bRIgHt fuTUrE(映画・読書・その他、23)

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一つの生とはつまり一つの実験である/橋口亮輔の『ハッシュ!』
橋口亮輔『二十歳の微熱』をビデオで
堀由樹子・展のDM
ギャラリー山口の、堀由樹子・展について
藤枝晃雄/『現代芸術の不満』
バーネット・ニューマン/「一つの空間」と幽霊
デビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』
東京オペラシティーアートギャラリーでダグ・エイケン「ニューオーシャン展」
初台のICCで、ダムタイプ/ヴォヤージュ展を観る
ワタリウム美術館のカールステン・ニコライ展
吉田修一の『パーク・ライフ』についてぼくは否定的です。
小さくて映りも悪いテレビで『セプテンバー11』を観ていた
中垣直美のペインティング
なんだかわからなくなる場所で頓挫しよう/丹生谷貴志
M・ナイト・シャマランの『アンブレイカブル』
DVDで『シックス・センス』(M・ナイト・シャマラン)を観た
小林良一のペインティングと、色彩の「質」
岡崎作品が岡崎理論に回収されてしまうことの危険について
文房堂ギャラリー「眼差しは時を漂う」企画の早見堯と諸星千恵の作品について
セゾン現代美術館の岡崎乾二郎・展について
青山で岡崎乾二郎(セゾンアートプログラムギャラリー)、を観た
岡崎乾二郎と絵画
桂と彼岸花ととちの実と金木犀

自転車にのって、


 一つの生とはつまり一つの実験である/橋口亮輔の『ハッシュ!』
02/08/10(土)
●一つの生とはつまり一つの実験である。「夢」という言葉にリアリティがあるとしたら、それはある一つの生にとって、この現実の世界のなかで何かしらの実験の余地があり得るという可能性に対する「信」としてしかないだろう。橋口亮輔の『ハッシュ!』の登場人物の一人である田辺誠一が演じるゲイの男が、ゲイでありながら父親であるという可能性があり得るかもしれないと考えるというのは、そういうことだろうと思う。パートナーである高橋和也は、ゲイであるかぎりは家族などは無関係であって、カップルさえ長続きすることが稀なのだから、一人で生きる覚悟を決めるべきだと言う。しかしそれは、ゲイ自身が自分からゲイとはこうであるという風に外側から枠をつくって可能性を殺しているのではないか、そうではないあり方というのも可能なのではないか、と田辺は考える。強調しておかなければならないのは、ここで問われているのはあくまで実験であり可能性であって、子供をつくり家族をつくることがより生産的でポジティブなことだということが「前提」としてある訳ではないということだ。この部分にこの映画は繊細な注意が払われている。田辺は、「子供をつくること=父親となること」を受け入れたのではなくて、「子供をつくってくれ、といきなり持ちかけてきた女との関係」を、その持ち前の優柔不断さから受け入れたに過ぎないのだ。(子供をつくると言っても、具体的には「スポイト」しか示されていない。)つまりそれは「そういう生き方もあり得るかもしれない」という可能性について思考することを受け入れた、ということだろう。片岡礼子の演じる女が、何を考えてそんなことを言い出すのかは解らないし、その気持ちに共感できるという訳でもない。しかし、目の前に実際にそういう女がいて(いやな奴ではなさそうだし)、父親となる可能性が降って沸いた以上、それについて考えることを拒む必要はない。田辺の優柔不断な性格とは、目の前に示された可能性を、決してハナから排除することはしないで、とりあえずは吟味してみることを可能にする、というためのものだろう。
この映画における3人の関係は、ある共通の目的によっている訳ではなく、それぞれ個人の抱える固有の実験の絡まり合いとしてある。一つの目的に向かっての「共闘」ではないということは重要だろう。片岡が、恋愛ともセックスとも関係なく子供が欲しいと考えることと、田辺が、父親になるという可能性について考えてもいい、と思うことと、高橋が、パートナーである田辺が父親になることがあるかもしれないという状況を受け入れる、ということは、それぞれ別個の生=実験に関わることだ。この映画は、3人の「幸福な」と言ってよいだろう関係を描いているのだが、この3人は別に幸福を目的として集まっている訳ではないだろう。ある実験の過程で、幸福としかいいようのない状態がうまれることはあり得るだろうし、勿論その幸福は肯定されるべきなのだが、しかし、その幸福が目的となったとき、生=実験は失墜する。その時、彼らのつくろうとする「(可能なる)別の家族」は、富士真奈美が当然のこととして受け入れ、秋野陽子が不満をもちながらも決定的にとらわれている(しかし実は夫の死によって簡単に解放される)「血と地の家族」と何らかわらないものとなってしまうだろう。『ハッシュ!』における「別の家族」と、青山真治の『EUREKA』における、共通の傷によって結びついた「別の家族」との根本的な違いがここにあると言えるだろう。
生が実験であるのと同じように、作品もまた実験であるだろう。それは何も実験的=前衛的な作品にばかり言えることではない。傑作をつくることを目的としてつくられた傑作など、おそらくあり得ないだろう。傑作とはつまり、予想外の出来事である訳だから。考えていることをどこまで実現できるかが問題なのではなくて、最初に考えていたことからどこまで遠くに行けるかこそが問題であるはずだ。最初にある根本的なモチーフなり、基本的なプログラムなりを、具体的な細部をつくり込みながらどこまで発展、展開させることができるか、ということ。それは、結果ではなくプロセスが大事だということとも違う。前作の『渚のシンドバッド』でもそうだったと思うのだが、橋口監督は、細部を丁寧につくり込みながら作品をゆっくりと育ててゆくような監督なのだろう。(前作のヒロインで当時は無名だった浜崎あゆみは、今や大スターとなっている。)この、時間をかけて丁寧につくり込まれたであろう細部の描写の厚みや積み重ねが、作品の思考をきわめて複雑で強いものにしている。しかし同時に、物語として、あまりに安易に説明のつけすぎではないかと思われる部分が目についてしまうのも否定できない。例えば女性の登場人物のキャラクターを、解りやすい過去で説明しすぎではないか。『渚のシンドバッド』の浜崎あゆみが前の学校でレイプされていたとか、『ハッシュ』の片岡礼子に2度の中絶と精神科入院の過去があるとか、そういう「劇的」な説明は邪魔だし、そんなものがなくても、画面に映っている彼女たちの存在は充分に説得力があるように演技、演出がなされているのではないか。

 橋口亮輔『二十歳の微熱』をビデオで
02/08/22(木)
●橋口亮輔『二十歳の微熱』をビデオで。橋口亮輔は、関係を丁寧に描写してゆく監督であると言える。その描写は、何かしら「言い切る」ことのできる事柄を主張しようとする為のものではなく、あくまで描写の積み重ねが描きだす複雑な形象そのものが、思考の複雑な運動を生成するというようなものだ。だが、それは「描写のための描写」、ただ「描写そのものの強度によってだけ成立する」というような描写ではない。例えば塩田明彦の『害虫』における描写は、純粋にその描写自体の「冴え」が目的であり、描写の「冴え」によって映画が成立している。(しかしその描写の冴えが、結局はメロドラマ的な構造に納まってしまっている、と言うか、安定したメロドラマ的構造のおかげで、描写の冴えが保証されている、という傾向がある。)橋口による描写の積み重ねが面白いのは、それが納まるべき行き先が見えないまま、落としどころがないままで進行して行くからだ。つまり、ある状況なり関係なりが、いきなり与えられる。そしてそのような状況のなかで、それぞれの人物がどのように動いて行くのかが、最大限の繊細な配慮によって追求され、細部が形作られる。ここで重要なのは、あくまで、ある状況におけるある関係の進行なのだから、いわゆる「映画的な」素晴らしいシーンなり充実した描写なりによって、関係の矛盾が止揚されてしまったり、むやみに人を幻惑させてしまうことは禁じられる。橋口による長回しは、相米による長回しの画面が充実しているようには決して充実はしていない。相米的な、祝祭的とも言える充実は厳しく排されなければならないのだ。それぞれのシーンは、周到で繊細な配慮がなされてはいても、決して突出することはなく、凡庸なものとして納まらなければならないだろう。まず、ひとつの特異点のような存在として、自らは何も積極的な欲望を持たず、あらゆる事柄を平然と受け入れるかのようにみえる人物、ゲイという訳ではないのに、男性に対して身体を売ることを抵抗なく受け入れている男を設定する。(この主人公は、『ハッシュ!』における優柔不断な人物へと受け継がれて行く。)そして、その男に思いを寄せるゲイの少年、男に思いをよせるゲイの少年に思いをよせる少女、男に対して「不定形」の好意を感じている大学の先輩である女性(この女性の父親も、男の「客」である)などの人物が配され、その関係がどのように動いてゆくのかが、人と人とが接触する時の「作法」などには出来るだけ縛られないような形で追求される。重要なのは関係であって、ドラマでも物語の定型でも形式でもない。ここでの関係は、複数の線が複雑に交錯することによって平面をかたちづくっているようなダイアグラム的に拡散するもの(あるいは常に一対一のもの)であって、決して三角関係などのように抽象によって抽出されるようなものにはなららない。例えば、主人公の男に好意をよせる少年と、その少年に好意をよせる少女との関係は、主人公の男を含む三角関係のようなものではなく、「家族」という制度を含めたもっと複雑で大きな関係の一端であるか、そうでなければ一対一のものであるように描かれている。橋口の描く人物たちの関係がとても美しいのは、彼らが皆「作法」から自由であろうとすることと、一対一の関係が、決して不在の第三者の関係を媒介としたものではないように描かれているからだと思う。(社会的にみてもっとも強力な「作法」は「家族」というものであり、単純に「家族」という制度に対する否定という形とは異なる、「家族」という「作法」との緊張関係を、この映画の登場人物全てがもっている。)関係を一対一というフレームでみた場合、それは常に非対称的なものとなる。どちらか一方がより強く相手を欲望している。そしてその欲望の形もそれぞれに異なる。それは決して一般的な恋愛、性愛、あるいは友愛という「作法」には納まらない。しかし人は「作法」のないところでは、どのように他人を求めればよいのか、他人の欲望を受け止めればよいのか分からない。これはとりたてて言うほどのこともない全くあたりまえの事実にすぎない。しかしこのような凡庸な事実を含む細部を具体的につくり、このような関係における差異=落差を、物語の原理にも媒質=映画の原理にも囚われないような地点において組み立てようとする作家はほとんどいないのではないか。
以上のような、橋口亮輔による、複雑で周到に配慮された関係の実験には、当然のことながら「答え」というものがない。一つ一つの具体的な細部や、複雑な関係の絡まりのなかでの一人一人の人物の行動や反応の連鎖そのものが、実験の結果であり次の実験の始まりでもある。しかし、一本の映画を作品として纏めようとするとき、そこにはある暫定的な「答え」のようなものが要請されてしまう。橋口亮輔の映画は、『二十歳の微熱』にしても『渚のシンドバッド』にしても、この地点で躓いているように、ぼくには感じられる。どちらの映画でも、クライマックスには、複雑だった関係が3人の関係へと絞られ、そこで何か映画全体の「纏め」とも言うべき抽象化された「寸劇」が演じられることで決着をつけようとしている。しかし実はこのような事こそ、橋口が映画の細部の組立やその展開のなかで周到に避けようとしてきた事柄なのではなかったか。問題は複雑であり、それを決して物語的な水準や映画的な水準で解決してしまわないことこそが、橋口映画における実験の重要な掛け金なのではなかっただろうか。『ハッシュ!』では、「子供をつくる」という計画がほとんど進展しないまま終わるという事で、単純化された「寸劇」によって全体を強引に纏めるような事態は避けられている。しかし今度は、この計画の停滞によって、最後の方では計画そのものが三人でだらだらだべっているための口実のようなものに失墜してしまっているのではないかという印象を受けてしまいかねない。(子供をつくるという計画=可能性が具体化すれば、当然それに対する3人の考えの差異が浮かび上がり、3人の関係はより緊張を増すことは避けられない。『ハッシュ!』ではそこまで踏み込まない。3人の幸福な関係はそれを避けることで成り立っている。)

  堀由樹子・展のDM
02/08/17(土)
●画家の堀由樹子氏から、展覧会の案内のDMが届いた。
ここ2、3年の堀氏の仕事はとても充実していて、おそらく今、日本で観られる絵画のなかでもっとも良質で趣味の良い作品をつくる画家の一人だと言ってもいいだろうと思う。(「良質で趣味の良い絵画」なんて面白くもなんともない、という人もいるだろうことは十分に知ってはいるが。)堀氏の絵画の趣味の良さは、主にその独特の筆触と色彩に由来し、その質の高さは、その触覚的な筆致と色彩によって形成される平面的でありながらもゆったりとした膨らみと含みを感じさせる「空間性」に由来すると考えられる。つまりここでは、ふっくらと、ゆったりとした膨らみを感じさせる形態や色彩が、その感触を保持したままで平面的な秩序によって制御されていて、三次元的な奥行きを感じさせるのとは全く別種の、いわば触覚的な空間性とでも言うべきものを出現させているのだ。例えば、最近の作品(佐倉市美術館や文房堂ギャラリーでの展示)では、画面のなかに猫とかカラスのような具象的な形態が招き入れられているのだが、それらは三次元的な厚みを持たず平面的に処理され、平面的な空間のなかに破綻なく納められている。しかしそれは平坦なマークのようなものではないし、画面の造形上や構造上の都合によって召還されたものではなく、実際に存在する猫やカラスの動きや体温などまで感じさせるような「含み」としての厚さ(世界の「厚み」)を有している。一見、だだ「描く」ことの喜びのみを追求したようなナイーブな絵画に見えてしまう危険もあるが、しかしその空間の成り立ちをみれば、近代以降、20世紀に生み出された様々な絵画のメディウムとしての形式をふまえた厳しい目によって制御されているのが理解されるだろう。とは言っても、堀氏の作品は、形式的な革新性や過激さによって人を刺激するような種類のものではなく、主に、その趣味の良さによって人を魅了するような種類のものではある。
ただ、今回のDMに印刷されている作品を観て、あっ、と思ったのは、そこに明らかに三次元的な空間を暗示するような形態の配置がなされている、という事だ。葉書大の紙に印刷されたものだけでは判断のしようがないのだが、これには下手をすると堀氏の作品に綻びを生じさせ、質の高さを脅かしかねない危険な「匂い」さえ感じられた。もともと、具象的な形態を導入すれば、どうしたって三次元的な現実空間が暗示されてしまうのは避けられない。堀氏の作品はいままでそれを、絵画史的な知識と手技を動員して矛盾とぎりぎりのところで抑えていた訳だ。(それによって「完成度=質」を確保していた。)実はここは、絵画という形式が「現実」とどのように関係するのかという、絵画という媒体の基本的な矛盾というか困難が露呈する危険なところなのだ。(矛盾であり困難であり危険であるということは、言い換えればもっともスリリングで面白い部分だ、ということでもある。)例えば、マティスは1900年から1910年代頃にかけて、複数の平面的な次元を、互いに微妙にズレをもたせつつ重ね合わせてゆくことによって、非常に完成度の高い作品を制作していたのだが、1920年代に入って、いきなり三次元的な奥行きや妙なボリューム感などを作品に導入しはじめるのだ。マティスはそこで、絵画というジャンルの原理にどこまでも寄り添ってしまうことで、現実という次元(その場合の「現実」とは一体何か、という問いは、とりあえず置いておくとして)を見失うことを拒否したのだ。それは明らかにそれまでのマティスの作品の形式に破綻をもたらすことになる。多くの人はこの時期を、マティスのもっとも衰弱した時期、あるいはもっとも保守化した時期だとみるのだが、ぼくにはこの時期のマティスは、とてもスリリングで、果敢に実験的なことをやっているとても重要な時期のように見える。実際、その時期の作品はものすごく面白い。まあ、DMに小さく印刷されたたった一枚の作品だけで、マティスの20年代まで持ち出してしまうのはあまりにも大袈裟過ぎるのだが、そこには確かに、どっちに転んでしまうか分からない、危険でスリリングな匂いが感じられるのだ。

