Read My Desire(映画、読書、その他・29)

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鼎談『<芸術>と<教育>、そして<身体>の現在』(岡崎乾二郎、近藤譲、前田英樹)
シャンテ・シネ2で、オリヴェイラの『家宝』
『ひらがな日本美術史3』/橋本治の形式的批評
恵比寿ガーデンシネマ2で、アキ・カウリスマキ『過去のない男』
「新潮」6月号、青山真治『わがとうそう』
コーエン兄弟『バーバー』をビデオで
万田邦敏『UNloved』について
「作品」を浴びること/正確に感じ、正確に入力すること
恩田陸『麦の海に沈む果実』という本を読んでみた
大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』
ギャラリー21+葉の北川聡・展/フレームの厳密性
DVDでスピルバーグの『マイノリティー・リポート』
樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/うつくしい幻想と科学
樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/分裂病的、動物的
曽谷朝絵=光の画家、批判。
「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ/清水・鶴田・黒沢ホラー
柴田悦子画廊で、浅見貴子・展
エーリク・ショルビャルグ『インソムニア』をDVDで
『アニマトリックス』をDVDで
長い梅雨がはじまる


 鼎談『<芸術>と<教育>、そして<身体>の現在』(岡崎乾二郎、近藤譲、前田英樹)
03/05/17(土)
●演劇はまったく観ないのだが、『<芸術>と<教育>、そして<身体>の現在』(岡崎乾二郎、近藤譲、前田英樹)という座談会を読むために「演劇人」という雑誌を買う。(この雑誌は、デザインから活字の組み方まで、「批評空間」そっくりだ。)この座談会は、演劇にかかわる関係者およびその観客に対して、演劇以外のジャンル(美術、音楽、武術)が置かれている現状と、それぞれのジャンルで作品を創作し、またそれを受容する身体の有り様、そしてその教育の在り方を示すことを目的としていると思われる。
●他のジャンルのことはあまり詳しくないが、美術に関して言えば、岡崎氏が様々な場所で発言している岡崎的近代日本美術史観が、とてもコンパクトに分かりやすくのべられている。ここで面白いのは、西洋の美術が、政治的な都合によって導入されただけではなく、作品の外側にある「真実」を確保するための技法として意識されていたということだ。既に充分に市場化された社会であった江戸時代において、美術作品は市場の要請に応じた、次々と開発される新奇な(珍奇な)技法や様式の差異化のゲームでしかなくなっていた。例えば北斎などは、既に遠近法を取り入れているのだが、それは真実を確保するための技法(象徴形式としての遠近法)ではなく、たんに珍奇な技法のひとつとして利用されているにすぎなかった。眼を喜ばせるための美的な技法ではなく、感覚的な問題とは切り離された、その外側の「真」を確保するための技法。司馬江漢が、西洋画は面白くもなんともなく、死体のようにぎこちなく見える、が、だからこそ、感情移入とも感覚的判断とも切り離された「真」が含まれている、と言ったはその意味だ、と。それに対して西洋からやってきたフェノロサが言うのは、日本の美術は「輸出商品」として優れている(売れる)ということだろう。(ちょうど現在のアニメーションのように。)そこには「真」を確保する必要がないからこそ可能になる、珍奇な技法の豊かで目新しいバリエーションがあるのだ。ここでフェノロサは輸出商品を能率良く生産するために一つの理屈をでっちあげる。日本の絵画は色彩を抑制して、主に線によって表現するから(西洋の印象派のような曖昧なものに比べ)より本質を直接的に表出する、と。この時点で、日本の美術において、様式の外側にある「真」を確保するための、政治的に正しいものとして強要された二つの異なる技法(「洋画」と「日本画」)が発生したわけだ。このような二つの真逆な価値の成立は(具体的にはフェノロサの政治的な立ち位置それ自体が)、感覚的判断の外側にある「真」を確保するための技法と思われていたもの(西洋画)が、実はその技術自体が既にイデオロギーを内包していて、政治的な都合によって要請されたものにすぎないことを露呈させてしまい、芽生えかけた「客観的な真」への信頼を失墜させ、再び日本美術は観客を惹きつけるための果てしないモードの転換の連続となり、展示的な価値、商品的な価値が、(真を確保するための)技術的な価値を凌駕してしまうことになる。(この状況は、現在までほぼそのまま引き継がれていると言えるだろう。)
●芸術作品には、技術的な操作、様式の変化、社会的な了解の変質、などでは還元し切ることの出来ない、その外側にある、この世界の「存在」(普遍)に対する信頼のようなものが必要であり、それがなければ、芸術はたんに空虚なゲームになってしまう。「芸術」というものが信じられるかどうかは、カントが言う「普遍的な判断でもあり得る主観的判断」としての美的判断が信じられるかどうかにかかっている。それを信じるためには、まさにそれを信じるしかないような圧倒的な作品による経験がなければならないだろう。この点で、座談会の出席者のうち岡崎氏と前田氏とは一致しているようにみえる。だが、このような経験がどのように確保されるか、このような経験をどのように言語化するかという点で、二人には微妙な食い違いがあり、この部分がこの座談会の最も面白い読みどころであるように思う。
(つづく)
03/05/19(月)
●岡崎氏の歴史の話は実はもっとつづいていて、いくつものモードが乱立している時(そしてその様式の外の「真」が確保されないとなった時)に、そられの全てのモードを統合する「国民様式」のようなものをどうつくるかという話になる。複数のモードの乱立によって、主題がモードとしての形式に規定されてしまうという問題が発する。つまり、富士山を洋画で描くと嘘臭く、裸婦を水墨で描くとキッチュに見える、というような。(だから藤島武二のような達者な画家は主題ごとに様式をかえる。これはちょっとリヒターみたいだ。)これらのギャップを不自然さとして感じずに統合するような、どのような主題にも対応出来るようなメタ様式、おそび感性をどうつくるのか、と。(山脇信徳の『停車場の朝』についての論争から、梅原龍三郎や安井曾太郎などによる一応の「国民的様式」の完成、そして日本絵画としての「国民的感性」を完成させた熊谷守一など、この辺りの話は『絵画の準備を!』で詳しく語られている。)このような形式や感性は自然に出来上がったものでは当然なく、政治的な制度がどういうものを奨励していたかということに関わり、主に教育によって準備される。しかし政治が関わるのは、主に生産ではなく消費のあり方、つまり形式というより感性のあり方に関わる。極端に言えばそれは、多様なものを自然として受容する消費者を作り出す、ということが主になる。例えば、ピカソの様式を多様なものの一つとして受容することは教育されるが、その様式の「精度」や、その様式でなければならなかった「必然性」は検討されないままになる。(つまり様式の外にある「真」を確保するための技術という話にはならなくて、様式が乱立しているなら、それをメタ様式としての国民的様式によって束ねてしまえばばよいという話になる。)と、まあ、歴史の話はこの辺りまで。
●ここから「芸術」の話になる。岡崎氏は、雪舟と雪舟について書く小林秀雄を引きつつ、次のようなことを言う。雪舟の師である周文は、中国から輸入された水墨画だけを観て、実際のモデルと言うか風景を見ずに、技法だけを真似して勝手な中国風の風景を描いていた。雪舟が実際に中国へ行って驚いたのは、周文が勝手に書いた風景が実際にそのままあるということと、実際の風景があるにも関わらず周文ほどの立派な画家などどこにも居なかった、ということだ。実際に本物の風景を見なくても、画法だけによって本物を超えた対象を創出できる。つまり対象というものは実は向こう側にあるのではなく、その技術から創出されるイメージにこそ関わり、つまり絵を観ている人間の側によって作り出されるのだ、と。しかしそれは決して画家の主観ではなく、自分とは異なる別の主体にも確かにそれが見えなくてはならない。絵というのはそれを見る人間の眼や身体をも組み込んだ機械のようなもので、そういう技術を組み立てるのが絵なのだ。輸入された水墨画から、そのモデルをまったく知らない周文が確かに「何か」を見て取ることが出来たように、と。
対して前田氏は、そうではなくて、周文や雪舟にあるのは、やはり絵の外にある「自然」という強いヴィジョンなのだと言う。それはたんに技法という問題ではない。雪舟には宋元画に対する激しい尊敬があり、日本にいてそれを見つづけているうちに、そこにある「自然」は決して中国の特定のどこかにあるというものではないと、それは自分の内部にもあるものだと信じるようになったのだ、と。雪舟によって信じられているのは技術と言うよりも絵の外にある「自然」の方である。だがそれは、具体的に眼に見えている風景というものとは違う。だから技法とは、絵と、絵の外にあるもの(自然=世界)との間にどのような関係を創出するかという問いによって生まれるのだ、と。
乱暴に単純化すれば、岡崎氏にとっての(様式の外にあるものとしての)対象とは、私と、私とは異なる他者とに、どちらにも共通して現れる得るイメージとして捉えられている。ある技法によって創出された普遍的なイメージは、私と他者とを共に貫くのだ、と。つまり普遍性を保証するのは他者という「人間」のみなのだ、と。対して、前田氏にとっては、私と、私と異なる他者とを、共に「存在」することを可能にしている「世界(自然)」という基盤があり、イメージとは、そのような「世界(自然)」に起源をもっている、と言っていることになろう。つまり岡崎氏にとって対象とは、あくまで人間と人間との関係において現れるのに対し、前田氏にとっては、人間と非人間の間には、程度の差異しか設定されないことになる。(ハイデガーによると「石には世界がない」のだが、おそらく前田氏にとっては「石さえも世界をつくる」のだろう。)これは、絵画というものが、どうしたって「人間」のみを観者としてつくられるのに対して、武術は、必ずしも人間だけを相手にするものではない、ということからくるのかも知れない。いや、馬や牛を相手に戦うということではなく、武術は、人間の感覚だけでなく、例えば物理的な法則(身体の物理的限界とか)などとも関連がある、ということなのだが。
●上に要約したことの「内容」だけをみれば、ぼくとしては前田氏の意見の方により親近感を憶える。人間が対象として構成するイメージは、勿論徹底的に「人間的」なものでしかないのだろうが、しかしそれが、人間の外側に拡がる(物理的な基盤としての)「世界」に由来するものでなければ、生物としての人間が「生きる」ことは出来ないはずなのだから。(岡崎氏の言う「美的判断」が、生物としての人間が生きるためのあらゆる利害を括弧に括った時にのみ成立するのだということは言うまでもないが、しかし、だからこそそれが純粋に「世界」に由来するということになるのではないか。)ここで岡崎氏が「自然」という言葉を前提的な条件のように使いたくないのは分かるが、それにしてもこの辺りの岡崎氏の議論は、あまりにトリッキーに過ぎる感じがある。しかし、にも関わらずこの座談会を読んでいると、ぼくには前田氏の「感覚」にイマイチ信用がおけないという感じが拭えない。例えば前田氏は、ものをつくる人は皆「受け取り手にかかわりなく、作品は在ると思ってますよ(一度出来上がった作品は「過去」のなかにすべて「存在」する)」と言い切ってしまうのだ。これは言ってみれば、ベルクソン的な「潜在性」という次元を実体化してしまったような語り方だと思う。おそらくまともな「ものをつくる人」は、7、8割がたそれを信じていても、決してそのように言い切ってしまうことは出来ないはずなのだ。(言い切ってしまったとたんに「他者」が消える。)むしろ、そう言い切ることは出来ないかもしれないという「不安」こそが、作品をつくる時に必須の緊張感となるように思う。ベルクソン=ドゥルーズ的な「潜在性」というのは、とても重要な概念だと思うが、しかしそれは実体化されると神秘主義にしかならない。例えば、松浦寿夫のような画家は、「潜在性」という概念を実体化しないために、わざわざ言語論の用語を持ってきて「パラディグマティックな絵画」とかいう言い方をする。東浩紀が「確率論の手触り」とか「他でもあり得た可能性」「誤配可能性」とか言うのも、「潜在性」という概念から神秘的なものを差し引いて世俗化するためだろう。前田氏の発言に対し、近藤譲が「ぼくは人が忘れた時には(作品は)なくなると思いますけれどね」と言い張ったり、岡崎氏の議論が過度にトリッキーになってしまったりするのも、「潜在性」の実体化はヤバイという、実作者としての当然の警戒感からくると思われる。この点で、前田氏はすこし楽天的過ぎるように思える。
03/05/20(火)
(つづき。)
●最後に、教育について。岡崎乾二郎は芸術の教育について二つの段階を挙げている。まず、その人のフレキシビリティーをみる、あるいは育てる、という段階。この段階では、様々な限定された条件の課題を与え(例えば、クレヨン3本でこれを表現しろ、とか、300円で材料を揃えろ、とか)、自分のもっている技術体系が使えないような状況(流行りの言葉で言えばアウェーで戦うような状況)で、その都度何かしらの有効な手段をみつけ、技術を組み替えて対処する術を見につけさせる。これによって、主体のもっている感性や価値判断といったものが、いかにその人の習得している「技術体系」に依存してたものであるか、技術を組み替えることで、いとも簡単に価値観や感性、ときには人格といったものまでかわってしまうのか、ということを経験させる、と。これは主体というフレームの可塑性の感覚を実際に味あわせるということでもあろう。単純な話、絵筆をクレヨンに持ち替えただけで、あるいはクレヨンの持ち方をかえただけで、今まで自然だと感じていた感覚が崩れ、違和感と共に思ってもみない新鮮な感覚が立ち上がってくるのを、誰でもが感じることが出来るだろう。技術を組み替えるということは、身体感覚を一度バラして組み替えるということであり、その時、身体は揺らぐような不思議な眩暈のような感覚に見舞われる。このような感覚は、恐らく誰でもが、自転車に乗れるようになった時や、泳げるようになった時などに体験しているはずだ。この時の感じを、エクササイズの場で何度も様々な方向から反復させるというわけだ。(これは言い換えれば、東・大澤が『自由を考える』で言っていた自分が他でもあり得たという可能性、つまり「匿名性」という概念を、感覚的に理解するためのものだとも言えると思う。)その場でいきなり示された、ほとんど理不尽とも言える条件に柔軟に対応して、何かしらのものをでっち上げさせる。この時、もう一つ重要だと岡崎氏が言うのが、教師が学生と同じ条件の課題を同時に行い、徹底して「勝ってみせる」ことだと言う。実際に目の前にすごい作品があったり、すごい奴がいたりして、自分が完璧に「負けて」しまったというショックを知らないような奴には、いくら説明しても分からないし、緊張感も生まれない。だから自らが実際に勝ってみせてやるのだ、と。(この点について近藤譲が、「あなたは本当に教育しているのですね」と感心すると、それに答えて岡崎氏は、「自分のエクササイズにしてるだけかも」と答えるのだが、実際、岡崎氏にとってもすごく良いエクササイズになるだろうと思う。)自分に固有の特性だと思っていたものが、技術を組み替えただけで簡単に揺らいでしまう(主体のフレームは可塑的である)ことを知り、かつ、圧倒的に力量に差のある奴に負けるという事を知らせてやることで、やっと教育を行うための基本的な条件ができあがるのだと、岡崎氏は言う。(特に、本当の私とか、自分探しとか言いたがる「私好き」の人や、自分を優秀だと思いこんでいるエリートとかは、この過程によって「自分」を相対化することは必須であろう。あと、この点をクリアすることでやっと、作品を貶すことと、個人の人格を否定することとを、切り離して考えるという、作品を批評するための最低条件がようやく確保されるのだと思う。)
●これは一種のゲームであり、多少でも気の効いた奴なら、このゲームをかなり楽しんでやることが出来るだろう。主体のフレームが技術のその都度の組み替えによって動いてゆくという感覚は、まるで自分の人格が拡張してゆくような興奮を生じさせ、そのゲームに人をのめり込ませるだろう。しかしこれだけでは、どのような様式もすぐさま理解して享受することの出来るような、優秀な「消費者」を育てることにしかならない。(批評家だったら、このくらい柔軟でミーハーであってほしいと岡崎氏は言うのだが、まったくその通りだと思う。)主体のフレームの可塑性を知ることで一度「私」を相対化した後で、そのような複数であり得る「私」を可能にしている複数の技術体系のなかから、ある一つの体系を主体的に選択し、その技術をしっかりと習得してゆくという過程が、これにつづいて必要になる。つまり、主体を相対化することで初めて、自らが責任を負うべき一つの技術体系=主体を、自分自身の判断(=賭け)によって選択することが出来るのだというわけだ。そしてこの二つめの段階は、ほとんど職人の修行と同じであり、長い時間と、退屈であることが避けられない持続的な努力を必要とする。
●岡崎氏の主張が面白いのは、一つ目の段階と二つ目の段階を両立させ、順番をつけているところにあろう。多くの人においては、一つめの段階と二つめの段階のどちらか一方がより重要なものとして強調される。職人的な技術など、安定した社会構造や階級に依存したものでしかなく、もうそんなの古くさい。それよりセンスの良さが必要だ。センスこそが固定した階級をうち破り、自由をもたらすのだ。とか、いや違う、センスなどというものは結局は消費社会の流行に依存したもので、真に批判的なもの足り得ない。そうではなく持続的な勉強、鍛錬、そして思考こそが、普遍へと至る道なのだ、とか。しかし岡崎氏は、「芸術家」であろうとするのならどちらか一方だけを強調するのではダメだと言っているように思う。まず最低限、自分を相対化し、様々な条件にフレキシブルの対応できるセンスが必要だが、しかしそれだけでは真に「見るべき価値のあるもの」はつくれない。それには高度な職人的技術の習得が不可欠である。しかしその技術は、一度あらゆる技術、主体のあらゆる可能性が相対化された後で、あくまで自らの選択で、それに責任を負うべきものとして選ばれたものでなければならない。だから、たまたま親が大工だから大工になるとか、親が医者だから医者になるとか、そういうような技術ではダメなのだ。

