の画家でもあるのだと改めて思い直した。
●例えば、昨日の私と今日の私とでは違うし、明日の私がどうなっているかも分からないとしても、私が、その場その場での偶発的な出来事との遭遇によってどのようなものになってしまうのかも分からない不安定なものだとしても、それでもとりあえずは、多様に分裂する私をその多様性を受け入れつつも一人の人間として制御するものとして、その人の「人格」のようなものが想定できるとする。(ここで人格とは、勿論「性格」のようなものではないし、自我とか内面とかいうものとも違う、その人をその人たらしめる、それがあるだろうと想定することが出来るだけの高次の原理のようなものだ。)仮にそのような「人格」が想定出来たとしても、それによって制御出来るのはまさに「人格」のみであって、「身体」は、その即物性において、あるいは幾重にも絡み合う諸機械の複雑さにおいて、常に「人格」からこぼれ落ちる余剰としてある。身体は、人格よりもずっと複雑で豊かなニュアンスを湧出するものとしてあるだろう。身体は、人格から常に溢れ出す過剰なものであると同時に、人格よりも卑小で頑なな、限定された「物」でもあるだろう。(例えば身体は限定された物質としてあり、若返ることは出来ないし、必ず死ぬことで、それを超えようとする人格を裏切るだろう。)
人格は、一つの身体をとりあえず「一つ」のものとする(代表する)働きをもつが、実際には身体は複数の機能の寄り集まりとしてあるので、それを制御することは出来ない。だが逆に言えば、一つの人格によって代表されることで、身体はバラバラに破綻してしまうことをかろうじて逃れ、身体としての機能を可能にすることが出来る。(これって結局、精神分析みたいなことを言っているだけなんだけど。)
このような「人格をもつ身体」を「人体」と呼ぶとするならば、マティスの描こうとしているのは、このような意味での「人体」なのではないだろうか。 過剰な装飾のなかにたっぷりとしたボリュームをもつものとして置かれるオダリスクの人体。例えば『模様のある背景の装飾的人体』(1925-26)という作品を観ると、あんなにごった煮的に様々な要素がガンガンと画面に投入されているのに、よくもまあ破綻しないで一枚の作品として成立しているものだと驚かされるのだが、そのようなごった煮的な過剰のなかで何故かかろうじて成立してしまう秩序こそが、マティスの描こうとする「人体」のあり様なのではないだろうか。(この絵において、平面的な背景と、たっぷりとしたボリュームを持つ人体との相容れない空間性は、鉢植えの植物の葉っぱの部分のもつ微妙な空間によって媒介されているように思う。そして手前にある、ちょっと浮いて見えるくらいの生々しい4つのレモンが、重力を発生させ、人体がどしんと床の上に着地しているという存在感を支えている。レモンと人体と、そしてレモンと同じ黄色をもつ鏡のフレームの装飾模様とが、画面の中心やや右を縦に貫いていることで、画面が背景の模様にそってゆらゆらと揺れてしまうのを抑えている。試しに、手前のレモンを手で隠してみると、画面の安定は失われ、ぐらぐらと揺れ、急に無秩序な状態のように見えはじめるだろう。)
●実はぼくは何年か前から「人体」が描きたいという欲望が少しずつ膨らんできているのだが、主に「描ける自信がない」という理由から禁欲しているのだが、マティスを観て、いよいよその欲望が昂進してしまうのだった。

  点描あるいはフォーブ時代のマティス/白い断層
04/09/23(木)
●今回のマティス展では、点描時代というか、フォーブ時代(1904〜7年くらい)の作品が観られないのが残念だ。特に1905年というのはマティスにとって決定的な年だとぼくは思っていて、この年にマティスは「マティス」になった。1905年に描かれた『コリウールの室内画』や『開いた窓』には、もう既にマティスの全てがあると言える。つまりそれは、複数の異なる空間の同一画面内での(同等な強さでの)共存であり、色彩の活き活きとした使用法(触覚的な色彩という言い方がぴったりくる)であり、対象のリズムを捉える描写と言うより、描くリズムから対象が浮かび上がるような描き方のことだ。そしてこれをマティスに可能にさせたのが、セザンヌからの影響であると同時に、シニャックから学んだ点描という方法だろう。とは言ってもマティスの点描はいわゆる点描派の色彩分割による点描とは基本的に違うものだ。マティスは点描を正しくは学ばなかった。この点についても岡崎乾二郎は「美術手帖」でとても鋭い発言をしている。《シニャックから受けた影響で大きいのは、点描で微分化された色彩をつなぐ空白ではないでしょうか。対立する色彩と色彩の間を、色彩と色彩とが癒着しないように引き裂き、そしてつなぐ、白い断層--いかなる色にも属さない落差がそこに入っている。(略)色彩と色彩の間の白は、キャンバスの枠の内と外の断層や、彫刻とそれを取り巻く空間の落差と同じく、認知したものと認知されなかったものとの落差ですね。それは境界として線で表現されうるものではない。》これを読んだ時、本当にうまい事を言うと凄く思った。画面に置かれた筆触(あるいは色面)と筆触(色面)との間にある空白は、キャンバスの地の色としての「白」を現すのでもないし、基底材の物質性を露呈させるというのともちょっと違って、まさに認知から逃れ去る「落差」としてあらわれ、この落差が色と色とを断ち切ると同時につなぎ、視線の移動とともにこの落差が画面のなかにいくつも出現することで、複数の異なる空間が、異なりつつも共存するマティス的な空間が可能になる。この落差は、セザンヌの筆触と筆触との間にもあるものなのだが、シニャックによってもたらされた点描によって、セザンヌのものとは違うマティス自身のやりかたで、落差を使用することが出来るようになる。
●このような、筆触と筆触、色彩と色彩との間に落差を差し挟み、その空白のリズム(現れるものと逃れ去るものとのリズム)によって空間を生むような描き方は、例えば晩年と言ってよい1948年に、紙に墨で描かれたドローイングにまで共通している。(この作品は今回の展覧会でも2点観ることが出来る。ぼくはこのドローイングがとても好きだ。)これらのドローイングでは、紙の白い地の上に墨の濃淡で形態が描かれるというよりも、やわらかい筆にたっぷりと含まれた墨が紙に触れ、紙の上に痕跡を残すことで、筆が触れなかった場所との落差を出現させるという感じで描かれている。だから、画面から見えてくるものは、墨によって描かれた形態や線ではないし、墨の濃淡の調子の豊かな美しさでもないし、墨の黒さとの対比で輝く、紙の白の美しさでもなくて、筆が紙に触れる触覚とそのリズム、そして、そのリズムを生み出している、触れられていない白い空白の認知されざるざわめきなのだと思う。マティスの色彩は勿論素晴らしいのだが、マティスと言えば「色彩の解放」とか言って済ませてしまう人は、その色彩がビジュアル的なものというよりも、まず触覚的なものとして現れているということを忘れている。(ある触覚と別の触覚との間には、対象から切り離される「切断」が差し挟まれる必要がある。)この事実は、色彩を用いていない墨だけの仕事を観ると、よりはっきりと分かるだろう。あるいは、木炭などを用いたドローイングでも基本的には同じだろう。マティスの線は、境界を確定して形態を浮かび上がらせるというような性質のものではなく、まず何よりも木炭と紙との接触であり、紙の上での木炭の運動であり、そこで起こる摩擦の感触であり、その運動が刻むリズムである。形態はその触感やリズムのなかから掴み出されるのであって、線が境界を表すことで生まれるのではない。(しかしマティスのドローイングは、ピカソのように対象を変形させて別物に変えるような力はなく、対象に即し、その周囲をじっくりと漂う。)このことからも、「デッサンと色彩の葛藤」という問題が、マティスにおいては偽の問題でしかないことが分かる。
●触覚的な色彩という意味で、今回の展覧会のなかでも特に素晴らしいのが、1935年に描かれた『夢』だろう。(画集などで割合よく目にする、有名な1940年に描かれた『夢』ではなくて、もっと具象的に描かれている方。)画面上方にちらちらっと黒い背景が見えるほかは、ほぼ画面全体にひろがる青いシーツ(ベッド)の上に、モスグリーンの髪の裸の女性が、自らの組んだ腕を枕のようにしてうつぶせに眠っている上半身が描かれたこの絵は、画面の九割がたが、黒、青、肌色、で占められていて、明度から見ればかなり暗めの絵と言えるのだが、しかしこの絵には、輝くような暗さという矛盾する表現でしか言い表せないような、明度ではなく色彩そのものによる「明るさ」がある。(例えば、黒がどれだけ「明るい色」であるのかを、マティスの絵は教えてくれるだろう。)おそらく、何層も重なるごく薄い絵の具の層のなかで光が複雑に屈折することによる効果だと思うのだが、シーツの青は、四月頃のくすんだ青空のように鈍くぼうっと輝き、そして肌の色は、まさに肌の色としか言いようのない生々しさで、しかもそれは「見られた」肌の色ではなく「触れられた」肌の色としての生々しさで輝いているのだ。このような色彩の質は、絵画以外のものでは味わうことの出来ないものなのだと思うのだが、しかし、純粋な色彩の輝きと言うよりも、人間の身体の存在感を強く喚起するような色彩であるのだ。

  マティスと装飾
04/09/24(金)
●きわめて装飾的であり、装飾の欲望へと近づいてゆくようにも見えるマティスの絵は、しかし根本的に装飾とは異なる。装飾は、どんなに細かく手が込んでいたとしても、それを制御する基本的なパターンはそれほど複雑なものではない。人はそこからパターンを速やかに読み取ることが出来るからこそ、その過剰な細部の増殖へと注目を移すことが出来るのだし、その細かさや過剰さや丁寧さから伝わってくる、それをつくった者の強い情動を感じ、それに共振することが出来る。それは基本的に、細かく描き込まれた細密画や、細部にまで渡って精巧につくられた模型に対して人が感じる感嘆と同じようなものだ。加えて、装飾における細部の過剰な増殖(反復的リズム)やその解像度の高さは、それを制御するパターンの単純さと相まって、視線をそこに半ば強制的に釘付けにする効果をもつ。細かい部分までを見ようと釘付けにされた覚醒の熱さは、単調なパターンの反復によって催眠的な状態へと反転する。例えば、偶像崇拝を禁じたイスラム寺院のきわめて美しい装飾模様は、その美しさと細やかさによって視線を釘付けにし、反復的なパターンによって(認知することへの「熱さ」を保ったままで)睡眠状態に誘い込む。(この世のものとは思えないほどに心地よいコーランを詠じる声などをも想起させたい。)つまりそれは、認知への過剰な情熱が、逆に世界への認知=通路を切断させることであると言える。そしてそれが宗教的な「崇高さ」へと結びつけられる。
対して、マティスの作品の多くは、その仕上げはあっさりしたものであり、時に雑にさえ感じられる。そして、それを制御しているパターンは、きわめて複雑で、把握し切れないと感じるほど複雑である。魅惑的なリズムや色彩や触覚で人を誘い込みながらも、覚醒が催眠に切り替わることをギリギリの地点で抑制する空間的な複雑さがあり、それが理知的に「読む」ことを要求するのだ。例えば、豆腐のような崩れ易い物体を、崩れないように気をつけながら(つまり世界に対する認知や現実的な通路を切断しないままで)、それを掴み、触れ、匂いを嗅ぎ、味わい、重さを計る、というような、取り扱いの「繊細な注意深さ」が、それを観る時に必要とされる。取り扱い時に必要となる注意深さが(あるいは、昨日の日記に書いた無数に差し挟まれる空白=落差が)、感覚(リズム)を常に多方向へと拡散させ、催眠的な単調さへと向かうことを妨げる。そして、そのような(催眠的ではない)注意深い取り扱いのなかで感じられる様々な感覚の複雑さこそを、「喜び」として浮かび上がらせている。しかし、だからと言ってマティスの作品が装飾的なものと相容れないかと言えば勿論そんなことはなくて、オダリスクの作品などを見れば分かるように、マティスが装飾的なもの(催眠的なもの)がもつ魅惑に強く惹かれていることは明らかだし、それが制作する力を支えているとさえ言える。にも関わらず、マティスはそれと同じようなものではなく、別のものを作り出そうとする(作り出してしまう)。それは、近代的な人間として、最後の一線において、世界への認知(リアリズム)という通路を切断することを拒む(あるいは、ためらう)からだろうか。無神論者だが「制作するときだけは神を信じている」という微妙な言い方が、マティスの振幅をよく現しているだろう。この事実を簡単に忘れることは出来ないはずで、このような高度な緊張(揺れ幅の大きさ)が、マティスの作品の一筋縄では行かない複雑さ、面白さを産みだしていると思う。

