「ユリイカ」黒沢特集より、御園生涼子『郵便的エロス』について
デヴィッド・エリス『デッドコースター』
スティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』
アンソニー・カロ風のゲーム、または仕草と彫刻
羽生善治/ありがたいお言葉と、面白いこと
GALLERY TERASHITAで、加藤泉、細井篤、堀由樹子・展
小林秀雄『近代絵画』のピカソ論について
「その場」から切り離されること/『喋ることと書くこと』の小林秀雄
ロバート・アルトマン『ゴスフォード・パーク』をDVDで
「生産過程そのものの物質的な過程」と「流通管理機構」/岡崎乾二郎
ちょっと極端な言い方をわざとしてみると/岡崎乾二郎の絵画作品
どこでもない場所としての公共的空間と、戦争状態
黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』
大島弓子『ジョカへ』と小津。内的緊張の強度
森達也『A』をビデオで
森達也『A2』をビデオで
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』/他者と言語
冨永昌敬のレイトショーを観に行った
内田樹の『映画の構造分析』はつまらない。
おわらない梅雨
「ユリイカ」黒沢特集より、御園生涼子『郵便的エロス』について
03/07/01(火)
●「ユリイカ」7月号、黒沢清特集より、御園生涼子『郵便的エロス』について。『大いなる幻影』を、「性とアナーキズムを接続させること。そこから導き出される仮設と展開を」めぐる思考実験として捉えること。そしてそれに『郵便的エロス』というタイトルがついていること、について興味を持った。しかしそのタイトルとは裏腹に、この論考はもっぱらラカンに沿って展開されている。たしかに『大いなる幻影』を、ラカンの欲望の理論から「滑り落ちる」ものだとしてはいるが、ラカンから滑り落ちたものを、再びラカンによって解釈することで、結局ラカン的な理論の圏内で『大いなる幻影』を解釈するという段階に留まっているように読める。ぼくはラカンについて詳しくはないが、斎藤環によるとラカンは「メディアは存在しない」と言っているそうだ。メディアが存在しないという精神分析的な場に、メディア的通路を接続して押し広げるということこそ「郵便的」ということの意味なのではないだろうか。例えば、この論考は一応の結論として、「対象を知覚するために一種の障壁を設け、その障壁により全体の知覚が可能になる」ことで「眼差しの主体」を成立させる「スクリーン」という視覚的装置に対して、そのスクリーンを破るように他者に向けて手をのばし、そこにいる他者に手で触れることで、「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」という欠如を介することでしか欲望できない(視覚的な)関係を突き抜け、「届かない相手に届くかもしれない」という可能性が生じる、ということになっている。でもこれって、単純に言えば視覚に対して触覚の優位性をもってくるというだけのことじゃないのだろうか。確かに、映画という視聴覚的なメディアにおいては、そのような形で「表現」するしかないかもしれないし(例えばゴダールの『JLG/自画像』とか)、実際『大いなる幻影』のラストは、まさにそのような事柄を見事に「図示」してもいる。でもそれはあくまで表象体系内部で発生する意味という次元でしかなく(つまりそのような意味を図示しているだけで)、『大いなる幻影』という映画の面白さはそのような分かりやすい図示にあるのではないと思う。以下、疑問に感じた点をいくつか挙げる。
●まず、過剰に浮遊する「花粉」が、手紙のメッセージが必ず宛先に届くこと(受粉という「目的」へと至ること)、という王(父)による「法」をなしくずしにしてしまうというアナーキズムの比喩として示されているのは、本当に適当なのだろうかという疑問。つまり、あまりに過剰な花粉は、受粉すべき受容体を見つけられず(「目的」へ届かず)、本来関係のない人間に付着して花粉症という効果をもたらしたりする、と。それはつまり、健全な次世代の再生産という国家的な要請に対するテロリズムでもある、と。(宛先=目的に届かない手紙である、と。)しかしちょっと考えてみれば分かるのだが、花粉とはもともと過剰なものなのではないか。全ての花粉が受粉する必要など全くないし、誰もそれを期待もしていない。確かに大部分の花粉は受粉するという「目的」に届かず、地面に落ちたり、花粉症の原因になったりする。しかし全体の何万分の一か何十万分の一の花粉が受粉しさえすれば、それは「目的」に届いたと同じなのだ。つまり過剰な花粉のアナーキズムなど、あらかじめ構造によって許容された範囲内のものでしかい。『大いなる幻影』において、花粉の過剰性は、ハルとミチとが「セクシャルな欲望」からも「家庭という制度」からも自身を(自らの意志によって)切断するという行為とは対応していない。(この最初の比喩の設定の間違いが、この論考の方向を迷わせているようにも思う。)むしろこの映画において蔓延する花粉(花粉症)とは、人が常に「セクシャルな欲望」を強いられている、常に発情させられているという現状を表しているとみる方が自然ではないだろうか。常に性欲を昂進されられつづけるということが、精神分析的に(あるいは生物学的に)規定されている人間というハードの基本的組成なのか、それとも、そのエネルギーを使用して駆動しようとする資本主義によって強いられているものなのかということはとりあえず置いておくが、とにかくそのような状況であるということの比喩だと思う。「二人が愛し合うという物語」から「セクシャルな欲望」と「家庭という制度」とを差し引くということは、資本主義とも国家とも(お望みならば「精神分析」をつけ加えてもよいが)関係のない場所で「愛し合う」ということが可能であるのかを問うということであるだろう。この点で、いつもながらの粗雑で乱暴な口調で「DINNS」という言葉を口にする青山真治は鋭く本質をついているように思う。「つまり共働きで子供を作らず、ふたりで楽しく暮らそう、とする夫婦またはカップルを指す言葉だ。やがて富国強兵を目指す政府の方針で抹殺を余儀なくされたが、当時の若者たちにとってはひとつの理想像だった。この映画を見て私は真先にこの言葉を思い出し、胸を熱くしたのだった。これこそが80年代のイデオロギーを最も体現する言葉だったのかもしれない。当時は若者の消極性・自己中心性の現れくらいにしか思われなかったこの言葉こそ、実は我々を取り囲み、個を蝕む社会のシステムに抗う極めて有効な手段だった。」(『大いなる幻影』パンフレットより)まあ、この映画のハルとミチには「DINNS」という言葉が思い起こさせるバブリーでお気楽な雰囲気は全くないのだけど。勿論、ここでの青山氏の言葉はあまりに単純すぎるので、ちゃんと精神分析的な主体の問題も押さえておこうというのは分かるけど。
●次に、果たして「対象a」というような欠如を示す記号によって黒沢氏の映画を説明することが適当なのだろうか、という疑問。例えば、黒沢映画における「幽霊」とは、御園生氏の言うように「いそうでいない、いないようでいる」という雰囲気がもたらす効果とはまるで関係がないと思う。端的に言って、黒沢的な幽霊は(見えているかぎり)そこに「存在する」のだ。いるのかいないのか分からないことにょって生じる効果が、黒沢ホラーに使用されている例はおそらくほとんどないはずだ。『廃校綺談』の友人のように、物語上、いると思っていた人物が実は存在しなかったということはあるが、それにしても、画面に映っている時には友人ははっきりと存在していて、主人公としっかり言葉を交わす。(実は存在していなかったというのは物語上の問題=オチでしかなく、映画的な問題ではない。映画においては、スクリーンに映っていればそこに「存在する」のだ。)黒沢映画にとって幽霊は、はっきりと存在しているからこそ怖いのであって、いるかいないか分からないことよって怖いのではない。ハルとミチは、確かに存在が危うく、ハルは実際に消えてしまいさえする。しかしそれは社会的(象徴的な秩序の内部)に存在しないということだ。(資本とも国家とも関係ない者は存在しないに等しい。)逆に言えば、社会的(対他者的には)存在しないに等しい者でも、スクリーンに映っているかぎり存在することが出来る。
(つづく)
03/07/02(水)
●確かに御園生氏の書く通り、この映画では至る所に膜が張られている。それは境界線であり、ミチはいつもその向こう側へと突き抜けたいと思っている。しかし、自らその向こうへと旅立とうとする試みはいつも失敗する。ここまでは良いとしよう。だがこの膜は、決してミチを包み込み、閉じこめているものではない。ミチ自身がその膜の向こう側へ行くことは出来ないにしろ、膜の外側から「こちら側」へ、様々なものが唐突に入り込んでくる。ミチの職場である郵便局の窓口がその代表的な例で、ミチはスクリーンによって隔てられた窓口の向こうへ出て行くことはないのだが、そこから様々な郵便物がこちら側へと侵入してくる。(ミチはそれを盗む。)あるいは、ドアの向こう側から、外国人のカップルが唐突に部屋に侵入してくる。海岸線という境界の外からは、兵士の死体が流れ着く。この映画を「郵便的」と捉えるならば、このような「唐突に入り込んでくるもの」の生々しさをこそ、指摘されるべきではないだろうか。御園生氏は、海岸のシーンで、ミチはスクリーンを突き抜けたのだが(確かにこの長回しのシーンでは、ミチの視線の先にミチ自身が入り込んでゆくように見える)、その先にあったのは「死」でしかなかったと書く。そのことがミチを絶望させ、「このまま終わっちゃう」というようなセリフを言わせる、と。確かに、切り返しのショットとショットの間にある断絶=境界が、180度に近いパンの運動性によって超えられたかのようにも見える。しかしここでは、境界を超えたにも関わらずそこには「死」しかなかったというのではなく、やはり海の向こう側から(海という媒介を通じて)死のなまなましさが「ここ」へと接続された、とみる方が「郵便的」であろう。このシーンのすぐ後、ハルとミチは黄色い紙が貼られたガラス戸によって隔てられる。この時、ミチは自らの手で戸をあけるのだが、その先には既にハルはいなくなってしまっている。この映画では、ミチが自ら「手をのばす」とき、それは必ず失敗する。その後、郵便局の窓口にいるミチのもとに、そのスクリーンの向こう側から唐突にハルが入り込んでくることによって、二人は再び「出会い直す」ことになる。ここでハルとミチとが再び出会い直すことが可能になったのは、スクリーンの視覚性に対する、手をのばし、手で触れることの運動性、触覚性の優位によるのではなく、それが境界線(つまりメディア的=郵便的空間)の向こうから唐突に訪れたものだったからではないだろうか。(境界=スクリーンとは媒介であり、切り離すのだけでなく結びつける。)少なくともぼくにとってこの映画が重要なのは、(精神分析的な分析にきれいにあてはまる)見事な海岸の長回しのシーンによってではなく、例えば二人並んで座っているラストショットの不安定な寄る辺無さや(唐突に挿入され唐突に終わってしまう短さ)、公園での風船のシーンの、何ともとらえどころのない時間(退屈な長さ)、ふいに挿入されるバランスを欠くほどの武田真治のクローズアップの生々しさ、あるいは様々なアイディアが、きちっと結びつき構築される一歩手前で、バラバラなまま放置されているような、つまり見直すたびに(思い出すたびに)違った細部の結びつきが観客へと「届く」ようなあり方によってである。
●この映画において主人公の二人は、ハルとミチというきわめて頼りない固有名しか与えられていないし、明確な人格的、キャラクター的な特徴も与えられていない。極端なことを言えば、彼らが映画のはじまりから終わりまで同一人物であるということさえが疑わしいとさえ言える。ひとつひとつのシーンの結びつき方も明確ではなくバラバラな感じで、人物の同一性=統一性もあやうい。そのようなあやうげで頼りない人物の存在は、彼らが実際にスクリーンに映っているという事実によってのみ、辛うじて保証されている。つまり、あやうげで頼りなく、同一性さえ怪しいハルとミチが、それでも確かに存在しているのは、御園生氏が書くように、「わたしがあなたを見つめている、そしてあなたもわたしを見つめている」ということによるのではなく、もっと単純にスクリーンに武田真治と唯野未歩子が映っているからなのだ。つまりそれは、ハルがミチを見て、ミチがハルを見ていることで、互いの存在が確認されるのではなく、映画の観客が二人を見ているから二人が存在しているということだ。切り返しの(画面=逆画面の)一方のショットは、そこに現れていない(不在の)もう一方の人物の眼差しによって保証されている(視線が複雑に入れ子になっている)のではなくて、ただ観客の眼差しによって保証されているのだ。おそらく黒沢清のあっけらかんとした即物性とはこの点にこそあるのではないか。黒沢氏は、作品内部に複雑な関係の絡み合いをきっちり構築する一歩手前で、それを観客へと投げだし、預けてしまう。だから切り返しとは、入れ子状の視線の絡み合いなどではなく、たんに二つの顔が交互に示されるということでしかない。二つの顔が魅力的であればそれでよい。それを、向き合って見つめ合っていると観客が見るかどうかは知ったことではない。「郵便的エロス」とはこのようなことを言うのではないか。まさしく、手紙は分割されるかもしれず、宛先へ届かないこともあり得る。むしろそこで起きる出会い損ないこそが、(観客にとっての)面白い映画を生むかもしれない。
03/08/28(水)
●余談だが、同じく黒沢清の『大いなる幻影』について、ちょっと。「ユリイカ」7月号の黒沢清特集で御園生涼子は、この映画を「性とアナーキズムを接続させること。そこから導き出される仮説と展開を」めぐる思考実験として捉えている(『郵便的エロス』)が、それはどの程度適当なのだろうか。ぼくにはむしろ、樫村愛子が指摘している「(外傷を補償する)純愛」というものの方が適当な気がする。樫村氏は『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』で、高度な資本主義の展開によって自然な生活世界が破壊され、それによって危機的な状況(解体に瀕する状況)におかれたアイデンティティーが対処する方法(文化的傾向)として、現在3つの方向性がみられるとし、それを、ニューエイジ、精神分析的文化、(外傷を補償する)純愛、として挙げる。この二つ目の「純愛」的傾向とは、《これまでのような規範や社会等に頼れなくなった個人がすべてを個人的外傷として抱えながら、そのような個々の人間の関係がまったくない状況で、外傷を介して関係を構成しようとする》ような傾向で、それは《フェミニズムが批判するロマンチック・ラヴ・イデオロギーの装いを一見まとっているようだが、中身は異なるものである。彼らは性愛が優位する関係との対抗で純愛をうたっているわけではない。彼らがまず抱えているのは心の傷だからである。》しかし《共依存的かといえばそうではない。なぜならそれぞれは互いの弱さを隠蔽するのではなく、互いが弱さ(精神分析でいう去勢)を受け入れるために支えようとするからである》とする。(このような傾向は、ガン患者たちのセルフヘルプグループや、ゲイ・アクティヴィズムと結合したエイズ患者たちの運動などと同質のものとみられる。)このような恋愛においては、モラルや規範は希薄であり(頼りには出来ず)、浮気も裏切りも、あくまで個人的な問題に過ぎず、倫理的・普遍的なテーマとはならない。故に、どんなに大きな苦しみや悲しみも個人的に処理されるしかなく「あなたには関係がない」ことにしかならない。だからこそ《本来は関係ないはずの他者の外傷を自身のものとする過程に恋愛の今日的な意義がある》と。その上で、《三つ目の現象(純愛)は、恋愛や愛という幻想が幻想性を解体し二つ目の現象(精神分析的文化)と連動する動きを見せている点で興味深い。純愛はもともと近代の発明であり、大いなる幻想であった。しかしいまや純愛は絶対的幻想というより能動的に自身を賭けてみる選択肢の一つとして存在している。それはすでに担保として存在している幻想ではなく、リスクを伴う「個人」的行為なのである。それゆえそれは分析的過程となる》と言うのだ。これは、ぼくが『大いなる幻影』から感じるものとはちょっと違うけど、『大いなる幻影』という作品は、確かにこのように観ることも出来るのではないかとも思える。(別に、『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』という論文は、『大いなる幻影』に触れているわけでは全然ないのだけど。)デヴィッド・エリス『デッドコースター』
03/07/05(土)
●吉祥寺のバウスシアター2でデヴィッド・エリス『デッドコースター』。これは凄く刺激的だった。この映画は多分エンターテイメントとしては失敗している。因果関係によって結ばれ、伏線が張られ、人間の感情が描かれるという意味での、人の気持ちを惹きつけるような「物語」というものがここでは成立していない。どうも気が進まないので『リローデッド』まだ観ていないのだが、『マトリックス』には、今とは別の自分、ここではないどこか、を思わず志向してしまう人間の感情に訴えかける物語が上手く仕込んである。しかし『デッドコースター』には、ほとんど無意味に次々と人が死んでゆくスプラッタ描写の連続があるだけだ。例えば、何事かをリサーチし、そこから傾向を読みとり、未来の展開を予想しようとする時には、一見情報は多ければ多いほどよいかのように思えるが、人間の情報処理能力には限界があり、実際には情報があらかじめ絞り込まれている必要があって、あまりにも情報が多いと混沌としか思えず、そこに某かの因果関係や法則性を見つけだすことが出来なくなってしまう。人間の処理能力を超えたようなコンピューターなどを利用すれば、混沌としたデータを解析することは出来る。だがその時、入力されたデータと、処理され出力された結果の間の繋がりや結びつきを「感情的」に納得することは出来ない。ただ、膨大なデータをあるアルゴリズムによって解析した結果がこれだ、と知的に納得するしかない。つまりここでは、入力と出力を結ぶ(納得させる)「物語」が不可能になる。(あるいは、世界全体というデータはあまりに膨大過ぎて誰も解析出来ない。)『デッドコースター』の世界とは、まさにこのような世界なのだ。何故、人々が次々に死んでゆくのか。それは死神がそう決めたからだ。それ以上の説明は何もない。ほとんど現実にはあり得ない無意味な偶然が重なって人が次々と死んでゆくが、それが偶然ではないと言える根拠は、いくら何でもそんなに偶然は重ならない、ということだけなのだ。あまりに不幸な偶然がかさなると、人はそこから物語を紡ぎ出さずにはいられない。しかしここでは、人の物語的な想像力を超える、あまりに馬鹿馬鹿しいほどに偶然が重なる(あまりにも無意味に人々が死ぬ)ので、もういちいち物語りに回収している暇がないのだ。だから、ただ「彼らは死のリストに載ったから死んだ」ということになり、その「死のリスト」の運命と抗うための道具も、何の根拠もなく主人公の少女が見る「死のサイン」だけなのだ。(通常のホラー映画なら、この少女の「シャーマン的な資質」が何かしらの形で正当化されるのだが、そのような物語上の手続きが全くと言ってよいほどない。死もサインも共に、神秘も深みも重みもなにもない。意味がない。しかし圧倒的で抗うことも出来ない。)だから映画は、馬鹿みたいな偶然によって(同時に正確な機械仕掛けのように残酷に)次々と人が死に、また、どのような必然性もなくいきなり現れる「死のサイン」によって、死が回避されたりされなかったりする、というだけで、物語の展開も因果関係も伏線も、あったものではない。(一応、「生と死のバランス」理論のようなものがあり、それによって最低限の物語的な構築=回収がされているのだが、この理論だって何の根拠もない。)だから『デッドコースター』にとって「この世界」とは、プログラム通りに次々と人が死んでゆくだけの世界であり、しかも、そこで人の死には何の意味もなく、ただ「プログラム」がそうなっているからだ、という理由か、もしくは「たんに偶然」かの、どちらかでしかない。(プログラムのなかに神秘的な世界の秘密=真理が隠されているわけでもない。)この映画では無意味な死が溢れ返っていることによって「死」が不在であり、死の不在とはつまり「人間」の不在であるのだ。そして恐ろしいのは、この映画の世界が全く馬鹿馬鹿しい現実離れした戯言などではなく(ただ笑って観て入れば良いようなウケ狙いのスプラッタではなく)、少なくともぼくのリアリティのある一面を強く揺さぶるものであるということだ。
