セザンヌとモネ/視覚と触覚
現代美術において宇宙人から自由であるために
『私立探偵 濱マイク』の第2話、及び第3話。
保坂和志『カンバセイション・ピース』の第1回分(260枚)を読む。
保坂和志の『カンバセイション・ピース』の連載二回目、三回目
保坂和志『カンバセイション・ピース』最終回
保坂和志『カンバセイション・ピース』の連載1〜3回めまでを読み返した
セザンヌ/花/春の嵐
『木更津キャッツアイ』について、うだうだ。
80年代と、ある水準について。
小島信夫の初期短編を集めた『殉教・微笑』を読む。
クリストファー・ノーランの『メメント』
『絵画の準備を!』(松浦寿夫×岡崎乾二郎)/「誰がセザンヌを必要としているか」
『絵画の準備を!』(松浦寿夫×岡崎乾二郎)/趣味/判断/カント
『地獄の黙示録・特別完全版』をビデオで。
ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』
映画における不自然さ、類型的について
「文學界」9月号の、松浦寿輝『五極の王』を読んだ
澤野雅樹『少女--中間的なものへの感受性』(秘密と秘密基地と泥棒)
熱い夏
セザンヌとモネ/視覚と触覚
02/07/03(水)
●セザンヌは、モネを、素晴らしい目だが目でしかない、と言い、あまりに視覚的なドガよりもロートレックの方が好ましい、とか言うのだけど、ここで言う「目」とか「視覚」とかは一体どんなことを指しているのだろうか。ぼくの感じで言えば、モネやドガは視覚よりもむしろ触覚によって引っ張られているような画家に思える。例えばドガを特徴づける感性は、粉っぽいパステルが画面に擦れる時の感触であり、擦り付けられた「粒子」によって可能になるような色彩、発色の柔らかな触感であるように思うし、モネを特徴づける感性は、既に厚く塗られた油絵具の上に、さらに、たっぷりと絵具の付いた腰の強い筆がゆっくりと重たく滑ってゆく時の触感であるように思う。つまり彼らの絵画が産み出す感触を制御しているのは目であると言うよりむしろ手の感触であり手の歓びなのだ。形態が色彩によって溶けてしまうようなモネのアナーキーさは、目のアナーキズムというより手のアナーキズムによる。それにくらべればセザンヌの方がずっと視覚による制御が強く、「手に任せる」という感じは全くない。手は目によって厳重に管理されていて決して暴走することはない。しかし、にもかかわらず、セザンヌによる不器用な筆触は、「手に任せる」モネの絵画以上に、そこにあきらかな「手」の関与を顕在化させてしまうのだが。つまり「手に任せる」度合いの強いモネやドガにおいては、その上手な「手」は容易に「目」に溶け込んで一体となるのだが、セザンヌにおいては、手と目はぴったりと重ならずにどうしてもズレてしまう。そしておそらくある時期以降、セザンヌはこのズレを自覚的に作品を生成する方法とした。異なる感覚を自覚的に強引に結び付け、そしてそこに不可避的にあらわれる繋がり切れなさが生む余剰、つまり無数に発生するズレや落差そのものを作品の構成単位とし、それをつなぎ合わせ、重ね合わせて構築してゆくこと、がセザンヌの絵画の原理となるだろう。だからセザンヌは決して広い色面を一気に塗り込めることは出来ないのだし、画面全体の構造を前もって構想し把握することもできない。(エスキースや下書きが意味を成さない。)一筆一筆が本来繋がらないものの強引な結びつけであり、その連続性と不連続性の度合いを計りながら、一筆一筆新たな戦略と決意とで進めてゆくしかない。セザンヌの画面空間は、だから決して均質ではなく、筆致の数だけ異なる次元が発生している。キャンバスも、所与の平面などでなく、一筆ごとに形を歪ませる不定型のものとして把握されているのだ。だから、セザンヌが「目」でしかない、と言う時、それは多分「目」によって簡単に(一挙に)把握できてしまう、と言うことが批判されているのではないだろうか。現代美術において宇宙人から自由であるために
02/07/05(金)
●《第三世界というのは、もはや他者ではないね。ぼくが今おもしろいと思うのは、結局今の人が行きついている場所というのは、ほとんどSFなんですよ。》と、80年代半ばの柄谷行人は、SF作家でもある笠井潔に向かって言う。《われわれは、宇宙人とか地球の外部に他者を置かないと、他者を持てないわけです。それともう一つは過去です。アイヌ人とかね。それらがくっついている。》地球全体が均一なシステムで覆われてしまった以上、もはや亀裂となり得るような強力な差異は存在せず、外部を求め、物語を語ろうとすると、SF的な与太話になるしかない。閉ざされて均質化した場所で、差異とは言えないような微少な差異を次々に見つけだしてゆくしかなくなってしまった高度な消費社会が完成したかのように見えた80年代の日本で、我々が感じていた閉塞感とは、まさにこのようなものだった。(柄谷氏のいわゆる「形式的な」仕事も、徹底して地球を捜索することで宇宙人の痕跡を発見しようとするようなもので、もしかするとSF的なものと言えてしまうかもしれない。)しかし実は、このような閉塞感そのものが、冷戦体制によるの歴史の宙吊り状態によって、自閉的なバブル景気によって産み出された「幻影」でしかなく、それが崩壊してしまえば、潜在化していた様々な亀裂が否応無しに浮かび上がり、当時の閉塞感など今から考えればなんてのどかなものだったのだろうと思わざるを得ない。しかしそうだとしても、当時そのような時空のなかにいた者にとって、この閉塞感は逃れ難く切実な、出口のないもののようにリアルに感じられていたことも事実であるのだ。
