Who`s Afraid of Red,yellow aNd BLue(映画、読書、その他・26)

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経験の「質」について(「文學界」6月号『小林秀雄の「恥ずかしかった」』)
ゲームに必要な「時間」の具体性(リヴェット『セリーヌとジュリーは舟でゆく』)
ウイリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト3』と黒沢清『CURE』
佐藤友哉『水没ピアノ』
佐藤友哉『クリスマス・テロル』
西尾維新『クビキリサイクル』
西尾維新『クビシメロマンチスト』
舞城王太郎『煙か土か食い物』と笠井潔
舞城王太郎『熊の場所』
黒沢清『アカルイミライ』
『網状言論F改』と『アカルイミライ』
黒沢清『アカルイミライ』、二回め
ギャラリー21+葉とセゾン・アートプログラム・ギャラリーの中西夏之
かわさきIBM市民文化ギャラリーで松浦寿夫・展
「二箇所-絵画場から絵画衝動へ-中西夏之」(東京芸術大学大学美術館)
ショーン・ペンの『プレッジ』をDVDで
エリア・スレイマンの『D.I.』
『21世紀文学の創造9/ことばのたくらみ-実作集』の金井美恵子と松浦寿輝
冬の日
久しぶりにゆっくり散歩した



 経験の「質」について(「文學界」02/6月号、『小林秀雄の「恥ずかしかった」』)
03/01/03(金)
●ある作品を観てそこから決定的な「何か」を感じてしまったとする。その時に感じられた「何か」を、その作品の物理的な組成や仕掛けられた仕組み(構造)に還元し切る事は出来ないだろう。だからその時感じた「何か」が恣意的な気まぐれではないということ、つまり外的な状態と関係なく「私」の頭が勝手につくりだした幻影ではなく、幻影ではあっても、その作品に由来するものであることを証明することは難しい。ではなぜ、作品から感じられた「何か」が、恣意的な気まぐれではなく作品に由来するということが証明されなければならないのか。それは何も、作品というものを擁護するためではない。もしそれが示さないならば、「私」の感覚が、「私」の外側にある客観的な世界とどのように繋がっているのか分からなくなってしまうからだ。
私の感じる「何か」がたんに私の内部に由来するのではなく、外側にある世界に対応するものだということを示すのは実は簡単なのかもしれない。それは私が私の生命を維持することが出来ているという事実によって証明される。私は私の感覚によって生命を維持するのに必要な行動をし、危険を察知してそれを避ける。もし私の感じる「何か」が恣意的なものに過ぎなかったとしたら、私は生きていることが出来なくなってしまう。しかし、私は決して私がそのような動物的な感覚だけで生きているわけではないことを知っている。例えば、「絵に描いた餅」を、それが絵で食べられないことを知っていたとしても、よだれが分泌されてしまったりする。その時、それが絵であって食べられないと知っていることと、にも関わらずよだれが出てしまうこと(ある「何か」を感覚してしまうこと)とは分裂している。作品を観てそこから「何か」を感じ否応なく心が動かされてしまうとき、まさにこのような分裂が生じている。作品そのものと、そこから得られる感覚=経験は別のものであるのだが、しかしその感覚=経験は作品に由来する、というように。
●このような事態について、「文學界」2002年6月号に掲載された座談会『小林秀雄の「恥ずかしかった」』(福田和也、山城むつみ、岡崎乾二郎)は興味深い考察を示している。
●ある作品から「何か」を感じたとしても、その「何か」を直接他者に示すことは出来ない。それどころか、その「何か」という感覚を自分自身でもう一度再現出来るかどうかも分からない。もう一度同じ作品の前に立てば再び「何か」を感じることは出来るだろうが、その「何か」が前の「何か」と同じなのか違うのかを比較することは出来ない。しかし、にもかかわらず、ある作品から「何か」を感じ取ってしまったという事実は動かせないものとして残る。
『感想』の冒頭で小林秀雄は、蛍を見てそれを「おっかさん」だと感じたという話を書いている。これはとても複雑な事柄だ。玄関の前に死んだはずのおっかさんが立っていて、よく見るとそれは蛍だった(あるいはいつの間にか蛍に変わっていた)というわけでもないし、おっかさんが蛍の姿であらわれたという事でもない。はじめからそれは蛍として知覚されているにも関わらず、しかし同時におっかさん(という感覚)でもあるのだ。それは、絵に描いた餅が絵であることを知っているのに、よだれが垂れてしまうのと同様に、蛍であるのにおっかさんという感覚を生み出すのだ。蛍という知覚と、おっかさんという感覚は別のものなのだが、その時に感じられたおっかさんという感覚は目の前の蛍に由来するとしか思えない、という経験。このような経験を他者に対して示そうとするとき、どうしてもそれを物語として組み立てるしかなくなる。しかしその物語は、母親を失った男性の心情を表現するものとして読まれたり、あるいは霊魂が存在することを信じるという話に置き換えられたりしてしまうだろう。(だから小林秀雄は、そのような物語を書きながら、これはそういうことではない、こういうことでもない、ただこれだけのことだ、と否定を積み重ねるしかない。)このような「感覚」の話はとても微妙なものだろう。ただ、その蛍が「私」にはおっかさんとしか思えなかった、というならば、その経験がいかにその「私」にとってリアルで切実なものであったとしても、それは他者を必要としない。そんな話をされても、ああ、そうですか、という以外に受けようがないだろう。(もしこれが、おっかさんを亡くして悲しいから、何でもかんでも、何を見てもおっかさんを思い出してしまう、という話だったら、本人にとっては切実でも全く詰まらない話でしかないだろう。そうではなくて、厳密に、その蛍こそがおっかさんであった、という話でなければ重要ではない。)そのような経験の「質」は、それを経験した「私」の外側からは判断のしようがない。しかし、それを経験した「私」にしたところで、現在の私は、まさにそれを感覚=経験している時の「私」ではないのだから、判断のしようがないわけなのだ。
しかし、芸術作品とは、まさにそのような、判断しようのない「経験の質」にこそ関わるものであるだろう。芸術作品の質を判断するということは、それを経験した「私」にも判断しようのない経験の質を、それでも判断するということであるし、芸術作品を分析し批評するということは、本来他者を必要としないものかもしれない「経験の質」を、それでも外に向けて露わにして、他者に供するものとすることだと言えるかもしれない。なぜそんなことが必要かと言えば、私の感じた感覚=経験が、決して私の内部のみに由来するものではなく、この世界の有り様に対応して生じたものであるということが信じられるために、つまりこの世界の実在が信じられるために必要なのだと、とりあえずは言えるだろうか。(註・ぼくは新しく出た小林秀雄全集で『感想』を全部読んではいません。古本屋で買った筑摩書房の「小林秀雄・集」で連載の第1回めを読んでいるだけです。)
(つづく)
03/01/04(土)
●昨日挙げた「文學界」の座談会で岡崎乾二郎が、小林秀雄の蛍体験をベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』のなかのエピソードと重ね合わせている。それは、ある女性が、エレベーターのドアが開いているのでそれに乗ろうと急いで接近してゆくと、点検係の男に後ろから引っ張られて立ち止まった。しかし実は点検係などそこには存在しなかった。よく見るとドアは間違って開いているだけでエレベーターなど来てはおらず、点検係に引っ張られなければそこから落下していたかもしれない、という話だ。だが、この話が小林氏の蛍の話と決定的に違うのは、たしかにこの女性の感覚=経験の質をその外側から計るとこは出来ないにしても、その点検係の幻影によって女性は生命の危機を回避することが出来たのだから、その感覚=経験の現実性(つまり女性の恣意的なきまぐれではなかったということ)が、事後的に確認出来るということだろう。確かに点検係の男は幻影かもしれないし、その幻影がどのようなメカニズムによってあらわれるのかはわからないが、その幻影には現実的な根拠があることが確認できる。(黒沢清風に言えば、幽霊の「実在性」が確認出来る。)だからこの話は、どちらかというとフロイトが(確か)『機知』で書いていた話、嫌な奴のことを思いだして会いたくないと思っていたら、そいつが向こうからやってきたという話、つまり見えているのに会いたくないからその事実を否定して「見えていない」ことにし、一度否定したものに再び出会った、という話に近いように思う。対して、小林氏の蛍=おっかさんという経験の質や現実性は、その当人である小林秀雄自身にしか、いや、正確には小林氏本人でさえも判断することは困難であるし、それを外的な事象によって確認することは出来ない。
ある作品を観ることで生じる感覚、あるいはイメージというのは(そして、作品を作ろうとするとき、あるいは作ってしまうときに生じている感覚、イメージは)、小林氏の言う「おっかさん」のようなものの方に近い。なぜか確信をもってそれを「おっかさん」だと感じてしまい、しかしその確信の根拠はどこにも見つけられない。その感覚=イメージの正当性を確認する術はない。感覚=イメージを扱うこと、それをつくり出そうとすること、感覚=イメージについて思考しようとすることの困難にはこのような理由がある。例えば、近代絵画的な「趣味」ということが言われる時、ある特定の趣味(=感覚=イメージ)がある程度共有されていることが前提とされるが、しかし、その「趣味」のあり方そのものを直接明示することは出来ない。それは個々の具体的な作家や作品に対する評価や分析の仕方によって暗示したり推測したりできるだけだ。このとき、実は趣味などという具体的な感覚があるわけではなく、趣味とよばれる(特定の言説空間にだけ有効な)特定の言語の「用法」があるだけだ、と言語ゲーム的に言うことも出来るし、当面はそう考えてやってゆくのが正しいようにも思える。ただ、それだけではやはりどうしても「足りない」のだ。そこには「幽霊」がいるのだ。
●同じ座談会で福田和也は、ベルグソンのエレベーターの話と小林秀雄の蛍の話との違いを、小林氏における「骨董」から「勾玉」への関心の移行とパラレルであると述べている。《『感想』以前の小林秀雄のある種の精神衛生によかったのは、骨董を買っていたことでしょう。買うというのはある意味で賭けることで、全部複製かもしれないけど、(略)所有することのなかにある一種の致命的な選択をしているわけです。》《自分が大枚を出して買って所有することで、物の相対性を売買という社会化された選択のなかで決着をつけてゆくということでしょう。》つまり、ほとんどインチキと区別出来ない骨董の世界で、自分が「これは良い」と感じてしまったこと(感覚=幻影)の、その判断の確実性を示す根拠はどこにもないとしても、それを売買することで、社会化された言語ゲームの場へとその「質的な判断」を開き、そこに否応なく侵入してくる他者性によって、自らの判断を決着(証明)しようとした、ということだろう。(座談会では、福田氏は岡崎氏が持ち出した「言語ゲーム」という言葉に微妙な抵抗を示しているので、福田氏としては、売買によって「社会化する」というよりも、所有することで自分自身で「決着をつける」というニュアンスを言いたかったのだろう。)自分が経験してしまった幻影としての感覚=イメージは、それに基づく判断が社会化されること、簡単に言えばその「判断」に他者の承認が得られるということによって、「感覚=イメージ」の現実性が暫定的に証明(決着)できる、とする。そこには実在しなかった点検係という幻影の「現実的な根拠」が、エレベーターが来ていなかったという事実によって事後的に承認されるように、目の前にあるたんなる事物が与えてくる「感覚=イメージ」の価値は、その事物が売買という流れのなか(他者との交換のネットワーク上)に置かれることで、かろうじて保証されるのだ。
しかし『感想』以降の小林秀雄は骨董をあまり買わなくなり、その興味を「勾玉」へと移す。《勾玉は仏教美術屋が扱うものですが、彼らは一番いいかげんで、骨董としてはどうかと思いますが、勾玉になってしまうと信仰の対象になってしまう。》もはやここでは、ある経験の質が、他者性を招き入れるということでは判定できないというところにまで行ってしまう。あの蛍はおっかさんだと言うしかない。それがどういう性質の経験なのかは知らないが、それを経験してしまったという事実は動かせない、という話になると、その経験は、他者はおろか自分自身でさえも検証不可能なものになってしまうだろう。(小林氏は勾玉を見て、「ここよく見ろ、光が見える」とか言っていたそうだ。)これはとても危険だ。はっきりと批判されるべきだと言えるかもしれない。しかし、感覚=イメージというものを追求してゆくと、このようなやばいところを避けて通ることは出来ないのではないかという直感は、感覚=イメージを扱い、それについて、それによって考える者なら誰でも持っているのではないだろうか。このような危険な地点でもなお、経験の質が問われ、判断されなければならないとしたら、一体どうすればよいのだろうか。
●このような危険な地点こそが、岡崎氏が『ルネサンス・経験の条件』の「あとがき」で《自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることはできない》と書いているような地点であるだろう。(しかし実は『ルネサンス・経験の条件』では、徹底して形式的な議論を追求することで、この問題の一番危険な部分を賢明にも周到に避けていると思う。)そして、人が芸術作品などをつくってしまおうと思ったりするのは、このような地点においても「経験の質」の判断は可能であると無根拠に信じ込んでしまうからなのだ。(勿論、いつもいつも確実に信じられているわけではなく、常に揺れているのだが。)しかし、冷静に考えて本当にそんなことが可能なのだろうか。山城むつみは、勾玉に行ってしまうような小林秀雄を自分は理解できない、他者性を巻き込んでいるような部分にしか興味を感じない、ときっぱり言い切っているのだが(そしてそれはおそらく正しいのだが)、福田氏は、山城氏からの「小林の可能性の中心は骨董と勾玉との切断にあるということですか」という問いに対して、それはわからない、そこで間違ったのかもしれない、という曖昧な保留をしている。ぼくとしてはこの曖昧な保留に同意するしかない。あきらかに「そこで間違った」のだろうけど、間違わざるを得ない何かがそこには確実にあるのだし、そこで間違いを避けてあくまで「正しく」あろうとすることが必ずしも「面白い」とは思えない。

  ゲームに必要な「時間」の具体性(リヴェット『セリーヌとジュリーは舟でゆく』)
03/01/05(日)
●ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のビデオを観ていた。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのなかで、体質として一番好きなのはリヴェットで、特にこの映画はぼくの愛玩の対象でもある。リヴェットには明らかに大林宣彦的なところがあり、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』はまるで『ハウス』のような映画でもある。いや勿論、それだけでは決してないのだが。リヴェット的な遊技性を、ただ、謎や陰謀による迷宮性、分身的、鏡像的な人物関係の補完性とその亀裂、あるいは重層化された演技による反復とずれが生み出すモアレ的効果、などと整理してしまうと、実際にそれらのものを可能にしている地平としてある、一種のマニア的な感性を見損なってしまう。特に『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は、これこそが8?で撮られるべきだったのではないかと思えるようなマニア的な幸福感に満ちている。(ぼくはどうしても、映画体験におけるある種の幸福感を、8?で撮られた自主映画を観たときの幸福感と切り離せないみたいだ。でも、これはぼくの個人的な経験と結びついたもので、この感覚は他人と共有できるものではないだろう。)
●『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は純粋に遊技的な作品であり、我々が生きている、日常的、あるいは経済的、政治的、メディア的な意味での「現実」とはどのような対応関係もない。(勿論、「純粋な遊技性」が成り立つための現実的な条件というのがあるわけで、それを分析することで、「純粋な遊技性」というイデオロギーのもつ、経済的、政治的、メディア的な意味を示すことも可能だろうが。しかしそのことと、「純粋な遊技性」によって可能になる、ある感覚的な歓びとは別のものだ。)だからと言ってこのような映画を観ることが、弛緩し堕落した感覚的享楽だと断じてしまうのは間違っているだろう。リヴェット的な遊技においては、ゲーム盤は現実のパリの空間であり、駒は生きている人間である。しかしそこで場所はあくまで抽象化された空間として扱われ、人格は記号化され、ただ身体のみがリアルなものとして扱われる。(場所が抽象化され、人格が記号化されている以上、物語は段取り以上の意味をもたない。)リヴェット的な遊技のルールは、ある具体的な空間のなかで人間の身体に出来ないことは出来ないということだ。(つまり、空を飛んだり、首が360度回転したり、腹が裂けて血が噴き出したりは出来ない。)人格が記号化されることで「誰でもなくなった」、しかしあくまで具体的な身体が、場所が抽象化されることで「何処でもなくなった」具体的な空間の内部で動き、それによって身体や空間の具体性が描写される。つまりここで、「誰でもなく」「何処でもない」ことによって可能になるのは幻想的な時空ではなく、ある種の唯物論的な意味での身体であり、空間であるのだ。だから、ここで遊技とは、現実上の様々な文脈を断ち切ることで、場所や身体をゲーム盤や駒として物質的に露呈するためのものだと言える。あるいは、そのようにして露呈される物質性と、ゲームをゲームとして成り立たせている遊技性との乖離こそがテーマなのだと言い換えるべきかもしれない。(このような逆説、あるいは乖離を可能にするのが「マニア的な感性」だろう。)そして、リヴェットの映画で何よりもリアルにあらわれるのは、我々を縛り付けるその長大な上映時間という、ゲームに必要な「時間」の具体性であるように思える。(あるいは、ゲーム内部の時間と、そのゲームをするのに必要な現実的な時間との乖離と言うべきか。)

  ウイリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト3』と黒沢清『CURE』
03/01/07(火)
●ウイリアム・ピーター・ブラッディの『エクソシスト3』をビデオで観直していた。
●映画では、一回性の、あるいはオリジナルの出来事など一切起こらない。それは初めから反復である。映画のカメラが、予想もしなかった出来事を偶然に撮影してしまうことはあるだろう。しかしそれが上映される時は、すでに事が終わった後であるし、偶然の出来事も、すでに編集によって意識的に操作され、流れのなかのしかるべき場所に置かれている。ホラー映画においては、壁に落ちる影ひとつさえ、恐怖をつくりだすために周到に操作され演出されているだろう。それでも、まるである取り返しのつかない事件が起こってしまった場所に偶然居合わせたかのような効果を観客に与えるにはどうしたらよいのか。一般にサプライズと呼ばれる効果によってそれはなされるのだろうが、しかしこれは安易に使われるとたんにふいをついて人を驚かすだけと変わらないものになってしまう。以上のような問題の、最も高度な、あるいは行き止まりとも言える解答を示しているのが、この映画の有名な、看護婦が殺害される前の長い時間、病院の廊下を延々と映し出すシーンであると言えるだろう。例えば黒沢清は、『CURE』のラストシーンにおいて、明らかにこのシーンを模倣している。
●『エクソシスト3』を観直して、この映画と『CURE』との関係の深さをあらためて思った。よく、「批判的に読み替える」というような言い方をするけど、『CURE』はまさに『エクソシスト3』を批判的に読み替えたような映画と言える。あまりにも装飾過多で重ったるく、成功しているとは言い難いとはいえ、大胆で刺激的な細部をいくつも持つ重要な作品である『エクソシスト3』の細部を、ごっそりと頂いた上でもっと面白くしてやろうという野心が、『CURE』を構想している時の黒沢清にはあったのではないだろうか。(公式的にはフライシャーを意識したことになっているし、それは嘘ではないだろうけど。)
●具体的なシーンで言えば、『CURE』の、病院の個室で役所公司と萩原聖人が対面するシーンの演出の基調になっているは、明らかに『エクソシスト3』の隔離病棟での刑事と犯人=悪魔の対面のシーンであると思う。(例えば、画面上での「水」の使われ方などはとても似ているのだが、その意味が違っている。『エクソシスト3』で悪魔を払うために使用される水=聖水が、『CURE』では逆に催眠を誘発する物質として使われていたりする。)しかし、キリスト教的な文化の厚みやその枠組みに多くを依存している『エクソシスト3』(なにしろ聖書のテクスト的解釈まで問題になっている)に対し、『CURE』には物語の構築上で頼るべき強固な参照元が存在しない。『エクソシスト3』において牧師が果たすような役割を、『CURE』では科学者=心理学者が受け持ってはいるが、『エクソシスト3』が最終的に宗教=キリスト=善の勝利によって終わるのに対し、『CURE』では科学=心理学は決して勝利できないばかりか、物語を支える枠組みにも成り得ない。つまり『CURE』は徹底して散文的、世俗的な空間のなかで起こる物語として構想されている。(そこには語りを安定させ、物語を収束させる「前提」が成立しない。)『エクソシスト3』の犯人=悪魔は、主に重度の精神障害者を操作することで犯行を行う。そして同時にこの映画では精神障害者は一種の聖性を帯びた存在としても描かれている。聖的で私欲が少なく「空っぽ」だからこそ操作しやすいというわけだ。(彼らはラジオ=電波によって受け取った命令に従って行動を起こす。)しかし『CURE』ではむしろありふれた人物こそが、「空っぽ」に成りきれない人物こそが催眠にかかってしまう。『エクソシスト3』では、悪魔によって操作される肉体に対して、その肉体の持ち主である精神が反抗し、そこにある種の葛藤が生まれるのだが(そしてその「葛藤」こそが悪魔を倒す)『CURE』では催眠にかかった人物の欲望が解放されて犯行へと至る。つまり抑制が解除されるのであって葛藤はない。『エクソシスト3』の物語を制御しているのは、神/悪魔、善/悪、霊/肉といったような2項のダイナミックな対立である。殺された肉体が切り刻まれたり、血をきれいに抜かれたり、内臓が取り去られたりするのは、霊に対するものとしての肉へのこだわりからだろうし、正義=掟に対する悪=侵犯ということでもあろう。それに、悪魔に乗っ取られたダミアンが、様々な声で話す(ダミアンの意識=霊が戻った時にはダミアンの声になる)というのも、肉体は容れ物であるが声には「霊」が宿っているという風な「音声中心主義」を思わせて興味深い。『CURE』の殺人者は殺してしまった肉体に対する興味はむしろ薄くそっけなくて(そもそも、霊/肉という2元論はなく、侵犯すべき掟もない)、殺し方の残虐性ではなく、いきなり「生命を絶ってしまう」という行為の暴力性の方が重要であるようにみえる。『CURE』において殺人を指示するのは「悪魔」のような強力な存在ではなく、たんに「殺すことで解放される」というちんけな「おしえ」でしかない。それは悪というより無機質なプログラムのようなもので、『A.I』において「愛する」ということがたんなるプログラムであったことと変わらない。(萩原聖人は悪魔の化身ではなく、たんに「おしえ」を媒介し伝導する者=空っぽな容器でしかない。つまり他人を操作して「殺人」を行わせようとする「主体」ではない。そういう意味では役所公司の刑事も、『エクソシスト3』の刑事ように悪への怒りによってではなく、たんに刑事という役割によって捜査しているだけのようにみえる。)だからこそ「おしえ」は、一旦作動しはじめるとどこまでも暴走する。

  佐藤友哉『水没ピアノ』
03/01/08(水)
●佐藤友哉の『水没ピアノ』を読んだ。
●最初のページからいきなり読者を跳ね返そうとしているとしか思えないような鬱陶しい悪文がうだうだとつづくので、一度途中で読むのをやめたまま放置していた佐藤友哉の『水没ピアノ』に再度挑戦した。とにかく佐藤友哉の文章の酷さについては寛容をもって接するしかないと前の2作で学習していたから(そして、それに我慢してつき合うだけのものはあると確信出来たから)、なんとか第1章をクリアすることが出来き、なんとかかんとかその世界に入り込むことが出来れば、あとはこの作家の不思議な筆力で最後まで連れて行かれる。あまりにもナイーブで、ちょっと勘違いした文学青年風の文章は、前2作よりもさらにうざい感じになっているし、物語の細部の作り込みの幼稚さも相変わらずで、気取って「狙って」いる部分はことごとく外していると思うし(わざと「外して」いるのだと言っても、その「わざと外している」ところが外しているのだ)、無駄に冗長な部分が多すぎるし、当然ミステリ的な仕掛けなど論外だし、個々の要素をひとつひとつ取り出してみれば、評価できるようなところはあまりないと思うのだけど、にも関わらずこの小説は相当に面白いと言わざるを得ない。しかも第1作(『フリッカー式』)より第2作(『エナメルを塗った魂の比重』)、第2作より第3作(『水没ピアノ』)という風に、その「面白さ」の「強さ」が確実に増してきていると思う。全面的に諸手をあげて素晴らしいとは言えないが、佐藤友哉という人の才能が大変なものであることは認めるしかないだろう。『水没ピアノ』はちょっとした傑作と言ってもいいかもしれない。ただ、前の2作が、がらくたを無理矢理かき集めてつくった破れかぶれのコラージュのようなものとして、吹きっ晒しのボロ小屋のように突っ立っているものだったとすれば(去年の12/20の日記にも書いたけど、例えば、子供のつくったお話をいびつに組み立てたみたいな『エナメルを塗った魂の比重』にリアリティが感じられるのは、登場人物たちの「上下関係=勝ち/負け」に対する不自然なほどのこだわりと、それによって作動するいじめという暴力の生々しい感触が、ボロ小屋のような即席の物語=構築物を、その外側から吹いてくる暴風みたいに揺さぶっているからだろう)、『水没ピアノ』の物語の構造は、まるで一人の人物の「脳」(あるいは「記憶」)の内部の構造を図示したかのように、あまりにきれいに完結し、閉じているように感じられる。『エナメルを塗った魂の比重』のいくつもの断片は、まさにゴミ箱をひっくり返したようながらくたを無理矢理組み立てたもので、だから結末など強引な冗談のようなもので、結局物語はバラバラなまま収束しないも同然なのだが、『水没ピアノ』の平行して語られる3つのパートは、周到な計算によってコントロールされていて、無関係なものが並置されているようでいて、途中で微妙な同調をみせたりして、その辺りの、無関係にみえるものの並置のなかに関係性をほのめかしてゆく感じ(分離していると同時に不可分であるような感じ)などはとても巧妙で、だから「結末」も決して突飛なものではなく妙に説得力をもっていて、つまり物語がきれいに収束して閉じてしまう。(それも、一人の人物の意識=記憶として閉じてしまう。)まあ、だからこそ傑作という佇まいが生じるのだろうが。(文章そのもの、あるいは個々のプロットの造形に関してはとてもは評価できないが、物語全体の進展を制御し方向付けてゆく「腕力」は大したものだし、前の作品と比べても飛躍的に成長しているようにみえる。)
●『水没ピアノ』はミステリと言うより、どちらかと言えばパラレルワールドもののSFに近い感触がある。18才のフリーターの少年のパートはリアリズムで、狂った家族のパートは観念的な、あるいは象徴的な物語の世界で、小学生のパートは童話的で想像的な物語の世界だと言えるだろう。そしてその3つの次元の異なる世界が、一人の人間のなかで分離したまま重なり合っている。そしてこの3つの世界が、分離したままでも、一人の人物の記憶という次元で同時に共存出来ているのは、それらが全て「他者との接触の決定的な失敗」という事実によって貫かれているからだ。と言うか、その事実を隠蔽しようとする働きによって、3つの物語が、分離したままで生成されなければならない、というわけだろう。確かに『水没ピアノ』は前2作に比べ格段の成長が感じられはするが、以上のような図式を容易に描けてしまうという意味では、前作『エナメルを塗った魂の比重』のやぶれかぶれな過激さよりも、一歩後退したという風にみることも出来る。(『エナメルを塗った魂の比重』のバラバラな断片を辛うじてつなげているのは、私の外側からやってくる、関係によって不可避的に強いられる「暴力」の感触なのかもしれない。)
●それにしても、佐藤友哉の登場人物たちは皆、謎が明らかにされる時には、揃いも揃って、血みどろになり、多量の出血で意識が朦朧とした状態にならなければ気が済まないのだろうか。

  佐藤友哉の『クリスマス・テロル』
03/01/14(火)
●佐藤友哉『クリスマス・テロル』を読んだ。ああ、やっちゃったよ、というのがまず第一の感想で、佐藤友哉の小説を幼稚だとか浅はかだとか言っても、それははじめから分かっていることだから批判にはならないのだし、こういう自己言及の罠というのは、若い人なら誰でも一度は陥るものだとはいえ、もし金井美恵子だとか阿部和重とかを一度でも読んでいれば、ここまでイタイ結果にはならずに済んだろうにと思ってしまう。話者が語りの部分で「作者」としてちらっと介入してくるあたりで嫌な予感がしたのだが、その予感が最悪の形であらわれてしまった。頭がいいふりをしようとして、逆に「物を知らない」ということを恥ずかしくも露呈させてしまうということは、誰でもちょっと気を抜くとやってしまいがちなことで(多分ぼくもしょっちゅうやってる)、その部分をことさら批判したりバカにしたりしてもしょうがない。ただここで問題なのは、この小説のなかには、佐藤友哉的な物語として発展させていけば充分に面白いものになりそうな要素が沢山あるのにも関わらず、それをきちんと発展させ、構築してゆくことを怠って、大して気が効いているわけでもないメタフィクション的な構造(と言うか、たんなる楽屋オチ)に頼って「楽をしている(手抜きをしている)」という点にあると思う。例えば、記憶を次々となくしてしまう少女の「記憶ノート」をもっとしっかり描き込むべきではなかったのだろうか。(『水没ピアノ』で女子高生とのメール交換をあれだけ見事に描いた作家なら、とても良いモノが出来るはずだと思う。)空っぽな「ひきこもり作家」と、砂が崩れるようにずるずると記憶を失ってしまう少女とのラブストーリーと、その周辺の擬似的家族の物語(そして、それを監視する女子高生)なんて、きっちり描き込まれていれば、すごく佐藤友哉的でわくわくするではないか。
●『クリスマス・テロル』は、展開のさせ方しだいでは凄く面白くなりそうな話なのに、もっとも安易でもっともつまらないところ(安易な「自分語り」)に着地させてしまったという小説だと思う。そしてそれについては、作家である佐藤友哉だけを責めるのは間違っているのかもしれない。ぼくは小説家と編集者というのがどういう関係なのか具体的には知らないけど、まず、佐藤氏のようなまだ完全に出来上がっているとは言えない「幼い」作家に、資質に合わない短い枚数で、しかも企画物をやらせるということが間違っているのではないだろうか。まあ、一旦企画物として依頼したとしても、出来上がった原稿を読んで、これはもっと描き込ませた方が面白くなるということならば、一度企画を白紙にして、長い枚数で書き直しをさせるぐらいのことはしても良いのではないだろうか。結局は同じようなところ(自分語り)に着地することになったとしても、『水没ピアノ』くらいのボリュームがあってしっかりと佐藤友哉的な物語が構築され描き込まれていれば、小説としての説得力が全く違ってくるはずだ。(作品が「作品」として成功するかどうかはまた別の話だが。)勿論、そこには厳しい商売上の制約というのがあるわけだろうが、でも、この、魅力的な要素が沢山散りばめられている話を、こういう風にまとめちゃう(魅力的な要素の多くを中途半端にしてしまう)のはもったいないとは思わないのだろうか。このことは、たんに手を抜いた作品だとか、テンションの低い作品だとかいうだけでは済まされない。この作品には、今回はスペックを下げて分かり易くした、とか、一見読者をナメているようなことが随所に書かれてているのだが、佐藤友哉的なテーマを掘り下げることなく逃げているわけだから、実はこれは、佐藤友哉自身が作家としての佐藤友哉をナメて、裏切っているということなのだ。佐藤友哉が佐藤友哉を裏切るということの責任は、当然佐藤友哉本人にあるわけだが、そこで作家佐藤友哉に「自分自身を裏切る」口実を与えてしまったのは「密室本」という企画であるだろうと思う。だからこそ編集者には「書き直し」を要求するくらいの責任はあるのではないだろうか。このような作品を書いて(発表して)しまったことのツケは、後々までジワジワと効いてしまうのではないかと危惧する。(後があるのかどうか知らないが。)そうでなければよいのだけど。
●この小説のラストは、別に衝撃でも何でもない。やめたいのなら、たんにやめればいいだけだ。(これが「芸」なのか、そうでないのかは、この本を読んだだけでは「決定不可能」である。つまり「決定不可能」という「芸」なわけだ。と言うか、本気でもあり芸でもある、というところが佐藤友哉的な「芸」なのかもしれない。しかも、こんな宣言など「岬」のようにすぐにでも忘れてしまうのかもしれない。「私的な規則というのはありえない」のだから。しかし、これら全てをひっくるめた「芸」は、「やめる」という事実に対して人々=読者が何かしらの衝撃を受けるということが前提にされている。やめようが、やめなかろうが知ったことじゃない、という読者に対してはどのような効果も生まない。読者の作家に対する感情移入をはじめから期待=計算しての「芸」なのだ。)
だが、ご都合主義以外のなにものでもない物語を強引に進行させてしまう物語の「運び」の何とも言えないドライブ感(最初に島へ渡る理由も相当に強引だし、二度目に島へ行く段取りなど全く無茶苦茶なのだが、それらを何故か納得させてしまう)や、印象的なシーンの作り方(クリスマスに海岸に打ち上げられる数々のオモチャ!)、などについては、やはり才能を感じさせるものがある。

  西尾維新『クビキリサイクル』
03/01/27(月)
●西尾維新『クビキリサイクル』を読む。これがまた面白かった。この小説の物語設定やキャラクター設定のわかりやすさは、まるでコンピューターのディスプレイの上にアイコンが並んでいるようなわかりやすさだと思う。閉ざされた孤島に集った、各分野の天才たち。(=ディスプレイの上に並列された、アイコンたち。)例えばこの天才のうちの一人は、「数年前までは盲目」であった「スタイルというものを一切持たない」若い女性画家だったりする。このような人物を、実在する「この世界」のなかで想像するのは難しい。つまり、通常の意味ではどのようなリアリティもない。かといって、何かを象徴するような人物でもない。虚構のなかにだけ存在する「人格」として、まさにキャラクターとして設定されている。一応ミステリ仕立てになっているこの物語に登場する12(+1)人の登場人物は、キャラクターとして(「人間」としてではなく)くっきりとわかりやすく色分けされている(しかもイラストによって補強されている)ので、読みながら混乱することはなく、複雑な人間関係を扱ったミステリを読むときしばしば陥るように、「えーと、この人は誰なんだっけ」と、冒頭の人物一覧で確認するなどという作業は全く必要ない。かなみ-画家-金髪碧眼-ドレス-足が悪い。ざっとこの程度の情報と、冒頭近くでの主人公との会話から得られるイメージを接続させれば、キャラクター一人一丁上がり。もう誰もこの人物と、例えば別の「天才」、真姫-占い師(超能力者)-逆毛ポニーテール-アウトドア系ファッション-主人公に「絡む」キャラ、とを混同したりしないだろう。これだと、キャラクターという概念を理解出来ずに、文学的な読みをする人には、なんて浅はかで幼稚な人物造形だ、としか感じられないだろう。しかし実は幼稚どころか、この小説が、物語をたちあげつつキャラクターを提示する(キャラをたたせる)手際の良さは相当に巧みなものだ。
●だが、この小説は、単純に色分けされたキャラクターがある世界観のなかでまるでゲームのように動いていくだけのものではない。これらの登場人物たちは、まるでディスプレイ上のアイコンのようにわかりやすいのだが、同様にディスプレイ上のアイコンのように底が知れない。金持ちの令嬢と4人のメイドがいる孤島に、5人の天才と2人の付き添いが訪れ、そこで殺人事件が起こる、というまさに幼稚で馬鹿馬鹿しいとしか言えない話を読むに足りるものとして支えているのは、ミステリ的な仕掛けなどではなく、虚構のなかにしか存在しないキャラクターの「底の知れ無さ」の描きかたにこそある。我々はある他者を(我々の前の「他者のあらわれ」を)、まさに底が知れないからこそ、その理由やメカニズムや内面の、全てを理解しようなどということはせずに、取りあえずそれをブラックボックスとして蓋をして、そこにキャラクターというラベルを貼り(アイコンのようにして)、「そういうもの」だとして扱う。他者のすべてを知ることは出来ないし、接する他者すべてに対して「深い」関係(深い理解)を築いている暇などないから、「訳の分からないもの」を効率よく扱うため手法として、キャラをたて、「そのようなもの」として扱うのだ。それは、ディスプレイ上のアイコンが、それぞれ全く異なった複雑な回路を背後にもっていて、本来それは並列することの出来ない異なる階層にあるかもしれないものなのに、それをまるで同一平面上に並べられるかのように表示してしまうのと同じようなことだと言える。(ちなみに、このようなスーパーフラットな平面が成立するのは、ポストモダンの時代ではなく、あくまでモダンにおいてなのだ。例えば、芸術だろうが、儀式に使用する物だろうが、生活用品だろうが並置できる、美術館や博物館という「展示空間」として。)我々は、コンピューターがどのような原理で動き、その本体がどのような仕事をしているかを全く知らなくても、アイコンをマウスで操作することが出来る。それによって、コンピューターに関する知識がほとんどなくても、効率よくそれを操作することが出来るのだ。しかしその背後には、専門家でも理解し切れていないような複雑な回路が拡がっていて、時に全く理解出来ないようなトラブルにみまわれる。(コンピューター内部のトラブルを、我々は「表現されたもの」としてのディスプレイ上の変化として、それを解釈することによってしか見ることが出来ない。つまりそれを直接把握することは出来ない。)『クビキリサイクル』が描きだしているのは、そのような世界、キャラクター=アイコンとして他者を(そして自己をも)扱うしかないような世界においてのリアリティであり、そこにあらわれる他者の底知れ無さの、ある「形象」であり、そこで生じるトラブルであるように思える。(例えばカントが自然を「目的なき合目的性」として捉えるのも、人間の知性では自然の因果律の全てを理解することが出来ないし、無限定に知を拡張していっても結局何も知らないのと同じになってしまうから、ある程度大ざっぱなところが理解できたら、あとは「まあ、そいううものだ」ということで処理しようということなわけで、まさに「自然」をキャラクターとしてみるということであろう。これはもう、ほとんど「山の神」とか「海の神」とかに近い世界だけど。)
●『クビキリサイクル』は、シニカルで歪んだ人物である「ぼく」の一人称によって語られる。この、ことあるごとに「自分語り」を繰り広げなければ気が済まないキャラクターは、ほぼ同世代の佐藤友哉の登場人物などと似てはいるのだが、しかし西尾維新の登場人物は、そのシニカルさによって、少なくとも「こんなものだ」という捉え方で世界となんとか上手くやってゆく方便を持っているという点で大きく異なる。世界との間で起こる様々な軋轢を「戯れ言」によって吸収する。これが西尾氏の小説の語りに不思議な「安定性」を与えている。なんだかんだ言っても最終的にはなんとかなるし、成るようにしかならないというシニカルなやり方で、西尾的な「ぼく」は「世界」を信じ、調停している感じがする。(あ、関係ないけど、「ぼく」や「玖渚」の謎めいた過去によって物語を引っ張るのは、やりすぎると安易になると思う。)この不思議な安定性が、ある一定の質の作品をコンスタントに生産できそうな気配をこの作家から醸し出している。対して、佐藤友哉だけでなく、例えば法月倫太郎などを読むと、世界から突き放されているような寄る辺ない感じがするのだ。随分前に読んだのでほとんど忘れてしまっているけど、『密閉教室』の主人公の突き放されたような不安定さは、かなり佐藤友哉に親和性があるように思う。