●『デッドコースター』を観ながらしきりに考えていたのは、岡崎乾二郎がアメリカのイラク攻撃に反対して書いた『いかなる悪よりもおそろしいもの』というテキストのことだった。岡崎氏は、アメリカのこのようなやり方が通ってしまえば、たとえ形式的なもの(段取りにすぎないようなもの)であったとしても、論理的な議論というものの意味が一切失われてしまう、と書いている。
《アメリカのこうした やりかたが 通ってしまうならば
今後の世界で 人の行なう 論理的な手続き、営み、仕事のすべては
機能をなくし、空洞化してしまうでしょう。
批評や
哲学ばかりか
もはや
小説も映画や漫画やアニメすらもなりたたない
たとえば映画のシナリオライターが
切磋琢磨して 誰もが納得するような
ストーリーを練り上げていく
そうした 作業がすべて意味を失うのです。
どんな無意味なストーリーでも通ってしまうのだから
というよりも
そもそも ストーリーが成立しない。
思考が成立しないのです。》
勿論、『デッドコースター』という映画のもつ抗いがたいリアリティを、このような否定的な側面からだけ見るのはまちがっていると思う。しかし、『デッドコースター』のもつリアリティが、我々がこのような時代を生きているという事実と切り離すことの出来ないのもまた事実であろう。
●『デッドコースター』を「映画的」に見て最も注目すべきなのは、何といっても冒頭近くのハイウェイのシーンだろうと思う。たんに、同じ時間に同じ道路を同じ方向に走っていたという以外に何の接点もない複数の人物同士を、主人公たちの乗る一台の車を中心としつつも、関係しているとは言えないような最低限の関係づけを(リゾーム状に?)複数の時間の同時進行として描き出してゆくその描写は、まさに「関係しているとは言えないような最低限の関係づけ(偶然なのかプログラムなのかは知らないが)」によって次々と人が死んでゆくという、その後の展開を見事に「形式的に」要約している。単純に、このシーンを観るためだけにでも『デッドコースター』は観る価値があると思う。スティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』
03/07/06(日)
●新宿の新宿トーアでスティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』。面白い。『ソラリス』はSFとか関係なくて、ほとんど松浦寿輝の小説みたい(『花腐し』とか)。松浦好きな人は絶対に観るべき。
●スティーブン・ソダーバーグ『ソラリス』について。これはイメージについての映画であるだろう。この映画には、様々な次元の異なる(人物の)イメージが現れている。オリジナルである実体としての人物、ソラリスによって実体化されたイメージ、ビデオに録画され再生されたイメージ、主人公の夢のなかのイメージ(死んだ妻、死んだ友人)、そして主人公の回想としてあらわれるイメージ。これらの次元の異なるイメージは、とりあえずは主人公に対してどういう関係で現れているかによって階層化され、区別されている。例えば、夢は主人公の見る夢であり、回想は、主人公にとっての過去(主人公のする回想)である、と。しかし当然だが、映画において「ある映像」があらわれる時、それらは全て同等の権利をもつ。つまり、物語内容からみれば、宇宙ステーションにいる実体としてのジョージ・クルーニーの存在している時間が、映画の基底的な時間ということになってはいるが、画面に映るイメージ(映像そのもの)としては、実体のジョージ・クルーニーも回想のなかのジョージ・クルーニーも「イメージ」として同等であり、どちらが主でどちらが従とも言えない。つまり、物語としは虚構内実体である彼と、虚構内虚構(回想)である彼とは存在の位相が異なるのだが、映像としては位相の違いはなく同等なのだ。(どちらも、たんにジョージ・クルーニーの映像である。)彼の死んだ妻であるナターシャ・マケルホーンのイメージとなると、主人公の夢、主人公の回想、ソラリスによって実体化されたイメージ、彼女がビデオで残したイメージ、という4つの異なる次元で現れるわけだが、これまた当然だが、4つとも同じ女優(ナターシャ・マケルホーン)によって演じられた、イメージとしては同等の権利をもつものなのだ。(しかし彼女の場合、4つの次元のいずれも物語上では虚構内虚構であり、「実体」として登場することはない。だから主人公はまさに、イメージと戯れ、イメージを愛し、イメージによって苦しめられるわけなのだ。そしてそのような「実体」としての主人公もまた、そられのイメージと同等の「イメージ」として示されるしかない。)これは事態を複雑にみせかけるための詭弁ではない。この映画は、様々な要素を大胆に切り捨て、省略を多様した話法によって語られる、99分でシンプルに纏められた物語のようにみえる。だが、語られ方がシンプルであり、省略による飛躍(つまり断層が多数あること)によって、基底的な時空として設定されている宇宙ステーションの場面と、例えば断片的な回想の場面とが、自然に結びつき、互いに干渉し合い、混じり合うようになっている。多くのSF好きが、何故宇宙の彼方までいっているのに、回想シーンばかりを散々見せられなければならないのかと文句を言うとき、彼らはこの映画がイメージを巡るものだということを理解していない。回想の場面がここまで大きく扱われる時、もはやそれは主人公によって制御されたもの(主人公にとっての過去)であることをやめ、宇宙ステーションの現在と同等の権利、同質の強さをもつイメージの次元の一つとして、基底的な現在と拮抗し、それを脅かすものとなる。つまりこの映画のなかで増殖してゆく回想シーンは、ソラリスによって実体化されたイメージと同様に、現在という時間の基底的な役割、特権性を揺るがすような「イメージ」という役割をもっているのだ。イメージに時制はない。このような事実が、現在という基底的な時空に繋ぎ止められていることによって「実体」であることが保証されていると思いこんでいる「イメージ」たち(虚構内実体である人物たち)を脅かし、苦しめることになる。『ソラリス』とは、そのような映画なのだ。
(つづく)
03/07/07(月)
●『ソラリス』においては、観客が自らの視点=立ち位置の基準とすべき基底的な時間である「現在」が、宇宙ステーションという抽象的で無味乾燥な空間に設定されている。あらゆる虚構=表象=イメージが、「そこ」において現れる基底面としての現実空間が、抽象的で現実性を欠いた、薄っぺらな空間なのだ。つまり(映画内)現実こそが最も希薄で、まるでイメージを映し出すためのスクリーンか容器そのものであるかのような設定なのだ。このような設定によって、虚構内現実と虚構内虚構(イメージ)との「現実性の濃度」が近くなり、虚構内現実と虚構内虚構(イメージ)との階層の違いが不明確になり、等価性が際だつこととなる。(つまり基底的な時間が相対化して、時制が「ほぼ」失われる、あるいは混濁する。)以上が、男女の愛の物語が語られるのに、何故わざわざ宇宙の彼方に舞台が設定されなければならないかという理由であろう。
●だが、複数の異なる次元にあるイメージが、階層化されずに(ほぼ)等価なものとして並べられた時、そこには遠近法による「深さ」のイリュージョンが成立せず、どうしても薄っぺらでベッタリと単調な印象が生じてしまいがちだろう。意図的に抽象化され、貧しい空間として設定されている宇宙ステーションという場においては特に。その点でソダーバーグはとても繊細な仕掛けや演出上の配慮をみせている。宇宙ステーションには主人公以外に2人の「実体」としての他者がいる。(オタク系技術者と女性研究員、ととりあえずは呼ぶことにする。)この2人の他者による視線を介入させることによって、ジョージ・クルーニーとナターシャ・マケルホーンとの一対一の関係だけではない、立体的な関係をつくることで、貧しい空間のなかに辛うじて「現実」としての厚みを保っている。しかしこの2人はほとんど「視線」としてのみ存在するような他者である。当然この2人も、主人公と同じくソラリスによって実体化されたイメージに悩まされていた経験を持つはずである。だが、映画ではその事に関してはほとんど触れられない。ただ、2人の人物からにじみ出る佇まいによって、その経験が尋常ならさる重さをもっていたであろうことが推測されるのみである。オタク系技術者は、その裏に荒んだ弱さが透けて見えるようなシニカルさと無駄な饒舌によって、女性研究員は、何かにせき立てられているような態度と、常に大きく見開かれ、充血している目の、その眼差しの強さによってのみ、経験の重さは示されている。(つまり、「現実」は基底的な時空であることの特権性を「完全に」手放しているわけではない。)
●映画においては厳密な意味での主観的ショットなどあり得ない。主観的なショットだろうと客観的なショットであろうと、それは等しくスクリーンに投射され、観客の前にあらわれる。主人公によって回想されたシーンや、主人公によって見られた夢のシーンも、それを見ている主体である主人公そのもののイメージと全く何のかわりもない同等のイメージとして示されるしかない。それはちょうど、記憶が実体化されたイメージであるナターシャ・マケルホーンと、その記憶を保持している主体であるジョージ・クルーニーとが同一のフレームのなかに納まってしまうという『ソラリス』という物語の不思議さときれいに対応しているだろう。そこに、現実世界のなかに実体化した記憶が「実在する」かのように入り込んでしまうという『ソラリス』の設定が、(イメージ論的な)映画としてつくられる必然性があるのだ。さらに『ソラリス』においては、記憶を保持する主体であるジョージ・クルーニーと、彼の記憶によって生じた、もともとは彼の記憶そのものでしかないナターシャ・マケルホーンとが、対等に言葉を交わし、互いに相手のことを思い、愛し合い、傷つき合い、そして記憶によるイメージでしかない存在が自らの意志でその姿を消し(つまり身を引き)さえするのだ。
●ここまできて改めて考えてみると、この映画ではもともと、実体としてのジョージ・クルーニーと、実体としてのナターシャ・マケルホーンとの、オリジナルな「関係」の場面は一切描かれていないことに気づく。映画にあらわれている二人の関係は「回想シーン」によってのみ示されていて、回想とはつまり何度目かの回帰したイメージであって既にオリジナルではない。つまりこの映画にはジョージ・クルーニーと、ナターシャ・マケルホーンとの関係が描かれているのではなく、はじめから(虚構内実体である宇宙ステーションでの)ジョージ・クルーニーと(様々な次元での「回帰するもの」としての)「イメージ」との関係が描かれているのみなのだ。ではオリジナルな経験としての主人公と妻との「関係」(の失敗)、妻の死という「根元的な外傷」は、まさに「現実界」の出来事として、表象としての映画作品の外側にあり、映画作品(=表象)を規定しているのだ、と言えるだろうか。しかしこの映画においてはオリジナルな、根元的な出来事など問題になってはいないように見える。この映画で問題になっているのはまさに「幽霊」としてのイメージであり、幽霊とははじめから既に反復であり、反復とはオリジナル(=根元的な外傷)以前にある、オリジナルよりも根元的なものなのだ。つまり、妻の死とははじめから「回想」でしかなく、それ自体が既に何度も回帰したもの回帰でしかない。ここではオリジナルなものなどどこにもなく、ただ幽霊(回帰するもの)が果てしなく回帰する様が描かれているのみだ。そのような世界ではイメージこそが実体であり、幽霊こそが実在する。(その意味で、松浦寿輝の小説に似ている。)そしてそのような世界が「ソラリス」と名付けられているものなのだ。アンソニー・カロ風のゲーム、または仕草と彫刻
03/07/09(水)
●たまに暇な時にアンソニー・カロ風の空間をA4くらいの紙一枚とホチキスだけを使ってつくるという遊びをすることがあって、ルールとしては一枚の紙全体を使って、それを手で千切って、ホチキスでとめる、ということだけで、どれくらい面白い空間をつくれるか、というもので、これが結構ハマッて、つい一生懸命になってしまう。(こういうのって、彫刻家とか工業デザイナーとか、あるいは建築家なんて人たちは、普通にトレーニングとしてやっていると思うけど。)このとき問題になるのはあくまで「空間」の生成であって、「紙」はルールとしてのとりあえずの限定を与えるものだから、新聞の折り込みチラシでもいらなくなったメモ用紙でも段ボールの切れ端でも、手近にあるものを使用するわけで、紙の素材感とか色彩とかは問題ではないし、手で千切ることの「味」なども問題ではない。言い換えれば空間の構造のみが問題になるということだ。しかし、その空間の構造は頭のなかだけでつくられるのではなく、任意の物ではあっても、実際に固有の物質(その紙)を使って、自分の「手」を動かしてつくるわけだから、当然その紙の持っている特質や自分の手癖などが、空間性に反映されるのは避けられない。例えば、半分ほど紙をちぎって、その端を対角の頂点にホチキスでとめた時に出来るアーチの形は、当然ながらチラシを使ったときと段ボールを使ったときとでは別の表情をもつし、その千切られ方によっても異なる表情になる。だから実は、段ボールのような、素材がそれ自体として強い特徴(=表現性)を持つ物質は、このゲーム用の素材には適さない。限定された条件のなかで、どのくらい面白い空間をつくることが出来るかというゲームのはずが、固有の物質から、どのくらい豊かな表現性を引き出すことが出来るか、という別のゲームにズレていってしまうからだ。それは言い換えれば、ゲームのルールは実は厳密には決められず、常にブレが生じているということでもある。例えば、空間性では勝てないと思った者が、たまたま自分が手にしたチラシに印刷された色彩や図柄を利用して、グラフィックな意味で面白い造形をしたとする。その時、空間性を競うゲームとしてはルール違反ではあるが、たまたま与えられた限定的な条件を使って、最大限の表現効果を生む、という意味では賞賛されるべきフレキシブルさを発揮したとも言えるのだ。(作家は理念をつくるのではなく具体的な作品をつくるわけだから、このような柔軟さは不可欠だ。)だからそれは、その時一回限りに有効な技としては、上手いところをついたということになろうが、毎回そんなことばかりしていれば、お前それは違うだろうということになる。(勝ちさえすれば何でもあり、というのはいくら何でも違うだろう、ということになる。)
●面白い作品というのは、上記のような、あるルールと別のルールとの間にあるヤバイ部分に触れているようなところがある。(前述した通り、これはやりすぎると、たんに「汚い手」にしかならないのだが。だから面白い作品とはいつも、一回限りにしか成り立たない何かなのだろう。)現在の地点からみると、やや古典的に見えもするアンソニー・カロの彫刻が、今見ても相変わらず滅法面白いのは、そこに理由があるだろう。(だが、この面白さを「味わう」ためには、ある程度ルールを理解していないけばならないわけだが。)
03/07/10(木)
●昨日、ああいうことを書いたのは、古本屋でアンソニー・カロの特集をしている「みずえ」(79年4月号)を見つけ、それを眺めていて改めて面白いと思ったからだ。それで思ったのは、彫刻というのは結局人体をつくるものなのかなあ、ということだった。カロの作品が人体を思わせる形をしているというのではない。カロの作品は「形態」としてはちっとも人体に似てはいないのだけど、いくつもの部分の組み合わせからなるその作品に「ひとつの閉じた構造」という印象を与えているもの(文法)が、手や足や胴体といったいくつもの部分のあつまりであるものに、ひとつの人体という統一感を与えているものにとても近い感じがするのだ。カロの作品は、複数のことなる文脈から拾ってきた形態(部分)を、その落差を保持したままハイブリッドに繋いでゆきつつ、しかし全体としては「ひとつの彫刻作品」としての閉じた纏まり(統合)を保持しているようなものだと言える。それはちょうど人体が、無数のバラバラなパーツのあつまりなのにも関わらず、ひとつの人体という統一感を保っていて、無数のパーツのそれぞれに異なる動きの接続されたものが、「ひとつの仕草」として感じられることに似ているように思う。言い換えれば、カロの作品は、「文」の内容として(あるいは「文」を構成する単語というレベルで)人体に似ているのではなく、その「文」を意味のあるものとしている構造のあり方が、人体に似ているのだ。(だから、その形態やテクスチャーやスケールが人体を思わせるわけではない。)初期のカロは、デフォルメされた人体を主にブロンズをもちいて「かたまり」として捉えるような仕事をしていたのだが、有名な「アメリカ体験」の後、主に彩色された鉄を素材として、複数の部分を組み合わせた「開放された」空間的な作品をつくるようになる、ということになっている。カロ自身が初期の具象的な作品について、人体の内的感覚を塊として表現しようとしたものだと言っている。一般的には、アメリカ体験以後のカロは、このような内的な感覚による人体という「完結」した構造体を脱し、台座を捨て去り、量感を捨て去り、部分の組み合わせであるような構造によって「開かれた形態」の彫刻作品をつくるようになった、ということになっているが、ぼくはそのような認識には疑問がある。前述したように、バラバラなパーツの組み合わせであるカロの作品に、ある秩序だった統一体という印象(否定的に言えば、閉じて、完結してしまっているという印象)を与えているのが、「人体の内的感覚」とでも言えるものなのだ。言い換えれば、カロが作品によって実現しようとしていた、ある「空間的な感覚」は、主に「かたまり」として空間を捉えている作品においても、主に部分の構成として空間を捉えている(台座を排し、「空」を自らの内部に抱え込んだ)ような作品でも、基本的には変わっていないと思える。カロの空間感覚の基本的な単位はあくまで人体であって、その意味でカロは全く古典的な彫刻家であり、その古典性がカロの作品を趣味の良いおとなしい感じに留まらせているのと同時に、読み込めば読み込むほど面白い複雑さを有した、現在の地点からみると、同時代のもっと「過激な」作品よりもずっと観る価値のあるものとしている。(もっと後の、トロイ戦争に関連した作品やスカルピテクチュアなどに関しては、ちょっと評価を保留したいけど。)ただ、カロの作品が人体のように構築されているといっても、そこに「顔」にあたるものはない。「顔」は、それだけであまりにも強く人体全体を代表してしまい、そのことであまりにたやすく人体という統合を実現してしまう。例えば、マティスの描く多くの人物において、「顔」がのっぺらぼうなままであるのも、そのためだ。
●カロの作品が人体を思わせるとはいっても、それは具体的な形態やテクスチャーやスケール感によってではなく、個々のパーツを組み合わせる時の、いわば「文法」が人体のそれと似ているということだ。つまりカロは、形態そのもの、テクスチャーそのもの、スケールそのものには、大して興味(あるいはこだわり)があるわけではない。だから作品の素材が、ブロンズだろうと、彩色された鉄だろうと、錆びた鉄だろうと、セラミックだろうと、そのこと自体に大きな意味はない。カロの興味は、いわば人体のそれぞれのパーツという次元にあるのではなく、その「仕草」という次元にある。(だから例えば、人体で言えば「巨乳」とかいう細部にこだわるフェティシズムとは無縁である。)このことがカロに(表面的には)自由で多様な、フレキシブルな作品の展開を可能にするとともに、カロの作品を理解する時の難しさにも繋がっている。(実際には、具体的な「その物質(その形態、そのサイズ)」を使って作品はつくられるわけだから、その物質の特徴にひっばられないわけはないし、また、その物質の表情に耳を傾けないままつくられる作品は駄目な作品でしかない。だから物質(や形態やサイズ)との関係はそんなに単純ではなく、一作、一作、その都度異なる複雑な絡み合いがあるわけだ。)それはリテラルなイメージではなくフェノメナルなイメージであって、それを明確に「これだ」と示すのは困難だ。つまり「仕草」の美しさは、見える人には見えるが、見えない人には見えない、と言うしかないものなのだ。例えば、あるバッターのバッティングフォームの乱れを、左肩の開きがはやいとか、右肘がコンパクトに畳まれていないとか、腰の回転のキレが悪いとか、そのように個々のパーツとして説明すると人は納得しやすいのだが、しかし、人にそのような個々のパーツの乱れを検証=分析させる動因となるものは、仕草としてのフォームの流れが「どこか妙だ」という感覚であり、その「妙だ」という感覚は説明し難く、見える人には見えるのだとしか言いようがない。しかし、「見える人には見える」という言い方は危うい言い方で、何か特別の能力や才能のある人にだけ見えるかのような印象を与えるが、それはたんに学習の問題であり、あるいは自分に入力された感覚的なデータを解析する時の「やり方」の問題であり、例えば、野球が好きで、それなりの注意力をもって沢山の試合を観ていれば、それはそのうち見えるようになるわけだ。(実は学習とかとは全く関係なく、ある日突然「見えて」しまったりもするのだけど。)
