TIMEqUAKE(映画・読書・その他、31)

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金井美恵子の『噂の娘』を読みなおした
キアロスタミ『風が吹くまま』をビデオで
清水崇『呪怨』(劇場版)をDVDで
呪怨/偏在する闇/保坂和志
新宿テアトルタイムズスクエアでアルモドバル『トーク・トゥ・ハー』
渋谷ユーロスペースで、キアロスタミ『10話』
保坂和志『明け方の猫』を読み返す
「仕掛け」は、勿論、作品の全てではないし...
同窓会という装置
ちびちびと『新世紀エヴァンゲリオン』を観直していた
黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た
黒沢清『降霊』をビデオで見直した
黒沢清『復讐・消えない傷跡』をビデオで見直す
橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』
「Web重力」の、湯本裕二『抑圧・視線・欲動』
横浜美術館の岡田謙三・展について
セドリック・カーンはとても刺激的な映画作家だ/『倦怠』
クローネンバーグの『スパイダー』をDVDで
夏の、ゆっくり暮れてゆく夕方


  金井美恵子の『噂の娘』を読みなおした
03/08/10(日)
●金井美恵子の『噂の娘』を読みなおした。昨日の荒れた天気のなかで読み始め、今日、台風一過の真っ青な空のもとで読み終えた。何故、いまになって読み返す気になったかと言うと、最近、保坂和志の『カンバセイション・ピース』が発売されたからで、ぼくはこの小説を雑誌連載の時点で何度も読んでいるし、連載が終了した時に、はじめから通して読み返してもいるので(感想はここ)、今改めて読み直す気にならないのだけど、ぼくの頭のなかでは、『カンバセイション・ピース』と『噂の娘』はとても密接に関係していて、この2つの小説は、似ているようで全く似ていない、しかし、全く違うと思うと妙に繋がりがあるもののように思えるのだ。例えば、糸井重里が保坂氏にインタビューしている記事を読むと、ここでの保坂氏の言葉は、自作の小説についてというより、金井氏の『噂の娘』について語っているように、読みながらふと錯覚してしまいそうになるくらいだ。
●『カンバセイション・ピース』も『噂の娘』も、共に記憶、時間、場所、といったものを巡る小説であり、ある特定の記憶、時間、場所が描き出され、問題となっているのと同時に、記憶や時間や場所というもの一般が、われわれにとってどのようなものとして立ち現れてくるのかといった事柄そのものが主題となっている点で共通しているが、二人の作家(二つの小説)では、記憶や時間や場所の「構成のされ方」が全く異なる、と言える。ぼくには、この二つの小説は、極端に言えば「全く同じ主題」で書かれているとさえ言えてしまうと思うのだが、にも関わらず、完成された小説は「全く別物」になっているように思える。違う作家、違う人物が書いているのだから違っていて当然なのだが、「個性」とか「オリジナリティ」とか、そういう下らないものとは全く異なる次元で現れる、個人の(世界への接し方の)「違い」というものが、ここにははっきりと現れている。この二つの小説作品は、重なり合う部分もありながらも、おそらく両立不能な異質性(断絶)をも有していて、しかも二つとも非常に質の高い素晴らしい作品であり得ている。保坂氏の小説の登場人物たちは、日常的な会話を交わしつつも、ふと、「神を空項」とする、なんていう抽象的な思考が展開されたりするのだが、金井氏の登場人物たちの会話は、近所の噂話であり、今晩の食事の話であり、映画の話であり、果てもなく収斂もせずにただざわざわとざわめくばかりなのだが、しかしそのような話のなかにこそある種の「普遍」とでも言うべきものが感じられるのであって、決して「神がどうした」という話に比べて意味がないなどということはない。
●蓮實重彦が、確か『早稲田文学』で現代日本文学について書いた文章に書かれていたのだったと思うけど、そこで蓮實氏は、金井美恵子の『噂の娘』のタイトルは、当然、成瀬の映画からとられているわけだが、金井氏の小説を読む時に、そのような「知識」は必要なのだろうか、と問う。作家である金井氏自身は、そんなことは知っていて当然で、知らない馬鹿は読むな、というような態度を時にとりもするけど、『噂の娘』という作品それ自体は、決してそのような「教養」を読む側に強いるものではなく、つまりそのような「教養」とは無関係に読めるように書かれている、とする。これは勿論、教養のない人でも素手で読めるという意味であると同時に、いくら教養があっても、そんなもの何の助けに成らないような「難解さ」をもっているということでもあろう。(それに対して、例えば大江健三郎の小説は、自分の小説の読者なら『ドン・キホーテ』くらいは読んでおいてくれ、という感じで書かれているとする。)最近の金井氏の作品の過激さというのはこのような点にこそあるのであって、まさに「ただ読むしかない文」として書かれていて、だから、未だに金井氏の作品と言えばレファランスの話しかしないような読者は、そこにまったく気づけていない。

  キアロスタミ『風が吹くまま』をビデオで
03/08/11(月)
●キアロスタミ『風が吹くまま』をビデオで。今まで、何故かこの映画を観る機会を逃しつづけていて、やっと観た。『友だちのうちはどこ』が、友だちにノートを返すという事柄だけで出来上がっていた映画だとすれば、『風が吹くまま』は、山間の村で、携帯電話で話すためには、車に乗って丘の上まで行かなくてはならない、という事柄の反復だけで出来上がっているような映画だ。つまり、たった一つの「映画を動かすための仕掛け」さえあれば、映画をつくるにはそれで充分なのだ。(勿論それは、一つの「仕掛け」であって、映画の全てではない。)この映画の「物語」は、珍しい風習であるらしいある村の「葬式」を撮影するために、撮影スタッフが村に滞在し、ある瀕死の老婆が死ぬのを待っている、というものだ。だが老婆はなかなか死なず、スタッフたちはだらけ、制作者は撮影をやめて帰ってこいと電話をかけてくる。しかしここでキアロスタミは、なかなか死なない老婆の「死」を待つ、引き延ばされ、遅滞する待機の時間を、じっくりと描くのではなく、ほとんどカフカばりの、ナンセンスなアクションのせわしない連鎖として組み立てている。いるはずのスタッフはほとんど画面に現れない。孤立する監督の「村」との接点は、案内役の少年、下宿先の子沢山の妊婦、いつも夫婦喧嘩をしているカフェの女主人、丘の上で何故か深い穴を掘っている姿を見せない男、村の葬儀の風習に否定的な教師など沢山いるのだが、それら一人一人の人物に合って聞く話は皆あまりに断片的なものばかりで、いつまでたっても「村」全体の様子を推し量ることが出来ない。案内役の少年は「試験」を理由に充分に役割を果たさないし、彼から聞き出す老婆の情報も要領を得ない。(この情況はまさしくカフカだろう。)そこへ何度も電話が掛かってくる。(撮影スタッフは、電話関係の技師だと偽って村に滞在している。)携帯電話の呼び出し音が鳴り、監督があわてて出る。ちょっと待って、もし聞こえたら切らないで、話が出来るところまで行くから、5分だけ待って。彼は下宿先から急いで飛び出し、高低差のある細い複雑な路地をせわしなく走り抜け、車に乗り込み、土煙をあげながら坂を登って、丘の上に着き、ようやく通話する。話が終わると、丘の上でたった一人で穴を掘り続けている男の方へと歩き、二言三言と言葉を交わした後、車で村まで帰って行く。村に戻りしばらくすると、また携帯の呼び出し音が...、以下、何度も繰り返す。何度も繰り返されるアクション。
●山間の村の複雑な地形(空間)をみせるために、主人公の映画監督が動き回るのか、それとも人物のアクションを始動させるために、いかにもキアロスタミ的な複雑な空間が舞台とされるのか、いずれにしても、複雑な空間と絡まり合って、次々と生起する人物の(ほとんどナンセンスな)アクションの集積こそがこの映画だと言えるだろう。言うまでもなく、アクションとは結果ではなく過程である。だからアクション映画とは、原因-結果という展開の複雑な連鎖としてある「物語」の進行を遅れさせ、その間にある「過程」や「段取り」ばかりを増幅させる。電話が鳴り、下宿を後にし、車に乗り、坂道を登り、丘の上に至る、という行程が、しつこいほどに律儀に繰り返されるのは、この行程そのものに意味があるのではなく、この(強いられた)反復が生み出す、人物の、ほとんど無意味なアクションそのもの、あるいはその律動が問題なのであり、このアクション(の空転)によってこそ映画が、映画と呼ぶしかないような、ある運動の感覚が生み出されるのだ。
●しかしだからといって、映画全体が主人公の監督のせわしなく空回りするアクションと同調しているわけではない。むしろ、主人公のせわしなさは、映画そのものの進行のリズムから浮いているとさえ言える。監督がせわしなく右往左往と走り回っている時も、同じフレームのなかで、動物たちがそれとは全く無関係なペースで歩いていたり、村人たちがそれぞれの仕事をしていたりする。つまり、常に複数の異なる時間のリズムが絡み合っていて、監督のせわしなく空転する時間は、それ以外の別の時間によっていつも「見られている(批評されている)」のだ。それは、特定の誰かの(人称的な)視点ではなく、そこにずっとある時間の流れが、外からいきなり侵入してきた別の時間の流れを、しげしげ眺めているという感じなのだ。

  清水崇『呪怨』(劇場版)をDVDで
03/08/12(火)
●清水崇『呪怨』(劇場版)をDVDで。まず言えるのは、ビデオで発売されていたオリジナル版の『呪怨』や『呪怨2』に比べて、はっきりと出来が悪いということだろう。ビデオ版の『呪怨』や『呪怨2』では、(制作費など、様々な製作の条件によって強いられたものだったのかもしれないけど)ミニマリズムと行っていいような抑えられ説明が省かれた演出で、このような演出によって、ほとんど物語的な必然性とは関係なく「呪い」が(「恐ろしいもの」の描写ばかりが)波紋のように拡がり散らばって行くという映画のあり方に説得力(恐ろしさ)を与えられていた。しかし、この「劇場版」の中途半端に「分かりやすく」したような演出はたんに弛緩していて、清水監督の基本的な演出力に対しての疑問ばかりが湧いてくる。特に、怖がる側の「怖がる表情」ばかりを、こんなにしつこく見せられるとうんざりする。あと、キャスティングのセンスの悪さはどうしたものだろうか。中心にいるような女の子の役に、割合有名な女優を使いさえすれば、それ以外の役などどうでもいいというような感じにみえる。例えばビデオ版『呪怨2』は、柳ユーレイや芦川誠のような俳優の存在感に支えられているところが大きかったのではないか。それに比べ「劇場版」の刑事は、本当にあんな演技でOKなのか。怖がらせるシーン以外の場面で、普通に人が立っていたり、歩いていたりするところが、こうまで説得力に欠けてしまうのは、ほとんど致命的なことではないのだろうか。怖いシーンが怖いためには、それ以外の普通のシーンに、普通に説得力がなければならないと思う。『呪怨』のシリーズでは、その普通のシーンが分量として少ないのだから、尚更そこに神経が使われる必要があるのではないだろうか。この映画で「普通の」説得力を支えるポイントとなる人物は、おそらく年輩の刑事と、今は刑事を辞めている田中要次だと思うのだけど、この二人が全くダメなことが致命的である。全体的にみて、清水監督は、割合若い人を動かすことは出来ても、中年以上の年齢の人物を、画面のなかでまともに動かすことが出来ないように思える。上原美佐の母親役の中年女性の「やつれた」不気味さを、あんな風にコントみたいに表現してしまうのは、いくら何でも酷すぎるのではないだろうか。
●『呪怨』シリーズの恐怖には、矛盾する二つの方向性がある。一つは、このシリーズで描かれる出来事全ての原因である、オリジナルな事件としての「伽耶子」の事件そのものの恐ろしさ(その恐ろしさの「記憶」の反復)であり。もう一つは、「呪い」がその事件のあった家に関わった人全てに、無差別的に拡がってゆくことの怖さだ。前者は、人間の愛と憎しみを巡る「物語」に根拠を置く怖さであり、それは古典的なホラーの恐怖であろう。もう一つ方は、物語的な必然性など全くなく、たまたま通りかかったのと大差ないくらいの関わり方でも、その「家」に関わってしまったからには「呪い」からのがれられない、というもので、これは「偶発性」に対する恐怖であろう。恨み辛みから殺されるとか、そこが危険だと承知している場所に、それと知って近づいたことで危険に巻き込まれるとか、そのような因果律に回収されるような恐怖ではなく、たまたまそこを通りかかっために通り魔に刺されてしまう「かもしれない」、というような、根拠が何もないからこそ、それを否定することが難しいような、漂う「恐怖」であろう。例えば『リング』だったら、ビデオテープによって「呪い」がばらまかれるという恐怖を解決するために、もともとのオリジナルであった「貞子」の事件が追及されるのだが、『呪怨』シリーズにおいては、オリジナルな事件そのものと、その「呪い」の伝播の恐怖との関連性が極めて薄い。と言うか、オリジナルな事件によって発生する「呪い」自体が、極めて複雑な組成(曖昧な性質)をもっているため、オリジナルのオリジナル性が薄く、そのオリジナル自体が既に何かの反復でしかないような存在感の薄さをもつ。伽耶子の夫は、妻に結婚以前からずっと好きだった男がいることを知り、そのことへの失意と怒りから伽耶子を殺害し、自分も死ぬ。この、夫の強い失意と怒りとが「呪い」となって残留するだろう。(この時夫は、妊娠中だった「妻が好きだった男」の妻をも殺し、その子供を腹のなかから取り出しさえする。)殺された伽耶子は、大学時代の同級生をストーカー的に執拗に思いつづけ、彼の日頃の行動を観察し、詳細なノートまでつけている。彼女は夫に殺されるのだが、この時の殺されることに対する「恨み」と同時に、同級生への病的なまでの強い「思い」も同時に「呪い」となって残留するだろう。そしてこの残忍な事件を目撃してしまった子供の「心の傷」も、そこに「呪い」として残留するだろう。物語上の理屈から考えてみると、この「家」の「呪い」は極めて複雑であり(と言うか「恐ろしげ」なことが適当にブレンドされているだけであり)、「呪い(という感情)」の中心軸がどこにあるのか全くはっきりしないのだ。だから、呪いの性質は「物語」的に極めて曖昧なものとなる。このオリジナルな事件の「呪い」のもつ曖昧さが、反復され伝播してゆく事件の展開において、様々なホラーの「ジャンル的記号(怖がらせる為の技法)」をほとんど好き勝手に散りばめることを可能にする。少なくともビデオ版の『呪怨』や『呪怨2』においては、このような「軸の不在」(によるジャンル的な記号の乱舞)が、現代的な、捉えどころのない、寄る辺のない「恐怖感」のリアリティ(あるいは「現代的な恐怖」が全くチャチで薄っぺらなものから出来ているということのリアリティ)に触れていたように思う。しかし、劇場版の『呪怨』では、残念ながらそれは成功していないと思える。
●でも、これは個人的な趣味になってしまうけど、呪いの「家」を焼いてしまおうと、夜中に灯油をもって忍び込んだ田中要次が、時間を超えて、高校生へと成長した自分の娘と出会ってしまうシーンなどはとても好きで(こういうシーンが好きだということは、ぼくはやはり「情」としてのホラーが好きだということなのだろうか)、こういうシーンが撮れるのだから、清水崇という人にはまだまだ期待してもよいのではないかと思ってしまう。ただ、劇場版『呪怨』ではっきりと露呈したのは、ビデオ版『呪怨』『呪怨2』のある程度の成功には多分に「まぐれ当たり」的な要素が多く含まれていて、清水監督はまだ基本的に実力不足だということだろうと思う。