  西尾維新『クビシメロマンチスト』
03/02/11(火)
●西尾維新の『クビシメロマンチスト』。この小説の面白いところは、あきらかな記述の軋みがみられるところだろう。(以下、ネタバレになってしまうので注意。)この小説は、ミステリとしては記述上のトリックが仕掛けられている。つまり、信用出来ない語り手というやつだ。しかし、あくまでミステリとして読むとするなら、それは失敗していると言うべきだろう。読み進めていると、明らかに異様な細部があり、その異様さによって、ここには何かしらのトリックが仕掛けられているだろうということがバレバレだからだ。(そこにトリックを仕込む関係で、その部分が異様なものとなってしまっているのだ。)しかしその異様さが生み出す軋みや歪みこそが、小説全体にある異様な緊張感を漲らせているように思う。一応、最終的に謎が解けることで、この「歪み」は合理的に納得がゆくのだが、しかし、最終的に説明されることが、読んでいる途中に感じていた歪みの感覚を解消してしまうことはない。
●主に歪みは二つある。第一は、葵井巫女子(「あおいいみここ」と読む。すごいセンスだ。)の、あまりにもあからさまな、極めて積極的である「好きだ」というアプローチに対して、話者である「いーくん」が、まるで「意地でも気づくものか」といわんばかりに、徹底的な鈍感によって処するところだ。これがもし、外から眺めた客観的な描写によって描かれていたのならば、いーくんは「意図的に気づかないふりをしている」と読めるだろう。しかしこの小説は「ぼく」という一人称で書かれているので、「ぼく」が気づいていない以上、読者は「気づいていないものとして」読むしかない。これはどう考えても無理がある。葵井巫女子というキャラクターが、徹底して裏表のない、思ったことを素直に表に出すようなキャラクターとして造形されているので、その無理は一層際だってしまう。「ぼく」である「いーくん」が、葵井のアプローチに気づいていないはずはないのだ。にも関わらず、「ぼく」は一貫して気づいていないこととして強引に話が進められる。このことが、葵井のぶっとんだ(コミカルで愛らしくもある)空転ぶりを物語に導入し、そのキャラクターを際だたせるのと同時に、話者である「ぼく」の、無意識的な(と読むしかない)他者への「拒否」の、異常とも言える(歪んだ)強さが強調される。謎解きが終わった地点からみると、「ぼく」は明らかにかなりはやい時点で葵井の「気持ち」を察しているとしなければ辻褄が合わなくなる。しかし物語の進展上は、あくまで「気づいていない」こととしなければスムースに話が運ばない。ここで物語の設計上の齟齬が生じ、記述のやり方としてフェアとは言えない記述の方法(つまり、徹底して葵井の気持ちを「気づかない」こととして記述が進められる)を強いられることになる。しかし結果として、ここで生じる細部の不自然な歪みこそが、「ぼく」によって語られる、まさに「戯れ言」としか言いようのない底の浅いシニシズムに彩られたセリフの数々などよりも、ずっとこの主人公の人格(=この小説の世界)の歪みを表現しているし、リアルな説得力をもたせてもいる。
●第二の歪みも第一のものと繋がっている。それは葵井が殺された現場での、主人公の異様なまでの「動揺」ぶりだ。ここまでの主人公の人物像を追ってきた読者なら(そして前作『クビキリサイクル』を読んでいる者なら尚更)、この動揺ぶりに不審を感じないではいられないはずだ。「ぼく」は、人の死どころか自分の死にすらにも動じないような人物ではなかったのか。まさにこの部分にトリックが仕掛けられているのだが、主人公の異様な振る舞いをみれば、ここになにかが隠されているだろうということは一読してバレバレではないか。まあそれは、とりあえず置いておくとして、他者の死に対してまるで無関心である、あるいは無関心であることを装うことに慣れてしまっているはずの主人公が、自分に対して非常に積極的に関係を迫ってきた人物である葵井の死体を前にした時にだけ、理不尽とも思える得体の知れない動揺を示してしまうという事実に、読者は強い印象(主人公の「ぼく」の「無意識」のうちの強い屈折のようなものと取りあえずは言えるだろう)を受けずにはいられない。ここでは、ネタが明かされてしまえば「なあんだ」というようなトリックが仕掛けてあるわけだが、しかし、トリックが理解できた後でも、ここで感じられた異様な印象は、突出した細部として、依然として残りつづけるだろう。その人物の求愛のアプローチを、不自然なほどに(拒否するのではなく)「気づかない」主人公が、その人物の死に対して、不自然なほどの大きな動揺を示す。この、通常では考えにくい(唐突な、予想しがたい)話者=主人公の心の動きの振幅の大きさが与える印象は、この小説の核ともいえる、一つのトーンとさえなっていてるように思う。つまりそれは、「他者」に対する時の「距離感」が、根本的に狂っている、あるいは、壊れているという感覚だと言える。
●前作『クビキリサイクル』は、現実にはあり得ないような設定のもとで、現実にはあり得ないようなキャラクターが動き回る話だったから、そこで交わされる会話も、全く現実離れしたものであっても(リアリティーなんて全くなくても)それ程気にはならなかったのだが、『クビシメロマンチスト』は、京都という現実にある場所が舞台で、しかもごく普通に居そうな大学生の話であるから、そこに前作で活躍したようなキャラクターや世界観が、どうしても上手く馴染まないという感じは否めないだろう。だから、前作で活躍した玖渚友とか哀川潤とかいったぶっとんだキャラクターは後方に退かざるを得ない。前作において「凡庸」であることの代表であったような話者の「いーくん」ですら、大学生のなかでは特異なキャラクターとして際立ってしまうだろう。このことから、前作では一応「語り手」に徹していた「いーくん」が、必然的に自らの意志で能動的に行動する(状況に関与する)役割を担うこととなり、そのためには「信用出来ない語り手」となるしかなかったのだ。そしてまさに自らの意志で行動する主役として、「いーくん」のキャラクターをもっと立てる必要が生じ、そのため、大学生たちに対しては「沈黙した存在」である「いーくん」が積極的に自らを語る相手としての、(あり得ない「友人」である)殺人鬼というキャラクターが必要とされたと思う。しかしこのキャラクターが充分に生かされているとは言えないし、彼らが語り合う内容も、あまりに安っぽい哲学という感じで、そのような部分がこの小説の明らかな弱点となっいてるように思う。

  舞城王太郎の『煙か土か食い物』と笠井潔
03/01/16(木)
●一体どんなものなのかと、舞城王太郎の『煙か土か食い物』を読んだ。ほとんどハッタリとコケオドシだけで出来ている。しかしそのハッタリやコケオドシがいっときも滞ることなく滑らかに流れ続け、退屈する暇もなく最後まで一気に読ませてしまうのはさすがだ。まるで本宮ひろ志の『大ぼら一代』や『男一匹ガキ大将』を読んでいる時の感じに近いと言えばよいだろうか。そして、読み終わった後にはほとんど何も頭に残っていないという点でも、同じようなものだ。饒舌な悪たれ文体で、あれだけ壮絶な家族の確執が描かれ、暴力に溢れ、血も沢山流れるのに、そられは文体のスピード感によって、電車の窓からの風景のようにまたたくまに後ろへと流れ去ってゆき、後には嫌な感触もずっしりとした重みも残らない。すべてがニセモノでありツクリモノであるという前提がまずあり、その上であらゆるものが組み立てられ、仕掛けられている。その限りにおいてはとても立派な創作物だと言えるだろう。
●しかし、ここまで書いてきて、それは本当なのだろうかという疑問もわく。こんな小説など偽物であると割り切っている確信犯的な作家像を思い浮かべると、それとは妙に齟齬をきたす細部もみえてくる。それはこの小説に埋め込まれた文学論的=自己言及的な部分に顕著にあらわれる。何か妙に純朴な文学青年風の匂いが随所に感じられるのだ。例えば、この小説の中心に位置する一家の男ばかりの4人兄弟の三男は、純文学くずれの3流ミステリ作家という設定になっている。その三男の書く物について、この小説の主人公であり話者でもある四男は、「本当に自分のこと」を書かないから3流なのだという評価をしている。文学賞やベストセラーくらいなら技巧によってものにすることは出来るかもしれないが、「本物の小説」は「本当に自分の大事なこと」を書かなければ駄目なのだ、と。勿論、作中人物の意見と作家自身の意見とを混同するなどというのは全く幼稚な読み方であるし、むしろこの部分は、一見ナイーブな文学観を示しているようでいながら、逆説的に、自分は「本当のこと」などいっさい描かずに技巧だけで楽々と文学賞でもベストセラーでもものにしてみせる、という挑発的な宣言として読めるような部分だろう。しかし、この小説にはレイモンド・チャンドラーやレイモンド・カーヴァーが引用されているのだが、その引用の仕方をみると、この作家が彼らの小説の「かっこよさ」に本気でシビレているように読める。すくなくともチャンドラーに関しては、これこそが「本物」なのだというサンプルのように引用されているように思えるのだ。つまり、どこかで「本物」を信じていて、「あえて」身をやつしている(照れ隠しをしている)という感じにも見えるわけだ。これは世を忍ぶ仮の姿であって、「本物」はちゃんと大切に隠してあるんだ、みたいな。(付け加えれば、この小説は様々なジャンクなものが雑多に散りばめられてはいるが、それらは次々と投入されては流れ去ってゆくという感じで、それ程は重層的に、複雑に絡み合ったりはしていない。つまり連打されるハッタリの押しの強さをどけてしまえば、この小説の「つくり」は案外単純なものであるだろう。だから、ハッタリの勢いに任せて、結構ホンネを紛れ込ませている、という感じもするのだ。)そう考えてみると、この小説の取って付けたような妙にきれいな終わり方も、「あえて」恥ずかしいほどに「チープな」終幕をしつらえた、のではなくて、この小説の展開の必然的な帰結のようにもみえてくる。読んでいる間はこの小説は、本宮ひろ志によってコミック化された(思いっきりチープな)中上健次の「秋幸もの」みたいな感じを狙っているように思えたのだが、よくよく考えてみれば、この話は、つっぱった(甘ったれた)暴れ者キャラの男が、ひとしきり暴れまわったすえに、結局は家族(というか「父親」)と和解し、母親的な女性にべったりと甘えて(頭を撫で撫でしてもらって)終わる、という最悪にマッチョな話の典型のようにさえ思えてしまうのだ。(よく考えれば、この主人公の男は、「父」と「母」への愛憎と、「兄弟」との闘争と同化にしか興味をもっていない、全くのドメスティックな人間であって、複数の家族をもつ私生児で、複雑に入り組んだ血筋が交錯する土地のなかで、常に「関係」について考えることを強いられる秋幸のような人物とは全く違っている。)
●だが、しかし、この『煙か土か食い物』という小説は、たんに「最悪にマッチョな話の典型」として切り捨ててしまうには、あまりに良く考えられ、良く出来ているように思う。少なくとも、簡単に尻尾を掴ませないくらいには、計算されていると言えるだろう。(だからついつい、他の作品も読んでみなくてはと思わされ、結局作家の思うつぼにハマッてしまうわけだ。)
03/01/17(金)
●昨日書いた舞城王太郎(『煙か土か食い物』)への疑問(疑惑)を簡単に繰り返す。その小説は一見、空っぽなものであり、ただ空虚を埋めるために費やされるハッタリめいた饒舌が繰り出されているだけで、その「内容」には積極的な意味などなく、積極的な意味があるとしたら、内容などないにも関わらずその「饒舌」を次々と繰り出さずにはいられない「何か」という部分しかない、というようなものに見える。(そのような意味で「現代的」である。)だか、実はそれは買いかぶりであって、よく考えてみると、たんに「口が悪いが気は優しい照れ屋」のように、悪ぶった文体のなかに本音を紛れ込ませているだけのロマンチックなハードボイルドであって、パフォーマンスの効果をあげるためにその悪たれた文体が過度にエスカレートしてしまっただけのようにも見えてくる、というものだ。この疑惑が浮上してくる原因として、主人公が作中で表明する文学観があまりにナイーブであることと、この小説の物語が案外まともな(古くさい)ファミリーロマンスの枠のなかに納まっている、ということがある。この小説は、壮絶な家族の対立があり、悲惨な暴力に満ち、全体に荒んでいるのに、妙に健康的で、肯定的な雰囲気が支配している。ここでは「トラウマを抱え、傷ついた私」というような、流行りの「歪んだ内面性」など微塵も感じられない。しかしそれは、「空っぽ」さの徹底(肯定)によるのではなく、この小説においては、どんなに暴力が横行し、荒れ果てていても、依然として「家族」という枠組みがしっかりと強固なものとして機能しているからに過ぎない。一方で、ジャンクな文体と荒れ果てた暴力の氾濫があるのに、もう一方では、それと全く断絶したところで、ほとんど神話的と言っていい程に「家族」という制度が無傷で存在している。この小説のリアリティのなさは、そのジャンクな文体によるのではなく、むしろ、当然壊れているはずのものがちっとも壊れていなくて、強固に存在しているところにあると思う。主人公は、人間は皆、死んだら「煙か土か食い物」になってしまうという事実に耐えられずに、どう考えても悲惨な場所でしかない「家族」に回帰し、そこに連なることを確認し、どう考えても許すべきではない「父親」を許し、彼からの愛情に満足し、兄弟と同化し、「母親」のもとで休らう。勿論、このあまりに安っぽい結末は、安っぽいのを承知で「あえて」やっているのだろうが、一見、人間は「煙か土か食い物」でしかないという即物性を肯定するような文体で書かれたこの小説が、「家族」という枠組に守られてしか展開出来ず、安っぽく感傷的な結末に行き着くしかなかったというのは、凄く大きな問題であるように思う。
●では、文芸誌における舞城王太郎はどうなのだろうと気になって、『熊の場所』を買いに出かけたのだが、近くにある比較的大きな書店をまわっても見つからなかった。書棚を見ていたら、笠井潔の『徴候としての妄想的暴力』という本が出ていた。ミステリなどのエンターテイメント系の作家を中心とした書評で構成されていたので、(笠井氏の本なので)あまり期待は出来ないけど、ガイドとして役立つかも、と思って購入した。
●で、舞城王太郎の本(『暗闇の中で子供』)について書いている部分だけをちらっと読んで、あっ、この本、全然役に立たないや、と思った。(ぼくは『暗闇の中で子供』は読んでないけど、この評では『煙か土か食い物』とほぼ連続したものとして捉えて書かれているので、そのようなものとして読んだ。)まず、舞城王太郎の特徴としてその文体を取り上げているのは順当なこととして、何とそれを説明するために持ち出されるのが吉本隆明の『マス・イメージ論』なのだ。舞城王太郎を説明するのに『マス・イメージ論』を使うなんて、舞城氏もびっくりのアクロバティックなやり方ではないか。しかし、そこで言われていることは大したことではない。笠井氏は、吉本氏がいわゆる文学的な言語とは違う、(当時新しいとされた)糸井重里や萩尾望都によって使用される言語について言及している部分を取り出す。要するに吉本氏は、彼らの話体は「コミュニケーションの必要」から出たものではなく「無意識の層の表出」である、というのだ。《孤独な乾いたじぶんの喋言る言葉を、じぶんから区別するためだけに発する話し言葉の世界がひらかれる。この話し言葉では対話の空間がきりひらかれるわけでもなければ、親和や対立がひき起こされるわけでもない。あたらしい日常的な空間が、あたかも独り言だけしかないような中性の領域にきりひらかれる。》(吉本)この文章だけみてみると、結構魅力的な文章ではあるのだが、これをそのまま舞城王太郎の文体に結びつけるのはどう考えても適当ではない。(だいたい糸井氏や萩尾氏の分析としても適当とは思えない。)「無意識の層の表出」という言い方はあまり良いものと思えないので言い換えるとすれば、斎藤環の『若者のすべて』で「ひきこもり系」の表現の特徴として挙げられていたものと通じるだろう。つまり、自分の「内的過程」そのものに興味を感じるような表現であり、そのように表現されたものは、既成の文脈に対するようなものではなく、直接発話者自身の「内的過程」が露出(湧出)するようなものとなる。しかし舞城氏の文体は何よりまずハッタリであり先制パンチであり、つまり他者を振り向かせ釘付けにさせる効果を狙った、高度にパフォーマンス性の強いものだというのは明らかだと思う。その文体は、読者が「なんだこれは」と思い、惹きつけられたり反発したりしなければ意味がないものとして計算されている。確かにそれは「コミニュケーションの必要」から出たものとは言えず(つまり伝達すべき「内容」は希薄で)、多分に独り言めいてはいるが、その独り言は孤独に一人の部屋のなかで呟かれるものではなく、大勢人のいる場所で、人々の注目を集めるために大音響で発せられているアジテーションだという点で全く異なっている。(つまり内容ではなく効果が問題となっている。)それに、徹底してジャンクなものであるその文体が「無意識の層の表出」となるなどということを、舞城氏は全く信じてなどいないだろう。その荒み方も悪たれ方も、あくまで技術として操作されたもので、常に明快であって無意識などではない。(だからここには、ある種の訳の分からない作品がもつ、気味の悪い「厚み」はない。)にもかかわらず、笠井氏は、舞城王太郎においては文章こそが「無意識」の「表出」としてあり、しかしそれだけだと底が抜けて拡散し、ただ際限なくまき散らされるだけで纏まりようがないので、そこにミステリ(探偵小説)とか、ファミリー・ロマンス(近代小説)とかの近代的な「定型」を外側からの規制として必要としている、という話になってしまう。このような読み方は詰まらないというだけでなく、完全に間違っている。舞城氏にとって、ミステリやファミリー・ロマンスが形式であるなら、当然ジャンクな文体だって意識的な形式である。いくら何でも舞城氏はその程度のことには意識的であるはずだ。(そこに「無意識の層の表出」を読むとしたら、それらの形式がどのように使われ、どのように結びつけられ、どのように綻びているかが分析されなければならないだろう。)ここで問題とすべきなのは、これらの小説がドメスティックな「家族」の物語であることの必然性だと思う。ファミリー・ロマンスは本当に、たんに「借りてきた」外的な形式にすぎないのだろうか。これらの小説の饒舌な一人称の文体は、決して「無意識の層の表出」ではないが、しかし「対話の空間がきりひらかれるわけでもなければ、親和や対立がひき起こされるわけでもない」ということは確かであるだろう。そこで開かれるのは「あたかも独り言だけしかないような中性の領域」(=個の領域)などではなく、「家族」という、決して同一ではないが、しかし未分化であるような、逃れ難く耐え難い「ぐちゃぐちゃ」な相互依存の空間であり、問われているのは、そこからの脱出の可能性と不可能性であろう。
●ぼくは、『煙が土か食い物』だけを読んだ現時点では、舞城王太郎という作家に対して懐疑的だ。でも、笠井氏の批評のようなものを読むと、いくら何でも舞城氏の小説はそんなにつまらないものではないはずだ、と思ってしまう。

