クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』
イーストウッド『真夜中のサバナ』/ジュード・ロウの母親のクローズアップ
DVDでイーストウッド『目撃』を観直す
押井守『アヴァロン』とクリント・イーストウッド『トゥルー・クライム』
イーストウッド『ブラッド・ワーク』をDVDで観直してみて思ったのは...
大塚英志『「おたく」の精神史』/新人類とフェミニズム
綿矢りさ『蹴りたい背中』について
「降りる自由」
現代美術/観客/評価
人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の松浦寿夫
人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の岡崎乾二郎
人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の吉川陽一郎
ギャラリーKで、杉浦大和・展
作品という振る舞い/樫村晴香による大島弓子
ジョージ・キューカーの『若草物語』(1933)
展覧会一日目。ずっと画廊にいて...
クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』
04/02/25(水)
●新宿ピカデリー4で、ようやく『ミスティック・リバー』を観て、打ちひしがれて帰って来た。この映画が示していることはごく単純なことで、難しそうなことを言い募る意味はほとんど無いように思う。それを一言で言うと、いろんな人がいて、そこで決定的な出来事が起きてしまう、ということになる。この映画はまるで現実のように決定的で、観客に許されていることはただそれをひたすら「受け取る」ということだけだろう。登場人物の誰かや、あるいは作家としてのイーストウッドにさえ、感情移入することは許されていない。だから泣くことすら出来ない。ただ、それが現実のように決定的であるということに圧倒される。例えば、冒頭近くで3人の子供たちが、まだ乾いていないコンクリートに自分の名前を書き込んでしまうという行為が、イーストウッド的な主題、つまり決して癒すことの出来ない(後戻り出来ない)根元的な傷が刻まれてしまうこと示している、と読むことは全く正しいと思うが、しかしそのようにして正しいことを指摘することが、この映画の凄さについて何かを言ったことになるのだろうか。イーストウッド的な「傷」とは、確かに痛みではあるが、それと同時にマゾヒスティックな喜びにも通じるものであるはずなのだが、この映画は、あるいはこの映画を観ることは、ひたすらに重たいのであってどのような喜びも救いもないように思える。それはたんに決定的であるのだ。この映画の登場人物たちは誰もが、一度起こってしまったことは決して元へは戻らない事の重みを知っており、そしてその事の重さがまた、さらなる取り返しのつかない出来事へと繋がってしまうのだ。3人の子供のうち、誰が連れていかれてもよかったのだが、たまたまそのうちの一人が連れていかれてしまった。それはたんなる偶然であり、偶然であるからこそ決定的なことである。いや、そのような物語(他でもあり得たが現にそうだった)さえ、この映画では大して重要ではないように思える。(この映画の物語は、ミステリとしてはありふれていると言えるだろう。)この映画では、ある特定の事柄を取り出してその関連を指摘することによって、全体の見通しが良くなるといったことはないのではないかと思う。例えば、正当な手続きを経ずに勝手に捜査し、独断的な正義で人を裁くショーン・ペンの姿に、現在のアメリカを重ね合わせることも可能ではあるだろうが、しかしそれが実際に画面に現れている、迷い逡巡するショーン・ペンの姿と本当に関係があることなのだろうか。この映画では、様々な事柄が皆等しく重要であり、そしてそれら全てが緊密に絡み合うことで、事態はそうなる以外にないという風に展開していってしまう。つまりそのような時、あらゆる物事が、実際に示されている「それ」以外のものに交換することが不可能であるような(偶然であると同時に)決定的な「それ」として現れているということではないだろうか。(こういう言い方は全くずるいのであって、ほとんど何も言っていないのに等しいのだけど。)そして、そのような時に現れるのが、これも言葉にすると良く言われることに過ぎないのだが、「厚み」ゃ「陰影」と言うしかないような、決して俯瞰した一点からの視線では捉えられない、世界の実在についての不透明な感触なのだと思う。
●この映画は、ほとんど人智を越えたところで起こってしまう出来事のどうしようもなさによって恐ろしいのだと思うけど、ただ一点、人為的な、人間的な恐ろしさを感じる場面があった。それは、ショーン・ペンの奥さんであるローラ・リニーの怖さだ。彼女は夫が友人を殺そうとしているのを知っていて止めなかっただけでなく、誤った判断で友人を殺したことを悔やむ夫に、あなたの判断は正しい、子供たちを守るためにも私たちは強くなければならないのだ、と(ベッドに押し倒しながら)言いくるめて説得してしまう。(この女、マジで怖い。)常に迷いと共にあるショーン・ペンの弱さに比べ、圧倒的に強いようにみえるこのローラ・リニーの確信に、一体どのように対処すればよいというのだろうか。
04/02/26(木)
●『ミスティック・リバー』(ネタバレあり)では、決定的な事件、つまり少年に加えられた暴力そのものは示されない。しかしその事に重要な意味があるとは思えない。それはたんにトラウマ(傷)は決して積極的には表象されえないという事実を反映しているに過ぎない。つまりそのシーンをどんなに上手く撮ったとしてもウソ臭くしかならない。だから映画としては、生乾きのコンクリートに刻まれた名前と、下水へと至る排水口に落ちてしまったホッケーのポールによってそれを示すしかない。それは極めて洗練された高度な表現である。だが、結局は比喩でしかないとも言える。コンクリートに刻まれた文字と排水口は、ただ「傷」のある場所を指し示しているに過ぎない。
●傷が積極的には表象されないということは、それが事後的(遡行的)に見出されるしかないということだろう。この映画では事件は、事が終わってしまった後に、既にそれが起こってしまったというどうしようもなさとともに示される。例えばショーン・ペンは、とてもカンの良い人物として描かれている。彼は喋ることの出来ない少年の「気味の悪さ」を見抜いているし、娘が「遠くへ行って二度と会えないような目」をしていたことも見逃していない。しかしそのカンの正しさは、それが発揮されている時点では、観客にとってもショーン・ペン自身にとっても意識されない。少年への発言は、彼が差別的な傾向を持った人物であることを示す描写としかとれないし、娘の「目」についても、娘を殺された直後の父親の感情的な言葉としか思えない。事後的にみれば彼のカンは決定的に正しいのだが、その正しさが発揮されてい「その時」にはやり過ごされるしかなく、もう事が済んでしまった後にはじめて理解される。だから彼のカン=予感の鋭さは、未来に対しては何の役にも立っていない。そして、彼が自らのカンと判断を信じて行った唯一の行為において、彼は決定的に間違ってしまうのだ。あらゆる事柄が、それが終わってしまった後ではじめてその意味が知らされる。その時、人間の意志による行動が事態を好転させるという希望が塗りつぶされてしまう。しかしこれは「運命」などではないと思う。互いに見通すことの出来ない不透明な存在である複数の人物の重なり合いが、偶然にも出来事を発生させてしまうのだ。人間の行為が「傷」に規定されてしまっているのではなくて、偶然にも起こってしまった出来事が、人を「傷」のあった場所へと引きずり戻してしまうのだと思う。
●ショーン・ペンに問いつめられたティム・ロビンスは、やってもいない娘殺しの動機について語り出す。バーで踊る彼女を観ていたら、自分にはあり得なかった青春がそこにあると感じ、青春の夢があらわれ、その夢のなかで彼女を殺した、と。彼が実際に殺してしまったのはショーン・ペンの娘ではなく別の男なのだが、しかしここで彼が語っていることは決してその場逃れのウソではないだろう。彼が彼女を殺さなかった(=別の男を殺した)のはたんに偶然であり、それは、他の二人ではなく彼が連れ去られて暴行されてしまったのが、たんに偶然でしかないのと同じことだろう。彼が殺したかったのは、実際には無かったのだがあり得たかもしれないものという可能性によって彼に取り憑いて離れない「青春の夢」という幽霊であろう。そしてその幽霊をその夜彼に見せてしまったのは、バーで幸せそうにしているショーン・ペンの娘の姿なのだった。だから、ティム・ロビンスを規定し、縛り付けてしまっているものは、「傷」そのものではなく、傷の存在によって常に意識化されてしまう、あり得たかも知れないもの=失われてしまった可能性という幽霊なのだとは言えないだろうか。
●俯瞰と仰角という一対は、水平方向での構図、逆構図の切り返しのようには対称的なものではない。俯瞰のショットにはどうしてもある程度の超越性が混じり込む。この映画は他のイーストウッドの作品と同様に印象的な俯瞰ショットによってはじまる。しかし、どちらかというとこの映画では、俯瞰のショットは充分に俯瞰的な機能を果たさない傾向にある。血だらけの車を通報する音声とともに示されるヘリコプターショットは、最後には酔ってしまうほどにくるくると回転して安定した視座を崩してしまうし、ケビン・ベーコンが橋の上から生まれ育った街を見下ろすショットでは、ゴチャゴチャと建物が建て込んでいて「よく見えない(見渡せない)」感じが強調されるし、夫に不信を覚えるマーシャ・ゲイ・ハーデンが、息子と野球するティム・ロビンスを窓から見下ろすショットは、俯瞰というよりもティム・ロビンスを窓枠というフレームに押し込めるという感じが強い。それに対して、この映画ではちょっと鼻につくくらいに仰角のショットが多用されている印象がある。それはこの映画が、複雑なダイヤグラムのように入り組む視線の存在する場所があり、この個々の視線が、それをダイヤグラムのように一望することが決して出来ないことによって起こってしまう出来事を描いていることと関係するだろう。そしてこの映画はそれを、基本的に切り返しによって、つまり二者の関係を単位として描いているように感じた。それを見事に要約しているのが、ラストのパレードのシーンだろう。マーシャ・ゲイ・ハーデンと、ケビン・ベーコン夫婦の交わらない一方的な視線の切り返し(マーシャ・ゲイ・ハーデンはケビン・ベーコンたちを見るが、二人は彼女を見ない)、道路を挟んでのケビン・ベーコン夫婦とショーン・ペン夫婦の切り返し(ケビン・ベーコンがショーン・ペンに向かって親愛を示すかのように指で銃を撃つ真似をするが、ショーン・ペンはそれをはねつけるようにサングラスをかけている)、そして、パレードの列に息子を発見してその名前を叫ぶマーシャ・ゲイ・ハーデンと、その声が届かずにうつろな視線を誰もいない前方に向けている少年との切り返し。この複数の切り返しの交錯が行われる場所は、3人の名前が刻みつけられている場所なのだった。