●現在の美術が、その作品も、作品を巡る言説も退屈なものでしかないのは、簡単に「見えるもの」の次元(人体の比喩で言えば、巨乳とか鎖骨とか足首とか、まあほとんどフェティシズムの次元)か、そうでなければいきなり大層な「意味(あるいは「問題」)」の次元(比喩的に言えば、「人間とはなにか」「愛とはなにか」「芸術とは、精神とは」のように、ちょっと待てよいきなりそれかよみたいな)か、そのどちらかに偏っていて、「仕草」や「身振り」の美しさに対する感性や配慮を、観客も作家もほとんど見失ってしまっているからのように思える。例えば、「仕草」に対する感覚のない人には、ポロックもアンファルメルも、ほとんど同じようなものにしか見えないだろう。(どこのサイトだったか忘れたけど、サム・フランシスがアンフォルメルの画家で、抽象表現主義とアンフォルメルが、アメリカとフランスで同時期に起きた、同じ様な運動だと当然のように書いている人がいて驚いた。)ロザリンド・クラウスが、「アンフォルム」とか言ってポロックと白髪一雄とを「あえて」一緒に並べたりするのは、「モダニズム」(グリークバーグ)という前提を批判するためなのだけど、今や、そんな前提自体が(怒濤のような相対主義によって)崩れてしまっているのだから、そのようなアイロニーには何の意味もない。
●勿論ぼくは単純に「仕草」という人体的=人間的なスケールを回復すべきだと思っているわけではない。むしろ、巨乳とか鎖骨とか足首とかの次元にバラバラに分離された部分対象を、フェティシズムとも違う、仕草という人体的なモデルとも違った、別のやり方でつなぎ合わせ、構築しなければならないのだろうと感じてはいる。それは人間的、人体的な仕草や身振りとは別種の、しかし、仕草や身振りとしか言いようのない何か(イメージ)であるだろう。そしてその時に助けとなり、参照し得るものは、やはり依然としてカロのようなモダニズムの作品でしかないようにも思えるのだ。羽生善治/ありがたいお言葉と、面白いこと
03/07/12(土)
●テレビをつけたら、たまたま羽生善治が喋っていた。ぼくは将棋につては、コマの動かし方と並べ方以上のことは何も知らないし、以下に書くことは、羽生氏が喋っていたことの正確な要約ではなく、ぼくの勝手な読みとりであることを断っておく。
羽生氏は、全盛期の勝率が8割を超えていたのに対し、現在の勝率が6割程度であることについて問われた時に、長いことやっていると負けることに対して免疫が出来ます、というようなことを言っていて、この勝率6割という数字に、まあこんなものだろうという感じで、満足さえしている感じだった。これは一見すると、とても安定したと言うか、守りにはいっていると言うか、もっと言ってしまえば惰性のようなものさえ感じさせる態度であるようにもみえる。しかしもう一方で、仮に自分に優位な局面だったとしても、守りにはいるのではなくいつも攻めの姿勢でいかなければならないとか、常に新しい「独創の一手」を探しているとか、そういうことも言っている。これは矛盾しているようにも思えるが、実はそうではないように思えた。つまり、常に新しい手を止むことなく探求しているからこそ、勝率は6割でも良いということなのだと聞こえたのだ。(つまり探求とは必ずしも「勝つ」ためのものではない。)10戦のうち2つしか負けられないと思うと、返って「守り」の姿勢が強いられてしまうのだが、10戦のうち4つくらいは負けても良いことにすることで、そこに探求の余地が出てくる、ということなのではないか。勝負事であるからには、まず何よりも「勝つ」ことが目的とされるわけだし、実際、ある一定以上の割合で勝つという実績が出せなければ、「探求」も何もないということになる。しかし、目先の一戦を何が何でも勝つということに固執すると、もっと大きなものを失うこともある、と。だからこれは、ひとつひとつの具体的な局面での勝ち負けの「重さ」と、その向こう側にあるもっと抽象的な、将棋というシステムそのもの、あるいはその「将棋というシステム」を成立させている「この世界」のあり方について探求することの「重さ」のバランスを、どのように考えるのかという話なのだと思う。これはとても微妙な問題で、一戦一戦の勝ち負けの「向こう側」にあるものの探求のために、実際の勝ち負けのシビアさが犠牲にされてしまうとしたら、そんな奴は既に現役のプレーヤーとは言えないだろう。(そんなの「だから野球は深いんです」とか下らないことを言う引退後のプロ野球解説者みたいなものでしかない。)しかし、たんに勝ちさえすれば何でも良いというのでは、それはあまりに貧しい。実際問題として、「プロ」という存在は、恒常的に誰かと戦っているわけで、長くつづければ相対的に一つの勝ち、一つの負けの「重さ」が軽くなってくるのは避けようもないのだから、そこに勝ち負け以外の何かしらの探求がなければ、興味も緊張も持続しないだろう。初めの頃の初々しさはいつか失われるしかないことが必然だとすれば、人はその代わりに何か別のものを得なければならないわけなのだ。
だから羽生氏が、新しいことを試みれば、当然失敗する確率は高くなるが、それでも新しいことを追求する必要がある、と発言するとき、そこにはとても微妙で危険なニュアンスが含まれている。羽生氏は、常に変わっていかなければ生き残れない、みたいな無限のイノベーションを賛美しているわけでもないし、抽象的なものの探求のために具体的な勝ち負けが犠牲にされても仕方がないと言っているわけでもないだろう。ただ、具体的な勝ち負けのみに重きを置くだけではあまりに世界が狭すぎるし、窮屈で退屈で不快だ、と言いたいだけなのだと思う。だから、「新しい手を追求しなければならない」ではなくて、「新しい手を追求したい」、「ついついしてしまう」ということなのだろう。(もっと言えば、「勝ち負け」という問題は避けられないしシビアではあるが退屈だ、と言いたいのではないか。勿論、実際にそこまでは言ってないけど。)だから羽生氏は、勝率8割を誇っていた全盛期に比べて現在が後退しているとは思っていないだろうし、逆に、ただ勝っていた頃よりも今の方が「深み」が分かっただけ進歩している、とも思っていないはずだろう。ただ、あるものを失い、それとは別のものを得たということで、つまりそこには異なる世界の拡がりがあり、物事の違った奥行きが見えているのだということなのだろうと思う。(この事実に、成長とか成熟とかいった意味づけをすることに意味などない。たんに局面は常にかわりつづけるということなのだ。)
羽生氏が、慎重に言葉を選びながら複雑な思考の経路を伝えようとしているのに、聞き手のアナウンサーと、もう一人いる女性は、あまりに話しを単純化した分かりよい話として纏めてしまっていて、こういうのを「テレビだからしょうがない」と言うのはやはり間違っていて、ちゃんと批判されるべきものだと思う。羽生氏はここで、決して「真理」を語っているのではなくて、自分の「姿勢」を、あるいは「性向」を語っているのだと思う。しかしアナウンサーたちは、それを達人の「ありがたい」「ためにある」お言葉(=成功のための秘訣)のように受け取ってしまっている。羽生氏の「姿勢」を「教え」とするかどうかは、あくまでそれを受け取る側の「性向」にかかっているのであって、羽生氏は決して「教え」をたれていたわけではないだろう。羽生氏はただ、面白い話をしていたのだ。GALLERY TERASHITAで、加藤泉、細井篤、堀由樹子・展
03/07/14(月)
●京橋のGALLERY TERASHITAで、加藤泉、細井篤、堀由樹子・展。前の個展の時にも書いたのだけど、堀由樹子の絵画の基本的な構造は次のようなものだろう。《堀氏の絵画の趣味の良さは、主にその独特の筆触と色彩に由来し、その質の高さは、その触覚的な筆致と色彩によって形成される平面的でありながらもゆったりとした膨らみと含みを感じさせる「空間性」に由来すると考えられる。つまりここでは、ふっくらと、ゆったりとした膨らみを感じさせる形態や色彩が、その感触を保持したままで平面的な秩序によって制御されていて、三次元的な奥行きを感じさせるのとは全く別種の、いわば触覚的な空間性とでも言うべきものを出現させているのだ。(略)画面のなかに猫とかカラスのような具象的な形態が招き入れられているのだが、それらは三次元的な厚みを持たず平面的に処理され、平面的な空間のなかに破綻なく納められている。しかしそれは平坦なマークのようなものではないし、画面の造形上や構造上の都合によって召還されたものではなく、実際に存在する猫やカラスの動きや体温などまで感じさせるような「含み」としての厚さ(世界の「厚み」)を有している。》しかし、最近では、上記のような平面的な空間に招き入れられた具体的な形態(今回展示されている作品では「猫」)が、平面的な空間の秩序に収まりきれないくらいの「描写の充実」を得るようになっていて、その描写の充実が堀氏の作品を制御している秩序のなかに容易には納まりきれなくなってきている。今回展示されている『The garden』という作品では、画面左下の、庭に佇む猫の後ろ姿を描いてる部分の描写の充実と、画面右上あたりに描かれている植物の平面化され単純化された形態の周辺とは、ひとつの画面のなかでは両立し難いものとなっている。(実際には、画面全体の色彩の制御や、独特の筆致の連続性などによって、画面の破綻は避けられているのだが。)このような傾向は、前回の個展の時の作品からはっきりと見えるようになっていたのだが、今回展示された作品では、さらにそれが際だってきているように見える。しかし、下手をすると作品を破綻させかねないこの危険な綻びは、あくまで「描写の充実」度が増していることによって際だってきていることが重要であるようにぼくには思えた。『The garden』における猫の魅力的な描写は、絵画というものが単純に「何かを描くもの」なのだということを改めて教えてくれる。(何かが描きたくなってくる。)作品が「作品」であるからには、作品全体としてのシステムの整合性は不可欠であり、それが破綻してしまっていたら、魅力的な「部分」というものさえ成立しはしないのだけど、しかし、作品が魅力的なものであるためには、システムの整合性だけではどうしようもない。『The garden』という作品は、佇む猫の描写の充実だけで既に「勝ち」であるような作品だろう。ある突出して魅力的な部分があれば、危うさや不安定な感じすらも、複雑さや厚みやスリリングな感じとして現れてくる。それが作品の「意味」というものだろうと思う。今後の堀氏の作品において、一作ごとに充実度が増してくるようなその描写によって、作品全体の空間性がどのように(危うく)動いて行くのかを見ることは、無責任な観客の一人としてとても楽しみだと思う。あくまで無責任な観客としてのぼくの個人的な希望としては、破綻など気にせず「描写」で突っ走っていってほしいと思うのだけど。(例えば、同じく今日観た、ギャラリー東京ユマニテの額田宣彦や、ヒノギャラリーの高見澤文雄の作品は、外見上は大きく異なり、額田氏はいかにも「今風」で軽くて、高見澤氏は重ったるくて「古くさい」感じではあるのだが、その作品は共に「一つのシステム」だけ、あるいは「システムの整合性」だけがあり、それ以外のものが何もないという意味で共通していると思う。極端なことを言ってしまえば、そのようなものは一見端正な作品に見えるが、一目だけ観れば、あるいは一点だけ観れば、もうそれ以上観る必要は何もなくなってしまう。そういうものはもう絵画とは言えないし、作品とは言えないのではないだろうか。簡単に言えば、「退屈」なのだ。)
●細井篤の作品は、立体的な作品を、平面的なイリュージョンを用いて作る、というような「ねじれ」によって成立している作品だと思う。とてもシャープでセンスのよい成功した作品だと思うけど、そのような「狙い」を超えるものがあるかどうかは疑問だ。加藤泉の作品は、ぼくは以前のものはとても好きなのだけど、最近の作品は、絵の具がヌルヌルと滑ってしまっているような感触がとても気持ちが悪くて、あまり良いものとは思えない。小林孝宣のような人の作品もそうなのだけど、絵画において、しっかりかっちりと画面についているべき筆や絵の具が、ズルーッと、ヌルーッと、画面の表面を滑るようになってしまうと、もう既にそれは駄目なのだとぼくは思う。何故か知らないけど、経験的に言って、それは「絵画の法則」の一つであるとぼくは思っている。小林秀雄『近代絵画』のピカソ論について
03/07/16(水)
●小林秀雄『近代絵画』のピカソ論について。『近代絵画』という本は、基本的に具体的に作品を記述し分析するという手続きを拒否している。(これは小林の批評の基本的な姿勢でもあるだろう。)この姿勢についてピカソ論ではっきりと書いている。つまり、作品を記述し分析するのではなく、その作品から受け取った「疑いのないような感動」から出発するのだ、と。しかし「感動」は言葉にならない(言葉を必要としない)し、(作品から離れると)過ぎ去って二度ともどらない。その後に残されるな苦しい意識だけが「書く」ことの頼りである、と。《今は、もう感動はない。だから、感想が湧くのである。》この「感想」こそ小林の批評の方法であろう。ここで言われている「感動」という言葉は胡散臭いし誤解されやすい。この「感動」とはおそらく、「イメージ」とか「ヴィジョン」とか言い換えることの出来るものだと思う。小林にとってイメージとは、作品そのものにあるのではなく、それを受け取った者の頭のなかにあるものだ。つまりここで言われる「感動=イメージ」とはそのまま、『感想』で描かれた「蛍=おっかさん」のことでもある。何故だか分からないが、その蛍は「おっかさん」としか見えなかった。蛍からおっかさんというイメージが「見えてしまった」。あるいはピカソのある作品から「何か」が見えてしまった。だから感動=イメージとは、いきなり偶然にぶつかってしまうようなものなのだ。イメージは、説明は出来ないが、疑いようのないものと思えるようななにものかだ。だが、それは消え去ったら二度と返らない。その後に、苦しい意識とともに「感想」が「言葉」としてわき上がってくる。小林にとって批評とはこのような「感想」である、と。
●このような一見素朴な小林の態度を、勿論素直に受け取ることは出来ない。小林は「感動」などという言葉を使って煙に巻こうとするが、その感動の発生がメディウムのあり方に深く関わっていることに対して充分意識的である。(しかしそれを明快には語らない。)例えば『喋ることと書くこと』というテキストにおいて、あらかじめ前提として存在している「観客」や「場」に向けて喋る「講演」のようなものと、作家が孤独に書き、そして読者が孤独に読むようなものとしての(ベンヤミン的な)「散文」との違いについて書いている。散文は「人の感覚に直接に訴える」力を放棄し抽象化することによって自由を得るのだが、その自由が「決して人の弱みにつけこむ」ことも「人を酔わせること」も放棄すること(つまり読者に対してあらゆる意味で「強制」しないこと)で成り立っている以上、散文は、誰に読まれるのか、どのように読まれるのかに関して、常に不安定に開かれたままでいるしかないと書いている。(小林秀雄は既に「郵便的不安」について語っているのだ。)これは『無常という事』で、死んで文物と化した人間は立派に見えるが、生きている人間は何とも不安定で(動物のように)あるしかない、と書いていることと繋がっているだろう。「散文」や「生きている人間」は、常に未来(未知の他者)に対して開かれているからこそ、不安定で危なっかしいものでしかない。しかしこれこそが「散文」の力なのだ、と。ここで重要なのは、このような「散文の力」が成り立っているのは、印刷技術の発達と流通体制の確立によって「本」が商品として大量に出回るようになったからこそ可能になったのだということに対して、小林が充分に自覚的であることだ。《昔、歌われる為、語られる為の台本だった書物は、印刷され定価がつけられて、世間にばらまかれれば、これを書いた人間にもどうしようもないという事になりました。》《書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。》(しかし小林自身は決してこのような意味で「散文的」に書こうとはせず、いつも「文学好き」に向けた売文家としてパフォーマティブに書くのだけど。)何が言いたいかと言うと、小林はここで、散文が可能にする感動=イメージの成立を可能にしているのは、「本」というメディア(商品としての流通形態)なのだということについて、つまり、どのような感動=イメージも物質的、現実的な基盤に規定されているということに、自覚的だということだ。
●このような点を考えると、小林のピカソ論が、ピカソの作品そのものから受けた感動=イメージからではなく、ピカソが描いているところを撮った『ピカソ・天才の秘密』という映画を観た時の衝撃から語りだされていることの意味の大きさが理解されるだろう。(かの悪名高い『モーツァルト』にしても、道頓堀を歩いている時に聞こえてきた「レコード」のモーツァルトに衝撃を受けた場面から語り出される。)恐らく小林にとって興味があったのは、芸術作品としての絵画そのものではなく、あるメディアによって可能になるイメージ=感動のあり方のようなものの方だったのではないだろうか。だからこそ、小林は具体的に作品そのものを記述し分析することをしないのだとも言える。(だからそれは、徹底して作品そのものと対峙することで成立している吉田秀和のセザンヌ論とは対極にあるだろう。)小林のピカソ論は、冒頭でクルーゾーの映画に触れた後、さらに作品そのものへは至らずに迂回を重ね、ピカソの秘書であったサルバテスが語る「様々なガラクタで溢れ返っているピカソの部屋」というイメージに繋げられる。《ピカソの部屋は、何ということもなく集められた、あらゆるくだらぬ品物の迷宮のようなものだ。》ピカソにとってこのようなガラクタのひとつひとつが、あるイメージ=感動を与えてくれたものの「残りカス」であり、だからそれを捨てることが出来ない。セザンヌにとってイメージ=感動が与えられるものとは、林檎であり、サントヴィクトワール山であり、庭師ヴァリテであり、ルーブルの古典であり、つまりそれらは信じるに足りる根拠(深さ)をもつ「自然」から分化されてきたなにものか(だからこそ、何度も何度も執拗に繰り返しその前に立つことが可能なのだ)なのだが、ピカソにとってそれは、たまたま道端に落ちていた、たまたまそれにぶつかってしまったようなガラクタに過ぎない。(だから、そこから素早くイメージがかすめ取られた後は、たんなるガラクタとして放置される。)小林はこの時点で既にポストモダンなアーティストとしてのピカソを描き出している。《彼はセザンヌの林檎からも、アッシリアの浮彫からも等距離にいる。(略)歴史的展望の遠近法の断固たる拒否を欲した最初の画家なのである。現代に生きるとは、そういう非歴史的地点に追いつめられる事ではない。そういう地点にも可能な生のドラマを進んで容認する事だ。》小林が、ピカソの言葉、絵とは「フォルム」であり、「嘘であるが、真実を会得させる為の嘘のフォルムだ」という言葉を引いた後、絵や芸術だけでなく「世界はフォルム」なのだとまで書く時、この「フォルム」はベルクソン論である『感想』の「イマージュ」と滑らかに繋がってゆく。《彼は、至る処にフォルムを経験していれば足りるので、逆に言えば、或る基本的な切実な経験をフォルムと象徴的に呼ぶだけで充分な筈である。》ここまで来れば、感動=イメージ=フォルム=経験と、ほぼ等式で結んでも良いはずだ。小林はピカソについて最終的には、彼の絵は「破壊の総計」であり、彼は恐らく「正しい」が、彼を「模倣する者は呪われるであろう。」と否定的な調子で締めくくるのだが、しかし、「呪われる」ことは不可避であり、呪われていつつも「そういう地点にも可能な生のドラマを進んで容認する事」こそが真の主題であるようにも読める。実際、『感想』におけるイメージ論の展開は、セザンヌ=マティスの仕事というよりも、ピカソのそれに近いもののようにぼくには感じられる。(『近代絵画』において、ピカソにさかれた分量が異様に多いことと、マティスが全く不在であることの意味をどう考えたらよいのだろうか。マティスについては、作品を記述し分析することのない、ということは結局は作品を巡る「言葉」に頼ってしまうことになるのだが、そのような小林的な「感想」では歯がたたないとも言えるけど。)「その場」から切り離されること/『喋ることと書くこと』の小林秀雄
03/07/18(金)