  シャンテ・シネ2で、オリヴェイラの『家宝』
03/05/21(水)
●日比谷のシャンテ・シネ2で、オリヴェイラの『家宝』。
●ゴダールの『フレディ・ビュアシュへの手紙』には、「水を撮ることが出来、空を撮ることが出来れば、人間を撮ることも出来る」というルビッチの言葉が引用されていた。上に空があり、下に水があり、その中間に人間がいる「場」がある。オリヴェイラの『家宝』は、まさにそのようにつくられているフィルムだろう。上(空)からと下(水)からの、二つの非人称的なショットが、何度も反復され、その反復によって、人間たちが動き回るための場所が開かれる。上からのショットとは、ドウロ河流域の一帯をパノラマのように捉えた俯瞰のショットであり、下からのショットとは、ドウロ河に沿ってはしる列車の車窓から撮られたショットである。この二つのショットが随時反復的に現れることによって、まるで、世界のどこでもない場所のように見えて、しかしその実在が誰にも疑えないような場所としてのドウロ河流域の一帯が、映画の上映(スクリーンに光が投影されるという出来事)とともに立ち現れるかのように感じられる。(実は、列車の車窓からのショットは、主人公のレオノール・パルダックが列車に乗って移動するという物語上の口実とともに挿入されるので、そこには主人公の存在が不在によって暗示されていると読めないこともなく、厳密には非人称的なショットとは言い切れない面もあるのだが、しかしそこに映し出されるのは、列車の窓とその外の移動する風景ばかりであり、登場人物の誰かの視線や存在とは全く無関係なものとして示されているのは明らかであるように見える。そこには全く人間の痕跡はないのだ。)
空と水との間にある空っぽな「舞台」。このことは冒頭のショットから明確に示されている。小さくて古びた、長年の歳月による汚れや染みがその外壁に深く染み込んでいる教会の建物の全体が冒頭から示される。そこへ主人公が傘をさしてやって来て、教会の脇の大きな石の下から鍵を取り出し、建物のなかへ入って行き、出てくる。ここまでを延々とフィックスで捉えたショットとともにクレジットタイトルが示される。地面の土は多くの水分を含んでしっとりと湿り、ぬかるんでいる。そして空は、もうすぐ雨があがるか、雨があがったばかりか、というような、雲に覆われているのだが微かな明るさが射しているという状態である。空と水との間にあって、すくっと建っている古びた教会の建物。この「古びた教会」は、まるで上映の開始とともに、つい今しがた、この世界のなかにぽこっと生まれ落ちてきたかのような新鮮なイメージとして浮かび上がっている。これこそがイメージというものの力であり、「映画」であるのだと思う。
●『家宝』では、人と人とは決して会話を交わしはしないように見える。それぞれの人物はバラバラに存在していて、勝手に行動し、そしてそれぞれに与えられたテキストを暗唱しているかのようだ。そこにはいわゆる「自然らしさ」に対する配慮はなく、テキストに書かれた言葉と、それを暗唱する人物(俳優)との関係があるとすれば、ただ、その人物の「声」によってテキストの言葉が「聞こえる」ものになっているというだけではないだろうか。レオノール・パルダックは、主人公のカミーラという人物を演じているのではなく、ただカミーラの言葉として書かれたテキストに「声を与え」、カミーラの行動として書かれたテキストに「身体を貸して」いるだけなのだ。だから画面に映っているのはあくまでレオノール・パルダックであってカミーラではない。(レオノール・パルダック=カミーラではない。)観客が見るのはレオノール・パルダックの姿であって、カミーラという人物など、『家宝』という映画のどこにも写ってはいない。しかし『家宝』という映画はカミーラという人物について語っている映画なのだ。画面に映っているのは、ひたすら具体的な人物であり、事物であり、光の状態であるのだが、映画によって語られているのは、そのどれでもない何かであるのだ。オリヴェイラの映画の不思議な感触は、このように、画面に映っている(あるいは聞こえてくる)具体的な事物と、それによって語られているものが、徹底して分離していることからきているのかもしれないと思う。人物は皆内面的な厚みを欠き、セリフも行動も不自然でぎこちなく、にも関わらず、と言うかだからこそ、具体的なイメージとして力強い輪郭と繊細な表情とを備えている。しかしこのような充実したイメージの連鎖は、ただそのイメージの充実のみを示しているというだけではなく、まったく別の抽象的な何かを示してもいる。この抽象的な何かとは、おそらく具体的なイメージ(表層)の「内実(深層、あるいは実在)」とは別のものなのだ。だからこそオリヴェイラの映画のイメージの一つ一つは非常に美しくかつ充実したものでありながら、同時にぺらぺらで空っぽな感じがするのだろう。カミーラという架空の人物に眼に見える姿を与え、テキストに音を与える存在であるレオノール・パルダックという人物の身体(のイメージ)と、その身体によって具体的な形を与えられるカミーラ(についてのテキスト)とは、分離した全く別の二つの存在であり、その二つが画面の上で分離しながらも両立しているのだ。(基本的にはどのような映画も、それを制御するために背後にテキストを隠していると言える。しかしオリヴェイラがすごいのは、テキストとイメージを結ぶための「制度的な配慮」を大胆に無視してみせ、その分離を極大にした地点で結び合わせてしまう点にあろう。つまりテキストは背後にあるのではなく、分離したままイメージと同列に並ぶのだ。一方、例えばホウ・シャオシェンの『ミレニアム・マンボ』や、あるいはハーモニー・コリンの『ガンモ』などは、イメージの背後にあるテキストを最小限にまで縮減した時にどうなるか、映画は成立するのか、という実践であるとも言えるかもしれない。)
●では、イメージと分離しながら両立しているテキストの次元で主題にされている「抽象的な何か」とはどんなものなのだろうか。オリヴェイラの場合、それはやはり西欧的、文学的な概念であるように思う。例えば蓮實重彦が書いているような「不在」だったり(基本的に、存在するものを示すことしかできない映像は「不在」を現すことが出来ない。「不在」は、言葉に媒介されることによってはじめて表現される)、北小路隆志が書いているような、ジャンヌ・ダルクが「男装した女性」でもあり「女装した男性」でもあり、カミーラが無垢でもあり、邪悪でもある、といった「二重性」だったり、あるいは、カミーラはジャンヌ・ダルクの反復でもあり、セルサの反復でもある、というような「反復」だったりするのだろう。だが、ぼくはこのような主題の次元でオリヴェイラを深追いしてみても、あまり面白いことになるとは思えない。
●『家宝』を観ながらぼんやりと考えていたのは、中上健次の、例えば『枯木灘』のような秋幸ものの小説を映画にするとしたら、長谷川和彦のようにでも、柳町光男のようにでもなく、オリヴェイラのように撮るのが正しいやり方なのではないか、ということだった。一方に高い場所から新宮を見下ろす俯瞰のショットがあり、もう一方に、土方仕事のトラックの車窓からの山々の重なり合う風景(これはあくまでも非人称的なショットとして撮られなければならない)があって、この二つの非人称的なショットに挟まれた中間に(二つのショットの反復によって)、人々がごそごそと動き回る場所が開かれる、という風に。この時、俳優の演技は「自然らしさ」や「本当らしさ」とは対極の(だからと言って「能」をイメージさせるような「型」の演技などではなく)、ぎこちなく段取りめいた、あるいは演劇的なものとして行われる。そしてセリフは、中上のテキストと一言一句違いのないものとして、ほとんど朗読のように厳密に再現される必要がある。(イメージとしては、やはりフィックスショットが基本となる。)こう考えると、青山真治の『路地へ』にとても近いものになってしまうけど。

  『ひらがな日本美術史3』/橋本治の形式的批評
03/05/23(金)
●橋本治の『ひらがな日本美術史3』は面白かった。なぜいきなり「3」なのかと言うと、ぼくは江戸以前の日本美術についてあまり詳しくなくて、せいぜい長谷川等伯や狩野派くらいしか知らないので、そのあたりの記述が信用できそうなものだったら、他の部分も読んでみようかなというつもりだった。しかし「信用できる」どころか、長谷川等伯の『松林図屏風』や『烏鷺図屏風』の形式的な分析は素晴らしいもので、橋本治は藤枝晃雄と並んで、日本においては希有の「真正なモダニスト」であり「フォーマリスト」であると言っていいんじゃないかと思った。(『烏鷺図屏風』についての分析などは、そのままで、岡崎乾二郎の二幅対の作品を観、分析する時に非常に有効な示唆を含んでいるように思う。)だが勿論、橋本氏は形式的な分析ばかりをしているわけではない。長谷川等伯について、まるで近代絵画についてするような形式的な分析を行っているのは、それがそのような作品だからであって、橋本氏は対象とする作品に応じて(いや、作品という概念が日本美術においてはそもそもないので、「それ」がその時代においてどのように機能するものであったかに応じて)、それぞれに様々な論じ方をしていて、橋本氏の教養の深さと柔軟さには驚かされる。(この本は作家論や作品論ではなく「美術史」として書かれているわけだから、そこに「作品論」のような形式的な分析が出てくるというのはつまり、長谷川等伯や狩野永徳において初めて、日本に近代的な意味で「作品」と呼べるようなものが現れてきた、ということなのだろうと思う。橋本氏は長谷川等伯・久蔵親子の『楓図襖』『桜図襖』を、日本ではじめて、ただ「美しい」というだけで成り立った絵だと書いている。)例えば、姫路城の「白さ」について書かれた「白いもの」という章では、「美的なモード」が、安土・桃山的なものから江戸初期的なものへと移り変わってゆく様(黒の絢爛豪華なスペクタクルから、シンプルな白の美しさへ)を、社会情勢の変化や城の建築様式の変化、そして「鳥」に関する文学的な感性の変化(姫路穣は「白鷺城」と呼ばれてもいる)などから追ってゆき、実は「白のうつくしさ」は漆喰塗りによる防火対策という美(趣味)を無視する徹底した「実用」によって生み出されたもので、そこに「美」を見出すことの「転倒」をまるで柄谷行人の『日本近代文学の起源』のように示す。しかしこの時橋本氏は、たんに美的なものの「転倒」を示す(ここまでだったら「気の効いた人」なら誰でも出来るだろう)だけではなく、そこに、「全部白にする、美しさは排除だ」という要求に対して、職人たちによる、それなら「白く塗られてもきれいにみえるような美しい形をつくる」という抵抗があり、そこで姫路城の深く複雑な「美しさの質」が成り立っているのだ、という点までをきちんと見ている。(高度な美しさとは、たんに「美的」な要請からだけでも、徹底した実用性からだけでもなく、複数の矛盾した要求を同時にクリアしなければならないという要請から生まれるのだ。)一転して、高台寺蒔絵について書かれた「女のもの」という章では、北政所の秀吉(ロリコンで若い淀殿に入れ込んでいた)に対する思いや、家康の北政所に対する感情など、複雑な人間関係を背景にしたちょっとロマンチックな歴史的な人間ドラマを語っている。しかしここでも、その人間ドラマはあくまで、高台寺に残された工芸品に描かれている蒔絵を(具体的にはその「露」の描写を)繊細に「見てゆく」ことによって、それを根拠に語られている点で、「見ること」から始まるということの優位は守られているのだ。
もともと橋本治という人は、作家や批評家としてよりも先に、東大の五月祭のポスターを描いた人として有名になったわけだし、イラストレーションやデザイン(自分の本の装丁とかだけど)、そして編み物などの仕事をしているというのは知っていた。しかしぼくは橋本氏の「視覚的」な分野の仕事にほとんど興味がなく、と言うよりも、手仕事の丹念さと器用さは認めるが、それにしても「趣味悪いなあ」(「おばさんロココ」だよなあ)としか思ってなかったので、橋本氏が日本の古典的なものに対して並々ならぬ教養の持ち主であることは知っていても、その「美術史」の仕事には全く目がいっていなくて、迂闊だった。(あらためて「手の才能」と「目の才能」とは別物なのだと思い知らされた。)『ひらがな日本美術史』が連載されている「芸術新潮」をちらっと眺めたら、連載はもう江戸時代後期に差し掛かっていて、この連載がいつまでつづくのか分からないけど、このまま明治や大正、昭和とつづいてゆくとしたら、一体どうなるのか楽しみだ。

  恵比寿ガーデンシネマ2で、アキ・カウリスマキ『過去のない男』
03/05/24(土)
●恵比寿ガーデンシネマ2で、アキ・カウリスマキ『過去のない男』
●主人公の男には、映画が始まって、観客によって観られている以前の記憶がない。しかしもともと、映画の登場人物というのは、映画の上映が始まることで生まれるのだから、それは別に特別のことではない。むしろ彼が特異なのは「名前がない」ということの方だろう。他の登場人物たち、救世軍の女にしても、主人公を受け入れるコンテナで生活する人々にしても、その人物たちの過去の来歴に映画はほとんど触れないのだから、彼女や彼らも、ほとんど過去がないようなものだ。そして「ほとんど過去がない」ということはつまり、「ほとんど名前がない」ということでもあるだろう。人は固有名をもつことで社会との繋がりを確保し、歴史に参画することが出来る。つまり名前をもたない人は「いない」ことにされてしまう。しかし、名前などなくても人は存在する。名前などなくてもカメラはその存在を撮影することが出来る。名前などなくても、その人を見ることは出来る。この映画は、名前がない、が、存在する人々の話であろう。
●この映画は基本的におとぎ話でありメルヘンであろう。しかし、このメルヘンを存在させている背景はリアルなものである。カウリスマキ特有の、いわゆる「オフビート」感覚の可笑しさをつくりあげる演出は洗練されている。この洗練は全体にノスタルジックな調子を行き渡らせ、良質な感傷を生成させる。極貧に生きるコンテナ生活者たちの生活は楽天的で幸福感さえ漂い、皆善人ばかりで本質的な悪人はいないかにみえる。しかしそれは一面的な事柄だろう。もう一方で、カウリスマキの登場人物たちは皆どこか不機嫌である。彼らは決してその不機嫌さを大袈裟な身振りで外に向かって示すことはない。彼らが皆、人に優しいのは、そして楽天的にさえ見えるのは、彼らが世界に対してほぼ絶望しており、しかし絶望し切ることが出来ないことからくる不機嫌に静かに耐えつつ生きているからだろう。どこかとぼけた味の、不器用なオフビート感覚というのは、おそらくこのような不機嫌を静かに耐えていることからきていると思われる。彼らは、自分たちに正当に名前が与えられていないことの理不尽さに対し、ただ自らが確実に「存在する」ということを示すことによってのみ抵抗する。例えば、救世軍のバンドの演奏を聴きに集まっている人々を捉える短いショットは、ただ映画を彩るための「多様なキャラクター」が示されているのではなく、そこに「存在する」名前のない人々の存在を示し、それを描写するためにあるのだ。彼らはじっと演奏に耳を傾け、あるいは立ち上がってダンスをすることによってのみ、ごくつつましく自らの存在を主張している。彼らの存在はあまりに「上品」過ぎると言えるかもしれない。
●だが、そのような彼らも、いつも上品にただ不機嫌に耐えているばかりとは言えない。ある瞬間には、不機嫌がいまにも「怒り」として爆発してしまうそうなギリギリの緊張感が漲りさえもする。例えば、主人公が職安に行って職を探そうとする時、名前がないという理由から彼に対して官僚的な罵倒を浴びせ排除しようとする中年男の職員と、その職員の隣で何とも言えない複雑な表情で主人公を見つめる窓口の女性職員、そして彼らを黙ったままで見返している主人公の表情が示されるシーンでは、世界への絶望と、それに対して爆発しそうな怒りとがギリギリの均衡で震えていて、それが今にも怒りの方へ振り切れてしまいそうな危うさに、観客は緊張を感じずにはいられない。この時、カウリスマキ的な洗練された抑制は極度の緊張にさらされている。(この時、世界の理不尽さに対する怒りと絶望は、ただ主人公だけのものではない。そこにいる窓口の女性職員にも、そして官僚的な対応をする中年男性にも、等しく共有されたものであろう。そしてこのような認識が、カウリスマキ的な、上品に不機嫌に耐える人物たちの「怒り」を抑制するのだろう。勿論「怒り」という感情が消えるわけではなく、行動としては抑制されるということだ。この怒りは誰に、何に向かうべきなのかが全く分からなくなる。だからカウリスマキの映画では葛藤や対立がいつも回避される。そして「怒り」はただ気配としてのみ漲ることになる。)
●世界に対する絶望と怒りを根底に持ちながらも、カウリスマキはあくまで美しく上品な人物たちを描くことの方に主眼を置く。これは怒りや告発の映画ではなく、どこまでも上品な人たちの上品な生の姿を描くメルヘンである。カウリスマキ的な様式の洗練もそのためにこそあるのだ。カウリスマキの映画の美しさはこの部分にかかっている。