●運命と言ってしまうとあたかも事前に全てが決定されていたかのように聞こえてしまうので、その言葉は避けたいのだが、起こってしまったことが「起こってしまった」ことの不可逆性において決定的であり、人はそれを「起こってしまった後」に事後的にしか知ることが出来ないという意味で「どうすることも出来ない」と言える出来事の連鎖によって成立しているこの映画において、唯一、理性によって抵抗することが可能であり、またそれをしなければならないと言える点は、(昨日も書いたのだが)ローラ・リニーが、複雑に絡み合う出来事の連鎖を「愛」の物語として回収した上で、それを肯定してしまおうとする身振りだろうと思う。それが行われていた時点では、先を見通せるわけではない一人一人の判断や行為の重なりとして起こった出来事が、事後的な単一の視点から物語りとして回収され、そこでどうしようもなく起こってしまった殺人が、娘たちへの愛の物語として肯定されるばかりか、私たちは強くなければならないというイデオロギーまで生み出してしまう。この映画のなかであきらかに他とは異なるこのシーンの恐ろしさは、この恐ろしさを示すことにこそ、イーストウッドの狙いがあったのではないかなどと勘ぐってしまうくらいだ。イーストウッド『真夜中のサバナ』/ジュード・ロウの母親のクローズアップ
04/01/20(火)
●まだしばらく『ミスティック・リバー』を観に行くことは出来なさそうなので、かわりにと言ってはなんだけど、『真夜中のサバナ』のDVDを借りてきて観直してみた。堪能するという言葉は、こういう映画について言うためにあるのだと思う。タッチと言う言い方でしか言えないのだけど、この映画に一貫して持続しつづけている緊張の「張り方」には何とも言えないものがある。誰かが(誰だっけ?)、この映画について「睡眠と覚醒の間」にあるような映画だと言っていたと思うのだけど、この映画の緊張感はまさにそのどちらにも偏ってしまわない絶妙のバランス感覚によって支えられているように思う。(具体的に、何処がどう良いのかということがなかなか言えなくて、様々なことがらの危ういバランスの上ではじめて成り立つような感触と言うのか。言い換えれば「決め」というものがなく、「決め」に頼る必要がない。)コントラストが強くて、影の部分の黒が深く、明るい部分の色彩(特に赤と緑)がぎらついて見える程に発色している画面が、事物をクリアーに捉えながらも、どこか夢のような平板さを生み、見えるべきものが見えていないのではないかという息苦しいもどかしさを濃厚に発している。印象として、人々のざわめく声が、近くなったり遠くなったり、高くなったり低くなったりしながら、しかし決して前面に出ることなく、しかし消えることもなく、まるで地響きのような調子でざわざわとざわめきつづけているような感触が、2時間半もの時間ずっと持続しているような映画だ。あと、今回観直してはじめて気づいたのだけど、裁判でケビン・スペイシーの無罪が決まった瞬間の描写で、ほんの短い時間だけど、恐らく殺されたジュード・ロウの母親だと思われる人物の悲嘆する表情のクローズアップが挿入されていた。いや、ほんの一瞬だけクローズアップで示されるこの女性は、この映画でここにしか出ていない(もしかすると裁判のシーンで画面の隅とかに映っていたかもしれないけど)のだから、この女性がジュード・ロウの母親だとは言い切きる根拠はどこにもない。でも、このシーンで悲嘆する表情がわざわざアップで示されなければならないとしたら、殺された人物の母親(恋人にしては年齢が違い過ぎる)としか考えられない。しかし、ここまで一度も登場しなかっただけでなく、その存在に触れられることすらなかった被害者の母親の顔を、無罪の判決が決まった瞬間に、ほんの一瞬だけ挿入するイーストウッドの演出は、ちょっと律儀に過ぎるのじゃないかと思えるほどに「フェア」なものと言えて、物語的にも、映画としての効果としても、ほとんど意味のないと言えるショットをわざわざ挿入するこのフェアなバランス感覚こそが、イーストウッドの演出に厚みを与えているのかもしれないと思った。DVDでイーストウッド『目撃』を観直す
04/02/01(日)
●今日こそは『ミスティック・リバー』を観に行こうと思っていたのだが、疲れが溜まっていて寝てしまっていた。それで、夜、DVDで『目撃』を観直すことになる。イーストウッドの映画を、イーストウッドという俳優の身体の(あるいは固有名の)特権性や、子供っぽさによって賞賛するのは、少なくとも90年代以降の作品については、かなり無理があるのではないかと思う。イーストウッドの映画の説得力を支えるのは、あくまで長い時間をかけて磨き上げられたものであって、つまり俳優として40年以上もカメラの前に立ちつづけ、監督としても30年以上コンスタントに作品をつくりつづけるなかで生まれてきたものであって、決して「決め」として使用されるイーストウッド自身の特権性ではないように思える。確かにイーストウッドの映画には、痕跡として刻みつけられた傷が運命として作動し、そこから遠ざかるための幾多の努力にも関わらず、その傷が不可避的にある暴力を召還してしまうというような、執拗に繰り返される「主題」があり、そのような主題がイーストウッドという身体の固有性と結びつく時、人は「ああ、これこそがイーストウッド」だと納得するしかないという事態が訪れる。しかし、このような「主題」に説得力を持たせているのは、イーストウッドに刻みつけられた「映画」という運命などではなく、コンスタントな仕事の長い持続によって磨かれた、具体的な演出上の配慮やバランスなのではないだろうか。『目撃』でも、朝鮮戦争以外では人を傷つけたことがないという、暴力を嫌う優雅で誇り高い宝石泥棒であるイーストウッドが、彼の唯一のウイークポイントである「娘」を攻撃された時には、きっぱりと「許さない」という言葉を発して人を殺すことになる、というイーストウッドならではの「主題」の反復がみられる。あるいは、娘に呼び出され、多くの警官や暗殺者たちが狙っているなか、イーストウッドが白に近い明るいグレーのコートに木漏れ日を受けながら堂々と正面からあらわれるという、イーストウッド好きにとってはまさに「決め」となるようなシーンも用意されている。しかし、この映画の説得力は、そのような「主題」や「決め」(あるいは「荒唐無稽」や「ヘモグロビン」)にあると言うよりも、例えば、2人の大統領警護官と大統領補佐官との間に生じている軋轢を、決して大袈裟にならない言葉少なな演出で的確に描き出すところや、大統領警護官とエド・ハリスが演じる事件を捜査する警察官との間に流れる同じ(「現場」で働く者として)警察官としての共感と、それと同時に存在する立場の違いによる断絶とを、同時に、ごく短いシーンによって浮かび上がらせたりするところなどの冴えた描写の積み重ねが生み出す「厚み」にこそあると思う。(黒沢清の嫌いな「人間ドラマ(?)」にこそある。)この映画では、物語上では重要な役割など全くもたされていない人物、例えばエド・ハリスと共に捜査をする女性警察官などにも、主役と同等とも思える厚みが与えられているように見える。このような点にこそ、イーストウッドの映画の説得力があり、貴重さがあるのではないだろうか。押井守『アヴァロン』とクリント・イーストウッド『トゥルー・クライム』
04/02/28(土)
●DVDで、押井守『アヴァロン』とクリント・イーストウッド『トゥルー・クライム』を観た。『アヴァロン』は以前に途中まで観て、つまらないので観るのをやめてしまったのだけど、今回は必要があったので最後まで観た。観ながらずっと、これが実写で撮られなければならない理由がどこにあるのだろうと考えていたのだが、ゲームが「レベル・リアル」というステージにはいったところで、ああ、そういうことか、と理解した。この映画で、ヴァーチャルなゲームの世界と、いわゆる近未来の「現実」の世界が対比される時、現実世界の「現実感」を表現するものが、冷たそうな床に触れる素足だとか、皺だらけの紙幣のみっしりした質感だとか、風に舞う新聞紙や空き缶だとかいう、いかにも「現実ですよ」という記号でしかなく、このような記号を重ねれば重ねる程「ウソっぽい」感じにしかならないのだけど、それは最後にレベル・リアルの世界があるために意図的にそのようにしていたわけだ。(主人公アッシュがゲームにアクセスする館から出てくる時、必ず同じ場所で空き缶の倒れる音がする、とか、いかにもリアルっぽく演出された野菜や肉のウソっぽさ、とか。)しかしそれにしては、最後に出てくるレベル・リアルの世界の描写があまりにも貧弱で、しかもそこでの撃ち合いを盛り上げるためにオーケストラを登場させたりするようなベタな演出で、いくらなんでもこれはないんじゃないかと思った。勿論、この映画では3つの世界(3つのフレーム)のどれかが特権化されている訳ではなく、薄っぺらな3つの世界=フレームが同等なものとしてあり、現実(世界の基底)は、それぞれは薄っぺらで閉じられた3つのフレームが同時に存在し、そこを「私」が行き来することが出来るという事実によってのみ確認される。フレーム内部に現実はなく、フレームを移動出来るという事実がフレームの外部としての現実の存在(世界の存在)を保証するのみだ、と。(現実世界でアッシュの飼っていた犬は、レベル・リアルの世界ではポスターの図像となってあらわれる、とか。)しかしここで疑問なのは、このような世界においてはそれぞれのフレーム=世界は相対化されても、そこを移動する「私」の存在は全く無傷のまま保存されている、ということだ。つまりこのようなフレーム=世界の相対化は「私」を絶対化してしまうのではないだろうか。このような意味で『アヴァロン』の世界の基本的な構図は、『うる星やつら・ビューティフルドリーマー』と全くかわらないと言える。
『トゥルー・クライム』が素晴らしいのは、ひとつの物事の様々な局面を丁寧に検証し、描出しているという点にこそあるのではないか。ここでは世界=フレームはひとつであり、しかしそこに関わる人物の数だけ様々な局面が(互いに断絶しつつ)重なり合っている。そしてその、互いに断絶している複数の層を繋ぐためには、誰がかそれを丁寧に読み解かなくてはならない。ここではイーストウッドの演じる新聞記者が媒介者としての「読み解く人」の役割を担うのだが、当然その読み解く人自身も、その状況の内部に巻き込まれた、他の読み解かれる人たちと同等の存在である一人にすぎない。つけ加えるならば、この映画は死刑が執行されるまでの複雑な「段取り」を示している映画でもある。ぼくは基本的に死刑制度には反対だが、すくなくともこのような面倒な「段取り」が踏まれ、それが外部に対してもきちんと示されるという前提があるからこそ、この映画のような物語が可能になる。段取りは決して万能ではないだろうが、現実世界においては非常に重要であるのだ。イーストウッド『ブラッド・ワーク』をDVDで観直してみて思ったのは...