  呪怨/偏在する闇/保坂和志
03/08/15(金)
●『呪怨』をとりあえずの頂点とする、最近のジャパニーズ・ホラーが生み出した「闇」は、例えば谷崎が『陰翳礼賛』で書いたような、日本家屋のじめじめした薄暗い闇とはまったく別物だろう。それは人間の視覚や意識のちょっとした死角になるような場所、目の端にうつってはいるのだけど、見てはいないような場所としての「闇」だろう。だから、昼間の均等に光りの当たった見晴らしの良い場所でも、人間のいる場所ならどこにでも「闇」は出現し、そこには幽霊(恐ろしいもの)が潜んでいる。目の端で何かがチラッと動いたような気がするのだが、そちらを向いて確認するとそこには何もいない。だが、安心してそこから視線を外すと、外したとたんに、そこに「恐ろしげなもの」は現れる。人が何かを見る時、何かを意識する時、そのフレームの内部には必ずどこか一点の死角が生じる。だから死角(=闇)はどこにでもある。このような闇(幽霊)の偏在性こそが、新たなホラーの恐怖のリアリティょ支えている。(それは、多くの人々が集まり、監視カメラなども設置されているショッピング・モールのような場所に、ふと生じてしまう死角で、実際に恐ろしい事件が発生してしまうことがあるという現実上の恐怖と通底しているだろう。)あらゆる場所が光(意識、あるいは視線)で満たされているからこそ、あらゆる場所に死角(闇)が生じるのだ。明るい部屋の隅、レストランのテーブルの下、ごく薄い壁のみで仕切られたトイレの隣の個室、風呂場で洗髪している時の背後、等々。(注目すべきなのは、黒沢清のホラーにおいては、幽霊はこのような闇=死角を必要としていないということだ。黒沢ホラーにおける幽霊や怪物は、たんにわれわれとは異なる原理で、あるいは異なる次元で存在しているものなのだから、我々がそれを見ようが見まいが関係なく、ただそこにいるのみだ。この、幽霊の存在の仕方の差異は、決定的に重要なもののように思われる。)
偏在する光のなかに生じる偏在する死角としての「闇」には、確かに一定のリアリティがある。しかし一方、例えば『呪怨』のあらゆる呪いの原因としてある伽耶子の幽霊のいる闇、建て売り住宅風の安っぽい家の二階の部屋の押入の上にある天井裏という「闇」は、『陰翳礼賛』的な闇が現代風に薄まったような闇でしかなく、もはや他の偏在する「闇」と比べて特権的な地位を保てるような質を持ってはいない。確かに、レストランのテーブルの下や、洗髪している時の背後などに現れる闇は、偏在する光のなかでふと現れ、ちょっとした人物の仕草やアクションなどによってすぐに消えてしまうようなものであるのに対し、建築物は、光と闇の濃淡(つまり空間的配置)をある程度固定させる装置として働く。だから、ある固有の「呪い」を残留させ保存する装置として「家」は不可欠のものであるのだろう。しかし、あらゆる偏在する闇を通じて伝播してゆく「呪い」の無差別な伝播力の恐ろしさに比べ、安っぽい建て売り住宅風の家は、そこまで強くて濃い「呪い」の記憶媒体としては、あまりにも弱く不安定なものであるように思えてしまう。とは言っても、これが古い洋館のような場所で起こった惨劇になってしまうと、それはもはやお伽噺の領域に入ってしまい、すくなくとも現代の都市部や郊外に住む我々のリアルな感触からは離れてしまう。(実際、ビデオ版の『呪怨2』で、芦川誠の親両親が住む田舎の家の空間を、清水監督は全くまともに造形できていない。)
●ぼくにとって、『呪怨』のようなホラー映画について考えることは、例えば保坂和志の『カンバセイション・ピース』のような表現が、「古くて大きな家」という装置なしで、どのように成立することが可能なのかを考えることでもある。ぼくは保坂氏の小説で一番好きなのは『東京画』なのだけど、この小説は、そのための可能性を示してくれてもいる。『東京画』では、『カンバセイション・ピース』のような「古い大きな家」や「野球場」という限定された空間ではなく、一つの町内が、しかもバブル期で常に風景が移り変わっているような「動きつつある姿」が、まるで猫のような俊敏な嗅覚で描写されているのだ。(これは余談だけど、保坂氏の小説を初期のものと最近のものを読み比べると、「猫」というものの重要性があらためて感じられる。『プレーン・ソング』や『東京画』において、主人公と猫との接触は、「野良猫」や「通い猫」のような「外」のものだったのに対し、『季節の記憶』では猫=子供は家族の一員となり、『カンバセイション・ピース』では「猫」は遂に外へは一歩も出してもらえなくなる。それと平行して、保坂氏の小説の興味も、外側の空間(開放的な空間)から内側の空間(限定された空間)へと移行してゆくように感じられる。そこでは、ある思索的な深みと引き替えにして、ある種の運動感がうしなわれているようにも思う。)

  新宿テアトルタイムズスクエアでアルモドバル『トーク・トゥ・ハー』
03/08/17(日)
●アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』。アルモドバルはとても聡明な映画作家で、ほとんどその頭の良さだけで映画を撮っているように見える。物語というレベルでみれば、妙な作為性ばかりが見えてしまう(もともと、作為性を「作為性」として見せるような作風なのだから当然かもしれないけど)のだけど、そこに絶妙な演出のさじ加減で、厚みと説得力とを生み出す。明らかにキッチュな、派手で下世話なラブホテルの内装のような空間に、アルモドバルが手を加え、ちょっとした配置を直すだけで、そこにシブさや、暗くて思い、鈍い輝きのようなものさえが浮かび上がってくる、みたいな。例えば、ベニグノ、アシリア、マルコ、女闘牛士、という主要な登場人物4人を演じる俳優の身体的特徴(要するに「見た目」)の配置の絶妙さ。この、少々あくど過ぎると言えなくもない対比の妙が、図式的と言っても良いだろう人物設定に生々しい感触を与える。マルコという中年男のクローズアップ一つで、ヨーロッパの文化的な厚みとその退廃の匂いとを同時に感じ取ることが出来るし、女陶器融資の顔つき一つから、その文化的多様性を感じることが出来る。あるいは、「視線の等方向性」という装置の使い分け。つまり劇場と自動車。この二つの場所は、共に二人の人物を向かい合わせることなく、横に並ばせる。しかし、劇場においては、二人は同一の対象(舞台上)を観ているのに対し、車のなかに並んで座る二人は、同じものを観ているとは限らない。だから、冒頭に劇場で隣り合うベニグノとマルコとは、深い友情(愛情?)で結ばれ得るのだが、もっぱら車のなかで隣り合う(同一な視線の対象を持たない)マルコと女闘牛士のカップルは、決して良好な関係へとは至らない。(ベニグノとマルコは、その後も、共に「植物状態になった女」を見る者として、視線の等方向性をもち、急速に親しくなってゆく。しかし、視線の対象としての「女」を失った二人は、一対一の向かい合う関係へと移行する。これはほとんど恋愛と言って良いだろう。しかしその時は、刑務所の囚人と面会者として、分厚いアクリル板に隔てられている。)あるいはベニグノという男の存在のさせ方の絶妙さ。アルモドバルはこの男がたんに「マザコンの気持ち悪い男」に見えないように繊細な配慮をしている。かと言って、「無償の愛を捧げる無垢な存在」にもしない。彼は非常に「心優しい男」ではあるが、同時に、その存在のあり方に根本的な欺瞞を抱えている。彼のアシリアへの愛情はどこまでも一方的で自分勝手であり、だから彼の献身的ともいえる介護は、それ自体ほとんどレイプに等しい。(だから彼の犯した行為は当然の帰結と言える。)だが同時に、彼の行う介護の行為の一つ一つは、高い技術と繊細な配慮、そして愛情に満ちたものであり、それは実際アシリアの回復の「助け」となるものであることも間違いがないだろう。この矛盾する二極性を、アルモドバルの巧妙な演出はそのどちらにも傾かないような、絶妙な中間性を保って見せている。あるいは、ラストで、マルコとアシリアとが劇場(という、本来視線の等方向性をかたちづくる場所)で、向かい合って視線を交わすショットの空間的配置の素晴らしさ。マルコとアシリアとは、座席一列を挟んで前後に座っており、二人の間にあるイスは何故かそこだけ空席である。(この絶妙な距離感。)この配置を真横から捉えたショットで、前にいるマルコが振り返り、後ろのアシリアと目を合わせる。このショットは、映画において「空間的な配置」が、やすやすと「物語」を超えてしまうことをはっきりと示しているだろう。等々、アモルドバルの演出の見事さを書き出せばきりがないくらいだ。アモルドバルは、映画とは結局「演出」の問題なのだ、と自信をもって断言しているように思える。しかし、そのあまりに揺るぎない自信に対して、やや疑問を感じないでもない。
●『トーク・トゥ・ハー』は「男」だけの映画だ。言い直せば、この映画は「男と男との関係」のみが描かれ、「男と女の関係」は描かれない。「女」は「男」によって一方的に「見られる」ことでしか存在しない。ベニグノのアシリアに対する愛情が、結局ベニグノの欲望の一方的な発露でしかないのと同様、マルコの女闘牛士への愛情もどこまでも一方的なものである。ベニグノがバレエ教室のアシリアを一方的に見つめていただけなのと同じように、マルコもテレビ画面に映る女闘牛士をたまたま見かけ、一方的に「発見」しただけなのだ。(ここで両者とも視線は一方通行である。)マルコはここで、一方的に愛情を感じ、闘牛のことなど何も知らないのに取材を申し込み、闘牛の知識はないが、傷ついた女のことなら分かる、とかなんとか言うのだった。この二人の関係が、取りあえず上手く行くのは、ただ女闘牛士の家の前にたまたま「蛇」がいた、という偶然からに過ぎない。取りあえず上手くいったようにみえるとはいえ、マルコは彼女から「話しているのはあなただけじゃない」と言われるような存在なのだ。(試合が終わったら話があるの/今、話しているじゃないか/話しているのはあなただけじゃない)男が女に一方的に「話して」いるだけ(あるいは「見ているだけ」)、という情況はベニグノとアシリアの関係と違いはない。だからこの二人は、冒頭に同じ舞台(ピナ・バウシュの『カフェ・ミューラー』)を見ている時から、全く同じ「物語」をパラレルに生きているのだ。(だからこの二人が親しくなるのは当然なのだ。)しかしマルコは、女闘牛士が植物状態になった頃から、自らの「愛情」のあり方に違和感をもちはじめ、さらに、彼女が、前の男とよりをもどすつもりだったと聞いて、自らの愛情(視線)が一方的なものに過ぎなかった(つまり「孤独」であった)ことにはっきりと気づくのだ。一方、いつまでも「愛の夢」のなかにいるベニグノは、その「夢」がもともと孕んでいる暴力性に導かれるようにして、暴力を犯してしまう。ここから、今まで並んで「同じもの」を見ていることで、まるで双子のようだったマルコとベニグノの間に、決定的な差異が開ける。差異が生じることで、二人ははじめて「向かい合う」ことになる。しかし、この二人の、ほとんど愛情と言ってよいだろう友情の間には、刑務所の分厚いアクリル板が存在し、互いに手を触れることも出来ない。結局、ベニグノは「愛の夢」のまどろみのなかでの「死」を選択し、つまりマルコの友情=愛情を裏切り、マルコもベニグノも絶対的な孤独のなかに放り出される。つまり、はじめて「向かい合う」関係の可能性が開けたのに、それがベニグノの自死によって費え去ったのだ。映画は、ほとんどここで「終わり」と言っても良いのだが、しかしラストにある希望を示す。一つは、アシリアの復活であり、もう一つは、復活したアシリアとマルコの間に「向かい合う」関係の可能性が、予感としてだけ(空間的な配置としてだけ)示されることだ。そうして、物語は、あまりにも美しく完結する。
8/19(火)
●一昨日の『トーク・トゥ・ハー』について付け足し。この映画には一つの残酷な逆説が仕組まれている。ベニグノは、結局最後まで、一方的な「愛の夢」のまどろみのなかで生き、マルコをも裏切るかたちで自死をする。一方、マルコは、少なくとも自らの愛が一方的なものでしかなかったことを自覚し、だからこそベニグノに手を差し伸べようとする。だが結果的には、植物状態だったアシリアを蘇生させたのは、ベニグノの「愛の夢」のまどろみなかでの介護であり、加えて、彼の暴力すらもそのきっかけとして作用したのかもしれないのだ。(これはあくまでも、たまたま結果的にそうだった、ということだ。)一方、マルコの知的で明確な「自覚」は何ものももたらしはしない。マルコは結局、女闘牛士もベニグノも救うことは出来ない。つまり、現実的に「何事か」をなしえたのはベニグノの方なのだ。さらに言えば、最後まで「愛の夢」のまどろみのなかで死んだベニグノは幸せだったとすら言える(かもしれない)のに、マルコはベニグノの死後、より深い絶望のなかで生きるしかない。ここでは、自覚的であることは、現実上で何の効果も生まないばかりか、自覚的な主体を不幸にさえする。(一応、ラストでマルコの希望の「予感」のようなものだけは示されるのだが。)アルモドバルは、この逆説を、ことさら声高に言い立てることなく、ただ静かに示す。自覚的?、だから何?、と。勿論、「愛の夢」のまどろみが肯定されているわけでもない。ただ、ある逆説がそっと示されるのみだ。このような逆説を静かに示すアルモドバルは、様々な意味で「自覚的な作家」であろう。彼は、ヨーロッパ的な成熟が、退廃へと移り変わってゆく、そのぎりぎりの境界線上で仕事をする、極めて「成熟」した作家である。

  渋谷ユーロスペースで、キアロスタミ『10話』
03/08/18(月)
●キアロスタミの『10話』。車のダッシュボードに置かれた2台のカメラ。1台は運転席の方を捉え、もう1台は助手席の方を捉えている。この2つのポジションが、この映画のほぼ全てのショットを構成する事になる。(しかし、車から降りた売春婦の後ろ姿を捉えるショットは、どうも別のポジションから撮っているように見えるのだけど。)登場人物は、この車を運転する女性と、その助手席に乗ることになる6人のだけ。自動車の内部での会話のやりとりが、この映画の全てだと言える。しかも監督のキアロスタミは、事前に簡単な打ち合わせをするだけで、実際にその演技を見てはおらず、ただ自動的に撮影された映像(膨大な量だったそうだけど)を編集するだけ。監督自身によって「演出の消失」と言われもするこの映画は、しかし実際はどこを切ってもキアロスタミの徴で満ちている。むしろ、監督の視線の不在やオートマチックな撮影によって、逆説的に、世界の全てのコントロール権をキアロスタミが握ってしまったかのようだ。自動車のなか、据えっぱなし、回しっぱなしのカメラ、運転席と助手席での二人の人物の決して向かい合うことのない姿勢のままでの会話(必然化される「切り返し」)、その場で演技を見守る第三者の不在、恐らく、厳密には書き込まれていないラフなテキスト、このような情況に追い込まれれば、誰がどのように振る舞おうと、走っている自動車の外で何が起ころうと、子供がチラチラとカメラの方を見てしまおうと、それらは全てキアロスタミ的なものへと回収されてしまうだろう。一見、世界を生々しく捉える直接性に開かれているかのようにみえるこのような設定は、実は世界のあらゆる事柄をキアロスタミが自らの手中に、自らのコントロール下に納めるための設定だったのだ。ここでは決してハプニングは起こらないだろう。だいたい、演出の消失なんて言葉が嘘っぱちでしかないことは、運転席の窓の外に、反対車線の離婚した夫の車が見えていて、そこから子供が下りてくる、という、計算され尽くしたカメラポジション一つを見てみれば明らかだろう。その他にも、助手席の方へ向けられたカメラが、シーンによって微妙に角度が変えられていたり、老婆や売春婦が「後ろ姿」としてしか示されていなかったり(特に売春婦の後ろ姿は、ぼくにはファインダーを覗いて、つまり構図や距離を意図的に選択して撮ったショットにしか見えない)、それに、恐らく頭を剃ってしまった女性の仕草などは、例外的に監督から細かな指示が出ていただろうと思うし、隅々にまで行き届いた細かな「演出」(明確な「意図」)が至る処に見いだせるではないか。この映画には、キアロスタミ的なものをふと超えてしまうような偶発性など一切あり得ず、あくまでも偶発的なものに見えるように必然化されたものがあるのみだ。だからこの映画から感じられるものは、ドキュメンタリー的な生々しさではなく、キアロスタミによる過剰なまでのコントロールへの意志だ。
●この映画のキアロスタミは、いつにも増してシンプルである。そして、キアロスタミの強いコントロールへの意志は、おそらくこのシンプルさの実現に向けてなされている。(例えば『風が吹くまま』だったら、そのシンプルな構造は、むしろ世界の複雑さや豊かさを「捕獲」するためにあるように見える。)この映画の大胆さとは、その技法や狙いの大胆さにあるのではなく、徹底してシンプルであろうとすること、その徹底ぶりの大胆さであろう。たしかに自動車はキアロスタミ映画にお馴染みの装置であろう。いや、キアロスタミに限らず、ロッセリーニ、ゴダール、ヴェンダース、等々、自動車が一台あれば、そこにさまざまなに豊かな映画的空間を創出することが可能である装置であることは、映画史な事実だ。だがここでキアロスタミは、豊かさではなく、むしろ貧しさとでも言うべきシンプルさのために自動車という装置を使用している。この映画で問題となっているのは、運転席の女性であり、彼女が交わす会話であり、その会話を成立するために助手席に乗り込む人物であり、それだけであり、それ以外ではない。それ以外のものには目を向けさせず、しかも映画を活き活きしたものとして持続させることを可能にするのが、自動車という装置なのだ。ここでキアロスタミは、可能な限りシンプルに物語を語ろうとしている。映画は物語をどこまで単純に語り得るかに、その野心がかかっている。もし、喫茶店のような場所が舞台だとしたら(恐らくゴダールだったらホテルのような場所を舞台にするだろう)、他にも様々な要素が介入してしまうだろうし、白い壁に囲まれた部屋のような、抽象的な場所を舞台とするなら、今度は(アングルをいろいろと工夫したりとか)様々な手法を駆使しなければ、映画が「もたない」だろう。自動車の内部であれば、フレームがそこだけに限定されると同時に、ただ走ってさえいれば、様々な音も入ってくるし、窓の外の景色も移り変わるし、光の方向や強さも常に変化するしで、ただそれだけで「もって」しまうのだ。だからこの映画においては、自動車の走行音や振動、窓の外の動いている風景、自動車や会話の進行の邪魔をする迷惑駐車、ちらちらと移り変わる光、などの、「会話」以外の要素は、外の世界の豊かな「ざわめき」ではなく、限定されたシンプルなフレームの、「シンプルさ」を実現するために必要な最小限のノイズのようなものなのだ。(この映画に対する文句があるとすれば、DVというメディウム、自動車という装置に、あまりに「大胆に」頼りすぎているという点にあろう。この大胆な図々しさこそが凄いのだ、とも言えるが、しかし、あまりに見事にDVというメディウムを利用し、自動車という装置を利用していることで、実は逆に、それらに強く規定され過ぎてしまっているのではないかという疑問もあるのだ。)
●『10話』に登場する女性達は皆、まるで「現代テヘランにおける女性の結婚観」とか何とかいうタイトルの社会学の論文のサンプルにでも出てきそうな会話をする。そのような人物たちが、「活き活きとした女性達」に見えるとしたら、それはひとえにキアロスタミの巧妙な(ほとんど詐欺まがいの)演出によると思う。これは決して悪く言っているのではない。むしろキアロスタミにはそのような映画を撮ってもらいたいものだと思っている。『桜桃の味』のような「人生しみじみ」系の映画よりも、『ABCアフリカ』の残酷な無責任さや、『10話』の愛嬌のないそっけなさの方にこそ、キアロスタミの素晴らしさは発揮される。特に『10話』に出てくる少年の、何とも微妙な「可愛くなさ」が素晴らしい。この「ステレオタイプ」と化した「男」の意見の口まねさえする(そのような役割を与えられている)、中途半端に肉のついた、もう子供とも言い切れない半端な年齢の、この憎たらしいガキの「可愛くなさ」のリアリティこそが、キアロスタミ的な生々しさなのではないだろうか。