●第二次対戦後、抽象表現主義を通過して以降の絵画にとって、カンバスの四角い平面は、絵画の条件であり目的であるようなものとして、先験的なものとして与えられているということになっていた。つまりその平坦で均質な「器」そのものがそのまま「内容」であり、その上にどんな行為が加えられ、どんなイメージが描かれようと、それは既に、四角い平面である絵画という器によって規定されてしまっている。それは「理念」のようなものとしてだけでなく、「感覚の形式」(「地」)としても画家たち、観者たちを縛っているもので、だから、そんなこと全く考えてなどいないという者も、それとは別のことを考えているという者をも、等しく束縛してしまっている。平坦で均質な、四角いフレームをもった平面という「形式」があらかじめ与えられている以上、そこでどんなに無茶をしようと、あるいは何もしなかろうと、そこから何かしらの「意味」を、特定のコードによって半ば自動的に読み取ることが出来てしまうだろう。つまり絵画の「内容」は、特定の面積を持った平面の上でなにかしらの差異を形づくるための、順列組合わせのパターンを開発するゲームにすぎなくなる(リヒターを見よ)。どのような一回的な行為も出来事も、すぐさま可能なパターンの一つのバリエーションとして認識され、消費されてしまう。ミニマル・アートから新表現主義、あるいはシュミレーショニズムに至るまで、どのようなモードのチェンジがあっても、そこには目先の珍しさを競う空虚なゲーム以外のものを見い出すことが難しくなってしまう。そこで「絵画の死」が宣告され、多くの画家たちは絵画空間というフレームを捨て去り、現実の空間に直接的に関わろうとするようになる。プライマル・ストラクチャー、パフォーマンス、インスタレーション、アースワーク、パブリック・アート、等々、しかし、いかにフレームが拡張され、社会的な文脈が導入されようとも、ある「特定のフレーム」が前提として設定されてしまっている以上、それは、絵画の平坦で均質な平面となんらかわるところはないと言える。つまり、囲い込まれていて、出口なしなのだ。そしてこのような閉塞状況においては、(まるで「宇宙人」のような)突飛な「外部」(「政治」だとか「私生活」だとか「ジェンダー」だとか「キャラクター」だとか)が無批判にいきなり要請されてしまうのだ。(まさに太郎千恵蔵の「宇宙人」!)
●戦後以降の美術において、特定のフレームがあらかじめ設定されてしまうことについての「抵抗」として有効であった唯一の方法は、同一形態の反復という方法だったと言える。アンディ・ウォーホルや草間弥生から、クロード・ヴィアラやリー・ウーファンまで、反復という方法のみが、フレームの限定性、フレームによる意味の固定化を逃れることが出来た。これを最も過激に実践したと言えるの作家の1人がヴィアラであろう。しかし、等京都現代美術館の「シュポール/シュルファス」展で、会場に展示されていたヴィアラの作品のなかで反復されている、例のソラマメ状の形態が、ミュージアム・ショップで売られていたお皿やポットにまでプリントされているのを見た時には、その過激さの行き着く果てに、もう笑うしかなかった。ヴィアラの、「作品」というフレームを超える過激な反復は、その形態がほとんどキャラクターと化してしまうことで、資本主義的な商品の海のなかへとすっかり溶け込んで消えてしまい、意味を失ってしまったという訳なのだ。
(つづく)
02/07/06(土)
●別に、具体的に自分のやっていることと直接関係している訳ではないし、「方法」として利用できると言う訳でもないにもかかわらず、ある「考え方」を知ることで、煮詰まったような閉塞感からフッと逃れられ、風通しの良い場所で動けるようになる、ということがある。89年に出版された高橋悠治の『カフカ/夜の時間』で、高橋氏は、ミニマリズムを批判して、それはゆたかな側から発見された「貧者の文化」の「夢」に過ぎなかったと書き、それに次のようにつづける。《4つの音しか知らなくても、そこから無限の変化をつくりだすことができる。ピアノの鍵盤全体を使ってつくりだせる変化は、それ以上のものにはならないだろうし、じっさいにはそれよりはるかにすくない。88のキーをあつかうためには、幾重にもつみかさなった組織が必要になり、音が増えるにつれて制約もおおきくなってゆく。そして、88を知ったあとの4つの音は、それ自体が制約であり、この意図的な貧しさほど自由から遠いものはない。はじめにあった4つの音は見えるものと見えないものとの境界をかたちづくっていた。