a night of dog doys(映画・読書・その他、24)

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風邪と『リリィ・シュシュのすべて』
秋の日
サミラ・マフマルバフの『ブラックボード・背負う人』
青山真治の『私立探偵濱マイク・名前のない森』(テレビバージョン)
風間志織・監督『火星のカノン』を観る
『芸術と客体性』(マイケル・フリード)を読み返した
戦争に反対する唯一の手段は、
鈴木清順『ピストルオペラ』をビデオで。観るのは3回目
アトリエの二つの林檎から
いわき市立美術館の中村一美・展
大道珠貴という小説家は「買い」だ! (『裸』)
大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』を読んだ
大道珠貴『しょっぱいドライブ』
大道珠貴の『銀の皿に金の林檎を』を読む
蓮實重彦の『「知」的放蕩論序説』(タイトルが凄くつまらない)
アーシル・ゴーキーについて
人形町のvision`sの井上実・展
形式と慣れと自然
かくも幼稚なダブルリアリティ(第1回府中ビエンナーレ)
東浩紀のタイムスパン
ティンゲリーのようなドゥルーズ



  
風邪と『リリィ・シュシュのすべて』
02/10/02(水)
●風邪がまだ抜け切れないので家でおとなしくしている。こういう、頭がぼーっとしている時に、よせばいいのによりによって岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』なんかを観る(DVDで)。これはほとんどマゾヒスティックな趣味と言って良いかもしれない。
●岩井俊二は大嫌いだけど、ここまでやればそれはそれで立派かもしれないとさえ思う。何と言うか、全編、いやーな、負のエネルギーで満ちていて、下手をしてちょっと気を許すと、ふーっと「向こう側」へ連れていかれそうになってしまう。ほんの僅かでも理性を働かせれば、こんなに浅はかな話はないと思えるのだが、もの凄い負の求心力がある。こういうものを物語の「毒」と言うのだろうか。岩井俊二は、多分映画なんてまともに観たことは一度もないのだろうとしか思えない(「撮り方」としては全くひどい)し、音楽の趣味なども含めて、本当にどうしようもないのだけど、こういうものを「趣味の良さ」によって批判しても仕方がない。趣味の良いものよりも趣味の悪いものの方が強いに決まっているからだ。この映画の強さとは、恐らくそのような強さなのだと思う。そしてこれが中学生の話である以上、そのような強さこそがリアルなのだとも言える。この映画の毒気に当てられて、もうすっかり忘れてしまっていた、中学生の頃に感じていた「嫌な感触」をずいぶんと思い出してしまった。この映画の浅はかさは、ちょうど中学生くらいのガキがもっているどうしようもなく「痛い」浅はかさとぴったりとシンクロしてしまうのだ。だからこそこの映画の罪は重いと言うべきなのだが。正直に言って、ぼく自身の感情のある部分はこの映画に激しく共振させられてしまう。このような浅はかさには憶えがある。まるでたちのわるい怨霊みたいに、人を嫌な物の方へと誘い、そこに固着させてしまうような力(ある「関係」の力)がここには働いている。この映画自体が強烈な物語の毒を発しているのと同時に、この映画は物語の毒に侵されそこから逃げることが出来ない人たちの話でもあるのだ。この映画が「痛い」のは、このような「浅はかさ」のなかにいてそれに耐えるしか仕方のないような状況が、確かにあるのだという「憶え」が自分にもあるからだと思う。そしてこの「痛い」「浅はかさ」は、俺もあの頃はガキだったからなあ、なんていう風に、想い出として適度な距離が保てるようなものではなく、いつも生々しい「嫌な感触」として残りつづけるだろう。(例えば、黒沢清の『花子さん』みたいに。)勿論、ちょっとでも気の効いた(と言うか「まともな」)ガキだったら、こういう浅はかさに対して適当に距離を取ってやり過ごす術を、なんとなく感覚的に知っているものなのだけど。(しかし、やり過ごす、ことしか出来ないのだ。)この映画において、ある「関係」が紡ぎだしてしまう「暴力」の何とも言えない感触は、例えば村上春樹のような作家が苦労と努力のすえに描き出す暴力の姿(『海辺のカフカ』は読んでないし、読むつもりもないけど)などよりも、ずっと生々しくリアルである。だからこそ、凄く嫌な(「毒」に溢れた)映画である訳で、そのような地点から、この映画を批判することを考えなくてはいけないと思う。『リリィ・シュシュのすべて』が、映画作品として駄目だなんていうのは当たり前の話で、そんなことをいくら言ってもこの映画は全く傷つかない。
02/10/03(木)
●風邪の症状は退いたのだが、病み上がりですごく眠い。腰をかけると意識が遠のいて眠ってしまいそうになる。出かける間際までどうしようか迷ったのだが、ボリス・バルネット(アテネ・フランセ文化センター)を断念する。昨日も風邪でなければ行きたいと思っていたのだが、ボリス・バルネットが何故か岩井俊二になってしまったのだからえらい違いだ。でも、こんな機会でもなければ観ることはなかっただろうし、まあ、良しとする。もう一度観たいとは全く思わない映画だったけど。
昨日、『リリィ・シュシュのすべて』について書いていて、『まどろむ夜のUFO』(角田光代)について書く東浩紀を思い出してしまった(『郵便的不安たち』「批評ばかりが増殖する」)。『まどろむ夜のUFO』(全く面白くない小説だけど)を「幻想小説」という枠組みで捉えようとするのが根本的な間違いであるのと同じように、『リリィ・シュシュのすべて』を「映画」として捉えることは間違っている。(「映画」として批判しても意味がない。)例えば、CDとして、オリコンチャートで30位〜50位くらいを狙えるというセンでつくられた商品だと思えば、別に何ということもないものなのかもしれない。(しかし、そういうものをどうやって「批判」すればいいのか?)もはや大衆娯楽ではなくなった映画に比べれば、音楽産業が抱え込み、まき散らしている「物語の毒」の濃度は、とんでもなく濃い訳だから。ここで、毒を含んだ物語の浅はかさを、いくら浅はかだと批判しても、そのような物語を必要としてしまうような現実があるという事実はかわらないし、その限りで物語の「浅はかさ」はある必然性と実質的なリアリティーを持つ。しかし、その物語が浅はかであるならば、それは決して人を救うことなどなく、事態はさらに悪化してゆくしかないだろう。『リリィ・シュシュのすべて』という作品が体現してしまっているのは、そのような事実であると思える。だからこの映画は、ある種の少年たちの姿や心性を表象しているのではなくて、ある種の少年たちがハマッてしまっている「悪循環」に、作品そのものがそのままハマッて(重なって)しまっていると言えるのだ。この映画の「嫌な感触」が妙にリアルなのはそのためだと思う。この映画は、「浅はかさ」を回避して、映画として取り繕おうとは決してしていないという意味では、徹底していると言えるだろう。2度と観たくはないけど。

  秋の日
02/10/04(金)
●良い天気、掠れた雲、カキノキ、サルスベリ、キンモクセイ、駐車場の裏、花のしおれた後のヒガンバナの茎、芝生を横切る、ヒメユズリハ、カツラ、ヤマモモ、坂道を緑地へと下る、ハナモクレン、アカシデ、エゴノキ、クリ、湿った土の匂い、コナラ、トチノキ、クヌギ、アラカシ、シラカシ、ハルニレ、遊歩道、サザンカ、ハナカイドウ、マテバシイ、ヤマブドウ、「たき火禁止」、クスノキ、ホオノキ、ヤブツバキ、「まむし注意」、サカキ、ナナカマド、ヒイラギ、モミ、シャラノキ、赤トンボ、カメムシ、カナブン、クマンバチ、野良ねこ、投棄されたバイクの部品、トカゲの赤い目。
02/10/08(火)
●雨が降っている。しかし、北側の空の一部は雲が裂けて、明るい空も覗いている。雲の裂け目から射してくる光を、しっとりと濡れたアスファルトの道がまぶしく反射し、道の両側に生える街路樹を鏡のように映している。このような映像が、アスファルトの道が車道にT字に交差する地点に立つ円形のミラーに映っている。広い範囲を映すためにゆるやかな凸面鏡になっている鏡のやや歪んだ映像の多くの部分が、眩しく光りを反射する湿った道路で占められているので、ミラーそのものも眩しく光って見える。ミラーの後ろに、ミラーに覆い被さるように立っている濃い緑の葉をびっしりつけた常緑樹に目の焦点を合わせると、ミラーに映っている映像は見失われ、それらを同時に見ることは出来ない。しかし、ミラーの背後の常緑樹の葉のざわめきを見ているときにも、ミラーから反射された眩しい光は目に入っているし、また、ミラーに映された映像を見ているときにも、その背後に蠢いている深く濃い緑を目の周辺に感じてはいるのだ。(勿論、黄色く縁取られたミラーの「フレーム」も同時に感じている。)
02/10/15(火)
●雲ひとつないが、青というよりも白に近い色の薄い空を、轟音を響かせる軍用機が墜落するんじゃないかと思う程に低い高度で通り過ぎて行く。まだ冷たいということはないが、乾燥して荒れた感じの風が砂埃をのせて吹きつけ、道路に落ちた枯葉がカラカラと音をたてて転がり、白いビニール袋が空高く舞い上がる。団地の外れにある、木の杭が打ち込まれ鉄条網で囲まれた空き地に生えている雑草のうちの半分くらいは、炒めたタマネギのような色になっている。(「東京都宅地分譲」という文字の書かれた幟が風で音をたててはためいている。)ずっと先まで見渡せる道の両側に植えられた背の高い木々が、それぞれに違ったリズムで、ゆらーり、ゆらーり、と揺れているので、歩いている自分もなんとなく不安定にふらふらする。しばらくまっすぐに行って道を右に折れ、駐車場を抜けると、野球場のバックネット裏が見えてくる。乱れて舞う強い風のせいか、バイクの進入を規制する看板や、トスバッティングに使う網などが倒れたままになっている。レフト側のフェンスの向こうには、建設中の高層マンションを組み立てるクレーンが3本、空に向かってにょきにょきと生えるているのが見える。空高くまで突き刺さっている3本のクレーンも、ぐらり、ぐらりと揺れているようにも見えるのだが、それは気のせいかもしれない。
02/10/24(木)
●自転車に乗ってしばらく走ってから、ハンドルの下の部分にカマキリが一匹しがみついているのに気がついた。カマキリは、自転車が走っている間は振り落とされないように必至なのかピクリとも動かず、信号待ちなどで停まると、こった関節(とは言わないのだろうが)をほぐすかのように僅かに身体を動かす(首を傾げたりする)のだが、しがみついている位置を移動することはしない。カマキリと言うと、シャープで攻撃的なイメージがあるのだが、よく見ると押しつぶしたような三角形で間の抜けた顔をしている。かなりのスピードで走り、きつい坂を上りながらも、たまにちらちらとその存在を確認しても、相変わらず動かないまま同じ位置にいる。しかし、急な坂道を風を切って左にカーブしながら下り、下り切って平坦な道になってからまたちらりと見ると、のそのそと身体全体を動かしはじめたので、さすがにやってられないという感じでとうとう飛び立つのかと自転車を蛇行させながらしばらく見守っていると、身体の向きをくるりと180度変えただけで、また動かなくなってしまった。カマキリは一体、この急激な空間移動をどのように認識しているのだろうか、もしかしたら「酔って」動けない状態なのだろうか、それとも動いている(移動している)とは気付いていないのだろうか、と考えているうちに目的地に着いたので、カマキリがしがみついたままの自転車を置いてその場を離れた。ずいぶんと時間が経って、もうカマキリのことは頭になく、帰るために自転車を漕ぎはじめてふと下を見ると、まだ同じ場所にしがみついていた。また一緒に長旅をさせるのもどうかと思い、ふっと強く息を吹きかけて地面に落とし、そのままそこへ置いてきた。
02/11/06(水)
●風呂に入るなら明るいうちがいい。出来れば午前中。照明をつけなくても磨りガラスを通して入ってくる外光で充分に明るい午前中の浴室には、高感度フィルムの荒い粒子のような光が粒だって満ちていて、浴槽の水面が揺れるピチャピチャという音がエコーのように反響するのにつられて、光の粒もゆらゆらと揺れ動いているように感じられる。浴室の白い壁は、蛍光灯の光の下ではオレンジ色に染まって見えるが、午前中の光では青ざめたような白に見える。ぬるめのお湯に浸かって、皮膚の表面だけでなく脳までもふやけてしまったようにぼーっとしながら、表から聞こえてくる子供の遊んでいる声や、鳥の鳴く声、おそらくカラスだろうと思われる大きめの鳥が羽ばたく激しい羽音、時には、リサイクルセンターのトラックからの、いらなくなったテレビ、使えなくなったビデオなどの電化製品を無料でお引き取りいたします、また、バイクの買い取りなども行っています、ご用の方はお近くを通るときに声をおかけ下さい、というマイクで拡張されたテープの音などを聞いていると、時間はみるみる過ぎていってしまう。一人暮らしなので浴室のドアは閉めたことがなくいつも開けっ放しで、浴室の前の短い廊下の先にある部屋の本箱に、本が雑然と並んでいるのが見え、そっちの方からなんとなくスースーする微風が入り込んできて浴室の湿った空気を僅かにかき回し、そういえばつけっぱなしだったテレビの音もずっと聞こえているのだった。
02/11/14(木)
●日が傾き、空はまだ明るいが、周囲は薄暗くなったような時間に、傾いた日を背にして建つ建物と、夕日の方を向いて建つ建物の両方が見える場所に立っていた。一方の建物の全面は影になり、びっしりと並ぶ窓のいくつもに蛍光灯が灯っているのが見え、もう一方の建物の窓々のガラスには夕日が眩しく反射していた。