●ぼくは作品のキュレーションのようなものにほとんど興味がない。例えば、自分の展覧会で作品を配置し、設置するときなども、かなりいい加減だと思う。画家としてのぼくの仕事は、ひとつの「装置」としての作品を完成させるところまでで、その「装置」がどのように観客に出会うかまでは、ぼくがコントロールすべきことではないと考えている。(コントロール出来るわけがない。)展示空間のなかでの作品の配置、設置の高さやバランス、ライティングなどに非常にこだわる人もいるのだけど、ぼくは、作品同士が殺し合ってしまうような配置でなければよいし、極端に作品が見えづらくないライティングならそれでよいと思う。現在の美術の流れは、展覧会をイベント展示会のようなものにしてしまっているのだが、ぼくは基本的に反ライブ主義者なのでこのような方向性は間違っていると思っている。作品が「場」を志向すればする程、美術館、あるいは(既成の)美術という制度への依存が高まり、そこから離れられなくなる。つまり、発表する「場」や体勢に束縛され、作家も観客も孤立出来なくなる。(ぼくは、美術館や画廊に、図書館や本屋に本が並んでいるように作品が並んでいて、観客がそれぞれ自分の興味のある作品にだけ勝手にアクセスして帰ってゆくような展示が望ましいと思う。企画やキュレーションは、まあ、ブックフェアくらいの意味があれば良いのではないか。だからキュレーターに必要とされる「腕」は、面白い企画を考えることよりも、限られたスペースの書棚をどのように充実させるかという、書店員の「腕」と同じようなものなのではないか。)
●近代絵画はタブローとして建築空間から切り離されたことによって成立した。それは例えば小林秀雄が、特定の場へ向けて行われる「講演」と、孤独に書かれ孤独に読まれる「散文」との違いについて書いている事と対応する。《昔、歌われる為、語られる為の台本だった書物は、印刷され定価がつけられて、世間にばらまかれれば、これを書いた人間にもどうしようもないという事になりました。》つまり「本」という手軽な商品の形態によって場と切り離された「散文」が可能になったのと同じような意味で、手軽に持ち運べるタブローという形態によって「近代絵画」的なイメージが可能になったのだ。19世紀のパリにおいて「展覧会」は都市の遊民の娯楽のひとつであったし、タブローは、権力者や大金持ちでなくても、都市の新興の小金持ちにも買えるような商品形態だった。(印象派が官展から離れることが出来たのも、官展的な権威と無関係に自分の趣味で作品を評価する新興のプチプル・コレクターの存在があったからだろう。)建築の一部としての壁画や巨大な画面の歴史画は、商品として容易に流通することが出来ないことによって、体制に合わせるほかなかったのだが、近代絵画(タブロー)は、商品として流通し得る形態だったからこそ、たんに「商品」であることを超えたイメージをうみだすことが出来た。タブローが、比較的コンパクトで持ち運びのたやすいイメージ発生装置だということの意味は重いように思う。それは展覧会の会場から自宅のリビングへ、あるいは、カフェや酒場の壁やショーウインドウなどにも、比較的たやすく移動出来るものなのだ。(こけおどし的な大画面の絵画とかは、ぼくには自らの首を絞めているような不毛なものとしか思えない。)
●『喋ることと書くこと』で小林秀雄は、「自由に感じ自由に考える成熟した読書人」の存在によって作家が自由になれるということを書いている。本を読む人は「つまらぬ処をとばして読もうが、興味ある処に立ち止まり繰り返し読んで考え込もうが」それぞれの自由であって、読者は「(講演の)聴衆のような集団心理を経験することはない」。散文の書き手は、そのような自由でそれぞれ孤立した読者に向かって書く。その時、作家は(講演の喋り手のようには)その心理を読んで先手を打ったり、それを意のままに操ることなど放棄せざるを得なくなる。だからただ作家は自らの興味に従い、自らの全力をあげてそれを書くしかなくなる、と。作家と読者は共通の場をもたず、読者と読者は集団心理を共有しない。このような条件がある程度成立することで「散文」が可能になる。そしてこの時にはじめて、作家と読者、読者と読者との間に、それまでとは異なる関係が生み出される可能性が生まれる。まあ、これは少しばかり理想化し過ぎたと言うか、図式的すぎる言い方だけど。ただ、少なくとも近代芸術というものは、例えば、みんなで集まっている時に声のいい奴が歌い出して徐々に場が盛り上がるとか、仲間同士での夕食後、暖炉の前でくつろいでいる時に、誰かがふと物語を語りはじめるとか、そういう「共通の場」を前提としたものから切り離されることによって可能になる「何か」であることが重要であることは確かだと思う。そのためには、「その場」「その時」から切り離されて浮遊することの出来る(そしてある程度保存がきく)形態を、作品がもっている必要がある。(例えば「商店街の夏祭り」とか「地域の盆踊り」とか、そういうものを否定する気はないし、楽しければそれはとても良いことだと思うけど、少なくとも「美術作品」はそういうものとは違うのだ。)
●作品は、ただ作品それ自体では完結せず、観客に観られることによってはじめて完成するというような言い方がある。しかしこれは、作家やキュレーターが作品の受け止められ方やその「場」まで含めてプロデュースするとか、あるいは安易な観客参加型の作品(最近こういうのがすごく多くてうんざりする)とかのことではないと思う。(安易な観客参加型作品において、観客は作品のシステムのなかに無理矢理巻き込まれるのであって、観客はまるで学校の課題を強制させられる生徒のようなもので、そこには自由で主体的な関わりなど不可能であるように見える。)その意味は、作家に出来ることは、とりあえず作品を完成させることまでで、そこから先はどうしようもなく、それが誰にどう受け取られるかは分からない、ということであるはずなのだ。作品とは、時間と空間の間を浮遊しつつ彷徨う不定形の記号に過ぎず(いや、作家としてはそこに決定的な何かが確実に刻み込まれていると信じているわけだけど)、作品の意味とは、作家にはどうすることも出来ないその先の、自由で主体的な観客の「受け取り方」であるという意味で、「観客に観られることで完成する」ということなのだ。小林秀雄は書く。《散文は、人の感覚に直接に接訴える場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。この言わば肉体を放棄した精神の自由が、甚だ不安定なものである事は、散文が、自分を強制することも、読者を強制することも、自ら進んで捨てた以上仕方がない事でしょう。》(『喋ることと書くこと』)つまり、散文=近代的芸術とは、「郵便的不安」によって初めて可能になるものなのだ。ロバート・アルトマン『ゴスフォード・パーク』をDVDで
03/07/19(土)
●ロバート・アルトマン『ゴスフォード・パーク』をDVDで。冒頭、老婦人が水筒の蓋がとれないというだけのことで、車の前に乗っている若い女の使用人を呼びつけ、車から降りた使用人が冷たそうな雨にうたれながら「パコッ」と音をたてて蓋をあける描写に接した時から、この女優の素晴らしさと、この映画でのアルトマンの気合いの入れっぷりがうかがえてグッと身を乗り出すことになる。この、使用人として働きはじめたばかりの若い女の「不慣れ」さが、そのまま、1930年代のイギリス貴族の生活という「わけのわからない世界」に接する観客の「不慣れ」さと重なり合い、この不慣れな使用人が貴族のしきたりやら生活、パーティーのために屋敷に集まってきた人々の関係やらそこで働いている「力学」やらを徐々に学んでゆくにつれて、同時に観客もまたそれを学び、その世界に慣れ親しんでゆくことになる。パーティーのためにある屋敷に集まってくる大勢の貴族とその使用人たち。ここでは、一人一人の人物の表情が描写されてゆくことによって、屋敷全体(貴族の社会)を制御しているシステム(「ゲームの規則」)がみえてくるのか、それとも、システムが示されることによって、そのシステムに従って生きるしかない人々の「きしみ」が、それぞれの個人の魅力的な表情となって浮かび上がってくるのか、どちらにしても観客は、それほど混乱することもなく、決して退屈することもなく、屋敷を制御しているシステムと、そこに集う大勢の人物たちの関係やキャラクターを、いつのまにか把握している。それが可能なもの、この魅力的な若い女性の使用人の視線に沿うように、観客の視点が巧妙に導かれることになっているからだろう。一見、中心的な人物を置かず、あらゆる人物に等しい距離をとって描かれているようなこの映画において、観客がすんなりとその世界へと入り込めるのは、冒頭の雨にうたれる若い女性の使用人の媒介的な存在による。
●この映画では、冒頭の「水筒」のシーンから、貴族たちの「鼻持ちならなさ」が充分に描写される。使用人たちは、貴族たちのわがままぶりに振り回され、それに従うしかない。しかし勿論、ここでは貴族たちに抑圧される使用人たち、などという安易な構図は成立しない。貴族たちも使用人たちもともに、彼らを取り巻き制御する「しきたり」というか、システムに忠実であることが強いられているという点では全くかわりがない。貴族たちの鼻持ちならなさや空疎さも、使用人たちのそれぞれのワケありの事情も、どちらもシステムに強いられたものであり、だからこそそこには常に「きしみ」が生じ、そのきしみを拾い上げ丁寧に描写することでこの映画は成立している。誰もが閉ざされており、ひどく狭苦しい枠内でしか生きることが出来ない。新参者である若い使用人の、戸惑いがちでありながらも新鮮なものに触れているといった活き活きとした眼差しが、この狭く黴じみた世界のなかにも存在する生の活気に光を当ててゆく一方で、ハリウッドで俳優をやっているという男の、全てを理解し、全てを諦めた上で、そのシステムの内部にいるしかない人たちをやさしく見守っているような(しかし、ただ見守っているだけの)やわらかな眼差しが、この映画のこの世界を包み込んでもいる。(この男の歌声は、全てを諦めた者の「あわれみ」によって、甘くやさしく、屋敷のなかに響きわたるのだ。)この二重の眼差しによって包まれることで、この映画は独特の抑制された感情のなかで展開されてゆくようにみえる。どちらかというと、ネガティブな感情や「毒」によって輝くことの多いアルトマンの作風としては珍しく、この映画は穏やかな感情で包まれているように思う。(屋敷にはハリウッドのプロデューサーと俳優という二人のアメリカ人も滞在しているのだが、彼らは屋敷のシステムを最後までまったく理解することが出来ず、しまいには皆から徹底的に嫌われてしまうことになる。この二人の存在は、ごくごく狭い範囲内だけで展開するこの映画に、この時代、この貴族たちの世界の「外」で起こっている変化を示しているとも言える。アメリカ人が貴族のシステムに対応できないのと同じように、貴族たちもアメリカ人のやり方を受け入れることは出来ず、排他的に振る舞うしかない。あと、このアメリカ人たちの描かれ方は、第一次世界大戦後において、ヨーロッパ的世界とアメリカとがどのような関係であったかを示していて面白い。)
●この映画では殺人事件が起こるのだけど、この事件自体や、事件の真相、事件によって明らかになる過去の出来事、などはそれほど大きな意味をもっていない。事件は映画の半ばを過ぎたあたりでようやく起こるのだけど、むしろ事件が起こる以前の方が緊張感があって面白いとさえ言える。(警察のキャラクターもいまいち魅力に欠けるように思う。)とは言っても、終幕近くに、今まで反目していた二人の人物が、(事件の真相が分かったことで)ふいに心を通わせるシーンなどはグッとくるものがあるけど。
●若い使用人役のケリー・マクドナルドだけでなく、この映画ではひとりひとりの俳優が皆素晴らしくて、これだけの俳優がいれはアルトマンも本気にならざるを得ないだろう。しかし、俳優にひっぱられて思わず本気になってしまったというよりも、俳優の配置の仕方からして相当狙った本気モードなわけで、アルトマンははじめからこの企画にはやる気十分だったのだろう。『Dr.Tと女たち』を観た時は、もうアルトマンは自分のもっているテクニックを適当に並べて仕事を「こなす」くらいの意欲しかなくなってしまったのかと思ったもだけど。アルトマンをなめてはいけない。「生産過程そのものの物質的な過程」と「流通管理機構」/岡崎乾二郎
03/07/20(日)
●岡崎乾二郎は、最近の「現代思想」や「國文學」のインタビューで、ハリウッド映画における「生産過程そのものの物質的な過程」と、それを流通させるための「流通管理機構」との分裂について語っている。映画の可能性とは本来、『マイノリティー・リポート』のプリゴグの観るヴィジョンのようなもの、あるいはキットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』のグラモフォンのようなもの(生産過程そのものの物質性)である、とする。プリゴによって観られたヴィジョンは、現実を反映はしているが、一義的にその意味を確定するための「最終的な審級」をもたない断片的で錯綜した映像の塊でしかない。あるいは恋人の声が録音されたディスクは、実際に現実の恋人の声によって刻まれた物質的な痕跡であることは確かなのだけど、それを再生する時、回転数を変えたり、逆回転させたりすることで、無数の異なる声を響かせる。そのどれもが物質的な痕跡としては「恋人の声」によるものなのだから、そのなかでひとつの「回転数」を「正統な恋人の声」だとする根拠はどこにもない。つまり物質的な痕跡としての正統性(ディスクに刻まれた溝)は確定できても、その再生方法やその都度の響き方までは確定できず(それを確定する審級はなく)、「管理」し得ない。(逆にこの事実によって、その都度の異なる響きとしての無数の恋人の声を発見出来る。)ベンヤミンが言うように、写真はいくらでも同じ物を作り出すことが出来るが、その「同じもの」である筈のものから、撮った本人でも覚えのないものが見るたびに見出されてしまう。それと同じようにハリウッド映画においては、その生産過程の複雑さ、そこに投下される資本の膨大さによって、そのフィルムの出来上がりを管理する絶対的な審級としての「作家」はどこにも見いだせなくなってしまう。監督はせいぜい撮影現場を管理するくらいしか出来ないし、プロデューサーは金の流れを管理するくらいしか出来ない。それは、まるでプリゴグのなかにヴィジョンが自然にどこからともなく生じてしまうように、ハリウッドという機構そのものがオートマチックに映画を生産してしまっているようにさえみえる。このようにして生み出される映像には、その生産に関わった者にさえ予想も出来なかったものが写ってしまう。生産過程そのものの物質的であるとはこのような事だ。これに対し、「流通管理機構」は、このような「物質」を商品として流通させるために、『マイノリティー・リポート』のトム・クルーズのように、可能性の状態(物質的な過程)にあったもの、現実的な秩序(三次元の時空や因果律)のなかに一義的に固定し、確定させなければならない。ディスクには回転数が記され、写真はキャンプションが添付される。映画は、上映時間が決まり、ジャンル分けされ、あらすじが添付され、監督や主演の俳優の名前がクレジットされ、それにふさわしい流通経路が見出される。つまりパッケージ化される。
●これはなにも映画に限ったことではなく、フレーム問題一般としてもみることが出来る。一枚の絵画のフレームの物質的な同一性を保証することは出来る(昨日見たあの絵と、今見ているこの絵とは、同じ物であることは証明できる)けど、その「同じ絵」から「何を見るか」という知覚の同一性を保証することは出来ない。同じ絵から、毎回「同じもの(=同じイメージ)」を受け取るとは限らないという、知覚のアナーキーな性質までは管理出来ない。恋人の声が刻まれたディスクの状態をいかに完璧に管理したとしても、それを再生する装置のコンディションを調整する時は、その都度異なった「響き=イメージ」を聞いてしまう人間の聴覚=知覚をあてにするしかないのだ。(この辺りの「闇」にはまってしまうと、不毛なオーディオ・マニアとなってしまう。)だから絵画の流通を規定し管理しようとする時には、結局それを外側から物質として規定するしかない。例えば、100号のキャンバスに、顔料とアクリルメディウムで作られた絵具によって描かれたもので、作者は岡崎乾二郎で、2003年に制作された、というように。(今でも絵画は、一般的に××の作品は「1号×円」という風に、おおよそ表面積によって値段が決められる。)つまり、グリーンバーグが、絵画の本質を「ある限定された拡がりをもつ平面だ」と言う時、それはつまり「流通を管理する」側の都合による規定でしかなかったわけだ。あるいは、作品の中味=イメージが判定される時には、社会的に「目利き」として確定された人(「なんでも鑑定団」みたいなおっさんたち)によって「いい仕事してます」とか言って判定されるのだけど、この時は、作品の内容=イメージの判定よりも、「誰が目利きとして適当か」という社会的(政治的)判定の方が重要となる。(誰が流通を管理する「資格=権力」をもつのか、という判定。)この時、例えば『マイノリティー・リポート』でプリゴグのヴィジョンを「判定」し犯罪者を確定する権利=権力を有するトム・クルーズ自身が、麻薬中毒でその知覚の確実性が怪しいだけでなく、自身が犯罪を犯す「可能性」を持っているという不安定な事実は、「流通管理機構」の側としては隠蔽しなければならないものとなる。
●「流通管理機構」は、映画の、上映時間を決定し、あらすじを添付し、ジャンル分けをし、監督や出演俳優の名前を書き込むことによって、そこに発生するイメージを一義的なものとして確定しようとする。映画を観るということは、あまりにも膨大な量のイメージ=情報を浴びるということであり、どんな人でもその全てを意識的に捉えることは出来ない。逆に言えば、どうせ「全て」を捉えることなど出来ないのだから、半分くらい眠っていたとしても、最後まで上映につき合ってさえいれば何かを見たような気になることが出来る。あらすじや評判や裏話やうんちくなど、映画を外側から規定しパッケージ化するための情報さえあれば、極端な話、実際に映画を観るという「知覚」体験は必要ないとさえ言えてしまいかねない。膨大な予算を使ってつくられるハリウッド映画は、パッケージ化することで効率のよく流通させてはじめて自らの資本主義的な意義を維持出来るのだ。だからむしろ「映画体験」そのものなどない方が、「映画」をパッケージ化しやすく、売りやすいという事態さえ生じる。だからハリウッド映画においてこそ、「生産過程の物質的な過程」と「流通管理機構」との矛盾や摩擦はきわめて大きいものとなり、その亀裂から見えてくるものがあるのだ。
●一本の映画のもつ情報量はあまりに膨大であるため、人がそこから「何を見る」のかをあらかじめ確定的に予想することは出来ない。だからこそ外側からのパッケージが商売上で不可欠なものとなる。いや、映画に限らず、人が「ある物」から「何を見る」かは、前もってはその当人にさえ分からない。(昨日までたんに「蛍」としか思わなかったものに、ある晩に「おっかさん」を見てしまったりする小林秀雄とか。)恋人の声を刻んだディスクは同一のものだとしても、それを再生する装置の違いやその場の「空気」などによって、それはその都度異なる声を響かせる。この時に、音の響き(=イメージ)のばらつきを制御し、同一のものだと保証するものは人の「知覚」ではなく、ディスクのパッケージに記された「恋人の声」というキャンプションでしかない。しかし、例えばハリウッド映画において、あらすじが記されジャンル分けがなされたパッケージの力は、流通の場ではともかく、実際に知覚の場では実はそれほど強いものではない。実際に映画を多少なりとも丁寧に観ることさえすれば、そんなパッケージは簡単に剥がれ落ちてしまうだろう。しかし人はその時、自分の見ている「知覚=イメージ」がきわめて不安定(不確定)なものであること、そしてそれが、他者の知覚=イメージと直接的に比較したり交換したりすることの出来ない、徹底して孤立した経験であることも同時に思い知らされることとなる。その不安に人は耐えることが出来ず、再びパッケージにすがったり、映画について何か書きはじめたりするしかなくなる。映画は決して、人に「黙って観ている」ことを許さないような不安を湧出させるのだ。しかしこの不安は映画に固有のものではなく、人の「知覚」の本質的な条件であるのだ。
(つづく)
03/07/21(月)