  ギャラリー山口の、堀由樹子・展について
02/09/01(日)
●京橋のギャラリー山口での、堀由樹子・展(〜9/7)について。
●堀由樹子の作品を前にしてまず最初に感じられるのは、その独自の感触をもった色彩であるだろう。絵画における「趣味の良い色彩」とは、たんに趣味のよい配色のようなものとは違う。絵画が絵具によって発色するものであり、絵具という物質を操作することでつくりあげられるものである以上、そこには否応なく作家の身体と絵の具という物質の関係が刻印される。一色一色、それぞれの絵具は、その材料となる顔料が異なり、物質としての特製も異なる。だからただ「色」としてだけではなく、それぞれに異なる特性をもつ物質である絵具を、どのようなレヴェルで掴み、どのようなレヴェルで操作するのかを、それぞれの作家は身体的な「感触」と言うしかないような地点で決定しなければならない。つまり、ある「色」をつくりだすためには「目」だけでは足りないのだ。色彩は常に「描く」という具体的な行為を通して把握されるのだから、決して「視覚」だけによってそれを掴み、操作することは出来ない。堀氏の作品の色彩が、観者の身体的な、あるいは情動的な反応を強く喚起するのは、その色彩が「描く」という行為を通してより深く、身体全体によって掴まれ、揺り動かされ、操作されているからであろう。つまりここで「色彩」は、たんに色彩=視覚として把握されているのではなく、身体的な動作によって掴まれる空間と分かちがたく結びついたかたちで捉えられ、つくりあげられているのだ。ある色彩が「空間性」をもつというとき、それはただその色彩が広がりや奥行きを感じさせるということだけでなく、実際には平面であり壁であるのだからそこに入ってゆくことはできないその色彩の場のなかに入り込んだ想像的な身体が、何かしらの「動き」をすることが可能であるような「余裕」と言うか「隙間」を感じることが出来る、ということでもある。「ゆったりとした色彩」とか「たっぷりとした色彩」という言い方でしか表現できないようなある色彩の感触というものは、その色彩そのものがもともと持っている性質であるだけでなく、その色彩をもちいて描き、絵画をつくりあげようとする身体が、その作業=行為のなかで感じ、把握し、操作している、身体的な運動感による空間性を、その作品を観ている観者が「視覚」によって感じ、読みとり 、把握することが可能だからこそ生じるのだと思う。
(つづく)
02/09/02(月)
●堀由樹子の作品には、犬やカラスや人物といった具体的な形象が描き込まれている。現在描かれている多くの絵画は、事物の存在や表情といったものを描き出そう(描写しよう)という意志を失っている、と言える。現在、具象的な表現は「流行」でさえあるのだが、それらは皆、現実の事物を描くのではなく、あらかじめ記号化されている事物の、その「記号」を画面上に貼り付けるようにして描いているものだ。そのやり方はいろいろあって、まさに記号の「記号性」を強調し、それによって作品を成り立たせようとするものから、記号を「描く」ことによって絵画空間上で解体し、それを絵画の問題の方へと導いて行こうとするものまであるのだが、どちらにしても「一度記号として抽象化されたもの」でなければ画面に導入することが出来ないでいる。(サブカル的、消費社会的な記号や美術史上の「名作」をレファランスとしたものは勿論、フォトペインティングのようなものも、カメラという機械によって平面化、抽象化されたイメージだから描くことが出来るのだし、一見、事物をただ素朴に描いているだけのような絵でも「ただ事物を素朴に描いているだけのように見える絵」のように描いているに過ぎない。)しかし堀氏の作品には、それとは多少異なる感触がある。例えば堀氏の描く「犬」は、実在する「ある犬」であって、その存在や気配のようなものこそを描こうとしているように見える。(では、たんに「記号」ではない、現実に存在する事物、例えば現実の「犬」というのは、一体どんなもののことを言うのか、という問題があるだろう。ここではとりあえず、ただ視覚的な情報=像として把握されるだけでなく、日常的な関わりとして、触れ合い、エサを与え、散歩につれてゆき、何かしらの感情を通わせている、といった一連の行為の集積によって把握されている「ある対象」のことであり、その対象の把握がもつ「厚み」のことだとしておく。しかし実は、このような把握の集積が「厚み」を構成せず、よってその対象の同一性すらあやしくなってしまうという事態が生ずることがあるということも、指摘しておかなければならないのだが。)まあ、それにしては選ばれる形態がやや甘いようには思われるが。(犬が、時に子豚のように見えてしまう。)しかし、形態の甘さという欠点は、色彩の豊かさによってカヴァーされていると言っていいだろう。8月17日の日記にも書いたのだが、この感触は、複数の平面のズレと折り重なりによる空間を過激に押し進めていたマティスが、1920年代になっていきなりその空間のなかに3次元的なヴォリュームをもった人物をごろりと横たわらせてしまった時のような、破綻とキワキワなある危険な匂いがあるのだ。(現代の具象的な絵画が事物の「描写」を避けているのはそれなりの理由があるのだ。現代絵画は「描写」に適した空間構造をもってはいない。)現在の堀氏の絵画作品が、1920年代のマティスの作品と同等の複雑さ、緊張感、あるいは亀裂の深さ、などを実現ているなどとは言えないのだが、しかし、画面を、離れて全体として観た場合には平面的な空間性によって制御されているように見えるのだが、部分に注目し焦点を移動させると、あきらかに3次元的な奥行きや、向こう側へ回り込んでいる形態が描き込まれている部分があって、そのような分裂の危険を含みつつ、全体としてはある「趣味の良さ」によって統一されている、という緊張をはらんだ画面の構造は、やはりマティス的と言ってもよいだけのものではあると思う。以前の堀氏は構成力にやや難があり、事物を規則的に並べることでその難を逃れていた(誤魔化していた)というところがあったと思うのだが、今回の作品はより自由で大胆な構成がなされており、その点でも数段の進展が感じられる。

  藤枝晃雄/『現代芸術の不満』
02/08/19(月)
●藤枝晃雄の『現代芸術の不満』を久しぶりに読み返している。改めて、藤枝氏の形式的な分析の能力の高さに圧倒される。特に、最後に収録されているバーネット・ニューマン論はほとんど「決定版」とも言える物で、たんにニューマンについてと言うだけでなく、20世紀の(ある時期までの)美術が、どういう事を問題として、どのように展開してきたのかという事についての、コンパクトな記述となっている。これは20世紀美術入門などにありがちな、外面的な「形式」の変化のカタログではなく、ある作品が、何を、どのようにして、どこまで、実現出来たのかという、ある「質」を可能にするために要請された「形式」の展開についての記述なのだ。藤枝氏の分析は、たんに形式のために形式を分析することにあるのではない。例えば絵画が、色と形とによって成立していて、われわれがそれを知覚することによって作品の意味(内容)や質を感受するのである以上、その意味(内容)や質は、その色や形そのものではないが、しかしその色や形と離れて存在するのでもない。つまり、それら色や形がどのようにして組立られているかという「形式」によって可能になったものであり、しかし、形式そのものが意味(内容)や質なのでもない。形式は内容ではないが、形式がなければ内容は成立しない。われわれがある事物から、その事物そのものを示す以外の何らかの意味なり感覚なりを受け取ったとしたら、その何かしらの意味なり感覚なりは、その事物が組み立てられている何かしらの形式によってもたらされたものであるだろう。もし、その時受け取った意味なり感覚なりが、たんに恣意的な、受け取った主体のその時の状況(や気分)をたんに反映しているものではなく、ある程度普遍的な、反復性のあるものであるとしたら、そこにはそれを可能にする「ある形式」があるはずである。もしある作品を観て「いい」と思い、その「いい」と感じた感覚が、たんに「私」のその場でのきまぐれではなく、作品そのものに内在する「質」であり「価値」であるということを証明するとしたら、その作品が「どのようにして」その「いい」という感覚を生み出すことを可能にしているか、その「いい」という感覚がどのような質のものであるのか、がシビアに問われなければならない。藤枝氏による厳しい形式的な分析とはそのようなものであり、いわゆる「形式主義」的な形式分析とは全く異なる。藤枝氏は、グリーンバーグの次のような文章を引用する。【質、美的価値は、インスピレーション、ヴィジョン、内容のなかにあるのであって、形式のなかにはない。これは満足すべき説明の仕方ではないが、さしあたりこれに勝る言い方はないように思われる。いずれにせよ、"形式"はインスピレーションへの道を開くだけではない、その手段としても作用することができる。そして、技術への専心は、それが検索しつくされて、わがものとなったとき、"内容"をもたらしたり発見したりすることができる。】(余談だが、この文章の後半部分で言われているのは、作家=画家は、自分が表現したい事やコンセプトなどが先にあって、それをあらわすために手段として技術(あるいはメディア)があってそれをを磨くのではなく、画家はただ職人としてたんに技術に専心しているうちに、その技術によって「ある表現=内容=形式」(つまりそれは決して画家の自己表現ではない)に突き当たり、それを展開してゆくことができるのだ、という事なのだ。<インスピレーション、ヴィジョン、内容、への道を開く>のは個人的な才能ではなく、技術への専心であり、形式であり、つまりはジャンルそれ自身だということになる。グリーンバーグのこの発言は、実際に作品をつくる画家としては、感覚的にはすごくよく分かるのだけど、これを「理論」に組み入れてしまうと、例の「ジャンルの自己発展」のような話になってしまうのだと思う。)
●藤枝氏による圧倒的な形式分析は、しかし実は、この本の後半部分、正確に言えば最後の「4」という章に納められた3つの文章のみにみられるだけなのだった。この本全体の内容は、まさに『現代芸術の不満』というタイトルが示す通りに、不満がたらたら述べられているのだ。藤枝氏は、ポストモダン的な言説によって言われる「芸術の終わり」「芸術の死」という考えを批判し、現代において芸術は、たんに「中断」しているだけだと言う。つまり現代は確かに芸術と呼びうるものがない時代ではあるが、そのような時代は過去に何度もあったのであり、現代が芸術にとって「空白」の時代であるからといって、芸術が終わった訳ではない、とする。そしてそのような時代の「芸術と称する」有象無象のがらくたや偽物、それら偽物によって商売をしようとする「美の商人」たちに対する、批判や不満が、延々と執拗に述べられてゆく、いわば形式的な分析というより状況論的な文章によってほとんどが占められている。その批判や不満の多くは、確かに正当なものだと思われる。ここで執拗なまでに繰り広げられている批判や不満は、決して芸術の今日的な現状に追従したり日和ったりせずに戦うぞという、強い「抵抗」の態度を表明していると言える。しかし、本当に価値のある藤枝的「抵抗」があるとしたら、それはただ「分析するに足りる作品」のみを取り上げて「愚直に分析すること」にこそあるのではないだろうか。何よりも、最後に掲載されている3つの文章の「力」がそのことを証明している。不満や批判が必要ないということではない。主従が逆転してしまっていることが問題だと思うのだ。