  サミラ・マフマルバフの『ブラックボード・背負う人』
02/10/06(日)
●実は今までサミラ・マフマルバフの『ブラックボード・背負う人』を観ていなかったのだ、だなんていう恥ずかしい事は、ビデオでやっとそれを観ることが出来た今だからこそ言えるのだ。サミラ・マフマルバフが半端ではなく凄い映画作家だということは、既に多くの人が言っているし、ぼくだって『りんご』や『セプテンバー11』は観ているのだから知ってはいたのだ。でも、あまりにも完璧に美し過ぎる『りんご』のような作品を(とても若くして)最初に作ってしまった人が、その第1作の出来に押しつぶされてしまうということがないとは言えない。しかし、『ブラックボード』はそんな心配がまったく馬鹿げていることを証明している。圧倒的にパワフルで頭の良いサミラ・マフマルバフは、自分の才能だけに閉じこもってしまうようなヘマはしないのだ。
まず、黒板を背負って断崖を歩いている人という「絵」だけで、もう傑作であるという雰囲気を充分に漂わせている。その、黒板を背負って生徒を探して彷徨う教師(恐らく戦争によって職場である学校だけでなく故郷の村そのものを失ってしまったのだろう)を、イラクとの国境付近の山岳地帯に置き、イラクから違法に物資を運んでいる子供たちや、故郷へ向かって国境の方へ歩くクルド人の、主に老人たちからなる集団と交錯させるという聡明な企画が加われば、もう、ほぼ映画の成功は約束されたようなものではないか。なにもサミラ・マフマルバフのような傑出した人が撮らなくても、充分に観る価値のある作品にはなっただろう。しかし、サミラのシンプルで的確、かつ力強い演出が、たんにある社会的な「現実」を物語によって的確に示すというだけに留まらない、映画が物事を「直に」映し出すという力を生き生きと示すのと同時に、決して映像によって「直に」映すことの出来ない、決して「今ここ」には還元出来ない、ある知的な操作と言うのか、抽象力によってしか捉えられないような「現実」の姿までも捉えようとする、深い射程をもった作品になっている。
何もそれは国際情勢とかいうような大袈裟な事実として描かれる分けではない。ここでは、それは主に、教師と子供達、教師とクルド人の女、という具体的な関係(の困難)によって示されている。教師の担いでいる黒板は、事物としてはその場に応じて様々なものに変化して、大いに役に立つ。泥を塗って鳥から身を隠し、先を急ごうとする子供たちの行く手を阻み、婚姻や離婚の儀式を行うための衝立になり、攻撃から身を守り、人を運ぶ担架にも、ギプスにもなれば、洗濯物を干したりする事も出来る。しかし本来の目的である教育のための装置(つまりそこに「字」が書かれるための抽象的な「地」)としては、なかなか機能してくれない。そこにいる人々は、常に生命の危険にさらされ、過度な疲労の蓄積(映画のなかで人々はひたすら歩きつづける)や絶望的な気分の蔓延、そして飢えや衰弱というフィジカルな問題など、様々に過酷な環境を強いられているので、「読み書き」や「計算」を「学ぶ」などといったことを受け入れる余裕がない。(その余裕のなさが、実は事物との深い交感を保証しているのかもしれない。)しかし彼らはそれ(「文字」や「数字」といった抽象的な「知」の次元)を必要としていない訳では決してないだろう。冒頭近くに出てくる老人は、息子からの手紙を読んでくれと教師に頼むし、少年のうちの一人は物語を語りそれを必要としているし、教師とクルド人たちとの間には、クルミ40個で国境までの道を教えるという契約(せめて50個にしてくれ、いいや40個が精一杯だ、という交渉がなされる)が交わされるし、教師と女の婚姻には、ちゃんと結納品=象徴的なもの(「黒板」と「クルミの木」)の交換まで行われる。そして何より、彼らの現状に決定的に大きな影響を与えてしまっているのは、具体的には見ることも触れることも出来ない「国境」という抽象的な「線」であるのだ。国境線が具体的な事物ではないのと同じように、黒板に書かれた「私はあなたが好きです」という文字に実体はない。黒板という事物に人を乗せて担架にしたり、端を切ってギプスとして使用したりするようには、その書かれた文字を使用することは出来ない。教師は、文字を教えるという形でしか女に気持ちを伝えられないし、女はそれが事物ではなく文字でしかないことによってそれを受け入れることが出来ない。(教師は、クルド人たちの間では教育する存在である「教師」としては認められず、ただ背負っている物から「黒板さん」と呼ばれる。)映画を観ている限りではコミカルでさえある、この教師と女の間の擦れ違い(「事物」の次元と「抽象的なもの」の次元の行き違い)という悲喜劇にこそ、サミラ・マフマルバフによる世界への深い眼差しがあると言えるだろう。(とても印象的な『セプテンバー11』のサミラ編でも、このことがテーマとなっていると言えるだろう。)ここでは、事物との非常に豊かな交感が力強い単純さによって描かれると同時に、それだけでは決して捉えることの出来ない複雑な関係を捉えるために必要な、「抽象的なもの」との交通の困難さが示されてもいる。勿論、この映画では不幸な行き違いばかりが描かれている訳ではない。たまたま教師と同じ名前をもつ少年が、そのことから自分の名前を文字で書くことに興味を示し、とうとう黒板に自分の名前を書き付けるという素晴らしいシーンもある。このシーンが素晴らしいのは、無知な少年が「知」を獲得したとかそういう事ではなくて、非常に困難な交換=交通が、その困難にもかかわらずそこで成立したことの素晴らしさなのだ。
02/10/07(月)
(昨日の補足。サミラ・マフマルバフ『ブラックボード・背負う人』について)
●『りんご』(サミラ・マフマルバフ)では、教師には特別な位置が与えられていた。世の中から隔絶された双子の姉妹、無知からくる妄信によって姉妹を閉じこめる両親、この一家を取り巻く「世間」、のどのような利害関係からも独立した存在であり、そのような存在であることを保証されていることによって可能になる、ある行動力が与えられる。教師は世俗的な諸関係のどこにも属さない超越的な存在であることによって、世俗に対してある効果を発揮することが出来た。しかし『ブラックボード』の教師には、そのような特権は与えられていない。黒板が「黒板」として機能せず、たんに「板」でしかないような世界において、「読み書き」や「計算」を教えるということ以外に交換=交通の手段を持たない教師は、この映画に登場する、過酷な現実を強いられている人々のなかでも最も「弱い立場」の人物である。たんなる「板っ切れ」でしかない黒板と「知」以外に何の財産も持たない教師は、仲間も仕事も失っている。この教師はまさに柄谷行人の『探求1』の世界の住人であり、「売る立場」「教える立場」であるしかないという関係の非対称性を生きている。彼が生きて行くためには、何とかして「知」を商品として人々(老人たちや子供たち)に売りつけて食料や水を得なければならず、ここではまさに「命がけの跳躍」が強いられている。疲労と病と絶望感に浸されながらも故郷を目指して歩きつづける老人達にしても、彼らには自らが属する集団があり、生きて行くのに最低限の食料(くるみ)を所有しているし、毎日危険に晒されながら闇物資の運搬という過酷な労働をするしかない子供達にしても、生きて行くのに必要な仕事と仲間を持っている。しかし、それにしても、自らの属する集団のなかで生きて行くことに手一杯で、教師が売りつけようとする「知」などは無駄な贅沢品のようにしか見えない。
自らが拠って立つところの集団をもたない教師は、そのような相手に対してでも何とかして交換=交通を実現しなければ生きてゆけない。だから、時にはたどたどしい不器用さで、時には押し売り同然の強引ないかがわしさで、彼らとの交換=交通の回路を開こうとする。(読めもしない文字の手紙の内容をいいかげんに喋ったり、どさくさに紛れて老人の娘と強引に結婚してしまったりするようないかがわしさを発揮する一方、結婚した女に対して気持ちを伝え、感情的な回路を開こうとするのにも、「文字」を教えることを通じてしか出来ないという不器用さもある。)教師は、様々な角度から回路を探り出してはそれを開こうと努力し、それら複数の回路が、行き違ったまま開かれなかったり、場合によっては開かれたりする様が描いたのがこの『ブラックボード・背負う人』という映画なのだ、と言えると思う。徹底してシンプルなリアリズム的(即物的)な描写の積み重ねで描かれる、寓話的とも言える単純な物語のこの映画は、しかし同時に、複数の回路の明滅が同時多発的に進行するという複雑さを持っているのだ。この映画の豊かな表情は、たんに物質的な描写の豊穣さだけによるものではない。シンプルな筆致のなかに重層的に織り込まれている、交換=交通のための複数の回路(が作動したり作動しなかったりすること)によるのだ。
(『りんご』『ブラックボード・背負う人』『セプテンバー11』の3本とも、サミラ・マフマルバフの映画には教師が重要な役割をもって登場する。この事実は彼女の映画の特徴を示しているだろう。今、目の前にある状況とは生々とした繋がりを持ちながらも、まさにそのことによって「今、ここ」へと閉じこめられている人たちに、別の世界、遠い世界を見せ、それについて考えるための別の思考法を与えようとする存在として教師はあらわれる。それは、ただ「外の世界」の情報をもたらすことによってではなく、例えば「読み書き」や「計算」といった、抽象的なと言うか、アレゴリカルな思考方法を伝えることによって、それをしようとする。今、ここという状況に閉じこめられている人、今、示されている映像、今、スピーカーから発せられた音にまみれ、閉ざされた場所にいる人とは、そのまま映画の観客のことでもあるだろう。だからサミラ・マフマルバフの映画は、教育の装置としてもあるのだ。この映画をアレゴリカルに観よ、そしてアレゴリカルに思考せよ、遠くを見よ、と映画作品そのものがメッセージを発している。)

  青山真治の『私立探偵濱マイク・名前のない森』(テレビバージョン)
02/10/10(木)
●青山真治の『私立探偵濱マイク・名前のない森』(テレビバージョンの43分の方)を2回繰り返してビデオで観た。オンエアーの時の感想(8/6と8/7参照)とちょっと違ってしまうが、凄く面白かった。低予算で作られたマイナーなB級のテイストで、恐らくそれほど練り込まれているという訳ではないチープな脚本、これといって特に面白い話が展開する訳でもなく、重苦しい雰囲気が支配し、何だかよく分からないまま話が進行し、盛り上がりに欠け、淀み、燻った状態で不発のままさっさと終わってしまう、というような系譜の絵画が映画史にはある。それらは、決して多くの観客を満足させはしないのだが、妙にマニアには愛好される。誰も「アート」など目指してはなくて、B級の娯楽作品として制作されているのにもかかわらず、その目的がいつの間にかなしくずし的にぐずぐずになり、影が射し、細部が歪み、いつの間にかとても妙なものになってしまう。その歪みがとても引っかかる。『名前のない森』は、そのような系譜の映画の雰囲気を再現しようとして成功しているように思う。青山氏の映画には、それを「生真面目」に観ようとすると肩すかしをくったようになり、「???」となってしまうような系列の作品がある。例えば『WiLDLIFE』や『シェイディー・グローブ』や『EM エンバーミング』のような。『EUREKA』や『Helpless』こそを青山監督の代表作だと評価するような人には、vシネマ的な企画と青山的な主題を一致させるべく格闘した習作、あるいは、それほど完成度の高くない(シネフィル的なはしゃぎが目立つ)マイナーな作品として位置づけられるかもしれない、これらの小さくてマイナーな作品たちを、(青山作品ならなんでも持ち上げようとする人たちのようには)決して傑作だなどと言い張るつもりはないが、それらのあきらかに均衡が崩れているような作品たちには、小さくてマイナーなものにしかない固有の魅力が備わっている。『名前のない森』は、青山氏のそのような系列の作品のなかで、最も成功したものと言えると思う。(8/6の日記では、この主題に43分では短すぎるというような事を書いたのだが、むしろ、このあっさりとした短さこそがこの作品の良さであるように思えた。)
『名前のない森』は恐らくジジェクを参照しているのだろうが、ジジェクはたんに物語を組み立てる方便として利用されているに過ぎないように思える。この映画の世界は、水飲み人形が首を振るゆったりとした動きと、大塚 寧々の足を揺らす動きとがふと共振してしまうような、夢とうつつの中間に拡がる微睡みの世界であり、それと同時に、固有名をなくした者同士が互いに互いを見つめている視線によってがんじがらめに縛られている世界でもある。互いの匿名化した視線で互いを縛り合っているような世界では、そこから解放されるためには、見られている自分を殺してしまうか、自分を見ている他人全てを殺してしまうかの二通りしかない。だから、「自分の本当にやりたい事」は、「無差別殺人」か「自殺」しかなくなってしまう。そのような世界に亀裂を生じさせるには、濱マイク=永瀬正敏の道化じみた身振りなどではなく、いきなり登場する山本政志の野蛮なまでに俗っぽい存在感が必要である。この映画には不可解なカメラポジションからのショットが二つあるように見えた。それは二つとも、山本政志が現れ、永瀬正敏と共に女の子を連れてセミナーを去ろうとするシーンに見られる。一つは、壁際の椅子に座っている女の子を斜め上から俯瞰で捉えたショットで、もう一つは、俺はこの娘を連れてここを出て行く、それがやりたい事だ、とか何とか言いながら永瀬が後ずさりするところを、やや高い所から俯瞰で捉えた不安定な移動ショットだ。この二つの俯瞰ショットは、この映画を構成する他のショット(例えば同じ俯瞰ショットでも、鈴木京香が初めて登場する極めてクラシカルな俯瞰のロングショットなど)とは明らかに異質なもののように見えた。恐らくこの二つのショットにおいてだけ、このセミナーに流れる夢とうつつの中間のような時間・空間に亀裂が走ったのだ。そしてそれは、山本政志の登場によってもたらされたと言えるのではないだろうか。

  風間志織・監督『火星のカノン』を観る
02/10/11(金)
●渋谷のシアターイメージフォーラムで風間志織・監督『火星のカノン』を観る。これを観に行ったのは、10代の頃に少なからず刺激を受けた風間志織という名前に今でも多少のひっかかりがあったからで、実のところあまり期待はしていなかった。しかし、これがとても良かった。もの凄い傑作だと言うつもりはないけど、この映画が別段何の話題にもなっていないのは納得いかない。金曜の夜の、しかも監督、脚本家、主演女優のトークのある回なのに、それほど大きくもない劇場の半分も客が入ってないというのも何とも納得がいかない。ちょっとかったるい感じの導入部を、うーん、と思いつつ観ていると、次第に、おっ、やるじゃん、という感じで引き込まれてゆき、最後にはすっかり泣かされてしまう、という感じだ。このような丁寧で繊細な仕事には、それに見合った評価がされるべきだろうと思う。
限定された少人数の登場人物たちの関係が複雑に絡み合いながら展開してゆく様を、さらっとした調子(とは行ってもこの映画には空間がスカッと抜けるようなロングショットがほとんどないので、やや息苦しい感じが持続する)で描いて行くというのは、いかにも今どきの流行りではあるのだが、この映画では、ある関係が変化してゆく様がとても的確に捉えられているように思えた。この映画は、30歳直前の女と、女がつきあっている40代の妻子持ちの男、女がバイト先で知り合ったという20歳そこそこの男女、というほぼ10歳くらいつづ離れた3つの年代の4人の人物(終盤、ここに男の子供が加わる)によって織りなされている。物語を乱暴に要約してしまえば、妻子持ちの男との交際に振り回されてしまっている女が、年下の男女との交流によって、あっ、別れられるかな、という感じになるまでの話だと言える(しかしここには同性愛も含む複雑な恋愛感情の交錯がある)だろう。主人公の女は恐らくフリーターであると思われ、だから同じくフリーターであるらしい年下の男女と、経済的な状況や生活環境などはあまりかわらないはずなのだが、そこには世代の違いによる明らかな断絶(服装やインテリアから行動の様式まで)が仕込まれている。この、主人公と年下の男女との間に埋め込まれた世代間の落差(距離感)が、複雑な関係を織りなすこの映画にさらに独自の陰影を付け加えている。このあたりの描写の繊細さは素晴らしい。(ただ、年下の男がもっといかがわしい奴でもよかったように思う。)一方、年上の妻子持ちの男の方はと言えば、終始のらりくらりとしていて、こいつがどんな男で女のことをどう思っているのか、最後までさっぱり正体がつかめない感じで、これはこれでまた素晴らしい。
難を言うとすれば、この映画の登場人物たちはあまりに狭い関係だけで自足してしまっていて、この4人(あるいは5人)の関係以外からくる外的要素が物語から排除されすぎているのではないか、とは言えるだろう。例えば『ハッシュ!』のような作品に比べれば、関係があまりにも小さくまとまり過ぎていて、それが外へむけて展開されてゆく感じ(実験性、あるいは勇気)がないし、だからその結果としてユーモアが足りないとも言える。(さらに、主人公の女は徹底して自分の都合しか考えてないじゃんか、という突っ込みもあり得る訳だ。)それは確かにそうなのだが、その分を差し引いたとしても、「感情の交換」に関する描写の繊細さは特筆すべきものがあるように思う。それに、徹底的に自分勝手であるとしても、「この女がこのように存在している」というような、存在感と言うのか、「存在してしまう」ことの強さのようなものが出ていると思う。何とも言えない残酷な(?)ラストシーンが、それを的確に示している。
(空間の使い方で面白かったのは、主人公の住むアパートが、玄関のすぐ脇に、曇りガラスではあるが、とても大きな、カーテンもついていないガラス窓があることだ。これは防犯上には非常に問題なのだろうが、この窓の存在が、「抜け」の少ないこの映画の画面のなかでとても重要な役割を持っているのが面白かった。室内からでも前の廊下にいる人物の動きが曇りガラス越しに見えるし、外からも、玄関を開けることなく、窓を開けるだけで室内が丸見えになる。この窓がちょこっと開かれるだけで、画面の視覚上の風通しがグッとよくなる。あと、この映画では、関係の変化があると、そこには何かしらの断層=落差が仕込まれている。例えば、主人公の女と年下の女との関係が上手くゆくと、とたんに画面が変わり、二人はいきなりアパートから一軒家に引っ越してしまっている。この唐突な「飛び方」が面白い。この一軒家に、年下の男がトーテムポールを持って訪ねてくるというバカバカしさ。惜しむらくは、このシーンがもっと空間がスカーンと抜けているショットで撮られていればなあ、と思う。)
02/10/12(土)
(ちょっとだけ、昨日のつづき)
●『火星のカノン』(風間志織)で、主人公の絹子(久野真紀子)の不倫相手である公平(小日向文世)は、一体どんな男なのか正体を掴めないような人物として描かれている。それは別に経歴や社会的な地位が確定しないような「謎の人物」ということではない。ある時は、自分の家庭はしっかりと維持しながら、若い愛人とのセックスも同時に確保出来るように立ち回る狡猾な人物のようにも見え、ある時は、離婚するふんぎりもつかないまま愛人とも別れることが出来ずにずるずると現状維持をつづける以外の道を見いだせない優柔不断な小心者のようにも見え、またある時は、結婚だとか一対一の男女関係だとか、そんなことには全く頓着しない、ひょうひょうとして自由な行動をする不思議に魅力的な人物のようにも見えたりする。公平Aと公平Bと公平Cとは、とても同一人物とは思われないような異なった人格のようにその時々に「現れ」る訳なのだが、なおかつ、それらはやはり同一人物の複数の「現れ」であることは疑いようがない。(どこにも「着地」しない小日向文世の演技は素晴らしい。)『火星のカノン』という作品が少人数の閉じられた関係だけを扱っているにもかかわらず、閉じこもった小ささ、自閉的な感じを辛うじて逃れ得ているのは、この公平という人物の掴み所のないタガの外れたようなあり方によるのではないかと思う。(複数の「現れ」が、多重人格とかそういう感じで分離しているのではなく、まるでメビウスの輪みたいに裏返りながらものっぺりと繋がっている。)4人(ないしは5人)の関係で進行する話を構成するうちの一項が、まるで掴み所なく、何を考えているかもよく分からず、その「心情」のようなものも伝わってこないものとして破れてしまっている。実際、ある他者が、社会的な関係のなかの一項としてでもなく、「私」が勝手に相手に付与するキャラクター=イメージとしてでもなく、「実在する他者」として現れてくるのは、このように、複数の矛盾する「現れ」にもかかわらず、それらが同一の人物から発せられたものとしか考えられない、という時なのではないだろうか。(複数の矛盾する「現れ」がある遠近法的な配置に納まる時は、それがその人の人格的な「厚み」として感じられるだろうが、それらが散乱したままである時には、捉え所のなさとして感じられるだろう。)それでも、ある人物の人格を特定しなければならない時、我々は普通、対人関係の有用性に沿って、どの程度の深さ、どの程度の精度で「割り切る」ことが適当なのかを判断して、何とか近似値としての「その人物の特質」を特定することになる。(それは円周率を、小数点以下どこまでで切り捨てるのがその時の計算上では有効なのかを判断するようなものかもしれない。)しかし、恋愛という関係においては、対人関係の有用性という考えが有効に機能しない。だから複数の「現れ」は統合されないままで散らばっているしかない。恋愛の対象とは、このような意味での「実在」のことなのではないか。このような「実在」とはつまり、複数の矛盾する現れの「効果」として事後的に生ずるのだから、もともと掴むことの出来るものではない。
(勿論、だから他者の実在などというものはない、と言っている訳ではない。実在は、常に矛盾を生産するものとして「ある」と考えるしかないが、人はそれを矛盾による効果としてしか知ることが出来ない、と言うことなのだ。【対象なんていうのは主観が構成するんだからどうってことはない。しかし、その元にはやはり受動性があるんだ、純粋悟性あるいは主観の能動性だけではやれないんだ、と。物自体ということを言い続けるのは、その受動性を保証するためで、物自体をとってしまうと、受動性もなくなるんです。むしろ、対象と言ってしまうと、受動性が消えるんですね。】(柄谷行人))