04/03/04(木)
●『ブラッド・ワーク』をDVDで観直してみて思ったのは、この映画ではイーストウッドが自らの身体をあからさまに主題化しているのじゃないだろうかということだった。そしてこの映画でのイーストウッドは、一匹狼ではもはやあり得ず、複数の女性たちに守られることによって、ようやくイーストウッドたり得ているような存在なのだった。被害者の姉とはラブラブになり、元同僚だった女性刑事とは仕事上の強い信頼関係で結ばれ、女医からはいたぶられてマゾヒスティックな喜びを感じるイーストウッドの女性関係は、一見派手なようにも見えるが、しかし、妻や浮気相手から見放されても独力で真相を解明する『トゥルー・クライム』の彼とも、ストーカーのごとくつきまとってまで娘を庇護しようとする『目撃』の彼とも違って、『ブラッド・ワーク』ではこれらの女性たちに守られ励まされることによって何とかクリント・イーストウッドという役割を演じることが出来ているというように見えた。(彼の心臓は殺された女性からもらったものでもあるし。)しばしば胸に手をあてて苦しそうな表情を浮かべ、微熱に悩まされ、薬に依存し、時には地面に座り込んでしまうイーストウッドの姿には、彼が、自分の身体が痛めつけられるところや、痛めつけられて傷ついた自分の身体をスクリーンに晒すことを一貫して好んできたという事実とは、滑らかには繋がらない何かがあるのではないだろうか。『トゥルー・クライム』では、多少無理があるように見えなくもないが、それでもあくまで背筋をぴっと伸ばして立っていた大男は、『ブラッド・ワーク』ではあっさりと地面に座り込んでしまうし、『目撃』では冗談として使われた「心臓のペースメーカー」が、この映画では冗談にはならない。(冒頭の犯人追跡のシーンの「走り」には、あきらかに代役が使われているように見えるし。)これを老いという不可逆的な崩壊だと言葉で言ってしまえば簡単なのだけど、この映画には、もはやイーストウッドがイーストウッドとしてあるだけでは映画は支えられなくなっているという事実が刻み込まれているのではないだろうか。しかし、にも関わらずこの映画にはどこか楽天的な調子が感じられる。イーストウッドはこのような事実をむしろ楽しんでさえいるような気配をぼくは感じてしまった。何人もの女性に庇護され、あるいは持ちつ持たれつの関係で生きてゆくのなら、老いることも悪くない、という感じ。そして、ある決定的な「傷」を、必ずしもイーストウッドという特権的な身体が一人で引き受ける必要はない(あるいは、それは出来ない)という認識が、『ミスティック・リバー』のような決定的な作品を導き出すことになったのではないだろうか、とも感じられた。大塚英志『「おたく」の精神史』/新人類とフェミニズム
04/02/29(日)
●大塚英志『「おたく」の精神史』をざっと読んだ。「おたく」はおたくときわめて近い(ほとんど同一の)傾向をもつ「新人類」によって否定的なものとして名づけられた。(中森明夫『おたくの研究』)新人類は自らと同質の文化的背景や消費傾向をもちながら、他者(特に異性)に対する意識を欠いているようにみえる「おたく」に対して、きわめて近いからこそ何としても明確に線をひかなければならなかった。(ここで強く働いている磁力は「性的なもの」なのだ。)この点についてぼくは以前「おたくとオシャレ」(新人類は皆オシャレだった)という言い方で同じようなことを書いた。新人類がおたくとの差異を際だたせるために用いたのは、彼らが消費するモノや記号に対する「感性」のようなものだった。しかし実は、新人類が消費した「感性」とは、彼らより上の世代である全共闘勝ち組によって用意されたものでしかなく、彼らはたんにそれを従順に受け入れただけだ。(全共闘勝ち組が用意したのは、消費による平等という左翼的価値観だった。)対しておたくは、自らが消費する商品を自分自身の手でつくり、さらにその市場さえも自前でつくることが出来た。よって、全共闘勝ち組による左翼的価値観=消費による平等化という運動がバブルの崩壊とともに崩れると同時に、新人類は意味を失い、しかしその後もおたくは生き残る。このように記述する大塚氏の主張は(ごく狭い範囲での新人類/おたくの覇権争いとしては)、ぼくにはほぼ妥当なものだと思える。しかしこの本で大塚氏が書いているのは、おたくの側の勝利宣言などではなく、新人類(ニューアカ的なもの)を批判した上で、さらに、(新人類までも含めた)おたく的な創作物のもつ限界をも見定める、ということのように思う。(「おたく」はどの程度までしか有効ではないか、ということ。)この本において大塚氏は、最終的には、おたくと新人類の両方に対して批判的な立場に立っていると読めるが、新人類に対してより強く苛立っているということだろうと思う。そして、新人類に対する強い苛立ちの理由は、第2部の「少女フェミニズムの隘路」を読むとよく理解できるように思う。
●この本で最も興味深かったのも、第2部の「少女フェミニズムの隘路」だった。ここに書かれていることは、80年代と10代がほぼ重なるぼくには実感としてとてもよく理解出来るように思えた。大塚氏は、80年代にあった男女のディスコミニュケーションの有り様を、一見知的で軽やかにみえる新人類的な言説に隠された、素朴なまでの男性原理を糾弾しつつ描き出している。当時流行していた新人類的アイドル批評のようなものに大塚氏が強く苛立つのは、そこにある「性的なもの」の隠蔽が、きわめて無自覚なマッチョさによって支えられており、そのことが一方的に「語られる存在」としてあった女性アイドルたちに対して強い抑圧として作用してしまっていて、そのことにもまた、彼らが全く無自覚であるという点だろう。大塚氏は書く。《新人類トリオ(中森明夫・田口賢治・野々村文宏)は屈託なくシュミレーションとしてのアイドルを賛美する。世界が仮想現実化、情報化してゆくと見なされたとき、その変容する世界との整合性こそがアイドルに屈託なく求められる。だが問題なのは冒頭で触れたように、そういった視線あるいは抑圧が八〇年代半ばの時点ではもっぱら男の側から女性に向けてのみ発信されていることだ。》《アイドルをみて「オナニーする」ファンを否定しながら、男女の支配関係や、女性にのみ一方的に性的潔癖さを求める彼らの女性観は放置され、その上にニューアカが動員されたアイドル論が築かれている。》(マジで80年代って実感としてこういう感じがあった。ぼく自身やぼくの周辺も含めて。いや、この実感はあくまでごく狭い視野のなかでの話だけど。ぼくはまだ高校生だったわけだし。)あるいは、新人類たちの、アイドルの読み方が、表層的な側面ばかり強調して読みとろうとすることで、そこにあからさまに示されているはずの「生々しい側面」(大塚氏の言う「生身の身体」、この言い方はあまりに素朴だとは思うけど)を平気で踏みにじり、見ないことにしてしまうということについての苛立ちだろうと思う。そしてそこで「読まれる」側であった女性たちに、自己主張するための言葉がなかったということ。
男女間のディスコミュニケーションにおいて、多くの場合男性側がその点に全く無自覚であり、それによって歪みが一方的に女性の側にあらわれてしまうという80年代的な有り様を、痛ましく示している固有名の一つが「黒木香」と言えるだろう。高校卒業後に精神的に不安定な状態になり、家族によって自宅に5年間も軟禁状態にされていたという黒木氏は、23歳で大学に進学する。ぼくの記憶では確か彼女は美術史が専攻で、AVに出演したのはイタリア留学の資金にするため、とかではなかっただろうか。後に私生活上のパートナーにもなる村西とおるによって監督された『SMっぽいの好き』(86年)は、たった1本でAVの歴史を(具体的にはビデオ屋の棚を)塗り替えてしまうようなものになるのだが、それは(大塚氏の言葉を借りれば)、男性による性的な消費物であるはずのAVという場を、黒木氏が強引に、異様なまでに過剰な私語り=自己実現の場として読み替えてしまったからだと言える。しかし、このまさに病的な私語りは、その異様さ、あるいは気味の悪さをきちんと受け取られることなく、「笑い」として受け取られ、消費されてしまう。いいかえれば、ベタであるものをネタとして読み替えることによって、ベタであることの異様さや気味の悪さ(このような感触こそが彼女のメッセージだろう)から、誰もが目を背けてしまった、と。(新人類的な言葉は、目を背けるための洗練された口実を与えた、と。と言うか、新人類系の人たちこそが、ネタとしてこのビデオを、そして村西とおるを積極的に持ち上げたさえといえる。)ベタに「なんだこいつ気味が悪い」と言うことの禁止、「これは笑ってみるものなんだよ」というネタ的な読み方の強化、そしてその文脈に律儀に黒木氏が乗ってしまわざるを得ない状況(それに逆らう別の言葉の不在)などによって、自己実現の場であったはずのAV(その延長としてのテレビ出演)が、黒木氏を次第に息苦しい場所へと追い込んでいってしまう。一方的な読まれる存在から脱するための捨て身の自分語り=自己実現は、それを「ネタ」として読んで脱色してしまう男性(具体的な目の前にいるパートナーとしての村西とおる、そして消費者)の視線によって失調し、結果「黒木香」というキャラクターが返って強く自分を縛るものとなる。このような痛ましい事態の推移は、ぼくには極めて生々しく80年代的なものの問題点のように思える。つまりぼくの身近にもいくつか見られたことや、ぼくが当時抱いていた違和感などと関係しているように思えた。(繰り返すが、これはあまりに視野の狭い話でしかないのだが....。)
しかし、なにしろこれはもう20年も前の話で、現代的な問題はまた違った場所にあるのだろう。ただ、大塚氏の興味の中心(そして新人類への苛立ちの原因)の一つに、このような男女間の(非対称的)コミニュケーションの問題がかなり大きくあるのだなあと感じられたということと、80年代に10代を過ごした者として、この辺りの話に思わず反応してしまったということなのだった。
04/03/01(月)
●昨日、『「おたく」の精神史』を読んでいて改めて思い知らされたのだが、ぼくには、88年秋頃から89年春頃までに世の中で起こっていたことに関する記憶や印象が、ほとんどまともに残っていない。これにはあまり自慢出来ない個人的な事情がある。ぼくは3年も浪人生活を送っていて、88年から89年というのはその最後の年だった。(ぼくにとって80年代は、中学3年、高校3年、浪人3年、という風にきれいに3等分される。)今はどうか知らないけど、当時の美大受験生には3浪や4浪はごろごろいて、なかには10浪なんていう強者もいたりするくらいだから、3浪は決して特別なことではなかったのだが、それでもぼくの精神的な状態や親の経済的な状態からみて4年目はあり得なくて、だからこの時期は相当にせっぱ詰まっていた。実際に、ほぼ毎日朝から夜中ちかくまで予備校のアトリエに籠もって絵を描いていたのだから、外を見回すだけの余裕は、精神的にも時間的にもなかった。最終的に芸大の結果が出たのが89年3月半ば過ぎ(確か18日頃だった、結局落ちてしまったわけだが)で、それからしばらくは放心状態だった(実際には入学することになった造形大学の入学手続きや、下宿先探しや、引っ越しの準備などでバタバタしていたのだが、精神的には空白状態だった)ので、天皇の下血報道がなされ、昭和から平成に移行し、多くの人が皇居に記帳に訪れていた、88年秋から89年春の間、ほぼ日本にいなかったようなものだ。だからぼくは、この時期に日本を覆っていたであろう「空気」や、そこに現れたかもしれない「断絶」をほとんど無視して、無傷なまま通り過ぎてしまったと言える。ぼくの感覚では昭和と平成は滑らかに繋がってしまっていて、ある断絶を実感として感じるようになったのは92〜3年頃になってのことだった。この事実が、ぼくの現代の日本という場所についての感覚に、致命的な盲点をつくってしまっているのではないかという不安はいつもある。例えば、ぼくには『ロンリー・ハーツ・キラー』を全く理解出来ていないのではないか、とか。綿矢りさ『蹴りたい背中』について
04/02/21(土)
●綿矢りさ『蹴りたい背中』について。この小説が多少でも新鮮だと感じられるとしたら、次の2点のことがらと関係すると思う。