後のは、おおくの音のなかから否定を通じて選ばれたもので、文化的な価値をもたらされている。》つまり、ピアノの88の鍵盤を、予め与えられたフレームと考える限り、それによって出来ることは、囲い込まれた内部の順列組合わせでしかない。しかし、はじめに任意の4つの音しかないと考えると、それとは全く違ったことが可能だと言うのだ。(ミニマリズムの場合は、予め88ある音から、否定を通して選ばれた4つの音になってしまうから、それとは違う。)この点に関して、もっと突っ込んだ話を、87年の『キーボードスペシャル』のインタビューで喋っている。そこで高橋氏は、例えば、予めペンタトニック(5音音階)という上位のシステムがあるから、2度や4度音程をもって音が動くという考えかたではなく、ただたんに2度や4度の音程があるだけで、そこからペンタトニックにいくかもしれないけど、それとは違うものがつくれるかもしれない、ということが重要なのだ、だから極端なことを言うと2度もなくていい、音程なんてなくてもいい、と言う。そして、それじゃあ、よりどころがなくなってしまうではないか、と言うインタビュアーに対して、次のように答えている。《あのね、よりどころをなくしてゆくっていうんじゃないのね。そうじゃなくて、極端な話、音がひとつだけしかなくても音楽はできるって話なんだよ。で、それは、音がピアノみたいに88個なくちゃいけないっていうのと反対の方向なのね。/その方向でいくと、まず2つの音がある。まあこの2つでかなりのことができるとするでしょ。すると3つめの音が入ってきたらそれだけで大きな変化よ。ところがさ、88個最初から最後まであったら、変化なんか何もないんだから。そうすると、よりどころもなければさ、何もないわけさ。》これはつまり、ピアノに代表されるような「西洋音楽」が、ピアノの鍵盤の配列という「空間的なもの」によって予め示している「時間外構造」として人を束縛しているフレームを、次に何が起こるか分らない、何処へ行くのか定かではないような、不安定な、常に新たな「現在」を生成しつづける「時間」によって解体しようとするものだと言えるだろう。(だから3つめの音というのは、ピアノの音であるとはかぎらず、ピアニストのイスが軋む音かも知れないし、観客の咳払いの音かもしれないのだ。)そして、88の音をもち、それらを操作する技術をもっている、「持てる者」の束縛された豊かさに対して、使えるものがごく僅かしかない、「貧しい者」のアナーキーな豊かさに賭けるということでもあるのだ。
これは、あるべき音楽の理想の姿、あるいは到達すべき目標というようなこととは全く関係なくて、このような「考え方」をすることで、もっと違った「動き方」ができるというような「実践的」なものである。だからぼくのような音楽に関して無知なものであっても、この「考え方」を知ってもどのような「音のイメージ」も浮かばないような者にとっても、充分に有効であるような、ある抽象的な力をもっている。
●ホルベインという絵具会社が出している「アクリラート」という冊子の90年代始めに出たやつに載っていた座談会での中村一美の発言で、その本が手許にないので記憶に頼ったいい加減な引用だけど、《絵画空間をひとつの均質な空間であると考えると苦しい、そうではなくて、絵画には様々な空間を次々に投入することが可能なのだと考えたい》というようなものがあった。これはいささか突飛な発言で、一体、「絵画」に「様々な空間」を「次々に《投入する》」というのはどういうことなのがよく分らない。座談会に参加していた宇佐見圭司や赤塚祐二といった人たちも、その真意を測りかねるという感じであったと思う。だいいち、この発言をした当の中村氏からして、そのような作品が実現できているとは思えない。にもかかわらず、ぼくにとってはこの発言は「良く分らない」ままに、上記の高橋氏の発言と同等の、大きな衝撃となった。《絵画に様々な空間を次々に投入する》ということの具体的なイメージは、今でも全く思い浮かべることはできないのだが、しかしそれでも、ぼくは絵を描く時、いつもこの言葉について考えているのだし、この言葉のインパクトによって、他人の作品を観る時の見方や、過去の作家への評価などが大きく変わってしまったとさえ言えるのだ。
●美術においては、一方で第二次対戦後、抽象表現主義以降からずっとつづいていると言える閉塞感のなかにあるのと同時に、もう一方では、そのような閉塞感すらが「のどか」なものに見えてしまう程の、現実における圧倒的な「亀裂」の露呈によって、やることなすこと全ての意味がかき消され無化してしまっている、という現状にあると思える。このようななかで、なんとか生きてゆき、仕事をつづけるためには、ぼくにはどうしての上記の高橋氏や中村氏の発言のような「考え方」が必要なのだ。このような「考え方」は抽象的なものであって、どのような具体的なイメージとも結びつかないからこそ、「使える」のだと思う。『私立探偵 濱マイク』の第2話、及び第3話。
02/07/08(月)