  『芸術と客体性』(マイケル・フリード)を読み返した
02/10/13(日)
●ちょっと必要があって、美術批評としては超有名な文章、『芸術と客体性』(マイケル・フリード)を読み返した。この論文は、普通に言われているよりもずっと面白い事が一杯書き込まれているのだが、その面白さを読みとるためにはこの文章が書かれた1967年頃にアメリカで生産されていた美術作品(のコンテクスト)をそれなりに詳しく理解している必要があるかもしれない。芸術は「演劇性」を帯びるほど堕落する、という乱暴で挑発的な断言によって有名なこの論文も、特別に美術に関心がない人が読めば、何故、抽象表現主義やカラーフィールド・ペインティング(の一部)を評価する筆者が、ジャッドを中心とするミニマリズム(リテラリズムの芸術とフリードは言う)を批判するのか分からないと思うかもしれない。そんなの細かいマイナーな仲間割れみたいなもので、大きく見ればどっちにしろモダニズムでフォーマリズムな訳じゃん、ほとんど違いなんてないじゃん、と。しかしここでは、ミニマリズムがわざわざリテラリズムと言い換えられているところにポイントがあるだろう。細かいコンテクストの絡み合いを省いて乱暴に言うと、リテラルに客体を示しているようみ見える作品(これはたんにミニマリズムの作品だけを意味するのではなく、この後にあらわれたインスタレーションというより弛緩した何でもありの形式にまで引き継がれて現在に至る)のもつ「客体性」とは、実は与えられた空間(作品が展示される部屋)と、その内部で作品と対峙する(ことを強いられる)観客とを前提とした上で割り出された演劇的な「プレゼンテーションの効果」でしかなく、そこに芸術それ自体がないままに(ないからこそ)、その空虚に外部から「ある経験」が自動的に充填されてしまうような装置に過ぎない、と言うことだ。リテラリズムの作品は、観客に対して威圧的に覆い被さって(襲いかかって)くるように「ある経験」を強要する。(それは無言の他者に詰め寄られている感覚に似ている、とフリードは書く。)対して、モダニズムの優れた作品はそれ自体として存在しているので閉じていて(ひっそりと存在していて)、観客の側の作品に対する関心によって初めて開かれるのだ、と。つまりモダニズムの作品は空間や観客を前提としていない。もっと簡単に言えば、リテラリズムの作品はある固有のコンテクストに従属していてその内部でだけしか意味を持たないが、モダニズムの作品は複数のコンテクストの折り重なりとしてあるから、ある固有のコンテクストから切り離されても意味を持つということだ。だからここでフリードが執拗に批判する「演劇性」という悪名高い言葉を分かり易く言い換えるならば、さしずめ「ライブ感覚」とでも言えよう。ライブとは、目の前にいる観客を沸かせることに従属してしまっている形式である。うければ良し、うけなければ駄目、というこの形式は確かにシビアではあるが(シビアであることによって容易に「充実感」を得られてしまうという傾向があることは、テレビで儲けてライブで充実感を得ようとする芸能人が多いことによって証明される)、それは今、そこに集まっている観客の「好み」によって価値判断が先取りされ、決定されてしまっている、ということである。(つまりそれは、あるジャンルを受容する社会的な階層によって、そのジャンルの価値判断があらかじめ決定されてしまっている、ということでもある。)フリードの言う意味で最も「演劇性」の強い形式とは恐らく「お笑いライブ」のようなものだと考えれば良いだろう。お笑い芸人はとにかく目の前の客を笑わせなければしょうがない。対して、例えばセザンヌは決して実際に存在する誰かに向けて制作したりはしない。彼は、遠くにいる者、未だ不在であり、いるかもしれないし、いないかもしれない誰か(「未だ民衆は存在しない」と言う時の「未だ存在しない」者たち)に向かって制作するのだ。(つまりその価値を引き受け、保証してくれる人はまだどこにもいない、という状態でこそ、作品が出来る訳だ。)このことは、フリードが「自動的に演劇をのがれているもの」として映画を挙げていることをみれば分かる。映画俳優は観客が存在するより前に(未だ存在しない観客に向けて)演技をしなければならないし、映画のスクリーンを誰もリテラルな物質としては見ない。しかしフリードにおいてモダニズムの芸術たる条件は、「演劇性」に陥る危険を内包しながらも、それを免れているものでなければならないとされる。だから「自動的に」演劇から逃れられている映画は決してモダニズムの芸術たりえず、一方、「演劇」であっても「演劇性」からのがれることによってモダニズムの芸術になりうるという訳だ。
だが、『芸術と客体性』で最も問題含みなのは「演劇性」よりも「瞬時性」という考えにある。モダニズムの芸術は決して「持続=時間」にかかわることはなく、「どの瞬間にあっても、作品それ自体が完全に明示的である」のだと書く。(経験の持続への没頭は演劇的だから駄目だ、と。)それは絵画だけでなく、3次元空間上で無数の視点を取りうる彫刻においてさえもそうで、アンソニー・カロの作品について「その人が立っている場所からだけそれを見たからといって、カロのある作品についての人の経験は不完全になるわけではないし、またその質に関しての人の確信がどっちつかずのままになりはしない」などと、誰がどう考えても無理のある事を強引に言い切ってしまっている。(たとえ「経験」や「判断」そのものが無時間的なものだったとしても、具体的に作品を観るという行為は、時間=持続のなかで行われるしかないのではないか。)何故ここまで強引に「瞬時性」ということが言われなければならないかと言うと、それは恐らく、歴史的、地域的にある限定された範囲内の出来事であるしかない「モダニズムの芸術」は、その「瞬時性」を獲得することによってはじめて歴史的な時間も地域的な空間をも超えて「永遠」あるいは「普遍」と重なり合うのだ、ということを示したかったからだろうと思われる。瞬時性によってこそモダニズムの芸術が「芸術」と呼ぶに足りるもの、つまり「恩寵」となるのだ、と。しかしそれは、どう考えても結論を急ぎすぎ(目的論的でありすぎ)るように思えるのだ。結論を先取りしてしまっているから駄目なのだ、というのがフリードによるリテラリズムへの批判ではなかったのか。

  戦争に反対する唯一の手段は、
02/10/14(月)
●ところで、唐突だが、吉田健一の「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という言葉は果たして現在でも有効なのだろうか。今、アメリカの行おうとしている事は、自分たちだけに特権的に許された「美しい生活」に「執着」し、その既得権をあくまで死守しようとすることにその主な動機があるのではないだろうか。(国益ってやつだ。)「各自の」という言葉はそれが決して「国家」のものではなく「個人」のものであることを示しているのだが、しかし実は「個人」という普遍的な概念は、「国家」によって支えられることで成り立っている(国益を優先させることが国民一人一人の利益を「守る」ことになる、みたいな)のだ、と柄谷行人は書いていた。【「近代国家」を超越する原理(メタレベル)はない。たとえば、基本的人権、人間性は、国家によってこそ保証されるのである。国家をこえるあらゆる普遍的原理(神・人間・自由.....)は、そのままで、国家に下属してしまう、または国家主義に帰着する。これは矛盾でも転向でもない。】このことを考えなければ、アナーキストがそのまま滑らかに国家主義者になってしまう、という通路の反復をのがれられないだろう。今、考えられることは、「出来るだけ」国家(自己の同一性を保証する共同体)による保証がなくても成立する個人として、自分を組織し直すように努力することくらいだ。(まあ、それがアナーキズムってことなんだろうけど。)例えば、『憂国呆談リターンズ』の浅田彰は言う。【だいたい、ポストモダンっていうとノマド(遊牧民)ってことになるわけだけど、それを言ったドゥルーズとガタリは、実はノマドはあんまり動かないんだってことを強調してたの。(略)農作物から始まってエネルギーなんかに至るまで、二一世紀の理想は、できるだけスタンドアローンで一つずつのものが自立できることだと思う。機械でも、ちょっとした太陽電池かなんかがついてて、それだけで自立できること。逆に言えば、二〇世紀型の巨大なインフラ(略)、そういうものすごい国家規模の巨大システムに頼らなくても、したがってそういうシステムに縛られて定住しなくても、一軒一軒の家、一台一台の自動車、一個一個のマシン、一人ひとりの人間が自立してやっていけること。それがノマド---「動かないノマド」の基本でしょう。】この辺に、モダニズムの最後の可能性が賭けられるのではないだろうか。これって結局ヨーロッパ的な知性なんだと思う。(だから柄谷行人だったら、そんなものは「社民的」なものに過ぎず、ヨーロッパでしか成立しない、とか言うだろうけど。)

  鈴木清順『ピストルオペラ』をビデオで。観るのは3回目
02/10/19(土)
●鈴木清順『ピストルオペラ』をビデオで。これを観るのは3回目になるけど、観る度に、鈴木清順の凄さを思い知らされる。『殺しの烙印』のリメイクと言うことになっているこの作品は、小津で言えば『晩春』に対する『秋日和』のような映画で、作家として完成され盛りを過ぎた後ではじめてやってくる、しかし「枯れた味」などとは根本的に違う、凄みと同時になんとも言えない(誤解されやすい言葉ではあるが)風情が漂っているような映画にみえる。徹底して人工的で乾いた環境であるはずの鈴木清順の世界に、不思議にしっとりとした感触が漂うのだ。この映画の至る所にちりばめられている、生と死に関する、あるいは性的な、あるいは視線に関する、シンボルのように機能する記号は、極めて凡庸な、と言うより陳腐なものばかりであるし、様々な細部の仕掛けも、どれも以前の清順映画のどこかで見たようなものばかりだと言える。しかし、本質的にモダニストである鈴木清順は、「豊かさ」など必要としない。黒澤明のように、文学的な企画、膨大な予算、大袈裟なセット、俳優の演技ばかりか雲や天候までを制御しようとする厳格な完全主義、天皇という称号、等々、そのような様々な条件が揃うのを待っていたらいつまでも映画などつくれない。適当な手持ちのコマを何度でも使い回し、しかしその都度それを新鮮なものとして更新すればよい。企画がなければリメイクで充分だし、脚本など昔書いたものを手直しして使えば良い。ただ、江角マキコという女優がいて、彼女に銃を持たせて中腰で歩かせれば、そこに何かが動き出すはずだ、と。だからこの映画を観る時は、複雑に絡まっているシンボルの体系を読みとることや、それなりに工夫をこらしたものである細部の仕掛けをフェティシズム的に味わうという罠に陥ってはいけないのだ。(細部を味わおうとする観客は、チープなCGやつくりものめいた生首、そして何より、最後に登場する白塗りの男たちにうんざりさせられるのがオチだ。しかも「ケチャ」風の音楽までかかってしまうし。)様々なシンボルをこれ見よがしにばらまきながら、それらを決して象徴的な秩序(遠近法)として配置せず、意味が固定してしまう直前に横へとずらしながら散らばせる。記号も仕掛けもその裏側や深さを欠いていて、ある記号から別の記号へ、ある仕掛けから別の仕掛けへとひたすら滑って行く、その連鎖としての動き(アクション)こそが重要なのだ。繋がらないショットをただただ繋いでゆくことで実現される、この世界のなかではどこにもありえない抽象的な運動。だから鈴木清順の映画は、現実の反映ではないというだけでなく、現実とはどのような関連も持たない、というべきなのだ。寒い所で撮影されたせいなのか、江角マキコの白い顔の頬に射す「赤み」がやたらとなまなましいからといって、それを現実の江角マキコの身体と混同してはならないだろう。にもかかわらず、徹底的にドライで人工的な構築物として組み立てられているはずのこの映画には、何とも言えない不思議で痛切な情感が漂っているように感じられる。そしてそれは、やはり「死」に関する何か(生ものとしての身体、に関する何か)であるように思う。それは、この映画が語っているのが(非常に浅はかな)「死」に関する物語であるということとは、別のところから来ているように思われる。(この「不思議で痛切な情感」は、『ピストルオペラ』が日活解雇後の鈴木清順としては最も女優に恵まれた映画であるということとも関係しているように感じる。江角マキコが素晴らしいのは言うまでもなく、樹木希林の肉の弛んだ顔、そして辻希美をシャープにしたような韓英恵の、中途半端であることで妙になまなましいロリータ感、などが、この映画を微妙に震わせていると思う。)
02/10/20(日)
(昨日の付け足し、鈴木清順『ピストルオペラ』について)
●昨日の日記では上手く言えてなかったかもしれないのでちょっと付け足す。普通に「清順美学」みたいに言われているような鈴木清順の特徴的な「印」は、たんに清順氏の「貧しい手持ちの駒」に過ぎないのであって、そのような「手持ちの駒」でしかないものの反復を指して、鈴木清順という作家の作家性の証であるとか、ユニークさの証明であるかの様な見方は、詰まらないと思う。鈴木清順的な細部にはどのような「豊かさ」もない。(愛撫し、味わう程の「記号」の豊かさはない。)だからテマティクな分析はまるで意味を持たない。当然、リテラルな物語読解にも意味はない。しかし、テマティクな見方や清順的な持ち駒の反復を見ること無しに、清順映画を観ることは不可能であることもまた事実なのだ。とりあえず手元にあってすぐに使える「持ち駒」だけを使って、そこから最大限の効果を引き出すにはどうすればよいのかを徹底して思考すること(つまり徹底してB級作家的な態度)によってその作品は出来上がっている。(例えば『陽炎座』の異様な迫力は、どう考えたって無理のある強引な演出原理=フィックスショットの徹底からきている。)だから、清順映画の「凄み」は、その持ち駒の過剰な酷使から生まれてくるように思う。そのような映画を観るためには、ひとつひとつの細部を丁寧に追ってゆきながらも、決してフェティシズムに陥らず、無関心とも言える距離を保ちつづけるという、フォーマリズム的な態度が必要になるだろう。