●1点め。この小説は基本的に、関係性によって発動するエロチックな感情の有り様を描いていると思う。(プライドの高さによってクラスから孤立し、そのような現状に不満を感じている主人公の女の子ハツは、同様に孤立しているにも関わらずそれに自足しているようにみえる男の子にな川に感情的な引っかかりを感じ関心をもつ。しかしにな川のハツへの関心はオリちゃんというモデルを媒介としたものでしかなく、ハツを通してオリちゃんを見ることしかしないにな川の前ではハツの存在は透明なものになってしまい、この事がハツのにな川に対する感情をより複雑なものとする。)しかし、にも関わらず、書き付けられる言葉の次元や、登場人物の内面の次元では、性的な感情が直接的に示されたり、あからさまにそれを連想させたりするような言葉が使われたりすることがほとんどない。これは、抑制によって生々しさを演出するといった技術とは少し異なるように感じられる。どうみても(紋切り型とさえ言える)エロな場面なのに、言葉の上ではエロの気配には全く触れられず、しゃあしゃぁとカマトトを通す。読者も登場人物も、性的な気配に気づかないはずはないのに、まるで言葉から(意識の表面から)性的なものへ至る回路が遮断されてしまっているかのように、言葉(内面)は性的なことがらに触れようとしない。(例えば、体操着に短パンのハツの膝頭に、にな川が絆創膏を貼るシーンなど。)このような「切断」の効果は以外と大きくて、これによって一見素朴で優等生的にも思える文章に、何ともいえない、染み出したような「薄汚れた」いやらしさと、軽く霧がかかっているような「不透明な感じ」を漂わせることに成功しているように思う。この小説は主人公ハツの一人称で書かれていて、その「内面」も素直に記述されているはずなのだが、このあからさまな「切断」によって、その素直な記述そのものが信用出来ないような(大袈裟に言えば、信用出来ない語り手によって記述された世界に投げ込まれたような)不透明さが小説全体を覆うことになる。(この不信は、はっきりと意識される程には強くならないことがポイントなのだが。)例えば、ハツが、にな川と絹代の3人でオリちゃんのライブを観に出掛けるシーンで、ハツは30分も遅刻してきた上に、ラガーシャツにビーチサンダルという突拍子もない恰好で現れる。何を着てゆくかで遅刻する程迷った上でこのような恰好してくるということは、にな川に対するある種のデモンストレーションという意図があるのは明らかなはずなのに、記述された「内面」では、普段は制服と体操着しか着ていないから、こういう時に着るものがない、などということになっている。これは「嘘」という程に明確で意識的なものではなく、この小説の記述は決して「核心」には触れずに、そこから切断されているということなのだと思う。そのことによる不透明感や軽い不信感が、肌着の薄染みのような汚れを言葉から浮き上がらせる。明らかに性的な機微によって成り立つ関係であるのに、決して性的なことには触れない言葉によって書かれるというのがこの小説の基本的なトーンであるとすると、ハツがにな川の部屋で、オリちゃんの顔と幼女のヌードを貼り合わせてつくった幼稚なアイコラを発見してしまうシーンは、誤魔化しようもなく性的な領域に踏み込んでしまっているという点で、小説のトーンを壊しかねない危険なシーンであり、だからこそまた、この小説を支えるカナメの一つでもあるようなシーンであろう。このシーンを、やや、性的な領域に踏み込みながらも、基本的にはカマトトに留まるという絶妙のさじ加減の言葉で描き出すことが出来たことが、この小説のポイントの一つではないだろうか。
●2点め。男の子(にな川)の興味の対象が、オタクとして分かりやすい、アニメのキャラや声優、アイドルなどではなく、モデルであるという点。しかも女性誌のモデルで27歳という微妙な年齢であること。ギョーカイに詳しくないので推測でしかないが、それまでずっと一線でやってきたとしても、27歳くらいになるとそろそろ、この先あとどれくらい一線でやれるのか分からないという感じになり、何かしらの転身(芸能人になる、とか)を迫られるのではないだろうか。この小説でオリちゃん(佐々木オリビア)は「初ライブ」を行うのだが、音楽活動を始める動機も、おそらく転身を迫られていることと無縁ではないだろう。(ライブの開場前、並んでいるOLらしいファンがオリちゃんについてかなり辛辣な事を言っているのを、にな川は聞くことになる。)にな川が執着し熱狂している相手は、このような微妙な位置にいる存在なのだ。(そしてにな川は、オリちゃんに執着していながらも、このような位置の微妙さについては無頓着である。いや、しかし実は、この小説では「無頓着」こそがあやしいのだけど。)にな川は決して自己完結系オシャレとして孤立しているわけではなく、伸びすぎた前髪にも気づかないような典型的なオタクであり、しかもだいたい15〜6歳くらいであるはずだから、微妙な位置にある27歳の女性誌モデルに対する執着が、どれだけズレたものであるかが分かると思う。そしてにな川自身は、ズレてる事にまったく自覚的でないように見えるところがまたズレている。そしてこのズレこそが、興味の対象の特異さこそが、にな川のキャラを立て、奥行きを生じさせているのだ。もし、にな川の興味の対象が特異なものでなかったとしたら、にな川は典型的なオタクというイメージに留まる人物造形でしかなく、もっと平板なものになっていただろう。(加えて「蜷川」ではなく「にな川」と表記されるところが、ちょっと間抜けで可笑しい。)
●この小説の弱いと思える点を2つ挙げる。1つは、ハツとにな川の関係は、それなりの深みと複雑さで描かれているとは思うが、ハツの、クラスのなかでの孤立ぶり、嫌な奴ぶり、ひねくれぶり、そしてハツの過去と繋がっている絹代との関係などの描き込みは、類型的であるという範囲を超えてはいないように思う。2つめは、ラストに近くなって、ハツとにな川との関係を「恋愛」という分かりやすい解決の方向へともってゆこうとする傾向が感じられるのだが、これはちょっと安易な解決ではないだろうか。
04/02/21(土)
●綿矢りさ『蹴りたい背中』について。この小説が多少でも新鮮だと感じられるとしたら、次の2点のことがらと関係すると思う。
●1点め。この小説は基本的に、関係性によって発動するエロチックな感情の有り様を描いていると思う。(プライドの高さによってクラスから孤立し、そのような現状に不満を感じている主人公の女の子ハツは、同様に孤立しているにも関わらずそれに自足しているようにみえる男の子にな川に感情的な引っかかりを感じ関心をもつ。しかしにな川のハツへの関心はオリちゃんというモデルを媒介としたものでしかなく、ハツを通してオリちゃんを見ることしかしないにな川の前ではハツの存在は透明なものになってしまい、この事がハツのにな川に対する感情をより複雑なものとする。)しかし、にも関わらず、書き付けられる言葉の次元や、登場人物の内面の次元では、性的な感情が直接的に示されたり、あからさまにそれを連想させたりするような言葉が使われたりすることがほとんどない。これは、抑制によって生々しさを演出するといった技術とは少し異なるように感じられる。どうみても(紋切り型とさえ言える)エロな場面なのに、言葉の上ではエロの気配には全く触れられず、しゃあしゃぁとカマトトを通す。読者も登場人物も、性的な気配に気づかないはずはないのに、まるで言葉から(意識の表面から)性的なものへ至る回路が遮断されてしまっているかのように、言葉(内面)は性的なことがらに触れようとしない。(例えば、体操着に短パンのハツの膝頭に、にな川が絆創膏を貼るシーンなど。)このような「切断」の効果は以外と大きくて、これによって一見素朴で優等生的にも思える文章に、何ともいえない、染み出したような「薄汚れた」いやらしさと、軽く霧がかかっているような「不透明な感じ」を漂わせることに成功しているように思う。この小説は主人公ハツの一人称で書かれていて、その「内面」も素直に記述されているはずなのだが、このあからさまな「切断」によって、その素直な記述そのものが信用出来ないような(大袈裟に言えば、信用出来ない語り手によって記述された世界に投げ込まれたような)不透明さが小説全体を覆うことになる。(この不信は、はっきりと意識される程には強くならないことがポイントなのだが。)例えば、ハツが、にな川と絹代の3人でオリちゃんのライブを観に出掛けるシーンで、ハツは30分も遅刻してきた上に、ラガーシャツにビーチサンダルという突拍子もない恰好で現れる。何を着てゆくかで遅刻する程迷った上でこのような恰好してくるということは、にな川に対するある種のデモンストレーションという意図があるのは明らかなはずなのに、記述された「内面」では、普段は制服と体操着しか着ていないから、こういう時に着るものがない、などということになっている。これは「嘘」という程に明確で意識的なものではなく、この小説の記述は決して「核心」には触れずに、そこから切断されているということなのだと思う。そのことによる不透明感や軽い不信感が、肌着の薄染みのような汚れを言葉から浮き上がらせる。明らかに性的な機微によって成り立つ関係であるのに、決して性的なことには触れない言葉によって書かれるというのがこの小説の基本的なトーンであるとすると、ハツがにな川の部屋で、オリちゃんの顔と幼女のヌードを貼り合わせてつくった幼稚なアイコラを発見してしまうシーンは、誤魔化しようもなく性的な領域に踏み込んでしまっているという点で、小説のトーンを壊しかねない危険なシーンであり、だからこそまた、この小説を支えるカナメの一つでもあるようなシーンであろう。このシーンを、やや、性的な領域に踏み込みながらも、基本的にはカマトトに留まるという絶妙のさじ加減の言葉で描き出すことが出来たことが、この小説のポイントの一つではないだろうか。
●2点め。男の子(にな川)の興味の対象が、オタクとして分かりやすい、アニメのキャラや声優、アイドルなどではなく、モデルであるという点。しかも女性誌のモデルで27歳という微妙な年齢であること。ギョーカイに詳しくないので推測でしかないが、それまでずっと一線でやってきたとしても、27歳くらいになるとそろそろ、この先あとどれくらい一線でやれるのか分からないという感じになり、何かしらの転身(芸能人になる、とか)を迫られるのではないだろうか。この小説でオリちゃん(佐々木オリビア)は「初ライブ」を行うのだが、音楽活動を始める動機も、おそらく転身を迫られていることと無縁ではないだろう。(ライブの開場前、並んでいるOLらしいファンがオリちゃんについてかなり辛辣な事を言っているのを、にな川は聞くことになる。)にな川が執着し熱狂している相手は、このような微妙な位置にいる存在なのだ。(そしてにな川は、オリちゃんに執着していながらも、このような位置の微妙さについては無頓着である。いや、しかし実は、この小説では「無頓着」こそがあやしいのだけど。)にな川は決して自己完結系オシャレとして孤立しているわけではなく、伸びすぎた前髪にも気づかないような典型的なオタクであり、しかもだいたい15〜6歳くらいであるはずだから、微妙な位置にある27歳の女性誌モデルに対する執着が、どれだけズレたものであるかが分かると思う。そしてにな川自身は、ズレてる事にまったく自覚的でないように見えるところがまたズレている。そしてこのズレこそが、興味の対象の特異さこそが、にな川のキャラを立て、奥行きを生じさせているのだ。もし、にな川の興味の対象が特異なものでなかったとしたら、にな川は典型的なオタクというイメージに留まる人物造形でしかなく、もっと平板なものになっていただろう。(加えて「蜷川」ではなく「にな川」と表記されるところが、ちょっと間抜けで可笑しい。)
●この小説の弱いと思える点を2つ挙げる。1つは、ハツとにな川の関係は、それなりの深みと複雑さで描かれているとは思うが、ハツの、クラスのなかでの孤立ぶり、嫌な奴ぶり、ひねくれぶり、そしてハツの過去と繋がっている絹代との関係などの描き込みは、類型的であるという範囲を超えてはいないように思う。2つめは、ラストに近くなって、ハツとにな川との関係を「恋愛」という分かりやすい解決の方向へともってゆこうとする傾向が感じられるのだが、これはちょっと安易な解決ではないだろうか。
04/02/22(日)
●『蹴りたい背中』のハツが、にな川に感情的に引っかかる(つまり惹かれる)理由は要約すると主に次の二つのものだろう。「私はまわりの人間がみんな馬鹿にみえて、だからどうしたって孤立してしまって、でも孤立してるのはやっぱり凄く寂しいのだけど、でも寂しいなんて言ったら負けになるし、どうしたら良いのか分からないから、せいぜい孤立してても平気だっていう顔してつっぱってようやく自分を保っているっていうのに、あんたは何でそんなに一人っきりで平然としていられるわけ!」と、「あんたみたいな冴えない男に、私がわざわざ関心を持っているっていうのに、なんであんたは目の前にいる私にまるっきり興味を感じないでオリちゃんばっかり見てるわけ!、だいたい、普通、女の子に見られたら死ぬほど恥ずかしいようなものを見られているくせに、なんで平気なの、それじゃあ私は女の子じゃないってことなわけ!」で、これは、ある程度クールに周りを見ることが出来るくらいに聡明なのに、なぜが駄目な男に引っかかって、はまってしまう女の子の典型的なパターンとも言えて、すぐに思い出すのは橋本治『桃尻娘』だったりする。『桃尻娘』の榊原玲奈は高校時代に松村くんという「エロティシズムは人間の最後の砦だ」とか言ってしまうような暗い文学青年とつき合っていたのだけど、実はちょっと馬鹿っぽい美少年の磯村くんが本当は好きだったのに、磯村くんはいつも男の子たちばっかりで集まって仲良く楽しそうにしていて、仲間に入ってゆこうとしても自分だけポツンと取り残されてしまって、そんな時に同じようにポツンとしているのに超然としているように見えた松村くんに思わず惹かれてしまったのだけど、実は松村くんは超然としていたのではなく、たんに仲間外れにされていることに気づいていない(気づいていない振りをしている)だけの下らない奴に過ぎなくて、で、結局自分も仲間外れでしかないし、誰も自分のことに関心を持ってなんかいないし、世の中は自分と全く関係なく動いているんだと気づいて、大学に入ってから鬱々とした日々を送ることになる。(ちなみに、閉鎖的な男の子たちの集団と、聡明で孤立した女の子との組み合わせが、相互補完的にうまくゆくと「げんしけん」みたいな世界になると思う。ここで女の子は「マドンナ」であると同時に「口うるさい母親」の役割を強いられる。)で、榊原玲奈が鬱々とした内省の日々を破って自らを解放するのは、松村くんとも磯村くんとも違うタイプの、天然系の美少年田中くんとの出会いによる。『蹴りたい背中』のにな川は、『桃尻娘』で言うと松村くんに当たるのか、それとも田中くん(あるいは利倉くん)に成りうるのかが、どちらともいえないままで開かれていて、そのことが小説にちょっとした奥行きや拡がりを与えていると言える。しかし勿論、徹底的に考え詰められているという意味で、『桃尻娘』シリーズの方が圧倒的に「役に立つ」小説であることは言うまでもないだろうけど。(ハツは榊原玲奈のようには聡明ではなく、たんにひねくれた嫌な奴でしかないとも言えるのだけど、しかし15,6歳の女の子ということを考えると、榊原玲奈は聡明過ぎて、多分実際にはハツくらいの微妙さがリアルだということなのだろう。)「降りる自由」