●蒸し暑い夜。窓を全開にしても風が入らず、夕方、駅前で配っていた、「ディスカウント調髪、大人1800円」という水色の太文字が、黒地で打ち上げ花火が図案化されている地の上に書かれているという、信じ難く趣味の悪いデザインの団扇をあおぎながら、テレビで『私立探偵 濱マイク』の第2話を観ていた。
林海象の映画を観ていないので比較はできないのだが、これは基本的に、昔から日本テレビでたまに放送される、東映セントラルフィルム系の制作会社がつくる、1話完結型のハードボイルドシリーズの流れをくむもののように思える。ぼくがリアルタイムで観ていたのは『探偵物語』とか『俺たちは天使だ』とか『プロハンター』とかで、そういう、体制=警察=市民的な秩序からも、反体制=やくざ的な秩序からもこぼれ落ちたアウトローである探偵が、散発的に街に拡がる同じようなアウトローたちのネットワークによって仕事をする様が、魅力的な「街」の描写とともに語られる、というようなシリーズといえばいいのか。演出に映画監督を起用するところなども同じなので、同じような企画=制作のラインにのっているのだろう。最近こういうドラマはほとんどなくて、ぼくなんかにはとても「懐かしい」感じがする。おそらくこのようなドラマが成立するのは、永瀬正敏の人気だとか、松田優作の人気復活だとかだけではなく、『木更津キャッツアイ』などの成功をうけて、日テレが新しいタイプのドラマの展開を探っているということがあるのだろうと思うのだが、でもこのドラマ自体は全く新しいものとは思えない。(補足/『木更津キャッツアイ』はTBSの間違いでした。)
気になるのは、東映セントラル系のドラマ(と、ぼくが勝手に名付けているのだが)の特徴ともいえる、低予算でどうせ視聴率もとれないだろうから好き勝手にやってしまえというやぶれかぶれの勢いがみられず、1話も2話も丁寧に細部まで作り込まれてはいるが、閉塞的な、自閉的な感じが強いことだ。だいたい何故1、2話とも共通して「私を探してください」という話になってしまうのだろうか。「私の人生は行き詰まっていて、自分ではどうすることも出来ません。だから探偵さん、私を探して、私を理解し、私を救ってください」、と。1回ならまだしも、これが2回つづいてしまうというのはどうかと思う。うんざりするというだけでなく、単純に工夫が足りないと思う。
特に第2話は、おそらく監督の思い入れなのだろうが、80年代サブカル的なレファランスがこれでもかといたるところにちりばめられていて、閉塞感が一層増している。80年代サブカルだけでなく、80年代の自主映画的なテイストにも満ちていて、大体、物語からして、ああ、こういうの昔8?で随分観たことがあるぞ、という雰囲気で、個人的な趣味として決して嫌いではない(こういうものが「嫌いではない」ことがぼくの「甘さ」なのだと思う)ものの、いくら何でもやはり恥ずかしすぎる。特に話の結末のつけ方、決着の付け方の「甘さ」がいかにも80年代自主映画風で、途中までは恥ずかしいと思いつつもけっこう楽しんでいたのだが、最後でそうくるのかよ、とひいてしまうのだった。このような、80年代にアートかぶれのガキだった三十男のノスタルジー、みたいなものをテレビドラマとして見せてしまうのはどうかと思う。しかもそれが今どきの「私探し」と妙に相性がいいというのはどういうことだ。こういうのを、三十過ぎたオッサンが観て懐かしがってるだけならまだ害はないけど、若者は間違ってもこれを「アートっぽい」とか思わないで欲しいものだ。
02/07/15(月)
●『私立探偵 濱マイク』の3回目は予想外に素晴らしかった。前の2回が駄目だったので、3回目まで観て、このドラマの何が駄目なのかについて(阿部サダヲやビエール瀧、酒井若菜など出演者もダブッている)『木更津キャッツアイ』と比べて書こうかと思っていたのだが、そんな考えはフッ飛んだ。
前の2回と比べて、一見して全く違うのは「画面の質」だろう。加えて、登場人物=俳優たちの使われ方も全く違う。これは演出家のドラマに対する姿勢が根本的に違うということだろう。前の2回では、ちょっとクセのある俳優たちが、たんにちょっとした「ニュアンス」をつくるためだけに配置されていて、何となく「アートっぽい」雰囲気を醸し出すために使われていたに過ぎない、と言っても良いと思うのだが、今回は、それぞれ個々の俳優=人物をどうしたらきちんと生かすことができるのか、が問題にされている。特に井川遥と市川実和子は、ドラマ内部の役割=キャラクターを超えた独自の感触が捉えられていたように思う。それは、俳優本人であることと演じられた登場人物であること、素であることと演じられていることの違いにほとんど意味がないような、俳優=人物の感触と言うようなものだ。井川遥など、「癒し系」の「グラビアアイドル」という出自のイメージに縛られていて、(このドラマに限らず)いままで随分と損な役回りしか与えられていなかったように思うのだが、良い演出家に的確に使われれば相当やれる人なのではないかと感じられた。市川実和子を「不思議系」のキャラクターとしてキャスティングするというのは、考えられる限り最も安易で工夫のないキャスティングだと思うのだが、今回はそのようなキャラクターを超えた感触が確かに示されていた。(ただ、テレビだからしょうがないのかもしれないが、マイクと初めて会った時の説明的な回想シーンはいらなかったように思う。)だいたい、主演の永瀬正敏からして、今までは平板でグラフィックなイメージ=キャラクターとしてしか画面に映っていなかったのに、今回はじめて厚みをもった俳優として画面に現れていたように思った。