●ある知覚=イメージは、自分の身体が持っている感覚受容器によって受け取られたデータが、自分の脳によって処理された結果である。つまり知覚=イメージは、他者のそれとは基本的に切り離され、孤立している。それは、たとえ「同じ現実(同じ物質)」を見ていたとしても、同じディスクを異なる再生機で再生しているようなものであるから、同じ知覚=イメージが発生しているかどうかは分からない。例えば岡崎氏は、「現代思想」の談話において、オーソン・ウェルズの『フェイク』を例に挙げて、エルミアという天才的な贋作画家が「まったく本物としかいえない」くらいに上手なマティス風のドローイングを、カメラの前で描きあげてしまうシーンについて言及している。カメラの前のエルミアがマティスではないことは明らかなのに、マティスが描いたとしか思えないようなドローイングを、まさに目の前で描きだすことで、マティスはマティスであり、エルミアはエルミアであり、私は私である、というような同一性(作家性)を脅かし、そのような自己同一性よりも、そのドローイングが「同じくらい」素晴らしいということの(知覚=イメージの)同一性の方が強いものであることを証明してしまう、と言っている。(この、まさに目の前で一枚の絵が出来事として出来上がっていくことを見る驚きが、「作家」という固定した同一性を解体してしまうという意味では、小林秀雄が『ピカソ・天才の秘密』を観て感じた驚きと近いものがあろう。)しかしここで指摘しなければならないのは、岡崎氏にとっては、まさにそうとしか言えないような「真実感」をともなっている知覚=イメージが、必ずしも他者と共有されるとは限らないという事実であろう。岡崎氏にとっては、「まったく本物としか思えない」くらいの出来に見えたエルミアによる贋作が、他の人にとっては、マティスにはほど遠いものと見えるかもしれないのだ。ここで岡崎氏に訪れた紛れもない「真実感」を保証するものは実は何もないのだ。(岡崎氏が美術の専門家であるというような「専門家」という権威を信じるような人か、でなければ盲信的な岡崎信者でなければ、自分でも『オーソン・ウェルズのフェイク』を観てみて確かめるしかない。しかしその「確かめ」も、自分の知覚という孤立したものについてでしかないのだが。)これがもし、ある一枚の、真偽のほどが分からないマティス風のドローイングがあり、それを本物か偽物か判定せよ、という事だったら、その時に下した「真」あるいは「偽」という判定は、例えその時には確定されなくても、将来、マティスの研究が進歩したり、科学的な鑑定法が進歩したりした時に、その判定が正しかったかどうかが確定されることはあり得るだろう。(目利きの判定は、このようになされる。)しかし、明らかに贋作であることがはっきりしているマティス風のドローイングが、まったく本物としか思えないくらいに「素晴らしい」出来映えであるという素晴らしさ(の同一性)についての判断は、ただそれを下した人にとっての「真実感」として以外には確定されようがない。映画を観るということが、知覚=イメージの不確定性や孤立を露呈させてしまうというのは、このような意味であるのだ。そして、芸術的な経験とはまさに、このような事後的にさえ確定できないような孤立した知覚=イメージの経験のことであり、まさにそれは幽霊を掴むような話なのだった。(岡崎氏の『ルネサンス・経験の条件』は、このような知覚=経験が確かに存在するという事を、理論的、形式的に示していると言える。)
●知覚=イメージが、徹底して孤立したものでしかないことが露呈すると、人はどうしようもなく不安になる。しかし実は、この孤立こそに希望があるのではないだろうか。岡崎氏は「國文學」のインタビューで「批評」についてとても面白いことを言っている。《批評というものが不可能になったとか、力がなくなったとか言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。(略)彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体的な反応しかないわけで、それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか。それが日常生きていく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。》ここで言われているような「データとして頼りにできるもの」が「自分の身体的な反応しかない」という状態こそが、フォーマリズムの原理なのだとぼくは思う。(予備知識がなくても判断が出来るための「技法」がフォーマリズムなのだ。)ここでフォーマリズムが現象学と異なるのは、自分の身体の反応(知覚=イメージ)が徹底して孤立したものであるという意識であり、だからこそ「厳密な学としての哲学」(=真理)ではなく、実践としての(判断を組み立てるテクニックとしての)「批評」へと向かうのだ。上記の引用につづいて、岡崎氏はとても重要なことをつけ加えている。《ここで単純に賭事のようなロマン派的決断主義でやらないで、判断を組み立てていくテクニックはいろいろあるはずなわけです。これは職人さんたちの知恵やスポーツマンの知恵からも学びとることができる。》ここで間違えてはならないのは、職人さんたちやスポーツマンたちの知恵を、「哲学(=真理)」として受け取っては駄目で(それはおそらく最低の哲学だろう)、あくまで実践的な「判断を組み立てる」テクニックとして学び取るべきだろうということだ。権威もカノンも徹底的に失墜し、分かりやすいパッケージとしての物語ばかりが流通しているとしか見えないような現在、それぞれの個人が、自らの知覚=イメージの孤立性を自覚し、その不安のなかで、それぞれが自分勝手に(「目利き」ではなく)「フォーマリスト(=素人)」としてやっていくことにこそ、「流通管理機構」に抗する「生産過程そのものの物質的な過程」としての「生」のかたちがある、というところだろうか。ちょっと極端な言い方をわざとしてみると/岡崎乾二郎の絵画作品
03/07/24(木)
●ちょっと極端な言い方をわざとしてみると、最近の岡崎乾二郎の絵画作品についてのほとんど唯一と言ってよい不満は、何故二枚一組である必要があるのか分からない、という点にあると言える。いや、分からないのではなくて、「分かりやす過ぎる」ところが不満なのだ。二枚一組であることの最も教科書的で分かりやすい解答としては、「國文學」のインタビューでの倉橋克禎の言葉があるだろう。《同じ様な二枚の絵があって、こうもありえたけど、こうじゃない可能性もありえたということが、二枚並べることによって、はじめて強烈に僕たちに突きつけられる。こちらが青だ、こちらが赤だ、ということも、岡崎さんのなかで可能性を織り込んで構造的に作られているはずでしょう。》松浦寿夫だったら「パラディグマティックな絵画」という言い方をするだろうこのような事柄が、しかし二枚一組という「対」というかたちで分かりやすく示されてしまうというのは、どうしても安易な感じがする。この点についても岡崎氏は充分に自覚的であり、倉橋氏の言葉につづけて以下のように述べている。《実は二枚が二枚であると実体的に対になって数えられるように感じられるようになったら、だめなんですけどね。最低でも一枚なのか二枚なのか、あるいは第三の画面があるのか、そういうところに個々の筆触が結びついていってくれないと。》まさにその通りで、しかし実際に作品の展示を観ると「対」であることの強さが相当強力に作用してしまって、どうしても「説明的」な理解の方へ観者を導いてしまいがちであるように感じられる。(「対」であることを見るのは理解のあり方として楽、つまり負荷が軽いから、どうしてもそっちへと流れてしまう。)だが、パラディグマティックな絵画であること、ある作品が、「現にこのようなものとして完成されていること」が「こうではなかったかもしれない無数の可能性」と同時に「そこ」にあらわれているというような強さは、ただ一枚だけの作品として示された方がずっと強く感じられるのではないだろうか。(それに、どうせ展覧会では、複数の作品が動じに展示されるのだし。)いや、もともと岡崎氏の作品は、一枚の作品が「一つ」とか「二つ」とかは決して数えられないという状態が目指されているはずだから(一つのフレームは常に暫定的な「決着」に過ぎない筈なのだから)、あらかじめ決定されている「二枚」の組み合わせがあることがそもそもおかしいのではないだろうか。(それは先取りして期待されるプレゼンテーションの効果に過ぎないのではないか。)
●二つのわかりやすさがあると思う。一つは感覚を直撃するような単純で力強いわかりやすさ、もう一つは、説明的されて納得できるようなわかりやすさだ。ぼくが岡崎氏の絵画作品を本当に凄いと思いはじめたのは2001年くらいからで、それ以前の絵画作品も興味はあったけど、それはあくまでも非常に刺激的な「岡崎理論」が先にあって、その後で作品を観て、ああ、成る程、というものだったのだけど、最近の絵画作品は、「岡崎理論」を超えて、あるいはそれとは無関係に、ただ観て「おお、凄え」と言うしかないようなものになっていると感じる。言ってみればこの「凄み」は子供にも分かるような単純なものであり、しかしそれは、奇跡的とも言える複雑な構築によって可能になったものなのだ。この「凄み」からぼくは、例えばゴダールの『勝手に逃げろ/人生』から感じられる「何だか分からないけど、無茶苦茶面白い」という感覚に近いものを感じる。(おそらく岡崎氏はゴダールをあまり好きではないだろうけど。)有名なナタリー・バイの自転車に乗っているスローモーションは、何故こんなことをするのか、何故こんなものが面白いのか、分析しようとしても全く分からないのだけど、何故か圧倒的に面白いのだ。この面白さは子供にも分かるような単純なもので、これを理解するのにシネフィル的な教養など全く必要ない。しかしだからこそ、分からない人にはどうしたった分からないだろう。岡崎氏の絵画作品が凄いのは、岡崎氏が『ルネサンス・経験の条件』の著者であることとは切り離された事柄である。その凄さは感覚を直撃するもので、子供にも分かるはずだし、しかし分からない人にはどうしたって分からない。(美術史的な教養など役に立たない。)しかし、その作品が、二枚で一組として提示されたとたんに、「説明」の余地が入り込み、ある種の「弱さ」が忍び込む。ぼくにはどうしてもそのように感じられてしまう。
●ゴダールにも通じるような岡崎作品の「凄み」を可能にする「感覚」とはどのようなものなのだろうか。ぼくにはそれが、岡崎氏がベンヤミンの映画論を引きつつ、繋がらないものを繋げるのは、それを観ている観客の身体における「習慣の生成」にあると言い、そのような習慣が生成する瞬間こそが一番面白いと述べているようなところに、現れているように思う。ベンヤミンによれば、映画のコマとコマ(ショットとショットと言った方が適当だとぼくは思うけど)との間に基本的に存在しているギャップ(ショック)を滑らかなものとして繋いでいるのは、ギャップが「飛び越えられてしまった瞬間」に生成する新たな「習慣」である。つまり、ギャップを繋ぐための規定的な要素があらかじめあるわけではなく、それがたまたま飛び越えられた時、その身体が新たに編成し直され、それが「習慣」となる、と。この「習慣の生成」とは、ドゥルーズがゴダールについて言った「正しい繋ぎ間違い」ということと対応するのではないだろうか。例えば古典的な映画については、確かに繋ぎの規則があらかじめあるようにも思える。イマジナリーラインを超えて切り返しをしないとか、ショットのサイズをかえる時には同軸上で繋ぐとか、アクションの途中で切って構図をかえるとか。しかしそのような規則はあらかじめ存在していたわけではなく、誰かがそれをやってみたら、たまたま上手く繋がったように思えた(習慣化した)ということだろうと思う。(映画の編集とはまさに、「呼吸」とでも言うしかない身体化された「習慣」に多くを負っているのだろう。それは画家にとっての「筆触」のようなものなのだろうか。)岡崎氏は言う。《正しい、正しくないという判断が前もってある規範なしで、その振る舞い自体のなかでだけ成立できればしめたもので、そうすれば、たちまちそれは反復するに価する、いわば習慣に転化してゆくことになる》《こういう習慣の発生の場面というのは面白い。まったく些末的なものが規範に変わる瞬間ですから。けれど、習慣を前もって確定された因習、慣習的なものとして考えてしまった途端に話しはつまらなくなる。むしろ習慣は何かを学ぶ、学習というプロセスとこそ繋がっているんだと思います。》このような感覚が、ゴダールの出鱈目と紙一重な「繋がらない繋がり」の面白さや、岡崎作品の、一つの平面という規定に納まることのない、色彩、筆触、テクスチャー、形態の、非同期的な「関係しない関係」の凄みとを、通底させているもののように、ぼくには感じられる。だからこそ「反復」は一枚の画面のなかにもあるのだし、全く関係のない別の作品との間にもあり得るわけで、「二枚」があらかじめ分かりやすく「一組」になっている必要などないはずなのだ。どこでもない場所としての公共的空間と、戦争状態
03/07/25(金)
●仲俣暁生の日記(7/25、しかし、これは後に削除されました)で知ったのだけど、19日に渋谷で行われた反戦デモで二人の逮捕者が出たらしい。ウェブ上で探してもこれ以上の情報はみつからないし、この団体についても何も分からないので、逮捕が本当に「不当」なものなのかどうかは(そもそも本当にそのような事実があったのかも)何とも言えないけど(このデモの主旨に賛同するかどうかも別問題として)、最近ぼくが社会の風潮として凄く感じている「あまりの不寛容が、どのような「たてまえ」も抜きで「気分」として正当化されてしまっている感じ」と同調するような「嫌な匂い」がする。「ストリートパーティーへの弾圧に抗議する声明」から、仲俣氏が引用している部分と全く同じところだけど、引用する。
《戦争は、必ず街路の自由の剥奪としてあらわれます。有事法制の成立によって、“有事”を宣言されたならば、私たちの生活のあらゆる場面が有無をいわさず軍事的目標に向かって規制されることになります。現在に至るまで、近代社会の歴史のなかで、街路は国家の圧政や軍隊による抑圧に対し、自由を求める人々の抗議の場、人々が出会い、活動をおこなう場として機能してきました。街路は、単なる規制された交通の場ではなく、交流の場、つまり「公共の場」でもあるのです。この自由、あるいは公共性が、根本的に奪われるときは戦争です。そこでは、街路は完全に統制された交通の場にきり縮められてしまうのです。》
これを読んで思い出したのが、『無産大衆神髄』で山の手緑が、運動というのは、まず「空間」に関する闘争であるということを、小学生の頃の「組合」(労働運動)にまつわる想い出話から語っているところだ。
《ある日、そろばん塾の帰りに、電電公社の前を通ったら、餅つきをやっていた。もう日が暮れていて、真っ暗なんだけど、その電電公社の真っ暗な駐車場で、おじさんたちが餅つきをやっていた。お雑煮をつくって、お酒とか飲んで、宴会をやっていた。その事業所は営業窓口とかがないところで、普段は関係者以外は入れないところだったんだけど、なぜか近所の人も招かれていて、私もお雑煮をもらって、「どんどん食べていいよー」なんてね。(略)でも明かりがなくて真っ暗だし、それらしい飾りとか看板とかもないし、なぜか近所の住民とか子供とかいっぱいいるし、怪しいと言えばすごく怪しい。何をやっているのか、はた目にはよくわからない、すごく怪しいアングラなイベントが住宅地の一画に実現していた。これが、私が初めて出会った運動です。》
このような運動(=餅つき+飲み会)を行う「組合」が、次第に「親睦会」は「ディズニーランドへ」という風になって駄目になってゆく、と山の手氏は言う。真っ暗な駐車場でのショボい宴会より、ディズニーランドの方がたのしいでしょう、という感覚に既に「圧制」や「戦争」への萌芽がある。(ディズニーランドそれ自体が悪いということではないし、ディズニーランドの「楽しさ」を否定する気もない。ぼくは行かないけど。)「自由を求める人々」にとっての「公共の場(街路)」であった「真っ暗な駐車場」という空間が、いつの間にか「完全に統制された交通の場にきり縮められて」しまい、「ディズニーランド」へと変質する。恐らく労働者たちの「合意」によって。矢部史郎はそれを受けて言う。《そもそも自分たちのことを考える条件が奪われていて、自分たちのことをゆっくり話し合うために、宿舎の自主管理とか時短とかとったんだよね。ゆっくり考えようとしたらディズニーランドへ連れて行かれました(笑)。泣ける。》
●ぼくは少し前の日記で、共有された「場」から切り離され孤立することで、「散文=近代芸術」が可能になる、と書いた。ここで言われている「街路=真っ暗な駐車場」とはつまり、「場」として方向づけられない(統制されていない)、それぞれがばらばらに「自分たちのことを考える」ために、そしてばらばらになった者同士が出会うために、必要な(スカスカな)「空間」ということではないだろうか。その時に空間(街路=真っ暗な駐車場)は「実体」としては存在せず、様々な可能性のマトリックスのようなものとしてだけ存在する。だからそこでは犯罪も起きるかもしれないし、もっと別の事も起きるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。そこで起きるかもしれないことを前もって予想し統制することは出来ない。可能性があるということと、それが実現してしまったということは違う。ドアが開いているからといって、必ず誰かが入ってくるわけではないし、どんな人が入ってくるかも分からない、とベルクソンが言っていた、と小林秀雄が書いている、と岡崎乾二郎が語っていた。人は、そのようなところでのみ何かを考えることが出来る。あるいは、東浩紀が言うように、そのようなところでのみ、「未だ誰でもない者」として存在できる。(その時彼は勿論、可能性として既に何パーセントかは犯罪者でもある。快晴の日でも、天気予報的にはそこに10パーセントの「雨」が含まれているように。)「公共の場」とは、このような(見ようによってはショボいとも言えるスカスカな)空間のことであろう。このような「公共の場」が「完全に統制された交通の場にきり縮められて」しまおうとする時、それを「戦争状態」と言うだろう。黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』
03/07/28(月)
●黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』をパラパラと眺めながら思ったこと。「機械仕掛けの世界」と「人間ドラマ」について。人間ドラマと言っても、心理を身振りによって説明的に示そうとするアクターズスタジオ系の演技をする俳優が火花を散らすような心理ドラマのことではない。おそらく黒沢氏が人間ドラマと呼んでいるのは時間的な「遅延」と関係がある。言うまでもなく映画は機械仕掛けの反復装置である。映画には一回性はあり得ない。一度撮影された俳優の身振りは、上映されるたびに(あやつり人形のように決まった動きで)何度も反復される。スクリーンの俳優はセリフをとちらないし、物語が予定外の方向に行くこともない。全ては決定され、完成してから上映される。だからこそ、映画は何度も反復される「世界の規則」を描くのだ、という認識が恐らく黒沢氏にはある。(黒沢氏の著書『映像のカリスマ』には、映画は「映画の規則」と「世界の規則」との闘争によって生成されるというシャープな言葉がある。)このような方向性を最も端的に示しているのが、ハリウッドの古典的なB級映画(ジャンル映画)だろう。そこではジャンルごとにほとんど同じような話が、ちょっとした細部の差異や異なる俳優で、ほぼ同一の上映時間(80〜90分)で量産される。それは機械仕掛けのように正確に作動し、恐怖や悲しみや憎しみ(という感情)が描かれることはあっても「人間」は描かれない。何をしでかすが分からない、不確定な未来へと開かれているような「人間」など、90分の上映時間には納まらない。それに、映画の物語は上映される時には既に決定しているのだから、映画には基本的に「何をしでかすか分からない」人物の揺れなど存在出来ない。人物は定められた運命に向けてただ一直線に進むのみだ。(だからこそジャンル映画は、ある純粋で抽象的なフォルムに到達することが出来る。)しかし、その純粋な(機械仕掛けのように作動する)フォルムが乱れ、淀み、たゆたって、間延びした時間が入り込むと、そこに機械仕掛けの世界の規則からこぼれ落ちた不透明さや曖昧さが生じてしまう。そしてこの曖昧さや不透明さの「効果」として、「人間的なもの」が産出される。古典的フィルムのきっぱりとした完璧さを基準とすると、これはあきらかに失敗であろう。しかしこの不透明さ、曖昧さ、弱さが、本来映画にはあり得ない「何をしでかすか分からない」人間の逡巡を感じさせるのだと言えよう。(だからこそ古典的で純粋なフォルムを信奉する映画マニアにとって、「人間ドラマ」は、ジャンル物のもつ清々しさを汚す不純で弱いものとして避けられる。)例えばスピルバーグは、自分の映画にこのような遅延が入り込むのを恐れて、(あまり出来の良いとはいえないものまで含め)無数のアイディアを投入し、それをひたすら滑らかに繋ごうとする。(しかし結果的には、そこに不思議な遅延が生じてしまうのだけど。)