04/02/12(木)
●東浩紀の言う「降りる自由」というのはつまり個人が負うべき「責任」の限定性を確保するということで、その責任の範囲をある程度はその個人が主体的に決定出来るようにすべきだという話ではないかと思う。(関係を切断する=降りるというのは、つまり責任を切断するということだろう。)北田暁大『責任と正義』第一部では(第一部以降はまだ読めていないのだが)、行為やその意図はそれを行った行為者によって決定されるのではなく、まず初めに出来事としてのある「結果」があり、そこから遡及的に「原因(行為者の行為や意図)」がみいだされる、つまり、ある人物が自分の被った出来事を誰かによる「意図的行為」だと解釈し、そのように記述し、誰か(行為者)を非難する(行為者と特定された人物に対してコミュニケーションを要求する)ときに発生するのだとされる。わたしにはあなたを傷つけようという意図などなかったとしても、あなたがわたしの行為によって傷つけられ、そこに「意図」を読みとって抗議をしたとすれば、そこに「責任」は生じてしまう。だがこの時、あらゆる他者からの抗議(コミュニケーションの要求)を全て自らの責任として引き受けなければならないとしたら、人はほぼ無限の責任(呼びかけに応えること)を背負うことになり、そのような責任のインフレ状態では、実際には何一つ責任を果たせないということになり、結果として無責任(の容認)へと至るしかなくなってしまう。その時、どのような「規準」によって責任を限定(関係を切断)するのが「正しい」のか。この地点で東氏は「降りる自由」が保証されるべきだとする。「自由」という言葉が使われているのだから、ここまでは責任を負うけど、ここからは知らないという境界は、その責任を負う人物によって主体的に(ある程度は自由に)決定されるべきだということだろう。
●ちなみに、いわゆるポストモダンの思想とは、このような責任のインフレ状態、つまり「不能状態」を引き受けて、あくまで不能(無責任)として生きるという責任=倫理を負うという考えに基づいていると思う。丹生谷貴志の「男であることの恥ずかしさ」渡辺直己の「かくも繊細なる横暴」すが秀実の「ジャンク」などは、皆このような方向性だろう。ぼく自身も基本的には、あるいは「趣味」としては、このような方向性に同調する。しかし、このようなものだけでは「立ち行かなくなっている」という現実に直面していることもまた、否定できないと思う。(だからと言って、「男」にならなければいけない、という話ではないのだが。)例えば蓮實重彦などは、「書くもの」の次元では徹底して「不能」であることを引き受けているかもしれないが、(よく知らないけど)おそらく現実の人間関係のなかではざっくりとその権力を行使しているのだろうし、勿論それは良識のある大人として当然の振る舞いだと思うけど、その時の暗黙の使い分けが、「暗黙の良識」として成り立つことが難しくなっていて、いちいち「降りる自由」とか言って意識化=言語化しなくてはならないという面倒臭いこになっているのではないだろうか。いわばポストモダンと動物化の中間の位置にいると言えるだろう東氏や北田氏は、ポストモダニストだったら「語るに落ちる」と思われること、パフォーマティブに「分かる奴には分かる」(暗号や目配せ)という示し方をするしかないと思っているだろうことがらを、いちいち言語化してみせなければ誰にも通じないではないか、という「重荷」背負っているとも言えるかもしれない。例えば、蓮實氏が「トム・クルーズのだらしない口元」に惹かれていそいそと映画館へ駆けつけるというエピソードは感動的で、その徹底した映画好きぶり=不能ぶりには、やっぱ蓮實って凄いなあと尊敬を新たにするのだが、その時、「そうか、トム・クルーズは○なのか」という風に学習してしまう人というのがいて、そういう人に対しては責任とりませんよ、という事は蓮實氏にとっては暗黙の前提となっているのだろうけど、東氏だったらそれをいちいちきちんと「降りる自由」として言語化しないと面倒なことになってしまうという立場に、そのような現実に晒されているのではないか。普通にメタレベルということが理解出来る人なら、メタレベルのメタレベル、そのまたメタレベル...、などという無限ループの思考などには陥らず、たんに複数の異なるレベルが互いに絡み合いながら同時にあるということを、ある種の「深さ」ゃ「複雑さの度合い」として(矛盾も含め)すんなり受け入れることが出来るはずだと思うのだけど(これが出来なければ、例えば「絵画」などは本当にただフラットで固定したデザインとしてしか見えないだろう)、その理解が困難な人に対しては、いちいちそれを説明しなければならなくなる。(ここまで書いてきてようやくぼくは、北田氏が「ネタ」と「ベタ」ということに拘る理由が多少なりとも理解出来た気がする。ただ「ネタ」という言い方は誤解を生みやすく適当とは思えないが。)これはなにも、「分かる奴には分かる」ということを「察知出来る人」が優秀で(あるいは普通で)、それが「出来ない人」は駄目で、みんなが駄目になってしまった(動物化してしまった)という話ではなくて、むしろ「分かる奴には分かる」という事自体が、限定された閉じたサークル(社会的階層)を暗黙の前提とすることによって可能であったに過ぎなくて、そのような前提が(現実として)崩れてしまっているとしたら、「分かる奴には分かる」という表現の仕方(記号の発信の仕方)は、たんに自分と同質の消費傾向をもつ者を呼び集めるという機能しか持たなくなる、ということではないだろうか。(結局、「分かる奴には分かる」という記号の発信の仕方は、敵/味方、あるいは×/○を峻別するという機能にのみ奉仕してしまいがちなのだ。排他的であること、排他的であることの必然性としてマイノリティーであることは味方同士を強く結びつけるし「熱く」させるので、この機能ばかりが増進してしまう。喧嘩好きで跳ねっ返りで仲間には優しい同世代の男の子たちの集団とか。)社会的な階層は、それが閉じたものでしかないとしても、そこには階級闘争や移住者や成り上がりなどによるダイナミックな動きが可能なのに対し、同質の消費傾向の集団はまさにフラットな(北田氏の言う「ベタ」な)タコツボでしかない。で、その固着化した平板さを避けるとしたら、「語るに落ちる」ことでもあえて無粋に、出来るだけ明確に即物的に(「ベタ」に)言語化してみることで、敵でもなければ味方でもない(理解してくれるのかくれないのかがあらかじめ予測出来ない)中間的な人たちに呼びかける努力をするという作業は必須ではないかと思う。そして、出来るだけ即物的に言語化しても「分かってくれない人」(分かろうとする努力もなしに勝手に解釈し「関係」や「責任」を迫ってくるような困った人)に対しては、「降りる自由」を行使して暴力的に関係を切断しますよ、暗黙の前提となる階層(集団)に守られていない以上、この権利を確保しておかなければ何も出来なくなってしまうのだから、と東氏は言うのだろう。ぼくは最近の東氏が「書いている事の内容」にはほとんど興味をもてないけど、このような「立ち位置」に関しては共感する。
(しかしぼくは個人的には「作品」というものへの信頼があり、それはどこかで、説明抜きでも「分かる奴には分かる」ということを、つまりある種の超越性や普遍性を、それはどこかにいるかもしれないしどこにもいないかもしれない想像的な他者ということなのかも知れないが、そのようなものを信じていることによって支えられているという側面は否定できない。)現代美術/観客/評価
04/02/07(土)
●世の中には銀座の画廊を定期的に観て廻っているという人たちがいて、そのような年期の入った「現代美術のうるさ型の観客」(ここにはギャラリストや学芸員、批評家、コレクターなども含まれる)とでも言う人たちに観てもらうことが、銀座の画廊で作品を発表するということの意味の一つなのですが、はっきりと言えば、最近ではそのような人たちの数も質も(そして「元気」も)かなり低下しているのは事実だと言えると思います。このような人たち存在や「見識」を、ぼくは決して軽くみるつもりはありませんが、しかしこのような制度が老朽化して機能しなくなっているのは誰の目にもあきらかなことは否定できません。ぼくが作品を発表しはじめた92年頃には、極めて限定された少数の人たちでしかないとしても、そこにはコミュニティによって成り立つある種のフォーラムのようなものが形成されていて、そのような人たちに作品を観てもらい、そこで評価されれば、(作品が売れてお金になったりしなくても)まあ良しとする、というような「フォーラムへの信頼」のようなものが辛うじて(雰囲気としては)残っていたように思います。(フォーラムの存在を維持していたのは、やはり媒介としての「美術ジャーナリズム」であり、ジャーナリストとしての美術批評家だったと言えるでしょう。)それが実際には「閉ざされた村」でしかないとしても、取りあえず芸を披露し吟味し磨き合う場の存在が信じられていたわけです。しかし現在ではその「村」さえも崩壊しつつあって(実際に崩壊しているのは「村が保証する超越性への信頼」であって、村そのものは信頼を欠いたまま存続していると言えるかもしれないのですが)、だから若いアーティストが展覧会で作品を人に観てもらうこと(つまり「仲間に入れてもらう」こと)よりも、個人として直接的に有力なギャラリストや批評家に「売り込み」をして、手っ取り早く売れる=有名になること(一人勝ちすること)を目指すのも必然的な(当然の)ことだと言えるでしょう。(このような傾向をおやじたちが批判するのは全く馬鹿げている。)だけど現在でも、多くの画廊はかつてあったコミュニティ(というか「村のしきたり」)の存在に依存していて、だから、荒廃した村の秩序への配慮と中途半端な市場主義が入り混じった、風向きと評判と噂話(と嫉妬と怨恨)が渦巻く、なんとも奇妙な珍獣としての「日本現代美術界」が出現することになります。(現在の美術界が誰の目にも停滞してみえるのは、なにも「不況」だけが原因ではなくて、むしろ「超越的なものへの信頼」を支えるコミュニティへの不信によると考えるべきでしょう。)ここで、コミュニティの荒廃を嘆いても仕方がないし(だいいち、かつてあった「閉ざされた村」としてのコミュニティなんて不快な場所に決まっているわけで、そのことはそこにいた「おやじ」たちの現在のあまりに酷い姿を見れば一目瞭然だろうと思います)、かといって既に「若手」とは言えないぼくは生き馬の眼を抜く「市場主義者」に同調し転向することも出来きません。このような状況のなかで、全く何処に向けて発信しているのか分からないような(ベタな)作品をぼくは細々とつくりつづけているわけです。以前人から、こういう(近代絵画の尻尾を引きずっているような)作品を「日本人」がつくることなんて、グローバルな視点に立っても世界中の誰にも「求められて」いないよ、というような事を言われたことがあって、それはまあ客観的な事実としては正しいのかもしれません。それでもやっているのは、単純になによりも楽しいからというのが一番ですが、それだけでなく、過去の絵画作品への尊敬と信頼があるからで、つまりマネやセザンヌやゴッホやマティスは凄いし、ゴーキーやポロックだって捨てたもんじゃなくて、それは現在でもなお圧倒的に面白いものでありつづけていることが、少なくともぼくにとっては自明であるからなわけです。(ぼくに超越的なものに対する信頼がかすかにでもあるとすれば、それは個々の作品のもつ力や質への信頼によってでしかないでしょう。これは別にハイカルチャーの閉域に逃げ込むことではないはずです。だいたい現在の日本にはハイカルチャーの世界など「存在していない」わけですから。)しかしこの時、不可能なもの(あるいは普遍的な価値?)を追求する孤高の芸術家などというイメージは「お笑い」以外のなにものでもなくて、ぼくは他人に対して、ぼくが面白いと感じるものを、こういうのも面白いでしょうと説得(というか勧誘)したいし、ぼくの視線が届かないものについては他人から教えてもらいたいし、ぼく自身の作品についても、出来れば理解し評価していただきたいし、能力や配慮の足りないところは指摘してもらったり助けてもらったりしたいし、実際にそのように努力しているつもりなわけですが、こういう時に頼りになるのが(コミュニティが信頼できない以上)個人的なネットワークだけだということになると、どう考えても社交的だとは言い難いぼくにはかなりキツイことになるわけではあります。人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の松浦寿夫