(たとえば、『木更津キャッツアイ』では、地元の同じ高校の元野球部員という一見同質的なグループにみえる人物たちに、微妙でかつ決定的な差異が設定されている。主人公はガンで命が限られているし、1人は地元べったりの仲間たちのなかで唯一東京の大学に通っていて地元を相対化しているし、1人は妻子もちだし、1人は並外れて優秀な弟といつも比較され他人からは弟との関係で「兄」としか呼ばれない。これらの差異は、仲間内での役割=キャラクターの差異ではなく、仲間の「外」との関係の差異であるから、決して仲間内部の問題として処理し解消することが出来ない。キャラクター的には彼らは皆似たり寄ったりなのだが、にもかかわらず1人1人が「違う」のだ。対して、『私立探偵 濱マイク』の人物たちはただ役割=キャラクターの違いとして配置されているだけなのだ。)
物語的には、またしても「私を探して」という話で、ここまで続くということは、おそらくこれがこのシリーズを通したテーマとして設定されているのだろう。だが、今回のようなアプローチなら、前の2回ほどには自閉的、閉塞的な感じはしない。(「私」を探している女の子が、それを教えてくれるはずだった「男」に裏切られる、という「他者性」が物語に組み込まれているからだろうか?)演出家は多分、脚本をかなり崩して演出し編集しているのではないかと思うのだが、テレビドラマという制約はあるのだろうが、その崩し方がやや中途半端であるように感じた。ここまでやる「根性」があるのなら、そこらへんでもうひと押ししてほしかったなあ、と思う。ぼくは萩生田宏治と言う監督についてどういう人なのか全く知らないのだが、ちょっと憶えておくべき名前かもしれない。保坂和志『カンバセイション・ピース』の第1回分(260枚)を読む。
02/07/10(水)
●窓の外に台風の激しい風雨を感じながら、「新潮」8月号の保坂和志『カンバセイション・ピース』の第1回分(260枚)を読む。保坂氏の本領発揮という感じでとても素晴らしい。今後の展開(と言ってもほとんと「展開」のない小説なのたが)がとても楽しみだ。ぼくは以前から保坂氏にはいつまでもだらだらと続くような小説を書いてもらたいと思っているのだが、小島信夫的ななしくずし的なだらしなさとは無縁の「聡明」な保坂氏は、おそらく小説という装置のひとつひとつの部分がピタッとしかるべき場所にあって、正確に機能しなければ気がすまないような作家で、だから決してそういう小説を書くことはないだろうとも思うのだが、それでもなるだけ長いもの(一箇所に長く停滞、停留するようなもの)を読みたい訳で、この小説はちょっと長くなりそうな感じもあって期待してしまう。(ちょっと、『地の果て 至上の時』を思わせるような「停滞感」がある、という言い方は的外れだろうか?)この小説ができるだけ長くつづき、「短期集中連載」などではなく、例えば『死霊』のようにいつまでもしくこく書き継がれるシリーズにでもなればいいなと思ったりもする。(まあでも、保坂氏の小説は、全部同じものの別バージョンだとも言えるのだけど。)260枚とかなりの分量ではあるが、この小説はまだ完結はしていないので、以下、とりとめのない感想をいくつか書く。
●保坂氏の書く「私」という一人称は、ベケットを想起させる。とはいえ、保坂氏の文章から受ける感触はベケットとは全く異なる訳なのだが、しかし、この『カンバセイション・ピース』と「内容」的に重複する部分の多い『〈私〉という演算』にも引用されている、ベケットの『伴侶』の書き出しの一文《Devised devisier devising it all company》(すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの)というものこそ、保坂的な「私」というものなのではないだろうか。想像する、想像された、想像するもの、という「軸」のない循環的な構造(しかしこの循環は閉じられず「穴」が空いている)としてしかあり得ない「私」が、しかも「すべてを自分の伴侶として想像する」というのだから、自分の存在する空間を、まるで匂いをかぎまわるように詳細に記述し、記述によって空間をまるで自分の身体の一部のようなものとして、あるいは「伴侶」のようなものとして「登記」し、その登記された空間=世界に逆照射されることによって「私」がかたちづくられているような保坂的な「私」そのものだと言えるのではないだろうか。保坂氏のベケット的な側面は、この『カンバセイション・ピース』と、ひとつ前の『明け方の猫』によって、かなり明確にみえているのではないだろうか。