  言葉と視覚/人文的視覚論への不信/マティス展カタログについて
04/09/25(土)
●マティス展のカタログは、日本の美術館が発行するものとしては画期的なものだろう。通常、美術館のカタログは、出品作品の図版とデータと解説、それに(ほとんどの場合面白くない)テキストが添えられているというようなもの(展覧会の記憶の確認くらいにしか役立たないもの)なのだが、マティス展のカタログは、それだけでマティスに関するある程度纏まった(方向性を持った)研究の成果として存在しているような、読み応えのあるものだ。これは欧米の美術館などでは当たり前のことなのだろうが、日本のものとしては例外的だ。それを認めた上で、ちょっと文句を言う。
●冒頭に置かれたテキストで、天野知香は次のように書いている。 《私たちは知らない間にマティスをどのように見るべきかをあらかじめ方向づけられている。(略)実のところ、人は知っていることしか見ることはできない。そして「知っていること」とは、単なる知識の量の問題ではなく、むしろ特定の社会や歴史の知の枠組みと密接に結びついている。》 こういうのって、ポストモダン以降の「インテリ」の人たちに共有されている、ほとんどドグマと言っていいものなのではないかという感じで、どうしても引っかかってしまう。あらゆる事は、社会的、歴史的、文化的な文脈によって構成されている、みたいな。(確かに、モダニズム的な、目的論的、本質主義的な言説を批判し、解体するにはきわめて有効なものだろうけど。)しかし、絵画を描いたり、観たりすることに意味があるとすれば、それは「知らない」ことまで見て(見えて)しまうところにこそあるのではないだろうか。勿論、見えてしまった知らない「何か」を、後で「言葉」にして人に伝えようとしたり、自分のなかで確認したりする時には、「知っている」言葉でそれを組み立てるしかなく、その時に見えていたはずの「何か」が、「知っている」言葉で語り易い別物にいつの間にかすり替わってしまったりする事はしょっちゅうあるのだろうけど。(人の脳にとって、視覚像をそのまま記憶するのは困難で、言葉によってそれを圧縮して記憶するらしいので、その時にも「見ること」に、社会的、歴史的に規定されたものが入り込むのかもしれない。)だから、「知っていること」しか語れないのは言葉の方(言葉の問題)であって、見ること(の問題)ではない。(勿論、絵画だってかなりの部分は言葉によって組み立てられているのだから、言葉の問題とは無縁だということではない。しかし、「知っていること」を超えて「見えてしまう」ところがあるからこそ、面白いのだ。)例えば、マティスの絵の、どこが素晴らしいのか、何故素晴らしいのかは分からなくても(語れなくても)、マティスの絵が素晴らしいということは分かる(分かり得る)はずなのだ。 人が「見たこと」について語らざるを得ないのは、見ることが社会的、歴史的に規定されているからではなくて、むしろ、「見る」ことが、「私の目」で見ることでしかなく、そこで現れる「見たこと(感覚)」が、「私の頭」で構成されるしかないから、つまり、私の感覚はそれ自体として孤立したもので、それを、感覚そのものとして直接他者と共有したり比較したりして確認することが出来ないことの不安からなのではないだろうか。例えば「マティスは美しい」という文は、(1)マティスを見た時の感覚や感情の表出なのか、(2)マティスは「美しい」という共通の了解が特定の社会や文化的状況下では成立していて、それを挨拶のように交換しているということなのか、それとも(3)マティスなど理解出来ないという人たちに向かって、私は断固「美しい」と主張する立場を宣言するという意味なのか、その文からだけでは分からない。見ること=感覚の問題は(1)に関わるのであって、(2)と(3)は言葉(他者に向かって語ること)の問題と関わる。私が、私の感覚として把握(体得)するしかない「見ること」(見えてしまうこと)と、あらかじめ他者たちによって形成されている場のなかで「どのように振る舞うか」ということに関連する「語ること」とは違う。(感覚そのものを分析、文節しようとする言葉と、社会のなかで他者に対する「効果」を狙った言葉とは違う。)人は他者(他者の承認)を強く欲望するのでしばしばそれを混同するし、他者たちの反応を見て自分の感覚を修正したりさえするのだが、この二つはとりあえずは分離しているのではないだろうか。だから「感覚」という次元は、社会的・歴史的な(他者たちの形成する文脈)から切り離されてありうる。勿論、絵画という制度、芸術という制度は社会的、歴史的な規定の内部にあるのだが、個々の作品を見ることによって与えられる「感覚」は、必ずしもその内部にあるとは限らない。芸術作品の希望は、そのような地点に賭けられているのではないか。
●天野氏のテキストは全体としてはとても丁寧なものだと思うのだが、モダニズムという仮想敵を意識し過ぎるあまり、時々、マティスの作品についての分析と言うより、ただ「反モダニズムを主張する」だけになってしまう場面があるように思う。 例えば、マティスのデッサン(デッサン集『テーマとバリエーション』)について、《完成作へ向かうプロセスではなく、1点1点が方向も目的もなく変化し、脈打つ、刻々のイメージで》あり、《意図された受け身の状態のなかで画家が自発的なリズムに身を委ね、自らの感覚や快楽に突き動かされて》展開されたもので、《把握されたイメージは刻々と崩れ、変化し続け、構図やモデルの表情、全体のもたらす印象は1枚1枚全て異》なり《そこには到達点と準備段階といった意味での差異はもはや存在しない》、と記述しているのは、マティスのデッサンのあり様を正確に捉えていて納得がゆくのだけど、それが、《1点1点が、唯一の完結したイメージでありまた同時に、単に一つの束の間のイメージにすぎない。最後に描かれたイメージは、終着点ではなく、画家を制作に突き動かす情動が尽きた地点を示しているだけである。》とまで言ってしまうと、これはマティスの作品を通り越して、たんに、精神分析的な言説を利用した反モダニズム宣言になってしまっているのではないだろうか。たとえ、1点1点のデッサンがそれ自身として完結していて、何か別の「完成作」という目的に向かった探求のための予備的な仕事ではないにしても、それでも無数のデッサンを重ねることで得られる、ある対象に対する把握の「厚み」というものはあり得るはずだし(つまりそれは束の間の流れ去るイメージではなく、ある対象の実在が信じられているはずだし)、制作が、事前に定まったものとしての方向や目的に従うものではない、多様で拡散的なプロセスのなかで展開されていったとしても、それでもそのなかで、「ひとつの作品」としての纏まりをマティスが必要としていたことは(それを肯定するにしても、否定的に捉えるにしても)、その作品を観れば明らかであるように思う。