  保坂和志『明け方の猫』を読み返す
03/08/20(水)
●保坂和志『明け方の猫』を読み返す。この小説は、主人公が夢のなかで猫になり、猫の身体をもって行動し思考する。小説全体が夢だけで構成されており、だからこれが「夢」であることが知れるのは、夢以外のもの(現実)との対比によってではなく、夢のなかで「これは夢なのだ」と自覚することによってだ。この小説では、だから夢のなかが世界の全てであり、その「外」へは逃げられない。ただ、「外」があるとすれば、小説の記述のされ方にあると言える。この小説は、夢を見ている主人公の一人称ではなく、主人公を「彼」と呼ぶ三人称的な話者によって語られる。夢とは、いわばそれを見ている人にしか「見えない」ものであるのに、その「夢」を見ている主体を外側から「彼」と呼ぶ話者が語るとはどういうことか。だが考えて見れば、今、夢を見ている者が同時にその夢について語ることなど出来るはずはなく、つまり、夢を見ている「私」とそ、その夢について語る「私」とでは、時間的にズレている。夢を語るということは、夢を見終わった後に、過去(夢)について語るということだ。だからこの小説で、「彼」と「話者」とが、三人称一元的な記述によって分離しているのは、今、夢を経験しつつある「私」と、それについて語る「私」(つまり夢の「外」にいる私)との、間にあって両者を隔てている「時間」を顕在的に示すためであろう。そして、夢という極めて内的な経験をこのような形式で記述することで、通常の一人称的な記述も、実はそのなかに三人称一元的な「私」の乖離が含まれていることをも示しているだろう。
●語るということは、だから、常に「過去」について語るということになる。未来について語る時でも、未来について(語るよりも)以前に「考え」たり「想像」したり事柄を語ることになる。だから、話者にとって、夢は過去に見られたもの、既に現時点では完結してしまっているものであろう。しかし語られる「彼」にとっては、夢は今まさに見つつあるもの、経験しつつあるものであり、だからこそ「切迫した」問題として受け入れるしかないものであり、その外(メタレベル)へは逃げられない。だが、いくら「彼」にとって夢が切迫した問題であるとしても、それを語る話者にとっては既に完結してしまったものであるとするなら、夢のリアリティは、ただ言葉の上の効果に回収されてしまうだろう。(つまり「物語」とはそういうもので、物語は常に既に完結してしまったものとして、完結した後の視点から語られるしかない。物語における話者の安定した位置や、それを聞く=消費する者の、ある保留され、安定した時間、無時間的な時間のなかでそれを受け入れるための位置、などを保証しているのは、全てが完結した後から注がれる視線によってであろう。)にも関わらず、この小説から夢のリアリティが感じられるとしたら、それは「彼」にとって夢が今まさに経験しつつあるものであるのと同じように、話者にとって「この語り」そのものが、今まさに語りつつあるもの、語ることで、今、形づくられつつあるもの、語りとして生まれつつあるもの、完結してなくて生成しつつあるものである、という風に「語られ」ていることによるだろう。夢という、過去に完結したもの、構造として確定したものを、語りとして再現、あるいは反復させるのではなく、新たな「夢についての語り」を語りつつ生成させてゆくという行為のただなかで「語っ」ているのだ。(勿論ここで、話者と作家本人とを混同してはならない。話者とは、読者が書かれた小説=言葉を読むこと(の効果)で初めて生成されるような存在のことであって、生きている作家自身とは、とりあえずは分けて考えられなくてはならない。実際には、小説は既に完結してしまっているのだから、それは、今、読みつつある「読者」の現在によって、はじめて、「彼」「話者」「読者」の三者の「〜しつつある現在」が同時に生まれるのだ。 )今、夢を見つつある「彼」、夢の話を語りつつある「話者」、そしてそれを今、読みつつある「読者」、この、本来分離している筈の三者が、未だ完結していない「〜しつつある現在」という地点よって重なり合う時、初めて、「物語」とは別種の、今、生成しつつあるものとしてのリアルな夢=小説作品が生まれるのだと言える。
03/08/21(木)
(昨日からのつづき、『明け方の猫』について。)
●今、夢をみつつある「彼」と、それを語りつつある「話者」、という中心点の分離(複数化)を、三人称一元という記述で顕在化する語りの構造は、独自の、複雑でまわりくどい文章を生み出すことになる。しかしこのような、小説であることによって必然化されるまわりくどさ(それはつまり、一人称においても三人称的な「分離」が内包されていることによる)こそが、保坂氏の思考が小説という形態を必要とする理由であろう。例えば、猫になった「彼」に、どこかから「科学と宗教は等価なんです」という声が聞こえてくる。それにつづく部分。
《科学と宗教が等価なんだと言うことによって、人間の知能と猫の触毛は等価なんだとこの夢が言いたがっているのかとも思ったが、そういう単純な図式化は覚醒時の自分が最も我慢ならない考え方だと彼はわかっていた。いまの声はもっと別のことを言おうとしていたはずだった。では何かということまではしかしいまの彼にはわからなかった。何しろ彼はいま眠って夢をみているところだ。夢のなかでその意味を考える彼よりも、いまの彼を考えさせたり行動させたりしているところの夢の力の方が複雑な論理を使っているはずだった。夢が使う論理は覚醒時でも解ききれないほど複雑で巧妙な論理で、いまの自分に勝ち目はないと彼は自覚していた。》
この文章の難解さは、書かれている事柄という意味での「内容」によるのではなく、ある思考を行う時、あるいは思考を記述する時に、不可避的に通らざるを得ないある「段取り」の複雑な経路そのものを、文章の形式として把捉しようとしている事によるだろう。つまりこの文章の「内容」とは、書かれている事柄そのものであるよりも、ある思考を思考させるシステムのあり方の(形式としての)明示にこそあると言える。だからこの文章は、その意味を(分析することは出来ても)「要約」することが出来ない。ここでは、今、夢を見ている「彼」が考えていることと、その「彼」を事後的に見つめている話者による考え、そして「彼」の考えを話者が言い換えている部分というように、ひとつながりの文章の流れのなかで畳みかけるように視点の変換がされていて、その視点が変換されるなかで、「彼」のものでも話者のものでもない「夢の論理」、「彼」の考えや行動を、そのように考えさせ、そのように行動させるように導き、強いている力としての「夢の力」というものの存在が意識されることになる。「夢が言いたがっている」という言い方に現れているように、ここでは「彼」にとっても話者にとっても夢に何かしらの「意味」がこめられていることが確信されているのだが、その意味は明確には捉えられない。つまり夢の意味とは要約不能な何かであり、「夢の力の持つ複雑な論理」そのものが「意味」であるはずだからだ。「夢の論理」「夢の力」「夢のルール」「夢の運命」という言葉が頻繁にこの小説中にはみられる。これらのものは皆、はっきりとこういうものがあると明示されるものではなく、「彼」も話者も共に、そのような強い力が「この夢」という場所には存在し、その力に強いられるようにして行動し思考していることが意識されつつも、その「論理」ゃ「ルール」や「運命」が実際にどのようなものであるのかを明確に知ることはできない。つまり、明らかに「法」があり、それに従わされていることを意識しているにも関わらず、その「法」がどのようなものであるかは知らされていないのだ。「夢のルール」は、ただ「予感されている」だけにも関わらず、その存在は「確信」されている。このことによって、夢に、たんなる夢想のようなものとは異なる、ある切迫と緊張に満ちた「夢のリアリティ」が生じるのだ。われわれが日常的に感じている現実世界での「真実らしさ」が通用しない世界で展開される『明け方の猫』という小説が、夢想めいた、とりとめのない、とらえどころのない、散漫なものにはならず、あるしっかりとした感触、実際に「物」に触れるのと同等な抵抗感をもったものと感じられるのは、夢の論理(法)が「予感」されているということによるのだろう。(勿論、保坂氏の猫に対する愛情というのが根本にあることは、言うまでもないのだけど。)
●つけくわえれば、『明け方の猫』に同時に収録されている『揺籃』(80年に書かれたそうだ)は、基本的にはベケット+ディックということなのだろうけど、それ以上に80年代初頭のサブカル的な雰囲気が濃厚に吸収されていて、例えば蛭子よしかずや丸尾末広のマンガや、白夜書房やペヨトル工房などの出版物に漂っていた雰囲気と近い感触があって、好みとしては割と好きなのだけど、小説としてはとても『明け方の猫』と同列に並べられるものとは思えないのだが、それは、主人公=話者の「ぼく」にしても、その小説の展開をコントロールしている作家=保坂氏にしても、不可視ではあるものの、それが作用していることが強く意識されている「夢の法」に対する緊張が、『明け方の猫』に比べて足りないからだと思える。それが、特に終盤以降の、電車を降りた後の展開の単調さとしてあらわれているように感じた。この小説の終盤では、主人公=話者の切迫感が、ただ物語の内容としてのみ示されているだけのように思う。(逆に言えば、終盤が、安易に「砂漠」みたいなイメージに収斂していなければ、凄い小説になったかもしれないと思う。実際に「新宿」に到着すべきだったのではないだろうか。)

  「仕掛け」は、勿論、作品の全てではないし...
03/08/22(金)
●「仕掛け」は、勿論、作品の全てではないし、作品の「核」でもない。仕掛けは、いわば、作品を転がしてゆく(生成させてゆく)時の力学的な仕組みのようなものだ。だから、その作家の資質に合った、よい「仕掛け」を設定することが出来れば、作品はより遠くまで行くことが出来る。作家は、作品の全てをコントロールすることが出来るのではなく、ただ、仕掛けを設定し、それを(より遠くまで行けるように)全力で転がしてゆくことが出来るだけなのだ。実際に「つくる」という作業を通して出てくるものを使って「つくりあげてゆく」のが制作というもので、しかし、いくら一生懸命につくったとしても、仕掛けが悪ければろくなものは出てこない。だから「仕掛け」とは、あらかじめ存在している構造や型といったものとは違うし、「構想」のような、遠く(終点)を見つめる眼差しとも違う。それは、世界に触れる時の「触れ方」の技法のようなもので、「着地点」を想定するよりも前に仮定的な「判断」を構成するために必要なものだ。だから、人のつくった「よい」と思われる作品をみた時に(作家として)気になるのは、(作品の表面的な効果よりも)この作品はどのような「仕掛け」の設定によって、ここまで来ることが出来たのだろうか、ということだ。しかし繰り返すが、これは「作品」のすべてでは決してない。作品とはむしろ、仕掛けそのものではなく、その仕掛けによって生成され、把捉されたざわめくものの豊かさの事だと言うべきだろう。そのざわめくものの豊かさを浴びることが作品に触れる歓びであり、これがなければ意味がない。

  同窓会という装置
03/08/24(日)
●昨日は、中学の時の同窓会に出るために一泊だけ「地元」へ帰っていた。中学生というのはいわば一生で一番野蛮な時期で、まだガキのくせに単純に子供とは言えず、すでに固有の「実質」のようなものを持ち、中途半端な世間知も強い欲望も持ってるのだけど、ガキであるために考えが全然足らない。だから、中学生同士の関係というのは、緩衝というものがなく、苛烈で「モロ(直接的)」である。人間同士の関係において生じる、あらゆる欲望や暴力や権力などが、オブラートに包まれることなくむき出しに露呈されてしまっている。何かを隠そうという身振りまで、「隠そう」という意図がみえみえだったりする。後から振り返ってみても、恥ずかしいとかいたたまれないとかいう感情抜きには思い出すことさえ出来ない。立派な大人として、あの頃は若くて馬鹿だったなあ、と懐かしげに思いだせるような「恥ずかしさ」ではなく、未だ、言語化も整理も充分に出来ないままである、不定形な経験の塊のようなもので、だから安定した距離を設定することが出来ずに、何とも落ち着かない感情としてある「恥ずかしさ」なのだった。少なくともぼくにとっては、その頃の経験の意味は未だ確定されない「ヤバイもの」としてあり、甘くてほろ苦い、あるいは懐かしい、あるいは消し去りたい、許し難い、やり直したい、二度と思い出したくもない、というような、はっきりした態度を過去に対してとることが出来ない。現在の生活のなかで、中学時代のことを思い出すことはほとんどないのだけど、それが未だ不定形のままであることによって(いろいろ決着していないことで)、恐らく現在のぼくはそこからの影響から自由では全くないのだと思う。(中学時代に何か特別な事件があったとか、そういうことを匂わしているわけでは全然ない。むしろ大した事件もなく、地味な中学生として過ごしていたのだし。)たんに古い友人に久しぶりに会うということだけではなく、一つのクラスという単位で集まることで、一種のタイムスリップ的な装置として、その頃の「関係」の生々しさをそのまま幻影として一瞬だけ出現させる装置が同窓会というやつなのだ。例えば、誰でも思うことなのだろうが、時間が経ち、太ったり禿げたり老けたりしてはいても、その人の「実質」のようなものは驚くほど変わらないと感じたりするのだけど、しかし実はそれは、実際に今、目の前にいる人物を通して、過去の「○○くん」を見ているというような眼差しの効果というのが大きくて、その人の現在の「生活」という場面にまで立ち入ってみるとすれば、簡単に「変わらない」とは言えないはずなのだ。当然のことながら、現在では皆、それぞれの人がその後に過ごしてきた時間の厚みを感じさせるように、それぞれのやり方で「大人の配慮」を持っていて、中学時代の「関係」の苛烈さはやわらかく吸収されているわけだけど、しかしその現在の「大人の配慮」を通して、その向こう側に、それでもその頃の苛烈さが浮かび上がって見えてこない筈はないのであって、それが現在のぼく自身のどこかと共振して、ある種の動揺のようなものを感じざるを得ない。たかだか同窓会にすぎないものに、なにを大袈裟なことを言っているのだと馬鹿にされるかもしれないけど、ぼくにとってこの「動揺」は、決して激しいものではないにしろ、簡単に消し去ってはしまえないやっかいなものなのだった。
●今までの話とは別のこと。場所と記憶について、ちょっと。同窓会の席である女の子(同級生だとどうしても、いつまでたっても「女の子」という感じなのだった)から、「古谷くんの実家、最近建て替えたでしょ、車はブルーバードみたいなやつだよね、通勤の時に毎日のように実家の前を通るから知ってるよ」というようなことを言われた。その女の子とは学生の時に特に仲が良かったということはないし、卒業後だって同窓会のような場でしか会わない。彼女の日常生活のなかでは、ぼくの存在や記憶などほとんど無に等しいだろう。それでも、ぼくの実家が「そこ」にありつづけ、彼女がそこをぼくの実家だと知っている限り、その前を通るたびに彼女の頭の隅にふっと、軽く「古谷」という存在がよぎることになる。これって凄いことなんじゃないだろうか。例えばぼくなんがも、普段はすっかり忘れてしまっている子供の頃の友人のことを、その子の家のあった場所を通るときにふっと思い出したりする。周りの風景はすっかり様変わりし、建物も建て替えられ、住んでいる人さえ替わってしまっていたとしても、その「場所」によって記憶は起動する。いや、しかし、ぼくが子供の頃の友人を思い出す時は、普段は忘れているとはいえ、それでもこその子と過ごした充実した時間があるからなのだけど、同級生の女の子がぼくの実家の前を通ってぼくを思い出すのは、ほとんど自動的な反応に近いもので、それはまるでアンディー・ウォホールの増殖するキャンベルのスープ缶みたいな内実のないまま反復される「空っぽの記憶」みたいなものだろう。と言うか、生まれた時からずっと「地元」で生活をしているということは、中身の濃いものから薄いものまで含め、様々な「自動的に起動する記憶」に取り囲まれて生きているということで、それはぼくみたいな内省的でしみったれた人間には息苦しく感じられるのだけど、彼女みたいに、きっぱりとしてちゃきちゃきした感じの人には、そういう場所こそが「好ましい」場所なのかもしれない。それは記憶だけでのことはなく、小中学校の頃からの知り合いが、そのまま自分の子供の同級生の父母であり、あるいは子供の学校の先生である、というような場所が「地元」なのだった。