●それとは別に、ぼくは保坂氏の小説を読むといつも金井美恵子と比較したくなる。この2人はとても近いところで仕事をしながらも、しかし決定的に違うという感じがするからだ。金井氏の『噂の娘』も『カンバセイション・ピース』と同じように、ある具体的な「場所」を起点として、空間と記憶との関係を記述しいてる、という点で共通しているとも言えるのだ。だが、そこには「記憶」を構成している身体=感覚の組み立てられ方の根本的な違いがある。金井氏の小説においては、記憶=記述は、その在り処を基底的な身体=感覚によって支えている中心人物の3次元的な空間内部での実際の身体の位置や運動に拘束されていない。つまり、ある記憶内容や感覚は、ある中心的な人物の「感覚」としてはじめて顕在化するのだが、しかしその「感覚」が生起するための身体は(映画のカメラ=スクリーンのように)半ば「汎世界化」していて、その場所全体に気体のように散乱しているように見える。感覚は、それを受容する身体によってしか生起しないのだが、その身体の具体的な行動や運動とは直接的には繋がっていない。だから、その人物=身体の感じる「熱っぽい」感覚が、そのまま『秘密の花園』の物語世界と何の齟齬もなく接続されて混じり合い、物語を自由に変形さえしてしまいさえするのだ。対して、保坂氏の記述は、ある空間内部で実際に動いている身体の「運動感覚」によって捉えられている。つまり視覚も聴覚も触覚も嗅覚も、それ自体として自律した記号としてモンタージュされることはなく、いつも動いている身体との関係によって構築され、結びつけられる。例えば「家」の空間は、そのなかを動き回る人物たちの動きや佇まいを通してはじめて記述され立体化するのだし、庭に生えている「木」も、それらに「水をやる」という行為を通してだけ顕在化し、子供の頃にそれに昇った時の運動感覚を通して把握され、記述される。金井氏にとっての「猫」は、そのしなやかな運動やまるく柔らかな感触として、見られ愛玩される「対象」、常に私を魅惑し困惑させる決して到達不能な「対象」としてあるのに対して、保坂氏の「猫」は、保坂的な人物のしばしばナルシズム化し自己中心化してしまいそうな身体=運動感覚を相対化するのと同時に、人間的な身体感覚では届かない部分を補足し、異なる身体による感覚を世界に付け加えるために存在しているとも言える。つまり、自分の見えない部分を見ていてくれていることによって、世界の「厚み」を保証してくれるような、構造としての「他者」であるだろう。
02/07/11(木)
(昨日からのつづき、保坂和志『カンバセイション・ピース』について)
●保坂氏の小説の待台の魅力の一つに「雑居性」というのがある。保坂的な人物は、他人が自分のテリトリーに侵入してくることに対して寛容だし、他人のテリトリーに入り込んでもすぐになじんでしまう。だが、この雑居性は実は周到に操作されたものである。それは、移民や難民が大量に流入することで緊張を増す都市の現状とは程遠く、あくまで家族的・親類的なものであって、それは、基本的に個室という概念のない古い日本的な家屋、障子やフスマをとっぱらってしまえば一つの空間になってしまうよな場所に、何世代もの者たちや、そこへ嫁いだ「嫁」たちや、何かしらの事情で身を寄せている親類やら、奉公にきている使用人やらがいっしょくたに住んでいるような、田舎の「家」的な感覚に支えられている。しかし、家族的な集団ではあっても、保坂的な人物たちのつくる集団には世代間の対立(階級闘争)やエディプス的な機構は全く働いていない。というか、それは「集団」ではない。それぞれバラバラな人物たちが、一つの空間にバラバラなまま集まっていて、彼らを結びつけているのはその空間になんとなく流れている「親しさ」のような感情のみである。これは実はとても危ういバランスでようやく成り立っているような関係であり、そこにはあらゆる敵意や悪意、葛藤などというものが周到な手付きで排除されている。(つまり、この雑居的な空間に身を置くことを許されているのは、悪意や葛藤とは無縁の本質的に「上品」な人物だけなのだ。)このことから、ある種の読者は「癒し」に近いような和んだ感覚を受け取るだろうし、またある種の読者は、そこに嘘くささや欺瞞、「ぬるさ」のようなものを感じ取るだろう。勿論、保坂的な人物たちは、そのようなことは充分に承知した上で、ずうずうしい程のあつかましさで、「上品な者」たちだけでつくられる「雑居的」空間を維持するだろう。これはつまり、「悪意」や「葛藤」を描くことが人間を描くことであり、それが「文学」なのだ、という考え方に対する、非常に強靱な批判であり、そのような批判に支えられてかたちづくられ練り上げられた、意識的な「方法」であるのだ。保坂的な「雑居性」とは、だから、決して自然なものではなく、田舎の「家」的な距離感覚と、80年代の都市の文化的雰囲気をつなぎ合わせて繊細に造り上げられた、高度に「抽象的」な方法であり、同時に感覚であるようなものなのだ。