  アトリエの二つの林檎から
02/10/22(火)
●今、アトリエには二つの林檎(赤いのと、青いの)と一つの洋梨が置いてある。これは勿論、インテリアではないし、モチーフでもない。ぼくのアトリエにはいつも、木の葉とか枝とか実とか、花とか石とか、よく分からない塊とか、どこからか拾ってきた(林檎や洋梨は買ってきたのだが)「自然の物」が置いてある。以前のアトリエを整理する時に棄ててしまったのだが、そこには一年以上置いてあって、すっかり乾燥しきって皺々で変色し、ゴルフボールくらいの大きさにまで縮まった林檎があった。(棄てたのは、触るとポロポロと崩れてしまって、移動させるのが不可能だったからだ。)これらの物はぼくにとって、一種のカラーチャートとか音叉とかのようなもので、製作の時に必要となる「感覚」の、ある一定の水準点を保証してくれる物なのだろうと思う。
ビクトル・エリセの『マルメロの陽光』に出てくる画家は、庭のマルメロの木を描くために、まるで石膏像のデッサンでもする時みたいに、錘を糸で垂らして垂直線をとり、足場を杭で固定する。これらの段取りは言うまでもなく、常に動いている画家の視線を固定し、対象物を正確に測定する為のものだ。つまり対象=客体をぶれ無く性格に把握するためには、まずその対象を観察する主体を固定しなければならない。このような装置は、対象の形態を測定するには有効な装置であろう。固定された視点が保証するのはたんに形態の正確さに過ぎない。しかしここで画家は、マルメロの木の上部に当たる光を捉えたい、と言う。当然、このような装置で固定されるのは視点のみであり、光に対する感覚ではないので、光の移ろいやすさの測定の正確さは保証されない。それに、たとえ形態を捉えるとしても、建築物や彫刻のように、人間の意志によって厳密に選択された形態によってつくられている物ではなく、木のような複雑で有機的な形態を捉えるのに、垂直線のような基準がどの程度まで有効なのかもあやしいものだと思う。にもかかわらず、この画家にとっては、錘のついた糸を吊して垂直線をとることは重要なのだ。それはたんに対象との位置関係を正確にするためのものではなく、恐らく自らの身体を「描く機械」として正確に作動させるために必要な段取りの一部となっているのだろう。この画家にとって糸でつられた錘のようなものが、ぼくにとっての林檎や木の葉ということになるのだと思う。つまりそれは、対象=客体ではなく、主体と客体の間の「見えない場所」にあるもので、主体と客体と作品(表象)とを共に(同時に)作り出すための手品のタネのようなものだと言えるかもしれない。
02/10/23(水)
(昨日の日記とちょっと関連のあること)
●松浦・岡崎の『絵画の準備を!』では、まずミニマルアートが、ついでデュシャンや印象派が取り上げられる。それらが「自然な知覚」の連続性からの「切断」としてあった、と。例えばデュシャンが網膜的な絵画を批判して、レディメイドなものを提示する時、そこでは、あらかじめ社会化された約束事として成立している「レディメイド」な視覚のあり方こそが批判されていた。オーソドックスな絵画は、美術館という場に立ったとたんに、網膜が受動的にあてにしている物質であることから否定され(つまり絵画を見る時の視覚こそがレディメイドと化している)、その場所に、社会化されてはいるがその場にふさわしくないオブジェを置くことで、社会化されてしまっている視覚を切断する、と。その自明な繋がり(自然な連続性)を切断することによる一瞬のショック=ズレに賭けることによってしか、何処にも属さない経験としての「純粋な知覚」はあり得ない、と彼らは考えていたのだ、と。そこには、純粋な知覚の不可能性に対する意識と、にもかかわらずなんとかそれを実現させようとする強い意志がみられる。(だがそれは、その身振りが「ルール」として認知されていない時にのみ有効である。例えばミニマリズムなど、そのルールを一度理解してしまえば、こんなに簡単に気持ちよくなれる作品はない、というようになってしまう。現在、ミニマリズムは、貧しさとも禁欲とも関係のない、ひたすら「経済効率の良い」表現となってしまっている。)だが、「日本」という場所においては、そのような切断が要請されることなく、ただひたすら「自然な連続性」ばかりが褒め称えられている、と松浦、岡崎両氏は苛立つ。
●では何故「自然な連続性」は切断されなければならないのか。ここで「自然な」と言われるものの「自然さ」を保証するもの、自然という感覚を発生させるものとは、それを共に自然と感じる者が属している共同体である。つまり自然という感覚は、それを感じる人に与えられている環境、たまたま属している人間関係などによって規程されている。例えばバカなガキにとって「普通」とは、そのガキの狭い交友関係のなかでの「普通」に過ぎない。しかしこのような外的な人間関係は、すぐに内面化して自然という感覚を形成する個人的な基準となる。この「自然」を獲得できない者はその人間関係から阻害されるだろう。たんに外的な関係の内面化に過ぎない「自然」は、一端獲得されるとそれがあたかも世界の原理であるかのように「自然」に作動する。この人もあの人もその人も自然と感じているからには自然なのだし、それを自然と感じることで、この人やあの人やその人との対人関係(感情関係)もスムースにゆくだろう。つまり、価値判断の基準を「自然さ」に置く限り、その人の判断はたまたま与えられたものにすぎない具体的な人間関係によって縛られ、決定されたものでしかなくなる。自然とは人間関係の表現だと行ってもいいかもしれない。だから自然とは徹底して通俗的なものなのだ。(だが、例えばナショナリストが自然を賛美する時、事態はもう少し複雑になるだろう。ナショナリストとはモダニストであり、自然な人間関係からは一度切断されている。自然な関係から切断され、孤独になることによって、そこで新たなフィクションとして、空虚としての「自然」が要請され、その自然がフィクション=空虚でしかないことによって、素朴に自然な関係にくらぺより大きな規模で他者たちとの想像的な繋がりが保証されることになり、そこでネーションが可能になる。例えば岡崎乾二郎がヴェンダースを国民的な映画作家と言うのは、徹底して孤独な登場人物と、彼の前に現れる、彼にとってどのような繋がりも感じられない空虚な風景とが、彼が徹底して孤独であり、風景と徹底して引き剥がされていることによって、誰にでも当てはまる「孤独」、誰にでも当てはまる「空虚」として、多くに人によって共有されることが可能であるからだ。ぼくはヴェンタースの映画がそれだけのもの思わないが、そのような傾向があることは否定できないだろう。しかしむしろ、村上春樹のような作家が描きだす、孤独=空虚とそこからの脱出の物語こそが、より直裁にナショナリズムそのものであると言うべきだろう。美術において現在頻繁にみられる「自然さ」とは、しかしナショナリズム以前のはるかに幼稚なもの、もしかしたら外的な人間関係の内面化ですらない、単なる幼児的なナルシズムに過ぎないものであるかもしれないのだが。)
●モダニズムとは、人と人との自然な繋がりの切断である。しかしそれは、孤立のための切断ではなく、別の関係性を模索するための可能性を得るのに必要な切断であろう。(たんに必要だから孤立するのであって、孤立そのものに何かしらの価値を与えるロマンティックな思考に陥ってはならない。)例えばセザンヌが自然と言う時、それは「自然」からの切断のために言われるのだ。ここで「自然」とは、パリでの、画家や画商や批評家やコレクターたちがつくりだしている人間関係であり、それによって形成される価値の「自然な」秩序であり、それを判断する共通感覚のことだ。セザンヌはこのような「自然」から離れ、一方で、風景やモチーフと直接アクセスすることを必要とし、もう一方でルーブルの巨匠たちとアクセスすることを必要とした。このことでセザンヌは否応なく孤立するのだが、しかしこの孤立は同時に無数の通路(林檎やサント・ヴィクトワール山やルーブルの巨匠たち)へと開かれたものなのだ。(モダニズムがナショナリズムへと至らないためには、その孤立が想像的なものによって一気に解決することを夢見るのではなく、複数の質の異なる、次元の異なる通路と、一つ一つ個別に、しかも同時にアクセスすることによってしかないだろう。その時孤立は、異様に充実した、様々な他者のひしめくような孤立となるだろう。多分。)
●ここで話は急に下らない次元になるのだが、では、画家としてのぼくはどうなのかと言えば、切断によって制作するというよりも、どちらかと言えば「自然な連続性」(例えば、近代絵画的な良い趣味、のような)によって制作する画家であると言うしかない。今のところぼくには、自然な連続性によってしか、作品をつくり始めることは出来ない。しかし言い訳めいたことを言うとすれば、「自然」は作品のはじまりであって決して「目的」ではない。確定された目的もなければ、切断のための明確な戦略もたくらみもなく、ただここにある「自然」からはじめて、一体何処まで遠くに行けるのだろうかという実験としてしか、ぼくは自分の作品を構想することは出来ない。情けないが、自分の制作についてはこの程度のことしか言えない。

  いわき市立美術館の中村一美・展
02/10/25(金)
●いわき市立美術館へ、中村一美・展を観にゆく。上野からスーパー常陸で2時間以上、随分と遠くまで来たと思っていわき駅を降りると、駅前はおもいっきり中央線感の漂う風景で、まるで国分寺とか、そのへんの駅に降りたような錯覚に陥り、距離感が失われる。まあ、それでも駅から5分も歩けば、極端に人影がまばらでやけにすっきりした町並みにかわるのだったが。
●今日は遠くまで行ってきて疲れているので、詳しいことは後日書くけど、展覧会については批判的にならざるを得ない。もの凄く偉そうな物言いであることを承知しつつ言ってしまえば、中村氏はしばらく、大画面と油絵具を使用した制作を封印すべきなのではないか、とすら思った。これらの作品(特に最近の大画面のもの)を良いと言って持ち上げる人がいたら、それはちょっとどうかしているとしか思えない。作品のセレクトも悪くて、中村一美という画家は、いくらなんでもこんな程度の画家ではないはずだ、と首を傾げるばかりだった。唯一の救いは、『破庵(いわき破庵)』と題された立体作品が非常に面白いものだったことくらいだと思う。この作品は中村氏の並はずれた空間把握力を示していると感じられた。
02/10/26(土)
(昨日観た、いわき市立美術館の中村一美について)
●中村氏の画家としての技術的な弱点については、以前にも何度か書いたことがあるし、基本的に考えはかわっていないので、過去の日記から引用する。【中村氏は、横への展開、つまり水平方向への拡がりのなかに差異を仕掛けてゆくような絵を描く時には、その実力を発揮するのだが(略)、縦への展開、つまり異なる層を重ね合わせるようにして差異を仕掛けるような作品を作ると、かならず上手くゆかない、という印象がぼくにはある。つまり中村氏は、層を差異を保ったままで層として「重ねる」ということが苦手であるようにみえる。(略)そういう時の中村氏の作品からは、層が層として上手く成立=機能しないため、どうしても「混濁」した印象を受けてしまう。(略)層が成立しないひとつの原因として考えられるのは、中村氏の画面では、タッチも形態も皆、横に流れるようなものばかりで、感覚的な言い方しか出来ないのだが、腰のある形と言うのか、横に流れる動きを押さえるようにその場で粘って留まるような形態がない、ということが挙げられるように思う。】(02/05/20)しかし、技術的な弱点のない画家など存在しないし、技術的な弱点が克服されれば、それが良い作品となるという訳でもない。技術的な弱点はたんに「技術的」なものに過ぎない。(中村氏の初期作品においては、Y字型やC字型、そして何より斜行グリッドの導入が、そのような弱点カヴァーし、そしてたんにそれだけではない積極的な効果をあげていた。)しかし、今回展示された最近(正確には1999年以降)の大画面の作品で問題なのは、たんに技術的な弱点の結果として生じるに過ぎない「混濁(どろどろ感)」が、まるで表現の厚みや重みを保証するものであるかのように居直って使用され、強調すらされているように見える点にある。この点には、ぼくはどうしても納得がいかない。つまりここで露呈されているのは「形式」への緊張感の欠如であり、絵画というメディウム(ペインタリーな感性、あるいはたんに「手癖」?)へのだらしのないもたれかかりであるように感じられる。(昨日「しばらく、大画面と油絵具を使用した制作を封印すべきなのではないか」と書いたのはこのためだ。)もっと単純に言えば、上手く行かない曖昧な部分をどろどろにして誤魔化している、という感じなのだ。(今回の展示では、このような「混濁」を正当化するためなのか、初期作品の選択においても、澄んだ色彩や空間をもつシャープな作品が排除されているようにみえる。)中村氏の作品には以前から、画面の物理的な大きさによってようやく絵画が自分自身を支えているような危うさがあったのだけど、むしろその危うさは「威勢の良さ」や「強引にでも言い切ってしまうような強さ」、あるいは「スリリングな感じ」という肯定的な側面となってあらわれていた。だが今回展示されている大画面の作品は、ただ無駄に大きいだけで、その大きさを支えているものはなにもない。作品は自らの大きさや重さに耐えきれずに崩落してしまっており、文字通りたんなる瓦礫の山になってしまっている。だいたい、作品がここまで大きくなければならない必然性などどこにも見あたらない。
このような作品の崩落を裏から支えるかのように、作品にある「意味」が充填されるこになる。例えば、図録の平野明彦氏の解説によると『タタラ 2(Social Semantics 7)』という作品には、モチーフとして「川崎製鉄所の溶鉱炉に飲み込まれた同級生の父親たちの事故死」があると言う。しかし、これはどういう事なのか。どんな作家の作品にでも、おそらく 個人的なものであったり、社会的な事件であったりにインパクトを受けて制作されたものはあるだろう。しかしその事実(モチーフとなった事件)そのものの重要さや切実さは、決して作品の質を保証するものではないことは明らかではないか。例えば、柄谷行人がその「マクベス論」を連合赤軍を意識して書いたという時、それを読んだことのある者なら、ああ成る程と納得するだろうし、柄谷氏の連合赤軍についての認識を批判するために、あるいは連合赤軍事件について思考するために、マクベス論を読み込むということも可能だろう。それが可能なのは、柄谷氏の論文がマクベス論として、あるいはたんに批評文として、ある一定の質をもっているからだろう。対して、『タタラ 2(Social Semantics 7)』は、普通に観ればたんに大して成功してるとは思えない抽象絵画のようにしか見えない。中村氏が、ある事実によってその作品を制作したというのは勿論本当なのだろうが、しかしそれはただ作家の内的な課程の問題であって、その作品そのものとは切り離して考えなければならない。ある事実の切実さが作品の弱さを補強してくれることなどあり得ない。そうではなくて、ある作品の質の高さこそが、その事実の重要性を浮かび上がらせるのでなければ何の意味もないだろうと思う。少年時代の中村氏が祖父の家で「雨が降るようにしめやかな」蚕が桑の葉を食べる音を聞いたという体験の「豊かさ」をめぐる物語は、『採桑老』というシリーズ作品そのものの「豊かさ」によって支えられないのならば、たんなるオヤジの昔話に過ぎない。人の死や過去の体験といった、容易には批判などできないような重要な事実がその背後に隠されているからと言って、その作品そのものが批判されることを免れるなどということがあってはならないと思う。どんなに切実な事実に裏打ちされていようが、詰まらない作品はたんに詰まらないのだ、と言えなければならない。(確かに平野氏が書くように【記号的イコンのみが共有され、個がはてしなく細分化、分裂化してゆく今日的なポップ(流行)化された美術現象に対する強烈なアンチテーゼとして異彩を放って】はいるのかもしれないが、しかしこれでは、たんに「軽いポップ」に対する「重いドロドロ」であるに過ぎない。)
●いままで散々に書いてきて急にフォローする訳ではないが、中村一美という画家はぼくにとってとても重要な存在である。学生時代に最も影響を受けた現代作家であるというだけでなく、現代に生きていつつ、なおかつ「画家」であり得る、あるべきだ、という確信を与えてくれた存在でもある。だからこそ今回の展覧会の「駄目さ」には、ぼく自身が自分の駄目さを突きつけられたようで、かなりのダメージを受けた。しかし、一人の作家が一生を通じてずっと最良の作品ばかりをつくりつづけることが出来る訳ではないのは当然のことで、今回の展示だけを観てその「作家像」を固定させてしまう必要はない。(だからぼくが問題にしたいのは、むしろ「こんな作品」を平気で持ち上げてしまう人たちの方なのだ。)その意味で希望を持てたのは『破庵(いわき破庵)』と題された立体作品が、中村氏の空間把握力の高度さをはっきりと示していたことだ。90年以降に制作された斜行グリッドによる絵画作品が、グリッドが散乱してしまうことで支え(形式性)を失い、まさに崩落する建築物のように緊張を失ってしまっているのに対して、この立体作品は、捩れ、傾いでいながらも、自分自身をしっかりと支える強さをもち、複雑な空間を生成する豊かな産出力をも同時にもっている。そして、どろどろの混濁に頼ることなく、複雑であると同時にあくまで明快である。この作品は画家の並はずれた才能を示しているというだけでなく、独立した立体作品として、これだけのものはなかなか見ることが出来ない程に高度な作品となっているように思う。