  青木淳悟『クレーターのほとりで』
04/09/17(金)
●保坂和志が絶賛している青木淳悟『クレーターのほとりで』(「新潮」10月号)はさすがに面白かった。
ぼくは基本的に、神話的な物語と誇大妄想的な想像力(偽史や疑似科学的な想像力と言うべきか)によって出来ているような小説は苦手なのだが、この小説はちょっと感触が違う感じがする。この小説は、神話的に書き出されながらも、神話的な抽象性(原型的なもの)がいつの間にか具体的・偶有的なものと結びついて移り変わり、それがまた神話的なものに戻ってくるというような、不思議に短絡的な接続による展開と、その揺れ幅の大きさと言うか、運動の不規則性のようなところが面白いと思う。小説全体を眺めてみても、面白いところは、誇大妄想的な細部の充実度にあるのではなく、どこへ連れて行かれるか分からないような意外な転調の具合や、にも関わらず言葉は拡散的に動くのではなく、全体を通してみると(ティンゲリーの作品のような)異様な形をしていながらも、きちんと機械として作動しているようにみえるところにあるのだろう。本来バラバラであるはずの素材を短絡的に結びつけて、素材それぞれの形態や運動を生かしながら、不規則でぎくしゃくとしていながらも、ある運動の流れと機能をもつように作り上げられた機械のように。
●この小説は大雑把に分けて二つの部分からなると言えるだろう。遠い過去の神話的な部分(とは言っても、これは後にBC350〜BC50年頃という具体的な年号が特定されてしまうのだが)と、2015年頃という近未来の部分(こちらは「大人の世界」というべきか)。この二つの部分は明らかに記述のされ方(記述そのものと記述される対象との関係)が異なっているように読めるし、この異なる二つの部分が重なっているところに、この小説の大きな意味もあるように思う。
●ぼくが好きなのは特に前半の神話的(と便宜的に呼んでおく)な部分で、その面白さは、記述そのものと記述された対象との距離感の伸縮の振幅の大きさやの自由な移行に理由があるように思える。この小説の記述は、考古学者がその研究対象について書くような「遠さ・冷たさ」から、登場人物たちと一体化しているような「近さ・親密さ」までの大きな振幅を自由に動いて行く。そしてこの距離の自由な伸縮は、そこで描かれているのが、個と集団との境界や、自己と環境との境界をそれほど強くは確立していないような人物たちであることと切り離せないだろう。この距離感の伸縮は、書き出しの一文から既にはっきりと準備されている。 《男たちが命からがら沼のほとりにたどり着いたその勇姿も、水辺に集う動物たちの目にはぼんやりとしたものにしか映らなかったにちがいない。》 ここではまず、沼に辿り着いた「男たち」の集団のイメージが浮かび上がり、それが「動物たち」の目を通したものへと変換されて「ぼんやりとした」像に変化し、そしてさらにその後で「〜にちがいない」と書く(推測する)、異なる時空にいる冷静な記述者の存在が強く意識される。つまりこの一つの文のなかに、レベル(主体)の異なる3つの視点の接続と移行があり、一つの情景を徐々にロングに引いてゆくような3つの違ったフレームのショットが埋め込まれている。
●距離の伸縮の自由さは、たんに空間的なものだけではなく、意味のレベルというか、ことなる言表のレベルの接続も可能にするだろう。例えば次の部分。 《彼らはもとより信じてはいなかったが、天空から火にまみれて落下してきたという硬くて重い石(おそらく隕鉄)と、地下から吹き上げられた火柱が急速に冷えて固まったものだという黒光りした石(火成岩でガラス質になった部分だろう、黒曜石か)とは、彼らが幾頭もの家畜を投げ売りしてやっと手に入れたしろものだった。》 ここでは、神話的な物語(言表)の展開のなかに、いきなりカッコでくくられた科学的な言表が侵入してくる。つまり、神話的な抽象的、想像的な場所だと思って読んでいた世界と、ふいに、今それを読んでいる読者のいる現実的な場所が、科学敵な言表によって接続され、地続きのものとなってしまうのだ。ここには、後半部分に出てくる、旧約聖書の記述をそのまま歴史的な事実として解釈しようとする人たちにも似た「短絡的接続」があるのだ。(ここでも、神話的世界と科学的=現実的な世界とを短絡的に結びつけることの出来る媒介者として、この物語を記述し語る者の存在が強く働いており、このような全能とも思われる記述者の強い存在感が、前半部分を「神話的」に感じさせる一因でもあるだろう。)
●それだけでなく、集団と個との境界の曖昧さもまた、この小説の前半部分の特徴であろう。人物はほとんどの場合に「男たち」「女たち」と記される。 《肉を受け付けない男たちの胃袋のたがが外れたのは、やけに毛深いしまともな言葉もしゃべらないという奇怪な妻たちに勧められるまま、岩のくぼみに溜まった芳香性の液体を飲んでからのことだった。これは彼らにしてみればはじめて味わう感覚だった。体がバラバラになるようでひどく恐ろしい反面、何もかも食らえそうな底なしの食欲が胃袋にもたらされ、それまでは嫌悪していた愛の営みなんかを強要されても喜んで引き受けるようになった。》 ここで記述されているのは「男たち」「女たち」であって、特定の誰かのことではない。しかし、肉を食ったり芳香性の液体を飲んだり愛の営みをしたりというのは集団的な行為ではなく、一人一人の人物(それぞれの身体)がそれぞれにしているはずなのだが、それでもその行為の主体はあくまで「男たち」であり「女たち」なのだ。つまり彼らは常に集団的な存在であり、自他の区別がはっきりとはしていない。彼らには(頭部はあっても)個人を識別するものとしての「顔」が見えない。(書き出しの文で動物たちが観たように、彼らは視覚的には「ぼんやりした」存在なのだ。)その事実が、この文の視覚的な像を不鮮明にしている。しかし視覚的には不鮮明であっても(あるいは視覚的に不鮮明であることの効果なのかも知れないが)、この文には感覚的な喚起を強く促すような記述が詰め込まれている(飲む、食らう、肉、胃袋、毛深い、体がバラバラになる、芳香性、くぼみ、底なしの食欲、愛の営み...)。視覚的な不鮮明さによって対象(主体)の特定が困難になった上で、感覚的な生々しさが喚起されることによって、この「男たち」という集団の「集団的な実在感」が、読者に対してリアルな「近さ」をもって浮かび上がるのではないだろうか。まるで、読書それぞれの幼年時代の感覚的な記憶と重なるかのように。(さらに、人物たちの集団性は「歌」によっても際立たせられている。)
●神話とは、感覚(知覚されたもの)と言語(言語的な秩序)との短絡で出来ていると言えよう。そしてそれは、強い感覚的な喚起力をもつことによって人を動かし、説得力を得る。この小説の前半部分は、記述とその対象との距離の自由な振幅のなかで、様々な短絡的接続と転調によるぎくしゃくとした運動を作り出す。そしてその短絡と転調は、読者の情動に深く作用する。『クレーターのほとりで』の前半部分が神話的であるというのは、そのような意味でだ。(後半はまたちょっと違うと思われるのだが、それについては、つづく。)
04/09/18(土)
(昨日からのつづき、青木淳悟『クレーターのほとりで』(「新潮」10月号)について)
●この小説の前半の神話的な部分が、様々な要素の短絡的接続が読者の身体や記憶を刺激することによってある「深さ」をもっているとしたら、後半部分は、現代的、言語的な世界であって、そのような「深さ」はなくフラットになっているように思う。(ここで言う「深さ」とは、遠近法的な効果や、真理を隠しているかのようなヴェールの効果にって生まれるイリュージョンとしての深さではなく、読者の身体や記憶という不定形で厚みを持ったものに垂直的に刺さってくるようなもの、というような意味だ。)後半も、特に焦点化される人物は存在せずに主に集団の話として展開するのだが、その集団のあり方は、前半部分の「男たち」「女たち」のような強い集団的な存在感はない。例えば、後半部分の中心的な存在である「シオン賢者たち」は次のように描かれる。
《後にシオン賢者とあだ名されることになる男たちはいずれも古生物学者、先史考古学者、古代地質学者、古人類学者などの肩書きを持っていて、その古巣からなかば左遷的な出向辞令を受けての派遣ではあったが、「人類のアダムとイブ」探しで一山当ててやろうというおよそ研究者らしからぬ野心をひた隠して創造科学研究所なる施設に集まってきた。》
この「シオン賢者」と呼ばれる男たちは、確かに《「人類のアダムとイブ」探しで一山当て》ようという共通の野心を持つものの、それぞれが元居た場所から、それぞれの都合によってはじき出されて《創造科学研究所》に流れてきたという意味でバラバラであり、当然、自他の境界が分化されていないような存在ではないし、また、彼らがその偏った思想によって強い集団的なアイデンティティを得ているようにも描かれてはおらず、彼らが常に集団として描かれているのは、彼らの個々の存在に突出したところがないという事実のみによっているように読める。ここでの「男たち」の集団は、たまたま「シオン賢者」と呼ばれるグループに集まってきた者の集合という以上の意味はなく、この集団の集団性を支えているのは現実上の様々な偶発事と、あとはせいぜい「ある程度共通した傾向性」くらいのものだろう。にも関わらず彼らは常に「シオン賢者」と呼ばれ、その集団のなかの一員としての「現れ」(表象)しか持てない。これは、神話的な自他未分化の世界の集団的主体の充実度とは対局にあると言えるだろう。一人一人は砂粒のようなものでしかない「男たち」は、シオン賢者という「名称」と、《旧約聖書の創世記の記述を文字どおり地球の歴史として解釈する》という「政治的な立場」という、あくまで(世界をフラットに分割する)言語の表面的な意味の次元での「括り」によって、強引に「代表される」しかない。この小説の後半部分が描いているのは、基本的にこのような世界であると思われる。
この事実が、前半とは異なる後半部分の記述のあり方にも反映している。簡単に言えば、後半の記述は前半のような距離の自由な伸縮や強い感覚的な喚起の生々しさは姿を消し、割合と単調で平板なものとなる。後半部分もまた、どこへ連れてゆかれるのか分からないような魅力的な転調をくり返し、転調によって持続が支えられているような展開は変わらない(というか、一層その度合いが増すようにも思われる)のだが、それがもっぱら、言葉が言葉に重なり、言葉と言葉がズレ、言葉を言葉が裏切るといったように、ほとんど言葉の表層的な意味の次元においてのみ行われているように思う。いや、このような言い方では十分ではないかも知れない。
前半部分が、感覚的な内実と言語的な秩序が短絡的に結びつくことで神話的(感覚喚起的)であるとしたら、後半部分は、感覚的な内実を覆い隠してしまうくらいに過剰な言語的意味の折り重なりがあり、それが作り出す振動によって、その言語自身には記載されていない(切り離された別の場所にある)身体に、ある種の情動的な振動を伝え生じさせるのだ、と言い直すべきだろうか。 前半部分では、記述そのものと記述される対象との距離の自由な伸縮によって転調が支えられていたのに対して、後半部分では、記述と対象との関係は平板ではあるが、記述される対象(世界のあり方、そのなかでの人間たちの関係)の捉えがたいほどの複雑さが、転調や短絡的接続を支えていると言えるのではないだろうか。どこへ向かって展開されてゆくのか分からないような小説の成り行きは、我々がこの現実の世界に対して感じている、決してその全体を捉え切ることが出来ないほどの複雑さという感情によって、そのリアリティが保証される。言葉が言葉しか呼び込むことのない平板さは、その複雑さによってリアルな感触へと繋がる。おそらくこのようなものが現代的な世界であり、神話的・幼時的世界に対する、「大人の世界」と言えるのではないか。
●ごく大雑把に言ってしまえば、前半部分は神話的な(身体的)「深さ」があり、後半部分には言語的、ダイヤグラム的な表層的(意味的)「複雑さ」があるのだと言えると思う。そして、そのどちらか一方だけではなく、両者が重ねられ、繋ぎ合わされているところに、この小説のリアリティがあるのだと思える。