●黒沢氏も、人間ドラマを生む「遅延」を基本的にあまり好ましく思っていないという点で、マニアックな価値観を共有しているように見える。黒沢氏はこのような「遅延」に極めて敏感で、かつ厳しく、例えば青山真治のデビュー作『Helpless』について、バイクが走っているショットというのは、「バイクが走っている」という以外の何も示さないから、そこで映画が淀んでしまう、青山なんてそんなこと充分承知しているはずなのに、あえてそれをやっていて大胆だと思った、などと、微妙な発言をしたりする。(記憶による引用だから違ってるかもしれない。)しかし黒沢氏は、遅延による「人間ドラマ」を一概に否定しているわけではない。それどころか、一方でそれに非常に魅了されているとさえ言える。例えば黒沢氏が『悪魔のいけにえ』を賞賛する時、たんにその恐怖の生々しいリアルのみを褒め称えるのではなく、レザーフェイスが人を殺した後ビクッとしたり、うろたえているとしか思えない動きをしたり、時には物思いにふけっているような描写さえあったりすることの驚きを挙げている。これは決してレザーフェイスの「心理」が描かれているわけではない。レザーフェイスに内面などあるはずがない。しかし、にも関わらず彼は何故か逡巡したり戸惑ったりするのだ。ここにあるのは人間の心理ではなく、何をしでかすのか自分にも分からないという人間の不透明さであろう。「殺人者は殺人する」という同語反復的なジャンル映画の絶対的な規則が、ここで微かに震えているのだ。そして何よりも、この不確定さ、不透明さこそが、何よりも怖いのだ。本来ならば、人を殺すという運命に対して何の疑問ももたずに突き進むはずの「怪物」が、何故か不確定性の前で震えてしまうことが、この怪物の不透明さに不思議なニュアンスをつけ加える。古典的なジャンル映画が、決定的な運命と、その運命のなかにいるしかない人物の「感情」とを描いているとすると、『悪魔のいけにえ』は、決定的な運命が、もしかしたら決定的ではなかったという可能性もあり得たのではないか、という不純な「揺れ」がそこに加わっていると言える。この揺れを導入するのが「遅延」する時間であり、その揺れ(の効果)によって生じるのが、何をしでかすのか分からない、未来に対して不透明な存在である「人間」なののだ。だから黒沢氏は、世界のシステムの完璧な作動(機械仕掛けの世界)、回路が開かれてしまえば、あとは世界が自動的に進行してゆくしかないという「運命論的」なものに強く魅了されていると同時に、もしかしたらそれ以上に、遅延した時間による不純さにもひかれているのではないか。
●もう一つ、典型的な人間ドラマを挙げるとしたら、ドン・シーゲルの『ダーティー・ハリー』だろう。この、いかにも70年代的なフィルムは、もし、同じドン・シーゲルが、同じような題材で、5、60年代に、そしてイーストウッド以外の俳優で撮っていたとしたら、恐らく90分前後の映画になっていただろう。そこに「遅延」が入り込み、120分以上の映画になってしまうところに、70年代という時代の刻印があると同時に、イーストウッドという俳優の特徴がある。イーストウッドとは、遅延するアクションスターであり、(内面とは無関係の)極めて「人間ドラマ」的な映画俳優であるのだ。そして勿論、黒沢氏は、『ダーティー・ハリー』にもイーストウッドにも、強くひかれているはずだ。
●一方で、古典的な「映画の原理主義者」として、装置が完璧に滑らかに作動する機械仕掛けの世界(「回路」が一度開かれてしまえば、世界はもう後戻り出来なく、勝手に進行してしまうような)を強く志向するのだが(映画には細部などなく、システムと全体しかない、などと言ったりする) 、しかしもう一方で、その装置の完璧な作動からこぼれ落ちてしまう、遅延する時間が生む不透明さ、不純さ、曖昧さ(何をしでかすか分からない、あるいは、運命は実は「運命」ではなかった可能性があったかもしれない、という「幽霊」に憑かれる「人間」)にも魅了されてしまっているという点が、黒沢氏の映画作家としての決して分かりやすいとは言えない魅力になっているように思う。『復讐・運命の訪問者』や『回路』、『アカルイミライ』のような、不必要な細部や「淀み」は出来るだけ排除して、シンプルに単線的に物語が進行してゆく映画がある一方、『復讐・消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』、『大いなる幻影』のように、ひたすら、装置からこぼれ落ちた遅延する時間のみによって出来ているような映画もある。『勝手にしやがれ』シリーズでは、基本的には装置の滑らかな作動が目指されていたのだが、シリーズ最後の作品でいきなりそれが「でろっ」と崩れたりもするし、『ニンゲン合格』のような、どっちつかずの傑作もある。一見、ごくシンプルにつくられているようにみえる時でも、常に複雑な思考が絡み合っている黒沢氏の映画同様、一見、マニアックな話に終始しているようにもみえる『恐怖の映画史』からも、黒沢氏の複雑で刺激的な、一筋縄ではいかない思考の動きは充分に感じられる。大島弓子『ジョカへ』と小津。内的緊張の強度
03/07/30(水)
●大島弓子の初期の傑作『ジョカへ』を読み返していて、あまりの素晴らしさに激しく動揺する。ぼくは大島氏のマンガを冷静に分析しつつ読むことは出来ないのだが、読みながら、ふと、保坂和志のHPに掲載されていた小津安二郎についての文章を思い出した。この文章で保坂氏は、小津の映画を観ていると《映画のエンド・マークと一緒に終わるのではなくて、昭和二十年代、三十年代に建てられたとおぼしき木造家屋の中で、いまでも『晩春』や『麦秋』や『秋刀魚の味』のような家族が暮らしていることがないとは言えないじゃないかと感じられてくる》と書いている。この「感じ」の理由について保坂氏は、小津はフィクションを志向するのではなくて「日常そのまま」を撮ったからだと書いているが、それには疑問がある。大島弓子によって1974年に描かれた『ジョカへ』は、普通に考えれば現実には決して存在しないような人物が、現実には決してあり得ないような世界で行動する。幼い頃から互いに愛し合い、将来もずっとそのままでいると確信していた二人の男女(子供)の一方(男性)が、いきなり女性になってしまい、その事実を隠すために男性は死んだことにされ、遠くへ連れ去られる。7年後、成長した女性が結婚をすると言うので、すっかり女性となった元男性は、彼女の幸せな姿を見るためだけに、再び共に過ごしたの場所へと訪れる。こういう話が荒唐無稽なら、登場する人物たちの妙な純粋さと言うか、無垢っぷりは、とうていリアルな「人間」のものとは思えないものだ。(彼や彼女にとっての愛や性は、ぼくにとってのそれとは全く異なる何かだ。)大島氏のマンガは、その外にある現実との関係を一切絶った場所に成り立っている。その世界は、中途半端に現実に似ていないからこそ、閉じられた内部としての作品世界が、高い緊張感で現実そのものと拮抗しているのだ。これはおそらく、描かれた当時の30年近く前でさえ、どのような同時代性とも関係のない、時代の外にあるような作品だったのではないだろうか。だから、大島氏のマンガを読むとき、その風俗的な古さや、あるいは逆に新しさなどを感じることはまるでなく、古さや新しさとは無関係の、作品内部の内的緊張の強度によってのみ引き込まれ、リアリティを感じ、そこに生起する激しい感情に引きずれられるのだ。大島氏の登場人物は、それが描かれた70年代初頭から既に時代錯誤も甚だしい存在であり、だからこそ現在でも、ほとんど「同じように」そのまま存在出来るのだ。そしてこの「感じ」こそが、小津の映画を観るとき、その昭和30年代の日本家屋や、そこに住んでいる家族が、今も変わらず(どこでもない)どこかに存在しているのではないかと感じさせるものに近いと思うのだ。(小津の描く「日常」は、恐らく昭和30年代の観客にとっても異様な感じだったのだと思う。)例えば保坂氏がふと、小津の映画に出てくる山に、自分の部屋から見える山と同じ姿を、見てしまったり、『秋刀魚の味』の笠智衆が、バーのマダムである岸田今日子に、亡くなった自分の妻の面影を見出してしまうように、時代が変わっても、何度でも、観客や読者は、彼らが実際に生きているその場、その時に応じて、そこに小津の映画や大島のマンガを見出してしまうのだろう。(しかしそれは決して、神話や寓話の類ではない。だいいち神話や寓話は分かりやすいことに意味がある筈で、例えば『ジョカヘ』のような複雑で混乱していてテンションの高い神話や寓話など、凄すぎてほとんど何も意味しないではないか。)これは「日常そのまま」とは真逆の、作品内部の内的関係の極めて密度の濃い関係、抽象的な関係性によるものなのではないだろうか。つまりそれは、この現実の世界とは(薄皮一枚隔てた)別の場所に、世界と拮抗しつつ存在しつづけている別の存在、というような感覚を読者や観客に与える。(勿論それは実在するわけではなく、本が読まれ、映画が観られる度に新たに生起するものなのだけど。)これを簡単に「普遍」と行ってしまってよいのかは分からないけど、ただ最近あまりに「作品」を簡単に、時代的な新しさとか、現代を読むための道具みたいにして使う批評(あるいはそのような批評をあてにする作品)が多すぎて、勿論そういうものでも面白ければ良いのだけど、でも「作品」の力をそれだけであるかのように扱うのははっきり間違っていると思う。(保坂和志の最新作である『カンバセイション・ピース』もまた、小津安二郎や大島弓子に連なるような、その内的世界の緊密な構築によって「現実」と拮抗することが目指された、現実の時間の外にあるように抽象的な作品だと、ぼくは思う。)森達也『A』をビデオで
03/07/31(木)
●森達也『A』をビデオで。このドキュメンタリーは、荒木浩広報副部長についてのものである。(名前は、と問われ、ひろしです、さんずいに告げるです、と答えていた。)つまり、事件以降のオウムの内部を捉えているというよりも、オウムとその外部が触れ合い、摩擦の起きている場所が捉えられている。外側との接点という、摩擦の生じる一番面倒な場所を割り当てられたのが荒木氏だというわけだ。この映画からまず最初に見えてくるのはこの点で、ここには、マスコミの取材のやり方のあまりの乱暴さや横暴さ(対応の不誠実さ)、付近住民のあまりの一方的な不寛容、そしてとても生々しい、警察による明らかな不当逮捕の現場までが捉えられている。(オウムとは全く関係ない話としても、今でも警察は平気でこういうやり方をするのだ、ということを知っておくことは、この現実の世界で生きていくうえで有益なことだろう。)さらにつけ加えれば、一橋大学のゼミで、荒木氏を大勢の女子学生が取り囲んで、性欲を無くする修行とかあるんでしょう、と問いつめる場面なんかは、これ、セクハラじゃないのかとも思ったし。(ただ、この映画では、オウムがその外部と接触する時、ほとんど常にカメラはオウムの側におかれていて、そういう場合どうしても観客は心情的にオウムの側に傾いてしまうことは自覚しつつ観なければいけないだろうが。)この時、オウムは確かに孤立した集団ではあるのだが、しかし、弁護士や人権運動家などとの繋がりがあり、全く周囲との関係が絶たれているわけではないことも匂わされている。だから、この映画でみられるのは、オウム事件という固有性を超えた、ある社会的な少数者の集団と、その周囲の者たちの間に生じる権力関係や、衝突や軋轢、緩衝の一般的な形式だとも言える。
●しかし勿論、オウムとは「地下鉄サリン事件」という非常に大きな事件を起こした集団であるのだから、オウムという固有名は決して一般的な問題には解消されない。実際に外と接触する窓口として矢面に立たされる荒木氏が背負い込む矛盾の大きさとは、そのままこの固有性の大きさであろう。弱体化したとはいえ、教団の内部にいて外部との直接的な接触からは辛うじて免れている信者ならば、「修行者の気持ちは一般にはなかなか理解されないでしょう」とか言うことも出来るが、荒木氏にはそれは許されず、不誠実な対応をするマスコミに対しても、テレビのオンエアーをチェックし、それに関してプロデューサーに抗議の電話をいれたり、会見で全く外には通用しないような言葉で喋る教祖の娘を、その横で苦労しつつフォローしたりなど、なんとか対話の回路を開き、それを保とうとしているようにみえる。その手法は、人を煙に巻いて丸め込もうとするような(広告代理店みたいな)印象を受ける上佑氏などの口調とは、明らかに異質のもののように思えた。確かに荒木氏は、教団がとんでもない事件を起こしてしまったという事実にきちんと直面することを避けているように見えるし、その点では批判されるべきだろうが、しかし様々な摩擦に直に触れながらも、常に外部との回路を開こうとしている姿には(荒木氏は、出家する前よりも今の方がずっと「現世」の矛盾に晒されているような気がする、と述べている)、その努力の持続について頭が下がると感じる。
●一般的に新興宗教がどういうものなのかについての知識はないのだが、オウムにおいては「審美」的なものが著しく欠落しているように見える。『A』の冒頭は、様々な散乱する「もの」たちが映し出されていた。それはまさに「使う」以外のことは全く考慮にいれらてなくて、たんに使うためのものが空間のなかに置かれているだけだ。それが「どう見えるか」についての関心は全く払われていない。道場にいつも流れている、教祖のつくった何とも言えない「曲」を平気でずっと聞いていられることからして、彼らには「趣味」という感覚がないと言える。しかしこのことは、「もの」への一切の執着を捨てるという彼らの教義への過激なまでの忠誠(が決して生半可ではないこと)を感じさせるものだ。一定の広さをもった空間があり、それがごく乱暴に仕切られていて、そこに必要最小限のものが雑然と置かれている。このような「趣味」や「飾る」ことに対して全く無関心である空間が、彼らにとってとても心地よいものである(あるいは必要不可欠である)という感覚は、ぼくにも凄くよく分かるように思う。一般にオウムは、例えば空気清浄機に「コスモクリーナー」と名付けたりするように、アニメなどの影響を色濃く受けているということになっているが、少なくとも『A』で観られるような教祖逮捕後のオウムは、むしろそのような「現世」的な趣味からは出来るだけ遠ざかりたいという欲望によって成り立っているように見えた。確かにオウムには「オウム服」のようなものが存在するが、『A』を観ている限りでは、アニメ的な形象に自分の身体を近づけるような、コスプレ的な欲望とは、オウムの人たちは対極の場所にいるような感じを受ける。
●感覚的な次元での「趣味」は排しているが、オウムの人たちはエピソード好きだという印象を受けた。例えば、森氏が教祖の歌を聞いて、音域が随分広いですね、と言うと、女性信者は、修行によって音域は広くなる、教祖は調子の良いときはピアノの鍵盤の一番下の音から一番上の音まで出すことが出来る、と言ったりするし、ある男性信者は、教祖が池のまわりを歩いていると、そこは魚がいないと思ってのに、教祖の回りでいきなり沢山の魚がいきいきと飛びはねはじめたのを見たことがある、とか言う。(ここで、音域の広さを示すために「ピアノ」という楽器をもってくるところに、一見、現世的な権威や一般性を否定しているはずのオウムの思考が、実は根本的なところで現世的なものに規定されてしまっているのだという限界を露呈させてもいるのだけど。)恐らく、教義や信仰そのものへの確信や信頼というものは、このような小さなエピソードが信者たちの間で無数に交換されることによって成立してゆくのではないだろうか。だとしたら、それはハルマゲドンのような派手でバブリーなイベントを必要とした教団の中心人物たちの思考とは、著しい乖離が存在するのではないか。これは『A』の荒木氏の印象と、一時マスコミに頻繁に登場していた上佑氏から受ける印象の違いからも感じられるのだけど、一方に、現世から切り離された安定した「修行空間」と、日々交わされるうわさ話のような小さな物語とを必要とする「信者たち」がいて、同時に、教団の拡大を目論み、選挙にも出馬し、ハルマゲドンのような誇大妄想的な物語を必要とするバブリーな「中心人物たち」がいる、という構図が見える。勿論、後者は許し難いが前者なら許せるという簡単な話ではなく、この両者には大きな溝としての乖離があると同時に、不可分な構造的な繋がりもあるだろう。『A』でインタビューされた信者の何人かは、サリン事件や教祖の逮捕といった「信仰の危機」によって、返って自らの「信仰」に確信を持てた、と述べている。つまり、麻原が実は下らない人間でしかなかったとしても、むしろ「だからこそ」、この信仰そのものは絶対的なものである、という「矛盾それ自体を論証の力とする」(保坂和志)ような強い確信となるのだろう。人は決して理論的な整合性によって「確信」を得るわけではなく、時にはその人の琴線に触れるエピソード(=物語)の感触によって、またある時は、矛盾や否定の「強さ」によって確信を得たりする。確信というのが感情の「強さ」のことであるなら、これを非合理的だと言っただけでは批判できない。(しかしそれは結局、合理性=知性によってしか批判できないだろう。)
●それはともかく、『A』という作品は、オウムの教義そのものや、オウムの真実といったものを問題としているわけではなく、あくまで「社会的な存在」としてのオウムを問題としている。だからこそカメラは、主に、内部と外部との接点である荒木広報副部長の傍らにあることになる。荒木氏は恐らく、教団の顔ではあっても、実力者というわけではないだろう。だから『A』からは、今なお残っているかもしれない教団の中枢的な部分(そんなものは既にないのかもしれないが)は見えてこない。荒木氏は、信仰を持続し、あるいは信仰に疑問を持ちつつも、同時に外との折衝を日常的に行わなければいけない立場にある。だから彼は、今の「危機」によってこそ「信仰」が試されているのだ、などという悠長なことは言ってられない。彼はまさに、出家したことによって、より一層「現世」に晒されるという矛盾のなかにいる。森達也『A2』をビデオで
03/08/09(土)
●森達也『A2』をビデオで。この映画からは『A』よりもさらに強い切迫感が感じられる。それは事件から約6年たち、さらに情況が切迫してきているからというよりも、撮影している森氏の感情によるののように思う。ここで森氏は、ドキュメンタリー作家としての中立性を確保しようとしていない。信者に向かって、質問するのではなく、自分の意見をまるで問いつめるように突きつけたりするし、騒動のさなかでは、オウム側の代表と住民の代表とが会談するための仲介役までかってでたりする。つまり情況に「介入」している。(森氏は信者に向かって、もし麻原さんから指示されたら、あなたもサリンを撒きましたか、と問い、答えない信者に、じゃあぼくが言います、撒いたでしょう、それじゃなきゃ「信仰」の意味なんてないですから、と言う。これは下手をすると誘導尋問になる。しかしそれでもこのような問いを突きつけなくてはならないほど、のっぴきならない感情に、撮影者の森氏がかられているように見える。)森氏はもはやただだまって見ている(撮っている)ことに耐えられない。
●『A』と『A2』とでは、オウムを巡る情況が大きく動いている。『A』では、オウムの対外的な折衝はとりあえずは荒木氏に代表されていたようにみえた。しかし『A2』には、様々な場所で一人一人の信者が個別的に外部と接触する場面が捉えられる。(だから荒木氏は、ほとんど、映画の冒頭とラストに登場するのみだ。)事件の衝撃、それによる外側からの圧力の大きさによって、せっぱ詰まった求心力を辛うじて保っていたようにみえた「教団」は、時間が経過し、外部との摩擦も常態化するなか、あきらかにある「緩み」がみえはじめている。どのように報道されているかいちいちチェックしていた雑誌や本やビデオは、今や資料となって誰も見ないままコンテナにしまい込まれている。信者たちは、メディアが平気で嘘をつくことや、警察の不当な逮捕に対して、世界の秘密の一つを発見しかたのように屈託なく語る。親を保証人として家を借りたという信者にたいして森氏が、それは家族との情を断ち切る教義と矛盾してないですか、と問うと、信者は、何事も方便ですよ、と笑って答える。新しい信者は、数珠にキティちゃんの飾りをつけたりもしている。時間が流れるというのは、こういうことだろう。だが、外の社会の側からの、オウムに対する嫌悪や恐怖の感情はさらに高まってさえいる。一方で、オウムと住民の摩擦はいたるところで激しくなり、もう一方で、オウムと外の人々とが、それぞれ個別に不思議な仕方で関係を模索しはじめもする。(例えば、オウムを監視するために集まった住民と信者が不思議と親しくなってしまう様子、この映画のなかでほとんど唯一「理知的」に考え、行動しているように見える「右翼団体」とオウムとの関係、松本サリン事件の被害者である河野氏とオウム幹部とのなんとも言えない会談の失敗、そして大学時代の同級生である新聞記者と信者との対話、等々)このような情況のなかで、上佑氏が出所し、オウムはある路線変更を選択する。