  大道珠貴という小説家は「買い」だ! (『裸』)
02/10/27(日)
●大道珠貴という小説家は「買い」だと思う。この小説家の名前をはじめて目にしたのは「群像」の創作合評で川上弘美が誉めていたのを読んだ時だった。具体的にどのように言及していたのかは忘れてしまったのだが、とても「気になる」誉め方をしていて、それ以来「大道珠貴」という名前を意識してはいたのだが、なかなか読む機会がなかった。きのう立ち寄った本屋で、たまたまその名前を見つけ、早速買って読んだ。(『裸』文藝春秋社)この本には『裸』『スッポン』『ゆううつな苺』という3編が収録されていて、どれもそれぞれに面白く、特に『スッポン』などは傑作と言ってもよい作品なのではなだろうか。
●『裸』が19歳、『スッポン』が34歳、『ゆううつな苺』が14、5歳の、恐らく作家自身と近い気質をもっていると思われる女性の一人称で書かれているのだが、この3編はそれぞれに違った感触をもっている。黒沢清はインタビューで、田舎を舞台にした映画は作れない、田舎の人は何を考えてるか分からないから、という事を言っているのだが、『裸』『スッポン』は、まさに「何を考えてるのか分からない」(近代的な「内面」では推し量れない)血と土地の共同性との連続のなかに生きている田舎の人たちの姿が、そのただなかに居ながら、一面では違和感をもち、しかしもう一方でどうしようもなくなつかしさと一体感を感じてしまう主人公の、独特の不思議な距離感を通して描かれる。このような主題は、文学としてはありふれたものであるかもしれない。しかし、ここで面白いのは主題というよりも、主人公と世界との、独特の距離感の伸縮の具合の方なのだ。『裸』では、女たちの共同体で繰り広げられる何とも猥雑な喧噪と、その喧噪が納まった(その喧噪から離れた)後の主人公にふっと訪れる、すがすがしく静かな孤独感が、絶妙なリズムで交錯する。主人公は、女たちの世界になじむでも拒絶するでもなく、喧噪と孤独の間をこともなげに行き来し、そのどちらをも愛するでも憎むでもなく、どちらにも深く留まることがない。『スッポン』では、男性中心の地方のマッチョな大家族のなかの「女」であった主人公が、この名家のなかでどのような位置にいて、どのように男たちから扱われ、その男たちをどのように見ていたかが、そこから遠くはなれた場所(この場所では「女たち」との面倒な関係が待っているのだが)から見たものとして描かれる。ここで描かれている地方の「男たち」の共同体の描写はとてもユーモラスでかつテンションが高く、イメージの豊かさに満ちていて、多和田葉子の『聖女伝説』や笙野頼子の『レストレス・ドリーム』などに匹敵する。しかも、主人公の女と男たちとの関係の掴まれ方は、『スッポン』の方がずっと複雑な含みをもっていると思われる。(ちょっとだけ中上健次の『千年の愉楽』も想起される。この主人公は、特権的な位置を失い、オブジェクトレベルにたったオリュウノオバみたいでもある。)この小説で、主人公が現在いる場所(女たちとの関係の場所)と、過去にいた故郷(男たちの共同体)とを繋いでいるのは、故郷を出て10年以上経つにもかかわらず、今でも頻繁にかかってくる故郷の男たちからの「電話」である。この「電話」という装置の使い方がとても素晴らしい。この小説でも、主人公は世界に対してある「遠さ」をもっていて、この距離感が、淡々としてリズムのなかに、狂気じみた危うさを漲らせる。『ゆううつな苺』では、血と土地の共同性との濃厚な関係は描かれず、そのかわりに、母子家庭における母親との関係が置かれる。その関係にしても割合にあっさりとしたものだ。この作品は前の2作に比べ随分とすっきり、さっぱりとした調子で、『スッポン』のように濃い傑作を読んだ後だと、上手く纏めようとしすぎでやや物足りない、という印象を受けるのだが、読み進むうちに、この「あっさりした感じ」の良さがじわじわと感じられるようになってくる。特に後半部分を読んでいると、この作家は猥雑な力強さだけでなく、淡々とした調子だけでも充分にやれる人だ、お見それしました、という感じになる。主人公が好意を感じている教師や、腐れ縁ともいえる同級生の男に対して感じている距離の感覚が、とても聡明で、清々しいのと同時に、凄く悲しいのだ。この3編の小説の主人公は皆、世界に対して離人症的とも言える断絶感、遠い距離感をもっているのだが、その同じような感覚を、『スッポン』においては狂気じみた危ない気配として、『ゆううつな苺』においては、とても魅力的な聡明さとして、組み立てることが出来る作家の力量は、相当なものがあると思われる。
02/11/09(土)
●10/27の日記に書いた大道珠貴という作家の小説が、『文學界』と『群像』の両方に載っていたので購入する。大道珠貴の『裸』(文藝春秋社)は絶対に面白いと思うのに、人に薦めようにも本屋に本がなくて、才能のある作家をちゃんと「売る」気があるのだろうかと不満だったのだけど、2誌に同時に載るなんて、編集の人はちゃんとみているのだなあ、と思った。たんに偶然かもしれないけど。小説はまだ読んでいないけど、『群像』の方には、芹沢俊介による『裸』の書評が出ていた。しかしこの評はぼくには納得出来ない。芹沢氏は、『裸』に掲載された3編の小説の主人公は、皆「ひとり」でいるという「居方」をしていて、そのなかで他者と出会いそうな予感(なにかがはじまる前触れ)が訪れるのだが、それは前触れだけで終わり、結局主人公は変わらないままだ、と書いている。芹沢氏は一応、この「ひとりという居方」の独自な感触を一定のリアリティのあるものとして評価しているかのように書いてはいるが、全体の調子からは明らかに「何も起らないこと」(物語が始まらないこと)を批判している。しかし本当に主人公は「何も変わらない」のだろうか。確かに、『スッポン』や『ゆううつな苺』の主人公の女性には世界との「遠い」距離感が常にあり、いつも「ひとり」でいるという感覚がある。そしてそのような生活のなかで、何となく好意のようなものを感じている男性(『スッポン』では故郷にいる男たちのうちの一人、『ゆううつな苺』では英語教師)が、主人公の方へふいに距離を縮めて迫ってくるような気配があり、主人公の方も「ひとり」でいるという武装状態を解除し、その接近を受け入れてもよいかもしれないという方向へ心が揺れるのだが、しかし実は、男が距離を縮めて迫ってきたと思ったのは一時の錯覚に過ぎなかったことが判明する。このような何とも「悲しい」展開の機微を、明快にかつさらりと記述できるところが素晴らしいと思うのだが、もしここで、男が主人公を求め、主人公もそれを受け入れたという展開になれば、そこである出来事が起こり、関係が描かれたのだ、なんていう簡単なことにはならないはずだ。むしろそのような「関係」を批判的に捉えていることにこそ、これらの小説の意味があるように思う。そしてさらに、このような接触の失敗と言うか、出来事が起こり損なうという「出来事」が、主人公を変えないはずがないのだ。そこには微妙ではあるが決定的な変化が描き込まれていると思う。『スッポン』では、何とか維持してきた職場での人間関係に決定的な亀裂が入り、もともと持っていた狂気じみた資質が増幅されて、いままで一定の期間で住所を変え、職場を変えてきたという反復が今後も維持できるかどうかあやしい雲行きになって終わるのだし(つまり、いままである程度安定していた「ひとりという居方」がはっきりと揺らいでいる)、『ゆううつな苺』ではそれとは全く逆に、出来事の起こり損ないの後に、ある諦念によってしかもたらされない、悲しくも清々しい「成長」の兆候が描き込まれるだろう。このような微妙な(しかしはっきりと描き込まれた)変質を感知し得ず、ただ物語として大きな進展がないからと言って、「何も起こらない」とするような読み方は雑と言うしかなく、全く納得がいかないのだ。

  大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』を読んだ
02/11/10(日)
●「群像」12月号の大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』を読んだ。この作家の小説を今まで4作読んでいるのだが、題材という点ではとても貧しい人で、ほとんど同じような事柄についてばかり書いている。しかし、(全作品を読んでいる訳ではないが)一作一作の歩みは決して単調なものではなく、飛躍と断絶がみられ、常にある跳躍が試みられている。『ひさしぶりにさようなら』を読みながら、この作家がこのままのテンションで書き続けたら、一体どのようなところまで行ってしまうのだろうと恐ろしくさえ思った。一人の作家が、今、特異なもの、異様なものへと変化しつつあるという、生々しい感触が感じられるのだ。この作家の『裸』という本の帯に五木寛之が「最近、これほど笑いをこらえながら読んだ小説はなかった。」という言葉を寄せているのだが、ぼくには全く笑うことが出来ない。描かれている事柄があまりに生々しく迫ってくるので、いくら滑稽な事が描かれていても笑う余裕が無いのだ。(この生々しさに対処するには、小説の主人公がそうしているように、流れに見を任せつつも、状況を無関心にやり過ごすしかない。)読後感は決して愉快なものではない。できれば見たくないもの、目の端に確かに映ってはいるけど見ていないことにしたいもの、しかしそれが確実にリアルなものであることは誤魔化しようがないもの、が、しかし決して露悪的にでなく、クールに(さわやかとさえ言える調子で)描かれているのだ。この作家の描く主人公は皆、世界のありようの只中に巻き込まれているのだが、しかし自分の身の回りの出来事に対してどこか無関心というか、疎遠な者たちばかりだ。この「巻き込まれていながらも無関心」という不思議な距離の感覚が、自他の区別が明確でない、ぬかるみのように未分化な集団の世界をクールに描き出すことを可能にしているように思う。このような距離感は、多分に「解離性同一性障害」的なものだとは言えるかもしれない。それに、誰でもがすぐに気付くこの作家の特徴として、父親の不在(しかし『スッポン』においては非常に立派な「祖父」が登場するのだが)という事が挙げられもする。父権的な抑圧の不在によって超越的なものへと至る経路をたたれているかのようにみえる登場人物たちの行動は、まるで幼稚な「動物的」欲望と、「世間」や「家族」といった具体的な人間関係(上下関係ともたれかかり)だけに由来する。いや、彼らの場合ほとんど「世間」すら構成されず、ひたすら家族的な人間関係の内部でのみ生きているのだ。超越的なものが成り立たない徹底してドメスティックな世界に生きる人物たちの姿を、解離性同一性障害的な視線から描く、と言ってしまうと、何だがいかにも「今どき」風で、現在をそれらしく表象しようとする小説のように聞こえてしまうのだが、重要なのはそういう単純な解読ではなく、そのような原理に基づいて紡ぎ出され、動き出す小説の言葉たちが、どのように異様な形象をつくりだし、どのくらい高い緊張で震えているのかという点にあるだろう。病名の特定などに意味はない。【世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候のもたらす病が人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。(略)作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て取り聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである。】(ドゥルーズ)
02/11/11(月)
(昨日からのつづき、「群像」12月号、大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』について)
●『裸』に収録されていた『スッポン』でも、自他が未分化なまま集団の内部でのみ生きているような人たちが描かれていたのだが、主人公だけはその集団から離れた場所で「ひとり」で生きていた。言葉というものがある「分離」によってしか駆動しないとすれば、主人公と故郷とを隔てるこの距離こそが、小説の記述を可能にしていたと言える。『スッポン』の主人公はひとりでいることによって、とりあえずの個体性を確保していたから、そこに一人の人間としての感情や気分の揺れ動きが生じ、このひとりの人物の行動や感覚、感情の動きによって小説が動き、震え、そして統覚や持続が保証されていたと言える。しかし、『ひさしぶりにさようなら』の主人公である「都」は、決してひとりになろうとはしない。確かに、他の兄弟姉妹は結婚して子供が出来ても依然として実家に入り浸っているのに比べれば、都は実家から離れるために結婚を決意し、実家から「2時間」の距離にあるマンションを購入する。しかしこれは、実家からの分離ではなく、なんとなく離れてゆこうとするベクトルがあるという程度に過ぎない。分離は言葉を必要とする。『スッポン』の丸子が、ひとりでいるために周囲の者たちと無駄とも言える言葉を延々と交わすことが強いられているのに対して、『ひさしぶりにさようなら』の都はほとんど言葉を発することがない。夫の集一との関係においても、ただ二人は黙って一緒にいるだけなのだ。都は常にある集団の一員として存在している。実家の大家族の一員であった都は、結婚によって夫婦の一員となり、夫が家に寄りつかなくなると、今度は夫の実家の一員として紛れ込む。これは『スッポン』の丸子が職場を転々としながらもいつも「ひとり」であったことと全く違っている。だが、この小説の都が、終始徹底してある集団にいつの間にか未分化に溶け込んで「まったり」しているような人物でありつづけるかと言えば、そうではない。小説の終盤に、僅かではあるが決定的な変化が描き込まれている。それは子供との関係による。都は子供が産まれたからといって育児に精を出すような人物ではない。死なない程度にほったらかしておく。だが、子供が成長してくるにつれて、都は今まで他の誰とももったことのない関係を子供ともちはじめるのだ。それは「相棒」のような関係と言って良いだろう。相棒とは、互いに一対一の独立した者同士の信頼関係であろう。(都は夫との間にもこのような関係をもっていない。都にとって夫とは、近くにいてくれたり、離れていったりする、ぼんやりと好ましい存在に過ぎない。)この関係が、都を僅かにではあるが変質させるのだ。
●『裸』に収録されていた3編の小説では、とりあえずのものとはいえ主人公は「個体」として成立していたので、主人公の内面や感情の揺れ動きや、その変質、成長などによって小説を持続させ展開されることが可能であった。しかし『ひさしぶりにさようなら』では、主人公である都さえもが、自他が未分化な集団の一員である。だからここでは内面や感情のドラマなどハナから成立しない。(勿論、内面を欠いた面白い「物語」が展開される訳でもない。)ここで小説の持続を保証しているのは、一定のテンション、一定のリズムで正確に進んで行くような、ほとんど機械的な記述の規則性であるように思われる。この小説における記述のリズムは見事に安定していて、まるでベルトコンベアーに載せられたように読み進んでゆくことが出来る。文章のリズムも、そこで描かれている事柄が進展する速度も少しも揺らぐことがない。この小説の登場人物には「厚み」がない。都、集一、伸一、蘭子、などと名付けられた人物たちは、ほとんどその名前=文字以上の意味をもたないかのようだ。この薄っぺらさは、存在と切り離された記号的(スーパーフラット的)な薄さではなく、「人間以前(以後?)」の状態としてのヒトの、厚みとは無関係に存在する捉え難さによって生まれる「薄さ」であるだろう。この「薄さ」に力強い形象を与えているのが、この小説の機械的に進行するような文章の流れであるように思う。一定のテンション、一定のリズムで正確に進んで行く文章のなかで、厚みのない人物たちが何の疑問も逡巡もなくポンポンと動いてゆき、それと同時に、まるで他人に見られることを全く意識されないまま雑然と散らかった部屋のなかの物のように、さまざまなイメージがぎっしり詰め込まれ、散らかっている。その一つ一つのイメージは、決して特異なものではなく、どちらかというと「親しい」ものでさえあるかもしれないのだが、それが、整然と進行する文章のなかに雑然と散らばっていて、その散らかり具合が何とも気持ちが悪く異様なのだ。身の回りのあれやこれやのこまごました物たちが、整理不能なほど溢れて散らばっていることの息苦しい気味悪さ。この、圧迫される程のひしめき溢れる感覚が、登場人物たちの薄っぺらであることの存在の強さを支えているように思う。