  バーネット・ニューマン/「一つの空間」と幽霊
02/08/23(金)
●バーネット・ニューマンは、その絵画を決して分割出来ない「一つの空間」として出現させようとした。ニューマン自身の言葉で言えば、「分割される空間でも構築する空間でもない」それ自身で過不足ない十全な表現性をもつ「一つの空間」を出現させるような絵画。このような考えは、哲学的には、ニューマンが好んだスピノザなどに由来するだろう。しかし、現代絵画の展開という側面からみると、絵画空間がしだいに平面的なものになってゆくにつれ、絵画がたんなる「物体」へと近づいてゆかざるをえないという必然的な流れのなかで、極限まで「平面化」しながらも、決してたんなる物体になってしまうことなく、高い表現力をもった空間性を獲得しなければならない、という、いわば当時の状況による外的な要請があったことは見逃せない。(平面と物体、空間性と物質性、イリュージョンとアンチ・イリュージョンの相克というのは、当時の美術において中心的な問題であった。しかし、手を伸ばせば遮られてしまう平面でしかない絵画に空間性を感じるのはイリュージョンであるが、絵画が視覚によってとらえられるものであり、我々は物自体を直接知覚することは出来ないのだから、絵画から物体性を感じるのも、同じくイリュージョンである。だから、空間/物質、あるいはイリュージョン/アンチ・イリュージョンという対立は、現象/実在という対立ではなく、たんに空間的イリュージョン/物質的イリュージョンという対立であるのだ。つまり、空間性をより強く感じさせるか、それとも物質性をより強く感じさせるかの違いでしかない。しかし、絵画の物質的な側面を強調することは当時としては新鮮であり、作品を物体としてドーンと提示すればそれだけで容易に一定の「表現の強さ」を獲得できたかのように見えてしまうという傾向があった。このような安易な傾向のなかで、多くの興味深い作品は空間性の追求、つまり絵画が平面化してゆくことで空間的なイリュージョンが物質的なイリュージョンにとって換わられようとするその一歩手前で、ギリギリに成り立っているような空間性の追求、によって生まれることになった。これは、ニューマンというより、それ以降の話ではあるが。)
「分割される空間でも構築する空間でもない」一つの空間をもった絵画とは、モノクロームの絵画のように画面を単色によって塗り込めた作品を言うのではない。そのような作品を観るとき、我々はそれを壁にかけられたある色をした四角い形として認識する。つまり、白い壁という地の上の四角い図ということになり、それはカンバスの上に描かれた四角と認識の仕組みは何ら変わらない。だったら壁全体をある色で塗ってしまえば良いかと言えば、それだとたんに、色のついた「壁」になるに過ぎない。そこに作品=表現はない。
●ニューマンはこれを、「ジップ」と呼ばれる、画面を垂直に貫く線条=色帯によって実現する。だから実は、ニューマンの画面は「一つの空間」とは言っても、何本かのジップによって分割された色面からなっている。このジップという線条=色帯はまるで魔法のような効果をもつ。ジップによって、それぞれの色面は分割されると同時に分かちがたく結びつき、ただ一色で塗られた色面は活気を与えられ、情感を付与され、空間を生じさせられる。ジップはフレームの形態を作品内部で反復=反響させることで、作品の巨大さと相まって展示空間のなかでフレームの形態が際だって浮かび上がるのを和らげる。(しかし壁と同化はしない。)これらのことについて藤枝晃雄は次のように書く。【ジップと色面が画面のなかにあるのではなくて、画面という全体と結合している。これらの作品についてグリーンバーグは、絵それ自体がすべて額縁になっているとし、「絵の縁は内部で繰り返され、ただ反響される代わりに絵を形成する。」と述べている。この場合、ジップはモンドリアンのような線ではない。物理的には線であっても線には見えず、画面と一になって現前している。】例えば、ニューマンの最高傑作の一つであろう『英雄的にして崇高な人』という巨大な(2.32×5.42メートル)作品では、6本のジップによって画面が構成的とも言えるやり方で分割されているのだが【しかし、このようなことはイーゼルペインティングのように一気に捉えられるものではない。この作品と対峙したとき、この作品はジップの幅や色調の違いによるイリュージョンを感じさせず、それゆえ全体論的と見られるなかで、グーセンが言うようにそれぞれの場面で色を響かせる多様性をもたらす。とすれば、これは画面の枠を超えてひろがってゆくという常套的な見方では把握できない、ある限界のなかでの無限と言うことが出来るだろう。】つまり、巨大な作品に包み込まれている観者は、フレームの全体を確定的に把握することはなく、だからジップをフレームとの関係によって「構成的」なものとして把握しない。そこでは色彩が、フレームを確定出来ないようなある領域として目の前に広がっていて、そのなかで、今、視線が捉えているその部分がそのまま「全体=限定された無限」として「表現」となってしまうような作品なのだ、と言えるだろう。
●だがしかし、たとえ作品が「分割される空間でも構築する空間でもない」ものとしての「一つの空間」を出現させているとしても、その「一つの空間」を成立させるためには、最低限「一つの差異」つまりジップと色面という「二つのもの」が必要であったことを忘れてはならない。つまり空間とは既に一つの差異を含まなければ成立しないものである以上、「一つの空間」などあり得ないのではないだろうか。何より、我々がある作品を「作品」として認知するためには、「作品」と「それ以外(周囲の空間)」が分割されなければならないのではなかったか。例えば、ある趣味によって見事にインテリアの統一された部屋に入った時、まず最初に感じられるのはその趣味によって充たされた「ある一つの空間」の感触であって、カーペットと壁紙とカーテンの見事な調和だとか、それぞれの調度品の趣味の良さなどに目がいくのはその後になるだろう。しかし、これこそが「構成された空間」なのだ。この空間には、構成された「ある一つの空間」だけがあり「作品」がない。ここではまず、ある「部屋」というあらかじめ与えられた基底的な空間があり、その空間にある「効果」を出現させるための「プレゼンテーションの技術」によって「ある一つの空間」がつくられる。ここでは「ある一つの空間」はそのまま「環境」と等しいものとなる。(これこそがフリードがシアトリカルなものとして批判したものであり、「深夜の建設中の高速道路」である。つまり「作品」がないところにその代理物が自動的に充填されてしまう、ということだ。これを追求してゆくと、遊園地のアトラクションのようなものに行き着くしかないだろう。荒川修作?)しかし、ニューマンの作品は、美術館の空間=環境と一体化などしていない。ニューマンはアンビエントではない。むしろその作品は、空間=環境から屹立するように存在している。作品は、あらかじめ与えられた場所として「美術館の一画」を前提にしてつくられている訳ではないのだから当然だ。それは空間=環境からも、それを観る観者からも切断されている。もともと別のものとして切断されているからこそ、その後、じわじわとしみ出すように周囲に、そして観者へと作用してゆくことが出来るのではないだろうか。つまりここでも、ある切断=差異があることによって、はじめて「一つの全体性」ともいえる空間が立ち上がってくるのだ。
(つづく、)
02/08/24(土)
●『英雄的にして崇高なる人』というタイトルのつけ方(この「人」というのは当然「男」である訳だ)や、ジップが画面を垂直に貫く(立ちあがっている)ものであることなどから、ニューマンはファリックな画家だと言われもする。しかし、実際にニューマンという人がどういう人だったのかは知らないが、『英雄的にして崇高なる人』という作品においてジップは少しもファリックなものとして「感覚」されることはない。それは(取りあえずタイトルは別として)ごく素直に視線を向けるならば、ぼくにはマティスの「赤いスタジオ」のような室内画からの自然な展開であるように見える。『赤いスタジオ』と『英雄的にして崇高なる人』の二枚の図版を並べてみれば、似ているという感じが直感的に得られるのではないか。『赤いスタジオ』をかなりシンプルに整理すれば、『英雄的にして崇高なる人』になるように思える。藤枝晃雄が【(ジップによる分割ならざる分割は)イーゼルペインティングのように一気に捉えられるものではない。(....)この作品はジップの幅や色調の違いによるイリュージョンを感じさせず、(....)それぞれの場面で色を響かせる多様性をもたらす。とすれば、これは(...)ある限界のなかでの無限と言うことが出来るだろう。】と言う時の「一気に捉えられ」ることのない「ある限界のなかでの無限」とは、この巨大な作品のなかを視線が彷徨いながら、その都度、その都度で目に入った「今、観ている部分」が、そのまま全体と同等な表現(限定されたなかでの無限)となる、ということなのだとすれば、その「観ている部分」がそのまま「常に一つの全体」であるはずの空間は、実は、視線を動かし、焦点を移動し、あるいは身体=視点を移動するたびに、その都度新たに現れてくる無数の「別の表現」(藤枝氏の言う「多様性」)の折り重なりであり、それらは一つの空間であるどころか、無数の感覚与件へと分裂しているということになるのではないだろうか。「今観ている部分」が、フレーム全体との関係において「部分」を構成しているのならば(つまりこれこそが「構成的な空間」なのだが)、次々と新たな感覚として入力されてくる部分は、最終的に、全体によって統合されることが保証されている訳だが、今観ている部分が、フレームとの関係が未決定なまま、そのまま全体となるということは、その部分=全体は、次々と新たに与えられるばかりで、時間差をおいて次々に現れるそれら複数の感覚の間でどのような結びつきも保証されず分裂したままになる。全体を一気に捉えることが出来ず、その色彩に包み込まれるように視線を漂わせるしかない時、人は今見ているものの「正体」を確定することができず、まるで幽霊のような無数の「見た目」の分裂にみまわれる。そして「見た目」が分裂したままで統合される保証が見いだせないとき、それを観ている主体=視線も、見た目とともに無数に分裂してしまい、それを統合する根拠を見失う。実は、バーネット・ニューマンの作品を観るというのは、このような経験なのではないだろうか。
このように考えるとき、ニューマンはマティスとの親和性を露わにする。例えば、岡崎乾二郎がマティスについて書いている次のような事柄と、ぴったりと重なり合うと言えるだろう。【マティスの絵画は平面的というよりも、むしろ、すべての部分が同じ強さを要求する、その要求を満たすためだけに単純化されているようにも思える。】【マティスの絵のなかに見出される要素の全ては全体としてひとつの平面(プラン)に従属しているというよりは、複数の平面=対比関係に同時に従属している。したがって部分はそれぞれ独立したもののように、隣接しながらも同時にいつでも離反して感じられる。】【たとえば赤は一つの赤ではない。一色だけで赤が赤となるわけではない。青と同じ重さで釣り合う赤、ピンクやオレンジへと滲んでゆく赤、緑とひきあう赤、唯一黒と対抗できる濃度をもった赤、かように色彩とは様々なる連合作用であり、同じ一つの色であっても、こうして連合される組み合わせが異なるたびに(複数の組み合わせに一つの色が同時に属している)、異なる平面を生起し、視野の全体もまた塗り替えられる。】【視線を受け止めるべく設定されているはずの基底的な空間がマティスの画面には存在しない。視線は手ごたえもなくすり抜け、あるいはとどまる点もなく画面の上をただ水平に滑ってゆく。見いてる対象に対して自己の位置を確定できず、たしかに見ているのに、いったい何処からの視点によってそれが可能になっているのかわからない。視線はそんな不確実さ、不安に晒される。】(ルネサンス・経験の条件)次々と現れる新たな「像」の分裂が、最終的に統合されることを保証してくれる実体=基底的な場を得られないまま分裂をつづけるとき、主体も、自らが対応すべき世界=像の分裂とともにバラバラに分裂してゆくしかない。しかしそれでも、それらの分裂する無数の像に貫かれ、決して統合される場をもたないそれらの像を必至に組み立て、組み立て直そうとする働きが見出されるとき、くらくらとする目眩とともに、その時かろうじて人は「私」や「世界」の実在性を感じることが出来るのではないだろうか。
02/08/25(日)
●ぼくは昨日、ニューマンの作品について、次々に入力されてくる感覚的な経験(=像)が、それを最終的に受け止め、統合してくれるはずの「基底的な空間」(=フレーム)によって保証されず、つまりその像の「実体」をつかむことが出来ないままで無数に増殖してしまう、ということを<まるで幽霊のような無数の「見た目」の分裂>と書いたのだが、「幽霊」というのはまさにそのようなもので、普通に「現実的」に考えれば、そこにはいないはずの人や物が、「感覚的な経験」としては、確かに見えたり感じられたりしてしまう、ということだろう。それは、いわゆる「現実世界」のなかでの物理的な基盤を欠いた「知覚」であり、「正体」が知れない、現実との対応関係が「確定されない」ままに浮遊する「知覚」のことだと言える。(だから、その「正体の知れない何か」に、例えば「錯覚」だとか、あるいは「去年ここで事故死した女の子の霊」だとかいう説明で「意味」が充填され、そのような説明体系内部で確定された位置が与えられてしまえば、もはやそれは「幽霊」とは言えない。)人は、「物自体」を直接把握することは出来ず、先験的な感性の形式(空間と時間)によってそれを知ることが出来るだけだ。しかし、そのような形式には収まり切れない何かしらの「余剰」があるとすれば、形式は軋み、ノイズを発するだろう。だとしても、我々はそのノイズをもまた、空間や時間として解釈しなければ感覚することが出来ない。絵画は、手で触れればたんに平面でしかないにもかかわらず、そこに「空間」が感じられる訳だから、絵画空間とはまさに「幽霊」(=イリュージョン)であり、作品というのは、「幽霊」を発生させる、または捕獲する装置だとも言えるだろう。
霊能者と称される人々は、いわゆる現実世界のなかでの物理的な基盤を欠いた「ある感覚」に対して、何らかの意味を与え、ある体系内部に位置づける(例えば「これは守護霊であなたを守っているので心配ありません」とか「これは非常にたちの悪い霊で、人を憎んでいます」とか)ことで、人を納得させる。しかし、もともと物理的な基盤を欠いた、計測不能な「感覚」であるのだから、その霊能者の「判定」の根拠は、それぞれの霊能者の「霊能力」に求められるしかない。つまり証明不能で、ただ「立派な霊能者」の意見であるからという理由で、それを信じるしかない。これはまるで、「目利き」としての「批評家」みたいではないだろうか。この「作品」に高い価値があるのは、あの「偉い先生」の「眼力」によって価値が保証されているからだ、と。作品をいくら綿密に分析したとしても、それは「感覚」を基盤にしたものである以上、それを厳密に測定することは出来ず、価値は証明不能であるだろう。ただ、この作品から得られる「感覚」の「質」は、ほかのものとはあきらかに「違う」と言うことしか出来ない。だから彼らは、他人が異論を差し挟むことを許さないような強い「権力」の場を発生させるのと同時に、いつも「胡散臭さ」を完全に拭うことも出来ない。だが、彼らの「判定」は、決して検証されないという訳ではなく、いつも現実によって検証されている。ある霊能者が「この霊は良い霊なので心配ありません」と判定した人が、その後すぐに悲惨な事件に巻き込まれたり、ある目利きによって保証された作品が、後に贋作と分かったりした場合、その霊能者や目利きの信頼は失墜する。だから「霊能力」や「眼力」をインチキだと言うことは出来ない。しかし、それが常に「確定されないもの」を判定しようとするものであるかぎり、いつまでも胡散臭いものでありつづける。(胡散臭いものでなければならない。)

 デビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』
02/08/29(木)
●デビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』をビデオで。前々作の『ロスト・ハイウェイ』については、いくつかの断片的なイメージを憶えているだけで、どんな話だったか具体的にはあまり思い出せないのだが、確か途中で人物が入れ替わってしまうような、つまりA=Aというような自同律がずるずると崩壊してしまうような話だったはずで、『マルホランド・ドライブ』もそれと同じような話だと考えていいだろう。ただ、『マルホランド・ドライブ』はずいぶんとすっきり分かりやすく構造化されているように見える。リンチについては阿部和重が東浩紀との対談で明確に述べていることでほとんど語り尽くされてしまっているような感じがある。【リンチの目指すものは明白で、それは50年代から60年代頃のハリウッドの犯罪映画やB級映画の謎めいた雰囲気の再現なんだよね。(....)つまりその種のハリウッド映画が、リンチにとってトラウマになっているということだよね。リンチの場合、おそらくビデオとかを見て改めてチェックしないで、むしろ自分の記憶だけを頼りに再現しようとするから、ああいう変なことになるんじゃないのかな。】つまり、リンチも参照によって映画をつくる作家なのだが、いわゆるシネフィル系の作家と違うのは、参照を自分の記憶だけに求めて無理矢理作品を組み立てようとするから、別の記憶が混ざり込んで「変なこと」になるという訳だ。(自同律などよりも、記憶の手触りのようなものの方が重要だということだ。ある固有の映画作品の記憶ではなく、ある傾向、あるジャンルの作品たちの記憶が集合的に「ひと塊」となったものが問題であるとしたら、そこでは自同律は当然崩れるだろう。)だから、そのいかにもリンチ的な「変なこと」具合や「歪み」具合を楽しむことが出来れば、面白いと言えるし、そんなの退屈だと思えば、退屈な映画なのだ。『マルホランド・ドライブ』はハリウッドを舞台にした話だし、冒頭からいきなり「サンセット大通り」やリタ・ヘイワースの『ギルダ』のポスターが出てきて、登場人物がリタと名のったりするのだから、これはもうベタにマニアックな話だ。(これみよがしの映画的な「目配せ」に満ちている。)リンチにおいては、具体的な映画作品から受けた印象=記憶だけが元ネタなのではなく、「ハリウッド神話」みたいなものも含めて混然となった、ある雰囲気=記憶の手触りが再現されているということになる。虚構と現実が同等に同一平面上に存在し、互いに貫入するのがハリウッドであり、リンチの映画である、なんていうありがちな評言がそのまま当てはまってしまうような映画。
『マルホランド・ドライブ』は、リンチの映画として完成度は高いかもしれないが、「薄い」というか「希薄」な感じがしはしないだろうか。それはあまりに理路整然と読めてしまうからではないか。一度ザッと観ただけなので細部にまであまりつっこめないが、確かに、例えば様々な場面に同一のコーヒーカップが現れたり(しかし、同一のイメージ=姿をもった人物が複数の異なった人物として登場するのだから、複数の異なる場面に同一のイメージ=物があらわれたとしても、何ら不思議はない)、いろいろと怪しい人物が登場し怪しい行動をしたりして、過剰に「読み込む」ことを誘うような記号がちりばめてはあるが、それが結局はかなりの程度まで「読み説けて」しまいそうな構成になっている。この映画をべティ=カミーラを中心としたものとして見る限り、様々な細部による攪乱はあるものの、全体として、後半の展開がカミーラの「現実」であり、前半のべティの話はその過酷な現実から逃れるために紡ぎ出された「妄想」あるいは「幻想」だと読めてしまう。現実/幻想という安定した構造が成立してしまえば、その二つの世界の間で自同律が崩壊していようが、様々な矛盾する細部が共存していようが、多少説明のつかない「きもちわるい残余」があろうが、それらはみな安定した構造に吸い込まれ、安定した「読み」が可能になってしまうのだ。つまり『マルホランド・ドライブ』の世界では、自同律の崩壊は、乖離性同一性障害のようなかたちで「解」が与えられてしまうのだ。
映画が前半から後半へ移行してゆく時の媒介となるのが、ある劇場で行われている「口パク」のショーだ。進行役は、「ここにバンドはいない」「この演奏はあらかじめテープに録音されている」と言いながら、あたかも自らの指示でバンドを操っているかのような仕草をみせる。この後登場する「泣き女」と呼ばれる歌手は、歌いながら感情が高まり、感極まって失神してしまう。しかしこの歌も当然口パクであり、女が倒れた後も歌は何事もなく進行している。ここではあらゆる出来事があらかじめ「録音」され決定されているのだから、パフォーマーはただその音に縛られて動いているだけだし、その役を誰が演じようと大した変わりははなく、いくらでも交換可能だ。(あらかじめ自同律は崩壊している。)にもかかわらず、パフォーマーはあらかじめ録音されている「声」と同一化し、それを自らに固有のものだと信じ込み、感極まって失神すらするのだ。このような世界においては、現実と幻想の秩序だった構造など意味がないだろう。このシーンにこそリンチ的な「きもちわるさ」、自らが拠って立つところがいつの間にかぐずぐすになって崩れてしまうような感覚があらわれているように思う。しかし、映画全体の安定した構造が、それを殺してしまう。

  東京オペラシティーアートギャラリーでダグ・エイケン「ニューオーシャン展」
02/08/30(金)
●初台の東京オペラシティーアートギャラリーでダグ・エイケン/ニューオーシャン展。
●ダグ・エイケンは本当は明日からなのだが、オープニングレセプションに潜り込んだ。いわゆるビデオインスタレーションのような作品が、「オーソドックスな美意識」によって「高い造形性」を獲得した、というとき、そこでは媒介の媒介性は消失してしまい、媒介の「効果」だけが浮上することになる。感性を研ぎ澄ませて作品が生み出す「感覚」を受け取り、その受け取った感覚を組み立てて「ある認識」を構成するという、観客の側の主体的で知的な行為が生み出されるのではなく、ただ人を「催眠状態」へと誘うような装置がしつらえてあるという訳だ。だいたい、薄暗い室内、一定の単調なリズムを刻む音が流れ、プロジェクターにはチラチラと移りゆく映像がぼうっと浮かび上がっている、という、人の感覚をゆるやかに麻痺させ、催眠状態へと誘うような装置のなかでなければ、誰がこのように陳腐な意味で「美的」な映像をまともに眺めることが出来るのだろうか。(催眠状態になり、内省的になってゆくことで、むしろ周りを見なくなる。)もしこのような装置が、日々の生活の疲労から荒んだ人々を一時たちどまらせ、リラックス状態に誘い込み、それによってリフレッシュした人々に再び活力を与えようという意図によってつくられているとしたら、そのような装置にはそれはそれで重要な存在意義があるだろう。しかしそのようなものは「美術作品」とは呼べないし、「作品」と呼びうる実質的な「表現性」はどこにもないと言うべきだろう。アラスカの氷原に太陽が照り、氷が溶けだして亀裂の入るミシミミシッという音が響き、滴が垂れ、滴の垂れる音が響き、やがてそれが大きな流れになってゆく。確かにこれはこれで感動的な映像ではあるだろう。しかし、このような映像を、会場に設置された巨大なマルチプロジェクターで、何となくアートっぽく編集された状態で見せられたからどうだというのだろうか(「thaw」)。いや、それなりに良くできたもので心地よい体験ではある。出来ればテーブルと椅子があってコーヒーを飲みながらぼーっと別のことを考えていたりするといいかもしれない。360度のパノラマ状に設置されたプロジェクターに水の映像、例えば水面に雨が落ちている映像が上下逆に映しだされ、その上へと向かう水の動きに導かれて天井を見上げると、丸いプロジェクターがあって、水底で揺れている人影の映像(まるでエヴァンゲリオンのエンディングのように)があったりすると、重力がなくなり、ふわふわと浮遊しているような感覚にみまわれるだろう(「new ocean cycle」)。出来ればその部屋の中央にふかふかのベッドでもあって、小一時間でもウトウトしようものなら、とても気持ちがよいだろうと思う。しかしこれはそのような装置ではないし、ここはそのようなことが可能な場所でもない。
全般的にみて、ここで使用されている映像は、「水」も「大自然」も「都市」も、すべてがあまりに脱色され、透明化され、ただ「清涼」なイメージのみが強調されている。簡単に言ってしまえば清涼飲料水のCFのような表面的で薄っぺらなイメージだということだ。(過激に「薄っぺら」である訳でもない。)「new ocean floor」の都市と砂漠を横断するような映像(この展覧会の作品中最も物語性が強い)は、その一つ一つの映像も、それらの結びつけ方も、あまりに類型的で、昔観た学生のつくった「自主映画」みたいだし、「new ocean machind」のマルチプロジェクターによる「鉄棒」は、面白いと言えば面白いが、しかしただの「アイディア」以上のものとは思えない。これらの装置は完成度高くしっかり配置されているし、映像も趣味が良いとは言える。しかしそこには何の驚きもない。だから人はこれらの映像の前で簡単に「和む」ことが出来る。ただ「和む」ことが出来るだけで、それ以上のものは何もない。