  舞城王太郎『熊の場所』
03/01/24(金)
●舞城王太郎『熊の場所』を読む。ここに収録されている3編の小説を読んでまず思うのは、文芸誌における舞城氏は、ミステリほどには成功しているとは言い難いということだ。3編の小説を通して言えるのは、舞城氏の意外なほどの不器用さであり、方法や技術の欠如であろう。
●『熊の場所』は3編のうちでは最も成功している作品だろう。全体的な「つくり」や「纏め方」がやや通俗的すぎる(特に、父親のジャングルでの体験の挿入の仕方はあまりに芸がなく浮いていて、描写も安っぽいのと、オチの付け方が「オチ」っぽすぎるのが気になる)ことに目をつぶれば、これは「普通に良い小説」だと言えると思う。舞城氏の特徴であるハッタリめいた饒舌な文体は適度に抑制されていて、そのかわり少年の「まーくん」に対する感情が丁寧に描き込まれている。ここでは読者をハッタリで圧倒するのではなく、あくまでオーソドックスに主題を追求することで勝負しようとしているようにみえる。過剰な厚化粧を落としてすっぴんに近い舞城氏は思いの外地味めで、生真面目そう、みたいな感じ。(ただ、「恐怖とは一体なんだろう。恐怖とは、一体何に対して生じる感情なんだろう。」なんいていう一行を、前後にスペースを空けてまで強調したりするのは、作品をすごく安っぽく解説してるみたいでカッコ悪い。)この作品がある程度成功しているのは、舞城氏のこのような「主題」に対する思い入れの深さによるものと思われる。(物語があまりにも現実に起こったある事件と似ているということは、それほど気にはならないように思う。)
●『バット男』は、一転して舞城氏の弱点ばかりを凝縮したような作品に思える。冒頭から披露されるいつもの饒舌な文体はまったくの空回りかつ空疎なもので(まるで、ねじめ正一の詩を読んでるみたいだ)有効に機能してなくて、これがすっとつづくのかとうんざりしていると、唐突に、妙にナイーブで気恥ずかしいほどの「青春物語」になり、そして結末はまるで村上春樹を思わせるような「いかにも」な「抒情」に逃げて終わる。冒頭のハッタリと、中盤の「青春物語」と、強引な抒情的な結びのそれぞれが、ちぐはぐで上手く繋がってなくて、バラバラに乖離しているものをただ並べただけにしか感じられない。(うまくまとまっていない。)『バット男』という作品のこのようなあり方は、『煙か土か食い物』を読んで感じた、ぼくの舞城氏への懐疑(1/16〜1/17の日記参照)が的外れではなかったことを確信させてくれる。読者に対する強い印象を意図したジャンク的ハッタリ文体と、通俗的でナイーブな「文学的物語」とを混ぜ合わせ、それを「抒情」によって強引にまとめあげるというやり方は、『煙か土か食い物』ではある程度の成功をおさめていると思うが、『バット男』では上手くいってなくて、空回りしている。(特に、中間の「青春物語」的な部分など舞城氏の物語に対するあまりの無防備さが露呈してしまっていて、まるでカラオケで聞かされるブルーハーツの曲みたいで、引いてしまう。)ここでの明らかな「失敗」の原因は、短編と言って良い短い分量で小説をつくりあげることに対する方法的な意識と技術の欠如というだけでなく、主題として描かれている、ある種の暴力の連鎖や愛情関係に関する洞察が、新聞の三面記事以上の深さをもっていないことに主な理由があるように思う。暴力の連鎖を「金属バット」という物質で表現するという、割合とありふれた文学的な手法を、ちょっとした目新しさの意匠で包んだだけでは、読者は納得させられないだろう。
●『ビコーン』の結末部分のあまりに馬鹿馬鹿しい展開は個人的にすごく好きなのだが、そこにまでもってゆく前半から中盤への部分が、それにみあうテンションをもっていない。ナンセンスな馬鹿馬鹿しさだけで小説をもたせようとするのなら、この程度のことでは全然足りないように思う。書き出しから中盤にかけての、一人称の饒舌な文体は無意味なマニエリスムという以上には思えないし、同棲中の恋人を偏愛する「族」あがりのヤンキー姉ちゃんが、実は文学書を好む頭の良さと(探偵役でもあるので頭が良い「必要」があるのだ)、生活を立て直そうとするけなげさをもっている、というような「一捻り」のキャラに「萌える」のは、せいぜいが頭の古いオヤジくらいのものだろうし(ぼくとそれほど年齢のかわらない舞城氏が、「頭の良いヤンキー」というキャラに弱いのは、なんとなく分かりはするのだが)、その女の子が、美しくてセックスも凄いけど頭の足りない頼りない恋人を更正させる手段が「八百回のフェラチオ」であるというアイディアなど、いまどき文芸誌の読者だって驚きはしないだろう。(『熊の場所』と『バット男』があからさまに村上春樹を想起させるのに対して、『ビコーン』は阿部和重を思わせる。しかし阿部氏のテキストの緊密さに比べると、『ビコーン』ではまだまだスカスカ過ぎるように感じられる。)
●この3編の小説を読んで思うのは、舞城王太郎という作家は、良い意味でも悪い意味でも素朴でオーソドックスな作家であるということで、この作家を「新しさ」とか「挑発性」みたいなことで評価するのは、評価の軸が間違っている様に思う。
●余談だが、舞城氏のイラストレーターとしてのセンスはたいへんなものなのではないだろうか。『熊の場所』という本に掲載されている2枚の「熊」のイラストレーション(半透明の紙と、目次部分に印刷されているやつ)は、もしかしたら3編の小説のどれよりも面白いのじゃないかとさえ思う。

  黒沢清『アカルイミライ』
03/01/20(月)
●渋谷シネ・アミューズで、黒沢清『アカルイミライ』。そこに何か未知の驚くべきものが見えているわけではない。スクリーンの上に映し出されているものは、むしろ見慣れたものばかりだ。黒沢清は、新しいものを求めて常に移動してゆくような作家ではない。逆に、ほとんど同じ様なことばかりを、いつもいつも繰り返しているとさえ言えるだろう。しかし、その「同じ様なこと」が、その都度その都度、とまどうしかないような新鮮なものとして立ち上がってくる。この映画は、良いとか悪いとか、面白いとかつまらないとか言えない、とまどい、動揺するしかないような映画だ。だが、とまどい、動揺するのはあくまでそれを観ている観客であって、映画それ自身ではない。映画は、これ以外の形はありえないというほど、きっぱりと確信に満ちた様子で存在しているようにみえる。『アカルイミライ』を観ていると、黒沢清という人は、ほとんど「物語」を必要としていない人なのではないかとすら感じる。ここ数十年の間に世界中で次々と生産されてきた様々な物語の、その全ての息の根を止めてしまおうという、強靱な殺意のようなものが感じられる。
動揺を静めるために、黒沢清の最近の作品は二つの系列に分けてことが出ると、とりあえず言ってみることが可能だろう。一方に『CURE』や『カリスマ』、『降霊』、『回路』という系列。もう一方は『ニンゲン合格』や『大いなる幻影』のような系列。前者の系列を、いまさらジャンル映画の解体や脱構築などといっても意味はないが、しかしそれでも、いかに解体され尽くし、破綻していようと、これらの作品が、ジャンル映画の記憶や、あるいはジャンル映画を成立させていたシステムから、多くのものを得ていることには違いない。対して後者は、ジャンルという外枠はなく、明快な物語のラインも、人物の特徴もないまま、個々のシーン、個々のショットが、かろうじて繋げられているような作品であろう。(あえて言えば、それらの作品は、「現在」や「映画」を直接的に主題化している、と言える。)だがそれらのシーンやショットは、曖昧な気分やら予感やら感性やらで繋げられているのではなく、ひとつひとつが決定的な出来事として、我々の前にあらわれる。だから、はじめから物語を追い、そこに入り込むことを禁じられている観客は、その決定的な出来事を、ただじっと眺めていることが出来るだけだ。(感情移入という想像的な「介入」さえ許されない。その時観客は、物語内部に入って感情移入できない分、作家黒沢清に過剰に感情移入してしまいがちだという危険もあるのだが。)そして、『アカルイミライ』は後者の系列に属すると言えるだろう。だが、これらの二つの系列はたんに便宜上分けられるだけで、本質的な違いはない。黒沢作品は、どの作品のどの瞬間もそれぞれ似通ってはいるが、同時にそれぞれ決定的に違ってもいる。基本的に「同じ様なこと」を何度も反復する作家である黒沢清には、「代表作」という概念があてはまらない。あらゆる瞬間がそれぞれに決定的であり、だからこそ、どの特定の作品も特権的ではあり得ない。(ぼくの感じでは、最近の作品はだんだんと、初期の8?時代の作品、とくに『SCHOOL DAYS』の感触に近づいているように感じられる。)
『アカルイミライ』が、後者の系列のほかの2作品と大きく異なっている点は、「ユーモラスな感じ」や「余裕」が欠如しているということだろう。そしてその代わりに、ひとつひとつのショットが直接肌に擦れるような、あるいは振動が衝撃として伝わってくるような感じを観客に与える。これは主にデジタル・ビデオの画質と、その意識的な使用によるところが大きいと思われる。簡単に言えばDVの画像には「空間」が映らないように見える。かなりの「引き」のロングショットであっても、そこには広さや距離感、空気感といったものが映らずに、ただスクリーンの表面に色彩と形態がべっとりと染みついているような画面なのだ。このような画面を選択するということは、黒沢清の特長とも言える、空間的な演出をほぼ放棄するということでもある。ショットとショットのモンタージュは、空間の構成ではなく、イメージの明滅や切り替えの構成ということになる。そのような演出では客観的、即物的な「距離」が見えなくなってしまい、距離はまるで「夢」のなかのように蓋しかで、まさに盲目的に「手探り」で探られるしかないようなものになってしまうだろう。そしてこのことは、この映画の登場人物たちの関係(=距離)のあり方と当然重なってくる。このことが、彼らから、そしてこの映画から「ユーモア」や「余裕」を奪ってしまい、手探りの盲目性や、肌に直接打撃を与えるような暴力性を強調するのだ。黒沢清はあくまで黒沢清であり、ほとんど同じ様なことを反復するのだが、DVという現代的な映像の支持体が、黒沢清からある側面を強く引き出すということだろう。
(追記。空間の演出が全く放棄されているわけでは、当然ない。例えば、浅野忠信とオダギリジョーが社長の家に食事に呼ばれた帰り、社長の家からやや離れた場所で二人が振り返ると、ガラス戸越しに社長の家のダイニングの様子が見え、浅野がポツリと「嵐がおきるかもな」とか何とか言うシーンでは、見事な空間が演出されている。しかし、全体的にみると、黒沢的な空間の演出は、フィルムで撮られる作品とはあきらかに変質が生じている。そしてそれがそのまま、登場人物同士の関係にも影響しているようにみえる。)
『アカルイミライ』を観るという体験は、胸のあたりに低く重たい衝撃波をずんずんと感じ、その衝撃がじわじわと身体全体にひろがってゆくような体験だった。この映画を観ながら、ぼくは何度もあるフレーズを思いだしていた。それは「批評的世界」というHPの杉田さんが日記で引用している、次のようなベンヤミンの言葉だ。《事実カフカの語るように、無限の多くの希望があるのだが、ただ、ぼくたちのためにはない。この命題にはほんとうにカフカの希望が内在している。彼の輝くばかりの晴れやかさは、この命題から湧き出している。》(ベンヤミン「カフカについての手紙」)この世界には無限の「アカルイミライ」がある(あり得る)のだが、でもそれは決してぼくのためのものではない。世界には希望があるが、それはぼくのためにあるものではない。ぼくのためにあるわけではない希望が、しかし世界には無数に可能性として存在している。そしてそれだけがぼくの希望であり得る。『アカルイミライ』が指し示しているのは、そのような世界を生きる個人の「生」のかたちなのだと思う。