  「新潮」6月号、青山真治『わがとうそう』
03/05/25(日)
●「新潮」6月号、青山真治『わがとうそう』
●『Helpless』や『ユリイカ』で斎藤陽一郎が演じた秋彦の物語。小説の最後に地下鉄サリン事件を思わせる記述があるので、舞台はおそらく95年であると思われる。(『Helpless』は89年、『ユリイカ』は93年の話。『軒下のならず者みたいに』はこの話の前なだろうか、後なのだろうか。)『ユリイカ』から2年後、大学の卒業を控えて、その後のことを何も決めていないまま大学の先輩の紹介で始めたバイトをつづける秋彦が、淳子、彩子、恵、という3人の女性との関わり、そしてバイト先での組合たちあげに関する「裏切り」に知らず知らずに荷担してしまった経験などから、世界から隔たった場所(環八の内側)での淀んだ生活から、その外へと脱出(逃走)しようとするところで、この話は終わる。冒頭の、いきなり降ってくる強い雨によって外界から遮断される(ありがちではあるが)印象的な描写によってのっけから示されるような、世界から隔たった場所に漂う存在である秋彦が、自分は自分でしかないと認め、そんな自分をそのまま受け入れてくれる対等に向かい合うべき女性と出会うことで、ある「殻」から脱しようとする(逃走=闘争)話であると書けば、なんだか「ありきたりの青春もの」のように聞こえるが、しかし、細部の描写や具体的なエピソードの積み重ねはとても丁寧だし、世界に厚みをもたせる人物配置や全体のつくり込みもさすがに見事なもので、ある一定の説得力は感じられる。ただ、ぼくにはどうしてもビンとこない。良いとか悪いとか言う前にビンとこないというのが青山氏の小説にいつも感じることで、『ユリイカ』も『月の砂漠』も読んだし、文芸誌に発表されたいくつかの短編も読んだのだけど、ぼくには何か靄がかかったと言うか、いくつもの介在物によってものがくっきりと見えないというか、そういう感じを拭うことが出来ない。(素朴なことを言ってしまえば、その文章がどうしても好きになれない。)
●『わがとうそう』は一連の秋彦ものの物語であると同時に、黒沢清の『アカルイミライ』に対する批判的な応答として書かれてもいるように思う。『アカルイミライ』では、引っ越しを手伝わされた社長に対するオダギリジョーの殺意が浅野忠信によって先回りして代理されてしまったことで、浅野がオダギリにとっての「法(超越的存在)」となってしまった(対等な関係ではなくなってしまった)、というのが青山氏の批判であったと思う。『わがとうそう』では、引っ越しを手伝わされた上司の妻と不倫関係になることが一種の復讐の代理となるのだが、しかし、秋彦はその復讐の復讐であるかのように、その上司によって、組合の設立をさせないための「裏切り者」の役割を演じさせられる。そしてその仕打ちを自覚した時の、自分のあまりに情けない対応によって、秋彦はさらに輪をかけた敗北感を味合わされ、自分の「ガキ」さ加減を思い知らされる。つまり『アカルイミライ』で描かれるオダギリと社会(労働)、あるいは年上の他者との関係は、あまりに一面的で甘すぎる、現実はもっと複雑で、社会のシステム(人間関係)はもっと恐ろしいものだ、と青山氏は言いたいのだろう。加えて、オダギリが社会(世界)との通路を見出すきっかけとなる他者(藤竜也)は、彼が殺意を抱いた社長と同年代の男で、つまり父親的(保護者的)な存在であり、ここでも関係は対等とは言えない、と。対して秋彦が世界との通路を見出すきっかけとなった人物は同年代の女性(恵)であって、その関係は対等である、と、おそらく言いたいのではないだろうか。それは分かるのだが...。
●映画にしても小説にしても、青山真治の登場人物が「世界」と対峙しようとする時、そこに女性の存在が必要不可欠であるように思う。青山作品はほとんど全て「愛とはどいういことか」「愛を証明するにはどうすればよいのか」「男女が共に生活してゆくためにはどうすればよいのか」というような問いを巡って構築されているとも言える。そこが、基本的に「男の世界」である黒沢清とは異なる点だろう。しかし、単純に作品内部での女性キャラクターの形象(イメージ)という点からみると、決して女性が中心的な役割を演じているとは思えない黒沢作品の方がむしろずっと豊かで、青山作品はとても貧しいようにぼくには感じられる。洞口依子や風吹ジュン、『回路』の小雪や麻生久美子、『ニンゲン合格』や『アカルイミライ』における「妹」という形象など、周縁的な位置づけながらとても多様で魅力的なイメージを結ぶ黒沢的女性キャラクターに比べ、青山的な女性キャラクターは、極端なことを言えば皆『ユリイカ』の宮崎あおいのバリエーション(細身で色白ではかなげな長い黒髪の少女)に還元されるとも言えてしまうのではないか。たんに外見的な好みと言うだけではなくて。(だが、『わがとうそう』の青山氏は、例外的にかなりがんばっているとは思う。)
●『わがとうそう』の秋彦においては、男性との関係はいつも「社会的」なのに対して、女性の関係はもっと直接的な、親密なものとして描かれているように感じられる。たとえば淳子との関係は、似たもの同士としてのある共感(謎から共感へ)としてあるし、彩子との関係は、同じく似たもの同士でありながら、こちらは癒着的な関係であろう。そして恵との関係が対等な他者としての、個と個の直接的で親密な関係として示されている。だが、男性との関係は、大学の先輩である滝口との関係にしても、上司で彩子の夫である長沼との関係にしても、いわば「象徴界」を経由した社会的な関係としてのみ描かれている。つまり、滝口はあくまで秋彦と会社とを結ぶ媒介的な存在としてのみ把握されているし、長沼は彩子の夫であり、自分を陥れもする会社の上司としてのみ把握され、決して個人と個人として直接的に対峙することがない。逆に言えば、3人の女性たちは皆、象徴的な秩序からは排除されていて、その証拠に、この3人の女性たちは、「組合」に関するごたごたには一切関与しない存在である。ぼくはこの描き分けに微妙な違和感を拭えない。これでは下手をすると、社会は「男たち」の空間であり、「女たち」は、その外に拡がるもっと広い世界(あるいは自然)と男(秋彦)とを媒介するもの、つまり象徴界に空いた「穴」なのだという話になってしまいかねなくはないだろうか。一対一の、個と個の、直接対峙する親密な関係だとみえていたものが、実はその外側の世界への通路を開く「媒介」でしかなかった、ということになりかねないのではないか。(このことは青山氏の描く女性像の不思議な貧しさにも関係すると思う。)これはとても微妙な問題で、このように単純に言い切ってしまうことは出来ないような、関係を描くための魅力的で具体的な細部をこの小説がいくつも持っていることもまた確かなのだ。(例えば3人の女性のなかで唯一秋彦と性行しない淳子との関係の描き方はとても魅力的だし、決して成功しているとは思えないが、恵との性行シーンが、あそこまで執拗に細部にわたって描写されなければならなかったのも、他の二人に比べて充分に描き込まれているとは言えない恵という存在の「具体性」を示すためであろう。)だからこの小説はとても微妙で難解だ。

  コーエン兄弟『バーバー』をビデオで
03/05/27(火)
●コーエン兄弟『バーバー』をビデオで。基本的にコーエン兄弟って苦手なのだけど、『バーバー』は素晴らしい。何が素晴らしいって、主人公(ビリー・ボブ・ソーントン)の妻の役をやっているフランシス・マクトーマンドが圧倒的だ。特に刑務所のなかのフランシス・マクトーマンドは鳥肌ものだった。主人公と弁護士との3人で、フランシス・マクトーマンドの裁判の方針について話し合うシーン。とは言っても、腕利きであるという弁護士が一方的にまくしたてているだけなので、主人公がつい、自分が殺したのだと隠しておくべき「本当のこと」を口にしていまうのだが、それは妻を庇っての発言としか思えず、誰もそれが「本当」だなどとは信じない。ここで、つい本当のことを言ってしまった夫を見つめるフランシス・マクトーマンドの何とも言えない複雑な表情が素晴らしい。映画ってこういう顔を撮れるからすごいのだ。(人間の顔というものは、ここまで複雑で何とも言い難い表情を、瞬時に、しかも明快に示すことが出来るものなのだ。)しかし、この顔の表情から女が何を考えているのか読みとろうと思っても無駄だ。瞬時に全てを理解した上での複雑な表情なのか、この人はなんてバカなことを言っているのだという表情なのか、それとも状況が呑み込めずにただぼんやり見つめているだけなのか、そんなことは全く分からない。だいたいが、不倫をしていて、普段夫のことなど全く関心がないような素振りをしているくせに、風呂に入りながら、夫に足のむだ毛を剃らせ、ふいにぽつりと「愛してる」とか呟くこの女が何を考えているのかなんて、初めから全く分からないのだ。ただ、殺ったのは自分だと言う夫を見つめるこの女の複雑な表情や佇まいが、なんだかよく分からないけどこれこそが「世界の真実なのだ」という感じで素晴らしいのだ。フランシス・マクトーマンドが素晴らしいのは、決定的な何がそこに示されているのは明白なのに、その何かの正体は掴みようもないというような佇まいをみせているからなのだ。それはたんに「分からない」ということではなく、その分からなさの「質」こそがその人なのだとしか言えないような、ある決定的な「質」を現しているのだ。(フランシス・マクトーマンドの複雑な分からななさによる存在感は、後半に出てきて主人公を翻弄するスカーレット・ヨハンセンの、いかにもそれらしいロリータぶりに比べると一層際立つと思う。スカーレット・ヨハンセンは確かに魅力的ではあるが、映画におけるロリータ的表現の集成という以上のものではないと思う。)
この映画の撮影や演出、編集はほぼ完璧と言って良いだろう。ここで完璧とは、フィルム・ノアールというジャンルの記憶や規則にほぼ完璧に忠実であるという意味であって、非常に素晴らしいという意味ではない。ジャンルの規則に忠実だということは、ここには過剰も逸脱も歪みもないということだ。だからこの映画には、分かりやすい「表現性」や「面白み」といったものが希薄であるとも言える。これを、優等生的なマニアが凝りに凝ってつくった、もはや死んでしまったジャンルのリメイクでしかないと言ってしまうことも出来るかもしれない。その証拠に、主人公のビリー・ボブ・ソーントンは何度も、自分は幽霊のようなものだと呟いている。だが、だとしてもここには、幽霊としてしか、あるいは幽霊のように希薄にしか存在できないことのリアリティが書き込まれているように思う。そしてそれは過剰や逸脱や歪みといった、分かりやすい「表現性」では捉えられないものだろう。
この映画で最も饒舌なのは、「無口な男」である主人公のビリー・ボブ・ソーントンである。なぜならこの映画は主人公の「語り」によって語られる物語であるからだ。饒舌な登場人物たちに囲まれた主人公は、他の人物に比べれば確かに「セリフ」は極端に少ないのだが、しかし画面の外からナレーションという形で誰よりも多くの言葉を発している。しかしそれはあくまで世界の外からの語りである。死を目前にした主人公が、起こった出来事を手記に綴りながら再構成する、というのがこの映画の語りの構造だからだ。この映画の原題は「そこにいなかった男」である。つまり彼は出来事の起こる現場には居ないのだ。彼はそれを「語る」という場所にこそ存在していて、彼が語っている世界の内部にいるのではない。彼が常に無口で無表情で感情を表に現さない(人を殺してしまった時でさえ)のは、彼がその場所には居なかったということを表している。そこに居ない男であるビリー・ボブ・ソーントンの「無表情」は、同じように何を考えているのか分からないフランシス・マクトーマンドが圧倒的に「存在する」ことによって示す「複雑な表情」の質の対極にあると言えるだろう。ビリー・ボブ・ソーントンは手記を綴る(語る)ことによって出来事を再構成して、ようやく自分のしてきた事を理解する(責任をとることが出来る)。逆に言えば、自分のしてきた事を整理して理解するための語りであるからこそ、それは律儀に規範的であることが要求されるのだ。事後的に出来事を再構成することでしか自分の行為を把握出来ない、「そこにいなかった男」であるビリー・ボブ・ソーントンは、出来事のただ中では「夢のように」不確かにしか生きることができない。唐突で予想もつかない出来事の連鎖のなかで、起こったことの意味も確定出来ず、次の出来事を予測も出来ず、自分の行為の実感さえも持てないまま、不安定な足元を漂うような足取りで進んでいるうちに、取り返しのつかない事態に陥ってしまう。だから幽霊的な生とは、この世の外側の安定した位置から世界を見下ろすような視点のことではなく、「実感」すら伴わないような不安定な世界を生きることを強いられた存在における生のことであろう。この映画において重要なのは、規範的な語りの形式(ジャンルへの奉仕)にあるのではなく、そのような形式によってしか把握できない、ある不安定な、実感さえ伴わないような、世界との有効な関係の喪失の表現の方にこそあるように思う。

  万田邦敏『UNloved』について
03/05/31(土)
●万田邦敏『UNloved』について。これは、男女のリアルな関係を描いた映画ではなく、抽象的な人物が、抽象的な設定のなかで、(ピストルではなく)言葉によって撃ち合うような映画だ。まず、この映画の登場人物は皆、嫌な奴ばかりだという印象を持つ。しかも人間関係の配置はとても図式的だ。一方に、今まさに成功をおさめつつあるビジネスマンの仲村トオルがいて、もう一方に全く冴えない松岡俊介がいる。そしてその二人の男の間に、決して今の自分を変えようとしない森口瑶子がいる。この映画は、簡単には共感など出来ないような人物たちの、不自然で痛い言葉の息詰まる応酬によって、共感によっては示すことの出来ない「軋み」の強度を生み出そうとするものであり、人物への好感度や感情移入によって観客を惹きつけるような安易さを禁じている。はじめは、仲村を何て嫌な奴だと感じ、松岡をもう少しどうにかならないものかと感じ、森口をいくらなんでも柔軟さに欠け過ぎだと感じて苛立つ(これは、観客がこの3人のうちの特定の誰かに感情移入して、その特定の視点から映画を観ることをさせないための配置だろう)のだが、次第にそのような好悪の感情が軋みの強度によって宙づりにされてゆき、無化されてしまうのを感じるだろう。確かにこの映画の中心には森口が演じる女がいる。しかしこの映画は、二人の男から言い寄られた女がどちらを選ぶかという話ではない。「愛されざる者」というタイトルは女のことを指す。酷い言葉(本当によく言うよというくらい酷い言葉だ)を投げつけられてふられる仲村は、当初は動揺を隠せないものの、結局は森口を失ったことが大した痛手にはならないし、森口によって「選ばれた」松岡にしても、「あなたは愛されない人だ」と言ってそのもとから去って行こうとする。だからこの映画は、女から「選ばれ」そして去っていった男が、再び女を「選び直す」という話なのだ。(ここには恋愛における自然な「親しさ」のような感情が抜け落ちているのだ。)
●この映画が抽象的なものであるということは、現実的な風景が不在であることからも言える。最も典型的なのは、森口と松岡の住むアパートだ。この映画では、アパートの周辺の状態は一切映し出されない。二階建てのアパートがあり、そのちょうど真ん中に階段がある。アパートの前にはやや広めにスペースが空いている。このアパートには、アパートとその外とを繋ぐ通路がなく、まるで世界のなかに孤島のようにポツンと浮かんでいる。仲村の車も、松岡が引っ越してくるトラックも、森口の自転車も、全て画面の外(世界の外)からいきなりアパート前のスペースに入ってくる。アパートの外観は何度も映し出されるのだが、いつもフレームいっぱいに建物があって、例えばアパートの隣に何があるのか、アパートの向こうはどうなっているのかは、さっぱり分からない。(アパートからその反対側へと切り返すショットもない。)まるで芝居のセットのように、他から切り離された人工的な「アパート前の場」でしかない。(それは仲村のマンションにしても、森口の職場にしても基本的に変わらない。そられは「場」としてそれぞれ切り離されて存在し、その外へとつづき、他の場へと接続している通路や、場とは無関係にある風景が感じられない。)風景の不在は、実際に「風景」をバックにして芝居が行われるシーンにおいても顕著に現れる。森口と仲村が旅行に出かけ、湖の風景をバックに別れ話が切り出されるシーン。ここで「湖」は、まったく書き割りのようにしか扱われていない。そしてこの書き割りの湖をバックに行われる芝居は、人物が正面を向いたり真横を向いたりしながら、カメラに近づいたり離れたりするような芝居で、この映画の演出のなかでも最も図式的で硬直した演出となっている。このことは、この映画には自然な背景=風景などあり得ず、全ては舞台として設定された書き割りの抽象的な場(「抜け」のない息苦しい場)で進行する物語であることを示している。(そして唯一の例外が、このような場すべてに穴を穿つような「空」のイメージということになろう。)
●天気を見るために窓から差し出された森口瑶子の手ばかりが何度も反復され、最後の最後まで「空」を見せない、とか、森口と仲村トオルの関係が親密になって、仲村が部屋に入るようになるまでは森口の部屋の内部を見せないとか、いまどきその程度の計算された演出くらいでは誰も感心したりはしない。確かに丁寧な演出が施されてはいるし、それはさすがだと思いはするが、この映画で重要なのは、そのような「好感度」のポイントではなく、どちらかと言うと人から嫌われるようなつくり方をしている点にこそある。
●二人の男の間を「揺れ動く」女の感情が問題なのではない。まったく逆に、この女は異常じゃないかと思うほどに「揺れ」がない。まずこのことが、この映画の人物設定の不自然さを物語っている。この女はまったく揺らぐことはないし、変わることもない。この点はあらかじめ確定されているのだ。この女は終始一貫して頑なに「変わらない」でいる以外の何もしないとさえ言える。そのような状況に対応し、決断を下すのは実は二人の男の方である。しかし二人の男にしても、ただ状況に対応したり、決断を下したりするだけで、何かが変化するわけではない。徹底して不遜で人の話を聞かない仲村と、徹底してふらふらしてはっきりしない松岡と、徹底して自分を曲げずにひとつのことを主張しつづける森口。この映画では三人がひたすら擦れ違いつづける。別に人の話を聞かないのは仲村だけではないのだ。三人とも全く人の話に耳を傾けることなく、ひたすら自分の言葉を語りつづけるだけなのだ。考えてみれば、こんなに単純で薄っぺらな人物設定はあまりないと言えるくらいだ。つまり彼らは「人間」であると言うより、ひとつの抽象的な「形象」のようなものだと考えた方が良い。三つの決して重なり合うことのない形象が、ギシギシと軋む音をたてながら、自らの存在を主張し合う。この時、交わり重なることのない抗争は主に「言葉」によってなされる。(この言葉がまた、絶対に人はこういう風には喋らない、というような生硬で説明的とも言えるような「言葉」なのだ。特に森口瑶子のセリフなど、痛々しいくらいに生硬なのだった。ここでちょっと増村保造の映画に出てくる若尾文子を思い出す。)ここで言葉は、相手を理解したり、相手に理解されたりするには何の役にもたたないくせに、相手にダメージを与えることだけは出来る飛び道具として使用される。まるで鈴木清順の映画のピストルの弾のように、どこから飛んでくるのか分からないのに、確実にダメージは与えられる飛び道具なのだ。つまり、互いに相手を理解しようとしない人物同士が言葉によって斬りつけ合うような場面が続くということだ。(特に後半。)そのような場面の連続は、当然のことだが観ていて決して楽しいものではなく、むしろ不快感がじくじくと募ってくる感じだと言える。だが、ここで行われる言葉による「活劇」に、ある殺気をはらんだ緊張感が漲っていることは事実だろう。(ただ、最後まで主に「言葉」によって担われてきた緊張が、最後の最後で「空」のイメージによって決定的な転換を迎えることになるのだが、しかし、この「空」がそんなに決定的なイメージとして機能しているとは思えない。この程度の「空」では人は納得されないと思う。)