驚くべきなのは、ここまでずうずうしくもしらっとした調子で、あらゆる葛藤や闘争を排除し回避してもなお、小説が成り立ってしまうということなのだ。その理由を、それぞれの人物が魅力的であることと、それらの人物たちが語る血肉となった独自の「思想」が、決して日常生活から遊離しない形で語られているからだ、という風に読む人がいるが(例えば、福田和也も加藤洋典も石川忠司も、皆この線だろう)、それは間違ってはいないにしても、あまりに一面的にすぎる。保坂氏の小説で重要なのは、各々の人物が語る「世界観」のようなものであるよりも、その人物がある空間のなかに、「いる」感じであり、ある空間のなかで「動いている」感じであると思う。複数の人物が、あるひとつの空間にいて、各々がバラバラに「存在」し「動いて」いて、そしてそれらのバラバラの動きがよりあつまって、その「場」を、その「空間」を構成し、複数の動きのよりあつまりとしてのある「時間」がそこに流れている。登場人物たちがあつまって、世界観なり科学観なりを語り合っているようにみえる場面でも、話は突発的にはじまったかと思えば、宙吊りになったまま別の話題へ行ってしまったり、何か別の要因で中断されたりするし、人々が話し合っている時でも、それとは全く別の動きをしていたり、別のことを考えていたりする人物が必ずいるだろう。(人間たちがどうしている、という描写とともに、それとは別の関心で動いている猫の描写があったりもする。)それは、ある「考え」の内容を、あたかも日常の内部で自然に語られているようにみせるための「技巧」などではなく、人物や猫たちのバラバラな動き、複数の運動の同時性と、それらが突発的に交錯して、互いの動きに変化が生じたり、重なったり離れたりするという、あるひとつの場で起こるそのような事柄そのものこそが「内容」なのだ。保坂氏の小説は、細部の記述のまるで犬が匂いをかいでまわるような詳細な具体性が、舞踏的ともいえるような抽象的で複雑な方法で組み合わされ組み立てられている。『カンバセイション・ピース』においては、このような複数の「動き」の合成が、現在だけでなく「過去」までも含み込んでいるという点で、より複雑に豊かなものとなっているように思う。保坂氏が対立や葛藤などをその作品世界から徹底して排除し、物語を構築しないのは、葛藤によって駆動する「物語」というものが、複数の動きをどうしても2元的なものとして単純化してしまうからだろう。保坂和志の『カンバセイション・ピース』の連載二回目、三回目
02/09/15(日)
●「新潮」に連載されている保坂和志の『カンバセイション・ピース』は、第一回目が素晴らしい出来だったのでかなり期待していたのだが、二回目、三回目になると、記述がやや説明的な方向に流れてしまっていて、平板な感じがしてしまう。連載の二回目では、庭の植物に水をやるという行為の描写だけで、連載一回の分量の約半分ほどを費やしているし、三回目では、横浜球場で横浜対広島の試合を観戦するシーンがかなりの長さで記述されている。しかし、これらのシーンの記述が単調で、まず先に「言いたいこと」としてある「考え」があって、それを説明するためにそのシーンが設定されているような感じが強く、保坂氏独特の、魅力的な「時間の流れ」の感触のようなものが感じられない。この「説明的」にみえてしまう記述の平板さは、エクリチュールがどうしたなどという次元ではなく、単純に、言葉と、その言葉が記述する対象との距離感の単調さが原因であるように思えた。例えば、横浜球場の外野席から試合を観ているシーンでは、遠くから球場全体を引いて見ているような視点もあるが、同時に、実際には距離があるにもかかわらず選手達の動きを至近距離で感じているような距離感もあり、そして、一緒に観戦している友人たちとの会話やその場(観客席)の状況を感じているという視点もあるだろう。小説は、そのような複数の距離感を「内容」の次元では描き分け、それらを交錯させてはいるのだが、それを記述する言葉自体には、複数の距離感が交錯し伸縮する時に生じるはずの、断絶やズレやねじれや歪みといったものが生じてなくて、単調に事実を羅列する記述になってしまっている。そのため、実際に球場で観戦している時のような「臨場感」(勿論、小説に必ず臨場感が必要だとは思わないが、この小説では内容的に、まさにその「臨場感」こそが問題になっているのだ)はあまりなくて、だから臨場感の「分析」にはなっていなくて、たんに臨場感の「説明」としてしか読めない。(この「球場における空間感覚の記述」が、この後に語られる「入眠幻覚」における空間的な知覚のリアリティを導きだすだけに、このシーンが単調なのは、この小説の主題という次元からみても痛いことだと思う。)連載の二回目でも、庭の植物に水をやっているシーンで、ホースで水を撒きながら木を見ている(視覚的、現在)、という風に把握される木と、子供の頃にその木に登った時の身体の運動として把握されている木という(運動感覚的、記憶)、同一の対象に関する複数の把握がズレながら共存しているような状態が「説明」されているのだけど、それが説明以上のダイナミックな感覚を生じさせるような記述にはなっていない。