  ちびちびと『新世紀エヴァンゲリオン』を観直していた
03/08/25(月)
●一週間くらいかけてちびちびと『新世紀エヴァンゲリオン』を観直していた。通して観るのは確か3回目だが、以前、ブームのさなかで観た時の印象よりも、ずっと出来の良いものに思えた。(綾波レイというキャラクターの印象が、思いの外薄いのに驚いたりした。)生きる意欲が希薄で自分の意志というものがないシンジという少年が、使徒との戦いやそれを巡る人々の関係のなかに巻き込まれるうちに徐々に変化してゆき、最後の使徒であり、はじめてシンジの全てを無条件で受け入れてくれた人物であるカオルを自らの手によって「殺す」ことでシンジガ「生」への意志を得て完結をみるこの物語(《通常の人々には自明の「生」とは、死を拒否することで始めて獲得される「任意の暴力」である》(樫村愛子))は、どこまでもシンジ=世界という作品であり、シンジの成長物語である。(だがここには、成長した「立派な青年」という分かりやすいイメージ=完成形はどこにもない。シンジはどこまでも情けない「バカシンジ」のままであるのだが、それでも確実に以前とは変化している、というような「成長」であろう。)でも、ぼくなどが観ると、自分の年齢のせいもあるのだろうが、中年の男(ゲンドウ)が若い女(レイ)に捨てられる話、にみえてしまったりする。つまり、その程度には広がりや深みをこの作品はもっているということだろう。(この物語は、女性キャラクターが多様なのに比べ、男性キャラクターが割合に貧しい。加持リョウジや碇ゲンドウは、そのまま、その後のシンジにもみえる。これも、この物語においてシンジ=世界だということを示す。)ただ、この物語がカオルの死によって完結してしまうとすると、それはあまりに物語としてきれいに閉じすぎてしまうことになろう。
この物語には二つの異なる「完結編」がある。一方はテレビ放映時の最後の2話であり、もう一方は、劇場版として公開されたものだ。物語としては、確かに劇場版の方が完成しているようにみえる。最後の使徒の「殲滅」の後、やはり人間の敵は人間だったということになり、人間同士の殺し合いがはじまり、そこに、人類が「一つになる」という人類補完計画が実行される。そしてついに「一つ」になった(勿論これは、「病」のなかに閉じこめられたということなのだが)人類に、アスカの「気持ち悪い」という声が亀裂をいれる、と。しかしこの完結は、たんに「理屈」が通っているという意味で整合的であるだけで、ぼくにはあまり面白いものとは思えない。(劇場版が製作されたのは、テレビシリーズ終了後かなり時間が経ってからであり、制作者としては既に「熱」は冷めてしまっているようにみえる。)一方テレビシリーズの方は、カオルを殺してしまった後のシンジの内面的な世界に入ってゆく。この内面的世界で、疑似心理学めいたとうか、自己啓発セミナーめいた思考の展開がなされる。確かにここで示される、シンジが自分を肯定するに至るプロセスは極めて危ういものだろう。ただ、この作品はこの部分だけで出来ているわけではなく、これ以前の膨大な物語を受けてあるのであり、この部分は、物語が物語として綺麗に納まってしまったのではみえなくなってしまうものを示すためにこそあるのだと思う。唐突に、シンジとアスカが同級生で、そこへレイが転校生としてやってくる、という今までの設定とは全く異なる平和なラブコメ的な日常が挿入されることで、自分が、今の自分とは異なる自分であったかもしれない、という「可能性」が示され、その可能性を考えることで、今、現にこのようである自分の姿を肯定することが出来た、という結末は、物語としての整合性に閉じてしまう劇場版よりもずっと、この物語の決着の付け方として納得のいくものであるように思う。(そう言えば、使徒とは、人類のあり得たかもしれない別の可能性なのだ、というミサトのセリフもあった。)そしてそれは、何よりも、制作者たちが、この作品を作りながら、そのなかで掴んだ結末のように思える。(たしかに、「おめでとう」拍手、というのは、どうかと思うけど。つけ加えて言えば、この最終2話によって獲得した技法を、その後の庵野監督は、ちょっと安易に使いすぎだとも思う。例えば、劇場版で観客席の客を映したりするような、昔の前衛映画みたいな安易なメタレベルの導入は、たんに作品の内的な緊張を損ねるだけだと思う。)

  黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た
03/08/27(水)
●黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た。寝る前に観たのだけど、あまりに面白くて興奮して眠れなくなった。
●「時間が流れている」ことを感じられるのは、何かが変化したことを知覚することによってだろう。しかしそれは、時間そのものについての感覚ではなく、何かを夢中で追っているうちに、あるいはぼーっとしていていつの間にか、ふと気づいたらある変化が起こっていて、その結果、ああ時間が流れたのだなあ、と事後的に感じるということだ。つまり、そこに「何か(変化)が起きる」ことによって、時間の経過が知れる。では、特にこれと言って何も起こらず、ただ「流れる時間そのもの」を感覚として捉えるにはどうすれば良いか。黒沢清が『蜘蛛の瞳』で追求しているのは、映画がどのように「時間が流れること」そのものを捉えることが出来るのかということだろう。あるいは、ただそこに「時間がある」という感じと言えば良いだろうか。
●「ただ流れる時間」を捉えるための捕獲装置が、『蜘蛛の瞳』には様々に仕掛けられている。映画で、「ちょっとした時間の経過」を示すのに使われるごく一般的な手法と言えば、何も起こっていない静止した情況を、微妙にアングルを変えて幾つかのショットに分割するというやり方だろう。これは、対象には何も変化が起きていないので、その代わりにショットを区切り、フレームを変化させることによって時間の経過を示すものだ。『蜘蛛の瞳』でも、哀川翔が仲間達を車のなかで待っているシーンに、これが使われている。しかしこの時、哀川にも観客にも、仲間達が何をしに出掛けたのか、何故ここで待っているのか、この行為にどのような意味や目的があるのか、知らされていない。だからここで哀川は、ただ純粋に「待つ」以外のことは出来ない。この「純粋な待機」という姿勢が、ある「時間」を塊のように露呈させる。あるいは、どのような意味や目的があるのか分からない仕草や、物語的な次元では限りなく情報がゼロに近いような日常的な仕草を、延々と反復させてみせる、ということもしている。哀川は、ダンカンの事務所で延々とハンコを押しつづけ、その脇では、若い社員がローラースケートの練習を繰り返す。哀川の以前の職場では、シャーレに入ったよく分からない物質を調べることが淡々と反復されていた。家では、妻と二人での、食事の支度と片づけの仕草が繰り返される。確かに、家での場面は、哀川と妻との生活や関係の描写になっていると言えるだろうが、ハンコは、ただ「ハンコを押しているシーン」という以外の物語的な意味はないし、ローラースケートも、ただ「部屋の中でローラースケートしているシーン」という以外の物語的意味はない。つまり、これは「無為な時間が経過していること」を物語として示すための描写という範疇を超えて、ただ、ハンコを押し、ローラースケートをしている実際の「この時間」を示しているのみなのだ。(このようなシーンでは、背景に、輪転機が廻るような音、コピー機が紙を送り出す音、といった反復する機械音や、物売りの単調な繰り返しの声などが被っている。)他にも、(黒沢清がよくやる)長回しのシーンで人をやたらと移動させたりするとか、大ロングショットで、追いかけっこを延々と捉えていたり、殺しの仕事のあと、公園でただ遊ぶ仲間達を必要以上に長く見せていたりするのも、「ただ流れる時間」そのもの、あるいは「時間の流れ」という感覚を把捉するための仕掛けだと言えるだろう。これは言い換えれば、ほとんど退屈のギリギリ一歩手前で漲るような緊張感によってはじめて実現される感覚なのだ。
●「ただ流れる時間」とか「時間の流れ」そのものとか言うと、すぐにソクーロフという名前が出てくるけど、『蜘蛛の瞳』はソクーロフとは全く異質な映画だ。『蜘蛛の瞳』を特徴づける「時間」のあり方は、おそらく「反復」ということに関わっている。だから「ただ流れる時間」という言い方は正確ではないかもしれない。そこには、出来事が無く、ただ反復だけがある、あるいは、(内容は二の次の)反復の「リズム」だけが、一定のリズムの持続だけがある、と言い換えるべきかもしれない。『蜘蛛の瞳』には、あからさまに様々な映画の影響が見て取れる。ここはキアロスタミの『そして人生はつづく』で、ここはゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』で、ここはベルトリッチの『暗殺の森』で、などと、具体的に作品名を上げて指摘することは容易だ。しかしそんなことをしてもこの映画にとって何の意味もない。ただ、この映画が全体として何かに似ているとすれば、それは小津の映画だろう。『蜘蛛の瞳』には、いわゆる小津的なショットなどひとつもないが、これは黒沢清が最も小津に近づいたフィルムだと思う。そこに共通するものなど何もないにも関わらず、しかし、流れる時間、反復の時間についての形式的な姿勢が似ているように思う。(小津は「崩壊しつつある家族」を繰り返し描いたのだが、ここで重要なのは「家族」の方ではなく「崩壊しつつある」または「しつつある」という事の方なのだ。小津は、崩壊「しつつある」宙づりの中間的な時間を反復させることで引き延ばし、その反復のリズムのなかで「しつつある」時間を永続させようとしているかのようなのだ。だが実は、黒沢清はその反復の時間、そのリズムを、断ち切ろうとしているという違いがあるのだけど。)
●『蜘蛛の瞳』には、いわば「終わりの後の生」とも言うべき物語内容を持っている。娘を殺害され、その犯人への復讐だけを生の目的として主人公の、復讐の後の「生」が描かれる。そこには化石好きの国家主義者が登場し、全てが終わった後の生について語ったりするし、「虚無は決して絶望ではない」というセリフまでがあったりする。このような、目的も意欲も失った後の寄る辺無く漂う生という物語内容が、「ただ流れる時間」そのものを捉えようとする形式的な追求と重なり合う。これがあまりに見事に重なり合ってしまうので、多くの人(ぼくも含めて)は、その終わりの後の生の苛烈さにシビれ、共感し、あるいは突き放されるように感じて、没入してしまいがちだけど、それはもしかするとこの作品を観る時の、危険な罠であるかもしれない。むしろ「終わりの後の生」と言うような(文学的、感傷的な)物語内容は、たんに「ただ流れる時間」「内容を欠いた反復そのもの」を捉えたいという形式的な側面から要請されたに過ぎないかもしれないし、あるいは絶望した孤独な主人公というジャンルものの映画の定番の変奏にしか過ぎないのかもしれない。『蜘蛛の瞳』という映画の物語的な主題は、実はそれとは別のところにこそあるのではないだろうかとも思う。
03/08/28(水)
(昨日のつづき。)
●『蜘蛛の瞳』では、黒沢清の映画では珍しく、「不在であることの磁力」(=幽霊)が強く働いているようにもみえる。哀川夫婦の生活のかりそめの安定を(脅かしつつ)支えているのは、他ならぬ娘の幽霊(不在の部屋)が及ぼす磁力であるし、哀川の「殺し屋」としての社会生活をかろうじて支えているのは、復讐して殺した男の幽霊(川原の棒杭にかぶせられた布)の磁力であろう。つまり哀川は、未だ、不在のもの(幽霊)の磁力のもとで生活しているのだから、「終わり」の後を生きているとは言えない。不在のものとしての「幽霊」は、「終わり」を決して終わらせないで繋ぎ止める装置であろう。不在のものの効果によって、終わりは終わりきる事が出来ず、「終わりつつある」状態のままフリーズされているのだ。だから、(小津的とも言える)「ただ流れる時間」とは、終わりの「完結」が引き延ばされている、その「引き延ばし」のなかでだけ可能なのだ。哀川はまるで死後の生をでも生きているかのように見えるのだが、しかし実は「死につつある者」なのであって、死に切ることが出来ていない。だから、哀川が決定的に変化するのは、復讐の終わった後ではない。不在のものによる磁力をはねのけ、不在なものはたんに不在なのだと知る(娘の部屋には誰もいないし、布の下には棒杭があるだけだと知る)のは、化石好きの国家主義者の男から、植物の化石を受け取った後なのである。ここで黒沢清が描いている「物語」は、ある孤独な者から別の孤独な者へと、人里離れた廃屋のような場所で、人知れず「何か」が継承されてゆくという事態なのだ。勿論それは「王位」や「カリスマ」などというような、権威や力とは何の関係もない。この「何か」を、黒沢氏なら「運命」と言うかもしれないし、蓮實氏なら「映画の魂」とか言うかもしれないが、それはほとんど何も言っていないに等しいだろう。この「何か」は、『CURE』で言えば「邪教の教え」であり、『アカルイミライ』で言えば「君たち全てを許す」という言葉であるような「何か」であろう。ラカン風に言うとすればそれは「死」であり、それを与えられることによって全く異なる存在への変質を強いられるような「何か」なのだ。それを受け取ってしまったことによって、哀川は、それまで「虚無的」にしろ維持することが出来ていた生活、ダンカンとの友情、妻との生活をつづけることさえ出来なくなる。しかしそれは決して破滅への道ではない。妻を殺し、ダンカンを殺すという行為はつまり、娘の死や復讐に縛られていた生、終わりの後だと思っていたが実は「終わりの持続」であって終わり切れていなかった生を断ち切って終わらせるということであろう。ここで初めて哀川は、「終わりの後」の生ではなく、たんに「新しい生」をはじめることになる。勿論それは、華々しいものではないが、決して絶望的なものでもない。新しい生を迎えたからこそ、不在のものの磁力としての幽霊(棒杭を被う布)ではなく、実際に生きている「あの男」に遭遇することが出来たのだ。だから『蜘蛛の瞳』は未来に向かう映画であり、明るい未来についての映画で、つまり『アカルイミライ』と全く同じような物語であったということが分かる。
●余談だが、同じく黒沢清の『大いなる幻影』について、ちょっと。「ユリイカ」7月号の黒沢清特集で御園生涼子は、この映画を「性とアナーキズムを接続させること。そこから導き出される仮説と展開を」めぐる思考実験として捉えている(『郵便的エロス』)が、それはどの程度適当なのだろうか。ぼくにはむしろ、樫村愛子が指摘している「(外傷を補償する)純愛」というものの方が適当な気がする。樫村氏は『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』で、高度な資本主義の展開によって自然な生活世界が破壊され、それによって危機的な状況(解体に瀕する状況)におかれたアイデンティティーが対処する方法(文化的傾向)として、現在3つの方向性がみられるとし、それを、ニューエイジ、精神分析的文化、(外傷を補償する)純愛、として挙げる。この二つ目の「純愛」的傾向とは、《これまでのような規範や社会等に頼れなくなった個人がすべてを個人的外傷として抱えながら、そのような個々の人間の関係がまったくない状況で、外傷を介して関係を構成しようとする》ような傾向で、それは《フェミニズムが批判するロマンチック・ラヴ・イデオロギーの装いを一見まとっているようだが、中身は異なるものである。彼らは性愛が優位する関係との対抗で純愛をうたっているわけではない。彼らがまず抱えているのは心の傷だからである。》しかし《共依存的かといえばそうではない。なぜならそれぞれは互いの弱さを隠蔽するのではなく、互いが弱さ(精神分析でいう去勢)を受け入れるために支えようとするからである》とする。(このような傾向は、ガン患者たちのセルフヘルプグループや、ゲイ・アクティヴィズムと結合したエイズ患者たちの運動などと同質のものとみられる。)このような恋愛においては、モラルや規範は希薄であり(頼りには出来ず)、浮気も裏切りも、あくまで個人的な問題に過ぎず、倫理的・普遍的なテーマとはならない。故に、どんなに大きな苦しみや悲しみも個人的に処理されるしかなく「あなたには関係がない」ことにしかならない。だからこそ《本来は関係ないはずの他者の外傷を自身のものとする過程に恋愛の今日的な意義がある》と。その上で、《三つ目の現象(純愛)は、恋愛や愛という幻想が幻想性を解体し二つ目の現象(精神分析的文化)と連動する動きを見せている点で興味深い。純愛はもともと近代の発明であり、大いなる幻想であった。しかしいまや純愛は絶対的幻想というより能動的に自身を賭けてみる選択肢の一つとして存在している。それはすでに担保として存在している幻想ではなく、リスクを伴う「個人」的行為なのである。それゆえそれは分析的過程となる》と言うのだ。これは、ぼくが『大いなる幻影』から感じるものとはちょっと違うけど、『大いなる幻影』という作品は、確かにこのように観ることも出来るのではないかとも思える。(別に、『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』という論文は、『大いなる幻影』に触れているわけでは全然ないのだけど。)

  黒沢清『降霊』をビデオで見直した
03/08/30(土)
●黒沢清『降霊』をビデオで見直した。役所公司が幽霊を棒で殴ると、ボコボコッと鈍い音がする。つまりここでは幽霊は「物」と同じように存在する。それにこの幽霊=女の子は、死んで幽霊になるわけではなく、生きているうちから既に幽霊である。知らないうちに鞄のなかに入り込んでしまった瞬間から、幽霊となったのだ。黒沢映画において幽霊とは決して霊的な存在(特別な存在)などではなく、ありふれた存在が、ある状況のなかで(ある関係の網の目のなかで)、幽霊と化すというわけだ。だから、幽霊は実体を持つし、逆に、幽霊とはその実体についての概念ではない。役所公司と風吹ジュンの夫婦にとって、知らないうちに、偶然に幽霊を連れてきてしまったことで「運命」がかわる。しかし実は幽霊は何もしたわけではなく、ただ紛れ込んでしまっただけなのだ。ここで運命は、たんに幽霊によってもたらされたのではなく、幽霊は、風吹ジュンの潜在的な欲望を露呈する媒介となったに過ぎないとも言えるから、運命は、潜在的なものと、それを解放する媒介との出会いによってもたらされるのだった。