  「作品」を浴びること/正確に感じ、正確に入力すること
03/06/01(日)
●作品を観る、あるいは読むということは、まず、その作品から発せられる様々な「表情」や「感覚」を浴びるということだろう。意識に上がるものだけでなく、意識下のものも含め、作品とは多様な表情や感覚が詰め込まれ、組み立てられたものである。だからまず作品を浴び、そして作品を浴びた自分の身体から検出される様々な感覚的データをもとにして、その作品について考え、「作品」を自分の経験として再構成する。作品を浴びることで私の意識の上にあらわれる(つまり表象される)表情や感覚の総体は、多様で錯綜していて、必ずしもそのままで明確な形象をもっているわけではない。しかしその多様なものの錯綜の総体は、確実にある「質」をもったものとしてあらわれている。
●作品について何か言葉を使って書こうとする時にいつも苛立つのは、作品によって与えられた「質」の多様な複雑さに比べ、それを表現するための言葉の数の絶対的な足りなさであろう。ある作品の特徴を説明しようとして、いろいろ苦労してなんとか言葉を連ねてみると、それとは全く違った質をもつ別の作品について言える言葉とほとんど同じになってしまう、という経験は、作品について書こうとしたことのある人なら誰でももっているのではないか。作品から与えられた「質」を言葉にしようとすることは、その「質」から何かを差し引いたり、単純化したり、多少は間違っていても強引に他の何かに置き換えたりすることに、どうしてもなってしまう。だから、作品について言葉で語ることは、多少なりともその作品を暴力的に変形してしまうことでもある。
●では、作品とはただ「感じて」いればそれで良いのかというと、そういうわけにはいかない。だいたい「感じる」とは一体どういうことを言うのだろうか。それは外部から与えられたデータが入力されるということだけではなく、一旦入力されたデータが、認識を成立させるプロセスを経て何らかの感覚として「加工」されなければならない。よく、今、ここで感じる、ということを強調する人がいるが、だいたい、今、ここで私の身体にデータが入力されているという瞬間と、そのデータが加工されてある「感覚」として成立する瞬間とでは時間差があるはずなのだ。感覚が成立するのは、ある幅をもって入力されたデータが「ひとつの感覚」として統合されるからで、だから感覚は常に時間の幅を含んだものだ。(つまり「瞬間の感覚」などない。)例えば、あるメロディを聴くのに必要な物理的時間(データ入力に必要な時間)と、そのメロディによって与えられる時間の感覚とは、全く無関係ではないが、必ずしも一致しないばずだ。あるいは「はやい」とか「おそい」とかいう感覚は、物理的な0.01秒とか、3秒とかいう物理的な時間によってもたらされるわけではなく、複数の異なるリズムの差異によってもたらされる。そして、人間が記憶をもつ以上、一旦入力されたデータは、新たに入力された別のデータとの関係により、常に加工され直し、時間の経過とともに、その都度新たな感覚として組み立て直される。つまり「感じる」とは決して一瞬の出来事ではなく、常に進行し、変化し、組み立て直されるプロセスそのものであるだろう。感じるというプロセスが進行し、次々と新たな感覚が組み立て直される時に、当然ながら「言語」という情報処理システムの干渉を受けないはずはない。
●言語化するということは、感じるというプロセスのなかに組み込まれたひとつの情報処理の方法であり、不可避のプロセスでもある。それは有効に使える限りにおいて有効に使われるべきだが、だからと言ってそれが特権化されなければならないということはない。言語を特権化しないということは、「言語化できないもの」を特権化しないということでもある。言語化できないものとは、たんに言語という処理によっては上手く拾うことができないものであるに過ぎず、特別に貴重なものだったり神秘的なものだったりしない。むしろ言語化できないものなどいくらでもあり、ありふれていると言うべきだろう。確かに、言語という、情報を加工する為のシンボリックな操作によってしか思考し得ない事柄があるし、それを軽視すべきではないが、それと同時に別種の感覚や感覚の加工による思考も進行しているのを忘れるべきではないし、そのような複数の思考の同時進行は決して特別なことではなくて当然のことだということも忘れるべきではない。
●何が言いたいのかというと。まず、作品とは(言葉による作品も含め)多様な表情や感覚の複雑な構築物であって、その多様な感覚を(意識化出来ないレヴェルも含め)浴びることが、まず一義的には、作品を観る(読む)ことだ、ということ。そして、そこで浴びたもの全てについて意識化したり言語化したり出来るわけではないし、またその必要もない。しかし、その多様な感覚を含む全体は正確に入力されなければ、正確に「感じる」ことは出来ない、ということだ。評価や解釈の違いなど、正確に入力することの重要性に比べたら、とるに足らないことだ。
●昨日、万田邦敏の『UNloved』についていろいろごちゃごちゃと書いたけど、それらを一旦抜きにして、ただ画面を眺めていて目に付くのは、やたらと横顔(真横からの顔)のショットが多いなあということと、その横顔のショットで、やけに首筋が目立つということだろう。これはぼくの個人的な趣味によって首筋に視線がいったということではなく、あきらかに意識的にそのように撮っているのだ。(例えば森口瑶子の髪型はそのためのものだろう。)つまり、普通の注意力で『UNloved』を観ていれば、嫌でも横顔と首筋が目立つようになっているのだ。これは取るに足らない細部ではない。あるいは、以前確か蓮實重彦が書いていたと記憶しているのだが、小津の映画では女性の足の裏が頻繁に画面に映っている、ということがある。こういう見方は、例えば大澤真幸のような人に言わせればまさに蓮實=斜見ということになるのだろうが、それは違うと思う。小津の画面を普通に観ていれば、しゃがんだり正座したりしている女性の後ろ姿がやたらと画面におさめられているのに気づくだろう。(これは端的に小津の性的な視線を反映しているだろう。)そして、畳敷きの日本家屋でそのような仕草をする女性をローアングルで後ろから撮れば、そこには当然足の裏が写ることになる。普通、映画を観ていて人間の足の裏が頻繁に画面に現れることなどあまりないのだから、これは嫌でも目につくことになる。このような細部を重要なものとしてことさら言い立てるかどうかは別にして、普通の注意力で画面を見つめていれば、気づくべき細部ではあるはずなのだ。作品をつくる側は、このような点まで含めて作品を組み立て、全体の表情や感覚をコントロールしているはずで、だから作品を観る(読む)というのは、このような細部まで見ることであるはずなのだ。
●例えば、舞城王太郎という作家を、ぼくは面白いとは思うけど、どうしてもどこかで信用出来ないと感じてしまうのは、上記のような意味での細部の充実が感じられないからだ。その文章は、粗雑でスカスカなものに思えてしまうのだ。確かにその雑さが、『煙か土か食い物』のような小説ではある迫力のようなものになっていたと思うけど、『熊の場所』や『九十九十九』や『我が家のトトロ』ではスカスカで、弱点にしか感じられない。やはりぼくは、読むに足りうる作品というのは、細部がぎっしりと充実していなくてはと、どうしても考えてしまうのだ。なにもそれは、金井美恵子や中上健次みたいに、気合いを入れて読まなければ読めないくらいの濃密な細密描写がなければならないということではない。例えば保坂和志や大道珠貴の小説は、そのような意味での細密描写はほとんどなくて、普通にするすると読んでゆける程度の描写があるだけなのだが(大道珠貴は描写すらあまりない)、その文章からは、細部がきちんと充実しているという感触があるように思えるのだ。だから、細部(の表情や感覚)がギッシリと詰まっているというのは、たんに情報を圧縮して沢山詰め込めばよいということではない。
●今日の日記には、アレクセイ・ゲルマンの『道中の点検』については全く触れていないけど、この文章は、昨日、アテネ・フランセ文化センターで『道中の点検』を観ながら考えていたことをもとにして書いた。

  恩田陸『麦の海に沈む果実』という本を読んでみた
03/06/02(月)
●本屋で何となく気まぐれに手にとった恩田陸『麦の海に沈む果実』という本を読んでみた。ウェブにある小説の書評で最も充実しているのはおそらくミステリ系のもので、ミステリを多く読んでいる人の書くものが、ミステリというジャンル以外の小説について書かれたものでも面白いものが多い。基本的にぼくはミステリをほとんど読まないのだけど、そのようなページをうろついているうちに、多少は読むようになった。恩田陸という名前も、そのような場所でしばしば目にしてはいたが、読んだのは初めて。
●雰囲気だけと言えば雰囲気だけの薄味の話で、最後までだらだらと読み流してゆくしかないような小説。でも決して嫌いではなく、こういう、「お話」をぼんやりと読んでいることの愉しさを味わったのは久しぶりだ。金井美恵子の『アカシア騎士団』から「知的ぶった」ところをごっそり差し引いたような感じ。子供の頃から聞かされたり読んだりしてきた、いろいろな「お話」を思い出す。決して「切って血の出る」ような物語ではなく、愛玩物として微温的に語られる「お話」の愉しさの上澄みを上手にすくい取ってパッチワークしたような小説。(基本的には、竹宮景子とか萩尾望都の世界だけど、もっと様々な物語的な細部が豊かに組み合わされている。あと、『少女革命ウテナ』とかも思い出した。)これは決して恩田陸という作家の代表作とか言うものではないのだろうけと、ああ、この人こういう作家なのか、という感じはつかめた。
●でも、技術的にと言うか、形式的に明らかな欠陥があって、それが気になってしまう。一応三人称で書かれてはいるが、きわめて主人公に近い視点で記述されていて(主人公以外の人物の「内面」は一切描写されないし)、読む側としてはほぼ一人称に近い感覚で読み進むことになる(「序章」の書き出しの部分が「私」によって語り出されることから、話者は過去の自分を振り返る現在の主人公であるという強い印象を持つ)にも関わらず、作中にワンシーンだけ、主人公が不在のシーンが何の手続きも無しに挿入されてしまうのだ。物語上、このシーンが必要なのは分かるが、これは明白な構成上の破綻で、読んでいて、えっ、と思ってしまう。それと、もっと決定的なのは(これ以降ネタバレ)、主人公が、子供の頃「女の子らしさ」を周囲から期待されることが苦痛だったという内省が何度か記述され、それが主人公のキャラクター造形上で決定的なエピソードなのにも関わらず、物語上の重要な仕掛けとして、主人公の過去の記憶と現在との間に「断絶」があるという事実が重要なトリックとして仕掛けられている点だろう。主人公は作中で何度も昔のことを思い出して、「女の子」として扱われることの違和感を「内省」において表明しているにも関わらず、現在と過去の記憶に断絶があることは、最後の最後まで明らかにされない(内省されない)。これは、記述の仕方として(読者に情報を示すやり口として)あきらかにフェアではなくて、これが許されるならば作家は苦労してプロットを組み立てる必要などなくなって、後から適当にどんな辻褄でも合わせられることになってしまう。これはミステリとしてまずいということだけではなく、小説の形式的な問題としてまずいのだと思う。