  『網状言論F改』と『アカルイミライ』
03/01/21(火)
●黒沢清の『アカルイミライ』について考えるためにも、01/19に書いて、消えてしまった『網状言論F改』の感想について、出来るだけ簡潔に、もう一度さらってみる。
●東浩紀のオタク系の仕事の分かりづらさは、そのスタンスの分かりづらさによるものと思われる。東氏にとって、「オタク」とは分析し記述する対象であると同時に、同一化の対象でもあり、またどちらでもない。その仕事は、「オタク」を客観的に捉え、記述しようとするものでもなく、だからと言って「オタク」的主体こそ来るべき主体の有り様であるという風に、同一化し持ち上げるわけでもない。(どちらにしても中途半端である。)オタクから日本社会をみるという趣旨の『動物化するポストモダン』では、オタクというある特異な消費行動(その消費がそのまま生産にもつながっている)をする一群の人たちの行動やその生産物(表現)をみることで、現代日本のポストモダン的な有り様を浮かび上がらせるという、一応擬似的な社会学的(社会批評的と言うべきか)な手法が用いられているが、しかし実はその多くの部分が、オタク的な感性との「同調」によって、言ってみれば文芸批評的な手法に依っているように感じられる。それは、「現代という作者は誰か」というモチーフを、文芸批評として展開する吉本隆明の『マス・イメージ論』を思わせもする。
●ぼくは「オタク」的なものの現在に特に強い関心はない。そこに面白そうな作品なり現象なりが発生すれば、それを享楽し、それについて思考したいと思うが、アニメやギャルゲーやエロマンガなどの最前線にアンテナをはり、それに寄り添い、または逐一それをリサーチしようなどとは思わない。だからぼくが『網状言論F改』を読むのは、イメージ論としてであり、キャラクター論としてである。ここで言うキャラクターとは、アニメのキャラクターというようなものだけでなく、ある記号なり図像なり作品なり人物なりを、「個」として、固有なものとして認識するための「ある特徴的な印」のことである。
●『網状言論F改』の6人と著者たちは、それぞれに興味深いことを散発的にいろいろ言っているのだが、ここではとりあえず、『不過視なものの存在』以来つづいている、東浩紀と斎藤環との(まるで漫才コンビのような相互補完的な)対立に沿って考えてみる。
周知のように東氏は、近代的な物語の装置としてある、目の前の小さな物語(可視的な表層)を読むことを通じて、その背後の大きな物語(不可視の深層)を感知するというような認識のあり方が崩壊し、たんに膨大なデータの集積であるデータベースから、その都度ランダムに取り出され、読み込まれただけの表層的な物語が、次々と明滅してゆくというような物語装置(世界認識)がポストモダン的な現在の特徴であるとする。そのような事態を端的に示す例として、「でじこ」というキャラクターの成り立ちが示される。「でじこ」はそのキャラクターに何かしらの固有性を与えるような背後にある物語をもたず、ただ、人がキャラクターに「萌える」ための視覚的な要素を複数組み合わせただけのものとしてつくられている。このような、まるでモンタージュ写真のように切り貼りされたようなキャラクターが人気を得てしまうという事実こそが、深層として表層を背後から支える物語が消失してしまっていることを示しているのだ、と。それに対して斎藤氏は、たんに「萌え要素」の切り貼りだけでは「萌え」は成立しない。逆に、たった一つの特徴さえあれば「萌え」は成立し、複数の「萌え要素」というものは、「萌え」が成立した後(つまり「固有性」が獲得された後)に、事後的に見出されるのだ、とする。斎藤氏にとって、「萌え」とはフェティシズムの一種であり、つまり母親のペニスの不在を想像的に否認するもの、母親のペニスの代替物なのだ。それは、現実を覆い隠すことで、隠れたものにリアリティをもたせる「覆い」である。(だからこそ、純粋に虚構の存在であるキャラクターに「萌える」ことが出来る。)セクシュアリティは象徴的な次元で決定されるものであり、エロスとは想像的なもののなかに象徴的なもののダイナミズムが認識されることで発生するのだから、キャラ萌えは、東氏の言うように象徴的なものの崩壊(機能不全)によって生ずるのではなく、むしろ、「萌え」はポストモダン的な情報化(データベース化)への「性的なもの」による抵抗なのではないか、とする。(エロスが想像的なもののなかに象徴的なもののダイナミズムをみることだ、とは、例えば象徴的なものの視覚化である「制服」に対するフェティシズムなどをみると分かり易い。斎藤氏は『文脈病』で、「顔=固有性」はロゴス(=象徴的なもの=シンボル)と、ゲシュタルト(=想像的なもの=イメージ)の臨界にあらわれる、というようなことを書いている。この二つを繋いでみると、顔=キャラクター=固有性の成立は、エロスの発生と密接に関わっていることになるだろう。)しかし東氏は、そんな「母親のペニスの不在の否認」とかフェティシズムとか、そういうややこしい「人間的なもの」を経ずに、たんに萌え要素の切り貼りでしかないようなイメージに「自動的」に反応してしまう主体があり、それこそが「動物化」ということなのだ、とする。だが、斎藤氏は、人間にはそのような「動物的」反応など不可能なのだと答えるだろう。
(つづく)
03/01/22(水)
●ここで面白いのは、斎藤氏が、キャラ萌えするための「たったひとつの特徴」を成立させるもの(つまり「固有性」を認識させるもの)、いわば象徴的な「萌え要素」として、「言葉」、「欲望」、「感情」を挙げているところだ。キャラクターが、ある「たったひとつの特徴」を与えられることで、そこに固有性が生じ(人格化し)、萌えることが可能になる。ある、人物を思わせる図像でしかないものが、例えば、それが発する言葉に「〜にょ」とか「〜だっちゃ」とかいう奇異な語尾が付随したり、「あんたバカーッ」とかいう特徴的なセリフが反復されたりすること(=言葉)や、それが「猫好き」だったり「割り箸へのこだわり」をもっていたりという風に、固有な好みやこだわりをもっていること(=欲望)や、それがキャラクターとして感情を強調して表現されていること(=感情)によって、固有のキャラクターとしての「人格」を与えられ、それを欲望する、あるいはそれと同一化することが可能になる。斎藤氏のこの意見が一定の説得力をもつのは、視覚的な要素(想像的なもの)だけでは、ある図像から固有性(人格のようなもの)を感じさせる力としては弱いと感じるからだ。(例えば、「木」のような生物でないものをキャラクター化しようとするときに重要なのは、それをいかに人に似せるかということよりも、それをどのように(人であるかのように)喋らせ、動かし、どのような感情を与えるかということの方であるだろう。あるいは、人にちっとも似ていない物、例えばコンピューターにでも、人のような名前を与えることで、容易に人格化することが出来るだろう。あるいは、ほとんど同じ図像であっても、異なる性格づけや、異なる喋り癖を与えることで、まったく 異なるキャラクターをつくることが出来るだろう。あるいは、視覚とは別の次元で、そこに固有性=顔があるのだという情報があらかじめ与えられてしまえば、例えば心霊写真のように、影や滲みに過ぎないものに、簡単に顔=キャラクターを見つけてしまうことが出来る。等々。)しかし、本当にたったひとつの特徴によって「固有性」が獲得されるというなら、逆に考えれば、我々は通常の(実在の)他者についても、この程度の低いスペックの処理で済ませていることになってしまう。
●東浩紀は『郵便的不安たち』(確か宮台真司との対談だと思う)で、今の若い奴は、すごく近いこととすごく遠いこと、自分の恋人との関係か、もしくは宇宙の破滅か、どちらかしか分からなくなっている、中間が抜けている、とかいうようなことを言っていて、それこそが「象徴界」の消失を意味している、という話をしていた。しかし『網状言論F改』の斎藤環は、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』のような作品(どちらも散々噂には聞いているけど、ぼくは実際にみてはいない)を例に挙げ、そこでは自分の身近な恋人との関係と、遠くにあって自分の力ではどうにも出来ない戦争との間にある、どうにも繋がりを見出せない乖離を埋めているものは、「感情」という象徴的な機能なのだ、とする。確かに、遠くの世界と近くの世界、俯瞰的な認識と身の丈の現実、可視的なものと不可視のもの、それらの間を知的なシンボル操作によって媒介することは難しくなってはいるだろう。しかし、その代わりに、そこにある巨大な空虚は「感情」のひろがりによって媒介され、接合されているのだ、と。(感情というのは、間主観的であり、同調しやすく、多くの人に瞬時に共有されるという点で、象徴的な機能をもつ、ということだろう。)確かに斎藤氏のこの話は、現代の極度に幼稚化した、やたらとイノセント(天然ボケ)ばかりが求められるような世界のあり方の説明として、とても強い説得力をもつ。(イノセントな存在は、どのような利害関係にも知にも汚されていない、純粋に「感情」的な存在であり、そのことによって無限に感情を受け入れ、または感情を放出することが出来き、それによって媒介的存在と成りうる、ということか。)しかしこれは現状のなし崩しの肯定であり、現在の現実に対してどのような批判的な力も持ち得ないだろう。動物ではない人間は、他者との直接的な繋がりが絶たれていて、バーチャルな次元の象徴的な交換によって他者と交通するしかない(ラカン)とすれば、知的なシンボリックな操作によって他者と媒介されないとすれば、感情による同一化と反発という直接的(実際には象徴的な機能であるが、直接的という幻想を持ちうる)やり方で他者と関係するしかない、ということになる。このように「感情的な無垢」であるような斎藤的な「動物的主体」は、東氏による「動物的な主体」よりもずっとタチが悪いと言いうるだろう。それは端的に、「マイペース」で「不思議ちゃん」な「困った人」ということになろう。ぼくは大澤真幸は嫌いだが、便利なのでその図式を借りて言えば、彼ら(斎藤的動物)は、連合赤軍(理想)やオウム(虚構)と全く同様のカタストロフを、「感情」によって引き起こすだろうことは明らかではないのか。
●黒沢清の『アカルイミライ』は、このような現在をまるごと受け入れながらも、そこでどのような批判的な身振りがあり得るか、しかも、批判的な身振りであることがそのまま「生」の肯定であるようなことが可能なのか、という困難な問いに立ち向かっているように思える。映画の途中で、何処にいるとも知れないクラゲにエサをやろうとするオダギリジョーの行いに感動してしまったぼくは、いかにもまだまだ甘いのだ。黒沢清は、どのような「物語」にも「夢」にも「感情」にも希望を見出すな、ということを示す。アカルイミライは、そこからしか見えないのだ、と。

  『アカルイミライ』、二回め
03/02/12(水)
●渋谷のシネアミューズで『アカルイミライ』二回め。平日の午後1時50分からの上映にも関わらずほぼ満席で、しかも観客の大半が女の子で10代だろうと思われるというのは、渋谷という土地がらや、ごく小さな規模の映画館ということを考えに入れても、黒沢清の映画としては異例のことなのではないだろうか。しかも上映終了後の「空気」がとても肯定的なもので、あちこちから、凄く面白かったとか、感動したとかいう声が聞こえてくるのだった。『蛇の道』や『蜘蛛の瞳』などが上映された中野武蔵野ホールは、はじめからマニアックな観客ばかりが集まっているのだろうから別として、『ニンゲン合格』や『回路』の悲惨なまでのガラガラぶりや、『大いなる幻影』の上映後の、「なんだかよく分からない」という反応で満ちた空気こそが黒沢映画の上映される環境だと思いこんでしまっている者としては、決して黒沢清目当てとは思えないように見える観客たちのこの反応を目の当たりにして戸惑いを感じるとともに、『アカルイミライ』という映画には今までの黒沢作品とは違った何かが、確かに写り込んでいるのかもしれないと感じさせるものがあるのだった。
●『アカルイミライ』のリアリティを支えているものの一つに、この映画が徹底して「貧乏」な環境についての映画であるという点があると思う。それは、デジタルビデオによって(部分的には家庭用のビデオカメラによる映像も混じっているらしい)ほとんど照明を使う必要なく全てロケーションによって撮影され、画面の多くの部分が塗りつぶされたような闇で占められ、場所によってはあからさまに粒子の荒れた、ピントの甘い映像すら紛れ込んでいる画像というかたちで直接的に示されてもいるだろう。
●更新を休んでいる8日から10日間、ぼくは祖父の十三回忌のために実家に帰っていた。祖母の方は、今年90歳になるのだが元気だ。祖父が亡くなって13年もたつのだが、祖母は今でもほぼ毎日墓参りを欠かさないし、仏壇に手を合わせることも忘れない。食事の前には自分の茶碗を一度仏壇にあげて手を合わせてから食べるし、何かというと「お父さんも喜んでられるでしょうよ」とか「お父さんにも報告してあげましょう」とか言う。病院から祖父の遺体が返され、祖父がずっと使っていた布団に横たえられたその遺体の脇で一晩じゅういろいろと語りかけていた死の時から今まで、祖母はずっと死者と共に生きていると言える。ぼくはこのような生活を過度に美化するつもりはない(実際に一緒にいると苛つくことさえある)が、やはりそれでもその事実に感動を覚えはする。しかしこのような生活もある程度の経済的な余裕によって成り立っているのも確かだ。国鉄職員だった祖父には退職後もずっと「恩給」というのが支払われていて、何と本人の死後も少額ながらその妻である祖母に支払われつづけている。(旧国鉄があれだけ膨大な借金を抱えているにの関わらずだ。)ぼくの両親と同居している祖母には、(年金+恩給があるので)普通に生活するのに経済的に困ることはまずないだろう。ぼくの父親は物心ついた頃に終戦を迎え、高度経済成長の初期に就職し、サラリーマンとして最も収入の多い年代がバブル景気と重なり、バブルが崩壊する頃には退職を迎えていた。つまり、たんに「経済的」な側面だけから見れば、最もおいしい世代であると言えよう。父は特に出世したというわけではない一介のサラリーマンで、ぼくがその遺産をあてにできる程の財産などありはしないが、しかしそれでも両親が自分たちの老後を不自由なく暮らせる程度の蓄えはあるはずだ。このような話が『アカルイミライ』とどう繋がるのかと言えば、今後の日本において、祖父母や両親が当然の前提のようにして生きていた「右肩上がりの経済成長」に基盤を置いたそのような社会的なシステムが作動し得なくなっているという事実がある、ということだ。ぼくの子供時代は、祖父母や両親の子供時代に比べれば比較にならないくらい経済的に「豊か」な生活を送っていたはずだが、しかし今後は、彼らが大人や老人として生きてきた生活に比べて、ずっと「貧しい」時代を生きるしかないのだと思う。一部の特権的な金持ちを除いて、社会全体が「貧乏」であるような時代に本格的に突入してゆくだろうという感覚が、日に日に強くなってゆく。「貧乏」であるということはつまり、収入も生活も「安定」しないということだろう。つまり、特別な能力があるわけでもない人物が、ただ勤勉に仕事をこなすことを続けるだけで、ある程度の財産を築くことが可能であるようなシステムは崩れたのだ。(一方で、資本主義は際限なく欲望を刺激しつづける。)このような社会のなかで「生」を生き、年齢を重ねてゆくのはとても過酷で困難な事であろう。しかし逆に考えれば、「貧しく」あることによって、共同体や資本主義と「より少なく」関係するだけで生きてゆける、あるいは、関係を全く別種のものとして構築し直す、という可能性が浮上してくるだろう。このような「貧しい」世界においては、「家族」との関係も「労働」との関わりも、以前とは異なったものとならざるを得ないからだ。『アカルイミライ』という作品が賭けられている「貧乏」さとは、このような意味のものだろう。
●『アカルイミライ』において最も輝かしい位置を与えられているのは、未だ何物でもなく、社会との接点すらもっていない高校生たちである。彼らの犯す「犯罪」は、世界との無媒介的な接触であり、官能的な歓びそのものであろう。彼らは警察に捕まっても、それは大した傷にはならない。しかしオダギリジョーにとってはそうではない。多少なりとも社会との接点をもつ彼にとって、犯罪は純粋な歓びとはならない。彼はすでに社会的な責任を背負わされているからだ。だが、そのオダギリも、未だ自分の「現実」を構築してはいないから、「ここからでは世界が見えない」とかなんとか言って藤竜也のもとから離れてゆく自由を有しているだろう。藤竜也にとっては、目の前の「現実」が動かすことも逃れることも出来ないものとしてある。彼に出来ることは、自分が存在するために、自分の責任において、自分のみすぼらしい現実を引き受けることだけだ。クラゲに「夢」を託そうとする藤は、クラゲに拒否され、刺されるだけだ。クラゲはクラゲであり、藤は藤でしかないからだ。個は個として、自らの貧しい現実を引き受けることしか出来ない。しかし、それでも個は個として、ほんの一瞬であっても他者と関係することが可能だし、その、個としての関係のなかで「他者の存在」を許すこと(肯定すること)が可能である。「お前」を許し「お前ら全て」を許す藤は、例えば高校生たちに殺されることがあっても、それを受け入れるだろう。未来は常に「明るい」が、それは「私」のためにではないからだ。しかしなんという過酷な世界であろうか。例え、藤の傍らに息子の亡霊がそっと寄り添っているとしても。
03/02/13(木)
(『アカルイミライ』について、ちょっと補足)
●ラストシーンで表参道を歩いている高校生たちは、川を下り海へと向かうクラゲたちと重ね合わせられているのだが、それだけではなくて、両親を殺され、たった一人でトンネルのような道を歩いている少女の姿とも重ね合わせられていることを忘れてはならないと思う。両親を失うことで、居場所も、保護してくれる人も失い、行く先のあてもなく街をさまよう少女。このショットは、悲しみというより、強いショックと不安の感覚を観客に与えるだろう。(世界は、浅野とオダギリと笹野との関係だけで出来ているのではない。)勿論この少女は、両親の死によって孤独になったのではない。社長の家を出た浅野忠信が振り返った後の、少女が一人で階段を登ってゆくショットが何よりも明確に示しているように、もともと一人だったのだ。ものすごく極端な言い方をしてしまえば、両親の死によって「あんな家庭」からようやく「解放された」とさえ言えるかもしれないのだ。しかしだとしても、その解放はあまりにも過酷であろう。たった一人で、どのような保護もなく世界と対峙してゆくには、彼女はまだあまりにも若すぎて、ただ寄る辺ない視線を宙にはわせて歩いているしかないのだ。ラストの高校生たちもまた、彼女と同等の寄る辺なさのなかを歩いているのだ。彼らは群れてはいるが、結局は一人一人でしかないし、前に向かって進んではいるが、どこか向かうべき方向が定まっているわけでもない。(おそらく、ここで行く当てもなく不安定に彷徨う少女や高校生たちは、相米が執拗に追い続けた少年、少女の姿と直接繋がっている。)親を殺されて、あてもなく彷徨う少女のショットと、ラストの高校生たちの歩くショットは、常にワンセットとして想起されなければならない。そうでなければ、少女はただひたすら悲惨であり、一方、ラストは、ただ「若者」たちに未来を託して終わりということになってしまう。『アカルイミライ』において、未来に対して開かれているということは、そのまま、現在の時点では、行く当てもなく寄る辺もないということと同じなのだ。(つまり、少女にとっても未来は「明るい」のだ。)
●一方に、まだ何物でもなく行く先のあてもない若者たちがいて、他方に、自分が迷い込んでしまった「現実」に対して、自己の責任において留まるしかない中年の男がいる。そして、未だ何物でもない者から、何かしら自身の「現実」を構築しはじめようと移行しつつある者がいる。藤竜也にとって揺るがしがたい現実として存在するリサイクル工場は、移行のただ中にいるオダギリジョーにとっては、体勢を立て直すために一時留まる(時間を宙づりにする)ための、川の流れの脇にある淀みのようなもの、一種のアジールとして機能する。『ニンゲン合格』のあの家(牧場)のように、『ユリイカ』のバスのように、オダギリにとってリサイクル工場は、移行の途中にほんの一瞬だけ浮かび上がる幻影のようなものであろう。『アカルイミライ』の藤-オダギリの関係は、『ユリイカ』の役所-宮崎将、あおいの関係と、さらにその発展形としての『月の砂漠』の家族の関係とに対応するだろう。しかしここで、黒沢清と青山真治との決定的な違いは、黒沢(的登場人物)においては、その場所における「関係」を、ある一定以上の期間「持続」させようという意志がないということだろうと思う。例えば『月の砂漠』には、林檎を買ってきて食べるという一人で出来る行為を、「父が林檎を買い、母がその皮をむき、子供が皆にそれを食べさせる」といった「約束」が必要で、それが家族という関係を支えているのだというセリフがあった。しかし『ニンゲン合格』に顕著にみられるように、黒沢にとっては(アジール的な場における)「関係」はほんの一瞬だけまぼろしのように成立し、すぐに消えて再び人々はバラバラに散ってゆくことになる。(『アカルイミライ』においては、藤が養子縁組を考えたのと同時に、オダギリは「ここを出て行く」ことを決意する。)黒沢にとって「関係」は偶発的なもの(あるいは「世界の規則」)であって「約束」(あるいは「「人間の規則」)によるものではない。(黒沢の映画は「世界の規則」を描くもので、「人間」を描くものではない。)黒沢がその作品の風土から、恋愛や性愛という要素をなるたけ排除しようとするのは、そのような「関係」に対するプラトニズムからくるのだろう。対して、青山は、人は恋愛や性愛を欲望するし、ある関係を持続させようと望み、そのために「物語」を必然的に必要とするのだ、と応じるだろう。(『ユリイカ』において、役所-あおいの関係は、あきらかに性的な吸引力によるものだし、役所-将の関係にも、同性愛的なニュアンスが色濃く漂っていた。斎藤陽一朗がラスト近くにバスから排除されるのは、役所-あおいが「二人きり」になりたかったからだとも言える。)そのとき、ある「関係」をより良いモノ(よりマシなモノ)にするために、既にある関係を「約束」によってあたらに作り直す必要があるし、物語をも、新たなモノとして語り直す必要があるのだ、と。
03/02/14(金)
●「群像」に載っていた、笠井潔と三浦雅士の対談『現代文学の最前線』をパラパラ眺めて、暗澹たる気持ちになりため息が出る。つまり「群像」としては、佐藤友哉や舞城王太郎などを「講談社ノベルス」の作家としてではなく、「群像」の作家として押しだしたいと考えていて、そのために、笠井氏にこれらの作家の登場してきた背景を語ってもらい、三浦氏によって「お墨付き」を得たい、ということなのだろうが、しかしこれではあんまりではないか。
《みんな、世界の不気味さ、私というものの不気味さをストレートに描くための手段として推理小説、探偵小説という形式を採用している。彼らが書こうとしているのは現代日本版『ライ麦畑でつかまえて』のようなものですが、そうするためには犯罪を主題にするほかなかった。心に傷を負った少年少女の、その傷が犯罪なり事件なりとして提示されるわけで、読者を惹きつけるのは犯罪や事件そのものよりも、心の傷のほうなんですね。あるいは犯罪や事件が心の傷の表象としてどれだけ鮮烈なものになっているかということ。/僕は、笠井さんが『海辺のカフカ』を表して、トラウマ少年がカルト的なものから逃れていかに自立してゆくかを描いた物語だと言ったのに感心したのですが、そういえば舞城王太郎も佐藤友哉も西尾維新も乙一も、みんなそうなんですね。》(三浦雅士の発言)
こんな言葉が、実際に舞城王太郎や佐藤友哉や西尾維新をちゃんと読んだ人の口から出てくるなんて信じられない。彼らの描く小説のどこが「トラウマ少年がカルト的なものから逃れていかに自立してゆくかを描いた物語」だというのだろうか。彼らの小説にもし本当に面白いところがあるとすれば、決してこんなに簡単に「把握」することなど出来ないという部分にこそあるはずではないのか。三浦氏は「西尾維新の登場人物の饒舌の背後にはものすごい悲哀を感じます。(略)ある意味では三島由紀夫が感じさせる悲哀に近い。饒舌が仮面の代わりになっているというか。」とも発言する。これは最も安易で表面的で詰まらない西尾作品の把握の仕方だと思うが、それはともかく、(既に歴史的な固有名として登録されている)三島と並べてしまったとたんに西尾維新の作品のもつ新しさと言うか、固有性というか、面白いところが見失われてしまい、たんなる「文学的な饒舌体」として把握されてしまうということが分からないのだろうか。
●『アカルイミライ』の話を無理矢理ひっぱるわけではないが、この笠井・三浦対談を読んで、ぼくは『アカルイミライ』で笹野高史が演じた「おしぼり工場の社長」を思い出した。彼は、「若者」である浅野忠信やオダギリジョーを「取り込む」ため、娘の机を運んでほしいとか何とか口実をつくって自宅へ食事に来させ、妻の手料理で迎え、お気に入りのCDを半ば強引に借り、さらにそれを粗雑に扱い、「君たちのことを少しは把握できた」などと口にし、あげく彼らの下宿にまで押し掛け、上がり込んで自分の若い頃の話を押しつけようとする。勿論彼のこのような行為は、たんに彼が「嫌な奴」だという人格的なことだけに帰着するような事柄ではなく、ある社会的なシステムの必然が彼にこのような行為を「強いて」いるわけだ。フリーターである彼らを正社員に採用して、さらに特別ボーナスまで出すというのだから、むしろ良心的な人物とさえ言えるのだろうが。