  大道珠貴『しょっぱいドライブ』
02/11/12(火)
●「文學界」12月号、大道珠貴『しょっぱいドライブ』。この作品は『スッポン』や『ひさしぶりにさようなら』ほどには成功していないかもしれないが、しかし、この小説家が(ぼくが読んだなかでは)はじめて集団のなかの人物たちではなく、そこから切り離された個人と個人との一対一の関係を描いたという点で重要であると思う。『ゆううつな苺』で、主人公の中学生と英語教師との間が、このような関係として描かれてはいたが、それは重要ではあっても小説の終盤の一つのエピソードであるに過ぎなかったのに対し、この小説はほぼ一対一の関係だけで出来ていると言って良いだろう。(対比のためにもう一人の人物が回想として招き寄せられはするのだが。)自他が未分化な集団の内部で生きるしかない大道珠貴の登場人物たちにとって、他者との関係は集団の内部での役割や位置を媒介としてなされるか、そうでなければ家族的なべったりと密着したものでしかなかった。『しょっぱいドライブ』の九十九さんと主人公=話者の「わたし」にしても、30年以上前から知り合ってはいたが、関係が一対一のものになったのはつい2年前ということになっている。比較的裕福で人が良く、孤独な老人である九十九さんに、「わたし」の一家はバカにしながらもさんざん「たかって」いた。その「わたし」が兄の結婚を機に一家から距離を置いて「ひとり」になることで、「わたし」と九十九さんは一対一で向かい合うことになる。おそらく60歳代(しかしずっと老けて見える)の男性である九十九さんと、30歳代半ばの女性である「わたし」との関係は「恋愛のようなもの」となるだろう。しかしこの年の離れたカップルには、例えば川上弘美の『センセイの鞄』のように、読者を気持ちよくさせるものはなにもない。だいたいこの作家が「恋愛」などというものを少しも信じてはいないということは、いくつかの作品を読んでみれば明らかだろう。ここでは男女関係からあらゆる幻想性が剥奪され、ほんの僅かな官能性も与えられていない。この二人のすることといえば、何もない海沿いの田舎町をただ車で走り、せいぜい防波堤で釣り人によって打ち上げられたフグが干涸らびてゆくのを眺めるくらいだ。そして、やったのかやっていないのかよく分からないような性行をたった一度交わすだけなのだ。この二人は全く冴えないシケた人物で、「わたし」は、デパートの牛丼屋でパートをしながら地方劇団のスターの追っかけをやっている30女だし、九十九さんは、油揚げのような肌をした、印象が薄く、内股でなで肩で身体の線の細い、天然パーマで髪がいつも自然に内巻きカールになってしまう、ガタイの良い漁師に妻を寝取られたような、小金をもった人の良い孤独な老人なのだ。そして「わたし」は、故郷の町に戻っても肉親にも会わず、会いたいと思う人は九十九さんくらいしかいなくて、もしかしたら自分はこの人と暮らしてゆくのが似合っているのかもしれないとふと思ってしまい、そんな自分の将来に絶望的な思いすら感じている。この二人の関係は、たどたどしく不器用で、うきうきと心の沸き立つようなことはなく、全く「しょっぱい」しょぼくれたものでしかないだろう。しかし急いでつけ加えなければならないのは、そのしょぼくれた関係の「描かれ方」はちっとも投げやりであったり露悪的であったり自虐的であったりニヒリスティックであったりはしないのだ。むしろこのしょぼくれたしょっぱさのなかにこそ生の苛烈さがある。ここで描かれているのは、客観的に見れば絶望的なほどしょぼくれた生の、しかし、その内側の苛烈な強さと輝きであろう。それは開き直りでもない。この二人は開き直るようなずうずうしさとは無縁の存在であろう。今、この場にある限定されたしょぼくれた些細な生を、しょぼくれたそのままで、最も苛烈に生き尽くそうという強さがあるのだ、と言えば大袈裟過ぎるだろうか。そして、この二人のしょぼくれた人物たちのしょっぱい関係の、困難と輝きをともにもたらしているのが、二人ともが集団から離れて「ひとり」の個人として存在しているということにあるのだと思う。「ひとり」でいることによって、この「しょぼくれ」がたんなる「しょぼくれ」として輝き、社会的な「成功」(共同体のなかでの地位の向上)との比較によって生じる「しょぼくれ」とは別種の、純粋な生の出来事となるのだ。大道珠貴を読むということはとても過酷な(この作家には「愛嬌」というものが根本的に欠けている)ことなのだが、それはこの作家が、徹底してクリアーで即物的であろうとしていることからくると思われる。
02/11/13(水)
●11/10の日記にも引用したのだが、ぼくは「群像」に載っていた『ひさしぶりにさようなら』を読みながら、(たまたま読んだばかりだったということもあるが)ドゥルーズの『批評と臨床』に収録されている「文学と生」のことをずっと思い出していた。(それは別に大道氏がドゥルーズを参照しているとか、そういうことではない。しかし、大道氏の記述のあり方が、ドゥルーズ的な実践であるように思えるのだ。)そして、「文學界」の『しょっぱいドライブ』を読んでいる時に何度も想起したのは、「批評空間」3期2号に載った樫村晴香の『ストア派とアリストテレス・連続性の時代』というテキストだった。例えば、次のような部分。
【政治社会への認識は、概ね飽和状態にあり、誰もがだいたいのことを知っており、しかしその先の、現実の技術的、経済的、心理的細部は、わからないことだらけであるのも、また人々は知っている。(略)細部の認識は、科学のように、あるいはまさに科学として増進しえるが、それは政治、社会の統括的認識の増進とは、ほとんど常に結びつかない。細かな知識の集積は、現実社会への総合的認識、感情をある時突然変更する。だが、多少の文化的資産をもつ者がいい年になれば、それもなかなか生じないこと、それを知りつつ、その感覚を共有する儀式のように人々は議論し、新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ。政治的事件が与える一瞬の驚きと、それが既存の現実認識に結局吸収される失望と安心は、人々の間の個々の出会いが、彼の独自の自己認識に何も影響しないことの、隠喩である。】(註・これは例の9・11について書かれたものでもある。)
これは一見するとニヒリズムのようにみえるかもしれない。しかしそうではないと思う。例え「新たな部分的認識」が「既存の現実認識に結局吸収される」しかなく「個々の出会いが、彼の独自の自己認識に何も影響しない」のだとしても、「新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ」ことが可能であり、そしてそれが必要とされるという事実が、我々に、「現実認識」がまさに「認識」でしかなく「現実」そのものではないことを常に突きつけているのだし、そこに「認識」には決して還元出来ない「現実」が常に我々を脅かしていることに対する「不安」の感情が不可避であることわも示しているだろう。(「総体的認識を一瞬動かす幻想」こそが、我々がリアリティと読んでいるものなのではないだろうか。)つまり、「細かな知識の集積」あるいは「政治的事件が与える一瞬の驚き」が、「現実社会への総合的認識、感情をある時突然変更する」ことに対する期待と恐れは、我々が生きている限り消すことは出来ないということなのだ。(つまりその可能性は常にある、ということ。)しかし同時に、実際には「それもなかなか生じないこと」という事実も、バカなガキでもない限り、クールに認識する必要があろう。分かりづらく、回りくどい文章になってしまったが、上記の事柄は、ぼくが『しょっぱいドライブ』を読みながら感じていたこととほぼ一致する。大道珠貴の小説は、このようなニヒリズムとギリギリと言えるかもしれないようなクールな認識によって貫かれながらも、その記述することの力によって、生を特異な形態にまで変質させ、輝かせようという意志が漲っている。異様な緊張に貫かれた生の実践=実験。
【真理が可能だとしても、せいぜいそれは、より多く知っている、ということである。私は絶対的に知っているけど、君は何も知らない、あるいは誰それのみが(ソクラテスが?ヘーゲルが?マルクスが?)画期的に知っていた、という幻惑は存在しない。このことは、まさに現在が重要であり、永遠ではなく限定された今の時間で、何を認識し、何をなし得るかだけが大事なのだ、という実践哲学に結びつく。】(樫村晴香)

  大道珠貴の『銀の皿に金の林檎を』を読む
03/06/09(月)
●大道珠貴の新刊、『銀の皿に金の林檎を』を読む。これは素晴らしい。大道氏の小説の面白さは、これはもう理屈ではなくて「資質」と言うしかない何かなのだと思う。ある「人格」が世界に触れる時の感触というか、本質的な人の悪さ(?)というか。いつもいつもほとんど同じような事ばかり書いているのに、何故こうも毎回新鮮にビシビシとくるのだろうか。実在する大道珠貴という人がどういう人なのかは勿論全く知らないが、少なくとも今まで書かれた大道氏の小説には、実質を伴った「ある生のスタイル」とでも言うべきものが確実に描き込まれている。この素晴らしさを何と言ったらよいのか。以前確か柄谷行人が『ヒューモアとしての唯物論』というのを書いていたが、この小説はまさにそれを体現している。ヒューモアとは、こんなにも過酷で、そしておかしいものなのだ。「女、ひとり。ハードボイルド」と言い換えてもよいかもしれない。一歩間違うと俗っぽくて不潔になりかねないところを、綱渡りのように見事につま先立ちで走り抜けて行く文章。しかも、乾燥した落ち葉が風で流されて行くように軽やかに。ひとつひとつの細部は、大道氏特有の、ある粘りをもった「アク」があるのだが、それがカラカラと音をたてて回転する自転車のタイヤのように、テンポよくコロコロと転がってゆくのだ。ひとつの場所に留まって何かを深く掘り下げるようなことは決してせずに、表面を軽く引っ掻くような絶妙な対象との距離感をもってなめらかに移動しつつ、しかしその軽やかな運動があるときふいに物事の最深部をいきなり手づかみにしてしまうような感触。確かにこの小説は、大道氏の今までの傑作である『スッポン』や『ひさしぶりにさようなら』のように、緊密に組織され細部がぎっしり詰まったようなテキストとは少し異なり、どちらかと言うと、軽い気持ちで書き流したような緩い感じがあるのだが、それがのびやかさのようなものに繋がり、大道氏の資質の最良の部分が素直にあらわれているように思う。『しょっぱいドライブ』は決して悪い小説ではないと思うが、これで芥川賞を受けてしまったことは、大道氏にとって(と言うか、大道氏と読者の「出会い方」として)必ずしも幸福なものとは言えない。『しょっぱいドライブ』がダメだったという人も、『銀の皿に金の林檎を』だったらまた話は別なはずだと思う。そして『銀の皿に金の林檎を』を読むことで大道珠貴的な魂に触れた後で改めて『しょっぱいドライブ』を読み直すと、また全く違ってみえるはずなのだ。こういうものが読めた時に、ぼくは、この世界に小説という「形式」が存在し、文学という「制度」が存在することに感謝せずにはいられない。

  蓮實重彦の『「知」的放蕩論序説』(タイトルが凄くつまらない)
02/10/29(火)
●ドゥルーズの『批評と臨床』を買いに行って、隣に積んであった蓮實重彦の『「知」的放蕩論序説』(タイトルが凄くつまらない)も一緒に買って、帰りの電車でパラパラ読んだ。蓮實氏の本としては久々に読み応えのあるもので、やっぱりハスミって怖い存在だと改めて思わされた。学部の学生なんて「泣かせて」やるしかないというような言葉に凄みが漲るためには、最低限このくらいは中身の詰まった本を出してもらわないと。(しかし、「9・11」の時、バリのホテルにいて事件のことなど知らずに、ストローブ・ユイレの新作を観に行ってそのまま寝てしまった、なんていう話はあまりに出来過ぎていて、どこまで本当なんだか分からない。)あとは、デリダによる「リシャール殺人事件」に逆らうためらに来年あたりに纏められるという『フォード論』や『ボヴァリー夫人論』が、その圧倒的な質の高さによって周囲を威圧し、抑圧するようなものであることに期待したい。
ちょっと面白いと思ったところを引用する。
【私は「モダニズム」、あるいは「モデルニテ」がまだわかってないし、それに対する無知を出発点にしなければならないと思っており、いま、ようやくそれが見え始めたというにすぎません。しかも、それはいわゆる「十九世紀」的な思考システムの中において、かろうじて素描されはじめたにすぎない。だから、見えてはいないものを見えているかに語る自称「近代主義者」も、自称「ポスト近代主義者」同様、私はまったく信用していないのです。】
これって典型的な蓮實的レトリックだとは思うけど、そうと知りつつも、この言葉を信用したものとしてやってゆくことは、とても面白いことではないかと思う。ただ、この後すぐに十九世紀的な問題とは「記号の露呈」だといういつもの話になってしまう。それは確かにその通りだと思うし、「記号の露呈」とか「魂の唯物論的な擁護」だとか、すごく分かり易くて便利な言葉なのだが、そういう言い方をしてしまったとたんに、ある種の「動き」というか、何か重要な感触が消えてしまうように思う。
勿論、記号の露呈とか、記号が裸の姿を見せる、というのは、すぐさま「実在」だとか「現実」だとか、あるいは「崇高」だとかいうこととは簡単には結びつかない。
【表象不可能なものは、どこにあるかわからない。つまり、これは稀なものでも例外的なものでも何でもなく、ただたんに表象不可能なだけなのです。それは日常のいたるところにあるかもしれず、ことによるとそれと接して暮らしているかもしれない。にもかかわらず、いったんサブライムといってしまうと、それは稀であるがゆえに貴重なものであるかのように理解されてしまう。】
これは当然といえば当然のことなのだが、この単純な事実は忘れてしまわれがちだと思う。
(例えば先日観た中村一美の最近のペインティングなどは、たんに一つのシステム(絵画的な表象の形式)の綻びでしかないものが、何の手続きも得ずにそのまま、綻び(混濁)=表象不可能なもの=現実(個人的体験や社会的な出来事、あるいは表現を支えるリアリティー)という風に結びつけられてしまう。読みとり不可能な「どろどろ」が、読みとり不可能であることによってより深い「実在」を示す、みたいな。いや勿論、いくらなんでも中村氏がそのような単純なバカなことを考えているとは思えないが、しかし作品が成功していないので、そのように見えてしまうのは確かなのだ。)