  大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』
03/06/05(木)
●「重力02」に載っていた大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』。ぼくは「重力02」の編集後記に書かれていた大澤氏の次のような発言に根本的な違和感を感じる。「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい。」この言葉は、鎌田哲哉による68年的なものへの批判、(めでたい詩人やバカ学生について)「彼らを冷凍して粉々に砕いたら、世界はどんなに浄化されるだろう」という言葉と直接繋がるような感覚で、とうてい受け入れることの出来ないものだ。そういう「気持ち」になることは誰だってあるだろうが、しかしこの世界では決してそのようなこと(無くてもよいもの全てが無に帰すること)などありえない。この世界は決して「馬鹿どももその一部としてある」(ドゥルーズ)世界であることをやめないだろう。世界は決して「浄化」などされない。しかし、そんなことは百も承知なのにも関わらず、それでも「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい」という感情がわき上がってくることも不可避ではあるだろう。この感情を、たんに観念的な倒錯と言って済ますわけにはいかないことも確かだ。世界は常に「馬鹿どももその一部としてある」世界でありつづけるというのは、それだけではいくら正しい認識であっても、たんに認識でしかなく、人はすぐさまそこから安易なニヒリズムへと堕落するだろう。『コンプレックス・パーソンズ』が描いているのは、まさに「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい」という志をもった主体が、ニヒリズムの腐臭のなかで、あきらめの薄ら笑いとともに生きる主体へといつの間にか変化してしまうという出来事が、何度も(世代を越えて)「反復」してしまうというその事実であり、その事実の反復を支える「構造」の姿、そしてその構造に抵抗する手段としての「書くこと」の意味なのだ、ということになるだろう。
●『コンプレックス・パーソンズ』は、決して好きな小説ではないが、大変な力作であることは疑えない。この小説では、抽象化された舞台設定の上で、ある徹底した思考が練り上げられていると言えよう。しかし勿論、これは小説であるのだから、たんに思考が図示されているというわけではない。思考の複雑さや強度は、なによりも小説の形態や形式の上にあらわれている。
●『コンプレックス・パーソンズ』は、三つの異なる「わたし」によって書かれたものがつなぎ合わされて出来ていると、とりあえず言える。冒頭、一人称で書くことの違和感について語る「わたし」は、この三つのわたしの全てに共通する抽象化された非人称的な「わたし」であろう。つづいて現れる最初の「わたし」は、わたしという以外に名前をもたない者で、世界に対する初々しさを失っていない「新参者」である。その「わたし」は、自分のすぐ上の世代であり、好きな女の恋人でもある「あの男」に対して闘いを挑もうとしている。あの男=新館は、「わたし」からみるとたんなる自己欺瞞にすぎないことを「認識」だと言って誤魔化しているような我慢ならない先行世代であるとともに、「わたし」と性質において似ていることを好きな女=由記子から指摘されてもいるような存在だ。つまり似ているからこそ我慢が成らず、しかも新参者として好きな女を奪うためにはどうしても「違い」を示さなくてはならない存在のなだ。つづいて現れる二番目の「わたし」は、「あの男」新館その人である。ここで示されるのは、この新館こそが、実は最初の「わたし」であったということだ。つまり新館もかつては先行世代である「あの男」と女=由記子をかけて戦い、「あの男」から由記子を奪ったのだった。しかし新館は今では、自分が批判した「あの男」と同じ位置にいる。この小説の舞台は森林を管理する事務所であり、ここでの森林とはつまり日本的な「自然」ということになろう。つまり「わたし」と「あの男」とは、真に「わたし=主体」であり得ず、だから他者でもなく、たんに日本的な構造の一項を演じさせられているに過ぎない。(共に「日本的な自然」に違和感を感じていながらも、その一部と化している。)ここで「わたし」と「あの男」との対立は、構造としての他者である「女」をめぐる典型的な三角関係に還元される。(由記子には「好み」はあっても「意志」がない、と語られる。ここで「女」はそのような存在であることによって超越的なのだ。)つまり、新参者が先行世代のニヒリズムに対して行う戦いのはずが、いつの間にか「女」という「報酬」を巡る戦い、どちらが制度としての既得権を得ることが出来るかという戦いにすり替えられてしまい、そこでの新参者の勝利は、制度=構造に対する敗北でしかなくなってしまう。つまりここまでで示されるのは、世界に対する初々しい「志」が、構造によって敗北してしまうことの果てしない「反復」である。新参者との戦いに敗れた先行世代は「自殺」するのだが、ここではその自殺すらもあらかじめ描かれていたものの反復でしかない。(だが、ここまでだったら夏目漱石でも充分ではないか。)そして、三つめの「わたし」は由記子である。ここで今までの構造に亀裂が入る。新参者との戦いに敗れたと言うよりも、構造によって予め決定されていたように自ら崩れ落ちてしまった新館は、「恋愛」という制度よりも強い「結婚」という制度に持ち込むことで由記子を自分のもとに置いておこう(つまり既得権を守ろう)と考え、由記子との性行の時、無理矢理子供をつくってしまおうとする。その「暴力」に気づいた瞬間から「わたし」は三つめの由記子へと転換する。ここでまた時間の軸がズレ、あの男=新館ではなく、新参者=新館になり、時間が遡る。つまりこの小説では、どのような出来事に既に過去にあったことの反復でしかなく、出来事や個人の固有性は、構造による反復によって残酷にもかき消されてしまう。由記子=わたしは、男の暴力を問いつめるが、男はそれをのらくらとかわすだけだ。わたしと男との関係はずっとこのようなのらりくらりとしたものだったし、わたしはそれが楽でそれによって救われもした、しかし、今、このような暴力が行われようとした以上、この関係をそのままつづけることは出来ないし、この追求を引くわけにはいかない、と由記子は考える。男同士の、新参者と先行世代との戦いにおいては、制度を可能にする超越的な存在(意志のない存在)として現れていた由記子も、由記子からみれば、男との関係は制度が保証するものとしてあった。男との関係が制度によって保証されたものであるならば、そこに「対話」は必要がない(意志を示す必要がない)。しかし、既得権を守ろうとするあまり強引な暴力に男が打って出たことによって制度が揺らいだ時、意志のない存在であるはずだった由記子は、意志を露わにする必要に迫られた。ここで一歩も引かずに追求するわたし=由記子によって、この小説で初めて「わたし」と「男」との「対話」の契機が生まれる。これ以降の「対話」のシーンがこの小説の核と言えるだろう。男はギリギリのところで言葉を発し、「わたし」はそれを受け止め、自殺する男を最後まで見届ける。ここで、男が自己破綻から自殺へ至るという道行きは陳腐な物語の反復(構造)でしかなく、二人の対話はそのような結果を変える力を持たなかったわけだが、男の最後に発せられたギリギリの言葉は、それでもわたし=由記子を動かすものがあり、わたしは、男が残した支離滅裂で解読不能な言葉たちからなる遺書を読み解き、解釈して、読みうる文章へとかき直すことを決意するに至る。「彼はもうこの世界にいない。彼に対しては手遅れになってしまった。でも、彼が抵抗しようとしていたものに対してなら、まだ手遅れではないかもしれない。」(つまりこの敗北が「記憶」されなければ、永遠に反復されてしまう。)それがいま書いている「この文章なのだ」、と。
●だからこの小説は、三つの異なる「わたし」によって書かれたとは正確には言えない。結局は三つめの「わたし」である由記子によって書かれた(統合された)ものなのだ。しかし単純にそうとは言い切れないのは、男の遺書を書き直すことを巡る最後の部分の口調から、この文章全体が、最初に示された 一つめの「わたし」に向けられて書かれているという風にも読めるからだ。それだけではなく、記述の構造ではなく「内容」的な面からみれば、一つ目と二つ目の「わたし」が、同一の構造の反復でしかないような存在なのに対し、三つめの「わたし」は明らかに前の二者とは異なる「女」であるとも言える。このような複雑な「わたし」のあり方が示すのは、この小説における「わたし」が、どのような「わたし」も固有の者たり得ず、構造によって飲み込まれた一項であるに過ぎないような「わたし」であることを強いられているからで、「わたし」と名のった時点で、どの「わたし」も「どれ」でもあり得るような「わたし」でしかなくなってしまうからだ。(みんなわたし)冒頭の部分に示された、一人称で語ることの違和感とは、このことを指しているのだ。しかしこの小説で示されているのは、そのような「わたし」の錯乱による空洞化ではなく、固定化された視点が失われた錯乱した「わたし」においてもなお存在する(記述するという行為そのものを支える)、「わたし」と語るしかないような「生きた欲望の感触」であり、それはこの小説では、ある無様で滑稽な切迫感として、その文体に具体的に現れているように思う。
03/06/06(金)
(昨日からのつづき)
●昨日の日記では、『コンプレックス・パーソンズ』を三つの異なる「わたし」に応じて三つに分けた。しかしそれは小説全体の概要を示すための大雑把なもので、もうすこし詳しく(形式的に)みれば、それぞれの「わたし」はさらに、二つ、あるいは三つの記述の次元の異なる部分に分けられる。小説全体は、だから、冒頭/わたし(1)/わたし(2)/新館(1)/新館(2)/新館(3)/由記子(1)/由記子(2)という八つのパートからなる。一人称で語る違和感について述べられた「冒頭」につづく「わたし(1)」では、「わたし」が(夜中から朝方にかけて)ノートに書き付けている「言葉」から成り立っている。つまりノートの言葉が(とりあえずは)そのまま示されているという形だ。つづく「わたし(2)」になると、「わたし」はノートを書くのを中断して朝のトレーニングに出かける。ここではトレーニングに出かける「わたし」と、その道すがらの「わたし」の回想を、普通の一人称の小説のように、現在進行しつつあることのように記述されている。そしてそのまま、トレーニングの帰りに偶然「あの男」と出会い、対決することになる。対決の後、視点は「あの男」である新館へと移動する。(「新館(1)」)ここではまだ、小説は冒頭から、時間的に自然な流れになっていて、視点だけが移動したように読める。しかしそのまま読みつづけると、自然な一人称の小説の流れが途切れ、「以上が、三年前わたしに起こった出来事だった。」という文が挿入される。(ここから「新館(2)」になる。)ここで読者は混乱する。今まで語られていたことが三年前の出来事で、しかも語り手が「新館」だとすると、「あの男=新館」ではなくて「わたし=新参者=新館」ということになってしまう。しかしその直前の「新館(1)」では、「新館=あの男」であることは間違いない。ここで読者ははじめて、冒頭から自然な順序によって流れてきたようにみえた話は、反復された出来事の断片が、あたかも連続しているかのように並べられていたものだと気づく。つまり「わたし(1)(2)」の「わたし」は、現在、新館と対立している新参者であると同時に、三年前の新館自身でもあるのだ。(現在の新参者は三年前の新館の反復であり、新館は三年前の「あの男」の反復である。)「新館(2)」は、アパートの部屋で新館によって書かれたノートの言葉をそのまま示しているように思われる。と同時に、現在進行しつつある出来事として一人称の小説のように記述されてきた「わたし(2)」「新館(1)」の部分も、既に書かれたノートの一部であり、「新館(2)」の話者(と言うか記述者)である新館は、既に書かれたノート(冒頭から「新館(1)」まで)を読み返しながら今後の作戦を練っていることになる。つづいて、「新館(3)」は、また普通の一人称の小説のような記述となり、新館の現在と回想が語られる。新館は由記子との過去を回想し、由記子に会いにでかける。そして由記子との性交の最中に、このまま子供をつくってしまうば「結婚」にもちこめ、新参者に由記子を取られなくて済むと考える。射精の瞬間にすんでのことろで由記子は身をかわす。そこから、視点は由記子のものとなる。(「由記子(1)」、これも普通の一人称の小説のように描かれる。)しかしまたここで時間の断絶があらわれる。「由記子(1)」で由記子と対しているのは、新館ではなく以前につき合っていて「自殺」したと作中で語られている男、つまり三年前の「あの男」なのだった。場面はいきなり三年前になったわけだ。しかし、物語は自然に連続している。時間が移動し、人物が入れ替わっても、物語が自然に連続するということは、人物の固有性は消去され、ここでは「構造」だけが勝利する。(常に植え替えられて存続する森林のように。)「由記子(1)」では、「あの男」によるギリギリの地点からの「対話」の試みとその失敗が由記子の側から描かれ、その失敗から男が死を選び、その自殺を由記子が最後まで見届ける。「由記子(2)」ではまた時間は現在へ戻る。「由記子(2)」は由記子がノートに書き付ける言葉がそのまま示される。一通りのことの顛末を記述し終えた(つまり、冒頭から「由起子(1)」までの全てが実は由記子によって書かれたノートだったのだ)由記子が、「この文章はあなたに読んでもらうために書いた」と書く、「あなた」に向かって直接語りかけるように書く部分である。この「あなた」とは一体誰なのか。「あの男」の自殺が三年前の出来事だと書いていることから、これが現在(つまり「あの男=新館」となった時点)であることが分かる。たとしたら、これは新館と対立する「新参者=わたし」、「冒頭」にづづく「わたし(1)(2)」の「わたし」であるということになる。(しかしだとしたら、「わたし(1)(2)」の部分をノートに「書いた」のは由記子ではないことになってしまう。)そしてさらに、由記子が「由記子(2)」を書いている「現在」、隣からの騒音で眠れないと書く由記子の存在する時間は、「新館(3)」で新館と由記子が会う前の時間ということになろう。(しかし、だとしたら「新館(3)」は誰が書いたのか?)つまり、現在「あの男」となってしまった新館が、由記子との「対話」を成立させ、新たな関係をつくり直すことが出来るのか、それとも、再び反復する「構造」に敗北し、三年前の「あの男」同様、自殺するしかないのか、という謎は開かれたままで終わることになる。それがこの小説の唯一の「希望」である。
●ここまで書いてきて、昨日の日記の最後の部分のぼくの解釈が間違っていた(正確ではなかった)ことが分かった。そのくらい、この小説の「わたし」と「時制」とのあり方は入り組んでいる。このような錯綜は、たんに「内容」としての「構造の反復」を効果的に示すためだけのものではないと思う。たんに、構造の反復としての「わたし」をいかに超えるのかという「内容」だけを示すのなら、ここまでの複雑な錯綜は必要ないだろう。そうではなくて、このような錯綜によってしか捉えられないような「わたし」の形態こそが描かれようとしているのだろう。このような複雑に錯綜した形態によってしか「生きた欲望の感触」は捉えられない、と。この小説は、一人称で語ることへの違和感を表明することによって語り出される。しかしそれは、三人称による語りが安定したパースペクティブを保証してしまうことへの違和感でもあるのだ。三人称への抵抗として、ある違和感とともに錯綜した一人称が選択されている。
03/06/07(土)
(一昨日からの、微妙なつづき)
●「関口芸術基金賞」というのを観るために柏まで行く長い電車の道すがら、「重力02」の『有島武郎のグリンプスC』(鎌田哲哉)を読んでいて思ったのは、『コンプレックス・パーソンズ』という小説が「重力」という雑誌に掲載されてしまうことの微妙さと言うか、危うさのようなもののことだ。『コンプレックス・パーソンズ』における主題の一つである「繰り返されるもの」というのが、最近の鎌田氏の問題設定と共鳴しているものだということは、誰でもが一読して感じることだろう。加えて、この『有島武郎のグリンプスC』で扱われている有島氏の「自殺」という問題が、『コンプレックス・パーソンズ』の「あの男」の自殺と重なってみえてしまう時、その「共鳴」がさらに際だってみえてしまう。(さらに、「有島武郎を読む鎌田哲哉」の姿と「あの男の手記を読む由記子」の姿とが妙に重なってみえる。)ひとつの雑誌という狭い空間のなかで、申し合わせたわけでもないのにここまで「共鳴」が感じられてしまう時、そこにはどうしてもある「狭さ」の印象が浮かび上がってしまう。勿論、『コンプレックス・パーソンズ』も『有島武郎のグリンプスC』も、そんなこととは無関係に独立した作品として読むに足りる「実質」をもったものだとは思う。だが「多事争論」の場であることが目指された雑誌のなかで、ふと「共鳴」を超えた「同調」に近いような表情がみえてしまうという時に、(それが意図されたものでないとしたら尚更)そこにある「危うさ」を感じることは自然なことで、たんなる言いがかりではないと思う。
03/06/08(日)
(もうちょっと『コンプレックス・パーソンズ』をひっぱる。)
●『コンプレックス・パーソンズ』において、「わたし」と「由記子」との恋愛感情の「熱さ」が、「あの男」を含めた三角関係という「構造」に起因するということは、「わたし」にも「由記子」にも、明確に意識されている。だから、自殺によって「あの男」が消失してしまった後、二人の関係が「冷めた」ものとなっていることも自覚されている。そしてその「冷めた」関係を維持しているものが恋愛という「制度」であることもまた、明確に自覚される。しかし、「制度は楽し」いものであり、その楽しさは「制度を頑なに拒否していたそれまでのわたしを、いっぺんに笑いとばして」しまうような強いものだった。ここでそのような「楽しい」関係を「楽しいもの」として持続させているものは、二人の関係が制度にしか過ぎないということの自覚(「ステレオタイプの自覚」)を、シニカルな「笑い」ではぐらかすという高度なパフォーマンスによっている。(この小説のこのような部分の具体的な描写は、とても弱いと思うけど。)このような関係において、「言葉」がそのままの意味で相手に届くことはあり得ない。どのような言葉、どのような行動(つまりどのようなメッセージ)にも、必ずそこに「あえて」ステレオタイプを演じているのだというメタ・メッセージが貼り付いてしまっているからだ。これは「あえて〜を演じているのだ」という自意識によってではなく、二人の関係が構造上そもそもそういうものとしてしかあり得ないという形で成り立っているから(二人の関係における意味の解読のコードがそのようになっているから)であり、だから、「自分はこれから素直に喋り、素直に行動するのだ」と決意したからといって、簡単にそうなるものではない。例えば、「由記子(1)」の部分の記述で、男が何を言おうと、由記子にはそれらが全て「嘘」にしか聞こえない。それは本質的なものとしての「本当の私」が、「演じられた私」によって覆い隠されているということではなく、どのような「私」であろうと、それらが全て「演じられた私」としてしか現れないような関係性の構造によるのだ。これは男の側でも同じで、男は何度も、このような関係を突破し、別種の言葉を由記子へ投げかけようと「決意」するのだが(「もう論理も理由も目的もどうだっていい(略)これからはただ真剣さだけを心掛けよう」「何かを伝えるための文章ではなく、それ自体が、由記子と直接的な関係をもつようなそんな文章が書きたい」)、実際に由記子を前にすると、いいかげんな言い逃れの言葉しか出てこない。これは男の決意が足りないからではなく、あくまで構造の強さによるものだ。素直になろうと「決意」するくらいで素直になれるなら、人は誰も苦労したりしない。(と言うか、素直になろうと「決意」してしまう人は、だいたいが最悪の醜さに陥ってしまう。)『コンプレックス・パーソンズ』が問題にしているのは、「自覚」や「自意識」によってはどうにもならない、構造の強力さこそを顕在化することであり、その上で、そのような構造を突破し、関係のあり方を動かしてゆくような「生きた欲望の感触」を浮上させるとしたら、どのような可能性があり得るのか、という事である。だからここで追求されているのは、「本当の私」を覆い隠している「演じられた私」を払いのけるというような「素直さ」とは全く異なるもの、ある関係のなかで発せられた私のギリギリの言葉が、「あえて」としてではなく、愚直に切実さをもったものとして相手に響いた時に初めて、つまり関係が新たなものとして作り直される契機があらわれた時に初めて、新たなものとしての「本当の私」が生まれ直すのだということだろう。そしてそれを促すのは、「決意」などという自意識(自己陶酔)ではなく、具体的な現実として強いられる、ある切迫した状況なのだ、と。だから「本当の私」と「演じられた私」があるのではなく、構造に亀裂を生じさせ、硬直した関係に変化の契機を生み出すような「切実」なものとして他者に「言葉」(メッセージ)が響いた時に、そこに確かに「切実な私」が生きた欲望の感触をもって生きられたのだと「事後的」に言うことが出来るのだ、ということになる。『コンプレックス・パーソンズ』が、普通に記述された一人称の小説のように、現在進行しつつあることがらを描いている部分と、既に記されたものとしてのノートの言葉の部分とが、複雑に入り組んだ形で書かれているのは、この「事後性」に関わっていると思われる。一人称の記述では「決意」や「自意識」を捉えることが出来ても、構造や事後性が表現しずらいのだが、しかし、既に記述されたノートを「読む」という形式だけでは、「事前」であることが強いる、「緊張」や「飛躍」のようなものが描きこめない、ということだろう。
●『コンプレックス・パーソンズ』が非常に考え抜かれ、緊密に組織された高度な小説であることは認める。しかし、ぼくにはどうしても、硬直した、狭いものと感じられてしまう。例えば、次のような部分を、ぼくは簡単には受け入れられない。
「遊園地や海水浴に行き、お互いの誕生日にはプレゼントを交換し合い、クリスマスにはデコレーションケーキを囲んでフライドチキンを食べた。映画館や個展を巡り、買い物に出掛け、ファミリーレストランや、情報誌で調べた店で食事をした。ゲームセンターで遊んだ。カラオケボックスで歌った。旅行に行った。自転車で浜辺を散策した。テレビやビデオをBGMのように流した。森をはじめ様々な場所で性交した。それらすべてが制度だった。」
だがむしろ、ぼくにはこのような日常的な「制度」の反復のなかにこそ、硬直した関係を変化させる可能性のある契機、構造の綻びが無数に存在しているのだと思う。と言うか、このような「制度」の内部を繊細に生きることによってしか、関係の変質などあり得ないのではないか。(と言うか、そうでなければ人の一生など本当に下らないということにしかならないのではないか。)勿論、これらの日常的で微温的な「制度」を全て根底から揺るがしてしまうような激震のような出来事が、人の一生には何度か不可避的に訪れるだろう。そのような時、人は嫌でも根本的な問題に直面せざるを得ない。そういう時にどのように行動するかで、その人物の「実質」のようなものが試されるというもの事実だろう。だが、そのようなギリギリの状況によってしか関係の変質があり得ないかのような描き方には、ぼくは同意できない。例えば、小説として素晴らしい出来映えとは決して言えないが、舞城王太郎の『我が家のトトロ』で描かれている、「〜のふりをする」ことを複雑に繊細に積み上げるようなこと(つまり段取りを最大の配慮をもって尊重すること)によってこそ、むしろ関係の絶え間ない更新が可能になるよう思えるのだ。

  ギャラリー21+葉の北川聡・展/フレームの厳密性
03/06/10(火)
●昨日のことだけど、画廊を何軒かまわった。銀座のギャラリー21+葉で今やっている北川聡はぼくの美大受験生時代の先生の一人で、だからもう15年以上は作品を観ている。作品の発表は3、4年ぶりくらいだけど、基本的な方向性は以前と全く変わっていない。大画面の色彩がしずかに振動しながら周囲の空間へ拡がり、空間全体と呼吸するような、まあ簡単に言ってしまえばオーソドックスな抽象表現主義的な作品で、最近めっきりとこういう作品を見かけなくなってしまっているということもあって、とても新鮮で面白かった。ただ、少し気になったのは絵具の物質感に対する感度が以前よりやや甘くなったのではないかということで、視覚的な次元で纏めることを気にしすぎるあまり、絵具がやや重たい感じになってしまっているように思う。これは恐らく、作品の発表が久しぶりだということに関係があるのだろう。前にも書いたけど、つくる作品の絶対数の少なさというのは、センスや技術では誤魔化し切れない微妙なところに影響が出る。例えばスポーツ選手などでも、バットを振る時のからだのキレみたいなものは、走り込んだり、バットを振り込んだりしてつくるしかないもので、センスや技術だけでそれを補うことは出来ないだろう。そしてその僅かなキレの差が、フェンスまであと何センチみたいな、微妙な飛距離の差になるのだ。(ただ、その「微妙」で、かつ「絶対的」な「違い」を人がどこまで観てくれるかは、また別の問題ではあるけど。例えば、ぼくが観ている時に画廊にいた、まあまあ名の知られた批評家は、作品について全くとんちんかんな事を言っていて、苦笑するしかなかった。作品に対する評価というのは当然いろいろあって良いだろうけど、オーソドックスな作品がオーソドックスであるということくらい分からないっていうのは、美術批評家を名乗る人としてどうなのだろうか。)
●北川氏の作品は、描いている時は、大きな画布をそのまま床に敷いて、フレームを決定していない状態で(寝かせたまま)制作してゆき、ある程度出来上がってから、無限定な拡がりを切り取るようにフレームを決定しているのだと推測する。(ちなみにこのような描き方は、ポロック、フランケンサーラー、モーリス・ルイスなどもやっていて、抽象表現主義としてはオーソドックスな方法だ。ただ、モーリス・ルイス以外は、フレームをきちんとは決めてなくても、だいたいこのくらいの「拡がり」というイメージはあきらかに予め決められているので、北川氏とは少し違うと思うけど。)これはずっと前から感じていたことだけど、北川氏の作品のフレームの切り取り方が、ぼくにはやや「乱暴」なように思えてしまう。北川氏としては、ほんらい確定的なフレームなどない「拡がり」として作品があり、それを作品として見せるために暫定的なフレームが要請されるという感じで、フレームは決して決定的なものではない、ということなのだろう。しかし、そのような方向性とは逆に、ややぶっきらぼうに切り取られたフレームは、その「乱暴」な感じによって、かえってフレームを強く際だたせ、強調してしまっているようにぼくには見える。そのために、周囲に向かって無限定に拡がってゆく色彩が、たまたまある限界で途切れたという感じではなく、フレーム内部でなされた繊細な色彩の表情が、フレームを切り取るという暴力的な行為によって少し萎縮してしまっているように感じられる。例えばモーリス・ルイスだったら、描かれた図柄や色彩と、フレームの大きさや形との関係を、もっと繊細に、かつ厳しく吟味していると思うのだ。