  ギャラリー21+葉とセゾン・アートプログラム・ギャラリーの中西夏之
03/01/25(土)
●ここんとこ何故か引き籠もりぎみで、美術館やギヤラリーに行くのは東京都現代美術館の「傾く小屋」以来で、一ヶ月以上間があいてしまっていた。
●出かける気になったのは、ギャラリー21+葉とセゾン・アートプログラム・ギャラリーとでやっている中西夏之を観るためだった。どちらも新作ではなく80年代の(中西氏の絵画作品の最も充実していた時期の)作品で、ギャラリー21+葉では80年の『弓形が触れて』というシリーズのタブロー2点とドローイングなどの関連作品が、SAPでは84年の『作品-たとえば波打ち際にて』というシリーズのタブロー1点とその関連作品が展示されている。中西氏の絵画作品はとても特異なもので、いわゆる絵画史、美術史的な展開から導き出されたものと言うより、ハイ・レッド・センターなどの活動の延長が平面という場の上に収斂していったような形で実を結んだものだ。だからそれは、観られるためのものとしての視覚的な構築というよりも、中西氏独自の考え方による、ある種の身体所作によって構築されていると言える。それは、中西氏固有の世界に関する観念(世界像)と、中西氏の身体(感覚)の固有性とを結びつける(両者を媒介する、あるいは両者の境界である)ものとして身体のまわりに薄い皮膜が張られ、それがそのまま絵画の平面となるようなあり方をしている。中西氏は、まるで自分の身体から分泌された物質によって糸を紡ぎ巣を張りめぐらし、その巣に引っかかるものの振動によって世界を感知する蜘蛛のような存在に例えられるかもしれない。中西氏の絵画は、蜘蛛の巣であると同時に、そこに生じた様々に重なり合う振動のバリエーションでもあるだろう。中西氏にとって「色彩」は色彩として意味をもっているのではないだろう。例えば、画面の7割がたを紫で埋め尽くされた『作品-たとえば波打ち際にて』において、紫は、視覚的に紫という色彩であることよりも、生乾きの紫の絵具が塗られた薄い皮膜の上を白い絵具を含んだ筆先が触れ、動き、白い絵具が下にある紫の絵具を引っかけて持ち上げ、混ざり込みながら引きずられてゆく、その筆先の感触と、絵具同士の物質的な混合の微妙なニュアンスこそが問題となっている。つまり、物質の混合という出来事が生じ、それが筆先の感覚によって(中西氏の身体に)感知されることで、絵画は一応完結してしまっていて、それが視覚によって「観られる」作品であることは2次的なことであるとさえ言えてしまう。しかし、にも関わらず、そのようしてつくられた作品が非常に濃密な視覚的充実を得てしまうのだ。(しかしこのことは、当然、作家当人にとってどんなに充実した感覚として感知された作品でも、他者=観客にとっては、つまり視覚的には、たんに弛緩したものに過ぎないという結果を生むこともある。特に最近の作品では。このような時は当然、非視覚的には充実していたとしても、弛緩した作品として処されるべきだろう。そうでなければ作家中西氏の神格化になってしまう。勿論、作家自身はそんな評価とは関係なく、勝手に制作をつづけるだろう。)必ずしも「視覚的な充実」を目指してつくられたわけではない中西氏の80年代の絵画作品は、それでも、同時代に日本で描かれたどのような絵画作品よりも、テンションの高い視覚的充実を獲得してしまっているのだ。ぼくはこれらの作品を、89年に西武美術館で行われたレトロスペクティブで観て強い感銘を受けたのだが、この機会に改めて見直してみて、それが少しも色あせていないことが確認できた。(逆に、最近の中西氏の作品は、ぼくには色あせて見えるのだ。)

  かわさきIBM市民文化ギャラリーで松浦寿夫・展
03/01/31(金)
●川崎の、かわさきIBM市民文化ギャラリーで松浦寿夫・展、上野の、東京芸術大学大学美術館で「二箇所-絵画場から絵画衝動へ-中西夏之」展、銀座へ行って先週も観た、ギャラリー21+葉の、中西夏之「弓形が触れて」と、松浦寿夫の小品が展示されている、なびす画廊「新年の贈り物」を再び観る。
●松浦寿夫の作品を観るようになって、もう15年くらいにはなると思うのだが、その作品からは、いつもずっとかわらない「物足りなさ」を感じつづけている。驚くべきことは、この「物足りなさ」の感覚が、ずっと一定でかわらないということなのだ。20年にもおよぶ画家としてのキャリアがありながら、その間、決して「上手くなること」もなく、「擦れっからし」になることもなく、「飽きる」こともなく、常に一定の温度でつづけられている実践。(ぼく自身のことを言えば美大を目指して浪人していた)80年代の終わり頃から現在まで、美術における流行や状況も、世界の有り様も大きく様変わりするなか、その時々の情勢とほとんど無関係に孤独な場所から紡ぎ出されているような制作が持続されていることへの驚き。勿論、細かな部分では変化はあるだろう。90年代初頭には、松浦氏の作品は木枠に張られてなく、画布が直接壁に貼り付けられていたが、最近の作品は木枠に張られている。今回の展示作品は、おそらく筆ではない、パレットナイフのようなもので、画布の表面にぼそぼそと僅かな量の油絵具が(擦りつけるように)のせられているのだが、以前は(筆によって)もっとベタッベタッとしたタッチのアクリル絵の具がのせられていた。以前の作品はほとんど横長のフォーマットだったのだが、今回の展示では縦長で、横長になる場合は縦長のキャンバスが2枚組みになって連結されることになるだろう。しかしこれらの変化は、あえて「言葉」として要素を拾い上げれば、そのような要素を変化と呼べるだろうということであって、その作品から受ける感覚の「質」はずっと一定であるように思う。このような事実について、どう考えればよいのだろうか。絵画が、そして松浦氏自身が、心地よく自分自身に自足しているのだ、と言って良いのだろうか。しかし、(その作品が与えてくれる感覚的な歓びとは似つかわしくない言葉を使ってしまうのだが)社会から隔絶した場所でこそ「世界」との繋がりが実現されるのだと言うようにして持続される、孤独な場所での実践、キャンバスを張り、絵の具を練り、それを画面に擦りつけ、画面から反射されてくる光を一身に受け、再び絵の具を練り....、という行為の反復を、一定の強度において果てしもなくつづけてゆくことを可能にしているある暗い意志のようなものを、自足と名付けて済ますことが出来るだろうか。
●松浦氏の作品から受ける「物足りなさ」とは、もっと正確に言えば、作品を成立させる最後の最後のところでの「粘り」や「精度」が、もうほんの僅かに足りないという感じなのだ。色彩の練り上げ方にしても、その色面の形態、というか、あるタッチが画面の上でみせる運動がフィニッシュする間際ギリギリの運動感覚のようなものの精度が、決定的なものに到達するほんの僅か手前で息切れてしまうという感じがする。だからその作品を観ている時、ある感覚的な歓びに圧倒されるのではなく、それに魅了され、それを咀嚼しながらも、常にどこかにもどかしい、納得させられ切れない、なんとももやもやした感情の切れ端のようなものが胸のあたりにわだかまるのだ。だからこそその作品の前を離れがたく、もやもやした感覚を抱えながらも、その捉えがたい対象(=作品)を何度も捉えなおし、場合によっては「足りない」ところを自分の感覚によって補おうとさえ試みるのだが、結局それもはかばかしい成果を得ることは出来ず、作品の前をうろうろと歩くことになる。こういう言い方は「画家」に対して非常に失礼なものなのだが、松浦氏の作品は実物を実際に観るよりも、印刷図版を観る方がずっとわかりやすい。松浦氏の作品が何をやろうとしているのかは、印刷図版を観ればほぼ明確に見てとれるように思う。しかし、実物の前に立つと、ある程度明確に掴んでいたはずのものの焦点が揺らぎだし、するすると手元から滑り出して、急に捉え難くあやしいものとなってしまう。この何とも言えない失調する感覚を、作品の完成度の足りなさ、松浦氏の技術的な不足と見るのは、この感覚がずっと一定して長い間反復されていることを考えれば、決して正しい見方とは思えない。だが、この感覚こそが松浦氏の「狙い」なのだ、と言い切ることもまた、正確だとは思えない。
●今回展示されている作品は、比較的淡い色彩(淡い水色、淡い緑、淡い黄色、ほとんどピンクに近い紫色、クリーム色)と、比較的強く前に出る色彩(緑、濃紺、黄色)、という二つの系列の色彩の領域が、互いに相手を活気づけ合いながらも、緊張感をはらみつつ一方の突出を抑える、というようなやり方で組織されているようにみえる。もっと言えば、淡い領域の色彩のやわらかな拡がりは、しかしそれだけでは弱く、あるいは混沌としたものになってしまうのを、強い系列の色彩が活気づけ、秩序づける。しかし、それだけでは単純なコントラストということでしかない。それと同時に、強い系列の色彩は、強い系列同士でのぶつかり合いとコンポジションがあり、強い色彩同士のともすれば単調になってしまいがちなぶつかり合いを、淡い系列の色彩がやわらかく受けとめて媒介する。だが、淡い色彩はただ強い色彩を媒介するだけでなく、強い系列の色彩をじわじわと浸食して行きさえする。しかし、淡い系列が画面全てを覆ってしまうとき、画面はたんなる混沌へと落ち込んでしまうから、強い系列の色彩はギリギリの抵抗をみせるだろう。そして、以上のような色彩同士の劇は、それが行われているキャンバス地の白い輝き(最も明るく突出する色彩であると同時に、何もないスペースであり、全てを載せるための基底材でもある)との緊張関係を意識してい行われるだろう。絵の具は、明快に意志を感じさせるような形態やタッチでのせられるのではなく、パレットナイフ(ペインティングナイフではないと思う)とか、先の潰れた筆のような扱いづらい物によって、不器用にぼそぼそとのせられている。このことは、絵の具を、ただ色彩と形態というだけでなく、物質としても強く印象づける効果をもつとともに、画家の意志や操作性よりも、その身体の関与や塗りつけるという動作(作業性)を感じさせることとなるだろう。松浦氏の作品は、視覚的に統合されているというより、その作業性によって掴まえられている度合いが強い。松浦氏の作品は、外へ向かって拡張してゆくのではなく、中心に向かって収斂してゆくのでもなく、画面のフレームよりやや内側辺りへ収縮してゆくように感じられる。そしてその収縮の軸が複数あり、それが画面の上でバランスよく配置されているのではなく、「やや偏った」感じで配置されている。この「やや偏った」感じこそが、松浦氏の作品を活き活きと見せる生命線であり、この感覚を見失う時、作品は退屈なルーティーンワークに堕するだろう。
●なお、展覧会場で無料で配布されているパンフレットに掲載されている、岡崎乾二郎のテキストは必読のものと思われる。ここには、批評的な眼ではなくて、(おそらく)「友情」によって捉えられた松浦作品の本質が綴られている。