●村上春樹は、ウェブ上で読める『「A2」について』という文章で、われわれの住む社会は「開かれたサーキット」だと言う。そして、そこには例えばオウムのような「閉じられたサーキット」をもいくつも含み持つ、と。そこで、共生を求める「開かれたサーキット」の住人と、共生を求めていない「閉じられたサーキット」の住人とが、どのように共生してゆけるのかが問題だとする。しかし、この社会は本当に「開かれたサーキット」なのだろうか。オウムではない、「普通に生きる人々」が本当に共生を望んでいるのか。むしろ、この社会は、いくつもの「閉じられたサーキット」としてあり、それぞれ自分たちこそが「普通に生きる者」だと思いつつ、様々な摩擦を生じながら存在しているのではないか。確かに、オウムの信者たちの話を聞くと、「現世」をあまりにも一般化しすぎていて、いわば、ひとつの大きな閉じたサーキットとしてしか捉えていないような狭さを感じる。現世が決して一元的なシステムではなく、いくつもの亀裂を含んだ一筋縄ではいかないものであることが見えていない。だから、オウム(聖)対現世(俗)という、貧しく単純な二分法でしか考えられない。しかしそれはそのまま、一般社会(普通)対オウム(異常)という二分法でしか考えられない「社会」の側の思考(あるいは村上春樹の思考)の単純な反転であろう。結局、オウム信者も、それと敵対する住民やマスコミや警察も、その思考パターンにおいて驚く程「似ている」というのが、『A』や『A2』からみえてくる事柄だと思う。どの立場の人も皆、自分たちのシステムの内部しか見えず、それとは別のシステムがあり得るという想像力に欠けている。(違う点があるとすれば、オウムの人々は、もともと自分がいたシステムに耐えきれず、別の場所へ意識的に「移動した」というくらいだろう。)それにしても、こちら側と向こう側という二分法はかわらず、それはオウムにも村上春樹にも共通している。森氏が激しく苛立っているのは、このような「思考パターン」そのもののように感じられる。
●それでも、こちら側と向こう側などという貧しい思考パターンを超えて、個々のローカルな場面では、偶発的な関係=関係し損ないが、様々なかたちで生じているのを『A2』は捉えている。例えば、神奈川県のある右翼団体は、上佑氏が出所した際のゴタゴタの場面で、オウムに対して出て行けと言っても、どうせ他の場所に行くしかないのだから全く意味がない、とし、オウムは即刻解散し、財産の全てを被害者の救済にあてよ、と主張する。(デモにおいても、オウム出て行け、上佑死ね、などの言葉を一切禁じている。)そしてこの主張を伝えるため、オウムの幹部と直接的な交渉を申し入れる。この団体に、何か「裏の狙い」のようなものがあるのかないのかまでは、映画からは察することは出来ないが、少なくとも表に出ている主張や、その主張を伝えるための行動の仕方などは、この団体が『A2』に出てくる様々な人々のなかで唯一「理知的」に行動する人々であるようにさえ感じられる。あるいは、オウムの施設を監視するために集まった住民たちが、監視をつづけるうちに、いつの間にか信者たちと親しくなってゆくという場面も捉えられている。そしてこの場面はまた、対立はオウム対住民という形でだけあるのではなく、住民対住民という対立があることも示し、物事がそう簡単に「こちら側と向こう側」という図式で納まるものではないことも示している。いかにも人の良さそうな田舎のおっちゃんやおばちゃんたちが、自分たちの子供や孫をみるようにオウムの信者たちと「親しく」なってゆく様は、非常に感動的なものであると同時に、複雑な思いをも生じさせもする。このような、なし崩し的な「親しさ」や「情」のようなもの(それによる囲い込み)こそ、オウムの信者たちが「現世」において違和感を覚えるものであり、それが彼らをオウムのような場所へと移動させる原因となったものなのではないか。それに、このような「親しさ」の感情こそが、反転して、その「親しさ」の枠にはいらない者たちを排除する原因にもなりうるのではないか。しかしそれでも、ここでは信者たちも住民たちも、自分たちが何故「親しく」なってしまうのか戸惑いながら、なおかつ「親しく」なってゆくのだから、この関係はおそらく、子供や孫や、つまり「こちら側」の人々に感じる「親しさ」とは異なる、新しい何かではあるのだろうと思えた。
●そんななか、教団は名称も改め、損害賠償も受け入れ、より「こちら側の社会」に理解されるように、上佑氏を中心とした新しい体勢へとシフトしてゆく。しかしこのことは、どのような意味をもつのか。そして、何故、上佑氏はさもあたりまえのように、自分だけ他の信者よりも明らかに「いいもの」を食っているのか。
●ちょっと「文学趣味的」になってしまうけど、ぼくが個人的にグッときたのは、大学時代同じサークルで友人だったという、信者と新聞記者との対話のシーンだ。この、親しさと同時に、相手の立場への配慮による遠慮がちな気遣いに満ちた、どこか不器用な会話によって浮かび上がってくるのは、何よりもこの二人の人物の間に横たわる、どうしようもない「違い」だろう。親しみと愛情をもって、相手を理解しようと言葉を交わすのだが、それでも根本的なところで、どうしても互いを理解することが出来ない。この「違い」は決して対立として現れるのではないし、勿論どちらが「まとも」だというわけでもない。しかしそれでも、決定的な「違い」は誤魔化しようがない。「やっぱ分からないよ」「そっか」という言葉のやりとり。じゃあ、また、と行って去って行く新聞記者とそれを見送る信者との間の距離。この痛切な感情は、おそらく「現世」から切り離される(出家する)ことによっても、「情」を断ち切ることによっても、処理し切れないものなのではないだろうか。樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』/他者と言語
03/08/02(土)
●樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』(世織書房)。この著者の名前はなんとなく知っていた。(どうして知ったのかは忘れた。)でも初めて読んだ。「ラカン派社会学」なんていかにも胡散臭げに響くし、なにより、アカデミックな世界の外で生きるぼくなどには、それ程「有名」どころではない研究者の書いたものを目にすることは稀な機会にしかない。しかしたまたま手に取ったこの本はとても面白く、ぼくにとっては、「心理学化する社会」を、たんに否定すればよいわけではないと思えたという意味で、「目から鱗」という感じだった。(《「心理学化する社会」とは、社会の脱制度化や再帰化が進み、人々を支配していた伝統や価値や規範に代わって、心理学的言説や技術が人々を支配してゆく社会である》「はじめに」より) 一見この本は、いかにも詰まらない「社会学者」が書いた本のように見えるかもしれない。(目次なんかを見ると特にそう思える。「若者たちのポストモダン的共同性」とか「自己啓発セミナーと『エヴァンゲリオン』」とかいった、「いかにも」なタイトルが並んでいるし。)だがそういうものと違うのは、この本は、現在の社会を、既に成立したものとして(事後的な視点から)分析し、概念にあてはめてゆくのではなく、先行き不安定な、いままさに起こりつつある情況として把握し、記述しつつ、それを「批評」(そこに「介入」)さえしてしまおうということが目指されているように読める点だ。この姿勢は、一番最初に掲載された『言語の成立に関わる「否定」の作用と他者について』という論考に明確に示されているだろう。この、ほんの23ページ足らずの論考を読むためにだけでも、決して安くはないこの本を買う価値はあるだろうと思う。(著者が樫村晴香と夫婦であるということは、「あとがきに代えて」を読んではじめて知った。)
●『言語の成立に関わる「否定」の作用と他者について』について。誰にでも分かる構造主義の明らかな欠点とは、既に成立している構造しか扱えないという点だろう。ソシュールが「言語は示差的な体系である」と言うとき、そのような言語の共時的な体系は、常に既に「完成」したものとして存在しなければならない。構造は、完成しているか、存在しないか、どちらかでしかなく、その発生の過程は記述できず、人はいきなりそのただなかに「一気に身をおく」しかない。しかしだとすると、言語の構造の「総体」が、どこか目に見えないところに、まるで物質が存在するように「存在している」と考えるしかなくなってしまう。これは相当に無理のある考え方だ。実際には、人は言語を、試行錯誤しつつ徐々に獲得するしかない。だが、一度構造が獲得されて(成立して)しまった後は、あたかもそれはずっと以前からあった「自然」であるかのように感じられてしまう。(獲得の過程は忘れられてしまう。)樫村氏は言語の獲得のプロセスを、精神分析的な技法で明らかにし、構造が獲得されてしまった後では忘れ去られてしまいがちな、言語における「否定」「他者」「時間」の重要性を明らかにする。
●例えば「桜」という語のシニフィエを、子供は一気に獲得するのではない。それはまず「何かひらひらしたもの」という認知の感触と結びつく。だから「蝶」を見た時も、同じ「ひらひらした」質感から「桜」と発語するかもしれない。その時、他者(親)は、それが桜ではなく蝶であると訂正(否定)する。その時子供は「桜」のシニフィエを「ひらひらした」しかし「蝶ではないもの」と訂正して記憶する。このモデルでは、言語の成立に必要な3つの要素が示されている。一つは、桜は蝶ではないという「否定」(これはソシュールが指摘する示差構造である)、一つは、その否定を宣言する(保証する)「他者」の存在(もっと言えば、真理を与えてくれる他者の存在への「信頼」)、そしてもう一つは、「桜」という語のシニフィエを、とりあえず「ひらひらするもの」と暫定的に判断して発語する時の、まだ決定されていない(それが将来「否定」される可能性がある)曖昧な待機状態のままの「時間」である。つまり言語は、「言語」それ自体のシステムの内部で閉じたものとしては成立できず、「否定」を宣言し保証する「他者」と、ある「発語」が、否定される可能性があるものとしてなされる時の、(否定されるか肯定されるのかを待つ)不確定のままで開かれた待機の「時間」が不可欠なのだ、と樫村氏は言うのだ。
●ソシュールは、言語はただ示差構造(つまり否定)によってのみ同一性が確保されているとする。つまり、「猫」は、知覚によって認知された事物との関係でシニフィエを持つのではなく、「虎ではないもの」「チーターではないもの」というように、言語内部の他のシニフィエとの否定を介した関係によってのみ、それ独自のシニフィエが与えられるとする。だから、「猫」という語の意味を知るためには、同時に虎やチーターを知っていなければならず、極端に言えば言語の総体を知っていなければならなくなる。この時重要なのは、ある語は、それ以外の語との関係によってのみ意味を持ち、だから、言語は総体として(感覚による事物の認知とは別の場所で)「閉じている(自律している)」ということだろう。しかし精神分析的に言えば、言語はその成立に不可欠な要素として、「他者」や「時間」という言語の(自己の)「外」にあるものを必要としていることになる。つまり言語とは意味以前に、他者との相互作用のなかにあった「声=運動」が特殊化したものであり、それは他者への「呼びかけ」あるいは「叫び」であることになるだろう。
●このことは、言語のメッセージレベルでの意味(共時体系=自律的な意味)は、メタメッセージレベル(他者依存的領域)のただなかではじめて成立することを意味している。言語はそれ自体として自律しているものではなく、まず、誰かに向けての呼びかけ(叫び)のようなものとして成立する。その時、具体的な他者の応答(への期待)だったものが、後に徐々に(閉じられた)自己の内部にある、複数の質の異なる「認知」同士を連結するという作用に代理され、変質する。その時、他者依存的領域(メタメッセージレベル)から自律(抽象化)した意味=思考が発生する。子供が「ひらひらするもの」を見て「桜」と発語する時、それは、たんに「あれは桜だ」を意味するのではなく、他者からの「そうだね、桜だね」あるいは「あれは桜じゃなくて蝶だよ」という返答を期待しての「呼びかけ(働きかけ=運動)」である。(つまり、「かまってほしい、認めてほしい」という「意味」である。)そのように他者への呼びかけとして成立した言語が、次第に、「あの桜は伝説の桜だ」というように、それ自体として自律した意味をもつようになる。この文においては、今、実際に視覚が認知している「あの桜」と、過去に視覚的な認知とは別のところから仕入れた情報(例えば「本で読んだ」とか)である「伝説の桜」とが、文の上で結合することで意味が生産される。(時間的、質的に異なる複数の認知が、文という媒介によって連結される。つまりこれが「思考」である。)ここで、原初的な言語においては、「発語(自己)」(待機時間)「応答(他者)」という、閉じることの出来ない開かれたループだったものが、「視覚的な認知(現在の自己)」(=)「本で読んだ情報(過去の自己)」という、ひとつの文の上での閉じたループへと変質する。これが文の意味における「総合的真理」から「分析的真理」への移行であり、後者の「分析的真理」によって初めて、言語は自律した意味を持ち、言語的な「思考」が可能になる。だが、後者においてさえも、メタメッセージレベル(つまり「他者への働きかけ」という「意味」)は多少なりとも残留しているだろう。
(つづく)
03/08/03(日)
●言語は「否定」によって成立し、それは「時間」と「他者」とを必要とする。ここで樫村氏は、否定は「顕在的な否定」を回避する「潜在的な否定」として作用し、否定が潜在的なものであることによって、「(意味が未定のまま開かれた)待機の時間」が得られ、この「待機の時間」によって意味の「生産」が可能になる、とする。そしてこの「待機の時間」を確保するためには「他者」の存在(への信頼)が不可欠であるとする。この事実を示すため、樫村氏は、潜在的な否定が作用しないために、待機の時間と他者とを欠いてしまう、精神病者による言語を例に挙げる。精神病者はしばしば「桜はひらひらしている。蝶もひらひらしている。よって桜は蝶である。」というような三段論法を使う。この時彼らには「桜は蝶<のよう>である」という留保的な判断をつくりだす能力が欠けている。「桜は蝶<のよう>である」という意味はつまり、「桜は<ひらひらした><何かであるが>それが蝶ではないものである」という潜在的な否定によって成立している。このように否定が潜在的に作用することを可能にしているものが「何かである」という留保的な仮定の能力である。つまりこれは、異なったもの同士の関係を、確定しないまま留保的に結合し、その状態をキープしプールしておくことで、後の検証照合を準備し、可能にするためのものである。簡単に言えば、異なったもの同士の類似性を、曖昧なまま留保して、曖昧なままで比較・検討する能力であり、曖昧なままの「時間」に耐える能力であると言えよう。この能力を欠いているために精神病者は、「桜はひらひらしている。蝶もひらひらしている。よって桜は蝶である。」と言うか、もしくは「桜は蝶ではないものだ」(顕在的な否定)と言うことの、どちらかしか出来ない。この「何かである」という留保的な仮定は、いわば「待機としての真」であり、「空所」の設定能力のことである。ここで樫村氏は次のように書く。《中身の曖昧なものをとりあえず受け入れることができるのは、その中身が将来明らかになるだろうという、未来に対する先取り的な期待があるからであり、そしてそれは、その答えを力の体現者である他者が与えてくれるだろうという、他者に対する期待と信頼とを意味している。》つまり言語の機能を正常に作動させるためには、「他者への信頼」というメタメッセージレベルの作動が不可欠であり、それがなければ精神病的な誤作動を起こす、と。しかし既に「総合的真理」という段階を脱し、「分析的真理」という段階に達している言語にとって、「他者」とは決して安定した信頼に足りる存在(父や母、あるいは神)としてあるわけではなく、不確定で、どこにいるのか分からないし、どこにもいないかもしれない「誰か」という、希薄化し拡散した、極めて微弱なあり方でしか存在しなくなり、「否定」のあり方も曖昧なものとなる。つまりこのような「不安」から、言語は(言語によって思考する者=人間は)決して脱することは出来なくなるのだ。(だが、この不安によって、言語は自律し、抽象化の能力を得る。つまり言語による思考が可能になる。郵便的不安。)ここで「他者」が不安定で微弱なものになるということは、ある発語が「真」であることが確定されるまでの「待機の時間」もどこまでも引き延ばされ、ほとんど「永遠の待機」(あるいは、永遠につづく卑俗な抗争)を強いられることになってしまう。(つまり「分析的真理」へと達した言語は、それを徹底しようとすると必然的に精神病者の言語に近づく。しかしそれは、空所が空所のままである「待機の時間」に永遠に耐えようとするものである点において、「待機の時間」が存在し得ない精神病者の言語とは根本的に異なる。)
これこそが、言語が「総合的真理」から「分析的真理」へと脱皮し、移行したことの意味であり、これによって「近代」が可能になった。しかし「近代」においては、人は未だ伝統や伝統的価値感や規範によって支配されており、それに守られてもいた。それらが崩壊しつつあるのがポストモダンだとすると、ポストモダンとはモダンとの断絶ではなく、モダンの意味がはっきりと露呈してしまった時代だと言えるだろう。(そして、伝統や伝統的価値感や規範が崩壊した後に、それらに代わって心理学的な言説や技術によって「他者への信頼」を補完しようとする社会が「心理学化する社会」ということになる。ポストモダンとしての「心理学化する社会」が幼稚なものにみえるのは、「分析的真理」による言語の機能不全を、「総合的真理」による言語使用へと退行することで補っているからなのだが、それが必ずしも「退行」とは言い切れない、それなりに洗練された形式をもっていることを、この本は「ほとんど異星人」を分析するようなやり方で明らかにしている。)
●ぼくはこれを読みながら、東浩紀の言う「匿名の自由」について考えた。つまり、「異なったもの同士の関係を、確定しないまま留保的に結合し、その状態をキープしプールしておくことで、後の検証照合を準備し、可能にするため」に必要な、言語における「潜在的な否定」という作用こそが、社会における、個人の「匿名の自由」というものとパラレルだと考えられるのではないか、ということなのだが。「潜在的な否定」は、言語(文)が意味を「生産」するために不可欠の「留保」であり「待機の時間」である。それと同じように、群衆のなかの個人は、匿名(潜在的)であることによって、未だ何者とも確定していない「何かである」ことによって、何かしらの意味を生産する者としての「人間」であり得る。(何者でもない何かである状態=動物的な状態、を確保することで「人間」であり得る。)監視カメラなどによる不断のID確定によって、常に「何者かである」ことが強いられてる監視社会に対して抵抗が必要なのは、このためである。そこでは不安定(不安)を維持することで可能になる意味生産(「桜は<ひらひらした><何かであるが>それが蝶ではないものである」というような)が不可能になり、短絡的で単調な意味(「桜はひらひらしている。蝶もひらひらしている。よって桜は蝶である。」のような)しか生じないだろう。しかしだとすると恐らく、「匿名の自由」が確立されるためには、根本的な「他者への信頼」(他者への敬意)がなければならないことになる。現代の社会で、果たしてそれが可能なのだろうか。冨永昌敬のレイトショーを観に行った
03/07/04(月)
●昨日の夜のことになるけど、池袋のシネマ・ロサに、冨永昌敬のレイトショーを観に行った。
●『テトラポット・レポート』(15分)『亀虫の兄弟』(10分)『VICUNAS』(35分)で約1時間。『亀虫の兄弟』は初めて観た。