  黒沢清『復讐・消えない傷跡』をビデオで見直す
03/09/01(月)
●黒沢清『復讐・消えない傷跡』をビデオで見直す。今までのぼくの印象では、この映画は『蜘蛛の瞳』ととても似ていると思っていたのだが、しかし似ているからこそ、この2本の間には大きな隔たりがあることに気づいた。(『アカルイミライ』までを観ることが出来ている減殺の地点から振り返るならば、この2本の間にある隔たりの意味はとても大きいように思える。)
●『復讐・消えない傷跡』(97)と『蜘蛛の瞳』(98)は、間に『CURE』(97)を挟んではいるが、とても近い時期に製作されていて、極めて似通った物語をもつ。共に哀川翔が主役に起用され、主人公は復讐のみを生の目的としている。しかし、その復讐の意味は無化され、主人公は方向を見失ったままで停滞した(どんずまりの)時間のなかで、虚無的な生を強いられる。まるで主人公に幽霊のように寄り添う不思議な友情で結ばれた人物が登場し、主人公が虚無に侵されながらもそれを淡々と耐えるような強さを示すのに対し、友人は虚無に浸された疲労や倦怠、あせりや不安といったものを色濃く漂わせている。そして終盤には、主人公とその友人とと、決定的な別離が描かれるこになる。このようにみてくると、『蜘蛛の瞳』は、たてつづけにつくられた『復讐・消えない傷跡』のリメイクのようにさえみえてくる。
●しかし、まず、作品から感じられる肌触りのようなものが大きく異なる。一言で言えば、『復讐・消えない傷跡』はジャンル映画としい成立するようにきちんとつくられている。冒頭にアクションシーンが置かれ、主人公のワケありの過去はきちんと説明され、アウトローな主人公に対して若くて正義感溢れる若手刑事が配されているし、ドラマのアクセントのように若い女との関係も描かれる。復讐の原因には闇資金のルートという社会的(あるいはジャンル的)にそれらしい背景もあるし、警察組織の事情や大きな権力を巡る闇の部分も匂わされている。つまり、それらしいジャンル的配慮、あるいは現実(の厚み)に対する一定の配慮が払われている。そして、主人公やその友人の、寄る辺無く漂う停滞した時間は、そのようなある程度きっちりした枠組みのなかで際だち、そこから「でろり」とこぼれ落ちる。対して『蜘蛛の瞳』には、その映画を外側から規定している、あらかじめある枠組みの存在がきわめて希薄であり、『消えない傷跡』の端正さに比べ、ある投げやりなそっけなさのようなものが感じられる。つまり、作品の形式そのものが不安定なものとなっている。作品かがどこへ向かうのか、どのように決着が見られるのか定かでないまま、ただ次々にあらわれる一つ一つのショットやシーンを、不安のなかで(不安であるからこそ「開かれている」という感覚のなかで)丁寧に追いかけてゆくしかない。物語的にみても、主人公に復讐をさせる事件そのものの詳細や、主人公が復讐の相手を見つける過程などはバッサリと省略されているし、主人公の現在の職業や過去の経歴などもほとんど分からない。(彼はただ、画面のなかに見えているということにしか、存在の根拠をもたない。)復讐が完了してしまった後、古い友人から誘われてはじめる「殺し屋」という仕事やその組織にしても、そこに社会的、あるいはジャンル的な「それらしさ」に対する配慮はなく、いわゆるリアリティというもの、現実的な厚みというものによる裏打ちがなく、ただ表面的で具体的な行為のみが示されている。この殺し屋たちは、どうも国家主義者たちの団体と繋がりがあるらしいのだが、その団体にしたって、妙な人物が二人いるだけで、その背景の厚みはないし、何かしらの思想が示されるわけでもない。『蜘蛛の瞳』では、人を納得させ、物語に厚みと拡がりをもたせるための社会的、ジャンル的なパースペクティブが成立してなくて、観客はただ、目の前で起こる不条理で不透明な出来事を(着地点のない描写として)、とりあえずは「そのまま」それとして受け入れるしかない。このことで作品は、ほとんど「薄っぺら」と紙一重のシンプルさを獲得し、唐突でぶっきらぼうで不安定な肌触りをもつようになる。
●『復讐・消えない傷跡』にあるのは、行き先(目的)を失って停滞する時間=生であり、このような生=時間の絶望の深さでありその強度であろう。そして『蜘蛛の瞳』がそれと決定的に異なっているのは、その絶望を突き抜けた「新たな生」が垣間見られるという点にある。『消えない傷跡』においては(朝比奈温泉への道のりがそうであるように)、行き先がある時にはそこへ至る道が分からず、道順が分かった時には既に行き先(目的)は意味を失ってしまっている。菅田俊が、もしかしたら自分たちの窮地を救ってくれるかもしれなかった若者を殺してまうことで、自ら、行き詰まりのどんずまりへと追い込まれてゆくのと歩調を合わせるかのように、哀川翔は、もはや意味のなくなった復讐を、それでも決行しようとする。つまり彼らは、徹底した行き詰まりという強度のなかを、それを全うして生きるのだ。対して、『蜘蛛の瞳』の哀川は、友人であるダンカンを殺してまで、つまり「裏切り」を働いてまで(まあ、ダンカンの方が先に裏切ったわけだが)「新たな生」のなかへ飛び込もうとする。(だが、この選択もギリギリのところでなされたものであり、あらかじめ「新たな生」の方向性が定められているわけではない。「俺を殺しにきたのか」というダンカンに、哀川は「まだ決めてない」と答える。そしてほんのつかの間、停滞の果ての場所=湖で演じられる、とても美しい遊技的時間があらわれる。)徹底した行き詰まりの時間を生きるのか、それとも裏切ってまでも「新たな生」へと飛び込んでゆくのか。『復讐・消えない傷跡』と『蜘蛛の瞳』の間には、このような大きな亀裂が生じている。そして『蜘蛛の瞳』以降、『アカルイミライ』に至るまで、黒沢氏は一貫して後者を、あるいは裏切りさえも厭わない「新たなものへの変質」のみを望んでいるかのような大胆な歩みをみせているようにみえる。
(つけ加えて言えば、ぼくはジャンルに関する配慮や、社会的なパースペクティブによって得られる「厚み」を決して軽くみているわけではない。『蜘蛛の瞳』の方が『復讐・消えない傷跡』よりも「上」だと行っているのでもない。確かに『蜘蛛の瞳』は絶望の果てを突き抜けてしまった感じがするし、それは驚嘆に値する。だが勿論、それによって失われてしまったものが多々あることも事実だろう。)
●ところで、虚無的だとか絶望的だとかいう言葉をぼくはここで安っぽいくらい頻繁に使っているのだけど、考えてみれば哀川翔という俳優ほどそのような言葉と似つかわしくない人も珍しいのではないか。事実、『復讐・消えない傷跡』に行き先を失った深い絶望を刻みつけているのは菅田俊だったし、『蜘蛛の瞳』に倦怠や不安や疲労を濃厚に漂わせているのはダンカンであった。(図式的に読めば、彼らは哀川の分身であり、生き霊であり、ドッペルゲンガーなのだろうけど。)哀川はどんな場面でも、ただ淡々とそこに居ただけではなかったか。だとすると、哀川翔という人こそ、黒沢清がどうしたということと関係なく、いつ、どんな時でも、大いなる健康のなかで「生き残る奴」なのかもしれないとも思える。

  橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』
03/09/03(水)
●橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』を、高校の時以来に読み返す。今、ぼくは橋本氏の熱心な読者とは言えないが、高校の頃はかなり読んでいた。特に「桃尻サーガ」の第3作目『帰ってきた桃尻娘』はぼくにとってとても重要な小説だ。『ふしぎと...』も同じ頃読んだのだけど、その時はあまりピンとこなくて、やたらと冗長だという印象だった。しかし今回読み返したらとても面白く、この冗長さには必然的な意味があるのだと分かった。
●『帰ってきた桃尻娘』(84年)と『ふしぎと...』(83年)は、共に同じような結末で終わっている。それは、主人公(や話者)が「自分が魅力的であるということを、自分で認めてしまってよいのだ」と思うに至るところで結ばれる、ということだ。そしてこれは、自分に魅力があるのだということを受け入れることが、そのまま「自分に魅力を感じてくれている他者」の存在を受け入れることでもあるのだ、ということを意味している。そして、主人公にそのような認識をもたらすのは、主人公にとって魅力的な他者の存在である。繰り返す。自分の魅力を認めることが、自分に魅力を感じている他者の存在を受け入れることで、そのような認識は、自分にとって魅力的だと思える他者に、自分が魅力的だと映っていることを知ることで得られる。これはとても入り組んで回りくどい言い方(把握の仕方)だが、橋本氏の小説で展開される「人間関係」というものは、いつもこのように入り組んだ形で把握される。これが橋本氏の小説が冗長的な文体を必要とする理由であろう。橋本氏の小説には、長ったらしくも回りくどい、内省的な独白が延々とつづくのだが、しかしこの冗長な「自分語り」にみえるものは、実は自分という「実存」を語っているのではなく、常に関係の描出であるのだ。橋本氏の小説の中心的な興味はいつも他者との関係のあり方にあって、自己の内面や記憶が深く探られている時でも、それは自分の外で起きた出来事や他者について知ろうとしているからこそ、そのための「資料」として自らが探られている。このポイントを外してしまうと、それは冗長な自分語りか、あるいは失敗した話芸のようにしか見えない。
●では、『帰ってきた桃尻娘』と『ふしぎと...』のどこが違っているのか。それは前者が「青春小説」であり、後者が青春以降の「大人」を描いた小説であるという点にある。青春とは言ってみれば、先史時代というか、前歴史的な時代であるのに対し、大人の存在とは、既に固有な歴史的なものとしてある。だから青春小説の登場人物たちは神話上の人物のようなもので、その物語は神話的な構造をもつ。対して、大人を描こうとすれば、そこには必然的に「歴史」がくっついてくる。大人の存在は、彼が生きてきた固有の歴史性に規定され、分かち難く結びついてしまっている。青春という時期が、必然的に「青春」という鬱々とした「暗さ」(それは例えばサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に代表されるもようなものだと取りあえず言っておく)を招き寄せてしまうものだとすれば、青春小説のほとんど唯一と言っても良い主題(課題)は、どのようにして「青春」を解体し、突き放し、突き抜けて、「健康」を取り戻すに至るか、に尽きるだろう。例えば、ぼくにとっての青春小説とは、ぼくが実際に「青春」を突き抜けるために実践的に「使える」ような小説のことだ。(「青春」の鬱々とした暗さを突き抜けることが、必ずしも「好ましい」ものと言えるわけではない。人はしばしば、嫌な奴になる、とか、腐ってしまう、ことによってそれを突き抜けたりもする。橋本氏は勿論、そのような事態も小説に描き込んでいる。)このように繰り広げられる、「青春」と「健康」との神話的な闘争が、青春小説をつくりあげる。(少なくともぼくにとっては、『帰ってきた桃尻娘』とはそういう小説である。)
対して、大人とは既に固有の歴史によって把捉され、つくりあげられてしまった存在である。『ふしぎと...』が、東京の地理や昭和史に関する具体的な言及に多くの部分をさいているのは、大人の固有性は、神話によっては決して把捉できない歴史的なものだからだ。引用する。
《そんなこと他人事だと思っていた僕は、ほとんど日本の現代史なんて知りません。よく考えたら僕って、現代に歴史があるなんてこと、考えてもみなかったんですよね。だって、どんな歴史抱えてんのかは知らないけど、とにかく、そういう人達は、僕の周りでは勝手な世代論サークルを作ってるだけなんだもの--そんなこと、思いました。》
《(松子、竹緒、梅子の、事件のあった鬼頭家3姉妹について)梅子さんが生まれるのは、なんと、太平洋戦争が勃発した昭和16年のことです。こういう人が大学に行くと、"連帯の渦が国会を取り巻いた"60年安保が待っています。そして、駆け落ちした松子さんがその年に鎮香さんを産み落とすと、この人は、朝鮮戦争の勃発した年に生まれて、大学で70年安保にブチ当たるという構図になるのです。なんという呪われた構図でしょう。僕は、このことを発見した時、"横溝の一族"なんかより、よっぽどこっちの方がおぞましくって、呪われていると思いました。おまけに、唯一平穏無事な(こういう言い方をすると誤解招くな)竹緒さんが、実は男としてうまれることを待望されていた、なんてね。この世はサカサマって、感じするでしょう?はっきり言って僕、人間の"年齢"っていうことに、そういう意味が隠されてるとは、思わなかったんです。》
この小説は、まだ青春の香りをとどめている20代のイラストレーターが「初めて書いた小説」という設定だから、ここで主人公=話者は、まるではじめて「歴史」を発見したかのような驚きとともに記述しているように書かれている。
03/09/04(木)
(つづき、橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』について。ネタバレしてます。)
●この小説は簡単に言えば20代の主人公から見た、60代の「鬼頭のおじさん」についての話で、つまり年上の「魅力的な人物」に対する「納得のいかなさ」が様々に追求されている。だがここでは「おじさん」そのものについてはそれほど多くは語られず、おじさんを巡る人々や環境、歴史などが、迂回と逸脱と冗長を特徴とする文章で多方面からしつこく語られる。つまり、好ましい人物であるにも関わらず、どこか納得出来ない感じを漂わせている「おじさん」という人物に対する「納得のいかなさ」を、それを取り囲み、追いつめているものたちを探ることで追求している。例えば、おじさんの義理の妹でおじさん夫婦と同居している梅子さんという人物とおじさんの関係について書かれた部分を引用する。
《自分の外側に大義名分かなんかみたいのがあって、それをやってなかったら笑われる。笑われるけど、それに対してあんまり深入りしたくない(略)大学紛争なんかにも関わりをもった、とか、あの人(梅子さん)の言うことは全部"関わりを持った"だけなんですね。僕なんかだと、まァ、それは思っているだけで口に出しては言えないんですけど、「じゃァ、その"関わりを持ったあなた"という人は、一体そこで何をしていたんですか?」なんてことを思ってしまうんです。(略)要するに僕の言いたいことは、なんにでも関わりを持ちたい人が家のなかにいて、その人が女で、独身で、そして(今はどうだか知らないけど、少なくともある一時期においてははっきりと)自分に好意を持っているんだとして、そんな人が存在している自分の生活って一体どんな風だろうって思うんです(略)そういう人と一緒に暮らしていて、「やァ、なんだか話が盛り上がっているようですね」というような感じでひょうひょうとしていられるっていうのは、僕にはやっぱり分からない。ひょうひょうとしてられるなんて、いいなァ、ああいう人が僕の理想だなァ、--って、素直に思えない僕の暗さっていうのも、なにかはあるのかもしれないですけど、僕はやっぱり、そういうおじさんの"内部"というのが気になったのです。》
ある人物の固有性を問うということは、その人物を取り囲む環境や歴史の固有性(関係の絶対性)を問うことであり、そして他人の環境や歴史を問うということは、そのまま自分の環境や歴史を問うことと切り離せない。この小説では、このような入り組んで回りくどい記述が、執拗に展開されつづける。この問いの執拗さは、おじさんに対する愛情から発せられているのと同時に、おじさんを人ごととは思えない自分の問題へと直に繋がり、それが検証されることになる。しかし自分の問題とは自分だけの問題ではなく、自分とその周りにいる他者との関係という問題であり、だからそれはは自分の問題として閉じられることなく、そのまま「おじさん」と「自分(=話者)」との関係へと跳ね返ってくる。そして、冗長とも言える迂回や逸脱によって多方面からしつこく環境や歴史が追究された上で(その重さが十二分に示された上で)、自分が魅力的なのだということを認めてしまって、おじさんを取り囲み、追いつめ、現在のおじさんの姿を形づくっている鬱陶しい「歴史=記憶」の重さなんて全部「関係ない」ってことにしちゃえばいいのに、と20代の話者=主人公は60代の魅力的なおじさんに向かって「言いたい」というわけだ。実際に、おじさんの側からみるとすれば、いきなり自分の家にはいりこんで来た青年が魅力的な人物であり、その人物に対して「好ましく」感じることをきっかけとして生まれた、おじさんなりの「関係ない」という感情の表現として、娘を殺すという事件が発生してしまう。勿論そのような形で表明された「関係ない」という表現は決しておじさんを解放することはせず、逆に人格の崩壊をさせてしまう。この事実が、さらに「大人」にとっての「歴史=記憶」の重さを決定的に示すことでもある。(だからこの小説は、青春小説である『帰ってきた桃尻娘』のような晴れ晴れとした「明るさ」を持つことが出来ない。)ある年齢を超えた人物にとって歴史の固有性は逃れ難いものであり、「関係ない」という宣言が解放ではなく崩壊をしかもたらさないとするなら、尚更、「自分は魅力的なのだ」と認めることによってそこから少しでも自由になるしかないということになる。
03/09/05(金)
(一昨日からつづき、橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』について。ネタバレしてます。)
●長く引用する。おじさんを犯人だと確信した話者=主人公が、わざさわざ回り道をして新大塚にある「おじさんの家」に向かう場面。
《僕は、お茶の水で地下鉄に乗り換え、本郷三丁目を通り越して後楽園の次、茗荷谷で降りました。多分ここら辺だろうと思って、駅を出て、人に訊きました。すぐ分かりました。僕は、東京教育大学の跡というのを見たかったんです。もう、そんな大学はありません。それは筑波大学という名前に変わって、とうの昔に東京を出ていってしまいました。(略)どうして僕は、そんなところへ行こうと思ったのでしょう。(略)それは、おじさんの持っているアパート、快風荘が、学生専用のアパートだったからです。どうして快風荘の二階には空室が3つもあったのか?それは大学生がいなくなっちゃったからじゃないかって、僕は思いました。鬼頭の千満おばあちゃんが「私学はダメだ」って言ってたなら、それをおばあちゃんに言わせる根拠がどっかにあったんじゃないか?(略)本郷三丁目に東大が、茗荷谷に教育大が、その先にお茶の水大がという風に、3つの国立大学が並んでいました。かつて、10年だか20年だか、もっと前に、その快風荘というアパートが立てられたのなら、それは、その3つ(もしくは2つ)の大学の学生を目当てにして建てられたのではないか?(略)「昔は、このアパートも、東大や教育大の学生さん達でにぎわっていた。でも、今はなんというさびれようだろう?」--昔っからそこにいるおばあちゃんがそう思ったら?(略)そこら辺にある大学は、女子大を除いては、茗荷谷にある拓殖大だけです。教育大はなく、東大の学生が大塚を敬遠したら?(略)そういう形で、おばあちゃんが"衰え"ということを意識したら?さびれてゆく自分の世界に歯ぎしりをしていたとしたら?そうしたらそこで、おばあちゃんは、消えて行った国立大学への愛着を、私学への憎悪に転化させるのではないか?》
引用2。話者の友人、理梨子が『虚無への供物』と目白について語る。
《「田舎で読んだ時ね、目白って、どんなとこだろうと思ったの、なんか、すんごいロマンチックなとこだと思ったの。殺人事件が起こって....。でも、東京へ来てみて分かったのね。目白って、学習院や日本女子大のあるとこでしょ。要するに、クリスタルなJJタウンて訳じゃない。田舎にいるとサ、"スノッブ"ていう片仮名が、すっごく魅力的に聞こえるのよ。でもサ、"スノッブ"って、要するに"田舎者"ってことでしょ?目白に来て思ったの、なァーんだ、こんなもんかって。どうってことないんだって、これが東京のメランコリアを生み出してた町の素顔なんだって、目白のサーファーガール見てて思ったわ。」》
(余談。ここで書かれた「目白のサーファーガール」(「目黒のサンマ」みたいだ)を正確にイメージ出来るのは、多分35歳以上だけだろう。ここで言われるサーファーは、今言われる「サーファー系」のファッションとはまるで別物だったりする。当時はサーファー系=お嬢様系だった。だから、横浜銀蝿の「お前サラサラサーファーガール、おいらテカテカ、ロックンローラー」という曲は、そのような文脈で理解されなければならない。つまりヤンキーは実はお嬢様好きってこと。)
●83年に書かれた『ふしぎと...』には、「鬼頭のおじさん」をとりまく具体的な環境が描き込まれている。バブル初期の、まさにこれから地上げの嵐が始まろうとする時期の東京、そのなかにあって周囲から見捨てられたように古びて荒んで行く地域、その古い土地に残された古い家屋とそこに住む家族。とても横溝の小説に出てくるような立派な「家」ではないが、それでもヨコミゾ的なものが縮減された形で残っている日本の家=家族。その家族を構成する人たち、一人一人の歴史。そして、このような「歴史」がことさら重要なものに感じられるのは、ぼくがこの本を読んでいる現在である2003年から見れば、この本に描かれている現在である1983年は、既に歴史的な過去に属するからでもある。この小説には83年当時の風俗や流行、事件などが積極的に導入されているのだが、それによって、小説はいかにも古びて感じられてしまう。例えば、この小説の話者=主人公の名前は「田原高太郎」というのだが、それはただ「こんばんは、タワラコータローです」という当時流行っていたギャグをやりたいためだけに設定されているのだけど(このギャグは、しつこいくらいに反復される)、このギャグや「俵孝太郎のニュース」を知らない若い世代には全く何のことだか分からないだろう。つまり、たんに83年当時の風俗が描写されているのではなく、小説全体のノリが、恥ずかしいくらい当時のノリそのままであるのだ。このことは、一見『ふしぎと...』の欠点であるかのようにみえるのだが、恐らくそうではない。ここにあるのは超歴史的(普遍的)な視点の拒否であって、鬼頭のおじさんやそれを巡る人々の歴史を振り返って考えている「現在(83年)」も、決して歴史の外にあるわけではないことを示し、だからそれを読んでいる「現在(03年)」、つまり83年の「現在」をもはや古びたものと感じている2003年の「現在」もまた、歴史の内部にあるしかない(すぐに古びたものとなる)ことを読者に意識させる。(つまりそれは、今ようやく「歴史」に触れはじめた若者である話者=主人公も、すぐに年寄りになり、歴史の一部分となってしまう、ということだ。)そしてこれはただ、「現在」を相対化しているだけではない。こんなに「風俗に淫する」ような書き方をしたら、すぐに小説が古びてしまうのは目に見えているのにも関わらず、あえてこのような書き方をしているのは、表面的に古びてみえるくらいのことでは、自分の思考した内容はびくともしないだろう、という、橋本氏の自信によるものだろう。つまり、歴史を超えるような普遍的なものがあるとすれば、それは書き方の中立性(視点の中立性)にあるのではなく、限定された視点からの「思考」の精度、鋭く明晰な把握力によってしかもたらされないということを示す。(このことは、「大人」は既に固有の歴史と不可分なものとして存在してしまっているということと関係している。だから、青春小説である『帰ってきた桃尻娘』においては、それが発表された当時の「現在」である80年代初期の風俗描写やはそれほど意味があるわけではないが、『ふしぎと...』で描かれるそれは、大きな意味があると言えよう。)
ところで、『ふしぎと...』は、たまたま事件に関わったイラストレーターが、その事件を題材として、書いたこともない小説を初めて書いてみた、その「小説」という形式をとっている。つまり「素人が書いた小説」という設定だ。ぼくはちょっと前に「鋭く明晰な把握力」という書き方をしたが、この小説の、意図的に選択された「未熟な作者」による記述は、きわめて不安定で頼りなく、「鋭く明晰な把握力」をもった探偵には見えないかもしれない。この小説の記述は、迂回、逸脱、時間的順序の混乱(話の整理の仕方がスムースではない)、バランスの悪さ、等々に満ちていて、つまり冗長に思えるのだが、このように不安定で頼りなく、時には混乱しているようにみえる記述のあり方こそが、ここで展開される複雑な思考の展開を、順序を追って記述するために必要な形式であることが、よく読んでゆけばわかる。つまりここで言う「明晰」さとは、風景を一望の下に見渡せるような明晰ではなく、複雑でめんどくさい思考の手続きや段取りの一つ一つを正確に押さえ、それを見失うことなくきちんと踏んでゆくという意味での明晰さなのだ。一見頼りなげにフラフラしていながら、納得のいかないことに関しては「しぶとく」拘りつづけることが、この小説全体を貫いている知性のあり方なのだ。
●『ふしぎと...』から、歴史の具体性(固有性)を希薄にしてゆくと、恐らく保坂和志の『東京画』や『カンバセイション・ピース』のような小説になってゆく。橋本氏にとっては、家や土地は、そこに住む人々(家族)の関係や歴史、その固有性と切り離すことが出来ない。対して保坂氏は、そのような家や土地の固有性から距離をとって抽象化するために様々な装置を使用し、その抽象化する技芸において優れた小説家であると言えよう。(そういえば、保坂氏のデビュー作『プレーン・ソング』の帯に、橋本氏が「青春小説」として推薦文を書いていた。)例えば、『カンバセイション・ピース』に出てくる「家」は、話者=主人公の叔父、叔母、従兄弟たちの家であって、両親の家ではない。この微妙な距離の感覚によって、この小説は成立している。全く見ず知らずの他人の家ではなく、子供の頃そこで過ごした様々な記憶が重層的に蓄積されているような「親しさ」をもった家ではあるが、しかし、両親と共にそこでずっと成長してきたというほどの生々しい「近さ」はない。この距離感が、「家」という空間から、シビアな部分、ネガティブな部分、鬱陶しい部分を差し引くことを可能にしている。(この距離感が、「歴史」を「記憶」へと書き換えてゆく。)叔父、叔母、従兄弟という、親しいが近すぎない関係が、この「家」に、親しさという感情と共に、抽象的な実験空間という性質を同時に持たせることを成功させている。もしこの家が、両親と共に過ごした家であったなら、いかに保坂氏であっても、土地と血を巡る記憶の固有性(鬱陶しさ)を描かないわけにはいかなくなるだろう。(保坂氏の小説が、その絶妙な技芸によって「鬱陶しさ」を避ける身振りは、まるで『ふしぎと...』の鬼頭のおじさんが、鬱陶しい家族との関係をひょうひょうとかわす姿を思い起こさせる。)勿論ぼくはここで保坂氏を批判しているのではない。むしろ、「歴史」を「記憶」へと書き換えて行く保坂的技芸の繊細な使用こそが、(一定の保留を確保した上で)「鬼頭のおじさん」の悲劇を避ける有効な方法(それはつまり、「大人」として生きる方法)であるかもしれないとさえ思う。(ただ、やはり、「記憶」がいつの間にか固有性を剥落させて、するすると「一般性」の方へ近づいていってしまうような気配があるのは、危険なことだと認識しておかなくてはならないと思う。)このような意味で、『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』と『カンバセイション・ピース』(+『東京画』)は、まるで一つのものの表と裏のような関係、あるいは互いを厳しく批評し合っているような、緊張に満ちた拮抗関係にあると言えるように思う。
03/09/06(土)
●(昨日の補足、あるいは修正)昨日の日記で、橋本治の『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』と保坂和志の『カンバセイション・ピース』を比較して、保坂氏の小説は、「歴史」を「記憶」へと書き換える、と書いたのだけど、それは正確な言い方ではないだろう。むしろ、「歴史」の方が「記憶」(や記録)を分析し、加工し、再構成することでできあがると言うべきだろう。ではなぜ、人は「歴史」を加工=仮構するのかと言えば、そうすることによってしか「納得」することの出来ないような出来事(や人物)に出くわすからだろう。『ふしぎと...』の話者=主人公が、まるで初めてそれを発見したかのような新鮮さで「歴史」を意識し、構成してゆくのは、彼にそれを強いる「鬼頭のおじさん」という存在の魅力や、それと同時に感じる「納得のいかなさ」、そして目の前で起こった殺人事件によると言えるであろう。つまりここで「歴史」が構成されざるを得ないのは、鬼頭のおじさんのような魅力的な人物がなぜこうなってしまったのだろうか、という強い思いであり、それが話者=主人公にとっても人ごととは思えない切迫した問題として捉えられているからだろう。対して『カンバセイション・ピース』で「記憶」が「歴史」として再構成されなくてもすむのは、様々な問いが「問い」として開かれた状態のままで問われ、そこに「性急な結論」が求められていない、つまり「納得のいかなさ」を保持したままの持続が描かれているからであろう。しかしそこのためは、「切迫した問題」を巧妙に避ける保坂的技芸の高度な使用が不可欠となるだろう。では『カンバセイション・ピース』には「切迫した問題」(あるいは「強い思い」)が存在しないかと言えば、おそらくそんなことはなくて、ただそれは、それとして作中に描かれる(書き込まれる)のではなく、作品そのものを生み出し、動かして行くための「動力源」として存在しているのだろう。で、多分それは「チャーちゃんの死」ということで、『ふしぎと...』で問題となっているのは「生きている人」であり「年長者」であることから、そこに必然的に「歴史」が要請されるのだが、『カンバセイション・ピース』では問題は「死んだ者(あるいは「死」)」であり、しかもそれは「猫の死」であることから、「歴史」では役に立たなくて、「記憶」でなければダメだということになるのだろうか。