  DVDでスピルバーグの『マイノリティー・リポート』
03/06/11(水)
●DVDでスピルバーグの『マイノリティー・リポート』。黒沢清の『CURE』で役所公司が演じる事件を追う刑事は、「本当の事など誰にも分からないが、自分たちの仕事は事件に筋道をつけて、人が納得するような物語をつくることだ」という意味のことを言う。つまり物語とは事実(=現実)を追求し語るものではなく、それを語り、聞く者の「納得(=安心)」のためにこそあることに、この刑事は自覚的である。『マイノリティー・リポート』のはじめの部分で、プリゴグの示す、時間の順序もバラバラな混沌としたヴィジョンを、透明なスクリーンの前でまるで未編集のフィルムを編集するかのような仕草をしながら読みとり、秩序づけるトム・クルーズの姿を見た観客は、この男が役所の演じる刑事のような、物語を語ることについて自覚的な男であり、この映画もそのような主題のもとに展開するのだろうと予想する。(透明なスクリーンの前で映像を操作するトム・クルーズは、コンピューターの画面の上で編集を行う映画作家の姿とそっくりだ。)加えて、プリゴグによって予言される未来の犯罪を巡るこの物語は、当然のように「予告された未来(運命)」と「自由意志」とをめぐる対立というような主題も含まれると予想するだろう。しかしスピルバーグはそのような期待をあっさりと裏切ってみせる。トム・クルーズ自身が(未来)殺人の容疑をかけられた時点から、この映画はあくまでも単純な「追いかけっこ」に終始する展開となる。物語のテーマや背景、人物の造形などほとんどどうでもよく、ただ、トムとジェリーのような追いかけっこがはじまるのだ。(予告された運命を避けようとする者の葛藤など、微塵も描写されない。)
●スピルバーグの映画ではもともと、滑らかな進行こそが何よりも最優先される。テーマや物語を成立させるための構図はもちろんのこと、人を面白がらせることにすら、あまり感心がないのではないかとさえ思えるくらいだ。これは『ロスト・イン・アメリカ』などで黒沢清も言っていることだが、スビルバーグの関心は、一本の映画のなかにいくつものアイディアを詰め込み、そのアイディア同士を滑らかに繋いで行くこと(あるいはその「なめらかさ」そのもの)にしかないのではないだろうかとさえ思える。このことは、華々しくキャリアをスタートさせたスビルバーグの最初の失敗作である『1941』や、あるいは『レイダース』シリーズや『太陽の帝国』などを観れば分かりやすい。初期の作品が、あたかも「面白い物語」を語っているようにみえたのは、それがトラックとか鮫とかUFOとかの、はっきりした「敵」の存在によって(個々のバラバラなアイディアが)統合されていたからではないか。しかし、そのような大きな敵がいなくなると、『1941』になってしまうのだ。以上のような点を考えると、『マイノリティー・リポート』の滑らかな(だけの)展開は、映画作家としてのスビルバーグのひとつの達成とさえ言えるのではないか。
●スビルバーグの映画を構成する個々のアイディアは、決して飛び抜けて面白いものではない。まあ、そこそこと言えるアイディアの連なりなのだ。例えばCG技術で見せる未来都市の風景やアクションにしても、『マトリックス』のような新しさ(いかにも「新しい」っぽく見えるようなもの)を追求しようとはしていない。勿論、お金も技術力もあるのでそこそこさすがだと思えるものは見せてくれるのだけど、それらは全て「そこそこ」のものであり、それ自体の「技術力の凄さ」や「新しさ」だけで人を圧倒させるようなものではなく、むしろ過去の映画史から適当に利用できるものを探しだして、それを今っぽく加工しているに過ぎない。流れのなめらかさを何よりも最優先とするスビルバーグにとって、圧倒的に面白い細部は、むしろ邪魔なものなのだ。例えば『レイダース』のシリーズに詰め込まれたアイディアの一つ一つは、それだけ取り出してみれば面白くもなんともないのだが、それらがあまりに滑らかに繋げられているので、観客はそれが面白いものであるかのごとく錯覚してしまうのだ。『マイノリティー・リポート』においても、ノアール的な雰囲気を出すためのスラム街の描写や、トム・クルーズのダーティーな側面の描写、ライバルとの対立の構図などは、明らかに弱すぎるし、終盤のヒューマンな挿話など取って付けたように薄っぺらだが、スビルバーグは、細部の魅力的な描写によって滑らかな展開が淀み、滞ってしまうくらいなら、薄っぺらな方を断固として選択するのだ。この映画でのトム・クルーズの人物像は、まるでクレイ・アニメーションの次々と姿形を変える粘土の塊のようなものであり、ただ映画のスムースな進行にあわせてその都度形態を変化させながら、常に画面の中心に存在しつづけさえすればよいのだ。『マイノリティー・リポート』はそのような意味では過激なほどに徹底しており、映画作家としてのスビルバーグの特徴である「スビルバーグ的ななめらかさ」のひとつの達成である、というのはこのような意味においてだ。
●『A.I』や『フック』、『太陽の帝国』のような「歪んで」いることによって魅力的であるような作品でも、その「歪み」は特定の細部のふいの突出や、肥大化によるものではなく、ドラマ全体のバランスに対する、スビルバーグの不思議な無頓着さからきているように思う。スビルバーグにとって、人を納得させるような物語や人物の厚みなど問題ではない。(それを否定しているのではなく、たんに興味がないのだ。)いくらなんでも『フック』のような物語は人を納得させないだろうとか、ロビン・ウィリアムスがピーターパンってことはないだろうとか、そういう配慮ははじめからないのだ。スビルバーグがピーターパンに少なからず思い入れがあることは事実なのだろうが、『フック』のような映画が出来てしまうのは、過剰な思い入れを無理矢理押し通した結果というよりも、スビルバーグにとってはこれが普通で、これで充分いけると思ってのことだったと思う。あまりにも強い思い入れが何かを歪ませるのではなく、ある種の無頓着さが「すんなりと」出てしまったということではないか。『A.I』のような異様なフィルムも、スビルバーグにとってはごく普通にエンターテイメントしているだけだということになるのだろう。この異様さは、徹底した「野心」のなさ、面白さではなくなめらかさを優先させることの結果として出てきたものなのではないだろうか。映画作家スビルバーグの恐ろしさはこの部分にこそあるのだろうと思う。

  樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/うつくしい幻想と科学
03/06/16(月)
●樫村晴香による驚くほど鋭敏な『ドゥルーズのどこが間違っているか?』(「現代思想」96年1月)は、ドゥルーズの批判であると同時に良質の解説でもある。そこで樫村氏がいっているのはつまり、ドゥルーズの間違いは決して接続することの出来ない異質なもの(ニーチェとハイデガー)を接続させてしまっている点にある、ということだ。ニーチェの思想とは、それ自体が他と置き換えることの出来ない固有な病としてあり、だからニーチェが「プラトンの憂鬱さ」と書くとき、それはプラトンがそのまま「憂鬱さ」を意味するということであって、その言葉が何かの隠喩だということはない。対してハイデガーの思想は世界像(幻想)としての哲学であり、それは隠喩の体系である。ここで言う隠喩とは、ある出来事をいったん抑圧した上で、表象として回帰させ、表象をコントロールすることで、その出来事を主体的に制御可能のものとする、ということだ。例えば「死」という絶対的な現実を抑圧し、それを比喩(例えば「おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」リルケ)として再び表象の体系へと回帰させることで、死に対する不安を、ある種の悦楽へと変換させるというような。つまり、ニーチェにあるのは生きられた苦痛としての「病」であるのに対し、ハイデガーにあるのは他者へと捧げられた苦痛としての「隠喩」である、と。だから、ニーチェ的な「差異」とは、徹底して主体の「外」にあって主体を蹂躙するものであって、主体にとっては全く理不尽でナンセンスな、そして圧倒的な力として存在する。対してハイデガー的な「差異」とは、(主体の)表象の内部を吹き荒れる嵐のようなもので、つまりそれは「意味」を揺るがせると同時にあらたな「意味」を生産するものでもある。ニーチェ的な差異は意味を不能にするが、ハイデガー的な差異は絶えず意味を問い直し、新たにつくり直す。ドゥルーズは、ニーチェ的な「意味の外側」にある絶対的にナンセンスな差異のうごめきが、そのままハイデガー的な「表象の内部の意味生産」をも可能にするという言い方で両者を繋げる。(「すなわち即自的差異としての強度-反復が、それ自体において象徴的であり、擬態と置き換えの作動を胚胎せねばならない」)このような過度な理論的鷹揚さが、ドゥルーズの華々しい言説を生み出し、『千のプラトー』のような超統一的な理論の書物を生み出す。この時ドゥルーズの言葉は、厳密な意味での「理論」であることをやめ、威勢のいい「スローガン」へと堕する、と。ここで樫村氏は、ドゥルーズが初期の厳密な理論(哲学の厳密な読み手)からスローガンへと移行したのは、政治的・啓蒙的な理由、つまり当時フランスで隆盛を極めていた「精神分析」への闘争という必然があったことを認めているし、加えて、非常に美しい幻想を生産する人(繊細に小説を読み、まるで音楽のように書く人)としてのドゥルーズを評価することも忘れない。だがそれでも、今後の世界は、そのようなスローガンや美しい幻想によっては決して動いてゆかないだろうとも宣言する。世界は、「<病人>の身体-欲望を通じた強度と症候の歴史ではなく、科学的理論の些細な蓄積からなる不可逆的な過程として、(今後ますます)いかなる幻想も領域横断的強迫も、「世界に向けたオイディプス(=神経症)の非領域化」も求めずに、音も言葉も発することなく進んでいくだろう」、と。この、身震いするほど残酷な言葉はおそらく正しいのだろうが、その一方で、少なくともぼくにとっては、ドゥルーズのような「うつくしい幻想」が、生きてゆくには必要であることも否定できない。
●何故こんなことを書くのかと言えば、『脳はいかにして<神>を見るか』(アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・タギリ/ヴィンス・ローズ)という本を読んでいたら、人間が「神話」を生み出してしまうのは、脳がそのような構造で出来ているからだと、つまり人間にとって「神話」は不可避なものであると書かれていて、それで樫村氏の、世界は今後ますます「科学的理論の些細な蓄積からなる不可逆的な過程として、(略)音も言葉も発することなく進んでいくだろう」という言葉を思い出したからだ。人間の脳には「認知強制」とも言える機能があり、過剰な感覚的入力を、その因果関係が分からないまま放置しておくことが困難で、過剰な入力は自然に「謎」を形成してしまい、一度成立してしまった「謎」は解決されない限り「不安」の状態がつづくそうだ。しかし人が「謎」を解決するために理性をはたらかせる時の「やり方」のバリエーションである「認知オペレーター」(これはすぐさまカントの「カテゴリー」を思い起こさせる。これに限らず、「脳科学」の本を読んでいるとしばしば「これってカントだよなあ」という問題にでくわす。)の種類は非常に限られており、そのなかでなんとか「解答」をひねり出して「不安」を解消しなければならない時に「神話」による解答が図られる。(人間が神話を生み出さざるを得ない必然性は、カントの有名な言葉によって要約される。「人間の理性は、その認識のある種類において、特異な運命をもっている。つまり、人間の理性は、拒むことはできないが、かといって答えることもできないいくつかの問いによって悩まされるという運命である。」)だから、世界中の神話がみんな不思議と似通っているのは、そのような神話の「原型」そのものに何かしらの「真実」が隠されているからというわけではなく、それは人間の「脳」のもつ認知オペレーターのバリエーションが非常に限られたものであることから、(つまり「脳」の構造上)「未知」のものに対して似たような反応をすることしか出来ないからだ、ということだろう。(ここで、だから神話とは「幽霊」のようなものだと言えば、すぐさま保坂和志の『カンバセーション・ピース』を思い出すだろう。)だが、未知の何かに対する「説明」が全て「神話」となるわけではなく、一つの謎に対して様々な説明があり得るなかで、そのなかの一つが多くの人にとって「神話」として採用されるのは、その「説明」が情緒的な次元でのリアリティによって補強されるからだそうだ。ここで、たんなる説明(ほら話)を「神話」へと格上げする「リアリティ」というのは、目の前にコップがあり、石があり、花が咲き、友人が立っていることに感じるリアリティ、つまり世界が実在すると感じている時のリアリティとなんら変わるものではない。つまり「神話」とはそのような意味では「実在」するし、逆に言えばコップも花も友人も、そのような意味においては「神話」に過ぎない。このような時に、リアリティを批判し、「神話」と「花」とでは実在の仕方の「質」が異なることを証明可能なのは「哲学」(という隠喩の体系としての世界像)ではなく、「科学」(という理論の些細な蓄積という手続き)によってのみであろう。この時、樫村氏の言葉の重みがずっしりと堪える。(あるいは、感覚による「質」の細かなニュアンスの判別が、実在の質の違いを直接的に判別出来るだろうという希望を、ぼくはもっているわけだが、これが「神話」でないと証明することは多分出来ない。)

  樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/分裂病的、動物的
03/06/17(火)
●斎藤環が、東浩紀との一連の対談などで述べているのは、象徴界が失調しているというのは統合失調症の患者のことであって、東氏の言う「動物」とは違うと言うことだろう。しかし昨日読み返した樫村晴香の『ドゥルーズのどこが間違っているか?』によると、分裂病=統合失調症者は一般的に、想像的なものの失調を象徴的なものを過度に使用することで補おうとする傾向があると書かれている。そして、象徴的なもの(言語的分節)の過度な使用が返って、想像的なもの(自然な間主観性のようなもの)の失調を際だたせてしまうという悪循環を生む、と。ぼくには、どちらがラカンに忠実であるかとか、現状に適合しているかということを判断する知識はないが、象徴界の失調によって特徴づけられる東的な「動物」が、統合失調症者と全く逆の特徴(つまり自然な間主観性のみによって生きている)ように思えることを考えると、樫村氏の言うことの方が説得力があるように思える。
●例えば樫村氏によると、人間の感覚的な入力の処理は複雑で多様であるため、常に様々なエラーが生じているはずであると言う。(「太陽がいつもと違って見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような、シュレーバーの体験は、ローカルな記憶装置ではおそらく常に生じ」ている、と。)だがそれは、ほとんどの場合、意識に上る前に補正=圧縮される。そしてそれを補正しているのは、「世界への想像的な価値-幻想、他者への依存的な対象関係」であるとする。つまり、世界が常にきちんとした因果関係によって成り立っていて、この世界では決してそのようなことは起こらないという「確信(信仰)」があり、そしてその確信=信仰は、他者にも決してそのようには見えていないのだからそうであるはずだ、という他者への信頼=依存に根拠づけられている。岡崎乾二郎は『ルネサンス・経験の条件』の「あとがき」で、「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっていると書いているが、しかし、もし樫村氏の指摘に従うのならば、ここでは記述の順序が逆であると言えるだろう。つまり、「自分が見ている青」と「自分が見ている青」とが同じだと言えるためには、「青」の同一性とともにそれを見ている自己の同一性が確かめられなければならず、そのためにはまず、「自分が見ている青」と「他人が見ている青」とが同じであるはずだという確信=信仰(つまり他者への依存)が成立していなければならないということになる。「他者への依存的な対象関係(想像的な間主観性)」が成立することによってはじめて、「青」という対象の同一性とともに、自己の同一性が保証されるわけだ。これは驚くべきことではないか。我々は、他者の自然な存在を(自己の同一性を獲得するより前に)何故か疑うことなく信頼していて、そのような信頼によってしか自己の同一性(自己の統合)がたもてないということなのだ。(つまり統合失調症においては、このような他者の自然な存在=想像的な間主観性こそが失調している。)樫村氏はその荒川修作論において、「世界の遠近法」(想像的な間主観性)は、世界や他者から降り注ぐ「愛」によって可能になる、と書いている。(この日記の03/02/17と02/18を参照されたい。)しかし荒川においてはそのような遠近法(想像界)が成立しておらず、だから徹底して象徴的なもの=言語的な分節のみによって作品が組み立てられているとする。
●ここですぐさま思い出されるのが、ドゥルーズによる現象学批判『ミッシェル・トゥルニエと他者なき世界』だろう。端的に言って現象学的な他者とは、世界の「私に見えていない側面」を見ている人のことだ。私の視点からは決して見ることの出来ない世界の裏側が、私によって見られていない時でも確かにそこに存在していると言えるのは、それが他者によって見られているからだ、と。他者が存在することによって、この世界がハリボテではなく、裏側もあり中味もしっかりつまったものであることが証明される。つまり現象学的な他者とは、私の知覚を補完し、世界に厚みを与える者であり、それらよって私の知覚の確実性を保証する、極端なことを言えば私の知覚構造の一部だということになる。(つまりこれこそが、自然な間主観性だろう。)現象学においては、自然な間主観性が暗黙の前提となっているからこそ、そこで現象学的還元という思考実験が可能になるのだ。ドゥルーズが批判するのは、現象学的な他者が、たんに私の知覚の同一性を保証している「他者構造」(他者への暗黙の依存)でしかなく、現実としての「他者」とは違うということだろう。それを示すために「他者なき(他者構造なき)世界」の姿を具体的に描き出すという思考実験が行われる必要性が生まれる。しかし、ドゥルーズ(トゥルニエ)の描き出す「他者なき世界」はあまりにもうつくしいイメージでありすぎて、それは決して現実の分裂病=統合失調症的な世界とは異なるのだろう。(例えば統合失調症において「性的なもの」が「悪」としてあらわれ、絶対的な力をもってしまうことを、ドゥルーズはおそらく意図的に無視している。)
●実際には、世界の厚みを保証してくれる「遠近法」は決して想像的なもの(自然な間主観性)だけでは成立しない。そこには必ず象徴的なもの(言語、法)による補強がされる必要がある。幻想は言語を媒介とすることではじめて可能になる。つまり、自己の同一性と世界の同一性とを同時に成立させるアルゴリズム(遠近法)は、一方で「世界への想像的な信頼-幻想、他者への依存的な対象関係に帰属する」のだが、他方でその対象関係は「象徴的-イデオロギー的な価値-目的(自我理想)に規定され」ているのだ。とはいえ、「象徴的なものを構成する言語という脳の後発的演算系は、想像的な曖昧さとは異質の分節的なもの」であるため、想像的、間主観的作用や幻想に対しては「現実界と同じ側にある」つまり「幻想に対して仮借のないもの」であるために、そこに「ねじれ」が生じる。言い換えれば、想像的なものと象徴的なものとは、共に働くことで世界の厚みや同一性(という幻想)をつくりあげるのだが、想像的なもののもつ曖昧さと象徴的なもののもの分節性(融通のきかなさ)とは、ローカルな場面では常に齟齬をきたし、その時、より幻想(自然さ)に親和的な想像的なものに対して、分節的である象徴的なものはまるで「現実界」のように暴力的に作用する、と。
●以上のように樫村氏の『ドゥルーズのどこが間違っているか?』に従って考えると、象徴的なものの失調を想像的なものの徹底(徹底した他者との対象関係への依存)によって補おうとする「動物的」なあり方と、想像的なものの失調を、象徴的なものの酷使(過度の理性的分節)で補おうとする分裂病=統合失調症的なあり方とでは、全く逆のものだという風に見えるのだ。(このように考えた方が、東-斎藤の対立よりも、すっきりとした見通しのように思える。)