  「二箇所-絵画場から絵画衝動へ-中西夏之」(東京芸術大学大学美術館)
03/02/01(土)
●昨日観た「二箇所-絵画場から絵画衝動へ-中西夏之」(東京芸術大学大学美術館)について。会場では、この展示のための詳細なノートを印刷したものが販売されているのだが、ぼくはまだ、それをパラパラと眺めた程度なので、実際に会場で作品を観ることで受け取った事柄のみを書く。
●入り口を入ると、左右両側に2枚の鏡が、互いに映り込まないようにずらして立てられたゲートのような装置があり、それを通り抜けることになる。『擦れ違いの鏡』というタイトルのその装置を抜けると、右側の壁の前に、60年代終わり頃の「ふいご」のオブジェが2点置かれ、左側の壁の前には、90年代終わり頃の絵画作品が2点設置されている。これは、(実際にはそのようには見えないのだが)このゲートから右側の昔のオブジェを見ようとすると、その前面に立っている鏡に新しい絵画が映り込み、左側の絵画を見ようとすると、手前の鏡に昔のオブジェが映り込む、という状態を図示していると思われる。つまりこれらの異なる二つの系列の作品は、鏡面によって反転させると、並置されるような関係にあるものだということなのだろう。(しかし、この90年代の2点の絵画作品は、絵画と言い得るような、フレーム内部の要素の緊密な関係性が成立しているものではない。いつもの中西氏の絵画の一部分に、画面内部の関係性を壊してしまうような、まるで大きな穴のような紫の領域がどかんと暴力的に拡がっている。この紫によって、絵画は破壊された状態にある。)
●ゲートを抜けた正面に、今回の展示のメインであろう『二箇所』というタイトルの公開制作されたインスタレーションが設置されていて、その後ろ側に、「後ろに控える」という感じで、8点の90年代に制作された絵画が設置されているのが見える。(絵画作品は、通常のように壁に設置されるのではなく、イーゼルの上に置かれ、フラットにではなく、わずかに前後にずらされて、でこぼこに並べられている。)
●『二箇所』という作品は、床の上に大きな正方形の紙が置かれ、それによって領域が仕切られていて、その中心のあたりに、囲んで「場」をつくるように4枚のパネル(枠に半透明の紙だか寒冷紗だかが張られている)が立てられている。床に敷かれた正方形の紙の上には、(中西氏の作品ではお馴染みの)規則的に並んだドットのように、正確に間隔を置いて沢山の小さな砂山が、白い砂状のものによってつくられ、その上にパチンコ玉も規則的に置かれている。この空間は、まるで色彩を抑制した草間弥生の作品の内部にでもいるような、過剰な規則性によって閉じこめられたような息苦しさを感じさせる。この正方形の「場」の四つの辺に対応するように、天井から天秤が四つつり下げられていて、この天秤が、過剰に神経質な規則性に囚われた空間に一層のテンションを漲らせる。(規則的なドット(=円形)、パチンコ玉の球形、半透明な幕として立ち上がる平面、天秤、というように中西的アイテムが勢揃いしている。)このような「場」が、中西氏にとって世界と身体がギリギリの危うい均衡を保ちながら触れ合う「場」、つまり絵画が生成される「場」を図式化であることは明らかであろう。(この場は、あくまで中西氏の場所であって、観客のものではない。その証拠に、この正方形の場の中心部分、4枚のパネルで囲まれた部分に観客は入り込むことは出来ず、その周辺を廻りながら場を外側から眺めるしかないし、パネルに描かれたものを正面から見ることは出来ず、裏側から見るしかないのだ。その中心は、特権的な身体を持った、作家=中西氏のために空けておかれなければならない。)そのように設置された「場」に、おそらく公開制作時に中西氏によって「描かれた(と言うより、散らされた、と言うべきか)」のだろう紫の絵具が、まるでホラー映画の派手に飛び散った血糊のように散乱している。(紫という色が、中西氏の絵画のなかでは、非常に危険なもの、世界と身体との均衡を破り、亀裂を走らせるものとして使用されていることを想起されたい。)つまり、ここに設えられた、息苦しい、病的なまでに神経質で規則的な「場」が「絵画場」であり、そこに亀裂を走らせる(中西氏の身体的な所作によって「散らされた」)紫の絵具が、「絵画衝動」を表している、ということなのだろうか。しかしそれではあまりに簡単で、あまりに図式的に過ぎやしないだろうか。
●以上のような記述は、単純化し過ぎてフェアではないかもしれない。確かに、「場」に加えられた紫の絵具のしたたりは、どう見たって「思わせぶりな身振り」を示す以上のものは何もなく、30年以上前ならともかく、今どきこんなナイーブなパフォーマンスの残骸を見せられてもなあ、というようなものでしかないだろう。しかし、設えられている装置、つまり「場」そのものは、中西氏の絵画作品の観客(一ファン)として見るのならば、中西氏の作品が生成される瞬間においては、確かにこのような場がバーチャルな次元で成立しているのだろうと納得させられるくらいの説得力はあるように思う。しかしそうだとしても、これではよく出来た演劇的な舞台装置のようなものでしかないと思う。公開制作が終わり、そこから主役である中西氏が立ち去った後のこの「場」は、俳優が不在の舞台装置のようなものでしかなく、これを「作品」として提示することが許されるのは、中西夏之という芸術家が一種の「スター」としてネームバリューがあるからで、それはただのギターが、ジョン・レノンの使ったギターとして価値をもってしまうのと同等のことでしかないのではないか。それはそれで面白ければ良いのだろうし、全否定するつもりはないが、しかし中西氏の最良の作品と比べてしまえば、退屈だと言うしかないだろう。
●『二箇所』を通り過ぎ、最初の展示室の一番奥には、イーゼルに置かれた8点の絵画作品が並べられている。これら、全て90年代に制作された絵画は、入り口の左側にある2点の絵画とは違い、絵画作品として緊密な内的関係がつくられている。ちょっと見には、非常に仕上げの美しい、完成度の高い作品のように見える。しかしぼくには、これらの作品は基本的に緊張感を欠いた仕事のように思える。確かに、じゃあお前が真似をして描いてみろよ、と言われれば、とても真似など出来ないような、手仕事として高度なものではある。しかしそれはルーティーンワークと化した手仕事の「仕上げ」の美しさ(セザンヌがとことん拒否した、あの「仕上げ」の美しさ)でしかなく、80年代の仕事のように、筆先が画面に触れることが、そのまま、世界の外延と身体の外延とが、ある過敏な特異点において触れ合ってしまうことであるような、生々しい震えのようなものは感じられない。(同じ日のうちに、銀座のギャラリー21+葉で展示されている80年の作品『弓形が触れて』と見比べた。その差は明らかだった。むしろ、『弓形が触れて』の方が見栄えとしてはみすぼらしい感じすらあるのだが。)いや、それはちょっと言い過ぎで、90年代の作品もとても質の高いものであることは確かなのだが、あるリアルな生々しさというのではなく、本の装丁にでも使ったら凄くきれいだろうなあ、という種類のものに変質してしまっていることは否定できないのではないだろうか。
(つづく)
03/02/02(日)
●中西夏之の絵画作品は、「見られるもの」として自律した組織としてつくられているというより、その作品の前に立つものに、作家である中西氏が画面の前で行った行為や動作、そこで起きた身体内部での出来事(感覚)を追体験させようとする装置であるようにも思える。そこで観者は、一人の独立した個人として、独立した「作品」と出会うのではなくて、自らの身体を画面の前に置くことで、同じ位置で行為していた中西氏の身体とある程度同化することが要求されているような気配がある。1/31の日記にぼくは、松浦寿夫の作品が、身体の関与や動作による作業性によって掴まれているということを書いたのだが、しかし、松浦氏の作品からは、松浦氏の身体的な固有性と観者とを同化させようという気配は感じられない。松浦氏にとってはおそらく、目の前に起きていることがらとしての「絵画」が重要なのであって、それを掴むためのやり方として作業性が浮上してくる(作業を通じて対象を掴む)のだろうが、中西氏においては、目の前の「絵画」という場所で何が起こっているかというよりも、その前に立っている自分自身の身体を貫く感覚に何が起きているかの方が重要なのではないだろうか。(普通こいういうのをナルシシズムと言うのだろうが。)中西氏の作品は、(ハイ・レッド・センターの頃からずっと)目の前の世界を受け止めることから始められるのではなく、自らの内部にある世界に対する観念を、世界の方へとあてはめてゆく(言い換えれば、自分の身体の外延を世界の方へと覆い被せるように拡大させてゆく)ようなやり方であるように感じられる。(だから、ハイ・レッド・センターでの仕事も、他者へとむけられたデモンストレーション=パフォーマンスと言うより、自らの方へと折り返される私的な儀式のようなものだったのではないだろうか。)
●入り口を入ってすぐの、手前の展示室にあった絵画やインスタレーションが、中西氏の世界に対する観念と、その外側にある世界そのものが触れ合う様な接点で起こった出来事のバリエーションだとすれば、奧の展示室の大きなテーブルの上に置かれたオブジェたちは、中西氏の内部あって、中西氏が世界と触れ合おうとする時に駆動するシステムの原型としての「観念」を形象化したものだと言えるのではないだろうか。
●中西氏が世界と触れ合おうとする時に用いられる観念装置として最も重要なものの一つに「天秤」が挙げられるだろう。上から吊られた不安定な支点によって、二つのものがあやうく均衡を保つ装置。吊り下げられ、垂らされる糸は垂直を示し、計るものをのせるための皿は水平を示す。水平の皿は円形という形を与えられ、皿を支える複数の糸は正三角形として表現される。(つまり、天秤の拮抗する一方の項は、上から見ると皿の円形であり、横から見ると皿を支える糸の三角形であるような、三角錐として捉えられる。)中西氏の初期のドローイングでは、天秤が均衡を保っているような緊張状態が、二つの正三角形が触れ合い、あるいは重なり合うという形態によって表現されている。円形は水平という方向性をあらわすだけでなく、ある領域の拡がりをあらわし、その円周は領域の外延をあらわす。『弓形が触れて』という絵画のシリーズでは、竹でつくられた弓形「)」のものが文字通り画面に触れた状態で固定されている。これは無限の大きさをもつ円の円周の切れ端であり、つまり世界の外延が画面に触れているということである。(絵画は、世界の外延に触れている、つまり世界に触れてはいるが世界の外側に存在している、ということ。つけ加えれば、この時画面に触れているのが、あくまで円周の切れ端である「弓形」であること、つまり円周全体というのは観念上しかあり得ず、実際は円形は決して閉じられていないということの意味は、とても大きいと思う。)
天秤という装置は、そこから円形と正三角形という二つの形態を抽出させるのだが、ここで重要なのは、これらの形態そのものではなく、常に二つで一組のペアとして形態が扱われることにある。二つの円形、二つの正三角形が、一点で触れ合い、あるいは重なり合うことで、二つの形態は互いに互いの影を反映し、形態と形態との隙間に第三の形態を生み出しもする。そしてそれら全体で「一つの状態」をつくり出すだろう。例えば、奧の展示室の壁には、芸大の学生に対する演習の様子がスライドで映し出されているのだが、その一つに、二人の人物のそれぞれの右手と左手、右足と左足とを二人三脚(二人三手)のようにガムテープのようなもので固定し、二人がくっついたその状態のままで、二人による一本の手で、壁に貼られた巨大な紙に巨大な円形を描く、というものがあった。まさにこれこそ中西氏的な身体感覚を発生させる装置だと言うべきだろう。Aという人物の右手とBという人物の左手が結びつけられ、その一つになった腕を動かしてある作業を行おうとする時に生じる「違和感」のような感覚、その感覚はAのものでもBのものでもなく、RとBとが触れ合うことによって生じる第三の形態のようなものだと言えよう。二つのもの、あるいは二つの領域が触れ合うことによって生じる第三の形態、領域、それは互いの影を互いの表面に反映させ合うことによって生じるものであり、だからそれはポジティブな意味で(自律して)存在することは出来ないと言える。中西氏にとって作品とは(観念的な意味では)おそらくそのようなものなのだろうと思う。
●しかし、このようなことがらは、「言葉」としてみると面白いかもしれないが、実際に作品から受ける感覚としてはどうだろうか。中西氏の発する言葉や観念的な図式は、とても詩的で、美しくかつ面白いものだ。だかその面白さが、しばしば中西氏の神秘化に貢献してしまい、実際の作品の質を見えづらくしてしまうという側面もある。ぼく個人としては、中西氏が画家として本当に信用出来ると思うのは、次のようなごくシンプルな技術的な言葉だ。
《大雑把にいって、私は絵具で描くのではなく、展色剤の物理的な性質で仕事をする。だから絵具は血液のように流れる稀釈性から、バターやチーズのようなパテ状のものまでの、そのような軟から粘、或は淡から濃までの幅の全領域を操作しているようである。》(『空白からのドラマ』)
ぼくから見ても、中西氏の仕事はこのような点においてこそ優れているし、信頼に足りるもののように思う。つまり中西氏は、色彩や形態によって仕事をするのではなく、絵具という物質のもつ無数の「質」のバリエーションを、ぶつけ合わせ、溶け合わせ、混ぜ合わせることによって仕事をするのだ。ぼくが画家としての中西氏を尊敬するのは、このような点においてだ。

  ショーン・ペンの『プレッジ』をDVDで
03/01/30(木)
●ショーン・ペンの『プレッジ』をDVDで観る。例えば、ジャック・ニコルソンがロビン・ライト=ペンに近づいてゆく動機が、警察を退職した後の自分の人生を立て直そうとするためなのか、それとも、彼女の子供が、いつか「犯人」に狙われるであろうことを予想してのことなのか、この映画ではどちらか決定することは出来ない。いくら何でも、彼女の子供が目当てで彼女に近づくなんてことはないだろうと思えるが、しかし、映画は二人が接近する直前のシーンに、「大物をつり上げるには新鮮なエサが一番」というテレビの釣り番組のコメントを(かなりわざとらしく)挿入してさえいる。これが決定不可能なのは、この映画がその辺りを曖昧にぼかして描いているからではなく、ニコルソン本人にとっても、自分のこの行動の意味が掴み切れていないということなのだ。つまり、この映画で最も大きな謎は主人公のジャック・ニコルソンの存在そのものである。この「謎」とは、謎を仕掛けることで観客の興味を引きつけ、物語の持続につき合わせようというような謎ではない。
ジャック・ニコルソンの行動を律している原理は一体何なのだろうか。彼の運命は、退職直前に少女がレイプされ殺されたという事件に遭遇してしまったことから狂いはじめたのだろうか。それとも、その事件の被害者の母親と交わされた「約束」が、彼の行動を決定的に縛ってしまったのか。彼が退職後も執拗に事件を追っかけてゆくのは、この「約束」のためなのか、それとも、後輩の刑事たちがあまりにお座なりにしか捜査しないことへの(正義感からの)苛立ちなのだろうか、それとも、たんに退職後の環境の変化を受け入れられず、もはや警察官ではない自分という存在から逃避する口実として、「約束」が恰好の口実になるということなのか。おそらく、それらすべてが彼の行動の原因であり、そのどれもが決定的なものではない。彼の狂気は、映画の冒頭からすでに進行していたのだとも言えるし、「約束」によって運命づけられたともいえるし、退職後の執拗な捜査の過程で、その間の元同僚たちの不理解もあって決定的に深まっていったとも言えるし、ロビン・ライト=ペンの子供との邂逅が決定的だったとも言えるし、彼女の子供が「魔法使い」に出会ったことを聞いた瞬間にキレてしまったのだとも言える。彼の行動が、どの瞬間から「狂気」と呼ぶべきものに陥ってしまったのかを明確に指さすことは出来ない。それはつまり、彼がどの瞬間からも「引き返す」ことが可能だったということでもある。(だから、『プレッジ』というあまりに決定的なタイトルは、適当ではないかもしれない。)この映画は、ある種のアメリカ映画のように、「運命」がまるで機械仕掛けのように正確に「作動」してゆく様が描かれているのではない。「運命」が正確に作動する様を、力強い物語の線(単線的な物語)でグイグイと描いていくような種類の映画とは違って、この映画ではあらゆる要素が曖昧で決定不能なまま漂っているので、物語として人を引き込む力はそれ程つよくないし、どっちつかずの散漫な印象すら与えかねない。しかし、それこそがこの映画の重要な意味なのだと思う。
唐突だが、確か保坂和志の小説で、アルコール依存症の施設に入るような人は、そこから出ても結局はまた戻ってしまうことが多い、という発言をする人物に対して、別の人物が、そういう言い方はおかしい、たとえまた施設に戻ってしまうにしても、数ヶ月で戻ってしまうのと、何年も持ちこたえるのとでは全然意味が違う、その違いを無視して「結局は」という言い方で一緒にしてしまうのは間違っている、という趣旨のことを言い返す場面があったと記憶している。『プレッジ』が問題としているのも、おそらくこのような意味での「違い」の中味であると思う。例え「約束」によって運命があらかじめ(ラカンの必ず届く手紙のように)決定的なものとなってしまったとしても、その運命に行き着くまでの遅延された時間のなかに入り込む様々な事柄(そこには勿論、運命を回避できるかもしれない可能性も含まれているだろう)の厚みこそが重要であり、それこそが「生」である。『プレッジ』が描きだそうとするのは、「約束」と「運命」との中間にあり、そのどちらにも還元されない曖昧に拡がるどっちつかずの領域であり、その領域において「生」を見出そうとすることであるように思える。ジャック・ニコルソンは「結局」は、約束と運命の張りめぐらす罠にからめ取られてしまうわけだが、そこに至ってしまうまでの道行きの全てが「運命」に奉仕してはいないだろう。そこにある不透明さ、説明のつかなさ、謎のあり方こそが、彼という人物の生の形であり、存在であるのだ。
『プレッジ』は、そのような生の厚みを、物語というよりも、主に描写によって示そうとしているようにみえる。それは「演技」とは少し違う。ジャック・ニコルソンのたるんだ肉、丸まった背中、薄くなった髪を刈り上げにしている後ろ頭、あるいは、灰皿のない警察署(もはや彼の居た頃の警察とは違ってしまっている)で、仕方なく吸い殻をミカンの皮で包み、その捨て場所に困りオロオロ歩き廻る姿(あるいは、ロビン・ライト=ペンの抜けた前歯!)、というような細部をいくつも重ねることによって、ある人物の「実在」としか良いようのないものを示す。これは、いわゆる「キャラクター的な人物把握」とは全く違ったものだ。

  エリア・スレイマンの『D.I.』
03/02/04(火)
●フランス映画社の方から試写の案内を頂いていたので、銀座ガスホールで、エリア・スレイマンの『D.I.』を観た。映画についても、監督についても全く予備知識はなく、ただパレスチナ映画で、イスラエル側とパレスチナ側との間にあるチェックポイントを挟んだ、カップルを巡るコメディであることを知らされていただけだった。
●唖然としたというのが観終わった時の感想で、観ている間じゅうは、これは一体どういうものなのだろう、とずっと思っていた。パレスチナの映画であるから当然のごとく政治的なもので、イスラエルとパレスチナの複雑な関係については、通り一遍以上の知識はないので、細かいニュアンスまで理解することは出来ないが、監督の主張というか、政治的な立場はすごく明確にわかるようになっている。だから、唖然としたというのはそのような主題に関することではなくて、映画のつくりに関してのことだ。
●映画は、ジャック・タチ風とも言えるし、小津の『お早う』みたいでもある、ゆったりとした調子のコメディとして始まる。ここでは、断片的なフィックス・ショットが淡々と積み重ねられてゆく。一つ一つのショットが淡々と積み重ねられてゆくうち、まるでジグソーパズルのピースのように意外なところで結びつき、ふいに立体的な空間をたちあげる。一つ一つのエピソードも、ショート・コントの積み重ねであるようにみえて、エピソードとエピソードの意外な結びつきによって、舞台となる地域に住む人たちの関係性や、そこに流れる空気のようなものがふいにたちあがる、という仕掛けになっている。断片的なものがランダムに並べられているようにみえて、しかしそれが徐々に結びついて、ある立体的な「像」がみえてくるという意味では、初期のエドワード・ヤンみたいだとも言える。この映画の前半部分は、驚くような傑作というわけではないにしろ、人々の生活の細部の様子や雰囲気(のんびりとしたタッチではあるものの、とても「ほのぼの」とは言えない、その底に殺伐とした気配が流れているような感じ)を、複雑な地形や空間的な高低差、反復とズレ、切り返しのマジック、繊細な音響などを生かした、知的で抑制された丁寧な描写によって見事に浮かび上がらせている。ロングショットでの人物の動かし方など、ふと黒沢清の「空っぽ」系の映画(『蜘蛛の瞳』とか『消えない傷跡』とか)を思わせたりもする。
●しかしそれが(「父」が倒れたあたりから)いきなり変化する。今まであれだけ丁寧に積み重ねられてきたショットは、急に安っぽいコマーシャルフィルムのような撮り方になってしまう。これは一体どういうことだ、と戸惑っていると、今まで繊細に抑制されていた音響も、音楽がガンガンかかるというものになり、今まで、あくまで「根底に流れる殺伐とした気配」として表現されていたものが、あからさまな「政治ネタ」や「下ネタ」へと変わってゆく。爆発する戦車、露骨に性行為を想起させるように手を握り合うカップル、ふわりふわりと検問所を通り抜けるアラファトの顔が描かれた風船(風刺マンガのようなネタだ!)、その風船が三つの宗教のそれぞれの旧跡の上空を飛んで行く何とも安っぽい合成画面。ここまできてようやく、映画が完全に別のものになったことを理解する。ジャック・タチだと思ってみていたら、いつの間にか北野武の『みーんなやってるかい』(下手をすると森田芳光の『そろばんずく』?)みたいになってしまったのだ。(さらに観客を混乱させるのは、時折前半のタッチに戻ったりもすることだ。まるで、前半のシネフィル的な高度なフィルムと、後半の下世話な展開との境界線=チェックポイントなど楽々と行き来出来る、とでも言わんばかりに。特に父の死を巡る静かなパートと、下世話な大騒ぎのパートとの齟齬は著しい。)
●さらに終盤では「女ニンジャ」みたいなものまで出てきて、香港製の低予算アクション映画のようにさえなってくる。(会場で配布されたパンフレットに掲載されている監督のインタビューでは《『マトリックス』をブレッソン化して映画産業のチェックポイントを突破したかった》という発言がみられるが、さすがに『マトリックス』というわけにはいかないのだった。いや、ブレッソンでもないと思うけど。)後半の展開のあまりの強力さにすっかり混乱し、見終わった頃には前半の抑制された部分の印象をほとんど思い出せなくなってしまうくらいなのだ。
●しかし、以上のような記述はあまり正確とは言えないかもしれない。これでは前半と後半とを分けて、監督が意図的に「仕掛けた」わかりやすい部分しか読みとっていない。実際にはこの映画には、もっと不安定な、壊れた、混乱した、人を途方に暮れされるような、掴みがたさがあるように感じられる。常に人をジョークで煙に巻くような態度の底にある、「荒んだ」感触や混乱や分裂こそが、この映画を一貫して流れる基本的なトーンであるかもしれない。沸騰して今にも爆発しそうな圧力鍋や、実際に爆発してしまう戦車やヘリコプターを直接的に示すショット以上に、この荒んだ感触こそがこの映画の主題を示し、人を途方に暮れさせるのかもしれない。