  「Web重力」の、湯本裕二『抑圧・視線・欲動』
03/09/09(火)
●「Web重力」の、湯本裕二『抑圧・視線・欲動』。この文章が具体的に批判しているのは茂木健一郎だったり東浩紀だったりするのだけど、要するにこれは、精神分析によるポストモダニズム(ポスト構造主義)批判ということだろう。そしてその要点は恐らく二つある。一つは理論的なことで、ポストモダンの理論は、原初的な差異による産出と廃棄という運動そのものと、その写しとしての象徴的(言語的)な分節、つまり原初的-身体的なオーダーにおける強度-反復(現実界)と象徴的-言語的次元の意味生成(象徴界)を直結させ混同しているということで、これはドゥルーズによる、ニーチェ的強度とハイデガー的差異との混同にそもそも端を発している、ということ。そして二つめは、ポストモダン理論は、「抑圧」という概念を抑圧することで、あたかもシュミラークルがそれ自身の力能で世界のなかを循環するかのような理論を構成していて(これは「想像界」と「象徴界」との混同として整理できよう)、その結果、ポストモダニストはしばしば無自覚なまま資本主義的なイデオロギーを賛美する(少なくとも追認する)ことになってしまう、ということだろう。(湯本氏が根拠としている樫村論文によれば、この傾向は、そもそもラカンの「盗まれた手紙」に端を発している、ということなのだが。)つまり、ポスト・モダニズムでは資本主義を分析・批判することは出来ない、と。例えば茂木健一郎が「クオリア」を、まるで世界が直接的に人間に与えてくれる賜であるかのように描写する時、そのクオリアを受け取る主体が、(既に)資本主義のイデオロギーを固定し強化する場であるエディプス的家族(学校、企業、宗教、等々)によってはぐくまれ、教育されてしまっていることを忘れている、と。(つまりそこでは「個人の外傷の歴史性」が隠蔽されている、と。)
●東批判で湯本氏は、一見、オタクはモテない男があつまって退行し、互いに傷を舐め合っているだけだみたいな、つまらない「常識」を精神分析と名付けて回りくどく書いているだけのようにもみえるが、ここで湯本氏が問題としているのは、ポストモダン的な理論がなんだかんだと理屈をつけてオタク的存在やオタク的状況を賛美する時、そのオタク的状況をそもそも可能にしている現在の高度な資本主義(あるいは国民国家)を、それと自覚しないまま追認してしまっているということに対する、精神分析による批判なのだ。(それが『自由を考える』などの著者でもある東氏の批判として的に当たっているかは、また別の話だけど。)
東氏を批判する湯本氏は、東氏の理論は理論ではなく「作品=幻想」だとする。ここで作品とは、「個人の外傷を、共同体の外傷と結合し、同一の抑圧物の共有を読者に暗に強要するもの」ということになる。湯本氏は、オタク的共同体は、「同じ外傷」を共有することによって成り立っているに過ぎないとする。だからオタクが「オタクの遺伝子」というシニフィアンを発し、別のオタクがこれに反応するのを確かめることで、外傷が共有され、個人の外傷の歴史性は隠蔽され、欲動の循環が閉じて、オタクはそこへ永遠に囚われたままとなり、その内部で休らう、と。作品を「つくる」ということは、フロイトの孫が、母親の不在という現実上で反復して訪れるハードな悲しみや不安を、糸巻きを隠し/露わにする遊びによって比喩的に操作しようとすることと等しい。つまり、端的に言って、ここで言われる「作品=幻想」とは「隠喩」のことであり、隠喩とは、抑圧物の回帰の劇であって、あらかじめ決定された常に同じ抑圧物を、自分で隠した上で回帰させているだけで、樫村晴香の言葉を借りて補強するなら、物語=幻想=隠喩は「意味作用として固有の=深化可能な分節能力をもたないもの」に過ぎない。だからここで批判されているのは、東氏による「おたく文化とアメリカとの関係」や「デ・ジ・キャラット」に関する具体的な分析の正・誤であるよりは、「幻想(抑圧によって規定された想像的・隠喩的なもの)」つまり物語(想像的なもの)を、あたかも象徴的なもの(シニフィアンについての「理論」)であるかのように提出してしまう、ポスト・モダン的な思考による「混乱」であろう。(例えば、東氏の言う「萌え要素」は、オタクたちの幻想=記憶共同体内部において「隠喩」的にもたらされる意味作用であり、「想像的」な意味作用であるのに、それをあたかも、言語のような十全に分節的-象徴的な意味作用であるかのように扱っている、ということだろう。勿論、東氏にしてみればこのような「混同」は意図的なものであり、それは『想像界と動物的通路』のような論考においてはっきり示されている。)そしてこの「混乱」こそが、資本主義を追認し、賛美さえしてしまうものなのだと、恐らく湯本氏は言いたいのではないか。
『動物化するポストモダン』という「糸巻き遊び」=「作品」によって抑圧され、隠喩的に操作可能となった外傷を、「理論」として他者=読者に共有させようとする時、作者(東氏)は読者(オタク)の抑圧物を、さらにもう一度抑圧するということになる、と。つまり『動物化するポストモダン』において東氏は、アメリカの文化的侵略による「外傷」と日本的(江戸的)文化への「退行」という物語や、萌え要素の消費という物語などを仮構することで、端的にハードな現実としての「性的なもの」(女にモテないという「外傷」と、多形倒錯への「退行」ということ)を抑圧する、と。この時、東氏は、オタクまたはオタク的文化状況を記述し、分析することでオタク的鏡像関係に亀裂を入れるのではなく、抑圧物を再抑圧することで外傷を共有し、自らのオタク性を宣言し、オタク的共同体へと同一化してしまう、と湯本氏は言いたいのだろう。人が「物語(=作品)」によって癒されるというのは、つまりはこういうことであり、東氏は結局オタク的な仲間のなかで休らいたいだけではないか、というのが湯本氏の東氏批判の骨子ではないだろうか。
●では、『抑圧・視線・欲動』で唯一肯定的に記述されている金村修による「作品」は、それ以前に否定的に記述されている「作品」と、どのように違うと記述されているのだろうか。一般的な作品が、前述したように「個人の外傷を、共同体の外傷と結合し、同一の抑圧物の共有を読者に暗に強要する」ことによって他者に作用するものだとすると、金村氏の作品は、そのような象徴的、隠喩的な次元での抑圧物の共有とは別の組成で他者の身体へと作用する、という。我々の身体による運動・認知は通常、権力によって欲望の還流に制御されており、遭遇や出来事などは、すべて「互いを欲望する症候」の出会いとして(脳内で)「電子的・工学的」に管理されている、と。しかし、人間の身体の組成、あるいはそれを制御する脳の組成は極めて複雑であるため、この権力による欲望の環流はそのすべてを制御することはできず、身体のローカルな場所では、欲望(権力)の外部としての、領域限定・領域切断された身体制御運動が存在している。それは決して神秘的、超越的な領域ではなく、たんに諸身体を横断する、反復照応運動としてある。しかし通常では、それらの身体制御運動が意識化されることはない。金村氏の写真は、モノクロによって色彩を圧縮し、画面全てに等しくピントを合わせ、遠近法が成立しないようにフレーミングし、画面の内部に蜘蛛の巣のように巡らせた細かな白と黒と対比を散乱させることによって、通常の視覚による空間把握を失調させ、そのことが意識の統合を一瞬失調させる。これによって錯乱した視覚から、視線の運動が欲望と切り離され、認知と想起とが切り離され、残された「視線の運動=認知」のみが宙づりになる。この時、身体制御=視線の運動が言語回路から切り離されることになり、しかしその切断は決して完全ではない故に、認知に非日常的(不正確)な想起が入り混じり、同時に、視線は白と黒との細かいコントラストを激しく行き来し、視線はその想起の錯乱や激しい往還運動によって、安定した空間把握やイメージを結像する一歩手前の状態に常に置かれつづけ、ここでは見ることが、対象の認知ではなく、(欲望から切り離された)視線の運動そのものや(不正確な想起による)知覚の錯乱そのものとなって現れる。だから金村氏の作品においては、視線の運動そのもの、錯乱そのものといった、通常は意識の外にあってエラーとして意識から排除されるような、領域限定・領域切断された身体制御運動、つまり権力(欲望)の外で働いている身体制御運動の感覚が、その作品を観ている人に(見ている間だけ)、まるで幽霊のようにとらえどころ無いものとして感知され、感覚化されるような装置だというわけだ。そして。そして、金村氏の写真を見ることで生じる身体的な感覚は、東京で生活する人々があまりに高速度で循環する欲望の流れにさらされて(潜在的に)感じている実際の身体上の変調と連接=連結されることによって、ある新たな「意味=感覚」として結像される。ここでは、「外傷の共有化=物語」を媒介としないで他者に働きかけるような「作品」のあり方が描写されている。(と同時に、この金村作品的なあり方が、精神分析という「外傷の共有化=物語」を必要としない、クールな「知」的技法の隠喩として示されてもいる。)
●この金村作品への記述はとても説得力があるとは思う。(上記のような記述は、茂木的「クオリア」への解体=批判でもあろう。)しかしこのような、対象(作品)を見ることが、対象の認知へ至る一歩手前で、見ている主体の視線の運動やその想起の錯乱そのものを浮かび上がらせることになり、それによって起こる(言語的分節の外にある)「ある身体的な感覚」を「作品の意味」として浮かび上がらせるというような作品は、なにも金村氏の作品に独自なものではなく、少なくとも「近代的」と言われる視覚芸術の多くが、多かれ少なかれこのような「感覚」を問題にしていることを忘れられては困るのだ。(例えばジャクソン・ポロックの作品には、上記の金村作品への分析に、ちょっとした変更を加えればほぼそのまま当てはまるだろう。あるいは『ルネサンス・経験の条件』にいくつも書かれている例なども参照されたい。あるいは、湯本氏が批判する村上隆の作品でさえ、注意深く見れば、金村作品的な側面はあるのだ。そしておそらくそれは、オタク的図像にだってみられるはずなのだ。)それに加えて、金村氏の作品といえども、そこには「東京」や「都市」といったコノテーションとしての他者と共有される「物語」が貼り付いており、それによって「流通」しているのだという側面も、けっして 軽くみられるべきではないだろう。このように、具体的な作品の分析は、そんなにきれいに理論的に割り切れるものではないことは言っておきたい。
03/09/10(水)
(昨日の補足、訂正。)
●昨日の日記について、早速『抑圧・視線・欲動』の湯本氏からメールを頂く。それは主に金村修の作品について書いた部分へのレスポンスで、湯本氏は、金村氏の作品はあくまで「東京」に対するイマージュ(のみ)を攪乱するのだ、という風に書いているはずだ、ということだった。だから金村氏の技法は、例えばパリやチュニジアでは使えず、あくまで「現代」の「東京」で、「東京の住人」に対してのみ有効で意味のあるもので、その技法や効果を一般化することはできず、だからこの技法は「現代の東京」という現実が金村氏に要請しているとも言えるのだ、ということだった。つまり、湯本氏はあくまで「金村氏の作品」について、「金村氏の作品」が産出する東京に関する新たな「記憶」について具体的に記述しているのであって、それを勝手に、「見ることが、対象の認知へ至る手前で、見ている主体の視線の運動やその想起の錯乱そのものを浮かび上がらせ、それによって起こる(言語的分節の外にある)「ある身体的な感覚」を「作品の意味」として浮かび上がらせる」ような効果、という風に一般化した上で、その分析が一般的なものでしかないと断じ、ポロックや村上隆などと関連づけて拡大解釈をしているのはぼくの恣意的な解釈であるということなのだ。確かに、『抑圧・視線・欲動』を素直に読み返してみればそのように読めるのだ。例えば、最後の文。《鑑賞者が東京という都市に対してもつ、幻想としての空間認知を結像する一歩手前で、見ることは、視線の運動と視覚の壊乱にこそ固着し、その現実の身体の変調が、東京に生きる人々が日々感じる、高速度で循環する欲望による欲動の拍動による、現実の身体の変調の記憶に、連接-連結され、金村の写真が産出した東京に対する新しい記憶に、鑑賞者は遭遇する。》これを読めば、ここで問題とされているのは、現実の「東京」であり、そこの住民がもつ「幻想としての空間認知」であるのだし、視線の運動と視覚の壊乱がもたらすのは、あくまで金村氏の作品(が産出する「東京」という記憶)と、鑑賞者(東京の住人)のもつ「東京」についての幻想としての空間認知との関係の新たな編成であることが分かる。(つまり、この三題噺において、金村氏の作品は、東=村上などよりずっと、現代の東京のスーパーフラット的な状況を的確に表象している、という役割であるのだ、と。)だとしたら、誤読してそこから、視線の「運動そのもの」が浮かび上がることによって生じる、ある身体的感覚というものを一般化してとりだしたり、あるいは、ポロックの、抑制された色彩による線が複雑に絡み合い、明暗の対比による細かな振動が画面全体に霧のように拡がってゆく感じに近いもの(それは森のなかで何種類もの植物が視界のなかで複雑に重なって、風で揺れているような感じで、それはまさに「蜘蛛の巣」を想起させる感じと似ているのだが)、そのような感覚に近いものを金村氏の作品から受け取ってしまう、「ぼく自身の欲望」こそが、精神分析的に読まれなければならないのかもしれない。(いや、たんに、これは絵画の分析にも使える、と、短絡的に思ってしまったということなのだけど。)
(余談だが、湯本氏はメールで、ポロックの作品は、絵具を垂らす身体の運動の軌跡と時間とが、生のまま表象されていると言うのだけど、それは確かに一本、一本の線を見てみればそうかもしれないのだが、ポロックの作品の意味は、そのように直接的に身体の運動や時間を感じさせる線が、幾重にも複雑に絡み合っていること、その複雑さによって強いられる視覚=感覚の「過剰な駆動」の方に高いウェイトがあると思う。確かに、ポロックの作品は、絵の具がカンバスに「染み込んでゆく」感じや、身体の運動やスケールを感じさせるサイズなどによって、人間的=身体的であって、金村氏の作品から感じられる、メタリックなと言うか、人間=身体の「外側」にあるハードな現実の手触りにくらべると、人間=身体に対して親和的ではあるのだが。)

  横浜美術館の岡田謙三・展について
03/09/12(金)
●横浜美術館の岡田謙三・展について。(岡田謙三は、いわゆる伝統的な日本美術的な「趣味」を、当時の最先端だった抽象表現主義的なフォーマットにの上に上手いこと乗っけて、戦後のアメリカで成功した画家。) 岡田謙三の作品をまとめて観たのは初めてだったのだが、思っていた以上に酷かった。酷いというのは、作品の質が低いということとは違う。日本の作家が海外で評価を得ようとする時、売りとして「日本文化」を匂わせようとする、その時の「媚態」のあり方が、日本文化のなかで生まれ、今もそのなかで暮らしている者として、とても嫌な感じがするということだ。嫌だ、と言うよりも、恥ずかしいという感じ、と言うべきだろうか。ちょっと、これは「政治的」に許し難い絵だとさえ思う。(あからさまに「意図的に見える」ようにやっている分だけ、村上隆の方がずっと上品だろう。)実際、何枚かの絵の前では、唾を吐きかけてやりたいという気持ちを抑えなければならないくらいだった。しかしここで困ってしまうのは、にも関わらず、これらの作品をぼくは(感覚的な次元で)決して嫌いではないのだ。何だこれは、冗談じゃない、と思う一方で、何点かの絵の前では、長い時間、視線が吸い付けられ、そこからなかなか離れられないのだった。多少でも理知的に考えるならば、これらの作品からは悪口しか出てこない。だが、実際に作品を目の前にすると、最低だと切って捨てることが出来なくなってしまう。今、この文章を書いている時は、勿論目の前に現物=作品があるわけではないので、割合簡単に「これはダメだろう」と言えるのだけど、作品がそこにあると「これでもいいのじゃないか」なんていう思いの方にすーっと引っ張られてしまう。形式的にみても、「日本文化」の参照の仕方はけっして厳密なものとは言えず、あくまで「イメージ」的なものに留まっている。いかにも日本庭園の飛び石の配置を思わせる形態のばらけ方、いかにも違い棚を連想させるような画面分割、いかにも日本画を思わせるようなモチーフの選択と様式的処理。これらは、皆、いかにも〜みたいな、という範囲を出るものではなくて、昭和のモダンボーイの日本趣味というか、もっと言えば、外国人のみた「ニンジャ」や「サムライ」を多少、趣味良くしたようなそこの浅いものだ。しかし、ここで問題なのは「趣味」という、にわかには捉え難い、はかなくも奇妙なものの存在なのだ。岡田謙三は、ある時期以降、作品としての緊張感や強度、あるいは形式的な厳密性などはほとんどどうでもよくなり、ひたすら「趣味」の洗練に向かっているようにみえる。作品はどんどんはかなくなってゆき、ほとんど「趣味」のみで成立しているような感じになってゆく。作品は、どんどんと甘く、弱々しくなってゆき、その甘さや弱さを巧妙に「はかなさ」へと転化してゆき、その「はかなさ」の不確かさや弱さが、それを観る者の感情を不安定にした上でそこへと吸引し、ほとんど何もないところに、ただ「趣味」だけがふっつりと浮かんでいるような絵になってゆく。趣味ということで言えば、あからさまに「日本的なもの」を参照している中期の作品よりも、最晩年の、ほとんど花をつけていない桜(桜に見えない桜)を描いた「桜(夜)」や、ごくふつうの植物スケッチの小品ようにもみえる「すみれ」や「ススキ」といった作品に、その「趣味」の純化のようなものがあらわれているように思う。柔らかいと言うよりも「甘い」色彩が画面全体を被い、いかにもはかなげな植物がはかなげに描写される時、「日本的なもの」というデータベースから抽出された「萌え要素」を西洋美術と地続きの抽象表現主義的な空間の内部で組み立てたような中期には(弱いながらも多少は)存在した理知的な構築性は全く姿を消し、ただ趣味ばかりが(実際にはほとんど空虚である)画面に充溢することになる。(「桜(夜)」の背景に拡がる、冥界から射してきたような光源の特定されないか弱く漂う「青」と、例えばゴッホの描く、太陽の光が乱反射して空間全体に充溢しているような空の「青」との何という違いだろうか。だがぼくは、理知的には否定しながらも、情緒的には、まさに情緒が色彩化したかのような、この「桜(夜)」の甘くて不安定な「青」に強く吸引されてしまうのだが。)初期の作品を観ればよく分かるのだが、岡田謙三は当初から、かなり「甘く」て「通俗的」な画家であるし、最低限の技術的な課題はクリアしているものの、画家として際だって才能があるようには見えない。この、生来の通俗性が、アメリカの日本人(画家)という特異な環境のなかで純化された時、「桜(夜)」のような不思議に空虚な「趣味」が生み足されたのだろうか。(しかし、ぼくは絵画に対してはすごく「甘い」のだと思う。例えば映画なら、北野武の『HANA-BI』なんて全く許し難い、と言えるのに、何故、岡田謙三の作品にはそう言えないのだろうか。)

  セドリック・カーンはとても刺激的な映画作家だ/『倦怠』
03/09/14(日)
●セドリック・カーンはとても刺激的な映画作家だと、久しぶりに『倦怠』をビデオで見直して改めて思った。たとえプロデューサーのパウロ・ブランコの戦略だとしても、いまどきモラヴィアの『倦怠』を映画化することは、あまりにも成功する見込みの薄い賭けだと言うべきなのだが、しかしセドリック・カーンはそれを逆手にとるようにして、重要な作品をつくりあげる。主人公は妻と別れたばかりでノイローゼ気味の哲学教師で、彼がふとしたきっかけで知り合った若い女に入れあげてどんどんおかしくなってゆく。女はいわゆる「魔性の女」であり、主人公には女が何を考えているのか、どのような原理によって行動しているのかがさっぱり掴めない。主人公は、猜疑と嫉妬にさいなまれつつ、そのことでさらに女の肉体におぼれてゆき、深みにはまるばかりだ。ああ、そういう映画ね、と誰もが思うだろう。普通に考えれば、こんな題材の映画はつまらないに決まっているからパスするのがまともな感覚だろう。だがこの映画は違うのだ。いかにも「フランス映画」風の、文学趣味的で「気怠い」エロ映画だと思ったら大きな間違いだ。例えば、極めて観念的な恋愛映画である『UNloved』をつくった万田邦敏だったら、この『倦怠』の、観念と肉体とが、言葉と行動とが、男と女とが、あっけらかんと分離したままで共存している様をみてどう思うのだろうか。あるいは、一種のアクション・ホラー(コメディー?)としてみることの出来るこの映画を、黒沢清だったらどうみるのだろうか、とか、考えてしまうような映画なのだ。
●あからさまに「文学趣味」的な題材を扱っている『倦怠』は、しかしまったく文学的なところのない映画だと言える。ここには、精神と肉体との弁証法的な対立もなければ、ロリータに惹かれてゆく男の葛藤や官能なども全くない。ただただ、言葉と行動とが乖離し、行き違い、引き剥がされてゆく様が、悲喜劇として示される。だいたいこの主人公の哲学教師は、当初から言っていることとやっていることが全然一致していない。(女は全く誘惑の素振りなどみせていないのに)主人公は女に向かって、君がぼくをいくら誘惑しようと思っても、ぼくは君に全く関心がないから関係は成立しない、などと言ってるのに、そのそばから性交しているし、性交の後も、君は魔性の女なのかと思っていたけど、ごく普通の退屈な女に過ぎなかった、などと言いつつもハマッてしまう。こんな退屈な女とはどうやって別れればよいのかと悩みながらも、女からの電話を待ち、電話がないと苛立ったりする。(これは心理的な駆け引きなどでは全然ない。)ここで、男の女への欲望には、ほんの少しの官能性も含まれていない。男はただひたすらに、女と身体を重ね合わせること、女を所有することを性急に強迫的に欲望するばかりで、官能の入り込む隙間などない。男の身体を貫いて支配する、身勝手で不器用で痛々しい欲望の強迫的な反復のがさついた手触りが、この映画のせかせかした、何とも苛立たしいリズムを決定している。『倦怠』には、繰り返し性交のシーンが登場するのだが、そこで示されるのは、取り憑かれたように腰を振りつづける、男の絶望的に単調な反復行為であり、それを、どっしりとした存在でただ受け止めている女の肉体ばかりであって、そこでは一応性行為は成立していて、勃起〜射精という行程が実現されているものの、それは男の強迫的な欲望をほんの一時だけ落ち着かせることにさえ貢献しない。何度性交しようとも、そこには関係の行き違いばかりがあるのであって(しかも驚くべきことに、あきらかに行き違っているのに、女は平気で何度も男のもとへ足を運び、男を受け入れ、あなたには「慣れた」とか言うのだ)、たとえ女が、今のはよかった、3回もイッた、と言ったとしても、男の方は、じゃあいつもはよくないのか、いつもはイッてないのか、と猜疑と不安を募らせるだけなのだ。(女の、その時によって違う、という当たり前の答えも、男を一層苛立たせることにしかならない。)ぼくはここでゴダールの『カルメンという名の女』を思い出す。この映画では、まさに性交へ至ることの不可能性によって、欲望が常に失調してしまう男の姿が描かれていた。松浦寿輝が昔、『カルメンという名の女』について、「永遠につづく半勃起」みたいなことを言っていたのだが、半勃起状態の持続とは、官能の持続に他ならず、それは松浦氏の小説にこそ相応しい言葉であって、『カルメンという名の女』や『倦怠』においては、官能的な時間がブツリ、ブツリと、ふいに、そして小刻みに途切れてしまい、官能を奪われた欲望が、何度も何度も強迫的に反復してくるような、その反復のリズムに完全に支配されてしまったような、官能そのものが不可能になったハードでがさがさした状態=時間であり、そのなかで繰り広げられるドタバタ喜劇なのではないだろうか。
●いかにも「文学趣味的」というのはどういうことかと言えば、それは、一人の魔性の「女」を、インテリの男からみた「世界の理不尽さの象徴」あるいは「無意味なゼロ記号」みたいなものとして、つまり否定神学的な、決して到達不能な不可解な点とか、誘惑しつつも身を隠すミステリアスな存在=他者、として表象するような事だ。そこにあるのは、世界を、単一なシステム(=男=主体)と、その裂け目(=女=他者)という単調な構造に還元してしまおうとする態度だ。(「女は存在しない」みたいな。)至る所に張りめぐらされた、このような「文学的な罠」を『倦怠』が巧みに避けることにある程度成功しているのは、何と言っても「魔性の女」セシリアの役をやっているソフィー・ギルマンという女優の起用によるだろう。この、太った田舎の小学生みたいな顔つきと、どっしりと重たい肉の存在感をもった女優が、何か秘密を隠しているような眼差しとはほど遠い、ドングリのようなくりくりした目で男を見つめ、男を誘惑するような官能的な仕草とはほど遠い、ドスドスとしたがさつな足取りで裸のまま部屋を歩き回る時、ファム・ファタールを演出するような文学的装置は、その重たく乾いた足取りによって踏みつぶされ瓦解してしまう。男のせっぱ詰まった欲望による、単調で暴力的な反復運動を、その太くて重たい肉を波打たせながら、官能的な媚態とはほど遠い即物的な無表情で受け止める(その身体の存在は「受動的」などという言葉とはほど遠い、充溢したものだ)ソフィー・ギルマンの身体(の映像)を目の当たりにすると、これこそが「実写映画」の力なのだと思い知らされる。ここにはたんに二人の人間(二つの異なる身体、二つの異なる行動原理、二つの異なるリズム)が画面に映っているのだ。