  アーシル・ゴーキーについて
02/10/31(木)
●最近、アーシル・ゴーキーという画家の存在が気になっている。不幸な生涯をおくったアルメニア出身のアメリカ画家であるゴーキーは、一般的には、故郷であるアルメニアの風景や人物(抽象的な作品においてもそれを強く想起させる)を、境遇が不幸であるために一層強く、ノスタルジックな幸福感によって輝くように描いた画家だとされている。それは間違いではないだろうし、特に初期から中期にかけての、まるで陶器のような絵肌をもつ作品については全くその通りだと言えるのだが、しかし1940年頃から自殺する48年くらいにかけて制作された、薄塗りの絵の具や筆跡がはっきりと残るタッチが使われた、植物とも動物とも人物ともつかない有機的な形態が現れる作品になると、幸福感というよりも、むしろあからさまな破綻が目立つように見える。簡単に言うと、オートマチック風の線(実は厳密なエスキースがある)と、何かしらの事物の形態を示す描写と、その事物が置かれている空間を生成する色面と、そして事物と空間を媒介するようなどっちつかずの色面=形態という4つの要素が、なにかいまひとつピタッと噛み合っていなくて、どこかバタバタした感じの作品が増えてくるのだ。この時期の作品では、幸福感は作品から滲み出てくると言うよりも、バタバタしがちな作品を統一するためにあらかじめ設定されたトーンのようなものになってくる。この時期の作品で成功しているものは、あらゆる要素がぴったりと決まっているのではなく、ある統一されたトーンによってなんとか「納められてる」という感じなのだ。だからこの時期のゴーキーの作品から、ノスタルジックな幸福感という感情的なトーンを差し引いて考えてみると(つまり、あまり出来の良くない作品を観てみると)、趣味の良い、幸福感に満ちたゴーキーの画面が、とたんにアナーキーで、統覚を失った危ういものに見えてくるのだ。
●ゴーキーは美術史的にはマイナーな位置しか与えられていないし、実際に作品を観ても、とても良い画家ではあるのだが突出した感じはあまりしない。しかしゴーキーが戦後のアメリカ美術のなかで「触媒」として果たした役割は計り知れないくらい大きい。もしゴーキーがいなかったら、おそらくポロックもロスコもニューマンもあり得なかっただろう。(もしグリーンバーグがいなくても、たんに評価されるのが遅れただけでポロックはポロックになっただろうが、ゴーキーがいなければポロックのあの形式はあり得なかっただろう。)同じアトリエで制作していたデ・クーニングを通じて、ゴーキーは当時のニューヨークスクールの画家たちに大きな影響力を持っていた。それは抽象表現主義の画家たちが、初期には皆、ゴーキーを思い切り下手くそにしたような、シュールレアリズムの出来損ないのような絵を描いていることからも分かると思う。ゴーキーが果たした触媒としての役割で最大のものは、シュールレアリズム風のオートマチックな線を、セザンヌからマティスへと至る西洋絵画のフォーマルな流れのなかへと導入することが出来ることをはっきりと作品によって示したことだろう。(シュールレアリズムにおける無意識=オートマチズムは何より、反フォーマル、反芸術としてあった。つまり両者は水と油だった。)この両者の接合なしに、ポロックのドリップ絵画はあり得ない。と言うか、ゴーキーの40年以降の作品によって、抽象表現主義を可能にした基底的な感性が形成されたと言うべきなのだ。しかしゴーキーは、他の抽象表現主義の画家のように、過激な形式化へとははしらずに、あくまで中庸であることに留まる。(実はこの中庸さこそが、シュールレアリズムとフォーマリズムとを接合を可能にさせたのだが。)ゴーキーは、例えばミロなどに比べればはるかにフォーマリストであるが、アメリカの画家たちのようには極端な形式化へとは向かわない。ゴーキーには揺るぎないものとしての「豊かさ」や「良きは趣味」があり、画家としての確かな「手」の技術があった。対して、他のアメリカの画家たちは、下手くそで教養も無かったので、突っ走って突き抜けるしかなかったのだし、それが出来たのだった。(ゴーキー的な中庸さ、中途半端さを見失わなかった抽象表現主義の画家には、例えばフランケンサーラーのような人がいるだろう。しかし、彼女にしてもゴーキーに比べれば、随分とすっきり分かり易くなってしまっている。)
●ゴーキーの40年代の作品は、アメリカの抽象表現主義を可能にするための感性を準備した。しかしゴーキーの作品自体はあくまで中途半端でどっちつかずであり、危うい破綻の芽が組み込まれていて、しかもそれを排除したり統合したりはしようとしていない。それは、抽象表現主義の過激でありながらいささか単純化されすぎた展開とは異なる可能性を、今でも持ち続けているように思う。その作品は未だに未完成でありつづけており、その未完成さ、中途半端さよって(その作品に思わず「手を加え」たくなってしまうような)、創造的な刺激として機能しているのではないだろうか。
02/11/01(金)
(昨日からのつづき、ゴーキーについて)
●1940年以降のゴーキーの作品は、厳密には抽象とは言えず、風景だったり室内だったりを思わせる空間に、植物とも動物とも人間ともつかない有機的な形態が事物として配置されているようなつくりになっている。(昨日のリンク先を参照されたい。)つまり、3次元的な空間の表象が成り立っている。だがそこに描かれているのは、空間を形成する色面と有機的な(何だかよく分からない)事物を示す形態=描写だけではなくて、あきらかに空間からは浮かびあがっているが、しかし事物を示している訳でもない形態=色彩がある。それは空間でも事物でもなく、空間と事物とを媒介し、空間と事物とを共に活気づけるような形態=色彩である。そしてさらに、空間とも事物とも異なり、空間と事物とを仕切る輪郭でもない「線」の存在も忘れてはならない。ゴーキーの絵画における線は、たしかに輪郭線としての機能も保持してはいるが、それをはみ出しているのだ。ここでの線は、事物と空間とを同時に指し示し、加えて画面全体を成り立たせるためのリズムを形作っていると考えられる。そして、これらの要素は必ずしもしっかりと噛み合ってはいない。例えばゴーキーの線は、線それ自体がそのまま表現となるようなものではなく、妙に冷たく中性的でそっけないものだ。それでも空間のなかに自然にとけ込んでいる訳ではなく、中途半端に自分の存在を主張している。このことは空間と事物を媒介する形態=色彩にも言えて、つまり、自らの役割に透明に徹しようとしているのでもなく、だからと言って自分自身だけで表現として成り立つように自己主張している訳でもないのだ。だから、線や媒介的な形態=色彩が、時には事物よりも強く前にせり出してきたりする。その結果、画面がバタバタとしてしまい、観者は空間の構造を何度も見失っては、また立て直さなければならなくなる。ゴーキーの絵画は、基底的な3次元空間のなかに事物が配置されるという基本的な構造をもちながらも、実際にはそれが至るところで破け、異次元のようなものが亀裂として姿を見せてしまっている。シュールレアリズムの画家(例えばミロでもタンギーでも誰でも良いのだが)だったら、まず基底的な空間があり、そこに何だか良く解らない不思議な形態が浮遊しているという基本的な構造は常に安定している。だから観者は安心して容易にそこに描かれた形態の不可解さや多様さを楽しむことが出来る。だがゴーキーの場合は、基底的な空間が成り立っていない訳ではないが、決してそれが安定していないのだ。空間内部にある事物の形態を追っていたはずの視線は、いつの間にかそこからのがれて別のもの、無理矢理言うとすれば、本来空間の背後にあって「見えないもの」として空間を支えているはずの不可視のリズムとしてあるはずの線や色彩=形態に巻き込まれてしまうのだ。しかし画面全体としては決して無秩序な状態ではなく、亀裂をはらみながらも基底的な空間はなんとか成立しているので、彷徨った視線は再び空間的な秩序を回復するだろう。この事態を、抽象と具象の分裂、あるいは融合といった事柄として単純化してはならないだろう。作品によっては、その亀裂が比較的目立たないように抑えられているものもあれば、あからさまな破綻が見られるもの(実はこっちの方が多いと思う)もあるが、しかしどの作品においても決して破綻が消されてしまうことはない。このようなあり方は、抽象表現主義の「成功した」画家たちの作品よりもずっと複雑である。
●ゴーキーの作品を素直に観れば、複雑な亀裂を孕んでいるとはいえ、その構造は3次元的な空間の秩序の再現に負うところが大きいし、ノスタルジックな幸福感のようなトーンによって、事前にある感性の枠内に納まるようにコントロールされているもので、それほど過激なものとは見えないだろう。色彩にしても、とても趣味の良いものではあるが、例えばマティスのような「非世界的」としか言えないような強い表現力を持ったものではなく、あくまで趣味の範囲に留まっている。(ゴーキーはしばしば、画面を引き締めるためだけに、かなり安易に「黒」を使用する。これはとても嫌な感じで鼻につく。)亀裂と言ったところで、同じくマティスのような、色面と線、平面とボリューム、複数の重ならない空間、などを並置させその間のズレや差異そのものを作品の「強さ」として組織する程までには至っていない。あるいはセザンヌのように、亀裂を画面の隅々にまで行き渡らせて、画面全体をギシギシと軋ませる程の緊張には達していない。それはあらゆる意味で中途半端であるようにも思える。しかしその中途半端さにこそ、ある可能性が見いだせるようにも思えるのだ。ゴーキーの作品から、ノスタルジックで幸福な調子を差し引き、改めて厳しい形式的な視線を送る時、そこからまだ、現代絵画にとっても刺激に成りうるものが拾い上げられるように感じられる。
02/11/03(日)
●10/31と11/01にゴーキーについて書いたのだが、ぼくのもっているゴーキーの画集のうちの一冊の最後のページに、『Armenian Plows』というタイトルの木材による立体作品のモノクロ写真が載っている。辞書をひくと「 Plow」とは「すき」または「除雪機」と書いてあって、まさにそういう形をしているのだが、これがまるでアンソニー・カロのテーブル・ピースの作品を思わせるような面白いものなのだ。(テーブル・ピースの名作。)ゴーキーはおそらくこれを、アルメニア時代に実際に使用した工具の記憶を頼りに、しかしそれだけでなく、ゴーキーのイメージするノスタルジックな故郷としての「アルメニア的なもの」の記憶を加え、混ぜ合わせて制作したのだろう。多分、作品という意識はほとんどなく、ただつくる手の歓びのためだけに、ほとんど工作のように。それがまるでカロの作品のように見えるのは、カロもまた、これと言って特定出来る訳ではないにしろ、日常的によく見るような物(道具や日用品のような物)の形態を一捻りし、実際に使用する物としての文脈を外すことでひとつのパーツをつくり、そうしてつくった複数のパーツをさらに捻って接続させることで作品を作っているからだろう。

  人形町のvision`sの井上実・展
02/11/05(火)
●人が何故「絵画」を観るのかと言えば、まず何よりもそれが「よろこび」を与えてくれるからだ。よろこびを与えてくれるためには、それが必ずしも特権的な傑作である必要はない。「良い画家」とはつまり、画面によろこびとしか言えないようなある感情を付与する事が出来る者のことだ。しかし勿論、絵画はそれだけのものではない。それは形式や認識、構築に関する考察であり実験でもあるような、高度に知的なものでもある。ハイ・アートとは、たんに社会的に特権を与えられた階層の人たちによって受容されてきたものという意味しか持たない訳では決してない。そこには厳しくかつ激しい鍛錬や実験があり、その高度な達成があって、よろこびや幸福が目的とされている訳ではないのだ。(アートとはなにより不断の実験であり鍛錬であるようなもので、ある問題を解決したり、「現在」を表象したりするためのものではない。)とは言え、その厳しくも激しい探求のなかで、ふと「よろこび」としか言えないものが現れてきた時、それを素直によろこびとして受け取る感性がないならば、絵を描いたり、観たりしたって大して意味はないだろう。
●人形町のvision`sでやっている井上実・展(〜11/16)に展示されている小さな作品たちが示しているのは、何よりも絵画を観ることによってしか得られないような、あるよろこびの感覚であるだろう。それは決して大袈裟なものではなく、ごく些細なものであり、粗雑な感覚の網の目しかもたない者の認識からはするりと抜け落ちてしまうようなものだ。限られた狭い範囲の色彩のちょっとした揺れや変化、そして対比が、それほど複雑だという訳ではない幾つかの形態の絶妙な配置のつくりだすささやかなリズムや空間の振幅が、激しさとはほど遠い静かな筆致がみせるほんの僅かな逡巡が、どこまでも軽く、濁ることのない澄んだ表情をたたえた画面のなかで、とても豊かな表現となって浮かび上がってくる。それを感じることが「よろこび」なのだ。そして重要なのは、このような澄んだ軽さが、「こういう感じのことをこの程度の精度でやっておけば人はよろこぶはずだ」というような他人の感覚への軽視を含んだもたれかかり(こういう「人気作家」って凄くたくさんいるし、この手の人に簡単に引っかかってしまう観客もたくさんいる。この手の分かり易い「人気作家」に比べると、井上実の作品を「観ること」ははるかに難しい。実際には少しも難解な作品ではないにもかかわらず。)とも違うし、その逆に、玄人や目利きを気取る妙に硬直した頑なさとも無関係であって、あくまである愚直な探求の結果としてあらわれた「澄んだ軽さ」であるように見えることだ。「趣味」という言葉は、「良い趣味でしかない」という否定的なニュアンスで使われがちだし、ぼく自身もしばしばそのように使用するのだが、しかし、過去の作品への絶え間ない参照と、自分自身の制作上の探求によって鍛えあげられた「趣味」というのは、ある価値を共有する集団を前提としたものでしかない「センスの良さ」などとは違って、価値判断の基準としてではなく、制作を推進させる力としても非常に強力な武器と成りうるような、信頼するに足りる強さと厚みをもった何かなのだ。(そのような趣味はもはや特定の他者や集団に依存しない。)井上実の作品からは、自らの手で鍛え上げた「趣味」を信頼し、それを探求の指針として堂々と掲げることの出来る確信の強さと勇気とが感じられる。そうでなければ、ごく小さな画面に、多くの余白を残して、薄塗りの絵の具で、ちまちましたタッチの、植物を思わせる形態や色彩の切片が、ぼそぼそと小声で呟くように描かれているだけの作品が、長い時間見続け、何度も見直す視線に充分応えうるだけの、冴えた感覚や強さや充実を得ることなど出来るはずはないだろう。井上実の探求は、「現在」を手っ取り早く表象することで簡単にひとつの「成果」を手にしようなどという「芸術」を軽視するような野心の人たちの狙う「軽さ」とは、全く対極にある別種の「軽さ」とともにあるように思う。