  大道珠貴『ミルク』
04/09/29(水)
●大道珠貴の新しい短編集が出ていた。(『ミルク』)大道氏の小説は、ゆっくりと読むことを許してくれるような文で、まず最初の短編『ミルク』だけをゆっくりと読んだ。大道氏の小説としては特に素晴らしい出来ということはないが、やはりぼくはこの小説家が好きなのだと思えた。最近の大道氏からは、若い世代の女性読者を強く意識してるんじゃないかという気配が感じられて、前の作品にあったような「どこから片付けてよいのか分からなくて途方に暮れる程に散らかった部屋」みたいな雑然としたものが、ちょっと小ぎれいに整理されてしまっている感じがしないでもない。しかしそれでも、『銀の皿に金の林檎を』などはかなり良い小説だと思うし、それはそれでまた、きれいに整理されているはずなのに、何故か妙に雑然としか感じがする、という不思議な小説になっていると思う。
大道氏の小説の登場人物は、自分のまわりの(きわめて狭い世界である)「環境」を疑わない。環境を変えるためにそれに働きかけるとか、そこから外へ出たいと望むとか、環境を構成している他者たちを憎むとか、そういう動きは全くみせず、ひょうひょうと環境に対応している。と同時に、その環境のなかで出世しようとか、良い位置を確保しようとかいう欲望とも無縁であるようにみえる。しかし、まったりとして現状肯定的かと言うとそうでもなく、自分が感じるまわりに対する違和感について自覚的だし、周囲の人物に向ける視線も容赦がないものだ。彼女たちは、とてもクールに周りを観ているのだが、その認識が環境を超出しようとするような欲望へとは全く繋がらない。大道的人物は、ほとんどの場合、自分を取り囲む環境に強い違和感を感じているのだが、にも関わらず、無意識のレベルで自らを生み育んだ環境に強い愛着も持っている。この矛盾が、愛憎が交錯する弁証法的なドラマを構成するのではなく、部屋を散らかしたままで放置しておくような(放置しておいても平気であるような)、投げやりな無気力さ、かったるさの感覚を生み、「プチ解離」とでも言うような、独特の世界に対する距離感をつくりだす。プチ乖離的な距離感によって生み出される、雑然とした散らかり具合の複雑な感触こそが、大道的世界の厚みを支えているように思う。
大道的人物は、きわめて狭い世界のなかで存在し、環境と強く密着、癒着していて、その外へは出ない。それは例えば、柴崎友香の登場人物が、自分自身というような強い自我を持たず、ただある種の傾向や性質しか持たず、周囲の環境や空間、気象状況などをすんなりと受け入れて同調するのとは異なる。柴崎的人物たちが作り出す「仲間的な親密な空気」は、基本的に再帰的なものであり、共同体的な「強いられたもの」からは切れて浮遊したものだ。(「学生」的と言うのか。)だからこそ、平気で大阪から原宿までワープしてしまったり、トルコまでするすると移動してしまうことが可能なのだ。いわば柴崎的人物は浮世離れしたアート系であるのに対し、大道的人物はもっと野蛮であり、地元系である。(「とりあえず高校だけは卒業して地元で就職」的、と言おうか。)彼女たちは、今住んでいるこの場所以外の環境を、想像したり望んだりさえしない場合が多い。あるいは、土地を移動しても、そこには同じような「地元」があらわれる。逆に言えば、どこに行っても地元しかなく、その場所に縛られ、その内部に入り込み、その場所に順応するしかないからこそ、大道的人物はより徹底して孤立している。
解離的というのはつまり、自分自身の身体や欲望や感情からも切り離されて孤立しているということであろう。自分自身の身体や欲望や感情でさえ、自動的に進行する機械仕掛けの世界の一部として動いていて、私はその外に置かれてそれをクールにかつ投げやりに眺めている、という感じ。(この「投げやりさ」のなかにはしかし、世界に対する「薄らとした」愛情が混じっているようにみえる。)このように自分自身の身体や欲望や感情からも切り離されて孤立している「私」に、それでも何とも言えないある種の「感情」が浮かび上がるのであって、それが大道氏の小説の基調をなしているように思われる。
04/09/30(木)
(大道珠貴『ミルク』について、もう少し)
●大道珠貴の登場人物は、「ここではないどこか」を求めないし、「地上のひとつの場所(私の居場所)」を求めない。今いる場所が世界の全てでその外はない。しかし、それを全面的に(あるいはなし崩し的に)肯定するのでもない。その世界はきわめて狭く、そのなかで縛られ、そこに順応するしかないのだが、同時にそこから切断され、微かに浮く。大道的「プチ解離」とはおそらく、堪え難いほどに強烈な現実(トラウマ)から主体を防衛するものではなく、自らの能力では介入する余地のほとんどない(勝手に進行する)世界を前にした時に、主体がその絶対的、絶望的な受動性から身を守るためのものとしてあるのだと思う。吹き荒れる風に無防備にさらされる主体を防衛するために、私はクールな見者となり、そこではあらゆる感情が、愛も憎しみも喜びも苦痛もが、閾値が調整され全て「薄ら」としたものへと変換される。しかしそれは、たんに希薄で無感動で気分の揺れ幅が狭くなるということではない。薄らとした感情にはそれ独自の質があり、複雑に合成されたニュアンスがある。そして、人物のクールな認識や抑制された感情には、その裏側に、潜在的なものとしての(吹き荒れる風にさらされた)激しい起伏や振幅の律動が張り付いている(共存している)はずなのだが、その激しさはこの「世界」のなかでは登録される場所を持たず、顕在化されない。
●『ミルク』では、まさに「うちら」という言い方がぴったりくるような女子中学生4人の仲良しグループの関係と、そのグループが高校へ進んでバラバラになってゆく様子が、その一員である一人の女の子の視点から(機械的・自動的に進行する事柄であるかのように)淡々と語られている。一応は主人公の「成長」が描かれてると言える。この小説の語り口と女の子たちのグループの関係性をよく示していると思われる部分を、引用する。
《あたしと秋葉は気が合う。四人とも気が合うんだけど、特にあたしと秋葉は、合う。でも、合うかどうか、たしかめたことはない。抜けがけはよくないし、というか、やっちゃグループが分裂しちゃうし、第一、特別気が合ったからって、どうってことないだろうしな。別に家庭の悩みもなんにもない。あたしはまったくコーフク。つき合うかどうか悩んでいるトシマリュウジのことくらいだもんな。そんなのって、コーフクで暇だから、高校受験も適当に低いレベルんとこだし、楽勝、オヤもお金だしてくれるし、言うことないんだよね、なにか悩みたいんで、とりあえずトシマリュウジなんだろう。恋って、手っとり早くやれるし。友達との話題にもなるし。深刻な悩みって、言わないよね、それが友情だよ。重いもん、仲間に背負わせられないもん。》
いかにも中学生の女の子の語りといった感じで、短い文が、支離滅裂とまではいかないが、それほど緊密な意味上の繋がりを持たずに、思いつきのようにポンポンと繰り出され、重ねられる。ここではグループを維持することが何より大事なことだと語られていて、そのために、一番気が合うと思っている「秋葉」とサシで話してみたいという欲望さえ抑えられている。この禁欲は、すぐさま「特別気が合ったからって、どうってことないだろうしな」という形で理由づけられ、正当化される。サシで話たいという欲望が場の力によって断念され、その断念に伴う残余の「思い」がクールな認識の衣をまとう。ここで中学生である主人公は、仲良しグループに決して満足しているわけではないが、それ以外の世界、それ以外の関係性を「求める(夢見る)」ことすらしない(出来ない)。それは彼女の想像の外にあるものだからだろう。(彼女たちにとっては、恋愛も、グループを維持するための「ネタ」として収まるものでなければならず、「重く」なってはいけない。)このような世界に閉じ込められた主体=私は、欲望の断念をクールな認識で置き換えることでやり過ごす。そしてそれは、私の欲望と私の認識を切り離すことになり、主体=私は、あくまでその環境の内部に居て順応しながらも、そこから浮き上がり切り離される。しかしそれでも、秋葉とサシで話たいという気持ちや、男の子に対する感情、あるいはそれらの欲望を断念してしまったという「思い」そのものまでもが消えてしまうわけではなく、それは「ある」にも関わらず、どこにも書込まれないで、潜在化する。そして、この小説の「どこにも書込まれていない」潜在化した強い情動の震えこそが、実はこの主人公を、そしてこの小説の言葉たちを、生み出し、支え、動かしているのだ。そして何よりもそのような事実こそを、この小説の文の連なりは、はっきりと示しているのだ。 (つづく)
04/10/01(金)
(つづき、大道珠貴『ミルク』について)
●主人公があれほど尊重していたグループは、高校に入ると四人ともがそろう機会がまれになり、自然とバラバラになってゆく。これは彼女たちの気持ちの変化によるものというより、ほとんど天体の運行のように勝手に進行する事柄として描かれる。四人全員がそろわないので、仕方なくグループの一人の波子と二人で、男の子たちのグループと海へ遊びに行ったところを引用する。
《「なんか、たのしくない?」 って波子が言う。あ、あたしもいまそれを言おうと思った。たのしい!じゃなくて、たのしくない?って。二人でたのしみたいね。男遊びしようね、と波子と意見が一致。 一瞬、すごくはしゃげた。すぐ、でも波子って疲れる子なんだなあ、とくらい気分になった。いきづまっても、だれも助け船をだしてくれない。二人っきりって、緊張感ありすぎ。》
「たのしい!」じゃなくて「たのしくない?」と言うことでしか味わえない「たのしさ」が確かにある。彼女たちのグループは、まさに「たのしくない?」を可能にするためにこそ、様々な抑制や違和感を抱えながらも維持されなければならなかった。しかしそれはあくまで、四人のグループが作り出す「場」が可能にしたものであって、波子とサシで対面しても、それは可能ではなかった。(主人公は秋葉と特に「気が合う」のではないかと感じていたが、それもまた、グループのなかでの「秋葉の位置」がそう思わせていただけかもしれない。その秋葉は、他のグループに属して彼女たちから離れてゆくのだが、主人公はそれに対しても「世界の絶対的な運行」としてクールに受け止め、受け入れる。このクールさは、「主体の徹底した無力さ」に対する彼女なりの「生の技法」なのだ。)そしてここでもまた、グループのはっきりとした崩壊や、波子との「たのしくない?」関係の不成立に対しても、それを嘆いたりはせず、いたってクールで淡々としている。しかしここで主人公は、ただ事態の推移を眺めているだけでなく、いままでグループの一員として禁欲していた、(グループ内のネタとしてではない)男の子との一対一の関係を模索しはじめることになる。
この移行を、とりあえずは「成長」と呼んでよいだろうと思う。しかしこれは「個の自立」などというものととは異なるし、「恋愛」のようなものとも違う。(この移行もまた、世界の自動的な運行に含まれる。)主人公ははじめから、愛し合うとか互いを理解し合うとかいう夢(「ここではないどこか」や「地上のひとつの場所」)を求めてはいない。その関係とは次のようなものだ。
《「ほんとにいい?約束しただろ、セックスしよう、な、な。」 そう攻められるとまんざらでもなくあたしは、のけぞって、うん、うん、と言う。大好きでもないから、カンタンに、承知してしまう。大好きだったら、もっとあたしは自分を大切にとかするだろう。投げやりなあたしの体でいいなら、リュウジにあげましょう。 リュウジも、わかってるから、ふざけてぐいぐい下半身を押しつけ、「次、ここに入れるからな、むきだしで、ズボッと入れるからな」と言う。 (略)そしてリュウジがあたしをあんまり大切にしないのは、どこかであたしの気持ちが伝わっててて、バカにされている気分だからだろう。考えても、土曜は刻々と迫ってくる。やられるんだ、あたし。》
大道的人物においては、今いる環境が全てである。恋愛などという抽象的なものとは関係なく、目の前にいる男に求められ、それが「まんざらでもな」ければ、受け入れる。仲良しグループが、それを維持するためには様々な意図的配慮を必要とするとはいえ、基本的には環境から自然に与えられたものであるのと同様、ここでも主人公は男から与えられた(求められた)関係を受け入れているだけであろう。ここには過剰な期待(大好き)もなければ、関係性そのものに対する執着(恋に恋する)もない。しかし、ただ求めに応じただけだとはいえ、求められて「まんざらでもない」ということは、主人公もまた、リュウジの体を欲望しているということであろう。(ここで相手を「大好き」ではないということは大して重要ではない。あらゆる感情を「薄ら」としたものへと変換する装置が働いている大道的人物においては、「まんざらでもない」ことは、既に最大限の好意であろう。)ここではじめて、互いを欲望するという形の、一対一の相互承認が成立する。(これをとりあえずは「成長」と呼び得る。)とは言っても、手近にいて嫌ではない相手で間に合わせた、という程度のものではあるが。ここでは、全面的な相互承認、相手の性的身体の全面的な肯定など夢見ることもせず、部分的、妥協的承認以上のものを求めるどころか想像することすらしない(出来ない)という点が、大道的人物の特徴であり、そして美しい点でもあろう。そしてここでも、世界の運行、関係の進行は、主人公にとって自分の意思とは切り離されたものであるように感じられている。《考えても、土曜は刻々と迫ってくる。やられるんだ、あたし。》というように。しかしここには、ただクールで投げやりな、解離的距離感があるだけではなく、クールで投げやりであるととと同時に、それと共存する、潜在的な激しさがあるのだということは、昨日書いた通りだ。

  法月綸太郎『生首に聞いてみろ』は面白かった
04/10/04(月)
●法月綸太郎『生首に聞いてみろ』は面白かった。(普段あまりミステリを読まないので、ミステリ的にはどの程度でネタバレなのか判断がつかないのだが、以下の文章では作品の核心部分についてのネタバレはないけど、細かい部分ではいろいろとあると思う。)
ミステリにおいて事件が解決するとはどういうことなのだろうか。例えば、死体がバラバラに切断される時、それは多くの場合、犯罪者の病的な欲望や妄想によるのではなく、合理的な理由によるだろう。(何かを隠すためとか、死体を運ぶためとか。)しかし、読者が死体がバラバラにされる物語を求める時、そこには明らかに死体を切り刻みたいという欲望がある。読者は一方で死体を切り刻む欲望を満足させつつ、最終的には事件が合理的に解決されることで、自らのよこしまな欲望が理性によってコントロールされ得たことに満足(安心)を憶える。(ホラーなどでは、欲望=恐怖は理性的には解決されないままで、たんに一時的に沈静化され、世界のなかに拡散され、放置される。)まあ、これはあまりに単純で紋切り型の解釈だが、テレビのサスペンスドラマなどまで含めて、通俗的な意味でのミステリが多くの人に求められている理由の一つではあるだろう。 しかし『生首に聞いてみろ』においては、「事件」はある犯人や特定の集団などの意思や意図(欲望)には還元されず、複数の人物たちのそれぞれの思惑や、いくつもの偶然が重なることで、一つの「事件」としての図像が浮かび上がるようなものだ。だから、事件は、病的な、芸術的な犯罪者の欲望や、強力な権力を持った黒幕や団体の陰謀、あるいはもっとありふれた個人の思いや感情(人間ドラマ)などには還元されず、それが合理的に解決されたとしても、そこには理性によって欲望(恐怖や不安)が制御されたようなカタルシスは訪れない。事件によって生まれる謎や恐怖や不安が人を途方に暮れさせるのと同じように、解決された事件(合理的な説明)もまた、そのあまりに複雑な組成(つまり誰の意思によっても制御されていないこと)によって、人を途方に暮れさせる。事件が完全に文節化されたとしても、そこにあるのは理性の能動的な力ではなく、世界の複雑さに対して、個人があまりにも無力であるという事実なのだ。事件が明らかになればなるほど、そこから欲望の強度は失われ、ただ「どうしようもなさ」だけが残る。この小説で法月綸太郎(登場人物)は名探偵(真実を探り出す人)でも何でもなく、たんに事件に巻き込まれ、それを見る(記述する)人、事後的に事件を総括する人でしかない。(実際に事件を解決するのは「警察」だと言うべきだろう。)
ここで、小説において「伏線」とは何なのかということに考えがおよぶ。それは結局作家が頭のなかで考えた(作家によって操作された)パズルであり、つじつま合わせでしかない。しかしそれがリアルな説得力をもつのは、読者個人の幻想(欲望)に触れるだけでなく、読者が世界の複雑さ(捉え切れなさ)に対して感じている感触とも、その複雑な組成が触れ合う時なのではないだろうか。そのような時、伏線の入り組んだ複雑さは、運命とかどうしようもなさとして世界のリアリティと重なる。 『生首に聞いてみろ』においても、明らかにある種の「欲望」がその物語を生じさせ、動かしていることはかわらないだろう。それは、少女の裸(身体)をそれ自体として提示するのではなく、石膏像に転写されたものとしてのみ間接的に示し(人々の視線ニ晒し)、その上で首を切り落とすといった、間接的で屈折した(セクハラ的と言ってもいいと思うけど)エロティシズムであり、そして、オリジナルとコピー、シュミラークル、ネガとポジ、反転、双対性、偽装、入れ替わり、といった観念的な形態(図式)に対する法月氏の強い執着であろう。(この点について、特に「謎解き」の部分などに、佐藤友哉と強い親近性を感じた。)
しかし法月氏は、そのような欲望を、閉じた(新本格的な)世界のなかに閉じ込めることで、想像的、妄想的な世界を構築するのではなく、そのような欲望をあくまで小説を転がし、展開させてゆくためのシステムとして使用し、現実と地続きの世界のなかに拡散させるようにして配置する。だからこの小説を支えているのは、世界が歪むほどの欲望の強度ではなく、綿密に取材されたと思われる、現実と地続きの細部の説得力であり、その描出力であろう。例えば、この小説で描かれている「美術界」の雰囲気や美術の「言説」などは、その内部を多少は知っているぼくなどが読んでも納得出来るものであり、おそらく相当多くの美術批評や美術雑誌などを読み込んでいて、それだけでなく多くの「内部」の人にも取材を行っていて(あるいは知り合いが多くいて)、その独自のニュアンスのようなものまで掴んだ上で虚構=欲望を造形しているように思う。(ただ、後で触れるが、「言説」としては掴んでいても、美術作品そのものを観る目には疑問があるのだが。)美術批評家の書いた追悼文など、その大げさにキーワードを振り回すばかりの空疎な文章の感じなど絶妙で、笑ってしまった。加えて、舞台となる東京西部や神奈川の一部(京王線や小田急線沿線)の土地勘の描出なども、さんざんその当たりを歩き回ったのではないかと思わせる厚みと的確さを感じる。あるいは、1999年という具体的な時期を設定し、同時代の出来事や雰囲気を反映させてゆく描き方も、その一部をなすだろう。読者は、ミステリ的なよこしまな(歪んだ)欲望に惹かれて読みすすめながら、そのような欲望が理性的に制御されるのではなく、現実的で下世話な関係の編み目のなかへ拡散してゆき、不可能になってしまう地点へと連れて行かれるのではないだろうか。
●この小説の根本的な欠点だと思うことを一つ挙げる。それは、登場人物である彫刻家が「和製シーガル」と呼ばれている前衛的な彫刻家であることと、その代表作であると言われる「母子像」シリーズの描写のされ方が相容れないと思われる点だ。この彫刻家は、作品の「目」の表現が安易に「祈り」のように取られてしまうことへの嫌悪から、作品にサングラスをかけさせてしまったりするような、反美学的な彫刻家であり、その感じは60年代後半から70年代へかけての前衛芸術のモードと重なるし、それ流れはジョージ・シーガルの作品とも自然に繋がるものだ。しかし、にも関わらず、その代表作と言われる「母子像」は、そのポーズからしても、人体の繊細でエロティックな美的表現性からしても、どちらかというとオーソドックスで趣味の良い具象彫刻の流れ(例えば佐藤忠良のような)を感じさせるもののように描かれている。
単純に考えて、シーガルが少女のヌードの作品をつくったとしても、それが繊細でエロティックな表情をもったものになるとは想像しにくいだろう。この小説の物語的な必然性から言っても、そして法月氏の欲望から言っても、ここで作られる彫刻が、人体から直接型取りしたもので、バラバラのパーツをつなぎ合わせてつくるものでなければならず、そしてその完成作品がエロティックな生々しさを持っているものでなければならず、そのため、石膏直取りの彫刻でなければならないことは理解出来る。そして、石膏直取りと言えば嫌でもシーガルの名前が出てこざるを得ないし、彫刻家の年齢の設定からして、彼が前衛的な彫刻家であった方がリアルであることも理解出来る。(前衛的なアーティストで人体をつくるといったら、シーガルくらいしか浮かばないのかもしれない。)しかしそれでもやはり、この二つは簡単には結びつかないと思う。