  初台のICCで、ダムタイプ/ヴォヤージュ展を観る
02/09/04(水)
●初台のICCで、ダムタイプ/ヴォヤージュ展を観る。
●ダムタイプの高谷史郎+池田亮司によるインスタレーションは、とにかくかっこいい。ぼくはだいだいビデオインスタレーションのような形式に対して懐疑的である。しかしこの作品には納得させられざるを得ない。
例えば、8月30日の日記に書いたダグ・エイケンの作品などを観て思ったのだが、映像がある「物語性」をもち、一定の「ひとまとまりの時間」をもっていることと、観客が会場を自由に動き、すきな時間だけ作品の前にいることとの、時間的なズレを、作家はどう考えているのだろうか、また、観客はどのように処理しているのだろうか。映画のように、暗闇で皆が一斉に席に着き、さあ始めますよ、と上映されるのでもなく、ビデオのように好きな時に家で観るのとも違う、ある特定の空間上に設定された装置の上に展開される映像の起承転結を、その映像自体のもつ時間性に観客が合わせて観なければならないとしたら、それは劇場のスクリーンに上映される映像作品とどう違うのだろうか。勿論、このズレをこそ積極的に作品化することも出来るのだが、ダグ・エイケンの場合はそれを曖昧に誤魔化している。もう一つ、それとも関係してくるのだが、インスタレーションであるのだから、ある装置が組まれ、そこに映像が投影される訳だが、そこで「装置」の方が主で「映像」はその一部分として使用されているのか、あるいは「映像」の効果のために「装置」が設定されているのか、が、ダグ・エイケンの作品では曖昧で、よく分からない。ダムタイプの「ヴォヤージュ」には、そのような曖昧さ、分かり難さはなく、明快である。この作品における映像の推移は、物語性とは関係のないものだから、観客は作品の強要するひとつのループ(単位時間)とは無関係に作品に対することが出来るし、「映像」と「装置」はまさに分かち難く結びついていて、ひとつの作品を形成している。
壁の、腰よりやや高いくらいの位置に投影されている赤いレーザー光線以外は何も見えない真っ暗な闇のなかへ入って行くと、広い展示場の中央の床にぽつんと、細長いスクリーンが設置されている。そこに、互いに関連性を見つけだすことの出来ないいくつかの断片的な風景が投影され、動く歩道のように、一定のスピードで同じ方向に映像が移動してゆく。風景の映像とは別に、丸く縁取られた、カーナビのような、飛行機のレーダーのような映像が二つ(一方は微妙にピントがボケている)あって、風景映像とは違う動き方で移動し、時にはその二つの映像が重なったりする。そこに池田亮司による単調に反復する(だが研ぎ澄まされた)音と、おそらくプロジェクターが移動する時に発するノイズだと思われる「ギギギギッ」と軋む音がたっている。観客は、その動く歩道のようなスクリーンの上に乗って移動する映像を見ることも、スクリーンから降りて、やや離れた場所から、スクリーンとそこに乗って作品を観ている観客の姿を見る(この時、作品を観ている観客も作品の一部となる)ことも出来る。言ってみればただこれだけの、ごくシンプルな作品だ。
この作品のかっこよさの核心は、どのような背景も背負って(背景に頼って)いないことの潔さのようなものにあると思う。スクリーンに投影されるいくつかの映像(港のコンテナとコンクリートで舗装された地面、草原と大きな木、枯れ葉で埋め尽くされた地面、等々)は、どこまでも意味も背景も欠いた断片でありつづけ、映像同士の関連も物語を生み出さない。美術史からの観照、あるいは現実の歴史や現代的な問題などを想起させるものはなく、個人的なノスタルジーを誘うようなものでもない。よってどのような記憶もなく「厚み」も「深み」もない断片としての映像は、ただその映像自身のテクスチャーのみを、非常に高い精度で浮かび上がらせるだけだ。(例えばゴダールの『映画史』を、映画史やヨーロッパの歴史と現状などに関する知識を全く欠いた状態で観たとするならば、そこに浮かび上がるのは映像と映像との強くて、高い精度によるぶつけ合わせによって生じる「あるテクスチャー」であるだろう。それと似たような感触と言えばよいだろうか。)これら、移動しながら走査線によって徐々に分断されてゆくような映像そのものの、乾いていて硬質なテクスチャーが、それを観ている観客に次々と襲いかかってきては、跡形もなく消えて行く。だからここでの旅(voyages)とは、全く抽象的で具体的な場所を持たないような移動のことだ。(物質的でも直示的でも演劇的でもない「抽象性」...フリード?)おそらくこの作品にはどのような「意味」もない。(勿論、無理矢理に意味を読み込むことは出来るが。)徹底して「薄っぺら」であり、どのような「落ち着くべき宛先」もない断片としての映像が紡ぎ出す抽象的な「移動」の体験を発生させる装置。つまりは、とても「カッコイイ」ということか。

  ワタリウム美術館のカールステン・ニコライ展
02/09/05(木)
●昨日観たワタリウム美術館のカールステン・ニコライ展は、クラゲとか霧箱とかを見ているのは面白く、いくら見ていても飽きないのだが、こういう作品をコンセプチュアルなものとして、あまり真面目に、カオスだの複雑系だの言って見てもしょうがないように思う。一見、ただ原理的なものだけを禁欲的に、ミニマルに追求しているように見えて、実はそのような追求はそんなに厳密なものでもないように思える。もっと単純な子供っぽい感覚で、ただ面白そうなものに無節操に飛びついているだけな訳で、その「面白いもの」を嗅ぎ分ける時の感覚が、独特のユーモラスな柔らかさと、(どこかへっぽこ感の漂う決め過ぎない)センスの良さとを持っていて、それがいい感じに「脱力した」ような面白さを生み出しているように思う。確かに、科学的なものや数学的なものに対する関心は強く感じられるのだが、それにしたって、どちらかと言うと科学的、数学的という「イメージ」という側面が強く、例えば「実験室」とか「数式」とか「図形」とか「ホワイトノイズ」とか、そういうものに対するフェティッシュな愛好というものの方が主なのではないだろうか。これは別に批判的に言っているのではなくて、このようなインチキ臭さ、しかし完全にインチキな訳ではなく、どっちつかずの何とも微妙な胡散臭さこそが、このアーティストの魅力なのではないだろうか。(このようなコンセプトを本気で追求しても、あまり面白いことにはならない気がする。)個人的には、「realistic」という作品の、ごつい形態のレコーダー内でループしているか細い磁気テープの、何ともへなへなした物質感に妙に「テクノ」を感じたのでした。

  吉田修一の『パーク・ライフ』についてぼくは否定的です。
02/09/07(土)
●吉田修一の芥川賞受賞作『パーク・ライフ』を読んだ。吉田氏ははじめからとても上手なな作家で、デビュー作の『最後の息子』はあからさまに技巧的に凝った作品でありながら、しかしその技巧ばかりが浮き上がるのではなく、それぞれの登場人物の人物像のようなものが鮮やかに浮かび上がっているところが良かったと思うのだが、『パーク・ライフ』では、一見あからさまな技巧は後退して、「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない」(村上龍)という微妙な雰囲気だけで勝負しているように見えて、しかし実は一つ一つのピースが少しの無駄もなく全体に奉仕するように配置されていて、つまり技巧を技巧と見せないような巧みな技巧が張り巡らしてあり、ぼくには逆にそれが妙に鼻につく感じがしてしまった。策師、策に溺れる、と言えばいいのか。確かに、一つ一つの細部は巧みにつくられ、巧みに配置されてはいるのだが、しかしそれらははじめからパズルの一片として相応しいという程度に過不足なくつくり込まれているに過ぎず、はっと息を飲むような鮮やかな細部とかがある訳ではないし(主人公の男が地下鉄のなかでいきなり女に話しかけてしまうシーンの「いきなり」さは素晴らしいと思うけど)、かと言って一分の隙もない精密機械のような精度があるという訳でもない。(それぞれの細部のイメージの精度が、はじめから「平均点よりやや上」くらいのところに設定されている感じ。)このまま吉田氏が、日常生活の何気ない出来事(ちょっといい話)を、一見さらりと、しかし超絶的な技巧で描く、というような作家になってしまうとしたら詰まらない。吉田氏はとても才能のある作家だと思うのに、もう少し「志を高く」持ったりしはないのだろうか。
吉田氏は、小説を、詰まらない意味で「小説的」に纏めてしまうというところがあって、『パーク・ライフ』でも、小さな赤い気球という装置と、冒頭から頻出する、有機的ではない分断され対象化された身体のイメージ(臓器移植、人体解剖図、フィットネスクラブでイメージされる血塗れの腹筋、人体模型)と、日比谷公園という舞台空間との三つが、小説のしかるべきところで、上昇し俯瞰する構図によって、まあ、見事と言えば見事なやり方で重なり合ってしまったりするのを読むと、「こんな風にまとめちゃうの!」と少し引き気味になってしまう。(それから、登場人物に「名セリフ」ような言葉を言わせるのもどうなんだろうか、と思う。)こういう「まとめ方」を見せられると、別居中の夫婦、一人で息子の家へ尋ねてくる母親、苦手であり好きでもある先輩との関係、昔ふられたことを10年以上も引きずっている女の結婚、そして地下鉄で出会った女との微妙な関係、などに関する一つ一つのエピソードも、何だかはじめから全体を上手くまとめるためだけにつくられたものに見えてきてしまい、骨組みだけの痩せて薄っぺらなものに思えてきてしまうではないか。(あと、主人公であり話者でもある「ぼく」という人物がいまいち明確な像を結ばないのも、説得力に欠ける原因ではないか。一人称の話者というのは受動的な存在であることによって話者=記述者たりえるという部分があるので、どうしてもある程度ニュートラルな存在となるのだろうけど、あらゆる関係において受け身であるとしても、少なくとも「地下鉄で出会った女」との関係においては、何かしらの明確な像が、ある人物固有の「臭い」のようなものが出てこないと、「恋愛がはじまるかもしれない」という雰囲気がリアルなものにならないように思う。)
確かに技巧が鼻につく感じがあるものの、ぼくはこの小説(小説家)が嫌いな訳ではない。勿論、ぼくは別に技巧が悪いと言っているのでもない。技巧抜きに作品があり得る訳はない。この小説(小説家)に足りないのは多分、それぞれには才気や趣味の良さを感じさせるエピソードやイメージに、もうあとほんの僅かの説得力や厚みや精度を与えるためのちょっとした「粘り」であり「志の高さ」なのだと思う。あるいは「小説という装置」が「その外側」に対して持つべき緊張感が足りない、と言うべきか。全てがあまりにも「小説っぽく」収まり過ぎているように感じる。このままこういう方向で上手くなっていっちゃうのはやばいんじゃないだろうか。

  小さくて映りも悪いテレビで『セプテンバー11』を観ていた
02/09/12(木)
●昨日の夜中は、出先の小さくて映りも悪いテレビで『セプテンバー11』を観ていた。(その時の状況から、全ての部分を集中して観られたという訳ではない。)あの事件は、やはりテレビカメラの前で起こったという事が決定的に大きくて、あの映像の絶大な効果を背景として、ある種の人たちは自分の好き放題を通すため恰好の材料としてそれを利用し、ある種の人たちはあきらかに正気をうしなっていった。あの事件の後、ひしひしと身に迫るように感じられた恐怖は、勿論テロに対する恐怖などではなく、あまりに白痴的に、馬鹿馬鹿しいくらいにあっさりと偏ってしまう報道や、アメリカの世論の信じがたい高揚にあった。映像の効果が、ある集団的な「空気」をつくりだし、それをあっという間に広範囲に伝染させる。ニューヨークに住み、ごく身近な事柄として事件に遭遇した人ならともかく、たんにテレビのモニターによって知り得ただけの事件に対して、人は何故かくも簡単に正気を失ってしまうのだろうか。(事件の衝撃を忘れてしまうぐらいにたくさんの「嫌なもの」を事件後に見せられた。)事実として、あの事件が実際に多くの人々の命を奪ったということは当然重要なことだが、それだけでなく、あの事件がなにより映像の問題であり、映像の「効果」の使用法の問題であり、メディアによる映像の配信の問題であることは疑いがない。だからこそ、あの事件に関する「別の映像」が無数につくられなければならないし、それが多くの人に観られなければならない。「9・11」が映画にとって重要な主題であるのは、そのような意味においてだ。
興味深かったのは、サミラ・マフマルバフ、ケン・ローチ、そしてショーン・ペンの作品。アモス・ギタイも良かったけど、あまりに「シネフィル」的過ぎないだろうかと思った。サミラ・マフマルバフの作品は、単純に映画として文句無く素晴らしい。イランの難民キャンプ。米軍の攻撃に備えて、手で土をこねてシェルターをつくる子供たちの、「今、ここ」という限定された世界との瑞々しい交感と、しかしそれだけでは決して捉えることの出来ない「世界の現実」との一瞬の交錯。ケン・ローチの作品は、いかにも「左翼」的な、何のひねりもないストレートなもの。『セプテンバー11』では、多くの映画作家が「9・11」を、突発的に起きた特権的な「アメリカの悲劇」とすることなく、現在の世界で起きている様々な出来事の一つであり、世界史のなかで無数に繰り返されている悲劇の一つである、という相対化、複数化を試みている(ダニス・タノヴィッチの作品なども、その一つとしてとても美しいものだった)が、ケン・ローチ編はそのもっとも明快でストレートなもの。ニューヨークの2001年の9月11日と、チリの1973年9月11日を重ね合わせる。民主的な選挙によって成立したチリの共産党政権を危惧したアメリカがこれに介入し、CIAによる工作で軍事クーデターを起こさせ、73年9月11日にアンジェデ大統領は死亡、共産党政権は崩壊する。2001年も1973年も、9月11日は「火曜日」であった。そしてこの二つの事件=悲劇が、ブッシュの言葉「自由の敵(アメリカ=テロリスト)によって攻撃を受けた日」として、アイロニカルに、悲痛に重ね合わされる。現在ロンドン在住のチリ人男性によって、あなたがたにとっては1周年、わたしにとっては29周年の「その日」がやってくる、と語りかけられる。(解説の筑紫哲也がこのチリの事件に触れ、この時自分は特派員としてチリにいたが、この事件で少なく見積もっても貿易センタービルでの死者の10倍以上の人が死んだ、と言っていた。)ショーン・ペンの作品は、この映画のなかで最も感動的なものと言って良いと思う。アメリカ的な演出、アメリカ的な物語による、アメリカへの批判であると同時に、たんにそれだけにとどまらない、それ自体として圧倒的に素晴らしい傑作。亡き妻の幻影とともに暮らす孤独な老人の日の当たらない部屋に、日の光を遮っていた貿易センタービルが崩壊することで光が差し込み、枯れていた鉢植えの花が開く。その光を浴びて歓喜につつまれる老人は、しかしまた、その光によって自らの生活の幻影性にも気付かずにはいられない。(それに比べて、この後に続く今村の映画、あれは一体何なのだろうか。)