  クローネンバーグの『スパイダー』をDVDで
03/09/15(月)
●クローネンバーグの『スパイダー』をDVDで。クローネンバーグがここでやろうとしていることは、細部にわたって全てのピースの辻褄をぴったりと合わせることだろう。よってこの映画の内部に「謎」は少しもなく、もし謎があるとすれば、「作品」の外側にある主人公の「存在」そのものであり、人はなぜ「妄想」に過ぎないものに、ここまで完璧な整合性を求めてしまうのか、というところ(という狂気)にあると言えるだろうか。いや、この「現実世界」に根拠を求められない状態に置かれるからこそ、妄想は、どのような「反論」に対しても耐えられるような、しっかりと理路整然としたものでなければならなくなるのだろう。つまり、自分の存在(=外傷?)を「妄想」によって支えるしかないから、その「妄想」は一点の欠けたところもない揺るぎないものでなくてはならなくなる。(妄想が理路整然と構築されていなければならないのに対し、記憶はもっといい加減なものだろう。つまり、記憶は、今、直面している現実に根拠を持ち、現在の現実によって必要とされているのだから、逆に多様な現実の変化に対応できるいい加減さこそが求められている。)この映画のラストは、例えば『シックス・センス』のそれのように、「どんでん返し」の意外性を狙ったものではないので、あっさりとネタをばらしてしまうけど、ここで「母親」を自分が殺してしまったという事実が決定的なのではない。決定的なのは、ある日突然、母親が「尻軽女イヴォンヌ」に見えてしまったということ(の原因となる何か)の方なのだ。(それは当然「性的」な何かだろう。)だが、この決定的な事実は、映画(表象)の内部には描かれない。と言うか、このような事実を偽の事実によって説明する(隠蔽する)ためにこそ、ジグソーパズルのように精密な妄想が必要とされる。そしてこの妄想が要求する当然の「論理的な帰結」として、母親は殺されなければならなくなる。
●繰り返すが、この映画は観客への「どんでん返し」という効果を狙って組み立てられてはいない。実際、多くの観客が映画の半ばで、母親を殺したのは主人公であろうと気がつくだろう。あくまでも、きちんと、精密につくりあげることに重点がおかれているため、物語としての面白さとしてみれば、理屈が勝ちすぎていて退屈ですらあろう。この映画の主人公の「回想」が、ただの回想ではなく、妄想であり、現在においてつくりだされ、構築されつつあるものとしての回想=妄想であることは、最初からはっきりと示されている。それは、回想シーンに必ず現在の主人公の姿が入り込んでいることや、主人公はただ思い出すだけでなく、それを書き留めている(その断片を、パズルのように完成させるために)ということによって「ほのめかされて」いる。そしてそれだけではなく、決定的なのは、主人公の回想に、決して主人公が見てはいないはずの、その場に立ち会っていはないはずのシーンが平然と紛れ込んでくることによって、はっきり示されていることだ。自分が見ているはずのないシーンを、自然に思い出すことが出来てしまうのは、そのシーンを「妄想の論理」が必要としているからに他ならない。父親がイヴォンヌに誘惑され、イヴォンヌと浮気をする場面や、父親が母親を殺す場面が、それを「見ている」はずのない主人公によってごく自然に思い出されるのは、「母親がイヴォンヌに見えてしまう」という事実を自分自身に説明するためには、それらのシーンが不可欠だからだ。それに加え、イヴォンヌとの性交や、母親を殺すことは、主人公の隠された欲望である、と、精神分析家なら言うのだろう。それを裏打ちするように、イヴォンヌが父親を手で射精させるシーンで、射精したとたんに、父の姿が現在の主人公に変わってしまっているという描写さえ、「律儀」に挿入されている。当然のことだが、これらの「解釈」は目新しいところなどまるでなく、言い古された「退屈」なものでしかない。クローネンバーグは、このような「退屈」さを、極めて「律儀」に、丁寧に、精密になぞってみせているのだ。決して、目新しさや、気の効いた「面白さ」にはしることなく、むしろ自ら進んで実直な退屈さを選択し、その退屈さを、高度な技術的達成を用いて、律儀に、丁寧になぞってみせること。最近のクローネンバーグの凄みは、このような妙な実直さからきているように思われる。

  夏の、ゆっくり暮れてゆく夕方
03/08/13(水)
●夏の、ゆっくり暮れてゆく夕方。セミが鳴き、人のはしゃぐかん高い声が遠くから渡ってくる。徐々に光が弱くなり、視覚的な像が暗さのなかにとけ込んでゆく。昼間の余韻のような生暖かい空気が身体をつつむと、寒さでキュッと身が縮む感覚とは逆に、だらりとゆるんだ身体の輪郭が溶けて、外側に漏れ拡がってゆく感じになる。すれ違う人の体臭を強く感じる。さらに暗さが増すと、自分の身体も他人の身体も、その輪郭が視覚的にも曖昧になる。このような時には、人の話す声が妙に高くなり、タガが外れたような調子になる。素速く動けば、自分の身体より速く動けるのじゃないかという気にもなるし、ぼーっとしていると、身体だけ先へ行ってしまうような気にもなる。
03/08/14(木)
●ガスってる小雨のなかをはしる電車。白濁した大気の拡がりに浮かぶ建物が、滑るように後ろへ動いてゆくのが両側の窓から見える。立てかけられた傘の先から水が流れ、リノリウム貼りのクリーム色の床に小さな溜まりをつくっている。モーターの振動音と、レールの上を車輪が滑る音。濡れた靴底が、床に擦れてキュッ、キュッと鳴る。(「♪汗で滑るバッシューまるで謡うイルカみたいだ」みたいだ。「♪あの娘ぼくがロングシュートきめたらどんな顔するだろう」と頭のなかで口ずさむ。)トンネルに入る。視界が遮断され、ゴーッという音が車内を満たす。窓ガラスに、車内の光景が映る。スーツの中年男は足を組み替え、20代だと思われる女性は不機嫌そうな顔で携帯電話の画面を見つめている。冷房が効きすぎて寒いくらいだ。トンネルを抜け、視界が開けるが、見えるのはガスって白濁した拡がりなのだった。遠くの緑がしっとりとして見える。次の駅に着いてドアが開くと、シャーッという雨の音と、湿った空気が入り込んでくる。屋根のない雨ざらしのホームに人はいない。
03/08/16(土)
●しぶとく降りつづく雨。午後11時半過ぎ。都心から遠く離れた家へと向かう電車のなか。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、雨量計が規定値を超えました関係で、徐行運転をおこなっております、というアナウンス。のろのろとはしる。深夜12時までやっている近所のスーパーでの買い物は無理っぽい。しかも、この電車は最寄りの駅までは行かず、途中で車庫に入る。あと2駅だというのに。人影がまばらなホームで次の電車を待つ。次の電車は徐行運転はせず、むしろ荒っぽくすっ飛ばしている。車体が揺れて首が座らず腰も浮きそうで、本も読めないくらいだ。しかも、車内のアナウンスのボリュームがやたらとデカくて、そしてしつこい。
8/19(火)
●暑い日が少なくて、雨ばかりがしつこく続いているせいか、空がほんの少し明るくなり、雨の勢いがほんの少し弱まって、粒の細かいものになると、一斉にセミが鳴き出すのだった。秋のような涼しさ、灰色で覆われた空に、しとしとと降り続ける雨のなかで、まるで真夏の過剰な光が乱反射する暑いさなかのように、セミの声が、あちこちの木々から降り注ぎ、響き渡る。何か、自分の感覚が歪んでしまったような、今、見て、感じているものが全て間違いであるというような、奇妙な非現実感にとらわれる。再び、雨足が強くなってくると、セミの声はすうーっと消えていってしまうので、さらに、今まで聞こえていた声が(いや、聞こえていたセミの声だけでなく、感じていたもの全てが)、何かの間違いだったのじゃないかという「疑わしさ」が増すのだ。
03/08/23(土)
●ビリビリと痺れるような、たくさんの小石を擦り合わせているような、バリバリと何かを砕くような、セミの大音響が、自転車で登っている山道の上から降り注いでくる。地面には、乾燥して裏返ったセミの死骸がいくつもころがっている。眩しいほどの夏の過剰な光ではないものの、肌にヒリヒリとくる日射しは強い。ムキになって坂道を頂上まで一気に登ってゆくと、軽い頭痛と言うか、頭痛がきそうな予感が、鼻の奥から後頭部のあたりに鈍く拡がってゆく。必死にペダルをこいでいた時に目に見えていた道端の雑草が、やけに緑が濃くて陰影もくっきりと、細部まで妙にクリアーだったイメージが、登りきった後からビデオを再生するように鮮やかに浮かんでくる。ハンドルを右にきって下り道にはいる。後ろから凄いスピードで小型トラックに追い抜かれる。そのトラックは、すぐ先のカーブで急ブレーキをかけ、キーッと音をたて、もうもうと砂煙りを舞い上げる。すぐ後ろをはしっていたので、それを身体じゅうに浴びることになる。目に砂粒が入って、反射的に目を瞑ってしまい、ヒヤッとする。
03/08/29(金)
●制作を終えてボーッとテレビを眺めていた。関東地方のローカルニュースで、栃木県のパチンコ景品交換所に強盗が入ったというニュースをやっていて、警察が現場検証している映像が流れていた。普通、ニュースで見る現場検証のシーンだと、青いビニールシートを目隠しとして使用しているのだけど、このニュース映像では、大きなスダレを何枚も使って目隠しにしていた。今日は暑かったからなあ、と思った。
●外が暗くなってから窓を開けたら、部屋にセミが入ってきた。ビービーわめきながら、あちこちにぶつかって乱れ飛んでいる。しばらくすると、天井にとまって静かになった。それでも時々、ふと思い出したように、ビービーとかすれた鳴き声をあげながら飛びまわり、すくに力尽きたように静かになるのだった。
●ミュージックステーションを観るともなく眺めていた。福山雅治が司会のタモリと話していて、画面は福山のバストショットくらいのサイズだった。この番組ではいつもそうなのだが、画面の隅に後ろに座っている人の顔が映り込んでいた。福山の右後ろには、メロン記念日の斎藤さんが映っていて、ややピントはボケているのだけど、カメラの方を見ているのが分かる。画面の隅の斎藤さんを見ていると目があってしまうのだった。なにか、福山雅治の話を聞きながらも、秘かに斎藤さんと目配せを交わしているような、そんな妙な錯覚に陥るもだった。しかもその相手が他ならぬ斎藤さんなので、その錯覚には不思議な味わいが加わるのだった。蒸し暑い、夏の夜なのだった。
03/08/31(日)
●画材を買うためにお金をおろしに行く。雲行きが怪しくなってきたけど、さっと行って、帰ってくるまでなら天気はもつだろうと思って出掛けた。ATM機から紙幣が吐き出されてきて、それを手で掴もうとしたその時に、もの凄い勢いで雨が落ちてくる音がした。うわっ失敗した、と思った。外に出ると案の定強い降りだったが、空は明るいので、そのまま軒下で待つ事にした。(これから用事がなければ、夕立でぐしょぐしょに濡れるのも気持ちいいのだけど。)隣でATM機を使っていた50代くらいのおばさんも、傘が一本も立っていない傘立てを挟んだ位の距離で、同じ軒下に立っていた。おばさんは、待ち切れなかったのか、やや小降りになったところで乗ってきた自転車を押して去っていった。ずぶ濡れになった人が、目の前を何人か通り過ぎて行く。既に雲は切れて、青空さえ覗いていた。15分くらいぼーっと突っ立っていたら、雨はあがった。
03/09/06(土)
●昔あったオモチャで、人の形をして、頭とあごのあたりにたくさんの穴があいていて、ちょうどトコロテンが押し出されるように、その穴から粘土(つまりそれが「髪」や「髭」なのだ)が、にゅぅーっと押し出されてきて、それをハサミなどで切り落としたりして、床屋さんごっこをするというものがあって、その無数にあいた顔の穴から、一斉に細長く粘土が生えるように出てくるコマーシャルの映像がとてもグロテスクに感じられたのだけど、毎年、今頃の時期になると、まるでその一斉に生えてくる粘土の髪や髭を連想させるような感じで、彼岸花の茎が地面から一斉ににょきにょきと生えてきたかと思うと、みるみると、毒々しい赤い色の花を一面に咲かせる場所があるのだけど、今年は冷夏というか、雨ばかりのへんな陽気がつづくせいか、剃り残しのしみったれた無精ヒゲみたいに、隅っこにちょろちょろっとしか生えていないのだった。そもそも、通りがかりの爺さんから、このあたりに彼岸花がきれいな所があると聞いたのですが、と尋ねられるまでは、「彼岸花の不在」にさえ気づいていなかったのだ。それを告げると、爺さんは、そうなんですか、じゃあ今年ばダメみたいですね、残念ですが、また来年出直しますわ、と、まるでたまたま休みだった店に、2、3日後に出直すとでもいうような、のんびりした軽い調子で言うのだった。
03/09/11(木)
●出掛ける前に汗を流すためにシャワーを浴びるのに、逆に、シャワーから上がったあと、汗がいつまでも引かない。うっすらと湿ったままの首やあごに電気剃刀をあててヒゲを剃る。タオルで何度も汗をぬぐうが、またじわじわと滲み出てくる。シャツを着るとすぐに汗染みが出来る。外へでても、蒸していて汗は乾かない。気怠い身体をゆらゆらとひきずりながら、駅まで移動する。ホームへ降りてゆくと、下校時刻と重なったらしく、大勢の学生が溢れていて、さらに暑苦しい。(学生の着ている、あの、白くて薄手のシャツは、なぜあんなに暑っ苦しい感じがするのだろう。)ホームの先端まで行くと、来た電車はすいている。クーラーの効いた、何より湿気の少ない車内へ乗り込み、シートに身体を投げ出すように座り込む。背もたれにもたれ、後頭部を窓にごつんとぶつけるように預けて、惚けたように斜め上を向き、さらさらと乾燥した空気を肌で味わう。ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。電車が揺れる。揺れに身体をまかせる。揺れを身体が感じる。窓の外の風景が動いて行く。夕方の、オレンジかがってギラギラした光が、建物や道路や街路樹を照らしている。
03/09/13(土)
●調子こいて階段をかけ登ると、登り切って立ち止まってから汗が吹き出てくる。皮膚の内側から湿気が滲み出してきて、それが薄いシャツを通過して、身体の周りにモワッとなま暖かい湿り気が漂う。額に汗の玉が浮き、首筋から背中に流れる。こんなに暑いのに、建物に取り囲まれた芝生のところに生えている桂の木は、葉っぱをもう黄色く変色させていて、風が吹くと、それがはらはらと舞い落ちている。割れるようなセミの声が重なるなか、黄緑の芝生の平面に落ち葉の黄色が散り、拡がっている。傾いた陽は、木の影を長く伸ばしている。工事で掘り返した道路の、新しく敷き直されたばかりの濃い色のアスファルトから、うっすらと湯気がたっている。


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