  法月綸太郎『カットアウト』は面白いとは思えなかった
04/10/05(火)
●『生首に聞いてみろ』(法月綸太郎)が面白かったので、『カットアウト』(『パズル崩壊』収録)も読んでみた。(同じ美術モノなので。)しかしこれは、あまり面白いとは思えなかった。
『生首...』のジョージ・シーガルが、石膏直取りの彫刻という技法との関わりのみで作中に召還されている(と思われる)のに対し、『カットアウト』という小説はジャクソン・ポロック論として書かれているように思う。つまり、ポロックをネタにした小説ではなく、ポロックという問題に取り組んだ小説だと言えるのではないか。この小説に登場する「和製ポロック」は、日本におけるポロックの模造品としてではなく、ポロックが可能性としてもっていながらも実現出来なかったことを顕在化する存在として描かれていることからも、それが言える。しかし、この小説において、法月氏が問題とし、あるいは魅了されているのは、ポロックの作品であるというよりも、その作品を巡る「言説」であるように思う。あるいは、この小説はその(美術史上の)言説に強く引っ張られすぎているようにみえる。 この小説では、あらかじめ単純化され図式化された二つの対立するものがあり、それを止揚するものとして第三のものが示される。しかしそれは、あらかじめ単純化された図式を、図式的に乗り越えるというだけのように思える。ここで対立するものとは、全盛期のポロック(緊張感のみなぎる形式性=反イメージ)と晩年の弛緩したポロック(ユング的なイメージの発現)であったり、スピノザ的な砂漠の自然と日本的なアニミズム的自然であったり、人間不在の無機質な世界と有機的・人間的な世界であったり、砂漠への隠遁と現世的成功であったり、あるいはアメリカと日本であったりする。このような、互いに関連のあるいくつかの主題の対立が、「和製ポロック」と呼ばれた画家の友人であり、双生児のような存在であるとともに、対立するライバルでもある人物によって、二人の過去の話のなかで語られてゆく。そしてこのライバルである二人の画家の間に、二人のインスピレーションの源であるような女性が、まさに前述した諸対立を止揚する「人間のいない無機的世界の豊かさから、人間の形象を浮かび上がらせる」ような存在として配置されている。「和製ポロック」はこの女性の存在(と死)から触発され、晩年のポロックが行き詰まり、その可能性を示しながらも実現できなかった地点から先へ行くような作品を実現する。そしてその作品とは(ネタバレになるので具体的には書かないが)ポロックの『カットアウト』を(二重に)反転させたようなものなのだ。(そこにもう一つ、歴史的、現実的な要素が入り込むのだけど。しかし、これは反則じゃないのか。)
でも、これってたんに「言葉の上」だけ、「図式の上」だけで成り立っているだけなのじゃないのかと思う。(例えば、白と黒との対立が、「白でもなく黒でもないもの」によって止揚される、と言われたとしても、じゃあその「白でもなく黒でもないもの」って具体的にはどんなものなのか、どんな性質をもつグレーなのか、その実質が、「寓話」としてでも、「イメージ」としてでも、説得力を持って示されなければ、それは言葉でしかない。)この小説がたんにポロックをネタにしたちょっとした読み物として書かれているのならば、これは「オチ」としてはそれなりに鮮やかであるとは思う。しかし、この小説でのポロックやその作品についての言及の量や突っ込みの深さやその熱さは、明らかにそれをこえるものがあるのだから、このオチでは納得出来ない。
結局、ポロックの作品にではなく、それを巡る言説に触発されて書かれていることが、この小説から具体性を欠落させ、言葉の上だけ、図式の上だけでしか成立しないような、貧しいものにしていると思う。 (ぶっちゃけて言えば、ポロックが直面した絵画の形式上の問題と、この時期法月氏が直面していたであろうと想像出来るミステリの形式上の問題とを、あるいは、日本という場所において近代西洋美術をやらなければならない「和製ポロック」の位置と、日本において本格ミステリ作家でなければならない「和製クイーン(?)」たる法月氏の位置とを、それに関する言説の「類似性」から、安易にごっちゃにしていることが、この小説から具体性を奪っているのではないか。そこには確かに通低する問題があるのだろうが、しかし、絵を描くあるいは観るという行為の具体性と、小説を書くあるいは読むという行為の具体性とを、面倒くさい途中の段取りの具体性をすっ飛ばして、「言葉」の次元だけで短絡してしまうのは、やはりとても危険なことなのだと改めて思った。)

  ガルシア=マルケス『落葉』
04/10/10(日)
●小説を一通り読み終えた後(つまりその小説のつくりや構築を、とりあえずは一度その通りに把握し味わった後)、読んでいて印象に残った場面や、あるいはページをバラバラとめくり返して適当に行き当たった部分などを、その小説の流れとはあまり関係なく(とは言っても一通り読んでいるので全体の雰囲気やその部分が全体のなかでどのような位置にあるかは分かっているのだから、「全く関係なく」というわけにはいかないのだが)あらためて読み返すのは、はじめから順番に通して読んでいるのとはまた違った感触がその細部から感じられて、とても楽しいし、また、読み終わった後にそのような読み方をしたいと思わせるような小説は、作品としての出来不出来とは関係なく(あるいは好き嫌いとは関係なく)、豊かな作品なのだろうと思う。
ガルシア=マルケスの『落葉』を読んでいて印象に残ったのは(強く鮮やかに刻み付けられたと言うのではなく、何となく頭に引っかかりつづけていたのは)、登場人物の一人の子供が、自分の部屋で眠りかけた時に、家のどこにもないはずのジャスミンの強いにおい(「まるでジャスミンの薮を揺さぶりはじめたような」と表現されている)を感じる場面で、その場面を、全体を読み終わってからもう一度じっくりと読み返した。(その場面の一部を引用する。)
《「ジャスミンのにおいよ、九年前まで土塀の前に生えていたわ」と。
ぼくはアダの膝に坐ります。「でも今はジャスミンはないよ」とぼくは言いました。すると「今はないの。けれど九年前、あんたが生まれた頃、裏庭の土塀の前にジャスミンの茂みがあったのよ。夜は暑くてね、今と同じにおいがしていたわ」と言いました。「でも、それはぼくが生まれる前のことだったのでしょ」と尋ねると、「あの頃、たいへんな大雨に降られたことがあったのよ。それでね、庭をきれいにしなければならなかったの」と教えてくれたのです。
そこは相変わらず生温い、手に触れることのできるようなにおいがしていて、夜のなかに漂う他のいく種類かのにおいを支配していました。ぼくは「そのことを話してほしいの」と言いました。するとアダは一瞬黙りこんでしまいましたが、やがて月の光のなかの石灰の白い土塀の方に目をやり、それから言いました。
「もっと大きくなったら、あんたにもジャスミンが〈化けて出る〉花だってことがわかるようになるわ」》
『落葉』という小説が描き出そうとしているのは、既に過ぎてしまったにも関わらず、依然としてそこに「現存する」かのような強さで現在を規定し、そこに人を固着させてしまう過去の、多層的に重なる「重さ」のようなもの、核のような「堅さ」のようなものであると思われ(そのような過去が、人を頑なにし、柔軟さを奪い、孤独にし、ほとんど生きながら死んでいるような状態にする)、この場面で描かれる、過去にそれほど強く縛られてはいないはずの子供にさえ感知されてしまう、過去にそこにあった「ジャスミンのにおいの幽霊」もまた、人を縛る強い過去の重力を示すような細部であると言えよう。(この小説では、他にもいくつかの場面で過去のある時期の記憶と結びついて、ジャスミンのにおいが強くたちこめ、この場面は、それらの場面との繋がりにおいて意味をもつ。)しかし、そのような小説の「つくり」といったん切り離してこの場面を読むとき、そこに(既に)ないジャスミンのにおいを強く感じるという描写は(それを感じているのが子供だということもあって)、過去の重さとは切り離された別のリアリティ、例えば雨の夜のしっとりと湿った空気のなかから、日に焼けて乾燥した土のにおいを感じるような、あるいは音から色を感じたり、色から触感を感じたりするような感覚に近い生々しい「感覚」が感じられるのではないだろうか。(これを「共感覚」みたいな話に落とし込んでしまうと面白くなくて、「別の感覚」の創出のようなものとして考えたい。あるいは、中井久夫の言う「徴候と索引」みたいなものとして考えたい。)このような感覚(既にここにないジャスミンのにおいを感知し、湿った空気から乾いた土のにおいを感知するような感覚)が、作品を作品として成立させている構築性とは別の次元で、豊かに、それこそむせるほどに濃くにおい立つように浮かんでくるような作品を、なんとかつくりたいといつも思っているのだけど。