04/02/06(金)
●「straiht no chaser(2nd)」の松浦寿夫の作品について。絵画において色彩は、絵画の外側にある事物の固有色との類似によって成立しているわけではなく、絵画としての抽象的な次元で成立している。これは別に絵画に限ったことではなくて、例えばモノクロの写真を観て、白と黒とグレーだけで出来た世界のイメージだとは誰も思わなくて、我々が普通に観ている世界をグレーのグラデーションによって翻訳したものだということを自然に受け入れるのと同じようなことだ。モノクロ写真の林檎を示すあるグレーの階調は、その画面の他の部分との関係によって「林檎の色」に見えるのであって、そのグレーそのものが林檎の色と対応しているわけではない。画面内部の水色は、画面の外にある「水色のもの」との対応関係によってそこに置かれるのではなく、画面のなかでつくりだされる複雑なシステムとの関係でそこに置かれる。しかし、だとしても、ある色彩は、どうしてもその色彩を持つ「画面の外にあるもの」を想起させてしまう力をもつ。例えば、水色はどうしたって「晴れた空」やその空を映した「水」を想起させるし、緑が、ざわめく木々の葉や草へと連想を介して繋がってしまうのを拒むことは出来ない。褐色に近い暖色は土や枯葉、あるいは垂れ下がる熟れた果実を連想させることによって重力を画面に生じさせるのに対し、水色は重力から自由で舞い上がったり浮遊していて、緑はその中間あたりでざわめいている。最晩年のセザンヌの作品で、具体的な事物を示すような形象がほとんど崩れてしまっていても、それが風景やら人物やらが描かれたものであることが分かるのは、画面内部での複雑に入り組んだシステムによって制御された色彩が、同時に、画面の外にあるものと(別の通路によって)繋がっているからだと言える。例えば、イヌという音と、犬という概念の結びつきが恣意的であるのとは根本的に異なって、水色が空と(感覚によって)結びついてしまうのは、我々が現在の環境を持つ地球上に生きている以上必然的なものであろう。このような事実は、絵画が「抽象的なもの」(あるいは言語論的なもの)になろうとすることを常に阻む力として作用している。例えば岡崎乾二郎の絵画作品が、その強さと速さとによって、あるいはその過激な形式性によって、絵画(色彩)のそのような側面を振り切ってしまおうとしているのに対して、松浦氏の作品は、絵画のもつ、色彩のもつ、どっちつかずの中途半な領域に留まり、そのような場所をこそ作品が生産される力としているように見える。松浦氏の作品において、水色が空や水であり、緑が木々の葉や草であるだけでなく、おそらく紫は影であり(だから紫=影は、水色=浮遊とも暖色=重力ともグラデーションで結びつき、その二つの中間にある、緑とは別のもう一つのものである)、そして白をたっぷり含んだ黄色は対象をもたない光の過剰な状態(だから黄色は黄緑を介して緑にとけ込む)であるのだろう。勿論、単純に松浦氏の作品が形象の崩れた風景画だといっているわけではない。そうではなくて、絵画が、色彩が、どうしてもそれ以外の具体的な事物との繋がりを完全には断ち切ることが出来ないという場所に留まりながらも、その場所を、それとは異なる抽象的な次元へと、そっと、あるいはボソボソッと、開いてゆこうとする試みなのだと思う。松浦氏の作品は、天空に浮遊しているのでもなく、地上にあるのでもなく、重力を受けながらも宙に浮いている、樹木の枝から垂れ下がった果実のようなものとしてあるように感じられる。人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の岡崎乾二郎
04/02/05(木)
●「straiht no chaser(2nd)」の岡崎乾二郎の作品について。岡崎氏の作品についてはこの日記でも以前から何度も書いているので、改めてつけ加えることはあまりないのだが、今回展示されている新作は、キャンディーを散らしたようにも見える色彩をもつ近作に比べてもさらに、使用されている色彩が軽く、薄っぺらくなっていて、ほとんど悪趣味とギリギリのところで、にも関わらず(と言うか、だからこそと言うべき)きっぱりとして乾いた晴れやかさをたたえた画面となっていることに驚かされる。ここで使用されている色彩(やその対比)は、ひどく軽薄で薄っぺらに見えてしまいかねないもので、そのような大胆な色彩の使い方をしているのに、悪趣味でもこけおどしでもなく、バタバタと混乱した状態でもなく、非常に複雑な関係性を構築しているのと同時に、ツンとした「張り」のある明快さが実現されているように思う。ストロークによって形成される形態も、その形態による画面の「埋め尽くされ方」も、以前の作品ほどの多様さはなく、形態やテクスチャーのバリエーションはむしろ単調とさえ言えるもののようにも見えるのだが、しかし単調なパーツを使って複雑な状態をつくりあげている、ということが行われているように思う。(とは言うやはりこれはギリギリの作品で、これ以上やったら危険な気もする。)ここにはおそらく、決して色彩に溺れることなく、色をモノのように突き放して操作するような、岡崎氏独自の高度な色彩の操作技法があるように感じられる。
●しかし、以前にも書いたのだが、2枚の作品を1組として、同一の形態を、異なる色彩、異なるテクスチャーで、左右両方の画面に配置することで、そこに実際にある2点を観ることが、そこにはないが、あり得たかもしれない可能性としての別の絵画の存在を予感として生じさせるということに繋がる、というようなやり方が、本当に効果的なのかということに関しては、やや疑問を感じる。極めて素朴な言い方をしてしまうと、1枚の画面だけで充分に複雑で高度な状態がつくりだされているのに、左右の画面に「対応関係」があることが発見されてしまうと、どうしてもその「対応」を追っかけることばかりに注意が流れてしまって、対応関係を追うことだけで作品を「観た」気になってしまいがちだという傾向があり、いかにも勿体ないと思ってしまう。ただ、今回展示されている作品は、(使用されている形態が割合単純で捉えやすいため)意識しさえすれば左右の画面で形態の対応関係があることはすぐに分かる(あからさまに対応させている)にも関わらず、「対応」を意識しないで眺めている時には、それがほとんど見えてこない(おそらく色彩の軽さ、薄さが、形態の把握を留保させるのだろう)、という状態がつくられているように思えた。つまりそれは、仕掛けとしてはあからさまに仕掛けられているのに、視覚のみによっては(意識的に読むことなしには)それを捉えられない(捉えづらい)という状態で、いわば、読めるのに見えない、というような不思議な対応関係になっているように思えた。人形町VISION`S「straight no chaser(2nd)」の吉川陽一郎
04/02/04(水)
●「straiht no chaser(2nd)」の吉川陽一郎の作品について。吉川氏の作品は、鉄筋で骨組みがつくられた2点の彫刻。鉄筋による骨組みに、一方は半透明のアクリル板(塩化ビニール板?)のようなものが張られ、もう一方はボール紙が張られている。アクリル板のようなものは、骨組みの外側に、骨組みを包み込むように張られているのだが、ボール紙の方は、骨組みの鉄筋と鉄筋との間に出来る隙間の形に合わせて切り抜かれ、隙間を埋めるように張られて(貼られて)いる。(一方は提灯や張りぼてのような構造だが、もう一方は鉄筋が露出し、表面がステンドグラスとかモザイクのような感じになっている。)全体の動きとしては、横たわり弓なりになりながらも、複雑なねじれが加えられている、人体の動きを想起させるようなボール紙の方の1点と、左右の支点に支えられて(まるでゾウがハナを高く点へ向かって伸ばしているかのように)上へと伸びてゆく動きをみせるアクリル板の1点とが対比をつくっている。2点とも、いくつかの部分の組み合わせによって形づくられている。ひとつひとつのパーツの形は、竹籤などを骨組みとしてつくる飛行機の模型の翼の部分を思わせるのだが、それよりもやや複雑でねちっこい形で、言ってみれば、飛行機模型の翼の形態と動物の骨の形態との中間のような、人工物としては有機的だが、有機物としては人工的であるような、すっきりでもごてごてでもない中間的な表情をもつ形態だと言える。(パーツとパーツとの組み合わせ方は、台座を用いない近代的な彫刻作品としては割合オーソドックスなもののように思われる。)アクリル板の方の作品は、その人工的でツルッとしたアクリル板がその作品の表面のテクスチャーを形づくっているはずなのだが、そのあまりに手ごたえのない質感と、しかも半透明で骨組みが透けて見えているせいもあって、作品の本体は骨組みの方であり、アクリル板はただそれを被っているだけのようにも見えてしまう。(一部骨組みが露出しているところもあるのでなおさらだ。)しかしそれでも、骨組みをアクリル板が被っているという事実を「眼」は無視することは出来ないので、やはり再び、アクリル板のつくる滑らかな形態の表面を「表面」として認めることとなるだろう。ボール紙の方の作品は、まさに骨組みそのもが表面に出ているのだが、その隙間がボール紙によって埋められているため、骨組み=鉄筋がそのまま同時に表面のテクスチャーとして認識されるというよりも、隙間を埋めるボール紙の方に(まさにその「埋める」という行為によって)強い物質的存在感が生じてしまうので、(アクリル板の作品とは逆に)鉄筋は露出しているにも関わらず、表面というよりも構造=骨組みへと後退する。作品の表面のテクスチャーをかたちづくるボール紙は、モザイク状に切れ切れに貼り付けられているため(何カ所か歯が抜けたように欠落している場所もあるのでなおさら)、表面のテクスチャーに注目する視線は、作品全体の滑らかな形態=動きを粉々にしてしまいそうな危険を孕む。つまり、アクリル板の方の作品は、ツルツル過ぎ、ボール紙の方の作品は切れ切れ過ぎることで、作品全体としての形態=動きを捉えるだけで「作品を観た」ことにしてしまう視線を、別の方向へ誘い、作品の経験を多層化させる。
●近代的な彫刻作品では、非具象的な形象をもつものであっても(というか、であればこそ)人体との深い関わりによって成立していることが多いように思う。それは、人体をモデルとしているとか、人体のプロボーションやスケールを基本単位としているとか言うこととは違う。(そのようなものからは自由になっている。)そうではなくて、人体のつくる「しぐさ」の表情のようなものを、作品全体を制御する時の原理としている、というような意味においてだ。例えば、「指さす」というしぐさは、五本の指、掌、手首、腕などの複数のパーツによって出来上がっているが、指さすという「しぐさ」にとって問題となるのは、個々のパーツの形態や、腕から指先にかけてのプロポーションやスケールではなくて、それぞれのパーツの形態や動きを結びつける「結びつけ方」であり、それぞれバラバラなパーツが結びついた時に、力や流れが、合流し、分離し、拡散し、収斂し、拡張し、遮断され、わき上がり、潜り込む、その複雑な複合状態のあり方なのだと思う。だから、手が手の形やスケールを持っていることと、指さすという「しぐさ」が生み出す表情とは切り離して考えることができる。彫刻作品においても、個々のパーツの素材や形態やスケールそれ自体と、それらが組み合わされたことで生じる「しぐさ」とでも言える表情(ある抽象的な次元としての表情)とは切り離されたものとしてある。(優れたスポーツ選手のプレーが、時に人間の身体を超えた抽象的な美しさに達することがあったとしても、実はそれは、人体のあり方の合理性に基づいた動きであるのと同じように、優れた作品においては、個々のパーツのあり方を超えていると同時に、個々のパーツのあり方が尊重されてもいる。)
●吉川氏は、95年にセゾン美術館で行われた展覧会「視ることのアレゴリー」のカタログで、吉川氏自身の作品だけでなく、近代的な彫刻作品を観るときの助けになるような鋭い言葉を書いているので引用しておく。