  形式と慣れと自然
02/11/07(木)
●油絵具の色で言うと、ライトレッドという赤というよりも赤茶と言うべき色に、イエローオーカーとローシェンナー、少量のホワイトを混ぜ、そこにほんの僅かのカドミウム系の赤を加えたような色(ちょっとでも分量を間違えると赤く「染まり」過ぎてしまう)と言えばいいのだろうか、さらに加えて、その絵の具が乾かないうちに、イエローオーカーとセルリアンブルーを混ぜてつくった黄緑色(コバルトグリーンよりはくすんだ、テールペルトよりは冴えた色になる)を、下の絵の具と混ざるようにして上から置くと、より正確なニュアンスになるかもしれない。レンガ敷きの通りに植えてあるけやきの並木が、今年は寒さが急激にやってきたせいか、例年になくきれいに赤く色づいている。よく見ると赤のなかに多少の黄色味や緑味の残っているのが、さらに赤を冴えたものとして際立たせている。通り沿いの高い建物のてっぺんの屋根(この屋根も赤茶けたレンガ色をしている)で、カーッ、カーッ、ではなく、アッホーッ、アッホーッ、という感じで鳴いていたカラスが、羽根を大きく横に広げたままで地面すれすれまで急降下してきて、再びふわりと舞い上がり、けやきの木の低い枝にとまった。赤く色づいた葉をつけているけやきの枝にとまっているカラスの真っ黒で鋭角的な形は、まるで熊谷守一の絵みたいでやたらとかっこ良かった。
●よく、油絵はヨーロッパから輸入されたものだから、日本の自然な風景や風土を描くのには適していなくて(例えば、日本に帰ってくると描けなくなる佐伯祐三とか)、日本的な風景は日本画のような形式によってより自然に表現される、みたいなことを平気で言う人がいるけど、それははっきりと嘘だと思う。日本画によって描かれた落葉(例えば、恐らく傑作と言って良い菱田春草の『落葉』とか)を観ても、そこでまず見えてくるのは日本画的な形式であり技法であって、実際に山に入って落葉を見たり感じたりすることでもたらされる時の感覚とはちっとも似てはいない。1909年に「日本画」として描かれた菱田春草の『落葉』と、ちょうど同時期の1908年の山脇信徳による「印象派」風の『雨の夕』(共に、国立近代美術館の「未完の世紀・20世紀がのこすもの」のカタログで見られる)とを比べて、どちらが自然か(つまり、どちらが我々の身体が感じる感覚に近いか)と言っても、どちらも自然ではない、と言うしかない。(ただ、山脇の「印象派」よりも菱田の「日本画」の方が、形式として洗練されている、とは言えるかもしれない。)もし、そのどちらか一方をより自然だと感じるとしたら、それが実際の風景(のもたらす感覚)と似ているからではなくて、その「描かれ方」の形式や技法を、無意識のうちに自然として受け入れているからに過ぎない。我々が日々、自分の身体によって感じている感覚と、あたかもそれを自然に再現しているかのようにして、その外側で組み立てられる表象の形式とは、決して滑らかに繋がっている訳ではないだろう。そこには必ずズレがあり、そのズレを意識的に調整すること(チューニングすること)なしには、表象を的確に読みとったり、いきいきとしたものとして感じたりすることは出来ないはずなのだ。にもかかわらず、そのチューニングの作用が無意識のうちに滑らかに行えるようになると、決してそれだけが特別に「自然」なものではないはずのある形式が、あたかもそれこそが「自然」と呼ぶにふさわしいものであるかのように見えてしまう。しかし誰でもが実は知っている通りに、そんなものはたんに「慣れ」の問題でしかないのだ。(それがどんなものであれ、頻繁に触れていれば遅かれ早かれ慣れてしまうだろう。そして一旦慣れてしまえば、慣れなかった頃の違和感やズレはきれいに忘れられてしまう。違和感やズレを忘れないためには、常に形式的な思考を行うことが必要となるだろう。)
つけ加えれば、我々の生きている身体が感じている感覚も、勿論ひとつの表象の形式である。だから問題は、あるひとつの表象の形式と、決して形式化されない外部=現実、というところにあるのではない。問題なのは、複数の表象の形式の間のズレと重なりであり、それら複数の表象の形式を同時に受け入れる時の、あるいはある形式から他の形式へ移行してゆく時の、決して「慣れる」ことのない落差の感覚であり、その落差の感覚こそが、複数の表象の形式のどれでもなく、かつ、それら全ての原因としてある筈の、もの自体としての「現実」のあり方を、辛うじて予感させてくれるものなのだと思う。

  かくも幼稚なダブルリアリティ(第1回府中ビエンナーレ)
●府中美術館で、第1回府中ビエンナーレ「ダブル・リアリティ」のオープニングに紛れ込ませてもらう。こういう展覧会を観ていつも思うのは、「現代美術」って何て幼稚なのだろうかということだ。それは個々の作家の作品が幼稚だと言うより、展覧会を括るコンセプトの幼稚さが、作品を幼稚な文脈に置くことで囲い込んでしまっていると感じられるということなのだ。企画者は、リアリティの希薄な時代である現代において、その希薄ななかでのリアリティのあり方を模索する作家たち(作品たち)という「括り」で展覧会を構成しているらしい。そのテキストの冒頭で手塚治虫の『赤の他人』というマンガに触れている。このマンガは、主人公が、世界は全部書き割りのような作り物で、周りの人物も全て与えられた役を台本通りに演じているだけの偽物で、それを「劇」として眺めている観客が別の場所(つまりこここそが本当にリアルな場所)にいるのであって、そのことを知らないのはこの劇の主役を演じさせられ、見世物となっている「自分」だけなのではないかと疑う話だ。この話が、世界に対する嘘臭さやよそよそしさという感覚、現代のリアリティの希薄さの感覚を表現しているということになる。ぼく自身も子供の頃このマンガを読んである種の衝撃を受けたのだが、それは、自分も全く同じことを感じ、考えていたことがある、という衝撃だった。しかし考えてみればこのような妄想は恐ろしく「自己中心的」(なにしろ自分一人を騙すために世界じゅうの人が嘘をついていて、まさに自分が世界の中心であり、主役であるという妄想なのだから)で幼稚極まりないものであって、次第に成長し、自分が決して世界の中心にいる訳ではないということを否応なしに知らされてくると、この妄想のリアリティは消滅してしまうはずなのだ。これはまだ自分が世界の中心にいて、自分をとりまく環境(特に親や教師などといった具体的な「大人」との関係)が絶対的なものであるような年齢にいる「子供の妄想」に過ぎない。いくら何でも世界はそんなに単純なものではないということを、年齢とともに嫌でも知らされるだろう。にもかかわらず、このような幼稚な妄想を、ある種のリアリティ(リアリティが希薄であるというリアリティ)を的確に示すものとして提示するとしたら、それはたんに、そのリアリティの希薄さを感じている主体が「幼稚」であることを示しているに過ぎないと思う。(特別に素晴らしい作品だとは思わないが、それでも金田実生や曽谷朝絵の作品などは、いくら何でもそこまで幼稚なものではないと思う。というか、そのような幼稚さとは別の場所にこそ、リアリティの核を探っているようなものなのではないだろうか。)
このような幼稚さを最も端的に表しているのが太郎千恵蔵の作品だろう。(「笑える」という意味では楽しい作品ではあるだろうが、しかし「絵」としてあまりに酷いので、目がチカチカしてしまって、この作家の作品を観た後では、すこし時間をかけて目のチューニングを直さないと、他の人の作品が見えてこなくなってしまう。)「アモラス」と名付けられた架空の文明の歴史を描いているらしいその作品は、またも手塚治虫の「SFファンシーフリー」という本に収録されていた、確か『ドオベルマン』というタイトルだったと記憶しているマンガを思わせる。(だとすると、日本の現代美術の幼稚さの元凶は手塚治虫にあるのかもしれない。)このマンガは、全く酷い絵を描く無名の画家の作品を、死後に制作順に並べてみたら、ある惑星の始まりから滅亡までの歴史が記録されていた、という話だ。太郎千恵蔵の作品は、この手塚が描く無名の画家ドオベルマンの作品よりも「色」がついている分だけ一層酷い、幼稚な代物になっている。このような幼稚で酷く下手くそな作品を「絵として説得力がある」などと評価する人が何を考えているのかぼくにはさっぱり理解が出来ない。(お前が分かっていないだけだという人がいたら、是非教えていただきたい。)このような幼稚さをもてあそび、もちあげるものが「アート」なのだとしたら、ぼくはアートなどとは無縁に生きていきたいとさえ思う。(余談だけど、オープニングの挨拶での太郎千恵蔵氏のコメントはなかなかのものだった。「個性」「ワールドスタンダード」「9・11以降」「アートになにが出来るのか」等々の、いかにも現代的なキーワードが散りばめられたそのこなれたスピーチは、近年これほど無内容な言葉を聞いたことがなかったと思われるほどにまるで何の意味も無い言葉の集まりで、ここまで軽薄で薄っぺらだとかえって清々しいとさえ思われた。これは皮肉ではなく太郎千恵蔵という人にちょっとだけ興味を感じた。隣で聴いていた真面目な友人などは本気で怒っていたけど。)

  東浩紀のタイムスパン
02/11/17(日)
●東浩紀×笠井潔による「哲学往復書簡」は、毎回きちんと読んでいる訳ではなくて、たまにちらっと覗いていたという程度だが、東氏の15回目の部分を読んでいて思ったのは、東氏が、いろいろと考え工夫しているにもかかわらず、いつも世代論的な「私語り」に陥り、そこに着地するしかないという事を繰り返してしまう理由は、その問題提起のタイムスパンの短さにあるのではないかと、ということだった。東氏にはいつも、自分の書く物によって「現在」の世界に対してなにがしかの「効果」を与えたい、与えなければ書く意味がない、という強い思いがあり、その思いが強すぎて、溜めがつくれないと言うか、「現在」の姿を相対化し、浮き彫りにするために比較項として採用する過去が、あまりに近い過去になってしまいすぎているのではないだろうか。現在について思考する東氏は、いつも近いもの同士を比較しすぎるので、そこで細かな差異と本質的な差異との違いを見失ってしまいがちだ。例えば東氏は、ポストモダンとは、70年代(つまり68年以降)のフランスで生まれ、80年代に日本に輸入され、90年代に死滅した、ということになる。それはそれで間違ってはいないのだろうが、しかしそれではまるで、東氏が生まれる前には歴史などなかったと言っているようにも見えてしまう。そのような短い期間だけをみているから、まるでその30年の間に20世紀における決定的な切断面がいくつも走っているかのような話になってしまう。それはいくら何でも自分が生きている時代を特権化しすぎているし無理があるということになるしかないだろう。(以前この日記でも、東氏の言う「動物化するポストモダン」の特徴をそのまま文字通り受け取ると、まるでボードレールとかマネとかの時代について言っているみたいに聞こえるということを書いた。まあ、それは、学識などないぼくのいい加減なヤマカンのようなものに過ぎないのかもしれないが、しかし東氏があまりに現在と近い過去のみを特権視し過ぎていることは確かだと思う。)『存在論的、郵便的』が一定の説得力を持ち得たのは、デリタやドゥルーズを扱う以上、少なくともハイデカーやフロイトくらいまでは遡らざるを得ず、その結果として「20世紀」全体くらいの幅をもつことが出来たからではないだろうか。
東氏の問題設定はいつも、「80年代はこうだったけど90年代以降はこうだ」「ニューアカはこうで『批評空間』はこうだったけど、現在はこうだ」「浅田彰はこうだったけどぼくはこうだ」果ては、「オタク第1世代はこうだったけど、第2世代、第3世代はこうだ」「学部生、院生だったころのぼくはこうだったけど、今のぼくはこうだ」というところまで細分化される。「現在」はいつも狭くて浅く、しかもその現在を相対化するために比較される過去がごく近い過去ばかりなのだ。東氏が否定的な媒介として、自分と比較して意識するのは、いつも浅田彰とか柄谷行人とかの、実際に接したことのあるごく近い先輩たちばかりで、例えば、自分と小林秀雄を比較したり、西田幾多郎と比較したりはしない。つまり東氏においては「歴史」が構成されない。歴史がなければ自己の位置は相対化されず、常に現在の自分が世界の中心にいることになるだろう。これは東氏の実存と地続きであるような、アニメやゲーム、といったサブカル的なジャンルが、ジャンルとしてとても「若い」ものであるということにも関係があるのかもしれない。(若いジャンルでは、偉大な古典が「近い」ところにある。)だから、東氏にとって適切な往復書簡の相手は、笠井氏のような、中途半端に話が通じてしまう、異なる、しかし近い世代(よって世代論になりやすい)の相手ではなくて、むしろもっと年の離れた、一貫して昔の話しかしないような長老格のような人こそが面白かったのではないだろうか。蓮實重彦による有名な言葉に、自分は動けなくても知恵によって若い主人公を助けるような魅力的な老人が登場しなくなって、アメリカ映画は単調になった、というようなものがあるが、東氏にとって必要なのもそのような老人なのではないだろうか、と思ったりした。

  ティンゲリーのようなドゥルーズ
02/11/20(水)
●ドゥルーズを読んでいると、何となくティンゲリーの作品を思い出す。
●樫村晴香は、『ドゥルーズのどこが間違っているか?』で、理論家としてのドゥルーズの基本的な間違いは、起源的-本源的な差異と、現実世界の内部で意味が構成されるための実在的-象徴的な差異とを(おそらく意図と的に)短絡しているところにあるとする。この短絡によって、理論的に絶対に結合できないはずの、基本的組成において異なる圏域にあるもの同士(例えばニーチェとハイデカー、あるいはセザンヌとベーコンとか)とを統合させることが可能になるのだが、それは《どちらかの理論の能力は不当に拡張され、理論(つまり現実的体験に基づき、そこで検証されるもの)はスローガン-幻想に下落する》という結果をもたらす。《Dzにおいて、偽装-強度は異なるものを異なるものへと関係させる境位となるが、そこで異なるものと異なるもは、どちらも等しく分節性-意味作用の次元に属しており、しかしニーチェ/クロソフスキーにおいて、強度とはまさに「全くの無意味」で、異なるものと異なるものが絶対に関係できない場所であり、それは強度と意味作用が、非共役的であるゆえに当然である。》ドゥルーズは、ニーチェやあるいはアルトーにとって「強度=病」として生きるしかなく決して「意味」となり得なかったものを、易々と「意味=隠喩」へとスライドさせる。(『千のプラトー』のような壮大な理論も、このことによって可能となる。)この感じは、ぼくのようにいい加減に読みかじっているだけの者にも確かに感じられるもので、だからこそ、「批評空間」の共同討議で浅田彰の《ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。(ゴダールは絶対的に肯定するがドゥルーズは哲学者として肯定するだけだ。)》という発言や、あるいは蓮實重彦がドゥルーズを結局は「美の人」だとして囲い込んでしまおうとする発言にも、一定の説得力がある。それに対して真面目なドゥルーズ読みの学者が不当な「レッテル貼り」だとして怒るのも分かるが、それが「レッテル貼り」には違いないとしても、決してそのレッテルが不当なものとは言えないと思う。
●だがドゥルーズを読む歓びとは実はその理論的「間違い」の場所、平気で短絡してしまうというところにあると思われる。前述したテキストで樫村はドゥルーズの特徴を《身体制御回路それ自体のある種オーバーフィードバック的な事件によって、言語回路を経ずに生じる、いわばローカルな身体表層の異変についてこそ、彼の記述は光っている》と書く。《この身体運動の分離性は、意識が部分的に残存しつつ、主体が自己の身体に対して制御を失い受動的になる、半覚醒的-ナルコレプシー的なものであり、(略)この半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される課程にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共鳴に、帰属する。(略)意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異-変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異-移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそDzの内発的感覚がある。》ドゥルーズを読む歓びをここまで明確に書いた言葉をぼくは他に知らない。音楽を聴くように、葉擦れの音を聴き木々のざわめきを眺めるようにテキストを読み、書くドゥルーズ。この感覚こそ、例えば、重厚な理論を積み重ねることで「死」を覆い隠し、その覆い隠すという行為によって再び「隠喩」と化した「死」を浮かび上がらせるハイデカー的な重たい官能性とも違うし、「全く無意味」な強度として主体を襲う反復を、その反復の「痕跡」と化して、再帰した悪夢へと零落させることによってフェティッシュと化し、それによって主体に操作可能なものとする(つまり「倒錯」)というクロソフスキー的な官能性とも全く違った、半覚半睡で身体が溶けて散らばったままで漂っているような、独自の歓びを与えられるのだ。
●ドゥルーズの「哲学」が闘争的なものであるとしたら、それは生がひとつの「素朴な歓び」としてあることを抑圧し妨害するものに対する闘争であるはずだ。だからその「闘争」自体が歓びを抑圧してしまうものであるとしたら、そのようなな闘争には何の意味もないだろう。樫村によるテキストが掲載されているのと同じ号の「現代思想」には、ジョルジョ・アガンベンによる追悼文の載せられている。このテキストでアガンベンはドゥルーズの特性を「self-enjoyment(自己享楽)」という言葉で言っている。《「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。(略)万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分自身を充たし、自分を享楽するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。(略)これこそ、自己享楽というものです。自己享楽というのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。喜びを生産するような、さらには、そうした喜びがこれからも持続するだろうという信頼感を生産するようなあの元素間の収縮のことであり、固有な要件についてのあの観想なのです。(略)われわれは、小さな喜びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を自分自身のなかに見出すことです。》ひとつの生がひとつのささやかな歓びであること。そして生が歓びとしてあることを疎外するような「忌まわしいもの」への抵抗それ自体も「歓び」としてあること。これは幻想でありスローガンであるのと同時に、現実の生の実践であり実験であるようなものだと思われる。


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