  マルセル・デュシャンの遺作は...
04/10/17(日)
●マルセル・デュシャンの遺作は、一見そのあまりのバカバカしさで人を唖然とさせる。壁があり、覗き穴がある。それを覗くと、その向こう側には裸の女性が水浴している。こんなものをちょっとでも「気が利いている」と思って展示するなど、人をバカにするにもほどがある、と。しかしこの作品は、実はそれほど単純なものではない。このような装置が、美術館や画廊などに置かれている時、それを覗き込む観者は、女性の裸を覗いている自分の身体が、離れた場所にいる他の観客からは、まるで作品の一部であるかのように「観られている」のだということを(ある「やましさ」の感覚とともに)意識しないわけにはいかない。例えそのフロアーに他の観客が一人もいなくても、その効果が薄れることはないだろう。むしろ他に観客がいない時こそ、その「誰でもない者の眼差しを意識させる」という効果は、完璧に作動する。つまりこの作品は、精神分析の言う、主体における「視線」と「眼差し」との分裂を体験させる、きわめてシンプルな装置であると言える。
●コプチェクは『女なんていないと想像してごらん』の後半で、パゾリーニのエッセイを引きつつ、サルトルの『存在と無』で描かれた「視線」と「眼差し」との分裂について分析している。パゾリーニのエッセイでは、映画における長回しが否定的に扱われ、それに対してモンタージュによる「主観の構成」が肯定される。長回しの例として上げられているのは、ケネディーの暗殺をたまたま撮影したフィルムである。このフィルムはそれをたまたま撮影した者の置かれた場所の偶発性を示すに過ぎず、つまり歴史が偶発的に撮影者を置いた場所に、その映像は従属させられてしまっている。それが示しているのはたんなる「現在性(現前性)」だけであり、「わたしはいまここに、あなたのまえにいる」ということ(限定性)だけである。と。(これは恐らく、フリードによるリテラリズム=ミニマリズム批判と同形のものであろう。)だからこのフィルムの「主観性」は、上のデュシャンの作品に例えれば、たんに覗き穴という限定された場所から女性の裸を覗く「視線」のみで出来ており、その覗く身体が別の誰かによって「観られ得る」ものだということを感じさせる「眼差し」が不在である、ということになる。(ここで間違えてはならないのは、視線が主観的なもので眼差しが客観的なものだと言うのではない、ということで、これはあくまで「主体」の分裂であり、どちらも「主観的」なものであるということだろう。)これに対しパゾリーニは、映画は観客に直接的に語りかける(現在の提示)のではなく、「過去現在」と呼ぶべき時勢を、複数の視点のショットを繋ぎ、ショットとショットとの間に断絶(死)を挟み込むことによって実現しなければならないとする。複数の視点を繋ぐことで、映画における「自由間接話法」的な「主観」を、視線のみではなく眼差しをも含んだ「主観」を、構成しなければならないのだ、と。(自由間接話法とは、例えば「彼女は彼のくそ顔をぶっ叩きたかった。」という文が、形式的には三人称による客観的=中立的な記述にみえて、しかし実は「くそ顔」という語彙の選択によって「彼女」の視点=主観に寄り添っていることが分かるというように、ある主観が直接的ではない形で示される、主観的とも客観的とも言えない状態のこと。)つまり、主観=視点が今ここという現在形によって直接的に現前するのではなく、映像が複数の視点とその断絶(空虚)を通過し、直接性から半歩後退させるられることによって、「今ここにある私の身体が観ているもの」という限定(束縛)から、(主観があくまで主観でありながら)切り離され得るということなのだ。ここでも、「眼差し」はある特定の視点や俯瞰的=超越的な視点によってもたらされるのではなく、あくまでショットとショットとの「断絶(空白)」(これをサルトルは「世界のなかでの他者との予測出来ない出会い」と言うだろうし、ラカンなら「出会い損ない」と言うだろう)によってのみもたらされることに注意すべきだろう。(しかし現在の映画においてこの「眼差し」は、「監視カメラの映像」のようなものによって代理され、いとも簡単に形象化されてしまうので、これはまた別の問題になるのだけど。付け加えれば、このような視線と眼差しとの複雑な絡み合いを、監視カメラのようないかにも「現代的」なアイテムを使わずに、繊細かつ詳細に追求している小説が、保坂和志の『カンバセイション・ピース』だろう。三人称は一人称のなかに含まれるという保坂氏は、自由間接話法とは逆の方向から、それをしていると言える。)
●サルトルによる「視線」の話(のラカン的解釈)は、デュシャンの遺作とそっくりである。コプチェクの説明を引用する。《鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。》この、覗く視線を中断させ、彼自身の「傷つきうる身体」の存在を彼に意識させる、誰かの「眼差し」は、誰か特定の人物による視線には回収されずに、世界のなかに隠され偏在しており、まさに「小枝のそよぎ」や「足音」といったホラー映画の定番アイテムのような徴によってのみ表象されるようなものである。(つまり、私を私の外側から眺める「眼差し」もまた主観である。例えば精神病者にとっての異様な世界のあらわれは、自身の身体イメージの異様さと切り離せない。)ここでコプチェクが強調するのは、この「眼差し」を、「社会的(歴史的、文化的)な規範」が内面化されたもの、として読み取ることに対する断固とした拒否であろう。コプチェクにとって絶対に譲れない点は、「視線」と「眼差し」の分裂が社会的、歴史的に構築された規範の「結果」としてあるのではなく、それに先立ってあり、それによってこそ「社会(共同性)」が、そして「超越(論)性」が可能になるものだ、ということなのだ。(この地点でおそらくカントと繋がるところがあるのだろう。)つまり、社会や歴史的必然によって主体が分裂するのではなく、生物としての人間(的な主体)の条件(運命)としての「分裂」が先にあり、あくまで社会や文化はその結果として要請される。(この点に、絶望と希望との両方が賭けられている。)ここが、社会学や歴史構築主義的な知と、精神分析的な知が対立する根本的な地点なのではないだろうか。

  リオタールによるバーネット・ニューマン論
04/09/11(土)
●リオタールによるバーネット・ニューマン論『瞬間、ニューマン』(『非人間的なもの』に収録されている)が面白かった。ここでリオタールは、ニューマンの作品の特徴を簡潔に言い表している。《ニューマンのタブロー、それは天使です。それは何も告げません。それは告知そのものなのです。》何も告げない(つまり読み取るべき内容のない)、ただ「告知する」という行為のみを告知する(提示する)こと。そこには世界の「あらわれ」だけがあり(世界の「あらわれ」の瞬間だけがあり)、その世界には内実がない。この純粋な世界の「あらわれ」そのものの呈示を、フリードなら「恩寵」と言うだろう。実際、グリーンバーグやフリードが近代的な作品の条件であるとする「瞬間性」を、全く字義通りに受け取るとするならば、それはほぼニューマンの作品にしか当てはまらないだろう。(例えば次のような部分は、そのままリテラルな意味での「瞬間性」の言い換えと言ってよいだろう。《タブローの解読そのもの、つまり線や色彩やリズムや号数や尺度や素材(媒材と絵の具)や支持体によるその同定が、容易になり、ほとんど即座になされるように思われます。明らかに、そのような解読や同定は、いかなる制作の秘密も包み隠してはいませんし、視線による理解を遅らせ、それゆえ好奇心を刺激することのできるようないかなる巧妙さも包み隠してはいません。その解読や同定は幻惑させるものでも曖昧なものでもないのです。それは明晰で、「直裁的」で、素直で、「貧しい」ものなのです。》)
通常、画家の仕事(この論考ではデュシャンが例として挙げられている)は、発信元である画家による絵画的造形的メッセージを、受け手である公衆が「読み取る」という体制によって成り立っている。そのメッセージの内容や組成は、物語であったり、ある認識や感覚の組み立てであったり、あるいは作品の生成のプロセス、思考のプロセスそのものだったり(あるいは作家の症候?だったり)と、作家や作品によって異なるが、いずれにしても、作家が様々な熱量や技巧や策略をこめて作り上げた作品を、公衆=観者がその内実を「見抜くように」観るというまなざしが要請されている。しかしニューマンの作品においては、《そのメッセージは、何も「語り」はせず、誰からも発信されません。絵画という手段によって「語り」、見させているのはニューマンではありません。メッセージ(タブロー)が、メッセンジャー(使者)であり、〈私はここにいる〉(略)あるいは〈あなたは私のものであれ〉と告げるのです。そこには我と汝という代替不可能な二つの審級があり、それらの審級は今-ここの急迫のうちでのみ起こります。(略)メッセージは現前化(呈示)ですが、何ものかの現前ではなく、つまり現前の現前化です。》
しかしこれだけでは、ニューマンの作品についていかにもポストモダン的に、洗練された言い方で述べただけとも言える。重要なことはこの先に書かれている。(付け加えれば、ここで興味深いのは、ニューマンの作品が「瞬間性」という意味ではグリーンバーグやフリードの理想をほぼ完璧にかなえている一方で、同時に、フリードがリテラリズムの作品のネガティブな要素として挙げているもの、つまり我と汝という形で作品との今-ここでの「対面的構造」が観者に強いる「急迫」によって、ある経験が強引に、他者に圧迫されるようにして起こるという側面が生じてしまっているという点だろう。勿論、リテラリズムの作品が示す=押し付ける「内容」が、客体性という効果であるのに対して、ニューマンの作品は何も示さず、ただ「世界の現れ」の瞬間のみを(ジップという魔法によって)「現す」、という違いはきわめて大きいのだが。)
●面白いのは次の部分だ。
《この「語用論的な」構成は、いかなる美学あるいは詩学よりも倫理学にずっと近いものです。ニューマンにとって重要なことは、色彩や線やリズムにたいして、二人称的な対面関係における責務の力を与えることであり、その力のモデルは、「これ(あそこ)を見よ」ではありえず、「私を見よ」、あるいはもっと適切に言うなら、「私の言うことを聞け」です。というのも、責務とは空間よりも時間の様態であり、その器官は眼よりも耳だからです。》
どのようなコノテーションも必要とせずに純粋に視覚的なもののあらわれだけで成立していると言われるニューマンの作品が、視覚的な経験というよりもむしろ聴覚的(声=言語的)な経験を召還するという逆説が示されている。ここで言う「私」とは勿論ニューマンのことではなく、純粋に視覚的に現れるもの=絵画の「あらわれ」そのもののことだ。この「私=絵画」は、「私の言うことを聞け」という以外の内容をもたない。観者が作品を目にした瞬間、あるいは目にしている限り、そこには「世界のあらわれの瞬間」が立ち上がり、そして立ち上がり続ける。なにしろそれは、「立ち上がる」という以外の内容をもたないのだから。そこにほとんど何もないにも関わらず、「何かがある」ということだけがある、あるいは、「ある」ということの「驚き」だけがある。世界は常に、新たに現前し直され(立て直され)つづけなければならない。だとしたら、観者は、今-ここにおいて(作品の前にいる限り)世界を現前させることをくり返し行わなければならないという「責務」を、その作品(の対面的構造)によって追わされることになる。これは既に視覚的な経験ではない。それはほとんど(神の?)声=言葉による命令のようなものであり、その命令の拘束力は、作品が視覚的には限りなく無内容に近いもの(貧しいもの、一瞬で捉えられてしまって余剰がないもの)であることによって確固たる強さをもつ。このような言い方は、ただアメリカ型フォーマリズム的な言説への批判というだけではないし、たんに「うまいことを言う」ためだけの言い方でもなく、ニューマンの作品を前にした時の経験を、きわめて的確に捉えているように思う。
リオタールは、このような絵画のあり方を、崇高なものとの関連で賞賛しているのだが、例えば、フリードが「没入」や「演劇性」などの概念を使いつつ、強く否定しているものこそ、この「責務の力」というものなのではないだろうか。(これに対してフリードが評価する=好むのは、自らの関心事に「没入」しているような、それ自体として閉じた作品だと言える。そのような作品は観者と「対面」しないし、「私を見ろ」というアピールもしないので、観者の側からの見る=読むという働きかけによってはじめて開かれる。)