《かたちには、正のかたちのほかに、反かたち、逆かたち、負のかたちがあること。(略)かたちが自己を突破して負のかたちへ移行する様をムーブマンと呼んだり、かたちが内側のかたちと均衡をとろうとしている様をマッスと呼んだりします。ボリュームは、かたちと逆かたちが複雑に入り組んでいる様です。かたちを作ることは、反かたちや逆かたちや負のかたちを同時につくることです。》《輪郭はそのかたちのもつ力と、それを制御しようとする作り手の意志がぶつかりあう最前線です。連続していますが、ひとつひとつの局面は互いの勢力の無法地帯です。そこには図と地とか立体と空間といった二元的な関係があるのではなく、失われたものと残されたものと現れたものと隠されたものが同時にある場です。》ギャラリーKで、杉浦大和・展
04/01/27(火)
●銀座のギャラリーKで、杉浦大和・展。この人の作品を観るのは2度目なのだが(去年の2月にやった展覧会の感想は「ここ」))、去年観た作品よりも数段高度になっているように思えた。ツンとした強い白でフラットに塗られた画面の上に、様々な色彩の小さな点が、ポツリ、ポツリと置かれ、それよりやや大きい、ある茫洋とした拡がりを示すような半透明な色彩が、点と点の間に揺らぎながら存在している。これら一つ一つの点は(実際には当然、同一平面上にあるのだが)、それぞれが異なる場所、異なる時間に存在しているかのようにばらけて散らばっている。色の「点」よりやや大きい色の「拡がり」は、一見ばらけた点と点を繋いで(媒介して)空間を発生させているようにも見えるのだが、実はただ、その自分自身の拡がりのみを孤独に持つだけのようにも見える。これらの点や拡がりを繋いでいるのは空間ではなく、視線がさらさらと流れてゆく時のリズミカルな時間である。杉浦氏の作品の面白さは、その「散らばり方」の面白さだと思うのだが、それは空間的に散らばっているのではなく、時間的に散らばっているのだ。もっと言えば、語義矛盾だが、同時に存在する複数の時間のなかに散らばっている、という感じだ。(だから実は、時間も点と点とを結びつけることは出来ず、視線はただ、ある局面から別の局面へと、断層を挟みつつ、流れてゆくだけなのだ。)去年の展覧会で観た作品は、画面全体としてひとつのパースペクティブをもつように見えることで視線を惹きつけ、しかし、その、奥へと吸い込まれるように惹きつけられた視線が画面のなかを動いてゆくうちに、実は一つ一つの点や拡がりがふと、画面の表面に貼り付いて散らばった、孤立したバラバラなもののようにも見えてきて、その二つの見え方の間を視線が揺らぎつつ往復してゆくような感じだったのだが、今回観た作品は、視線を引き込むようなパースペクティブをもたず、一つ一つの色点ははじめから、異なる位置、異なる時間に存在していて、つまりそこに一望できるような空間は見えない。(無理矢理一望しようとすれば、ただチラチラとした点滅が見えるだけだ。しかしその点滅自体もまた、魅力的なものではある。)にも関わらず、その画面は決して混沌としていたり破綻していたりすることなく、その散らばり方、偏り方のリズムの心地よさによって、視線は惹きつけられつづけ、ひとつの作品としてのある統一した「ひとまとまり」という感覚を生じさせている、と思う。この時、それぞれの点や拡がりが、バラバラに孤立している感じを際だてているのは、視線の引っかかりのない、とりつくしまもなく視線を滑らせてしまう、ツルツルに仕上げられた強い白の表面であるように感じられた。(ツルツルで強い白は、統一された場としての空間のイリュージョンを発生させにくい。)そして、これらの作品は(空間的なイリュージョンとしてのパースペクティブをもっていないので)比較的フレームから自由であるだろう。例えば、かなり恣意的にトリミングしたとしても、その散らばり方の面白さはあまり変わらないと思う。そして何よりも、これらの作品はとてもユーモラスで楽しい感じがするのだ。絵を誉めるのに「楽しい」なんていう言い方はちょっと馬鹿みたいではあるが、それでも良い絵の多くは「楽しい」ものだということは事実だと思う。その「楽しさ」の多くの部分は、散らばり方のリズムであるだけでなく色彩の質によっているように見える。去年の展覧会の感想でぼくは、「色彩がやや通俗的だ」というようなことを書いたのだが、今回展示された作品からはそのような感じは全く感じられなかった。作品という振る舞い/樫村晴香による大島弓子
04/01/23(金)
●今週になってから描きはじめた作品がなんとか完成し(これはぼくにとって異例のはやさだ)、ようやく、今まで制作してきた作品を引っぱり出して、観直し、展示の具体的なイメージについて考える余裕が出てきた(と言っても、明日にはもう画廊に搬入して展示しなければいけないのだが)。自分の(近い)過去の作品を改めて眺めていると、どうしたって、自分は一体このようなものをどこに(誰に)向けて送り出そうとしているのか、なぜこんなものをつくっているのか、これが自分や自分以外の誰かにどのような現実的な効果をおよぼすというのだろうか、などという考え(疑問)が浮かんできてしまう。勿論、このような問いは不毛な問いであって、こんなことを考えても(このような「問い」に絡め取られると)ろくなことにはならないし、このような疑問を持つことが「誠実な態度」だなどというというのは勘違いもいいところなのだが。このような時にふと思うのが、樫村晴香による大島弓子論『嘘の力と力の嘘』の一部分だ。この文章はきわめて難解でぼくには充分に理解出来ているとは言えないのだけど、ここでは『バナナブレッドのプディング』の衣良の行動が、慎重に偽装に偽装を重ねることで、現実的な諸関係、諸制度によって失墜することのない「愛(の振幅)」を、現実世界においてどのようにある程度持続的に保持することが出来るかの探求である(つまりこれは「政治的」な探求である)と捉えられ、彼女は大島弓子の登場人物で最も聡明な存在とされる。(つまり橋本治による解釈とは全く異なる。)そして、ここで衣良の求める「人が知るかぎりで最後の種類の愛情」は、「作品」という振る舞いにきわめて近いものだとされる。難しい話になるが、引用する。
《彼女のその闘いと、より深い愛の希求が、どのように帰結したかはこの作品では明らかでない。<わたしには自信がある??わたしは誰にだってすんなりとけこめるのよ>という衣良が、野の草々や庭の薔薇と語るように、人々と語りあえることになったかどうかは、難しいところだろう。というのもその彼女の振舞いは、庭の薔薇のようでありながらけっして庭の薔薇そのものではなく、むしろ強い震えの豊かな言葉が、みずからと、さらにやがて来る他者をそこで待ちつづけ、そのことが暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていることがそこでは前提となるからである。そして少女まんがにおいては、男性には過酷なほどの英知が期待されつつ、同時に彼らは――現実がそうであるように――存在論的に(?)愚かなのが常なので、聞かれることを得なかった彼女の声は、まったくの草々と薔薇の声となって、現実には山奥の山荘で療養する発狂した『ダリアの帯』の黄菜(きいな)の発する、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音となる。だがここで、人は衣良の立てた戦略の、もう一方の帰結を知らねばならない。衣良の歩む、それ自身を知りながら、いつか聞かれることを互いに待ちつづける道ゆきは、実はその最も近いものは、作品といわれるそれの振舞いである。作品は、耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然であり、反対に聞かれることの少なさは、作品を自然に返してしまう。衣良が求めた、人が知るかぎりで最後の種類の愛情とは、作品に向けて贈られるようなそれであり、あるいは衣良の慎しさとは、作品がもつ慎しさに似通っている。第三期において大島弓子の作品世界には、書くことと書かれたものが特別な場所として登場しだすことになるが、そのなかで衣良の立てた問いの結構を、最も連続的に引きついでいるのは、八四年の『水枕羽枕(みずまくらはねまくら)』であり、さらにその突出的な帰結としてとりわけ奇妙かつ驚くべきは、同年の『あまのかぐやま』といえるだろう。》
ここで作品とは、「野の草々や庭の薔薇」のたてる音=声、つまり誰に聞かれるためのものでもない自然の音に極めて近い存在であるのだが、しかしそれは実は「強い震え」によって紡ぎ出された「言葉」であり、だからそれを聞く者(未来の自分や他者)をその場所で慎ましくではあっても、待ち続けているようなものなのだ、と捉えられている。だからそれは、それを聞く者があらわれた時だけ「耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然」となるが、聞かれることの少なさは作品をほとんど「自然に返して」しまうだろう。聞かれることのない作品は、『ダリアの帯』の発狂した黄菜の発する「、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音」でしかない。だから作品は、それを聞く者がそこを訪れるまで「待つ」ために、書かれたものとして(物質的に保持されて)そこに留まっている必要があろう。80年代以降の大島弓子の作品で、書くことと書かれたものに特別な場所が与えられているのは、衣良による「人が知るかぎりで最後の種類の愛情」の探求(「作品」というあり方)を直接的に引き継ぐものとしてある。(『水枕羽枕』での姉と妹のダイナミックな位置の反転=交換は、「日記という、それじたいで自身の意味を与えつつ、読まれることと読まれないことに同時に開かれている、過去と未来の時間の流れに無関心な、固有の時間に」よって、つまり「作品」的なあり方によって可能になる。)しかし、このような「作品」の有り様は、「作品」というものがそういうものであるということが、「暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていること」が前提となって可能になる。だから、もしかすると、作品は(少女まんがにおいては、男性に過酷なほどの英知が期待されてしまうように)、観客に過剰なまでの英知を期待してしまっているのかもしれない。ジョージ・キューカーの『若草物語』(1933)
04/01/17(土)
●ビデオでジョージ・キューカーの『若草物語』(1933)を観た。この映画の良さについてどのように書けば良いのだろうか。ここでは、映画は、ほとんど、コンクリートの壁に映った風で揺れる木の葉の影に限りなく近いものとなっている。あるいは、光を複雑に反射させながらさらさらと流れてゆく川のせせらぎに近いものになる。その、古典的に洗練された形式と、これといってドラマチックな展開のない流れのなかで、19世紀中頃のアメリカの中流階級の、華美ではないが、ふわっと膨らんで何枚もの布が重ねられた装飾過多で動くたびにひらひらと揺れる服を着た女の子たちが、様々に、そして唐突に表情を転調させながら、姦しく、さらさらと流れるように動いてゆく。キューカーによる卓越した空間の演出は、まるで複雑に曲がりくねる山の中の上流の小川のような地形をつくりあげ、そこを主演のキャサリン・ヘップバーンが、演技力というよりも、そのシャープな運動神経(こんなに見事にコケることの出来る女優をぼくは他には知らない)で、時に飛び跳ね踊り上がるように、時にゆるやかに、その流れを流れてゆく。おそらく、人生において避けがたい非常に重要な(重たい)「何か」を意図的に、そして徹底的に排除することで成り立っている「少女小説」的な世界は、それによって純粋で抽象的な(ざわめく木の葉や揺れて流れる水のような)「振動」そのものへとどこまでも近づいてゆく。(細々した細部の具体性へのこだわりによって、抽象的ともいえる振動へと至る。)物語も意味もほとんどどうでもよく、表面のごく浅いところで、ただゆらゆらと揺れ、さらさらと流れるもの。この振動は、同じキャサリン・ヘップバーンの出ているホークスの『赤ちゃん教育』のような恐るべきナンセンスの強度にまでは達してなくて、角の丸まった川原の小石のような、どこまでもなめらかでやわらかな洗練されたものだろう。(こういう映画を観ると金井美恵子が読みたくなる。)
●1933年につくられたこの映画においては、キャサリン・ヘップバーンはまだ映画女優としてのキャリアをはじめたばかりだし、巨匠ジョージ・キューカーとしても、初期作品に数えられるものだと言えるのだけど、この人たちは最初からもう既に完成されていたのだなあ、とつくづく思う。30年代後半のキャサリン・ヘップバーンは、今からみれば『素晴らしき休日』『男装』『赤ちゃん教育』『フィラデルフィア物語』といった傑作に次々と出演している充実した時期に思えるのだけど、実際には34年に離婚してから40年の『フィラデルフィア物語』がヒットするまで、出る映画がことごとく当たらなくて、一時映画をやめて舞台に専念していたというくらいに不遇の時期だったというのだから、同時代の評価というのは全くあてにならないものだと思う。展覧会一日目。ずっと画廊にいて...