  中垣直美のペインティング
02/09/13(金)
●青山と銀座の画廊を回って、何人かの知り合いを含めた幾つかの展覧会を観た。
面白かったのは、何の予備知識もなく、たまたま前を通りかかったので寄ってみたギャラリー21+葉でやっていた中垣直美という人のペインティングだった(14日まで)。骨組みである木枠が透けて見えるような非常に薄い布地が張られたカンバスに、主にその布の地の色に合わせた黄色系統のグレーによって、ややぎこちなく、希薄な感じで室内の風景が、微妙に外した構図で描かれている。同じ構図で、微妙に描写の濃度の異なる絵が3点づつ2種類、計6点と、ペイントされた枕カバー(絵のなかにはベットと枕も描かれている)が展示されている。絵の具が薄く載せられているだけなので、完成された状態でも、布地の下の組んである木枠は透けている。布の地の色と同系色でうっすら、ぎこちない調子で描かれた図像は、かげろうのように希薄な存在感で布地の物質感のなかに消え入りそうでもあり、しかし、その布地の方も薄くて下の木枠が透けていることから、今度は布地が希薄に感じられて絵の具のついている図像の部分が浮かび上がるようでもあり、構図の奇妙な座りの悪さも手伝って、全体にぼうっとした光に包まれたような掴み所のない不思議な存在感をつくりだしている。さらに、同一の図像が異なる濃度で3枚づつ反復されており、それらのどの絵のなかにも印象的な肌触りをもって描き込まれている布(枕カバーやシーツ、カーテン)の質感が、現実の物体として現れ、支持体に使用され、ペイントされて展示されていることから、さらに知覚は軽い混乱を生じる。しかしこれらの混乱は皆、非常に繊細な感性の閾内で制御されているので、全体からあるひとつの感覚の質のようなものが浮かびあがる。その「感覚」は、いまどきの絵画としてはありがちなものではあるのだが、ありがちではあっても、ある一定の質の高さを獲得しているように思えた。

  なんだかわからなくなる場所で頓挫しよう/丹生谷貴志
02/09/13(金)
●帰り道の電車のなかで、河出から出ている中上健次のムック本の、丹生谷貴志・渡部直己の対談を読んでいて、丹生谷氏の鬼気迫る迫力に圧倒される。「もういいさ、なんでも、書かれないよりは書かれた方がいいんで、傑作も駄作もない、小説は書かれねばならないってね、そこでともかく小説っていうわけのわかんない無益なものがなお存在してしまうってことでいいんじゃないかな.....」「いや皮肉じゃなくてさ。それ以外ぼくはわからないよ....」「誰が何人読み反応するかなんて人口幻想.....ファッショの幻想だよ」「だから小説というそれ自体隔離された空間ができる政治性は言葉にまつわる本質的な「披差別」を肌着の汗ばんだ眩暈みたいに現前させるしかないんじゃないかな。虚しいなんて知ったことじゃなくね。」「だからフーコーが『監獄の誕生』を書き上げたっていうか、突然中断したみたいに、問いと答えを程よく提起するんじゃなくて、お互いが何がなんだかわからなくなる場所で頓挫しようと......頓挫がぼくらの場所で......小説や映画であって、まあ、中上健次でもあるんだっていやあできすぎかな......。」「結局なんだかわからない様に書くっていうか、どうしていいかわからないことがここだ、と、そんなかたちで......それがわくわくするような場所なんだと.....。」
傑作も駄作もない、何がなんだかよくわからない無益なものの存在が重要だ、虚しいなんて知ったことじゃない、どうしていいかわからないことがここだ、この場所で、お互いが何がなんだかわからなくなる場所で頓挫しよう、.頓挫がぼくらの場所で、それがわくわくするようなことなのだ、と。このような、それ自体としてはとても力強く(やけっぱちで)感動的な言葉たちは、しかし、それを実践するためには、さらに力強い言葉を必要とするのではないだろうか。例えば、上記の丹生谷氏の発言を、1984年に出版された「風の薔薇3・シュポール/シュルファス」に掲載された『現実について』という岡崎乾二郎のさらに力強い言葉で補強すること。
「現実とは、いかなる連想も概念も排除したときに現れるのではなく、逆にどんな唐突な連想も受けつけることによって現実であるのだ。ありのままの現実とは決してありのままではない。アリでもイノキでもキリギリスでもあるという、あらゆる妄想を受け入れることによってそうなのである。」「誰でもが、そのような妄想をもてるわけではなく、徹底的な訓練と意志がアリやイノキを出現させるのだ。ただ石や木の塊を眺めていてはいけない。徹底的に彫りつくそうと思ったとき、ひょっこりと異様なものが顔を出すのである。」「美術史や美術館の力を過剰に受けとってはいけない。美術館に回収されてしまったものは、セザンヌやマチスがそうしたように、美術館へ行きさえすれば、奪回できる。だが容易にというわけではない。美術館はチャンスは与えるが能力をためす。」
傑作も駄作もない、何がなんだかよくわからない無益なものの存在が重要だ、何がなんだかよくわからない場所で頓挫しよう、しかし、「何がなんだかよくわからない場所」にそう簡単に耐えられる訳ではない。人はだいたい適当な「意味のある」の場所で頓挫するものだ。だからそれには徹底した訓練と意志が必要である。現実は「チャンスは与えるが能力をためす。」

  M・ナイト・シャマランの『アンブレイカブル』
02/09/18(水)
●今頃になってようやくDVDで『アンブレイカブル』を観る。頭がいまひとつ冴えないせいもあるかもしれないが、何とも捉えどころのない不思議な映画で、見終わった後の感触がひどく収まりが悪い。この気持ちの悪い感触は、例えばデビット・リンチなどとは比べものにならないくらいだ。(ぼくにはリンチはいわゆる「個性的な映画作家」にしかみえない。)簡単に言えば、物語的な意味での題材と、個々のシーンのつくりや物語の運びなどの演出とが、どう考えてもしっくりとは一致していなくて、だから映画を観ながら、この映画が何処に行こうとしているのかがいつまで経ってもさっぱり掴めず、「軸」が一体何処にあるのかが常にふらふらとぶれているような感じがつづいていて、不透明で見通しの利かない、肌にべったりと貼りついてくる霧のなかを彷徨っているうちに車酔いになってしまうような感じなのだ。物語が難解だということは全くなく、終わってみればそれなりに「おお」というようなオチのある、良くできた、しかし思いっきりB級な話なのに、個々のシーンでは俳優たちがじっくりと演技をみせるような重厚なつくりになっていて、シーンに流れる時間はとてもゆったりとした流れなのだが、しかし物語の展開は省略を多様したスピーディーなものだったりする。何故、あからさまにアメリカンコミックを題材としたようなチープな話なのに、ブルース・ウィリスを中心とした、その妻や子供との関係、職場での使命感のようなもの(アメリカ的な「男」のリアルに姿)が、まるで文芸作品のような重厚なタッチでじっくりと描かれなくてはならないのか。しかもそれが浅はかな描写などではなく、かなり立派なものとしてつくられているのだからなおさら分からなくなる。何故このようなアメリカ的なホームドラマが、そのまま何の媒介も経ることなしに(まるで『バットマン』のような)「正義のヒーロー」の話に結びついてしまうのだろうか。ブルース・ウィリスが初めて「正義のヒーロー」としての仕事をした翌朝、起きてきた子供に向かって自分の活躍を告げる新聞の記事を示しながら、おまえは正しかったんだとか何とか言いながらウンウンとうなずいて見せるシーンでは、その二つの乖離が最も大きなものとなり、「思わずジーンとくる」と「失笑してしまう」という二つの反応が混じり合うことなく同時に生起してきて、居心地の悪さは頂点に達する。まるで、安定した実力を持つホームドラマの作家が、会社から無理矢理資質に合わない企画をやらされたかのような「歪み」がみられるのだ。これは、例えば『バットマン・リターンズ』のティム・バートンのようなあからさまにポストモダンな(分かりやすい)「歪み」とはまた別種の「歪み」と言うか、混じり合うことのない異質なもの同士が、何の媒介もなく短絡されているのだが、短絡されている場所にあるべき亀裂がよく分からずに何となく滑らかに繋がっているように見えることから生じる「歪み」、とでも言うべきもので、もしかしたら「濁り」と言った方が良いかもしれない。この気持ち悪さ、収まりの悪さはとても興味深いものだと思える。M・ナイト・シャマランという監督は、物語を語るのが上手なのか下手なのかさっぱり分からない。と言うか、「物語」というものを制御する超越的な審級がどこか壊れている(壊れざるを得ないような現実に晒されながら作品をつくっている)という部分が面白いのだろう。

  DVDで『シックス・センス』(M・ナイト・シャマラン)を観た
02/09/21(土)
●この映画も『アンブレイカブル』と同様、ジャンル物の映画としてみた場合には構成のバランスを著しく逸脱している。『アンブレイカブル』が、主人公が自らをヒーローだと自覚するまでの課程を時間をかけて執拗に描いていて、ヒーローとして活躍する事件は申し訳程度にたった一件描かれているだけなのと同様、『シックス・センス』も、少年が実は幽霊を見ているということが明らかになるまでずいぶん時間がかかるし、霊能者として活躍はたった一件しか示されていない。だから『アンブレイカブル』がヒーロー物とは単純には言えないように『シックス・センス』もゴースト物とは単純には言えない。『シックス・センス』は、そのかなりの部分までが、主人公の少年が本当に(?)幽霊を見ているのか、たんに病気なのか、どちらか分からないものとして観られるし、それを区別することに本質的な意味はないような映画として進行する。(ホラーとしても観られるし医師と患者との関係を描く闘病物としても観られる。)ここで問題なのは、ある人には明確に見えているものが、他の人にはまったく見えていない、という解消不能の差異と言うか非対称性であり、非対称的であるがゆえに孤独であるしかない生の営みであり、非対称性が生み出す様々な軋轢であり、解消不能な差異があるにもかかわらず(むしろその差異によってこそ)可能であるようなある関係=交換のあり方あるだろう。この映画に仕掛けられた、非常に良くできた「謎」(どんでん返し)が鮮やかに示しているのは、一つの視点からは決して全体を見渡すことの出来ない不透明な世界において、互いに観ることも触れることも出来ないままに折り重なって共存する複数の(それぞれに孤独な)存在の姿であり、しかし実はそれらは(誰にも意識されたり、告げ知らされたりしまいままに)様々な場所でニアミス的な接触=触発を起こしているのだということだろう。(『シックス・センス』をゴースト物のホラーとして観た場合に興味深いのは、場所に対する意識の低さであると思う。例えば、少年は自分の家に自らを幽霊から守るための結界のような赤いテントをつくっているのだが、説話的にも演出的にもそれはほとんど機能していない。普通、結界があり、それが侵される、というのはサスペンスをつくる絶好の装置な筈なのに、幽霊はそんなことおかまいなしにいきなり結界のなかに現れてしまう。つまり幽霊は人間が設定した空間上の境界など全く無関係に、そこいらじゅうにゴロゴロと居るのだ。結界やお札や呪文のような、人間世界の決まり事を一方的に幽霊にも押しつけてしまうような、通俗的なホラーとは違っている感覚が面白い。)

 小林良一のペインティングと、色彩の「質」
02/09/19(木)
●京橋のhino galleryで、小林良一・展(9/17〜10/5)を観る。小林さん(知り合いなのでこういう書き方をします)が、自分の作品、あるいは自分の作品を作り上げて行くシステムに揺さぶりをかけようとしているのは分かるのだけど、ただ、小林さんの作品が、じっくりと練り上げられた絵具=色彩=空間というものに支えられることなく成立することは出来ない、ということは小林さん自身が一番良く知っていることなのではないだろうか。(藤枝晃雄が、小林良一は例外的に「絵具を使える」画家なのだ、と書いたことは決定的に正しい。小林良一を「よくいるこういうタイプの画家」から隔てているのは、絵具=色彩=空間の圧倒的な質の高さなのだ。)その基本的なところを外してしまって、表面的な部分でいくら作品の外観を動かしたとしても、それでは何も「揺さぶった」ことにはならないのじゃないだろうか。今時、こんなオーソドックスな「絵画」なんか面白くも何ともない、というようなことを言う奴がたくさんいることは事実だけど、そんな奴らには、そうだとしても、今これだけ立派な「絵画」を描ける奴が自分以外に世界じゅうで何人いると思っているんだ、と堂々と言い切って突っ走ってしまえばいいのではないだろうか。単純な話、もっとじっくりと腰を据えて描けばいいのに、と思ってしまう。どうせ美術なんて、そんなに多くの人を動かすような力なんてないのだし、また、誰でもが簡単に理解できるようなものでもない。まともな批評だって皆無と言っていい。だからこそ生半可なことをやって中途半端にうけたって意味なんかない。94年頃の飛躍的な進展以降の小林さんの作品が、(個々の作品は、良かったり、いまいちだったりしながらも)いまひとつ停滞しているように見えてしまうのは、小林さんが、どうしても逃れがたいものとして存在してしまっている「自分自身の資質」というものに対して、本格的に腰を据えて格闘することを避けているからのように思えてしまう。何か凄く偉そうなことを書いてしまっているけど、要は、もっと愚直にしっかりと描いてくださいよ、こんな描きかけみたいな作品をみせないで下さいよ、ということなのだ。(しかし、とは言っても、今回の展示で何点かみられた、一見求心的に見えて、実は中心に向かって行こうとする視線をうち砕くように散乱させる図像=構造は、今までの小林さんの比較的安定した画面の構造とは異なってダイナミックな動きを作り出してしており、今後、この方向で展開する余地があるように思えて面白かった。今までの小林さんの画面のなかでの独自な「赤」の機能のさせ方と、ちょっと異質な「赤」の使い方の兆しがみられるようにも感じられた。)
02/09/20(金)
●昨日の日記に「絵具=色彩=空間の質」ということを書いた。これは、物質としての絵具、色彩の質、そこから感じられる空間的な感覚のそれぞれが、そのなかの一つだけを切り離して取り上げることが出来ない(そうすることに意味がない)くらいに分かち難く結びついて、ある独自の「感覚」が練り上げられ作り上げられている状態を言う。その時、ある「感覚」が実現されていると言っても、それは客観的にということではないだろう。実際に目の前にあるのは、混ぜ合わされた絵具が張られた布に塗りつけられている物でしかないからだ。だからその「感覚」は、それを観ている人の頭のなかにしかない。しかし、だからと言ってそれは恣意的な、観者の主観的な印象というのとは違う。その「感覚」は、ただそれを発生させる作品を観ている時にだけ現れているもので、その作品から離れると、もう正確には再現出来ないようなものだからだ。つまり、ある固有の作品のみが、その固有の「感覚」を発生させることが出来る。作品とは、それを観ている間にだけ、観るという行為を通してだけ、ある固有の感覚をまるで幽霊のように発生させる装置としてある。(当然のことだが、Aという人がXという作品を観てその頭のなかに発生させたaという感覚と、Bという人が同じXという作品から受け取ったbいう感覚、aとbを、直接的に比較したり交換したりすることは出来ない。それをするためには、AとBそれぞれがXという作品について思考し分析し、それを言葉にして、その言葉を比較し交換することによって辛うじて可能となるのみだ。その時、Xという作品が思考するに足りるものであるかどうかは、ただA、Bそれぞれの人物の孤独な生のなかでの「感覚の質」によって判断されるしかないだろう。)
だが、人は誰でもが「幽霊」を観てしまう訳ではないのと同様、誰でもが作品から「感覚」を発生させられる訳ではない。そこには訓練と言うか、チューニングのようなものが必要になる。例えば岡崎乾二郎は次のように書く。
【それ(バーチャルリアリティ)は、人間の知覚行為、その生理学的自然に即応した画像再現技術なのではなく、むしろ反対に、その画像技術を構成している論理、その関数的構造に、人間の行為をより的確に同調させるために人の知覚を拘束し矯正する装置である。つまりインタラクティブでフレキシビリティのあるのは人間の知覚の方であり、ゆえにすべての装置は訓練を必要とし、また、それが可能なのである。】
どのような装置も「素」のままでは作動しない。(と言うか、どのような装置とも無関係にある「素」などというものはない。)幽霊をみるためには、訓練し、矯正し、チューニングしなければならない。つまり、チューニングを的確に行う(あるいは的確にチューニングからズレる)ことの出来る、感覚の可塑的なやわらかさ、感覚的な運動神経(あるいは極度の運動神経の鈍さ)こそが、観者=見者、あるいは霊媒師としての資質なのだ、ということになる。勿論、幽霊は「作品」というような人工的な制作物からだけ発生する訳ではない。実際、世界には幽霊が溢れ、幽霊によって埋め尽くされている。作品はそれを捕獲し、感覚=幽霊が反復して現れることを可能にさせる。【芸術とは何かを保存するものであり、しかも保存されるこの世で唯一のものである。】(ドゥルーズ)