  『10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス』をDVDで
04/10/07(木)
●『10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス』をDVDで。(DVDでは、『10ミニッツ・オールダー/RED』となっている。) 評判通り、エリセの作品(『ライフライン』)は素晴らしい。イチローが大リーグ記録についてのインタビューで、「自分の首を絞めるとはこういうことだ」という風に答えているのをテレビで見かけたのだが、この作品もそんな感じで、こんなに完璧な短編をつくってしまった後では、おいそれと映画をつくるわけにはいかなくなって、さらに増々寡作になってしまうのではないだろうか。ひとつひとつのイメージの作り込みの深さと、そしてそれらの関連づけ方の見事さ。この映画の映画としてのフォルムは完璧だと思うのだが、その発想というか、イメージの源泉としては、多くを文学に負っているような作品だと思う。(以下、ちょっとしたネタバレがあるので注意。)この映画では、次々とあらわれるイメージの連鎖が、空間的な広がりを持つものなのか、時間的な幅をもつものなのかが、初めて観る時には観客にはなかなか判断がつかない。例えば、最初にあらわれる赤ん坊と、次に現れる自分の手に時計を描き込む少年とは、さらに、片脚を失った青年とは、どのような関係にあるのか。同一人物の異なる時間での様相であるのか、異なる人物の同一の時間(つまり空間)のなかでのあり様なのか、どちらか決定出来るのは、たった10分あまりの上映時間のかなり終盤になってからなのだ。(このことは、最初にあらわれる母親と、その後複数登場する年代の異なる女性たちにも言える。)次々と登場する複数の人物たちと、彼らの行為や周囲の環境の描写が、互いにどのような関係を結ぶのかが不確定なまま、丁寧に作り込まれた深みのある魅力的なイメージの連鎖として、ゆったりとしたリズムで(時を刻むよう反復的な行為が)、テマティックな繋がりによって繋がれてゆく。そして、母親による「私の赤ちゃんが死にそうよ」という叫びによって、複数の人物、複数のイメージは、ごく狭い範囲での空間的な広がりを示していたのだということが一瞬にして明らかになる。そして最後には、この空間の広がりが、歴史上の特定の時間(一日)に収斂されてゆく。しかし、それが明らかになった後でも、イメージの連鎖をその関係が不確定なまま追っていた記憶、つまり、時間的な厚みをあらわすのかもしれないとも思いつつ追っていた記憶の感触は当然観客のなかに残っていて、それが、この映画で描かれる、ごく狭い範囲の集落に積み重ねられた時間の厚みの感触をつくりだす。この映画で描かれているような一日が、永遠に反復されているのではないかという感覚。そして、実はそれが歴史上のある特定の一日であったという(新聞紙に水が染みてゆくような)静かな衝撃。
『結婚は10分で決める』カウリスマキはきわめてスタイリッシュで、形式的な映画作家で、そのユーモアでさえ「決まり過ぎている」感じがする。画面のどこを切っても、カウリスマキらしさしか出てこないような。しかしにも関わらず、決して退屈ではないし、どこか不思議な生々しさがあるのは何故なのだろう。この短編だって、センスと技術だけでつくられたような感じなのに、何故かそれ以上のものがあるようにみえる。
『失われた一万年』一生のなかで一万年分の文明の進歩を経験してしまった男の話を、10分で語るというアイディアだけの雑な映画なのだが、いかにもヘルツォークっぽく底が抜けた感じが嫌いではない。ぼくはヘルツォークが嫌いではなくて、『緑のアリが夢みるところ』なんかも、全然たいした映画じゃないと思うし、底が抜けているのか間が抜けているのかわからないのだけど、その弛緩した感じも含めて、悪くないんじゃないだろうか。
『女優のブレイクタイム』決して悪くはないと思うけど、優等生の模範解答みたいで、ジャームッシュにしては冴えないという印象。
『トローナからの12マイル』この映画でヴェンダースがやりたかったのは、目を覚ました男と、助けてくれた女とが、病室で微笑みをかわすところの描写(だけ)だったのだと信じたい。あまりにもくだらないオーヴァードーズの描写はどうでもいい。
『ゴアVSブッシュ』(スパイク・リー)どうでもいい。
『夢幻百花』(チェン・カイコー)なんと言うのか、すさまじいほどセンスが悪い。ここまでセンスが悪いとかえって面白く観られる。

  鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』をDVDで観た
04/10/02(土)
●鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』をDVDで観た。十代の頃は、この映画はただやたらと面白くて(テレビで深夜放送されたのをビデオに撮って)何度もくり返し観ていたのだが、今回すごく久しぶりで観てみたら、かなり印象が違った。一言で言えばこれは「中年男」の映画で、すごく重たく胸にこたえた、と言うか、体にこたえた。中年男の映画だということはつまり、藤田敏八の映画だということだ。この映画は、人工的で乾燥している鈴木清順の映画では異例なほど、しっとりとして抑制されている。(しっとりとした画面に乾いた音が響くという印象だ。)このしっとりとした調子は基本的に鈴木清順のものであるというよりも、撮影の永塚一栄のものであり、そしておそらく、一時間半の作家であった鈴木氏がはじめて二時間半の映画を、それも派手な仕掛けをあまりつくれない低予算で撮ることになって、緊張して抑え気味にしたことによるのだろう(なにしろこの前に撮ったのがあの『悲愁物語』なのだ)、というくらいに以前は思っていた。(あと、脚本の完成度が高すぎて、あまり「壊せ」なかった、とか。物語的には『金曜日の妻たちへ』みたいな感じもあるけど。)しかしそれだけではなく、一番大きな原因は、藤田敏八が主演したということにあるのではないだろうか。 とにかく、今回観たこの映画からは、中年男の、疲労と倦怠、世界へのタカのくくり方、横暴さやガサツさ、柔軟性の減少、新鮮さの欠如、希望もないけど絶望もし切れない感じ、行き詰まっているのにまだ先は長い感じ、欲望の鬱屈と濁り、臭い、若さは消えてもまだ生臭い身体性、その身体に少しずつ混じりはじめる死の予感、恐怖、不安、嫉妬、懐疑、エロ、など、それら全てが入り交じった、どうしようもなく鬱陶しい中年男性的「重さ」がズシズシと迫ってくるのだった。だいたい鈴木清順の映画から、こんなに自然主義的(という言い方で良いのだろうか?)な、実存的生々しさが感じられてしまうのは異例のことではないだろうか。(決してこれ見よがしに提示されるのではない)この「重さ」のじっくりとした持続が、映画が清順的に「はじける」のを抑制しているようにみえた。そして、このような重力の中心にいるのが、藤田敏八の存在ではないだろうか。勿論、藤田氏は重たくて鬱陶しい実存的な「熱演」などは全くしていなくて(熱演をしているのは原田芳雄の方なのだ)、段取りをきっちりと守り、棒読みのように台詞を喋るという風に、淡々と演じているわけなのだが。(あと、この映画が身にこたえるのは、ぼくが男性だからであって、女性が観たらちょっとムッとするのではないかとも、チラッと思った。)

  今ここの意味は、今ここでは完結せず...
04/09/14(火)
●来年の個展が決まりそうな感じで、その関係で提出するための資料(ここ何年かの作品の写真をカラーコピーして、素材やサイズなどのデータを書き入れてファイルしたもの)をつくっていた。
●今-ここの意味は、決して今-ここにおいては完結せず、そこには過去が流入しているし、その意味の全てが今-ここで確定することはあり得ず、必ず幾分かは未来へとずれ込んで、持ち越される。『《「今になって冷静に考えればあの時はこうすべきだった」と思ったこともあったけどあの頃ぼくは若かったからね》なんて言っていた事も今は笑い話になったよ』とか、今-ここで起こった出来事やその意味は、事後的に何度も読み替えられ得るし、この先どのように読み替えられるのかを事前に予測することは出来ない。だから、現時点において、どんなに疑う余地なく確かなものだと確信出来る意味であったとしても、それが「変わり得る」という「保留」をどこかに確保しておくことが、時間のなかで生きるためには必要だろう。(つまり「現在という地点」を特権化することは出来ない。)持続(時間)というのは常に変化するということであり、現在の変化は、過去の出来事の意味までを変えてしまわざるを得ない。しかし、例え過去のある出来事の意味が、現在においてそれを否定する形で読み替えられたとしても、過去に生成されたその意味が全て消去されてしまうわけではない。つまり、意味が「否定」されてもそれはきれいに反転するのではなく無造作に積み重ねられる。ここで、決してすっきりきれいに書き換えられないという事実が、何とも処理しづらいニュアンスというか感情というか空間というか、そのような余剰を生み出す。(恐らくこのような場所に、歴史とか固有性とかトラウマとか内面とかが生じる。)これを、貴重な「厚み」ととるのか、鬱陶しい「重さ」ととるのかはともかく、かさぶたのように積み重なるこの「すっきりしない感じ」は、時間のなかに生きている限り決して解消されないのだろう。
●ファイルにまとめるために、自分の過去の仕事を俯瞰するように眺めていると、どうしてもこんなことを思ってしまうのだった。

  書道用の筆を使った筆触が面白いのは...
04/10/13(水)
●ここのところずっと、集中的にドローイングを製作していて気づいた事だが、書道用の筆を使った筆触が面白いのは、それが「線」と「面」という概念上の対立を無意味なものにすることが出来るからだ。ある筆触が、方向性や運動を示し、輪郭を示す時にそれは「線」と呼ばれ、ある筆触が方向性や運動よりも、ある広がりを示し、輪郭よりもその内側の充実を示す時に、それは「面」と呼ばれるだろう。しかし、たっぷりと絵の具を含む筆によって描かれた「線」は、方向性や運動を強く示し、そして輪郭を示す時にさえ、同時に(それと同等の強さで)それ自体としての充実、それ自身の複雑なニュアンスをもつボディーを強く感じさせることが出来るのだ。筆触が、「線」としての機能を持ちながらも、同時にそれ自体としての表情や充実もそれを縮減することなく持つように描くことが出来る。そう考えて改めてマティスの晩年の墨を使ったドローイング(今やっているマティス展で観られるものとしては『ダリヤ、石榴、椰子』と『立っている裸婦、黒いシダ』)を観てみると、マティスのこれらのドローイングの面白さはまさに線がそれ自体として豊かなボディーをもつことによって可能になったものだと分かる。線がそれ自体として充実した中身をもつからこそ、(「美術手帖」で岡崎乾二郎が指摘するように)紙の残された白い部分が、背景(地)としての白でもなく、黒との対比で浮かび上がる色彩(トーン)としての白でも、紙という物質の白でもない、「空白」(認識から逃れ去るもの)としての白、「断層」としての白となるのだろう。このように考えて観直すと、マティスのドローイングがいかに形式的に過激なものであるかが理解出来る。ある一筆の筆触が、それ自体としてそのまま形態であり、それ自体として広がり(空間)をもち、それ自体としてトーンをもち、そして同時に輪郭を示す線でもあるのだ。このようなマティスの線は、ある運動性や所作(の痕跡)のみを示すサイ・トゥオンブリーなどの線とは全く異なるもので、それよりもずっと複雑で豊かな潜在的可能性をもつものであると言えるし、「書」などからの強い影響が明らかな作品をつくった作家(例えばフランツ・クラインやロバート・マザウェルなど)が、やろうとして結局出来なかった事がどんなことだったかということ(つまり彼らは、おそらく線が同時に豊かな内実をもつことの可能性に気づいていながらも、それを自分の作品として実現出来なかった、その技術をもてなかったのだと思う)も、それを実現しているマティスとの対比によって理解出来るだろう。
(あるいはポロックは、線それ自体に内実を与えるのではなく、表情の異なる線を複雑に交錯させることで、線(の交錯)によって広がりやトーンを生み出すことに成功したと言える。しかし、そこであまりに複雑に線が重ねられ、それによって「空白」があまりに細かく(霧のなかの水の粒子のように)微分化されてしまったことで、何かしらの「形象」を示すことが困難になり、まさに霧のような広がりと細かな振動しか示すことが出来なくなってしまう。余談だが、10/05の日記で言及した法月綸太郎の『カットアウト』で語られるポロックの『カットアウト』という作品は、形象を描くことが不可能になってしまったポロックが、破れかぶれ(あいはちょっとした思いつき)ともいえる強引な方法で形象を浮かび上がらせようとした試みの一つなのだが、しかしこの作品においては形象は単純な図と地の反転という構図にはまり込んでしまっていて、とても法月氏の書くような「人間のいない無機的世界の豊かさから、人間の形象を浮かび上がらせる」というような可能性を示す作品にはなっていないと思う。)

  東京国際フォーラムのジョアン・ジルベルト
04/10/06(水)
●東京国際フォーラムにジョアン・ジルベルトを聞きにいった。「神様」のありがたいライブをこんな風に聞くのは音楽好きからすれば許しがたいかもしれないけど、三分の一から三分の二くらい眠っているような状態で聞いていた。これは、演奏時間の三分の一くらいを眠っていたということではなく、三分の一眠っていて三分の二は覚醒したくらいの状態と、三分の二眠っていて三分の一覚醒しているくらいの状態の間を、行ったり来たりしながら聞いていたということだ。耳をすまして音に集中しようとすると、そのあまりの心地よさに眠りの方へと誘われて行き、しかしそれが、あるギターのフレーズや声の調子が鮮やかに頭のなかで浮かび上がることですうっと覚醒へと引きもどされる。そしてまた、そのフレーズや声の鮮やかな感触やその反復が、再び眠りへと誘う。この感じがゆったりと行ったり来たりする。だいたいぼくは音楽を集中して聞いていると、ある地点で眠ったような状態になってしまう。実際に眠ってしまうのではなく、眠りに入る直前のように、外界が軽く遮断され、断片的な映像や言葉が脈略なく(とは言ってもなにかしらの連続性をもって)頭に浮かんでは流れてゆき、しかしそれでも自分の置かれている状態や場所は把握しているし、外からの音もちゃんと聞こえている、というような状態になる。ジルベルトの演奏はまさに天国的な気持ちよさで、なにか抽象的な大きなものの前で身体が溶けて流れ、あるいは砂粒のように散ってゆくような感じだ。(乾いているのに液体的と言うのか。それはもしかすると、空調の切られたホールの、なんなとく籠って汗ばんだような空気と暑さとも関係があるのかもしれないが。)それにしても、自分が音楽にはいとも簡単に気持ちよくさせられてしまうことを多少は恥じつつも、まあ、これはこれでいいかとも思う。