04/01/26(月)
●展覧会一日目。ずっと画廊にいて、夜、外の空気を吸うために表に出た。画廊の裏に、1ブロックまるまる更地になっていて、それほど高くない鉄の壁で囲まれている工事現場があった。仕事が終わって人気もなく、まったく照明のないその一画に、巨大なクレーンが一台、暗い空に向かってアームを伸ばしていた。立ち止まってしばらく見上げたままでいると、そのクレーンのアームが緩慢な速度で動いていることがわかった。音もたてず(と言うか、その音は周囲の喧噪にかき消されているのだろう)、ゆっくり、ゆっくりと動いているそのアームは、180度回転するとそこでとまった。(ずっと見上げていたら、車にぶつかりそうになった。)更地の向こう側には、一面を明るく輝かせてそびえ立つ高層ビルが見え、その中央を何台ものエレベーターが赤いランプをちかちかと点滅させながら上下しているのが見える。
●2004年1月26日。石破茂防衛庁長官は、陸上自衛隊本隊にイラク南部サマワへの派遣命令を出した。
04/01/28(水)
●展覧会の初日に、大学の時先生だった人が観に来てくれて、おおむね好意的な評価をしてくれたのだけど、その時、次のようなことを言われた。納まりが良くないというか、ちょっと間が抜けてるような感じも面白いね、だいたい君は昔からバランスを考えるとか、そういういうタイプの人じゃなかったからね、と。ぼくとしては、画面の納まりの悪さと言うか、偏りのようなものは、意図的につくっているつもりなのだけど、その人はそれを「天然」という風に捉えたということだろう。つまり、画面の納まりの悪さは、ぼくの主体的な(意識的な)操作によるものと言うよりも、ぼく自身の資質(あるいは本質)によるものだ、と。もっと言えば、「ネタ」ではなく「ベタ」だと。しかし、よく考えてみれば、「意図的」であることと「天然」であるこことの違いなど実は全然大した問題ではないと思う。なぜわざわざ納まりの悪い画面をつくるのかと聞かれれば、いろいろと後から理屈をつけることは出来るけど(理屈をつけることに重要な意味もあると思うけど)、結局は、きちんと納まった画面が嫌だから、面白くないから、なんか気持ち悪いから、ということであって、それはつまり、なぜか偏ってしまう(=天然)ということとあまりかわりがない。「意図的に納まりを悪くする」と言った時に重要なのは、「意図的」ということではなくて、あくまで具体的に、どの程度、どのように「納まりを悪く」するかということの方であるはずだ。それに、まず最初に「納まりの良い」状態があって、そこからはずれることが目指されるのではなくて、はっきりはしないが予感のようにしてある「ある状態」が(面白そうだ、とか、良さそうだ、とかいう感じによって)目指されて、それを実現しようとする具体的な過程を経ることで、結果として「納まりの悪い」ものとなってしまうしかない、という風な順番であるはずなのだ。そしてその「ある状態」が目指される時、それを実現するのが、意図的な行為であろうと、偶然であろうと、無意識であろうと、そんなことはどうでもいいのだ。作品とは、作家が好き勝手につくるものではなく、あるプロセスを経ることで(プロセスのなかにある偶然も含めたものとして)必然的に、そのようなものになるしかないというように出来上がるものだろう。そのプロセスのなかにいる時の、細々とした一つ一つの選択や決断において、どこまでが意識的なもので、どこからが天然のものだなどと分けることは出来ない。だから、作家の話を聞いたからといって「作品」のことが理解できるわけではない。それをつくった作家だって、その作品のことはそんなには知らない。作家はネタでやっているつもりなんだとか、いや、あいつはああ見えてベタな奴なんだとかいうことは、作品のあり方とはあまり関係がない。これは別に、作家が作品をつくる時という特殊な事柄に限ったことではなく、人が日常的に行うあらゆる行為もまた、意図的なコントロールと無自覚で無頓着であることとの複雑なマーブリング模様によって出来上がっているはずだと思う。だから、確かにベタであることを本質=実存=真実だとして(ロマン主義的に)持ち上げるのは問題外だが、だからと言って過度にベタ(天然)を恐れ、警戒し、嫌う必要は全くないと思うのだ。
(ぼくには、ネタだとかベタだとか「あえて」だとかについてぐちゃぐちゃ考える人が、なんでそんなに深刻にならなければいけないのか分からない。それってあまりにも「言葉」に引っ張られて物事を単純に固く捉え過ぎているだけではないだろうか。そこにはまってしまうことこそが「罠」なのではないのだろうか。そのような人には、そんなに頭ばっかり使ってないで、ちょっと身体でも動かしてみれば、とか、そういう「ベタ」なことを言いたくなってしまう。)
04/02/08(日)
●やはり展覧会というのはそれなりに緊張するもので、普段そんなに多くの人に会うような生活もしていないため疲労も溜まり、展示が終了して張りつめていた気持ちが緩むと、もうひたすら眠くて眠くて、作品を画廊から家まで運ぶ運送屋さんの軽トラックの助手席でもずっと口を開けて眠っていたし、家でもほぼ一日じゅう布団の上でごろごろして眠り、目覚めてコーヒーを飲んではまた眠り、目覚めてトイレへいってはまた眠り、目覚めてテレビをつけては観ながら眠ってしまい、腹が減って目覚めても買い物へ行く気にならず家にあるものをあらかた食い尽くしてはまた眠り、おそろしい夢で目覚めてはまた眠り、電話で目覚めて寝ぼけたまま対応して済んだらすぐに眠り、風呂に入って湯船のなかでもうとうとして、風呂から上がってからだがあたたまっているのでまた眠り、と、フェイドインとフェイドアウトでいくつかの短いシーンを繋げたような一日だった。
04/02/09(月)
●とれたてだから、と言うネギをかなり大量に人からもらった。本当にとってきたばかりという感じに根っこのところに泥がびっしりついていて、包みを開いただけでパラパラと落下した泥の山が床に出来た。ネギばっかりこんなにもらってもなあ、と正直思ったけど、せっかくもらったのだから、取りあえず二束ほどをザクザッと切ってフライパンで軽く焦げめがつく程度に炙って、醤油をたらして食べたら、味が凄く濃くて、ツーンとくるあの刺激も強い、とても美味しいネギだった。しかし味が濃いだけあって匂いも強く、新聞紙でくるんで部屋の隅に置いておき、外から帰ってくると部屋全体に薄っすらと(この「薄っすら」というのがまた曲者なのだが)ネギの匂いが漂っているような気がした。これから毎食多量にネギを食べたとしても、二日や三日分は余裕でありそうで、食べ終わる頃にはぼくのからだがネギ臭くなっていそうだ。冷凍食品のうどんにネギをたくさん入れて食べたら、歯を磨いた後でもまだ、口のなかにネギの余韻が残ってるくらいだし。
04/02/10(火)
●ずいぶん前から知っているギャラリストの人と今日話していて、その人が言っていたことなのだが、作家はギャラリーのスタッフの言うことはどうしても重く受け止めてしまうので、最近やけに気を使ってしまって、気軽の作品の感想を作家に言うことが出来なくなってしまった、とのことだった。確かに、作家の側からみれば画廊のスタッフは作家を選別する存在であって、選別される側の(立場のそれほど強くない)作家としてはそこに「権力」のようなものをどうしても感じてしまうのだし、ギャラリーのスタッフとしては、資金にもスペースにも限りがある以上、日々売り込みをされてくる作家や作品について判断を下さなければならず、つまりそれは「うちではちょっと」という形で相手を「否定」しなければならないということで、たとえ良い作品だと思ってもスペースやお金に「余裕」がなければ断らざるを得ず、その時相手(作家)は、調子の良いことを言ったって結局自分は駄目だってことじゃん、という風にどうしたって受け取ることになってしまう。ギャラリーのスタッフは、例えば批評家などに比べればずっと作家に近い立場で仕事をしていると思うし、実際にはそんなに強い立場にあるわけではないのにも関わらず、どうしてもそこに生じてしまう「権力」のようなものに対しては、過剰に気を使ってしまうことになるは当然というか、とてもまっとうな感覚だと思う(こういうまともな感覚のない人もいたりはする)のだけど、でもだからこそ、作品の感想くらいは素朴に口にした方が良いのじゃないかと思うのだが。この時、ギャラリーの側が現実的な条件のなかで行わざるを得ない選別と排除、それにともなって生じる権力の不可避性は、例えばぼくなどが無責任な消費者として行う「オレ様ランキング」による、あいつは○で、あいつは×などという色づけとは根本的に違う、現実的で過酷なものだという感覚は重要だと思う。
04/02/23(月)
●朝、ビルとビルの間の隙間になっているところを抜けてゆく。(本当はここは通路じゃないんだけど。)狭い空間に自転車が一台停めてあって、ハンドルのところに手拭いが結びつけてあり、手拭いは朝露で湿って、重たそうに垂れている。今朝はそんなに寒くはないのだけど、ビルに囲まれ一日中陽の当たらないだろうこの場所の空気はひんやりと冷たい。
04/02/27(金)
●文芸誌をいくつか立ち読みした。「文學界」の対談で江國香織が「木村屋の焼きカレーパンが手に入ったときは絶対に朝食からビールを飲む」(この言葉はなんと手帖に書き付けられている)と言っているのに反応してしまって、「木村屋の焼きカレーパン」と「ビール」という、30歳を過ぎた身体にはかなり危険な、しかしきわめて魅惑的な取り合わせにしばらく頭を支配されてしまう。
04/03/03(水)
●空一面を灰色の雲が覆っていて、それより低いところに黒い雲が薄くまだらにかかって、風で流れてゆく。ゴォーという音をたてて、アメリカの軍用機がその腹がくっきり見えるくらいの低空飛行で空を横切る。午後になってから気温はぐっと下がり、風が冷たく顔に当たる。高い建物が重なり合う団地の脇の道路は、通る車も人も少なく、たまにゆっくりとした速度ではしってゆくバスの座席も人影がまばらだ。折り重なる団地の建物で姿は見えないが、子供のはしゃいだ奇声(しかし悲鳴に聞こえなくもない)が断続的にたちあがり、その声は建ち並ぶ建物に何度も反射して、こもったような響きになり、空へと抜けて雲に吸収される。だらだらした坂を下ってゆくと、陸上競技場のところを曲がってテニスコートから野球場へと繋がる道の入り口は、工事のために封鎖されていた。(この角のところにあったモッコクの木を見ることが出来なかった。)テニスコートの脇の駐車場は、その一部が資材置き場になっていて、黒と黄色の縞模様のバーに囲われて、重たそうな太い鉄柱が何本も並べて横たえてある。それを横目で見ながら緑地の方へ向かう。まだ新芽は出ていないが、枯葉はあらかた落ちきってしまった緑地のなかは、常緑樹の濃い緑色ばかりで単調に統一されていて、厚い雲を通過してくる灰色の光が、さらにそのモノクロームの印象を強めている。