●冨永昌敬の作品は、3本の短編しか観てないが、その限りで言うと、「形式」で勝負出来る映画作家だと思う。それは、堅苦しい、小難しい、形式主義ということではなく、形式だけで、充分以上に「面白く」できるということだと思う。(さらに言えば「形式」によって胡散臭さすら漂わせることが出来る。)冨永氏の映画はとても面白くて笑える。まず、これが第一印象だ。思わず、面白いという以外に何の内容もない、などと言いたくなってしまうほどだ。しかし勿論内容はある。それは恐らく「行き違い」ということなのではないだろうか。誰と誰とが行き違うのか、どのセリフとどのセリフとが行き違っているのか、どんな目的とどんな結果とが行き違っているのか、という個々の行き違いの内実よりも、それら、様々なレベルの行き違いが、さらにそこに行き違いを仕掛けつつつなぎ合わされてゆく、その複雑(骨折したよう)なあり方の総体が「内容」なのだと言える。だから冨永氏の世界は不透明で見通しがきかない。当然、通るだろうと思われる話は通らず、そのかわり予想もしなかったところにいきなり回路が開けたりするのだ。(ちょうど、『VICUNAS』で女の子が、そんなところにある筈のない出口から部屋を出ていったり、『亀虫の兄弟』で、とんでもないところにいきなり空間が開けたりするように。)だいたい冨永氏の映画では、映像と音声が行き違っている。映像と音声と言うよりも、映像によって示される人物の動きと、聞こえてくる人物のセリフとが一致していない。どこか、小劇場の芝居を思わせるようなセリフのリズムと、あくまで映画的であることが目指されているように見える映像による人物の動きのリズムとは、そもそも、それを一致させることなど初めから興味がないかのように、当然のような風情で行き違うので、そこにわざわざ「ズレ」などというものさえほとんど意識されない。しかし、ズレていて当然なのだと思って観ていると、時に見事なタイミングでピタッと一致したりするのだから、決して気を抜くことが出来ない。これはまさに理不尽というしかない世界で、一瞬先は闇(正しくは「一寸先は闇」だけど)で、何がどうなるのか予断を許さない。今、「一瞬先」と書いたのだが、時制にさえ複雑な行き違いが仕掛けられている冨永氏の映画では、何が「先」で何が「前」なのかも判然としなくなってくるのだから、「一瞬先は闇」とさえ言えない。『テトラポット・レポート』では特に、バラバラに分解された複数の時間、複数の人物たちの振る舞いが、一本のフィルム、一本のテープに録音された声=語りによってつなぎ合わされているのだが、そもそも、テープに録音された声は、そのテープと再生機さえあれば、いつでもどこでも、つまり特定の時間も場所も身体も選ばずに出現するわけで、その為に映画が語る「物語」から、その起点になるべき基底的な時間や場所が消失してしまい、映画全体がとりとめのない夢のようにしか存在せず、ただ、冒頭とラストに現れる、やや荒んだ建物の姿と海の水面ばかりが、やたらとリアルに迫ってくるのだ。この『テトラポット・レポート』に登場する荒んだ建物と水面を思い浮かべると、ふと、ぼくは自分が今まで書いてきた「行き違い」という捉え方は正確ではないのではないかと思えてくる。この風景は、『テトラポット・レポート』という映画の物語のどの時間に属しているのか分からないショットであり、この無時間的なショットが突出してくる時、この映画がとても厳密に構築されているというぼくの判断は、ぼくが勝手に映画に押しつけた判断でしかなく、実は複雑に仕掛けられた行き違いなどではなく、それぞれに無関係でバラバラの出来事が、ただその出来事の強さや濃さだけを頼りに、無関係なまま放置されているのではないかとも思えてくる。その無関係さの強度に耐えられない観客(ぼく)が、勝手にそこに「緊密な構築」を観てしまうだけではないか。とにかく、冨永昌敬の映画は、高いポテンシャルを孕みつつ、様々な可能性に開かれている。いや、たんに滅茶苦茶面白いということなのだけど。内田樹の『映画の構造分析』はつまらない。
03/08/06(水)
●「盗まれた手紙」で手紙が次々とその持ち主を替えてゆくのは、手紙という「シニフィアンが、自ら位置を移す力」を持つからではなく、手紙に関わるそれぞれの人物の欲望のあり様の絡まり合う力によってであろう。決して全てを見通すことなど出来ない限定された視点がいくつも絡まり合い、その都度相手の盲点をついてだしぬくことで、だしぬかれた者からだしぬいた者へと手紙は移動してゆく。しかし、だしぬいた者がだしぬくことに成功したのは、いわばたまたまそれに成功したに過ぎず(例え、だしぬく者の方が相対的に賢明であったとしても、必ずだしぬくことに成功するとは限らない)、もしかしたら失敗したかもしれない可能性もあったわけだ。しかし、それら全てが決着した後、小説作品として完結した後に、事後的な分析がなされた時、あたかも手紙=マクガフィン(浮遊するゼロ記号)のもつ力が全ての人物の行動を支配していたかのように見えてしまう。(それは構造を閉じてしまったことの効果でしかない。)構造主義者は、全ての決着がついた後にやってきて、自分こそが判決を言い渡す者という権利をもつかのように分析を開始する。だから、実際に事が起こっている現場(実はこれも、事後的に仮構することが出来るだけなのだが)においては、無数の異なる要因の偶発的な絡まり合いによって決定された事柄を、あたかも、ひとつの「機能する無意味(マクガフィン)」の力によって決定されたかのように表象してしまう。東浩紀が『存在論的、郵便的』で執拗に批判していた「否定神学」とは、このような事柄ではなかったか。ある事柄を、「事前」の位置から見ようとすれば、東=デリダのように「手紙は届かないことがあり得る(手紙は分割されるかもしれない)」ということになるが、事後の位置でみれば、ジシェク=ラカンのように、「手紙は必ず宛先に届く(届いたところが宛先なのだ)」ということになる。それでも、例えばジシェクの書いたものが刺激的なのは、常に現在進行しつつある政治的情況が意識されていて、それとの緊張関係において、あえて事後的な分析が使用されるからだろう。(簡単に言えば「冴えて」いる。)しかしそれが、内田樹の『映画の構造分析』のようなものになると、とたんに退屈で下らないものとなる。
●勿論、事前の思考と事後の思考の、どちらかがより正しいなどということはない。事後の思考が、内田樹のような退屈さに陥ってしまいがちであるのと同じように、事前の思考は幼稚な実存主義まがいのものになってしまいがちであろう。まさに動きつつある現実のただなかにいるからこそ、それを突き放すような、クールな構造的把握が必要とされることも多々あるだろう。しかし『映画の構造分析』は、あまりに酷くはないだろうか。『エイリアン』についての分析など、精神分析的批評がいかに下らないかを、身をもって自ら示してみせたとしか思えない。
●内田氏の分析=言説が退屈なのは、「決して真理を語ることは出来ない」という物語を、「真理」として語ってしまっているという点にあるように思える。《「次のプレイ」につなげるための「パス・ライン」を示すこと。それだけが「私の解釈」を駆動している抑圧の効果を免れる唯一の方途なのである》と書く内田氏のパスまわし=分析を具体的にみると、決して《できるだけ多様な攻撃の起点となりうるような「ファンタスティックな」パス》には思えない。内田氏は書く。ボールゲームにおいて、ボールそのものに価値があるわけではない。ボールに価値があるのは「イン・プレイ」の間だけで、ボールを抱え込んでグランドにうずくまっても「真理」を手にしたことにはならない。(しかし現実には、何がイン・プレーで何がそうでないかを分けるフレームは不確定のまま揺れ動いている。ボール・ゲームにおいても、突然の雨や風、日光の射し方等がゲームに介入するように。)価値は、プレーヤーたちのネットワークのなかで「良いパス」を出した時にのみ生まれる。確かにお説はごもっともなのだけど、しかしそのような事柄を「知っている」ことと、そのような「パス」が出せることの間には深い断絶がある。だいたい「良いパス」というのは、実際にそれを受けてくれる他のプレーヤーの存在があって初めて生きるのだが、それを誰かが受けてくれるかくれないかは、事前には決定出来ない。そして、「良いパス」という価値を信じるためには、他のプレーヤーへの信頼が不可欠でもあるだろう。そのような「動きつつある現在」に対する感性が、内田氏の分析には全く感じられない。全てを見渡せる者などどこにもいないということを「知っている」ことと、「良いプレーヤー」であること、そして「ゲームに勝てること」とは、それぞれ別の事柄であるという「残酷さ」に、内田氏は一度もおののいた事がないのではないかと思えてしまう。(才能という理不尽さ!)ゲームの勝敗には、様々な偶発的な要因が介入する。内田氏は、全てが終わった後にあらわれ、様々な偶発性を、次々と必然性へと読み替えてゆく。つまり、活き活きとした動きや、様々な可能性を、読む=分析することで殺してゆくのだ。
●樫村愛子は『「心理学化する社会」の臨床社会学』で、精神分析はたんに「整流器」のようなもので、それ自体では何の意味もない、つまり「使い方次第」だと書いている。同じようにラカンや精神分析に多くを負っていても、『「心理学化する社会」の臨床社会学』が面白くて『映画の構造分析』が退屈でしかないのは、まさにその「使い方」の違いによるのだろう。前者は精神分析を、いままさに動きつつある事柄を捉えるための技法として用いているのに対し、後者は、自らを真理を語る権利のある者の位置へと固定化するために用いているように感じられる。確かに『映画の構造分析』はすらすらと読めて、とても分かりやすい。しかしこのわかりやすさは、例えば島田伸助の例え話のわかりやすさのようなもので、何か騙されているような釈然としない感じが残る。あらゆる「言葉」、あらゆる「認識」が「物語」でしかないとしても、何かが動いてゆく様を活き活きと捉えたような「冴えた」物語もあれば、人を言いくるめ、丸め込み、その場を穏便に納め、そのことによって支配しようとするような物語もある。『映画の構造分析』には、バルトを強引にラカン化して読む場面があるが、無数のざわざわとざわめくもの(偶発性)を、ある一つの「機能する無意味」(必然性)へと読み替えてゆく手つきなど、まさに「読み殺す」という感じがしてしまう。おわらない梅雨
03/07/03(木)
●南の方から荒れた感じの強い風が吹きつけていて、イチョウ並木の枝がそろって一方方向へしなって反り返り、いくつも重なる葉擦れの音が潮騒のように持続してずっと聞こえている。雨が多いせいですっかり泥で濁っている池の水面を、ほんのちいさな波紋をたてながら細い線のような足で滑ってゆくミズスマシを眺めていたら、その濁った水の奥の方で、池の大きさから考えたら異様に大きいと思える魚の影が現れ、からだをぐうんと折り曲げて、なまなましい気配だけを残して消えた。池の脇には芝生があり、その芝生に貼り付くように生えひろがっているクローバーの葉の群と、地面に貼り付いているような葉よりもほんの少しだけ浮き上がって散らばっている白い花(粒のような小さな花の球状のあつまり)が、強い風を受けて、さざ波立つような揺れが何重にも拡がっている。芝生の先は緑地への入り口になっている。緑地へ入り込むと、葉擦れの音はさらに大きく響いているものの、密に生える木々で遮られて風はほとんど感じられなくなり、ベタッと湿気てモタッとなまあたたかい空気が充満している。滑らないように足元の湿った地面を見ながら下を向いて歩いていると、ところどころにヌラヌラと湿った、いかにもグロテスクな形をした大きなキノコが、唐突な感じでボコッ、ボコッと地面から頭を出している。
03/07/04(金)
●日が落ちてもなかなか暗くはならず、薄闇が拡がっている午後7時ちょっと前。商業高校の角を曲がってから伸びる道路は、運動施設が点在している公園の北側に接してから、さらに先までまっすぐに続いていて、そこには「F森公園通り」という標識が立っている。その道路を東に向けて自転車で走ってゆく。F森公園が道路に接しているところには、建物の3、4階くらいまでは届くような背の高い樹が生え並んで、それらの樹々は道路の方へ被さるように枝を伸ばしていて、濃い緑色の葉が道路の半分以上をアーケードのように覆っている。(夏の真昼には、これらの樹々が道路に深い影を落とし、木漏れ日をキラキラさせ、道路に面したプールからは歓声と水音が聞こえてくる。)緑の葉の下を走り抜けてゆく。気づかないほどゆっくりと明るさを減退させてゆく薄明るい夕闇のなかで樹々は黒々とした暗闇をつくりだしている。通りと斜めに交わる道路によって公園が途切れるところにある信号で停まる。再び走りだす。周囲が徐々に暗くなってゆくのが、家々の窓から漏れる灯りがだんだんに眩しく、強い光に感じられるようになっていることで分かる。走りながら、ふと横を向くと、そこには床屋があり、明るい店内の様子が一瞬にして目に飛び込んできた。昔ながらの、後頭部刈り上げの坊ちゃん刈りにされている子供が、切った髪の毛を払うために床屋に乱暴に頭をバサバサッと払われたため、なかば驚き、なかばふざけた調子で、うひょう、という表情をしていて、その瞬間の顔がストップモーションみたいにはっきりと頭に焼き付いた。まるで昔のマンガに出てきそうな「うひょう」という表情のイメージ(そういえば、いかにもそのような表情を描きそうな『よたろうくん』の山根赤鬼氏が最近亡くなられたのを思い出した)をこだまのように残しつつ、だんだんと暗くなってゆくなか、自転車を走らせる。
03/07/08(火)
●午前中の何時間かだけ雨があがっていた。緑地のあたりはいつにも増して強いにおいで満たされていた。それは、木々の葉や下草から発せられる青いツンとするにおいではなくて、おそらく濡れた落ち葉がしっとりと湿った土にまみれて徐々に腐っているにおいなのだろう。ちょうど、履き古した靴が入れっぱなしになっていて長いことそのままだった下駄箱を開けた時みたいなにおいが、場所によって濃くなったり薄くなったりしながらまだらに下からわき上がるように拡がっているのだった。大きな蜂の巣を見つけたのだが、どうやらスズメバチではないようなので安心した。
03/07/11(金)
●久しぶりに太陽が照っていたので、洗濯物を外に干せると思って洗濯機をまわしたのだけど、ちょうど洗濯が終わった頃に、大きな地震があり、それに続いて近くで雷が爆裂し、大粒の夕立がダダーンと落ちてきた。結局、部屋のなかに干すことになる。しばらくして夕立はあがったのだが、夕立の後にたちのぼる湿気と、部屋干しした洗濯物が発する湿気とで、部屋のなかはじっとりしまくっている。
03/07/13(日)
●窓の外は雨が降っている。つけっぱなしのテレビの画面でも雨が降っている。テレビの画面では、ブナの林に降った雨粒が、ブナの木の幹の表面を伝って流れ落ちている映像が映っている。雨水は、ブナの葉によって受け止められ、それが枝を伝って幹へと流れ、幹を伝って根元の土まで運ばれるのだ、というナレーションが被さる。ブナの根元近くには、なんとかいう名前の半透明で白い植物が生えている。この植物は葉緑体を持たず、大きな木の根本で、落葉した葉の養分だけで生育し、梅雨の頃に白い花を咲かせるのだとナレーターが語る。ふと、緑地のなかの、落ち葉が腐る「下駄箱のなか」のようなきついにおいを鼻先で感じる。外の雨はそれほど強くはなく、窓から見えるクスノキの(表面のガサガサした)幹は、雨水が流れていたりはしてなくて、マダラ状に湿っている程度だ。
03/07/15(火)
●まるで滑走路から離陸したばかりの飛行機みたいに、道路に沿って地面ギリギリのところを大きく羽根を拡げて滑るようにカラスが飛んでいた。カラスの優美さには遠く及ばないが、自転車に乗っている時の運動感もまた、地面からやや浮き上がったところを滑らかに滑っていくような抽象的な感じがある。友人は、自転車を修理に出している間、「地上に降りた」という感じがしたと言っていた。歩く時は地面に貼り付いているが、自転車はすこしだけ宙に浮いているのだ。気温も湿度も高い今のような時期には、においや湿気の強さによって空気の存在が鬱陶しいほどはっきりと感じられ、自転車で山にはいってゆくと特に、空気の層のなかを突っ切って行くという感覚をありありと感じる。道路の拡張のためか、道路脇の土が掘り起こされて、外気に触れたばかりという感じの湿って赤々とした土が露出していて、そこに、切り倒された大きな木の根っこの塊が、4つ、5つ、ごろりごろりと転がしてあった。
03/07/17(木)
●アジサイの花から瑞々しさが失われ、色が少しだけくすんできた。クチナシがその強いにおいとともに、あちこちで白い花を咲かせ、植え込みに2本生えているリョウブの木にも、小さな花をつける細長い房が何本か伸びてきている。ジージージーと、乾いた大きな音で鳴くアブラゼミ(恐らく一匹だけ)の声を、今年になってはじめて聞いた。
03/07/23(水)
●しぶとく降りつづいている雨はやまないままでやや小降りになり、一瞬空がふっと明るくなると、遠くの方からセミの鳴く声が聞こえてきた。ツンと鼻につく、ギンナンよりも果実めいたにおいが、実をつけたハナミズキの木に近づくとするのだが、このにおいがハナミズキの実からするのかはよく分からない。野球場の外野側の外は遊歩道で、道の両側にいろいろな植物の植え込みがある。クリーム色に舗装された道路は、両側の密に生えている木々で日射しが遮られているのでこの時期はいつも湿っていて、緑の苔でまだらに覆われている。この道は、いつもは落ち葉がいっぱいに散らかっているのだけど、掃除したばかりなのか、今はぽつりぽつりとしか落ちていない。雲越しに射す弱いグレーの光のなかで、植物の緑が湿り気を帯びてくすんだ色を浮き上がらせている様な遊歩道を歩いていると、道の真ん中に一枚、鮮やかに赤く染まった葉が落ちているのに出くわし、その「赤さ」にびくっと反応して立ち止まってしまう。その少し先で、作業服の男が草刈り機をいじっている。業者の使う草刈り機は、長い金属の棒の先についているモーターに、7〜8?くらいのナイロンテープ(家電なんかが入っている段ボールに巻き付いているようなやつ)が取り付けてあり、それが高速で回転して草を刈り取るのだけど、機械が作動している時は、その回転が速いためにテープは見えず、まるで圧縮した空気を吹き出して草を刈り、散らしているように見えるのだ。(作業服の男はそのテープを取り替えているのだった。)その男が草刈り機を作動させると、ブーンというモーターの回転する音と共に、何かが引っかかっているような、ジージージーという摩擦音がして、その音がさっき聞こえていたセミの鳴く音にそっくりだと気づいて、あの音が本当にセミの声だったのか自信がなくなってしまう。
03/07/27(日)
●光が夏っぽくなってきたように思う。緑地の木々の葉に反射して目に入ってくる色が過剰さをもち、ものの表面からやや浮き上がって、ゆらゆらゆれているような感じだ。皮膚が感じる暑さはないけど、視覚的な変化によって、まだ弱々しいセミの声もなんとなく様になっているように聞こえ、(夏の間にしばしばそう感じるように)セミの声は一年中ずっと聞こえていて、これからもずっと聞こえつづけているんじゃないかという錯覚に陥る。
●しかし、午後になると急に日が翳って、いまにも夕立が落ちてきそうな雲行きになる。強い風が吹き渡り、テレビの放送終了後のノイズみたいにも聞こえる葉擦れの音が、幾重にも重なって響く。だけど、今にも雨粒が落ちて来そうな雲行きは、不安定な空気だけを漲らせて、以外にもしぶとく持ちこたえている。坂の途中の温室の脇にある水道の蛇口に、柄のところを針金で結ばれた二本のブラシが(まるで手拭いを肩に引っかけるように)引っかけてあって、それが風でゆらゆらゆれている。今年はじめて、ヒグラシの声を聞いた。
03/08/05(火)
●午前4時過ぎに、いきなり一匹のセミが鳴き始めた。
●いろいろと溜め込んだ雑用を片づけるために、一日じゅう自転車であちこち駆け回っていたら、腕とか随分日焼けしたように思う。夏ってこうだったのだ、と思い出した感じだ。光が強く、汗をかいてもあまり蒸発しない湿気の多いどろんと粘るような空気の層を突っ切って自転車で走る。川に面した市役所で用事を済ませた後、川沿いの道をゆく。炎天下の土手には人影は少なく、遠くの方に数人、遊んでいる子供がいるだけだ。そのたった数人の子供の声が、すぐ耳元で響くように、それももっと大勢が騒いでいるように聞こえ、目に見えている、強い光に晒されて閑散とした土手の風景とうまく重ならない。遠くまで届く視線、ずっとつづく川原の緑、強い光が降ってはくるが、鈍く濁ったような空の水色、暑くてねばつく湿った空気、草と熱せられたアスファルトのにおい。夏についての記憶のイメージと、実際に直接的に知覚が感じている夏とは、やはりその鮮度と強烈さが違う。この光の強さと湿った暑さは、身体にはきついのだが、精神的には妙にハイになって漕ぐ足に必要以上に力がはいる。案の定、調子に乗りすぎて、部屋に戻ると、身体が火照って、だるくて力がはいらない。軽い頭痛もする。冷蔵庫で冷やしたペットボトルで後頭部を冷やしつつ、ソファにぐたっと、半ば横になるように、腰を前につきだして座る。そのまま、開け放した窓からの風で涼んで、だらだらと、ぼーっとしていると、いきなりもの凄い勢いで雨が落ちてくる。大きくて長く続く雷も炸裂する。吹いてくる風のにおいもかわる。ああ、夕立だ、と思いつつ、いつの間にかうとうと眠ってしまった。途中で何度も目が覚め、時計で時間を見てから、また眠ってしまう。何度も繰り返す。目覚めるたびに、ずっと雨はふっている。
●どうせ夕立ですぐにやむだろうから、やんだら起きて買い物に行こうと、うつらうつらしながら考えていたのだが、雨はしぶとくやまず、結局午後10時過ぎまで降っていた。ちょうどそのころ、ここ数日連絡をとろうとして捕まらなかった高校時代の友人に電話が繋がった。それから買い物に出掛ける。熱せられたアスファルトが濡れて、生臭いようなにおいがたちこめていた。