  トチノミやイガグリが...
04/09/03(金)
●今年は、緑地に行くともう、トチノミやイガグリがずいぶんと落ちている。拾って来たクリのなかで割合大きめなやつをいくつか、鍋でぐつぐつ炊いて食べてみたら、ちゃんとクリの味がした。それにしても、クリの殻はどうやってもきれいに剥くことが出来ず、ミがポロポロと細かく崩れてしまって、売っている天津甘栗みたいに、パリッと割れてツルッとはいかないのだった。
04/09/05(日)
●500トンという巨大なクレーン車が動いているのを間近で見る機会があった。建物の電気関係の工事でトランスを吊り上げるために使われるそうだ。(トランスは1個50トンあるそうだ。)工場の煙突を連想させるような太いアームが空へと伸びていて、その重さで本体が前へと転倒してしまわないように、後ろ側にはバランスをとるための一個4トンあるという錘を左右に4個づつ計8個のせている。その上、蜘蛛の脚のように本体から伸びる腕(というか脚?)の先についた直径1メートル近い吸盤で地面に固定されてもいる。片側に8個、合わせて16個の車輪のついたえらくごついこのクレーン車には、ベンツのマークがついている。このとてつもない鉄の塊は、恐竜を思わせるような轟音をうならせ、ギシギシときしむ音もたてながら、ゆっくりと回転し、吊り下げたものをドラックの荷台から建物のなかへと移動させる。(アームや本体のごつさに比べ、ものを吊り下げているワイヤーは頼りなげなほど細く見える。その細さが、ぴんと張りつめたそのワイヤーの強度を感じさせもする。)
●この、ごつくてデカくて重いものによって与えられる魅惑と恐怖は何なのだろうか。このような、人間の身体サイズの延長では計れないような大きさ、そして何よりも「重さ」をはっきりと表象する外観をもち、うなる音を発する物体を目の当たりにすると、自分の身体が軽くて小さな物、まるで蟻か小蠅のように感じられ、そのような現実的な(身の丈にあった)スケール感の消失が感覚をまどろませ、自分のサイズを超えた対象物(クレーン車)のもつ巨大な力と自身の身体が短絡的に連続しているかのような(マッチョな)自己拡大幻想が生じ易くなるからだろうか。いや、しかし、このあまりに「重そう」な物体は、いくら身体のスケール感を摩滅させるとしても、身体との連続よりも断絶の方を強く感じさせるように思える。(実際にこの「物体」を操作する人は、この断絶の感覚をどのように調整し、処理しているのだろうか。)例えば、踏切を通り抜けて行く列車を見送る時にはいつも、その列車によってバラバラに切り刻まれる自分の身体のイメージが、つまり死の予感のようなものが、きわめてうっすらとではあるが鼻の奥や奥歯のあたりに漂うのを感じてしまうのだけど、このごつい「物体」は、ぼくの身体などあまりに容易に潰してしまいそうな「重さ」をもつものなので、返って死を感じさせるようなリアリティは希薄だと言える。その希薄さこそが、身体的なものの延長では掴み切れないという断絶の感覚であり、それが自分の身体の外にあり、それを軽く超えた大きくて強いシステムの「存在」というものの、視覚的な表現となってあらわれているのだろうか。
04/09/09(木)
●季節の変りめによる体調の変化は、「季節の変わりめ」という言葉が普通に使われていることからも意識化しやすいけど、例えば、台風が近づいた気圧の変化による体調の変化などは、なかなか意識化(言語化)しずらく、体調の変化というより、なんとなくの「気分のムラ」のようなものとしてしか意識されなかったりもする。たんなる「気分のムラ」のようなものも、それこそただ「気分」だけの問題ではなく、客観的と言うのか、外的、物理的な原因があることが案外多いのだと思う。だから、徴候としての「気分のムラ」をなめてはいけないのだが、結果としての「気分のムラ」からだけでは、その原因を探ることは難しい。
04/09/10(金)
●くるみの実がたくさん落ちている。くるみの実は、あの堅い殻の外側に、さらに、梨の皮のようなツブツブのある、青い色をした、しっかりした皮が厚く覆っている。Yさんの話によると、この実を泥のなかに埋めておいたり、水に浸けておいたりして、まわりのしっかりした皮を腐らせて、中の堅い殻の部分を取り出すのだそうだ。(そうでもしなければ取り出せないくらい、まわりの皮はしっかりと厚い。)図書館の裏の坂道には、今年も彼岸花が無精髭のようにびっしり生えて、毒々しい赤い花を咲かせている。(無精髭のようにびっしりと、という表現は適切でないかもしれない。ぼくの髭は堅くて濃く、一日でも剃るのを怠るとぶわっと生えてくるので、ついついこういう言い方をしてしまうのだが、一般的に考えれば、無精髭では、しょぼしょぼと生えているようなイメージになってしまうのかもしれない。)
04/09/13(月)
●親指と人差し指とでつくった円くらいの大きさの黄色い実が、緑地の遊歩道の真ん中あたりにぽつんと一つ落ちていた。まわりを見回しても、そのくらいの大きさの黄色の実をつけた木は見当たらないので、鳥がどこかから取って来て、ここで落としたのだろう。拾ってみると、破れかけた皮のなかから染み出してくる果肉はべとべとしていて、熟れすぎた柿のような匂いがした。色も柿に似ているのだけど、実の形は微妙に違うように見える。ふと気がついたのだが、今日は緑地のなかは静かで蝉の声が耳につかない。毎年、初めて蝉の声を聞いた時のことは憶えているのに、いつから聞かなくなったかは意識されない。(聞こえないのは今日に限ったことなのかもしれないし。)
04/09/20(月)
●近所の駐車場の端っこに、2、3日前に真っ白な花が咲いているのを見た(見ただけでなく、デジカメで写真も撮ったので間違いはないはず)のだが、今日そこを通ったら、花は濃いピンク色に変わっていた。
04/09/28(火)
●9月20日の日記に書いた、白い花が咲いていたはずがいつの間にかピンク色の花になっていた駐車場の脇の草(草と言っても人の背丈くらいある)は、今朝通りかかったら、白とピンクの両方の花をつけていた。近寄って見ると、白い花は咲いたばかりという感じで瑞々しく、ピンクの花はそれに比べればややくたびれているので、おそらく白い花として咲いて、徐々にピンク色へと変化してゆくのだろう。緑地を歩いて抜けて、ふと足下を見ると、ズボンの裾に小さな緑の草の種がいっぱいくっついていて、これが手で払ってもなかなか取れないのだった。昨日、電車に乗ったら、乗客たちの着ているものが、数日前とはがらっと変わって、すっかり「重たい」感じになっていて、半袖のシャツ1枚だった自分が場違いなように思えた。いつまでもしつこく粘って名残り、薄らと続いていた夏も完全に終わったのだと思った。
04/10/09(土)
●台風のおかげで画材を買いにゆくことが出来ず、制作をつづけられないので、ふてくされて昼間からだらだらとアルコールを摂取して、そのまま眠り、なんとなく目が覚めて点けたテレビ番組で見た、ピタゴラスの定理など自分の人生には全く関係ないことだと言い切る叶恭子(叶姉妹)が描いたトンボの絵の上手さに感動した。ここで上手いというのは決して技術的なことではなくて、物を具体的にちゃんと見ているということだ。この番組は、芸能人に抜き打ちでテストを行い、その成績によって順位をつけることと、その答えのボケ具合によってキャラを立てること(集団のなかでの役割的位置づけをすること)という、二重の「象徴化」を行う過程をバラエティ番組として見せるというようなもので、これを観ていると、人間が対人関係をつくる時にこんなにも「象徴的なもの」の媒介を必要とするのかと、重く、うんざりと、憂鬱な気持ちにさせられるのだけど(最近のテレビのバラエティ番組は、ひたすら「対人関係のモデル」をつくることのみに奉仕しているようにみえる)、叶恭子の描いた「トンボの絵」は、そんな重苦しさを吹き飛ばしてくれるようなものだった。(補足説明。このトンボの絵は、理科のテストの回答として描かれた。「ピタゴラス...」発言は、数学のテストで回答出来なかったことに対する言葉として言われた。)数学など実生活では役に立たないなどという下らないことを言うつもりは全くないが、それでも、「テストに出るピタゴラスの定理」などに何の意味もないことははっきりしている。それが意味をもつのは、閉ざされた仲間うちのなかでの象徴化(他の人との差異化)を行う時の徴として機能するからだ。しかし、そんな象徴的位置づけ(キャラ立ち)など「人生とは何の関係もない」ことだということを、叶恭子の描くトンポの絵の描写の素晴らしさははっきりと示していた。この番組に出ている芸能人たちが、象徴的な位置づけのなかでの「おいしい位置」を得ることのみに一生懸命なさもしい姿(勿論、これにも場によって強いられた必然性と切実さがあり、それを一方的に非難することは出来ない)にしか見えないのに対し、実際に物に触れている、あるいは物に触れる時に生じる「感覚的実質」を(人生の)問題としている叶恭子の「トンボの絵」は、超然と輝いていた。
多くの場合、間違った回答の「間違い方」にこそ、その人が世界と触れ合っている独自の感触のようなものが現れていて興味深いのだが(この番組に面白いところがあるとしたら、成績によってはっきりと順位がつけられるので「狙ったボケ」が少ない点だろう)、番組はそれを即座に「キャラ立て」へと回収してしまう。この回収の働きが、なによりも不快なのだった。(このようなバラエティ番組が人々に「教育」しているのは、何よりもこのような速やかな回収の技法なのだと思う。)
04/10/14(木)
●人気のない夜中の道を自転車ではしっていると、道の両側から湧き出す虫の声で耳のなかが膨れあがる。その音は、ぼくの身体の外で鳴っているのか、耳のなかで鳴っているのか、それとも頭のなかから湧き出ているのか、よくわからなくなる。冷たい風が吹いて起こる葉擦れの音と、自転車のチェーンが金具にぶつかるカチカチいう音とが、そられが「外」で起きている音だという感覚を繋ぎとめ、頭の内側と外側との区別が虫の声に浸されて溶け出してしまうのを抑えている。今夜はずいぶんと冷え込んでいて、身がきゅっと縮こまるような感じだ。(声にならない声を発しつつ身を震わせて縮こまることで、内側から熱を発し、外の寒さに対抗しようとしている。)こういう状況のなかにいると、つい一ヶ月前までのじっとりと湿った夜の蒸し暑さの感覚を、身体はなかなか思い出せない。
04/10/15(金)
●ホームに立って電車を待ちながら本を読んでいて、ふと目を上げた時に見えた正面の高いビルの屋上から、ロープを垂らし、窓拭きの作業員が、するっ、するっと降りてくるのが見えた。かなり距離があるのだが、作業員が腰のところに、ペンキの缶くらいの大きさの缶を下げているのが見えて、その金属の缶が夕方の傾いた日の光を反射してギラッと光った。あっ、光ったと思った瞬間に、ホームに電車が滑り込んできて、視界が遮られてしまう。開いた電車のドアから、不自然なほど肘を張った姿勢で歩く中年女性が降りて来て、その肘がぼくの脇腹に当たった。
04/10/16(土)
●厚い雲が空に乗っかり、冷たい空気が吹き抜ける。三方を高い建物に囲まれた芝生の広場には、十数本の桂の木が立っている。背の高さも幹の太さも枝振りも皆似たようなものなので、樹齢もかわらないのだろうと思う。しかし、日当たりも、気温や湿度も、土壌もほぼ同じ条件であるはずのそれらの木々の、葉の色づき具合はそれぞれバラバラなのだった。そのハート形の葉のほとんどがまだ黄緑のままで、部分的にほんの一部が黄色っぽくなっているだけという木もあれば、一部に黄色い葉を残して、ほとんど全体がオレンジ色に染まっている木もある。(桂の葉が紅葉したオレンジ色は、マーク・ロスコのオレンジみたいな色だ。)同じ種類の木が、ほとんど同じ条件で生えているのに、こんなにも個体差があるものなのだなあと、毎年この時期になると、同じことに驚くのだった。


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