  岡崎作品が岡崎理論に回収されてしまうことの危険について
02/09/23(月)
●この日記にしばしば名前が挙がる岡崎乾二郎(と言うか、「困った時の岡崎頼み」みたいにして名前出しすぎなのだが)の大規模な展覧会が軽井沢のセゾン現代美術館でやっていて、出来れば来週の後半あたりに時間をつくって行こうと思っていて、その予習として『ルネサンス・経験の条件』を読み返している。
この本で執拗に繰り返されているのは、まず、我々の感覚が、互いに矛盾し共存しえないような諸部分に分裂しつつ常に新たに生成されつづけていることの指摘であり、だから、ある中心点(透視図法の消失点、ホモフォニーにおける終止音、建築物の理念を代表し一望のもとに示すファザード、理想化された観客の視点、等々)を設定することによって分離した諸部分を統合しようとすることに対する批判(と言うか、その不可能性の指摘)である。ある中心を前提とするということは、それを中心とするためのフレームを前提とすることに他ならない。だが、例えば『グラッソ物語』の分析において示されているのは、そのようなフレームとしての自己同一性が、実は先験的なものでも基底的なものでもなく交換可能なものでしかない、と言うことだった。(限定された内部での人間関係によって与えられているものに過ぎない、ということ。)しかし、岡崎氏の指摘はただそのような錯乱(あるいは「社会的空間」による相対化)を示しているだけではない。グラッソがマッテオにかわろうが、マッテオがグラッソにかわろうが、そこにはグラッソでもマッテオでもない、ある共通した「自覚」のようなものがあり、そのどこにも場所をもたない自覚(つまり「他者と共有できないどころか、それに対応するいかなる外的対称ももたない経験」の発生)こそが、思惟する「人間」であり、(柄谷行人の言うような「働き」としてのみあるものとしての)超越論的統覚Xであるという訳だ。芸術作品においても、つねに複数に分裂してしまう感覚与件に何かしらの統一された秩序を与えるのは、あるフレームによって可能になった中心、その中心によって秩序化され配置された諸部分の調和ではなく、常に分裂しつづけるそれぞれの部分に、しかしそれでも共通して感じられるあるリズムのようなもの、つまり「比例関係」だということになる。バラバラに分裂している細部を統合することは、強力な磁力をもった中心を設定することではなく、それぞれの細部に共通した「比例関係」を発見することによって可能なのだ。ブルネレスキがサンタ・マリア大聖堂の美しいドームを設計することが出来たのも、ブランカッチ礼拝堂の壁画が、複数の異なる様式を持った異なる世代の画家たちによるコラボレーションを可能にしたのも、あるフレームを前提とした全体の調和によってではなく、比例関係に基づく分裂生成的な原理によって制作されたからだ、と。この言い方をもっと押し進めると、ある一つの作品は、それ自体として完成されたものではなく、ある(「比例関係」的な)原理がまずあって(これは「潜在性」の次元と言い換えることも可能だろう)、個々の作品はその一つの切断面として顔を表したものに過ぎないということになろう。だからこそ「作品」は、空間も、時間の不可逆性をも越えうるのだ、と。これはとても魅力的な考え方なのだが、しかし、言い換えれば、神は一望のもとに全世界を見下ろしているのではなくて、どのような断片的な細かな部分にも神の原理が宿っているのだ、ということにもなり、非常に強力な「ロゴス中心主義」として読まれかねない危険もあるように思う。
●批評空間ウェブに岡崎氏について書かせてもらった関係で、まだ観ていない岡崎・展の図録を持っているのだが、この図録はこの手の展覧会の図録としては異例なくらい良くできていると思う。その理由の一つに、「painting」「sculpture」「relief and construction」「biography and bibliography」という4つに章立てられた各章の扉の部分に書かれている簡潔な解説文が優れているという事がある。この、石岡良治という人によって書かれた解説は、簡潔で分かりやすく、かつ非常に正確なものである。(さすがに東大の表象は頭いいや、と、嫌みとかではなく素直に感嘆させられる。)ここには岡崎氏の作品を観るために知っておくべき前提となるような事柄が、ほぼ、過不足なく書き込まれている。このような優れた「解説」の不在が、現代美術をどれだけ不毛に孤立させていることだろうか、といつも思うのだ。ここで石岡氏によってなされていることは、「岡崎理論」によって「岡崎作品」を厳密に読み込む、ということだと言って良い。だが、「岡崎作品」が「岡崎理論」によって読み解かれる、ということが果たして「岡崎作品」にとって幸福なことなのだろうか、という疑問が浮上してしまうのも事実だ。(勿論、石岡氏によって書かれたのは「解説」であり「紹介文」のようなものであって「批評」ではないので、それに文句をつけるつもりは全くない。)ここには、『ルネサンス・経験の条件』が、強力な「ロゴス中心主義」的なものとして読まれてしまいかねないことと同型の危険があるように感じる。芸術作品を観る時に、してはならないと思っていることが二つあって、一つは、作品をフェティシズムの対象として(それのみで)観てしまうことと、もう一つは、作品の意味をリテラルに読むことで満足してしまうことだ。(それらは共に、作品を「象徴的な形式」のなかへ閉じこめてしまうように思う。)石岡氏による解説は優れたものであり、そのようなものは絶対に必要なのだということを前提とした上で、しかし、岡崎作品を岡崎理論によって解消してしまうような見方に対しては抵抗しなければならないと思う。岡崎氏の方法を理解することと、岡崎氏の作品を観ること(「他者と共有できないどころか、それに対応するいかなる外的対称ももたない経験」の発生)とは、決して無関係ではないとしても、ぴったりと重なることではないはずなのだ。

  文房堂ギャラリー「眼差しは時を漂う」企画の早見堯と諸星千恵の作品について
02/09/24(火)
●文房堂ギャラリーで「眼差しは時を漂う」(今澤正、前山京子、諸星千恵/企画・早見堯
)を観る(9/24〜10/12)。早見氏の企画の意図としては、モダニズムの美術の前提とされるのが、視覚によって一挙に作品が把握される「瞬間性」と、作品が部分に分割されない「全体性」(単一性)だとすれば、そこではそれに収まり切れない「別の感じる力」が抑圧されてきたのではないか、と、だから、そこで抑圧され排除されてきた「別の感じる力」こそを探ってゆきたい、とのことなのだが、しかし、「瞬間性」と「単一性」がモダニズム的な言説として前景化されていた時期は確かにあったとしても、作品としてそれらが純粋に追求されることは実際には稀だった訳だし、ましてや今日では、そのような言説があったことさえ忘れ去られようとしているのに、今時なぜ、抑圧する装置としてまったく機能していないモダニズムがわざわざ仮想の敵として引っぱり出され、「それとは別の感じる力」が言い立てられなければならないのかがさっぱり理解できない。早見氏は、モダニズム的な視覚から離れた「時間のなかを漂う」ような視覚のあり方として、具体例として、生成消滅を繰り返す「視覚像」(今澤正)、物質とむすびついた「記憶」(前山京子)、見る者の今ここでの「身体」(諸星千恵)をあげる訳なのだが、「見るたびに違って見える像」「物質的記憶」「身体」などのタームは、現代美術を巡る言説としては既にうんざりする程ありふれていて、これらの言葉によって説明される作品が、現在支配的なものに対する「別の何か」として際だつとは全く思えない。まあ、そんなこととは無関係に個々の作品を丁寧に観ていけばよいということも確かなのだが、それでも、面白い作品がここにあるのだと指さし、人を作品へと誘うのは、まず何より「言葉」なのだし、この展覧会自体がそのような「言説」によって組織されている以上、言説のつまらなさは、人を作品へと誘う回路をあらかじめ断ち切ってしまうことになりかねないのだ。早見氏には、自分が使用する言葉が、どのような「場」でどのように「機能」するのかということについて、もう少し真剣に考えていただきたいと思う。
02/09/25(水)
●昨日観た「眼差しは時を漂う」展(文房堂ギャラリー)の諸星千恵の作品についてちょっと書く。諸星氏の作品は写真を用いたもので、しかし画面の大部分が真っ暗で何も写っていない。そのなかのごく一部に、微かな光が射していたり、何かはっきりとは特定し難い茫洋とした形態が浮かび上がっている。だが、観者がそこに写っている形態をよく視ようとして視線を探らせたり、あるいはその茫洋とした画面のもつ表情そのものを味わおうとして画面全体を捉えようとしても、写真の表面はつるつるに光沢を発する処理がされていて(しかも画面の面積の多くが黒であることもあって)、室内の光景や自分の姿が映り込んでしまって、視線は画面に定着されているであろう「像」にまでは届かない。それでも、映り込みに邪魔されながらも辛うじて見える微かな光や茫洋とした形に誘われて、観者はしゃがんで下から見上げてみたり、斜め横に下がってみたりと、何とか像を把握しようとするのだが、結局画面をはっきりと捉えられるような位置(視点)を発見することは出来ない。この時、視る対象にたどり着くことの出来ない「見る」という行為は、宛先をみうしなって宙づりになり、見よう(把握しよう)と欲する身体の能動性ははぐらかされつづけて決して満足にたどり着くことが出来ないので、とても嫌な感じ、と言うか、何とも言えない寄る辺無い妙な感触が生起してくるだろう。だからこの作品は、視ようとすれば見えてしまう「視覚」への「視覚的な」批判としてあり、あまりにも安易に見えてしまう(把握出来てしまう)ために、視覚がいつも人を簡単に悦ばせ、その怠惰な欲望を満足させてしまうような、小児的、あるいはポルノグラフィックなものに奉仕してしまうことへの抵抗として仕掛けられていると言ってよいだろうと思う。
●しかし、よく見えないということによって、見えてしまうことを批判することには、ある陥りがちな罠が伴っている。人は、見ようとしてもなかなか見えないものを前にした時、それでもなお「見えない」ことの宙づり状態に耐えることに留まったりはあまりしない。通常、一瞥して見えないとわかると、すぐに見ることを止めてしまうか、そうでなければ、明確に把握出来ない対象に対して、(「見えない」ことの効果によって)ある過剰な意味を別の場所から持ってきてそこへ充填させてしまうのだ。(勿論、始末に悪いのは後者なのだが。)ものすごく卑近な例を挙げると、アダルトビデオのモザイクの効果などがあるだろう。モザイクによって明確に見ることが出来ないからこそ、その先にあるはずの「性器」に過剰な意味が込められてしまい、それを見たいという欲望を増進させる。別の例として、アメリカの同時多発テロを題材としたオムニバス映画『セプテンバー11』のなかで、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の作品は、明確にテレビカメラによって捉えられてしまったテロの映像が、安易にスペクタクル的な効果として使用され、ある種のプロパガンダとして利用されてしまった事への批判として、ほとんど「見えない」状態の真っ黒な画面と音だけで構成されている。しかし、ほとんどが真っ黒な画面であるこの作品のなかに、ほんの一瞬だけ挿入されてる「貿易センタービルから落下する人の映像」が、ほかならぬ「ほんの一瞬しか見えない」(充分に見ることが出来ない)ことの効果によって、非常に強力ななスペクタクル的効果を発揮してしまっていた、という逆説なども思い浮かぶ。
●だから、安易に「見えて」しまうことへの批判は、「よく見えない」ことによってではなく、別の見え方を示すことによってするしかないのではないかと思う。全てがあからさまに見えてしまっているにもかかわらず、それを決して明確には把握出来ない、というように。例えば、同時に展示してある今澤正の作品。今澤氏の作品は、通常、非常に高度に練り上げられた色彩の美しさと、端正な仕上げの精度の高さによって評価されていると言って良いだろう。しかし、それだけだったら大して面白くはない。同明度の、しかもとても近い色彩だけで組み立てられたシンプルな形態によって構成される今澤氏の画面には、必ずどこかしらに、その部分に注目したとたんに画面全体が裏返ってしまうような落差をもった部分が仕掛けられている。だから、その美しい色彩に包まれるようにして、画面全体に拡がる色彩のたゆたいを味わおうとしても、必ずどこか一部分に欠損が生じてしまい、その欠損を埋めようと視線を動かすと、画面にはくるりと裏返るように別の関係性が現れてきて、また別の欠損が生じてきてしまう。画面を「見続けて」いる限り、視線は決して安定しない。画面の上にあるのは、趣味の良い味わい深い色彩と、どのような曖昧さもない単純で明快な形態だけなのにもかかわらず、つまり全てが何の謎もなく明快に見えているにもかかわらず、その全体像を捉えようとする視線はいつまでも先延ばしにされつづけるのだ。(だから早見氏の言うような、「見るたびに違った視覚像」というものとは違う。)画面は、その全体像をあらわすことから常に逃れつづけているのだが、それでも人は、その美しい色彩に惹かれている限り、その画面を見続けるだろう。何も隠されてはいないし、少しの曖昧さもないにもかかわらず、それを明確に把握することは出来ないのだ。