  曽谷朝絵=光の画家、批判。
03/06/19(木)
●画廊をまわる。
●第一生命南ギャラリーで曽谷朝絵・展。別に誰のためにとか、何かに抵抗するためにとかではなく、自分のために一度、曽谷朝絵の作品をきちんと批判しておかなければいけないとは前から思っていた。でもぼくはきわめて性格が弱いので、実際に作品を観に行ったりしてしまうと、まあ、そんなに悪く言うほどのことは無いじゃん、とか、結構、ツボをつくてくるしなあ、とか思ってその気持ちが萎えてしまう。今回の展示にしても、観る前にイメージしていた感じに比べ、展示室に入った瞬間にぼくの感覚に飛び込んできた実際の作品はずっと「良い」ものに見えて、またもや「負け」そうになってしまう。確かに、画廊をまわればいくらでも目に入ってくるようなどうでもいい作品に比べればずっと良質のものに思えるし、趣味のあり方としては決して嫌いではないと言うか、むしろ好きな部類に入るのだけど、でもこれをついつい「良い」と思ってしまう弱さこそが問題なのだから、意を決して「悪く」言わなければならないと思う。
●曽谷氏を高く評価している本江邦夫によると、曽谷氏はちょっと他にいないくらいの「光の画家」なのだと言う。しかしそれは間違っているようにぼくには思える。曽谷氏の作品は確かに、ある過剰な光が画面全体をたゆたいながら満たしているようにも見える。では、その「光」の表現を技術的に支えているものは何かと言えば、バスタブ(の水)や車のフロントグラスのような「半透明」な物質を全体にぼうっとぼやけたようなソフトフォーカス気味の画面のなかに設定することで、画面全体に「白」がゆるやかなハレーション(このハレーションがきつすぎず、弱すぎずというさじ加減こそがポイントとなる)をゆき渡すことによる効果と言えるだろう。だからこの光のイリュージョンは、絵画的というよりもきわめて光学的(映像的、網膜的)な操作によってもたらされている。そして何よりも問題なのは、この時「光」を感じさせる色彩が物理的に最も明るい色である「白」だということだ。簡単にいってしまえば、曽谷氏の作品において、画面全体に光が行き渡っているように見えるのは、画面のどの部分の絵具にも「白」い絵具が混じっているからに過ぎないのだ。これは露出オーバーぎみで粒子の粗い写真を好むような感性(プリクラとか携帯のカメラとか)と安易に同調するものであり、絵画が「光」を表現するやり方として最も安易であり、避けなければならないやり方なのだ。「光」を表現するのに「白」を使うのが安易だなんて誰が決めたんだ、と問いつめられれば、それは「美術史」が決めたのだと言い返すしかない。誰でも良いが美術史上の偉大な画家を思い浮かべて欲しい。曽谷氏と同じようにバスタブを描くボナールにしても、モロッコの光を描くマティスにしても、南仏の光を浴びるゴッホにしても、ハンナの光のバーネット・ニューマンにしても、フェルメールにしてもフラ・アンジェリコにしても、小林正人でも辰野登恵子でも良いし、熊谷守一でも長谷川等泊でも良いだろうが、誰一人として「白」を「光」として扱うような愚を犯してはいない。例えば、主に光を扱うとされる印象派のモネが、画面いっぱいを白に近いグレーで覆い尽くすことはあっても、その時の「白」は決して明るさを追っているような白ではなく、むしろ絵具の「質」が問題にされるような色彩としての「白」であることは、その実物を目の前で観れば、特に美術史の知識などなくてもすんなりと理解されるはずなのだ。物理的な明るさとしての「白」を光の表現に安易に転移させないという「禁じ手」こそが、絵画に様々な光の表現のバリエーションを可能にさせたとも言って良いだろう。ここは「絵画」の生命線でもあり、譲れないところなのだ。単純に言って、光を白によって表現しようとすると、画面全体が脱色したように摩滅し、色彩がぬるくなり、画面として極めて弱いものとなる。曽谷氏の作品はそれを、バスタブ(の水)や車のフロントグラスのような、半透明ではかなげ(希薄)なものにモチーフを限定することで、さも、ある種の「感性」であるかのようにして、上手く誤魔化してはいるのだが。
●もう一つ言っておかなければならないのは、絵画があるイメージを提示する時、それを絵具や画布という物質を用いてイメージを提示するのだ、という点がある。つまり、スクリーンに影を投射する映画や、はじめから印刷されることを前提として描かれるイラストレーションやマンガなどと異なり、絵画は、物質としての絵の具や画布を示すことによって、それとは異なるイメージを生じさせるのだ。これもまた、絵画の基本設定のようなもので、譲れない。事物とイメージという言い方は、なにか「もの自体」を想定させてしまうので避けなければならないのだが、リテラルなイメージとしての絵具や画布と、フェノメナルなイメージとしての「描かれた物」との落差や齟齬、あるいは争いというものを避けて、絵画を描くことも観ることも出来ない。つまり、ある絵画の「実物」を「肉眼」で観るかぎり、そこに描かれているイメージを「本物」と見間違えることはなく、それが画布に絵具を、筆のようなもので擦りつけてつくられた物であるということは「見えて」しまう。にも関わらず、そこに描かれた人物なり林檎なり山なり三角なり長方形といったイメージも同時に「見え」るのだ。それが明らかに絵具や画布であるにも関わらず、と言うか「だからこそ」(この矛盾や齟齬によってこそ)、そこに出現した人物なり林檎なり三角なりが、ある意味で実物以上のリアリティを持って現れるのだ、という点にこそ、絵画というメディアの「リアリティ」が賭けられているのだ。(これは絵画の「事物性」を強調するということとは違う。最も分かりやすい例はやはりセザンヌだろう。)だが、前述したように曽谷氏の作品はきわめて映像的(一元的)であり、リテラルなイメージとしての画布や絵具の存在を出来るだけ目立たないように(見えないように)抑圧するというはっきりした方向性をもっている。極端な言い方をすれば、曽谷氏の作品は実物(オリジナル)を観るためにと言うよりも、印刷されたポスターかなにかで(あるいはスライドのようなもので)観る方が適当であるような描かれ方をしているのだ。(だからそれをイラストレーションだと見れば、曽谷氏の作品はきわめて質の高いものだと言っても良いだろう。余談だが、アンディー・ウォーホルの作品は、印刷メディアや映像メディアによって大量に流布されたイメージを、美術作品という「唯一の事物」の上にぺたっと貼り付けることによって、そこに生じる齟齬が、イメージというものの不気味さを際だたせるものだと言える。例えばどこにでも転がっている商品名のロゴの入った段ボール箱を、素材の異なる木箱として「再現」するときに浮上する、フェノメナルなイメージとリテラルなイメージの不気味な齟齬。曽谷氏の作品にはこのような分裂する感覚がなく、あらかじめ設定された「幸福な」感性が、その通り平板に実現されているだけなのだ。)もっと言えば、最近のコンピューターグラフィックを多用したアニメーションの「光」の表現のあり方が、曽谷氏の作品の光の表現に極めて近いものだと感じられる。(そして勿論、比べてしまえば、スタッフの数、お金や技術やの使い方が断然違うアニメーションの方が勝ってしまうのだ。)
03/06/21(土)
●(一昨日の、曽谷朝絵の作品について書いたことの、ちょっとした補足。)絵画が「光」を表現しようとする時は、それを、最も明るい色=白=光という風に「明るさ(明暗)」によってするべきではない。絵画とは結局、それ自体で発光するものではなく、光を反射することで可視化されるものだからだ。例えば石膏デッサンなどを見れば明白だが、絵画においては「明暗」は光ではなく「形態」をつかまえる時にこそ利用される。石膏デッサンで光(明暗)を利用するのは、石膏の形態を捉えるためであって、光を表現するためではない。これは絵画に限らないことだと思うが、あるメディウムによって何かを表現しようとする時は、そこに必ずなにかしらの変換というか、飛躍のようなものがなければ充分なものにはならない。絵画は、例えば写真のようには(あるいは直接光を用いたインスタレーションのようには)光を直接捉えることが出来ないからこそ、ある抽象的な変換を通じて光を「表現する」ことが出来るのだ。絵画においては主に、光は色彩として表現されてきた。比喩的な言い方になってしまうのだが、雨上がりの、細かい葉をびっしりとつけた木が、その葉の内側に多くの水分を含んでいるように、その内部に多くの光を含んでいる色彩、という形で、絵画は光を表現するのだ。(その時、その色彩が明るいとか暗いとかはほとんど関係がないし、モノクロームだとかカラフルだとかも関係がない。)例えばマティスの青には光がびっしりと含まれているが、ピカソの青にはあまり含まれていないと感じる時、あるいは、ただ画面いっぱいがややムラのある青で埋め尽くされているだけに見える小林正人の『絵画=空』の青に、まるで湿った空気に含まれる水分のように光がたっぷりと含まれていると感じる時、それは色彩の(構築の)の質の問題であって、明暗の対比や、ハレーションの効果や、青それ自体の明度とは関係がない。そこにあるのは、色彩それ自体と言うより、色彩へと変換された光であると言える。こういう仕事をする人こそが「光の画家」であると思う。

  「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ/清水・鶴田・黒沢ホラー
03/06/23(月)
●吉増剛造の「不揃いな世界」という講演の筆記に記されていた、次のような蕪村の俳句を読んではっとさせられ、俳句というのはコンパクトに凝縮された高度なイメージの発生装置なのだと改めて思った。
《凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ》(蕪村)
03/06/24(火)
●「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ。例えば、画布になすりつけられた絵具の状態である絵画を観て「光」を感じたり、あるいは、「凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ」という俳句を読んで、「凧」とも「空」とも違う、しかしある明快なイメージを感じたりする時、それはほとんど幽霊を見ているのとかわらない。が、しかし、絵具や画布は実在する物質であり、それによって組み立てられた絵画から感じられる「ある感覚」がイリュージョン=幽霊だと言う時に、その区別はどこまで厳密に成り立つのだろうか。例えば、どんな植物でも、花が満開になっている時の状態を見た時に感じられる、ほとんど現実ばなれした(現実から浮き上がってしまっているような)感覚と、物質としての「花」とを、どこまで厳密に区別出来るだろうか。「花」という言葉を使ったとたんに、そこにはもう「幽霊」が入り込んでいるのではないだろうか。
●清水崇『呪怨2』と「学校の怪談・物の怪スペシャル」から鶴田法男『なにかが憑いている』、黒沢清『花子さん』をビデオで観た。『呪怨2』の清水崇にとってホラーというジャンルは既成のものとして存在し、「幽霊」とはホラーというジャンルのガジェットとして、人を怖がらせるための道具として予め与えられたものであって、そこには人がどのように「幽霊」を感じるのかという考察、幽霊のリアリティを生むものに対する考察は存在しない。『呪怨2』を構成している数々の細部は、切り離してみるとほとんどコントにしかならない、笑ってしまうようなものなのだが、それを恐怖の方へと傾かせているのは、全体を支配する「怖いぞ、怖いぞ」という雰囲気であり、その雰囲気は過去の幾多のホラー映画(や怪談話)の記憶に依存している。つまり、ここのスイッチを押せば人は自動的に怖がるというツボを押しているだけなのだ。このような方向を押し進めて行くと、おそらくサブリミナル効果のようなものにしか行き着かないと思う。鶴田法男の『なにかが憑いている』において幽霊を成立させているものは、抑圧されたひとつの感情である。だから鶴田法男のホラーは、繊細な感情表現が腕の見せ所となる。ここでその感情とは「うしろめたさ」である。幼い頃にとても親しかった友人と、成長の過程でいつしか疎遠になってしまい、たまに会ってもむしろ疎ましくさえ感じられてしまうという体験は誰にでもあるだろうし、その疎ましく思ってしまうことへの「うしろめたさ」を感じないで済ませることも出来ない。日々、新しく成長する思春期においては、昔の友人とはつまり今とは異なる、否定したい昔の自分の存在の名残のようなものであるから、その疎ましさ(と、それに対するうしろめたさ)は一層強くなるだろう。だが、目の前に次々と起こる「新しいこと」に対処することで精一杯な人物にとっては、いちいち「うしろめたさ」を感じている余裕などなく、その感情は抑圧される。このような経験をもつあらゆる人物に対して、『なにかが憑いている』は強く感情を揺さぶる力を持っている。ここでの幽霊とは、抑圧された「うしろめたさ」が回帰したものだからだ。(だからこそ鶴田法男の幽霊には一定のリアリティがある。)鶴田法男のホラーは、「情」に対して直接的に作用するように作られている。だから、なにものかに取り憑かれてしまっている昔の友人が、共通する幸福な想い出の象徴である「ぬいぐるみ」を示された時、そのほんの一瞬だけ、以前の友人の姿に戻るという場面には、ありきたりでみえみえだと分かっていながらも、感情が直接揺さぶられてしまうのだ。黒沢清の『花子さん』においても、幽霊は「うしろめたさ」によって根拠づけられている。しかし、『なにかが憑いている』においては主人公と昔の友人との一対一の関係とその記憶が問題だったのに対し、『花子さん』においては、複数の人物によって共有される「うしろめたさ」が問題となる。ここでは「うしろめたさ」を共有する三人の人物はそれぞれが過去の記憶に対する態度が異なる。それに、非世界的な側(幽霊)にも、三つの異なる次元が存在するように設定されている。だから『花子さん』においては「感情」が問題なのではなく、複数の異なるものの関係というのか、むしろ関係しない重なり合いが示す世界の「図柄」のようなものが問題となる。「うしろめたさ」に対する態度が異なる3人の古い友人たちは、だから決して記憶を共有することが出来ず、久しぶりに共通する記憶の場である「学校」に集まっても、バラバラなままでいるしかない。(だから3人+1人の登場人物それぞれにとっての「学校」という空間の現れ方が違っている。)登場人物たちの記憶の外在化である「幽霊」にも三つの異なる次元がある。一つは、学校に関する一般的な記憶の塊であるような、ただ現れては、ざわざわとざわめいているだけ幽霊たち。もうひとつは、登場人物たちの「うしろめたさ」そのものである、いじめられたすえに自殺した少女の幽霊。そしてもうひとつ、登場人物たちの過去の出来事=うしろめたさに対する態度の違いなどとは全く無関係に、全ての人物たちに等しく作用する「世界の原理」のような幽霊「花子さん」である。『花子さん』の世界では、それぞれの人物、それぞれの幽霊たちが、全く別個の原理によって動いている。黒沢清の凄いところは、複数の別個の原理がひとつの場で作動しているというよりも、むしろ複数の別個の原理の作動によってひとつの場が結果的に「生み出されてしまう」という姿を、その極めて複雑な演出によってつくりだしている点にあると思う。このような世界は決して「感情」によっては捉えられない。

  柴田悦子画廊で、浅見貴子・展(よりぬき25)
03/06/26(木)
●銀座の柴田悦子画廊で、浅見貴子・展(〜28日)。例えば、葉がびっしりとついた木の、その枝や葉が風でゆったりと揺れているのを見てる時、緑の塊のような木全体のフォルムがゆっくりと動いている様を見ているのだろうか、それとも、一枚一枚の葉の動きが、わずかな時間差をもって伝播してゆくのを(粒々のような葉のざわめきを感じつつ)追っているのだろうか、あるいは、木全体を大雑把にいくつかのブロックに分けて把握し、そのブロックごとに動きを追っかけているのだろうか。それよりもまず、我々はそのような時、木や葉を見ているのだろうか、それともその動きに魅入られているのだろうか。例えば大きな木を見上げた時、風でゆらめく葉と葉の隙間から、斑状に、点々のように空の青がチラチラと覗いているような時、我々は葉のゆらめく動きを見ているのだろうか、それとも、その隙間からチラチラと覗く空の青を感じているのだろうか。おそらく視線は、そのどれにも安定して留まることは出来ずに、ぼんやりと漂うように、そのどれでもない中空を眺めるような曖昧な焦点を投げかけつつ、同時に忙しなく、かつ柔軟に焦点のスイッチを次々の切り替えていて、木全体のざわめく緑の色を呼吸するように感じていたかと思えば、さらさらと擦れあう葉音に促されていつの間にか一枚一枚の粒立った葉の振幅に注目が移っていて、そうかと思えば次の瞬間にはもう、まるでスポーツ観戦の時に見られるウェーブのように葉の各ブロックごとに動きが伝わってゆくのにあわせて目が移動していたりする。このような時、人は、感覚器官から入力されてくる情報があまりに複雑であるため、それを「見るために適した焦点」を確定することが出来ず、ぼんやりとすることで様々な焦点に対応できるように知覚を開いた状態にしたまま、同時に忙しなく焦点のレベルを次々と移行させて対象を一生懸命に確定しようとしつづける。とはいえ、実は我々はそれが木であり、木にびっしりとついた葉であることは知っているので、そのぼんやりとしながらも忙しなく動きつづける知覚は、緊急を要する未知の何かに直面してはいないことを既に理解していて(だから切迫した緊張感はなく)、だからその時の知覚の動きは、対象を確定しようとする働きよりも、その対象の動きにあわせて知覚そのものが自らの焦点がゆらぎながら転換しつづけるその「リズム」を、つまり自分の知覚が切り替わる(自分自身の身体的な)リズムそのものを、ある快楽を伴ったものとして、ゆるやかな陶酔とともに感じているのだと思う。つまり、木や葉を見、その動きを感じつつも、自らの身体のなかでわき起こる振幅のリズムをも同時に感じているのだ。(対象に対する知覚が「私」の身体の方へ折れ曲がって作用し、自らの身体にリズムを刻み込む。)浅見貴子の作品(ウェブで観られるもの、123)を観る時にわき上がってくる、とても複雑な「歓び」としか言いようのない感覚は、ちょうどこれと同じようなものだと思う。実際に木を見ている時は、それは決して視覚の作用だけから感じられているわけではない。肌にあたる、強さや方向を常に変化させつづける風や、葉と葉が擦れあう音が強くなったり弱くなったりしながら持続し、その度に緑の葉のにおいや、湿った土のにおいなどが鼻先に微妙に移ろってくるニュアンスなどが、複雑に入り混じってある感覚を生み出し、感じさせるだろう。浅見氏は、これと同等か、もしくはそれ以上に複雑な歓びの感覚を、基本的には視覚だけを媒介にする絵画によって生起させるために、画面に非常にデリケートで、しかしそのデリケートさが決して「細かくて丁寧な作業」という印象に固定しないようなダイナミックな大胆さをともなった操作をおこなっている。和紙(雲肌朝紙)の独特の触覚的質感やややくすんだ白、その「裏側」から染み出てくる豊かな階調をもった墨の黒、そして紙の白とは僅かに感触の異なる描かれた「白」、画面全体に拡がる大小さまざまな点(というか黒く滲んだ拡がり)、画面を踊るように走る黒い線と白い線、それらが複雑に絡み合って画面は構築されている。写真などで見ると、ちょっとオールオーバー風の画面に見えるかもしれないが、実際には決して均質な拡がりではなく、むしろ不均一でまばらな感じが調整されないまま無頓着に放置されているような感覚があり、それが画面にある種の「荒れた/乱れた」印象を生み、それが活き活きとした生々しさをつくりだしている。とても質の高い、良い仕事だと思う。(去年の展覧会のレビュー)