  『21世紀文学の創造9/ことばのたくらみ-実作集』の金井美恵子と松浦寿輝
03/02/07(金)
●金井美恵子と松浦寿輝を読むためだけに、『21世紀文学の創造9/ことばのたくらみ-実作集』を購入する。
●金井美恵子のごく短い短編「『月』について」は、文字通り、自作の『月』という短編を読み返すことによって成立している。実際には、『月』だけでなく、『単語集』のあたりの短編(特に『調理場芝居』)をもとに、自分が過去につくった音源を使ってリミックスしたような小説になっている。(しかし「リミックス」という言葉は一時あまりに多くの人が便利に使いすぎたので、すっかり色あせてしまったように思う。)こう書くと、ああ、また例の「自己言及」的な「小説についての小説」ね、と理解する人がいるだろうし、実際に自作の引用もあれば、金井氏の小説に繰り返し出てくる舞台やエピソードが反復されてもいるのだが、金井氏の小説で繰り返される「自己反復」は、合わせ鏡のような自己言及性ではなく、むしろ感覚的な入力の過剰によって、対象の同一性があやしくなるというよう感覚に基づいているように感じる。つまり、あまりに鋭敏な感覚が、同一であるはずの対象のちょっとした「うつろい」を的確に捉えてしまうことで、今見ている「月」と一瞬前の「月」とが「同じ月」であることが揺らいでしまうのだ。そこでは、感覚される数だけ無数の「月」が出現してしまい、見上げるたびにあらたな「月」を生成してしまう、というような、半ば病的に鋭い感覚によって、その感覚をある程度「安定」させるために、同一の物語、同一の対象の果てしない反復が要請されるわけだと思う。(同一の「物」が複数の「像」へと分離してしまうこと、そしてそれを安定させるために「物語」が要請されること、という感覚は、例えば佐藤友哉の小説からも強く感じられる。)
●しかし勿論変化はある。『月』や『調理場芝居』などの頃の金井氏の小説の話者は、感覚的な言い方になってしまうが、「歩く」という身体的なリズムによって記述のリズムがつくられ、歩く速度で空間を移動するリズムが、過去のいつのものとも知れない記憶や、あるいは妄想を呼び出し、歩くリズムによってそれらが混じり合う感じなのだが、『噂の娘』の頃からと言うか、『柔らかい土をふんで、』以降と言うべきか、その頃から、話者の視点はまるで映画のカメラのように、つまり身体的な制約を超えて自由に動くようになっていると思う。(勿論、映画のカメラは実際にはそう簡単に「自由」には動かず、移動のためのレールを敷いたり、大がかりなクレーンを操作したりすることで、あたかも「自由」であるかのように動くわけだが。)「『月』について」という小説は、空間的な移動の反復が説話的な展開の代行となって成立しているような小説で、つまり、自宅からまゆみの生け垣のある地を抜けて、商店街を通って電車通りと呼ばれている通りまでという地域を、流麗な動きをみせるカメラが大がかりな移動撮影によって何度か往復し、その往復運動のなかに、様々な時間の記憶の細部が泡立つように浮かび上がり、混じり込む、というつくりになっていると思う。そしてその水平方向へのカメラの移動(横移動)を断ち切るような、ある垂直的な出来事として、「月」をめぐる記憶が『月』という自作の小説から引用される。しかし、その垂直的な「月」の体験は、幾重にも折り重なる記憶の層のなかから屹立する「今・ここ」という現在の特権性を保証するものではない。「『月』について」という小説の最も中核となるその部分は、すでに書かれた『月』という小説からの引用であり、そのオリジナルである『月』ですら、その時にそれを「見た」のではなく、「すべてを唐突ななまなましさで思い出したのだ」という体験についてのものである。(つまりこの「『月』について」という小説は、『月』の時に「思い出した」ことを再び「思い出して」いるわけなのだ。)特権的な体験は、今・ここで起きているのではなく、いつでもなく、どこでもない場所で起こったであろう出来事を思い出すという体験(反復)なのであり、さらに、「思い出したこと」を思い出すという、さらなる反復なのだ。『「思い出した」ことを思い出した』ことを思い出すこと、が、つまりは、金井氏にとって、読むということであり、読み返すということであり、書くということであり、書き続けるということであり、つまり「生きる」ということである。「新しい何事かの出来事」とは恐らく、この「思い出すこと」と「思い出すこと」の間に起こるのであって、それを「ここ」だと指し示すことは出来ないのではないか。「思い出すこと」は決して自己言及的なループの内部にあることではなく、その都度新しい「何事か」であるはずなのだ。
●《いつかこの瞬間、今こうして見ている月と、この道と、風と、こうして今わたしの感じていることすべての感覚を思い出すことがあるだろうか。この今の瞬間から、瞬間ごとに遠ざかっているのだという思いがわたしを苦しめた。時間というものが止まることなく流れつづけ、すべてのことを取り返しようもなく過去のものにしてしまうという思いが、歩く葦の一歩一歩を重くした。それでも、わたしは決してこの瞬間のすべてを忘れないでおこうと願った。歩いてきた道をふり返って、店の戸口ごとに翻るカーテンのふくらみを見つめ、夏の午後のプールの帰りのけだるい路地の夢を反芻し、その大半のイメージをすでに忘れかけていることに気づき、あわててもう一度長い商店街の人気のない通りのすべてを記憶にとどめようとして見つめるが、その間に、なめらかな黄色の丸い月は家並みの上で位置をわずかずつ変えててしまいそうだし、霞綱のような薄紫に光っていた雲は、ずっと遠くのほうへ流れて、灰色がかった靄のようにかすんでしまっている。》(「『月』について」に引用されている、『月』の部分。)
異様なまでに微細で途切れなく続く金井氏の小説の記述を追ってゆく時に読者が感じているのは、まさに上記のような感覚ではないだろうか。ひとつひとつの描写を追い、言葉から言葉へと移動してゆく時、「この今の瞬間から、瞬間ごとに遠ざかっているのだ」という感覚に包まれながらも、描写のひとつひとつを味わいつくし、「決してこの瞬間のすべてを忘れないでおこうと願」いつつ、次の言葉へと移ってゆくのだが、ふと「ふり返って」みると「その大半のイメージをすでに忘れかけていることに気づき」、前のページや行に戻って確認しようとするのだが、その時には、ある持続によって成立していた感覚は巣でに遠のき、「灰色がかった靄のようにかすんでしまってい」て、捉え返すことが出来ない。そしてある時ふと、それら「すべてを唐突ななまなましさで思い出」すのだ。
●松浦氏の小説は、あきらかな「やっつけ仕事」で全く面白くなかった。「学者」が書いた小説の典型的な悪い例という感じ。松浦氏の良いところは、「通俗的な感傷」に平気でどっぷりと淫することが出来てしまうところにあると思う。例えば、ぼくは『鳥の計画』という詩にかなり感動した憶えがあるのだが、そんな詩を書いたことなどすっかり忘れてしまったかのように、「計画」を平然と計画倒れにして、それを裏切るような(「計画」とは真逆な)「湿った小説」を書き始めてしまうようなところが素晴らしいのだと思う。しかし、『singes/signes』は、半端に知的で硬質な枠組みをつくっておいて、そこにそれとは根本的に相容れない、安っぽい(いくらなんでも安っぽ過ぎる)厭世感とエロとをまぶして一丁上がりみたいな感じで、これではあまりにも読者をなめているのではないか。

  冬の日
03/01/09(木)
●人通りのない夜道で、よく響く甲高い笑い声がわき上がる。カラカラと軽い、数人の笑い声。右手に球技用のグランド、左手が緑地に接している、まっすぐに伸びる道。ここから人影は見えず、遠くから渡ってきたであろうその声は、しかしすぐそこの、目の前で起こったかのような近い感じがする。また再び、笑い声が、水底からわき上がってきた泡のようにはじける。その音は、乾燥して冷えた地面を踏みしめる自分の足音よりも近い感じさえする一方で、どこか虚ろに響いて現実感が希薄でもある。オレンジ色の街灯がずっと先までまっすくに点々とつづいている。金網越しに見えるグランドの土が、やけに黒々としている。厚い雲に覆われた空に、か細い月の形が、染み出すようにぼうっと滲んでいる。
03/01/15(水)
●河口。(川の流れが海にそそぎこむところ。かわぐち。)そのバス停は終点で、降りる客はぼくひとりだけだ。目の前に立ちふさがっている土手の階段を上ると、かすかに波立つ幅の広い水の表面が拡がる。対岸までつづく水の平面上を風がびゅうびゅうと吹き抜ける。土手を降り、水面にちかいところまで行く。大きく拡がった暮れかけの空は雲で覆われ(西側を向いて絶っているぼくの正面の空は)、今、東の空一面を染めているのだろう夕日の光を反射して、かすかに赤むらさきに色づいている。薄闇の川面は濃く深く透明なグリーンで、さざ波の合間に空の赤むらさきを映している。川はほとんど流れていないように見える。川に沿って海の方へとゆっくり移動する。大きな川を流れるたっぶりした水の、その圧倒的な量感を感じてしまうと、いつも軽い吐き気を伴うほどの眩暈に襲われて、くらくらしてしまう。対岸までしゅっと伸びている橋の下をくぐると、向こうから川の方へむかって波が押し寄せてくるのが見える。川が途切れ、海がはじまっている。ここまでくると、水の量はぼくの感覚の容量をオーバーしてしまって、捉えきれなくなり、くらくらする眩暈は消える。(眩暈は、漠然とした軽い不安のような感情に変質している。)海岸線がずっと先まで見えてきて、海沿いの道路をはしっている車のライトがずっと遠くまで数珠繋ぎでちらちらと瞬いてつづいている。コンクリートで整備された土手は、アスファルトの道路を経て、砂浜へとつながっている。黒々とした海面に立つ波は荒れていて、しぶきが飛んでくる。広い砂浜をゆっくりと波打ち際まで歩いて行く。空が360度に開けて、シルエットで立ち上がる遠くの山々までが見渡せるようになる。太陽は沈んでしまったが空はまだうっすらと明るい。振り返って、海の方から川を見返す。
03/01/23(木)
●しゅわわわわぁーっ、と炭酸水がはじけるような音をたてて雪が降っている。白い細かい粒がちらちらと落ちてきたと思っていたら、それはすぐに紙吹雪のような塊になって、舞うような降り方になり、そのひとかたまりの重さが増して、沈むようにゆっくりとまっすぐに落ちてくるようになる。炭酸のはじけるような音は、たわわに茂る常緑樹の葉の一枚一枚に落ちてくる雪の塊がぶつかり、葉をかすかに震わせた空気の振動が無数にある葉の数だけ重なることで生じているようだ。中空に舞う白い不均一な塊は、極端に粒が粗くてすかすかな明るい光の粒子が降り注いでいるみたいで、あるいは、空間に無数の穴が穿たれてその穴から光りが漏れてくるようで、雪の粒とそれ以外の空間とで明暗のコントラストをつくり、そのコントラストが宙を満たす。
03/01/29(水)
●強くて冷たい風が吹く。下生えのシダやクマザサを揉み合わせ、木の葉と木の葉を擦り合わせる乾いた音が身体のまわりを包み、遠くの方からは、うなるような、地響きのような、ゴーッという低い音と、空を切るような、草笛のような、ピィーッという高い音が、重なり合うようにわき上がってくる。地面は霜柱のためにあばた状にでこぼこになり、そのまま溶けずに堅くなっている。両側を木立に挟まれた坂を下りていると、下からビニール袋が風にあおられてゆっくりと舞い上がってきて、それにつづく突風で、たくさんの落ち葉が吹き上げられて、まるでその一枚一枚が意志をもった生物で、それらが大群となって飛び跳ねながら移動しているかのように、坂道の下の方からわらわらとかけ登ってきて、通り過ぎてゆく。すり鉢状の地形の一番低いところにある池の水面は、表面を細かく波立たせながらも、そこだけひっそりと、静かに佇んでいるようだった。(上の方から、ごうごういう音が降り注いでくるのだけど。)

  久しぶりにゆっくり散歩した
03/02/06(木)
●久しぶりにゆっくり散歩した。引っ越してから近所をぶらぶらすることがなかった。ウチのまわりはいわゆる「閑静な住宅地」で、どこまでも一戸建ての家ばかりがずっと並んでいて、歩いている人は皆ここらの住人で、「家族」という単位で生活している人がほとんどだから、昼間は人通りがあまりない。つまりいい年をした男が昼間からぶらぶら歩いていると、あきらかに「あやしい」感じなので、あまりふらふらしていられない。(住宅地でも、そこを人が「通り抜ける」ような場所ならいいのだが、住んでいる人しか「入り込まない」ような地帯なのだ。)だが、駅からウチまで歩く、ほんの10分ちょっとの間だけをみても、地形は入り組んでいて、道は蛇行し、散歩するには面白そうな地帯ではあるのだ。
●午後3時過ぎにふらっとウチを出て、駅とは反対の方向へ、比較的たっぷりと敷地をとった大きめの家が並ぶ通りに出るが、人通りはほとんどない。ずっと先まで見える広い通りをずんずんと歩いていっても、犬を連れた婆さんくらいとしかすれ違わない。適当なところで角を曲がると、すぐに行き止まってしまうように見えて、そこからまるで私道のような細くて華奢な階段が下っていて、蛇行する路地へと繋がっている。このあたりの土地は起伏が激しく、道はどこも多少なりとも下ったり上ったりしていて、時折、高低差のつじつまを合わせるように、土の露出した斜面だとか、、アスファルトの舗装の継ぎ目だとか、切り通しとは言えない、亀裂のような小さな切り通しがあったりする。それに、とても計画的に開発されたとは思えず、いいかげんに徐々に土地が埋まっていったらしく、建物の規模や新しさ、道路の広さや整備の具合などが著しく異なるいくつもの領域が、複雑に、互いに食い込み合うようにして重なっていて、その重なりの虫食い状の隙間に、もともとあったらしい雑木林の名残の木立ちが残っていたりする。割合と新しくて立派な邸宅の並ぶ広い通りの一帯に、学生や単身者向けのイマドキ風のチープなアパートが場違いに紛れ込んでいたり、大通りがふいに途切れ、細くてぐにゃぐにゃした道が錯綜し、昔風の朽ち果てそうな木造平屋建て(一軒の家が真ん中で仕切られていて、玄関が二つあり、2世帯が住んでいるような造り)が無秩序に散らばっているところがあったり、そこを抜けると、いかにも古くからの「地元」の人たちが住んでいそうな一画(やたらに祠が沢山あり、地蔵や稲荷がまつられている)に出たりする。それら、入り組んだ地帯を結び、いいかげんに継ぎ接ぎされた空間の齟齬を調整し、つじつまを合わせるような、中途半端な広さで妙な形をした空き地がぽつぽつとあり、雑木林の名残の古い木立ちが残っていたり、貧弱に作物の植えてある畑になっていたり、ただもうどうにも利用のしようのない、何とも名付けようのない「空いたスペース」としてあったりする。そんな風に歩いていると、いきなり抜けの良い高台の公園に突き当たり、アンソニー・カロ風のモダンな遊具が設置されていたりもする。番地の表示も不思議で、ぼくは3丁目に住んでいるのだが、3丁目がいきなり5丁目に飛び、それがいつの間にか2丁目に戻っていたりする。ただ共通しているのは、ひたすら住宅地ばかりが拡がっていて、人通りが少なく、店らしい店もなく、たまにあっても、布団屋だったり、営業しているのかどうかわからないような美容室だったり、あやしげなジュエリーショップだったりで、2時間以上歩き回って、たった1軒のコンビニにも行き当たることがなかった。(勿論、駅の方向にはあるんだけど。)
●直線距離にすれば、住んでいるアパートからそんなには離れていなくても、はじめて入り込む地帯で、しかも意図的に迷うように迷うようにと道を選んで歩きつづけると、徐々に方向感覚が失調し、近所と言っても良い場所にも関わらず、自分が今どこにいるのかわからなくなるような不思議な浮遊感に包まれる。この感じが、散歩する楽しみの大きな要素のひとつなのだが、割合小振りの家が密集して建ち並ぶ入り組んだ一帯で、方向を失ったままぶらぶらと歩いている時に、それほど広くはない道の大部分を塗装屋の軽トラックが塞いでいて、その脇の隙間を擦り抜けようとするとき、車のラジオから今井美樹の『MISS YOU』が流れてきたりすると、この微妙に時代のズレた感じに軽く戸惑い、人影のない、真っ青な空から斜めに日が射してくる午後に、そこがまるで当然の自分に相応しい場であるかのように今井美樹のゆったりとした調子の声が溶けていったりすると、ここがどこかというだけでなく、今がいつかということまで、ほんの一瞬だけだけど、分からなくなってしまうのだった。
●しかし、いくら複雑に入り組んでいるとは言っても、2時間もうろうろとしていれば嫌でもだいたいの地形や道のつながりは把握できてしまうもので、だからもうウチの近所ではこのような感覚を味わうことは出来ないのだろう。


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