  セゾン現代美術館の岡崎乾二郎・展について
02/09/28(土)
●岡崎氏の作品は、「ここに異様なものがある。これを読みとれ。」という分かりやすく親切なメッセージを発してはいない。だからあまり注意深くない観客は、趣味のよいレリーフと軽くて澄んだ美しい色が舞っている抽象画、そして作りかけの粘土細工のような彫刻を観て、楽しげな作品を観たと言って満足して帰って行くかもしれない。そのような作品の外観から、岡崎は難しい理屈はこねるが結局は普通の抽象画家に過ぎない、などという人もいるかもしれない。しかしそれは、例えば、文を読むときに、その構文や内容を理解することはせず、使用されている語彙のみで判断するようなものだ。この文は、ありふれた貧しい単語しか使われていないから、つまらないことしか言っていない、この文は、豊かで幅広い語彙を使用し、あるいは目新しい単語を使用しているから、何か面白いことを言っているのだ、という風に。(実際、美術批評というのはだいたいこんなものなのだが。)岡崎氏の作品は、語彙という意味ではいつも貧しさを選択しているように見える。手持ちの貧しい素材から、どれだけ複雑な効果を生み出すことが出来るのか。語彙の豊かさを志向しない岡崎氏の作品は、だからフェティシズムから自由であることが出来る。多くのものを持つ必要はない。じっくりと考え抜かれた方法と、機転のきく冴えた頭、そしてちょっとした手先の起用さがあればそれで充分なのだ。最も持ち運びが容易なもの、それは自分の頭と手足だろう。ジャンルの先験性だとか、美術という制度だとか、基底的な空間/物質だとか、そんな鬱陶しい議論に守られる必要はない。「名人芸」さえあれば「名人」という称号など必要ない。自分の身ひとつでどこででも闘える。鬱陶しい段取りを取っ払うためにこそ名人芸が要請されるのだ。岡崎氏の作品の、あっけない程にきっぱりとした強さ(ペインティングでは、画面に貼り付いた絵具の物質感が晴れ渡った空のように何の淀みもない生々しさで迫ってくる)は、その「物にこだわらない」姿勢によるのだろう。物質感とは決して物質そのものではないし、作品とは装置であって物質ではないのだ。
●岡崎・展の空間には、様々な反復と対照がめくるめくような複雑さで響きわたっている。会場に入ってすぐの、同一形態で色違いのレリーフのバリエーション(「おかちまち」)は、順路をしばらく行った先で、それと同一ピースの異なる組み合わせのレリーフのバリエーション(「あかさかみつけ」)に対応しているし、そのピースはサイズと素材を替えて他の場所にも現れる(「でんえんちょうふこまち」)。次にあらわれる、平面的なピースを組み合わせた大きめの彫刻は、おそらくその彫刻をつくる時に使われた型紙を利用して線を引いたと思われるドローイングと共に展示されている。ブロンズ彫刻は、その元になった石膏型と共に、しかし異なった構成で置かれている。絵画作品では、型紙の使用によって、同一形態(上下左右が反転していたりもする)が、異なる色彩、マチエール、サイズ、で、画面のなかだけでなく、フレームを越えて様々な作品で反復されている。(対応関係は、必ずしも2点組の作品の間にだけにある訳ではない。)一見すると絵具が跳ね飛んでついてしまったような小さな点も、よく見ると型抜きされた形態で、別の部分でも反復されていたりする。(そして、今、ここにはない「型」の存在も当然想起されるだろう。)対照関係は、そのような分かり易いものだけではない。レリーフ作品において何もない空虚な部分が持っていた役割は、セラミックの彫刻では物質によって満たされた部分に対応しているし、レリーフで平面的なピースが果たしていた役割は、彫塑では物質が切断された面の形が果たしている。セラミック彫刻の、粘土を捻り取ったような物質感は、絵画作品のべっとりした絵具マチエールを想起させる。また、絵画作品の半透明なべっこう飴状の色彩は、ポリプロピレンによるレリーフの半透明な彩色を思わせもする。そして、「3時15分」と題された小さくて不思議に魅力的なレリーフは、レリーフに絵画作品のようなべっとりとした彩色とマチエールの変化を持ち込んだような作品にも思える。(この小さな作品はとても重要に思える。この作品を起点として、絵画作品と彫刻・レリーフがくるっと裏返るような感じがする。)
このような複雑な反復や対照では、例えばインスタレーションのように空間内の「配置」が問題とされている訳ではない。そうではなく、空間的配置とは無関係に、これらの対照関係が勝手に暴れ出してしまうことこそが問題にされている。こられの作品のなかに、様々な反復や対照を仕込んだのは作家である岡崎氏であるが、そこから関係を読みとり、複雑でめくるめくようなダイヤグラム的空間を(頭のなかで)発生させてしまうのは、それぞれの観者であり、それは一点、一点の作品を観て、読み込んでゆこうとする、見る身体の能動性なのだ。(岡崎氏の作品の大きな特徴は、対応する様々な細部同士をあくまで「無関係性」(松浦寿夫)の相のもとに置いておこうとすること、つまり、それらを繋ぐための「媒介」を設定しないということろにある。それらを関連させるのは「見る」という行為であって作品ではない。このことの大胆な実践が岡崎作品のきっぱりした強さを生んでいるのかもしれない。)
具体的な空間に配置された作品たちが、個々の作品のフレームや具体的な空間を超えて暴れまわる。しかしそれを可能にするのは、あくまで、具体的な空間に配置された一点一点の作品を、具体的な時間のなかでじっくりと観てゆくことなのだ。展覧会の会場を何度も行き来して作品を見直しているうちに、個々の作品の細部がほどけて散らばり、遠くにあるあの作品のあの細部、記憶にある別の作品のあの部分などと響き合ったり反発したりという現象が発生するのは、今、目の前にある「この作品」が、ある一纏まりのもの、じっくりと見る価値のあるもの=作品、として現れなければならない。だいいち、岡崎氏にしても、はじめからこれらの作品を、この場所にこのように配置するためにつくった訳ではなく、長い時間のなかで、それぞれに別の目的や別の考えによって、その都度その都度、一つの作品として完成させてきたはずで、だからこそ、今回の展示のような複雑さが可能になったはずなのだ。たとえ一つの作品が、ある流れのなかでの一断面に過ぎないとしても、それがたまたまそこで切断されてしまったことの絶対性というものもあるのだと思う。
●岡崎氏の作品を、一点一点独立したものとして観る場合、特に目を惹くのが最近の絵画作品だと思う。と言うか、岡崎氏の作品を(岡崎氏自身が何と言おうと)あくまで一点一点独立したタブローとして見るべきだと思うのは、最近の、特に今年になってからの絵画作品の凄さによるのだ。2002年の作品たちは、単純に言って、まともに「見る」ことが全く出来ないような絵なのだ。ここまで徹底して基底的な(物理的な)平面という考え方の成り立たない絵は他にちょっと見あたらない。正直、これが絵画として良いのか悪いのかよく分からない。ほとんど評価不能の無秩序な状態の一歩手前という感じもする。しかし、(たんに対応関係がある、とかそういうレベルではなくひとつの作品として)決して無秩序ではないということを直感出来る。判定不能と思われる程複雑なのにもかかわらず、晴れ渡った空のようにツンと澄んだ空間の、澄み切った強さのようなものを感じる。直感、とか、強さ、とか、そういう風にしか今のところ言えないのが情けないのだが。(付け加えると、冒頭にも書いたが、岡崎氏の作品を「楽しげな」ものとして観る、ということも決して間違いではないと思う。岡崎氏の作品の魅力の一つに、思わずにんまりしてしまうような楽しげな調子、ユーモラスで快活な形態と色彩、という部分が多分にあることは間違いないと思う。)「批評空間」の座談会で岡崎氏が、【確率30%の雨と確率70%の雨の違いを確かめるのは、経験的な場面で、いま降っている雨は確率70%くらい晴れが混じっているとか確率30%くらい晴れが混じっているとかいうような知覚のされ方がされなくちゃいけない】【実際に10回体験して、見るたびに違って見えるという問題ではなくて、見る前から確率論的に決定不能であるという問題なんです。ウィトゲンシュタインは『確率性の問題』で、非常に正確に、雨が降っているけれど私はそれを信じないという、主体が分裂した状態に言及しているけれど、結局その状態をキープできるかどうか】と言っているような、そんな状態の絵だと言えば良いのか。
02/09/29(日)
(昨日の蛇足)
●岡崎乾二郎の作品(特に最近のペインティング)から受ける感触は、小学生の頃に熱中した鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』から受けた感覚に近いものがある。(当時、『すすめパイレーツ』や『がきデカ』や『1・2のアッホ』や『できんボーイ』や『東大一直線』や『らんぽう』なども好きで読んでいたのだが、『マカロニ』の衝撃は断然別格だった。)通常は、かなり過激なギャグマンガであっても、基本的な物語の線があって、そこからの逸脱、破調としてのギャグの連鎖(逸脱、破調の度合いが低いとギャグとしてのパンチが足りないし、それが過ぎると理解不能になり、ギャグではなく不条理になってしまう)がある訳だが、『マカロニほうれん荘』では、辛うじて登場人物の同一性を示す記号(サングラスに口ひげ、とか、分厚い唇とか)は維持されているものの、物語を動かしているモチーフは早々に粉々に砕けで消失してしまうし、人物はコマごとに様々にメタモルフォーゼを繰り返し、基本的な「場」の設定さえ成り立っていないこともしばしばだった。(特に最も過激だった単行本の3〜5巻くらいにそれが顕著にあらわれている。)ページを開くと不連続なコマの連なりがあるばかりで、それらをつなぎ止めているのは、ただ、ページの右から左へと、上から下へと視線を移動させてゆく、読者の見る=読むという行為だけなのだ。つまりここでは、本来バラバラなもの、空間的に配置された別々の絵柄と言葉でしかないものを、あたかも時間的な連続性をもったものであるかのように表象するために必要な、基底的な設定(場面の設定や、物語の線の連続性)が成立していなくて、本当にただ複数の絵柄にまで解体されてしまう「寸前」の状態が示されていた。にもかかわらず、多くは小学生であった当時の読者(決してマニアックだったり、アート好きだったりするような特殊な読者にだけ受け入れられていた訳ではない)を惹きつけ、その視線を右から左へ、上から下へと誘いつづけていたのだ。おそらく、ほとんどが子供だった当時の読者を惹きつけていたのは、個々のイメージ(コマ)の鮮烈さだけではなく(音楽マニアや戦争マニアなどはここに惹かれたのだろうが)、むしろ、コマとコマとの繋がらなさ、その断絶の深さそのものが、逆説的にコマからコマへと視線を誘導してゆく力の強さ、跳躍力として作用したからではなかったかと思う。サングラスに口ひげの25歳の長身の男性である「トシちゃん」が、次のコマではサングラスと口ひげだけを残して2頭身の「すっぽん」へと変化し、その次のコマではキャップを斜に被った3頭身くらいの短パンの少年に変身して飴をなめていたりする。しかも、これらのめまぐるしい変身を正当化するための根拠は、物語上にもどこにも存在しない(基底的な設定があってそこからの逸脱があるのではなく、ただひたすらな逸脱の連続だけがあるのだ)。当時小学生だった自分がこのような状況を自然に受け止めていたのが今から考えると不思議ですらある。それでもマンガである限りは、一応は時間軸に沿ってきちんとコマが順番通り並んでいる(物語は辛うじて「ある」)のだが、一編をひととおり読み終わった後に頭に残っているのは、一編を通じて展開された通時的な成り行き(つまり広義の「物語」)ではなくて、個々のギャグの痛烈さですらなく、コマとコマの繋がらなさというショックそのものであり、その断絶の様々な度合いの連鎖がつくりだすリズムのようなものだったように思う。(勿論、コマとコマ、イメージとイメージはただ断絶してれば良いという訳ではない。ゴダールの『JLG/自画像』にあった、モンタージュされた二つの現実の隔たりが遠く、かつ正確であるほど映像は強くなる、という言葉を思い出す。)そしてその後、「トシちゃん25歳」だとか「やーねーあたしはきんどーちゃんよ」だとか「はーっ、すっぽんすっぽん」といった、ほとんど何の意味もなく何度も反復されるひとまとまりの言葉が頭のなかで幾重にも反響するのだった。
天才的な漫画家が、ほんの短い期間にだけ辛うじて実現できた(そして一気に才能を使い尽くしてしまった)ような状態を、岡崎氏は、長い時間のなかで持続的に探求し追求しているように思える。両者の共通しているのは、徹底して抽象的でナンセンスな場所においてしか可能でないような経験の質であり、輝きであり、強さであると思う。

  青山で岡崎乾二郎(セゾンアートプログラムギャラリー)、を観た
02/10/17(木)
●「overflow」と名付けられたSAPギャラリーでの岡崎氏の展示は、軽井沢での展示から文字通り「溢れて」しまった作品から成り立っているように見える。軽井沢での展示が一部の隙もないほどきっちりと計算されて構成されていたのに対して、青山での展示は一見すると何も仕掛けられていないように見えてしまうかもしれない。様々な時期に描かれた様々なペインティング(とレリーフ)が、それぞれに孤立したようにして並べられている。それらはまるで、ある特定の文脈から強引に引き剥がされて、意味を奪われた断片が、他の断片と自由に連鎖する動きを奪われたままでポツリポツリと放置されているといった印象を受ける。(ちょうど、マネの「バルコニー」で佇む人物たちが、並置されながらも互いに無関心でそれぞれに違う方向を向いたまま、ひたすら自分自身でありつづけているのに似ている。)軽井沢の展示では、あれほど豊かに、様々な細部がフレームを超え出て反響し合っていた作品たちが、ここでは自らを堅く閉ざしたままで身を潜めている。(上下2点で1組という作品もあるが、それにしても対になったフレーム同士の反響はそれ以上には拡がらない。)ここでは個々の作品が外へと拡がり出すことなく、それ自身によって支えられるしかなく、にもかかわらずそれ自身だけでは十全に意味を完結できない。それぞれの作品のつくられ方や密度などは、軽井沢で展示されたものと大きく異なるところはないのだが、なのに個々の作品の見え方はまったく異なるように思う。この展示では、まずこの事実に驚かされるのだ。勿論、これは岡崎氏によって意図的に仕掛けられたことだろう。このことは、岡崎氏の作品が決して「ある特定の仕掛け」(特定のコンテクスト)のもとだけで成立するというようなものではなく、様々な場面によって異なる側面、異なる力を発揮することが出来る程に複雑に組織された(「雑多な力」を持った)ものであることを示している。展示の秩序によって文脈化された意味も、他の作品との豊かな「ひびき」をも奪われて、ただ断片として自らを示すしかなく、にもかかわらずその断片の断片性によって、観者の視線を誘いつづけ、その表面の上をいつまでも滑っていさせるだけの吸引力を発している作品たち。軽井沢での展示が、今観ているその作品のその部分が、決してその場所に定位されることなく、場所を奪われたまま他の細部へと連鎖してゆき豊かな反響を作り出すのに対して、青山での展示では、その作品のその細部は、あくまでその場所にそれ自身として、貧しく、孤独に留まりつづけ、そのことによって非常に緊張した強い力を漲らせているように見えるのだ。(ぼくは個人的には、どちらかというと作品のこのようなあり方の方に惹かれてしまう傾向がある。)青山での展示は、決して軽井沢の展示の(そして去年の京都での展示の)「小型版」ではない、全く違った側面をみせていると思う。このような「たくらみ」を仕掛けた岡崎氏の知性と、この「たくらみ」に十分に耐えられるものである作品の力に、改めて驚かなくてはならないと思う。
(岡崎氏のセラミックの彫刻に、まるで粘土板のような台座がついているのと同じように、岡崎氏のペインティングでは、まるで上げ底のように木枠が二重になって画面が前へせり出している。これは明らかにフリードの言うような意味での「客体性=物質性」を強調するためのシアトリカルな仕掛けであろう。岡崎氏は、理論的には、基底的な物質どころか基底的な空間=地の成立すらも否定していて、また作品もそのようなものとして組織されているのだが、その一方、作品のまた別の側面においては、このように明らかな「物質性」の強調も行っている、という矛盾もあるのだ。このことから、岡崎氏の作品は、岡崎理論よりもずっと複雑なものであることが分かる。)

  岡崎乾二郎と絵画
02/10/18(金)
●例えば白い紙の上に赤い絵の具で何かしらの形を描いたとする。するとそこには、紙と絵の具のという二つの層が出来る。この二つの層は互いに決して混じり合うことなく分離している。通常はこれを、白い地の上の赤い図として認識すると言われるのだが、紙と絵の具は実は別々のものなのだ。「眼」は決してこの分離を忘れて(見逃して)しまうことはない。絵を描き、またはそれを観るという経験は、この分離(差異)から受けるショックと無縁ではいられない。紙と絵の具は混じり合わないのだから、紙を見ようとするときに絵の具は見えず、絵の具を見ようとするとき紙は見えない。にもかかわらず強引にそれを同時に見ようとする時、我々はもうその絵の幻惑装置にひっかかっている。
しかし、その絵を写真で撮影すると、紙と絵の具という異なる層は、フィルムの感光面という一つの層に統合されてしまう。それは、紙の上に乗った絵の具ではなく、ひとつの平面の塗り分けられた白い部分と赤い部分に過ぎなくなる。ここでは絵画という装置が、それによって成り立っていた根本的な「差異」を失ってしまうのだ。写真図版が、絵画作品を充分に再現出来ないのは、技術的な問題(色彩や質感の再現力の問題)というより、このような構造的な違いによるだろう。(勿論ぼくは写真による図版を否定しているのではない。むしろ現在では写真図版なしに絵画は成り立たないだろう。)
●セザンヌの晩年の作品で、絵の具が画面全体を覆うことなく、キャンバスの地がそのまま残っている部分のあるものを観る時に要請されるのは、絵の具によってイメージが描かれている部分と、キャンバスの地がそのまま残されている部分とが決して混じり合うことなく分離しているその状態を、どちらかの状態へと解決してしまうことなく、分離したままのものとして見つづけることに「耐える」ということなのだ。つまりそれは、決して解決することなく分裂したままの「知覚」を鍛えることでもある。(ある時はイメージが見え、ある時はキャンバスの物質が見える、ということではなく、同時にイメージでもあり物質でもあり、しかもそれらは決して混じり合うことがない、という状態。)
●岡崎乾二郎のペインティングは、まず何よりも絵画を成り立たせている最も単純な「分離」を明確に際だたせているものとして、目の前に現れる。絵の具はまるで、乾いた後から貼り付けられたかのように、キャンバスの地に馴染んでいない。画面上に散乱するいくつもの色彩や形態は、それら相互の関係を保証するもの(基底として作用する地=空間)を持たない。だから場合によっては、その場所にない他の無数の形態や色彩とめくるめく反響を起こすし、また場合によっては全く他との関係を拒絶してひたすらそれ自身として孤立する。そのような状態を可能にするのは、岡崎氏のペインティングが、それを「描いている具体的な時間」や「それを描いている固有の身体」を連想させてしまう要素を出来うる限り排していることによるように思える。岡崎氏のペインティングは、まるで全く時間も手をもかけずに、いきなりどこか抽象的な場所から生まれてしまったかのように見えるのだ。例えば、画面に引かれた一本の線は、嫌でも、最初に筆を置いた場所と描き終わった場所、その間の線を引くのにかかった時間、そしてその線を引いている身体の存在とその動き、などを想起させてしまうのだが、岡崎氏のペインティングでは、線が虚空からいきなり浮かびあがって現れたかのように見える。このような性格が、岡崎氏のペインティングを近代絵画的な趣味(ペインタリーなもの)から切断させていると思う。そしてそれは、主にその技法からもたらされているように感じられる。(例えば、岡崎氏も、パステルを使ったドローイングのように「手」で描いた場合は、とても近代絵画的な趣味の良い作品になる。)詳しいことはよく分からないのだが、恐らくくり抜かれた「型」によってつくられたと思われる形態は、ナイフによって画面に絵の具を載せる画家の身体の動きと、それによって定着される画面上の形態とが分離されている(身体の動きと形態とに直接的な関係がない)。つまり画家の身体の動きが形態に反映されないから、形態が自然な意味の流れから切断されて、まるで異次元からいきなり顔を出したように見えるのだ。岡崎氏のペインティングは、形態と色彩によって構築されていると言うよりも、切断や分離の生み出すショックがいくつも仕掛けられ、そのショックを丁寧で繊細に構築することによって成立しているのだと思われる。