  エーリク・ショルビャルグ『インソムニア』をDVDで
03/06/29(土)
●エーリク・ショルビャルグ『インソムニア』をDVDで観た。(クリストファー・ノーランの『インソムニア』の元ネタ。)ある程度の守るべき約束事があらかじめあり、しかしその上でそこに工夫を凝らすことの出来る余地も充分にある、というのが「ジャンル物」というやつであって、そのような意味でこの映画は、ジャンル物が成功する時のひとつの規範ともいってよい出来だと思う。ネタの強烈さや新鮮さ、あるいは仕掛けの複雑さなどを求める人には、やけにあっさりと終わって物足りない90分という印象があるかもしれない。でもこれはそのように観るべき映画ではないのでネタをばらしてしまうけど、刑事が誤って同僚を撃ち殺してしまったことを隠すために、その刑事が追っている事件の犯人とつるんで、別の犯人をでっちあげて罪をかぶせてしまおうとする話自体に大した重要性はない。この映画のタイトル通り主人公の刑事は「眠る」ことが出来ないのだが、その原因として、同僚を殺してしまったこと、それを隠していること、隠し切ることが出来ずに徐々に追いつめられてゆくこと、などが考えられるのだが、そんなこともどうでもよい。ただ、常に透明感のある白っぽい光で溢れている白夜の町で、主人公の疲労が、その顔のやや弛んだ皮膚の内側から染み出してきて、周囲にまで溶けて流れだし、世界に拡がってゆく様が描出されている。闇のない、あらゆることを可視化する白い光は、全てが見えてしまうことによってあらゆる物を平板にし、遠近法を狂わせ、方向をうしなった世界で主人公は、不透明な身体を晒しつつ彷徨うことを強いられる。(しかし、ほとんど「一人称」で描かれているような印象を受けるこの映画で、主人公はその無様な身体を誰に対して晒しているのか。勿論、観客に対してなのだが、しかし同時に、主人公は自分自身に対してその身体の不透明性を晒しているのだと見える。つまり、『インソムニア』の世界とは、疲労した中年の男が、自分自身の崩れかけた身体の不透明さや重さを常に目の前に突きつけられ、見せつけられているような世界だと言える。常に自身の疲労した身体の物質性を通して世界を見ていなければならないことによって、主人公の疲労はさらに重層化される。)主人公の窮地は、やけにあっさりと都合よく救われる。主人公の心理的な葛藤など描かれない。だいたいこの人物が何を考えて行動しているかなど分からない。主人公の疲労がどこからくるのかも分からない。彼は同僚を失ったことに苦しんでいるのか、嘘をついていることを重荷も感じているのか、たんに状況に追いつめられているだけなのか、それともただ眠れないから苛ついているだけなのか、曖昧なままだ。主人公はただ、いつも不眠症の重たいからだをひきずり、かったるそうに右往左往する。取調室で忙しなく歩き回り、バスを追いかけて車に衝突し、少女の誘惑に乗りそうになってすんでのところで踏みとどまる。(少女の誘惑に乗ってしまったことで殺人を犯してしまった犯人よりも、踏みとどまる主人公の方がずっとアブナイ奴にみえる。それにしても、車に同乗していて、少女の誘惑に乗ってしまいそうな瞬間に、道が悪くなって車がガタガタと揺れ出すなんていう呼吸は、絶妙だと思う。)
一方で、偏在する光が、主人公の身体の疲労と混ざり合って、遍く拡がり、蓄積され、重くうねりながら淀んでゆくようなこの映画は、もう一方では、非常にリズミカルできびきびとした素早い進行によってあっけなくすすんでゆく。この素早い進行が、主人公の疲労の淀みを一層強調することになる。物語に複雑な仕掛けを仕組んでゆくことなどよりも、冴えた描写のリズミカルな連続がこの映画の説得力を支えている。撃ち殺してしまった同僚との関係、あるいは女性の捜査員との微妙な距離感なども、ほんのちょっとした、しかも的確な描写によって捉えられている。

  『アニマトリックス』をDVDで
03/06/29(日)
●『アニマトリックス』をDVDで。「もの自体」は存在する。たとえ、今見ている世界が全て幻に過ぎないとしても、その「幻」を出現させる基底的な場である「もの自体=リアルな世界」が存在していなければなないから。しかしこのような言い方はすぐに、たとえあらゆることを疑ったとしても、疑っている私の存在は疑えない、というような「私」の問題へとすり替えられてしまいがちだ。私が見ている世界が偽物だったとしても、それを感じている私の心は実在する、というようなセリフが確かあった。『マトリックス』の世界では、世界に対する懐疑が、何の疑問もなく私の「心」の無批判な実体化に流れて行く。そしてその時には、世界への違和感を感じる私=世界の秘密へと迫っている選ばれた私というような、「特別な私」という妄想が必然的に生じる。私が「この世界」でこんなに「駄目な私」であるのは、私がこの世界の虚偽性に気付いてしまっているからだ、と。むしろ私は、この世界の外(リアルな世界)では選ばれた戦士であり、特別な存在であるのだ、と。だがこの時、この世界の「外」の姿、リアルな現実であるはずの外の世界のイメージは、結局今いるこの世界のなかに転がっている陳腐な記号を寄せ集めて作り上げられるしかない。このような意味において、一見今日的な記号が散りばめられている『マトリックス』の世界は、『ハリー・ポッター』と何の違いもないことになる。魔法の世界にも学校があるのと同じように、リアルな世界で戦う戦士たちがやっているのは、チャンバラアクション付きのエロゲーのようなものに過ぎない。(つまり実際には出口はない。)
『マトリックス』的な世界は、無惨なまでに陳腐なものなのだ。(勿論、陳腐であることそのものを批判しても意味がない。)チープな記号が、そのままたんにそのようなものとして享楽の対象となる。その時、チープでしかないものに輝きを与えるのは「ここではないどこか」を性急に志向する幼稚で短絡的なロマンチシズムでしかないように思える。私が「特別な私」でいられるような「どこか」を性急に求める幼稚なロマンチシズム。それを、ごく短いスパンで繰り返されるテンション〜リリースという快楽原則が補強する。ここで、デジタル技術などの進歩が、単純な快楽原則の精度を飛躍的にアップさせたことによって、その補強は確かなものとなる。
勿論、このような「外」を巡る物語を批判して、この世界に外はない、終わりなき日常を生きろ、と言うだけでは充分ではない。世界に外(超越性)はないという事実に耐え、唯物論を唱える者こそが、むしろその禁欲性によって超越的な傾きを露わにしてしまうことは往々にして起こる。(禁欲的な殉教者の姿と重なる。)そうでないのなら、そこらにいくらでも転がっているチープな記号によって嘘臭い超越性をつくりあげてそれを楽しめばよい(楽しむしかない)というニヒリズムもあり得る。しかし、ニヒリズムというのは、あらゆることを表象の内部に取り込んで操作可能なものにしようとする意味で倒錯と不可分であり、それは高度な文化的な達成としてのみ存在し得る。だから『マトリックス』的な世界は、倒錯的なものとは全く異なるだろう。『マトリックス』的な世界におけるチープな記号のひとつひとつは、倒錯的なフェティシズムの対象ではなく、たんに雑多な情報の流れとしてしか受け取られない。しかし、雑多な情報の流れの分節点でしかない「記号」を、物語抜きでダイレクトに消費しているポスト人間的な「動物」(動物的強度を生きる者)がいるのだ、と本当に言えるのだろうか。そうではなく、そこにはもっとも単純化され、切りつめられた幼稚な物語(ここではないどこか、や、本当の私)ばかりが、素早く次々と消費されてゆく記号の裏側に貼り付いていて、結局物語が消費されているだけでのではないか。
●ぼくにとっては『アニマトリックス』は何とも退屈な代物でしかなかった。確かに、ウォシャウスキー兄弟が脚本を書いた最初の4話に比べれば、それぞれのアニメーション作家がかなり自由につくったと思われる後の5話の方がまだ面白いと思う。それにしても、ぼくには、アニメーションというのは結局「スタイル」の問題でしかないのかなあ、と感じられ、退屈に思った。何と言ったら良いのか、もし、広い意味での「演出」というものが情報のコントロールなのだとしたら、どの作品も、情報のコントロール、情報の「偏り」の作り方が、あまりに単調というか、一元的過ぎるように思えるのだ。ひとつひとつの作品が単調なので、それが九つ集まっても単調な多様さにしかならない。このなかで唯一面白く観られたのは、森本晃司という人のつくった『ビヨンド』だった。まあ、タルコフスキーを思いっきり通俗的にしたような話なのだが、この作品だけが唯一、ある種の複雑さと言うのか、雑多な感じ、つまり情報が一方の方向からだけ操作されているのではなく、多方向から操作されている感じがして(つまりそこに詰め込まれ、仕掛けられている「考え」の質や量が圧倒的に違うように思う)、飽きずに観ることが出来た。それに、『ビヨンド』における非世界的空間(ここではないどこか)は、「特別に選ばれた私」によって見出されるものではなく、日常的な空間のちょっとした隙間に歪みとして隠れているという点が、ぼくの好みでもある。

  長い梅雨がはじまる
03/05/16(金)
●降ったりやんだりの雨の切れ目、緑地のなかは湿気で充満し、木々や葉、土や落ち葉が発する様々なにおいが溢れるように沸き立っている。足元はぬかるみ、水粒を含んだ葉々からは、しとしとと水が垂れ落ち、風に揺らされては、まとまってザザザッと音をたてて落ちてくる。そこを通る度にいつも、粘つくように甘い、ヘアクリームのような胸にもたれるにおいが漂ってくる場所がある。様々なにおいが、それぞれに自らを強く主張するなか、その粘つくように重たいにおいがどこからくるのかと、鼻をクンクンさせて探ってみると、どうやらそれは、背の高いホオノキの上の方に咲いている白い花から匂ってくるらしいと分かった。(ホオノキは葉もにおいが強く、手でくしゃくしゃっと丸めると、ツンとするにおいがぽっと拡がる。)ホオノキの木の下に、一片だけ落ちていた湿った花びらを見つけて拾い上げ、確かめるようににおいを嗅いでみると、外側を向いている面からは、ツンとする湿布のようなにおい、内側を向いている面からは、腐りかけの果実のような甘いにおいがして、おそらくこれらが混じり合って、甘く粘つく、重たくもたれるようなにおいをかたちづくっているのだろうと思った。
03/05/28(水)
●からっと晴れた。朝はやくから外が明るい。起きたとき、既に強い光が窓の外から射していたので寝過ごしたのかと思った。しかし、木々の若葉は昨日の雨をまだその表面に付着させていて、木の下を通ると水滴が天気雨のようにパラパッと落ちてくる。落ちてきた水滴につられて上を見上げる。真っ青な空ともくもくした白い雲。高層マンションのベランダには日光を眩しく反射する白い布団が並んでいる。ホオノキの白い花の甘く重たいにおいが、いつもより一層濃く強くたちこめる。ユズリハは、新しい若葉が出てくると、まるで場所を譲るかのように古い葉が落ちるのでその名がついているそうだ。ユズリハの葉は濃い緑色で、いつもはバナナの房のようなかたちで何枚かまとまってだらんと垂れているのだが、まだ新しく生え出て間もない若葉は重力に逆らうように上に向かって生えていて(柄は放射状に拡がっていて)、色も薄い黄緑色なので、まるで全く違う木のように見える。部屋のなかにいて窓を開けると、乾いてきもちのいい風が遠くからの音と混じってゆるゆるとそよぐように入り込んでくるので、その風にまみれて、うつらうつらと短い昼寝をする。
03/05/29(木)
●昨日につづいて、とてもいい陽気。何がいいって、空気の感触が気持ちいいのだ。重たく湿ってもいなければ、過度に乾燥してもいない。(そして、やや過剰になりはじめた光があたりに溢れている。)こういう陽気は、関東地方ではおそらく一年中で、5月のうちの何日間かしかないだろう。何もしなくても、ただ肌が空気に触れているという感触だけで気持ちがいいのだから、こんな日にはわざわざ何かする気にはなれない。洗濯機をまわし、部屋じゅうの窓を開けて簡単に掃除をする。家事をこなすという感じではなく、ただ軽くからだを動かし、自分のからだがこの陽気、この空気のなかで動く感じを味わう。洗濯物を干したら、窓を開け放したままで、少しうとうとと眠る。目が覚めて、コーヒーをいれてぼーっとする。自転車で急な坂道を下る。チェーンが空回りするシャーッという音とともに、左右の木々が次々と後ろへ遠のいてゆき、正面にそびえる緑がぐんぐんと近づいてくる。気持ちのよい空気がからだの前面にぐいぐいと当たる。汗をかいてもみるみる乾燥する。
●こういう陽気だと、何故かイタリアの14世紀、15世紀ころの絵画を観たくなる。夜遅く、ジォット、マルティーニ、フラ・アンジェリコ、マザッチォ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、などの絵を、画集をパラパラとめくって眺める。
03/06/04(水)
●朝起きてトイレへゆく。トイレの裏は、アパートの東側にある砂利敷きの駐車場で、その隅には住宅街を縫って流れるか細い小川と、雑草が生え放題の小さな土手があり、その向こう側は、庭木がみっしりと生えている家の敷地になっている。外はよく晴れていて、トイレにある小さな窓からは、スモークガラスを通して、雑草や庭木から反射された黄緑色の明るい光が、ぼんやりと拡がるような形で差し込んでいる。
03/06/12(木)
●濡れるというより湿気が知らぬ間に染み込んでくるような細かい雨が上がった午後、足元のアスファルトからじとっとした空気が立ち上ってくる歩道を歩く。小さい羽虫が群になってお互い絡まり合うような動きで飛んでいる。グレーで覆われた空は、雨が降っていた時でも以外に明るくでそれほど重たくもないのだが、上空に飛行機の通過する音が響いてもその姿は見えない。びっしりとついた葉の重さで垂れ下がり、歩道の行く手を塞いでいる街路樹の枝を手で払いのけると、葉にたっぷりと含まれていた水滴で予想以上に袖がぐっしょり濡れる。しっとりと湿って黒く重たい色になっている陸上競技場のトラックや野球場の土の色を目で吸い込みながらその脇を抜けて、緑地に入る。木々は緑で覆われても、足元は黄土色から茶色の落ち葉で埋め尽くされているのだが、その落ち葉をかき分けるようにして、下から小さな植物がにょきにょきと生え出している。緑地のなかはさすがに外よりも湿度が高く、軽く靄ったようにぼやけていて、おまけにただでさえ曇った空の光を、覆い被さる葉々が遮断しているので薄暗く、そのため緑がいつもよりも重たく深く、透明に感じられる。においも、青臭いというよりももっと強い、防虫剤のような(場所によってはもっと動物的な)鼻孔の奥を強く刺激するようなにおいがツンと拡がっている。
03/06/15(日)
●パラパラと小雨が落ちてきたので、誰も使っていない陸上競技場を突っ切って抜けることにした。しっとりと湿った黄緑色の芝生。赤茶色で粒の粗いトラックの土を踏むとキュッ、キュッ、キュッ、という音がたつ。砲丸投げなどの時に後ろに立てる背の高いネットの上には、たくさんの雀がとまっている。目隠しになっている木立と一本の道路を隔てた向こう側にあるテニスコートから、そしてそのさらに先にある野球場から、かけ声と言うのか、気合いをいれる声が、人のいないここにまで届いている。(オッ、オッ、オッ、オーッ、とか、ソーレッ、ソーレッ、ソーレッ、とか。)その声は、声がやってくるのとは反対側に立っている建物にぶつかって、やや遅れたこだまとなって再び耳に届く。その送れはほんの僅かなので、もともとの声と、ややこもったようなこだまとが、ちょっとしたズレをもって重なり、人気のない陸上競技場に響き、拡がる。人気がないといっても、そこにはそれを聞いているぼくがいるわけで、足元から土を踏みしめるキュッ、キュッ、キュッ、という音も同時に聞こえているのだった。
03/06/18(水)
●こんな陽気がつづくので体調がよくない。からだがだるいのに、眠りが浅く、しかも2、3時間も眠ると目が覚めてしまう。しばらくそんな感じだったので、さすがに「限界」にきたのか、今日は昼過ぎから崩れるように眠りこけ、途中で何度も目覚めながらも、結局夜中まで寝てしまった。眠れない日々がつづいても、限界になればからだが勝手に(ほぼ強制的に)眠ってしまうというのは、まあ健康なのだとは思うが、問題なのは、いつ「限界」がくるのか予想できずに、それが「いきなり」来てしまうという点と、若い時と違って、限界がくると粘ったり持ちこたえたり出来なくて、とりあえずやらなければならないことだけは処理してから眠ろうとしても無駄で、スイッチがきれたかのように頭もからだも働かなくなってしまう点だろう。
途中で何度目かに目覚めた時、とても腹が減っていて何か食べたいのだが、外は雨だしまだもっと眠りたいので買い物に行くのは面倒で、冷蔵庫のなかから半ば忘れ去られていた、表面が乾燥したカマンベールチーズのかけらと、やや熟し過ぎてやわらかめのトマトを見つけだし、トマトにかける塩を探したのだが切らしていて、だから熟し過ぎてやわらかい(長いこと冷蔵庫で放置され眠っていたために)キンキンに冷えたトマトにそのままかぶりつき、硬くなってしまったチーズのかけらを口に放り込むと、それが嘘のようにおいしくて、キッチンで立ったまま、口の脇から滴を垂らしながらむしゃぶりつくように食べ終えると、その幸福感につつまれたまま、再び眠りについたのだった。
03/06/25(水)
●今の時期は、午前4時ちょっと前くらいに夜中から朝へと移行する。あたりはまだ暗いのだが、夜中じゅう持続する、ジーッ、ジーッ、ジーッ、という静かな虫の声がぴたっとやみ、ほんのわずかな空白の後、鳥が騒ぎはじめる。最初は、ピーピー、とか、チーチー、とかいう断続的な声があちこちで立ちあがり、しだいに、チーピーチーピーチーピーチーピーチー、みたいに、リズミカルな長いフレーズのようなものになる。4時半を過ぎた頃から、低くて図太い、鳩の声が混じってくる。


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