  桂と彼岸花ととちの実と金木犀
02/09/14(土)
●芝生が敷き詰められた中庭のまわりには桂の木が何本もランダムに植えてあって、近くを通ると僅かにツンと粘膜を刺す感触の混じった甘く重たい蜜のような匂いが鼻孔をかすめることがある。その匂いは桂の木から匂っているとしか思えないのだが、木の幹に鼻を近づけてクンクンと嗅いでみてもなにも匂わず、しかもいつもその匂いに遭遇するとはかぎらないので、掴み所がない。その匂いは濃度は濃いのだが、空間のなかに広く拡散する力が弱いのだろうか、重たく甘い匂いは、一瞬だけ鼻先をかすめて、すぐに見失われてしまう。(芝生を抜けた先にある銀杏並木では、明け方になると青さの混じったツンとする強い刺激臭がまんべんなく辺りを満たすのだが。)闇に沈んだ中庭の真っ黒な芝生の長方形の平面に、街灯の光が黄緑色の丸い形をいくつか浮かび上がらせている。この丸い黄緑色が妙にどぎつく、やや黄色く染まって見えるのは、暖色系が強い街灯の電球のせいだ。見上げると、ハート型をした桂の葉が電球の光を透かして黄色く輝いている。手入れ不足で伸び過ぎていて、不規則な方向に癖がついて倒れている芝生のふわふわとやわらかい感触を靴の裏に感じて中庭を斜めに突っ切る。コンクリートタイルの堅い鋪道から芝生への境を越えた瞬間、身体は、歩き、地面を踏みしめる時の足への体重のかけ方や重心の移動のさせ方を微妙に調整するので、感覚がふっと軽く揺らぐ感じがする。何種類もの虫の声が、すこしづつズレながら重なっている音が滲みるように拡がっているのだが、それを耳で探ろうとしても、せいぜい3種類くらいの声しか識別できない。
02/09/20(金)
●図書館の裏側をぐるっと廻りながら池の方へと下って行く道の途中に、まだ花を開き切っていない彼岸花のつるつるした茎がにょきにょきと生え出ていた。茎の先端には、3つくらいの細長い蕾がついていて、これからあの複雑で派手な形の花を開かせるのに充分だと思えるような、目に残像が残るほどの凝縮された強い赤を放っている。群生する彼岸花は、何もなかった場所にいきなりたくさんの茎が伸びてきて、みるみる花を咲かせたかと思うとしばらくして跡形もなく消えてしまうので、植物と言うより茸が黴みたいな印象なのだけど、空気中に飛び散っている胞子によって思わぬところにあらわれる菌類と違って、多年草の彼岸花は地下茎から生え伸びる訳で、毎年同じ時期、同じ場所に顔を出す。だから驚きと言うよりも反復による安定した感情を人に起こさせるのだと思うが、しかしそれにしてもあの異様な群生する姿に感覚は慣れることが出来ず、毎年こうなると分かっているのにもかかわらず、その度に改めて動揺させられてしまうのだった。
02/09/22(日)
●ここに来る途中に通りかかった図書館の裏道では、群生する彼岸花がすっかり花を開ききり、非現実的な程に赤い色を中空(と言っても膝の辺りの高さ)に散らばしていた。そこから少しだけ雑木林の方へ行った遊歩道の上にたくさん落ちている実、クルミよりやや大きい位の、あらかじめ亀裂がはいっていて、落下した衝撃で割れて中の種が飛び散り、茶褐色の実の殻の内側のやわらかい部分が割れて露出し、土の上にやけに白く浮き立っているその実と同じものが、目の前の机の上につばきの実と二つ並べて置いてあるのに気付いて、思わず手に取って、掌で転がした。それを見た友人が、ああ、つばきの実ととちの実だねえ、と言ったので、あの、雑木林の入り口にあって毎年ぱっくりと割れる実をつける木が栃の木だということを初めて知ったのだった。乾燥して亀裂のはいっているとちの実とは違って、つばきの実は表面がつるつるした触感で青臭いような硬さがあるので、手にするとついついその表面を爪で傷つけたくなってしまうのだった。
02/09/26(木)
●鈴生り、という言葉は生っている実に対して使う言葉で、咲いている花を形容する時に使うのは正しくないと思うのだが、クレヨンの「やまぶきいろ」みたいな地味な黄色の小さい花が、濃い緑の葉の間にみっしりとかたまって咲いているキンモクセイの花を見ると、どうしても鈴生りという言葉が浮かんでくる。厚い雲に覆われたぼんやりとした光の下で、そこここにキンモクセイが咲いているのに気付いた。キンモクセイの木は、普段はキンモクセイだと意識することはあまりなくて、今の時期に花が咲いているのを見て、あるいはその匂いから、ああ、この木はキンモクセイだったんだ、と気付くのだった。(ただ、今年はまだあまり強い匂いは感じられない。)キンモクセイの匂いからいつも連想するのは、確か小学校の教科書に載っていた、【「これはレモンのにおいですか? 」ほりばたでのせたお客の紳士が、はなしかけました。「いいえ夏みかんですよ。」】という、タクシー運転手を主役とした『車のいろは空のいろ』というお話の印象的な書き出しなのだった。でも何故このシーンの印象が、レモンや夏みかんの匂いではなく、キンモクセイと結びついているのかは良く解らない。

  
02/09/06(金)
●クルクルとハンドルを廻すと、真ん中で折れたアームがキイキイ音をたてて伸び、畳まれているビニール地の幌が徐々に拡がってゆくつくりになっている雨よけは、アームを精一杯伸ばしても幌はピンと張らずに少したわんでいる。そのたわんだ窪みに雨水が溜まり、溜まった水の上にさらに雨粒が落ちて水面に丸い波紋がいくつもいくつも拡がっては消えるのが、雨よけの下で雨宿りをしているぼくにも、幌の裏側から透けて見える。雲に覆われて一面均等に白く輝く空の光が幌を通過して、いくつもの細かな波紋が重なり合い干渉し合ってチラチラ揺れるモアレ模様を浮かびあがらせる。粒の大きい激しい降りになると、それは乱れたような荒い動きになる。急に雨が激しくなり、雨音がダダダダと強く低い音にかわってそれ以外の音を遮り、白い空が一瞬カッと明るく白さを増すと、道路を挟んで向かいに見えるマンション建築のために高く伸びているクレーンがみるみる靄につつまれて霞んでしまう。雨は朝からずっと、強くなったり弱くなったりしながら降りつづいている。
02/09/09(月)
●ふったりやんだりの小雨でしっとりと水分を含んだ芝生の中庭を、その濡れた黄緑色を両目から吸い込むように足元を見て視界いっぱいを芝生で埋めながら、長方形の中庭の対角線上を斜めに突っ切って歩いた。水気を含んだ柔らかい黄緑の広がりのなかに、背筋がゾゾッとするくらいに不自然に白い、ビー玉くらいの丸いものが発疹のように散乱しているのが目についた。足先で突っついてみると地面から生え出ているもののようで、ちょっとした力で地面から繋がっている柄の部分が妙にあっさりと断ち切れて、白く丸いそれがくるりと裏返った。それは何かしらのキノコで、ひっくり返ったカサの裏側は表以上に白いのだった。
●激しく大粒で降る雨よりも、細かな雨が降りつづく方が木の葉は多くの水滴を包み込むことが出来るらしい。もう雨はほとんどやんでいる夜遅く、両側にびっしりと木が生え並ぶ薄暗い道。街灯はまばらで力無い光を発するのみだが、曇った夜空は赤く明るい。風が吹くと木の枝が震え、葉が包み込んでいた水滴が落下する、シァァァーッ、という音がいくつも重なってあちこちから聞こえてくる。

  自転車にのって、
02/08/08(木)
●正確にはATB(all terrain baik)といって、MTB(muntain baik)とは区別するらしいのだけど、どちらにしろマウンテンバイク風の自転車には違いないものを購入する。これが思いの外乗り心地が良く快適なので、調子にのって、まるで夏休みのガキみたく、炎天下の昼間に乗り回してしまう。調子にのって走りすぎて道に迷い、近くにあったコンビニで地図を買ってひろげてみると、これがまた面白くて、地図をたよりにさらにしばらく乗り回す。いくらなんでも調子にのりすぎで、暗くなって部屋に戻った時には脚はパンパンに張り、ぐったりと疲れている。しかしこんな風に、ただ純粋に「身体が疲れている」という感覚はとても久しぶりだ。
02/08/09(金)
●マウンテンバイク風のつくりの自転車には荷台とか籠とかは当然ついていないので、肩からかけるバッグに、着替えのシャツと地図とカメラを入れて、飲み物は重くなるから途中でコンビニなり自販機なりで買うことにして、午後の日盛りなので日よけの帽子を被って、軽いツーリングでもしようといきなり思い立った。まあ、3時間ちょっとくらいの軽いものなのだけど、それでも山をひとつ越える道行きで、急勾配が延々とつづくのは予想以上にハードで、一応目的地として設定した場所に着いて、一休みしてから引き返そうと自転車から降りたら、普通に歩くぶんには全く問題はないのだが、階段を下る動作の時に膝がカクカクと震えてしまって自分の体重をうまく支えることができずに難儀する。ぼくは決して体力に自信がある方ではないし、ましてやアウトドア派ではまったくないのだけど、ただやたらと「歩く」ことが好きで、放っておくといつまでも歩きつづけているという意味で「足腰」だけにはヘンな自信があったのだが、それもずいぶんと鈍っていると感じた。帰り道、コンビニで買ったアイスバーをその店の前でしゃがみこんで食べるなんていうガキみたいなことを、いい歳をしてしてしまった。だいたい「アイスバー」なんて食べるの何年ぶりなんだろうか。
なんでこんなにクソ暑い時に好き好んでそんなことをするのかと言えば、ぼくには強い光が乱反射して舞っているような状態を見るとそれだけで何故かハイになってしまうという妙な習性があるからで、踏切へと向かう下り坂を歩いて下っている時、その踏切からつづくまっすぐの道のずっと先の方までが、強い光に照らされてくっきりと、遠近感なく平板なまでに鮮明に浮かび上がっているのを見て、いきなり興奮状態に襲われ、矢も楯もたまらず身体を動かしたくなてしまったのだった。
02/08/11(日)
●マウンテンバイク風の自転車を買ってから、調子こいて暑いなかを乗り回しているので、半袖のシャツからでている腕の部分が黒く焼けてヒリヒリする。自転車に乗っている姿勢で焼けるので、腕の表側だけ黒くて裏側は生っ白いままで、その対比がなにかブザマな感じだ。あまり焼けないように薄手の長袖トレーナーを着ることにした。びっしりと重たく葉をつけた木々が並ぶ公園の南側の、ずっとまっすぐにのびる道路を自転車ではしる。陸上競技場や体育館、野球場などの運動施設が雑木林のなかに点在しているその公園の、南の端の道路に面した部分にはプールがある。生え並ぶ木々が道路に落とす濃い影に沿うように、自動車がズラッと連なって駐車してある。蛍光オレンジのタンクトップを着た若い母親が、肩に浮き輪をひっかけながらジープ風の四駆の車の後部ドアを開いている姿が見える。少し高くなっているのと、木々に茂る葉で、プールの様子は道路からは見えないのだが、そのまっすぐにのびる道路をはしり抜ける間に何度か、あの独特のプールの水のにおいが漂って鼻をかすめる。
02/08/16(金)
●頭痛薬を飲んでも、頭の芯に鈍く重たい痛みが残ってしまう。それでも夕方からはずせない用事があったので、出かける。遠くの方で雷が鳴っているのが聞こえるのだけど、雲が多いとはいえ青空が覗いているし、用事は一時間ちょっとで済むものなので、大丈夫だろうと思って自転車で出る。室内で一時間ほど過ごして外へ出ると、大粒の雨は落ちているわ、雷は派手に光り至近距離でバリバリと鳴っているわ、の状態だった。しばらく建物の軒下で呆然としていたのだが、ここまで景気良く降ってくれていれば、かえってずぶ濡れになるのも気持ちがいいのじゃないかと思い、雨のなかへ出ていった。今までの暑さからは、ちょっと予想出来ないくらいの冷たい雨で、軽く身震いがする。しかしそれも最初だけで、すぐに着ている物がびっしょりになって身体に貼りつき、叩きつけるような雨粒が皮膚の表面を次々と流れ落ちるようになると、雨と一体になり、自分自身が気象状態の一部になったような気分になって、ピカッと光り地響きのように鳴る雷さえ派手な花火のように面白くて、頭痛もすっかり忘れてしまい、頭皮から流れ落ちて次から次へと眉毛を越えてくる水滴に視界を遮られながらも、ほとんど、ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん、とでも歌い出しかねない勢いで自転車をこいでゆくのだった。
02/08/28(水)
●朝早く、商業高校の裏手から雑木林のなかに運動施設が点在する公園を抜けて隣の駅までずっとまっすぐにつづく道路を自転車ではしっていたら、途中、道ばたにイガクリが落ちているのを見た。ああ、もうそんな季節になったのだなあと思ったのだが、そうは言っても気温は次第に上がり、帽子を忘れたのを悔やむくらいに日も強く照りだし、山道にはいると夏草が青く濃く茂っているのだった。登り坂を息を荒げて登り切り、蛇行しながら下ってゆく坂を一面の緑を目から呼吸するように視界いっぱいに浴びながら勢いよく加速して降りている時に、力強く茂って道路の方にまで押し出されるようにはみ出でてきている刃のように鋭くのびた夏草が半袖のシャツから出た腕に触れて擦れ、腕の表面に傷口がはしり、うっすらと血が滲んだ。
02/09/17(火)
●最近は、自転車で一時間以内で行けそうな場所へは、バスや電車を使わずにチャリで行くことが多くなった。いつ雨が落ちてくるかという重たい雲の下、山の上までまっすぐに登っている街道を自転車をこいでゆく。新しい自転車を買ってから、この坂を何度も登っているが、最初は途中で停まらなければ頂上(坂のちょうど一番高い場所には、○○峠というバス停がある)までたどり着けなかったのが、一気に上まで登れるようになり、だんだん所要時間も短くなってきている。(太股だけが急速にマッチョ化しつつある。)それでもキツイことにはかわりはなくて、激しく荒い呼吸をしながら登って行くのだが、この街道は車の量がかなり多く、しかも大型車の割合がとても高くて、それらが坂道でやたらとエンジンを吹かして通っているので、埃混じり排気ガスがたちこめていて、そこを顔を真っ赤にして必至に激しく呼吸しながら登っているので、「これ。肺に思いっきり吸い込んでるなあ」と思いながらペダルを踏み続けることになる。ようやく一番高い場所にあるバス停にまで登り切り、ギヤをかえてから踏みしめる足の力をゆるめて、ゆっくり呼吸を整える。ここからしばらくは一直線の下りなのだが、あまりの空気の悪さを嫌って蛇行しながら下って行く脇道に逸れて行くことにする。(しかしここも道が細い割には大型の車が通るので危険ではあるのだ。)脇道に入るとすぐに、道の両側に圧迫を感じる程の緑が盛り上がって溢れ、その草木は湿った涼しい空気のためにしっとりと落ち着いた緑色を放ち(勢いよく伸びる緑に埋まった、赤い鳥居のてっぺんだけが覗いて見えている)、その緑のなかを蛇行しながらチリチリチリと空回りする車輪の音を聞いてしばらく下ると、顔に当たる風に強い臭気が混じってくるので、先の方にぽつんと見える木造の朽ち果てたような建物が牛舎であることが、牛の姿が見えなくても分かるのだった。


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