例えば『明け方の猫』という小説では、夢のなかのねじれた空間感覚こそが描かれている訳で、不思議な伸縮の仕方をする「夢のなかの空間=時間」のねじれや歪みを「言葉の形態」によって描くことに成功しているからこそ、一般に他人の夢の話は詰まらないと言われるなかで、とても面白い小説になっているのだと思う。(ちなみにこの小説は『世界を肯定する哲学』のぼくが最も面白いと思った部分、第9章の「夢」や「モンタージュ」について書かれた部分の発展形態として書かれていると思う。)『カンバセイション・ピース』においても、主人公が住んでいる「家」の空間的な記述や、その内部で複数の人物が猫たちが話したり動いたりしている描写は(そこで話されている事の「内容」も含めて)、保坂氏の小説家としての力量を総動員したような密度の濃いものであると思えるだけに、それ以外の部分の「抜けた感じ」がとても惜しく感じられる。保坂和志『カンバセイション・ピース』最終回
03/04/12(土)
●『新潮』5月号の、保坂和志『カンバセイション・ピース』最終回。この小説については、完結したのであらためてもう一度最初から読み直すつもりだけど、とりあえず最終回はとても面白かった。保坂氏の小説が難しいのは、ほとんど保坂氏本人と重なってしまうような一人称の話者である「私」が考えたり喋ったりする事柄の内容だけを追ってゆこうとすると、冗長にしか思えないし、また、「私」のまわりに集まって、独特の「親しい」空気をつくっている人物たちの、日常生活の描写を追おうとすると、面倒な理屈が多すぎるように感じられてしまうところにあると思う。(普通に「小説」として読もうとするなら、初期の『プレーン・ソング』なんかの方がずっとバランスがとれている。)しかし、保坂氏の小説の面白いところは、決してそれらを分けることが出来ないところにある。ある「思想」なり「考え方」なりを表現するために、物語や人物が設定されているわけではないし、あるひとつの「サロン」のような親しげな雰囲気をつくりあげるために、それらしい思想や会話が盛り込まれるわけでもない。保坂氏の小説では、「私」の思想も、人物や猫たちの行動の描写も、家の空間の記述も、庭の木々の様子を描写することも、皆、世界を記述するという意味では同じ事であり、同じ重さをもっている。家のある場所の光の射し込み方を描写することと、世界と人間との関係の変化が人間に神という概念を必要とさせた、というような高邁な思想の記述との間には何の違いもない。違いがないだけでなく、そられは互いに複雑に関係し合い、反映し合い、絡み合っている。例えば、飼われている3匹の猫のそれぞれの行動や生い立ちや性格の違いが丁寧に描かれていることと、「私」が、「人間が考えるというのは環境を取り込むということの一種で決して閉じこもった内部だけの出来事ではない」と考えることとは密接な関係があるし、それらと、この小説が「ローズが引退した年」である2000年という特定の時期を舞台としていることとも繋がりがある。これらの不可分な関係が読みとれないならば、この小説はたんに冗長な身辺雑記に、それらしい思想を盛り込んだだけの話にしかみえないだろう。
●まだ一回ざっと読んだだけだけど、この最終回の、「私」と綾子の全く噛み合わない(しかし何かは確実に通じ合っている)会話の応酬から、猫も含めて全ての登場人物が一同に会する怒濤のラストへと至る展開は素晴らしい。ここでの保坂氏の描写の複雑さは、ロバート・アルトマンの『ウェディング』なんかを軽く超えているように思う。いや別に何かもの凄い混乱した事態が起きているわけではなくて、ただ6人の人物と3匹の猫が皆集まってきて、食事をしたり、ワインを飲んだり、猫と遊んだり、勝手に喋ったり、ちょっと別の部屋に行ってまた戻ってきたりしているだけなのだが、つまり、複数の人物が集まって「普通にしている」だけなのだが、複数の人物や猫が、それぞれ勝手に「普通にしている」という場で起こっている複雑な運動を、このように的確に描写した小説は、少なくともぼくはあまり読んだことがない。ひとつの家という大きなくくりのなかで、様々な出来事が散発的に起こっていて、それらがランダムに結びついたり離れたりしている様が描写されるわけだが、小説家としての保坂氏の特徴は、そのような場全体を、ある親密な空気で包むというところにある。おそらく保坂氏は、大勢の「親しい」人物がただ集まって、何をするでもなくうだうだしているという状況がとても好きなのだろう。(保坂和志の登場人物は、だから黒沢清の登場人物とは全く違う。)これが保坂氏の小説の最大の魅力であると同時に弱点でもあるようなものだ。しかし、若い時にはこのよう「まったり」した状況が成立しやすいのだが、年齢を重ねるごとに困難になってゆくのものではないか。事実この小説でも、夫婦間のかなりシビアな対立が描きこまれていたり、「若者」に対してあきらかに教育者=権力者的な立場での発言があったりする。これは『プレーン・ソング』の「ぼく」が30才そこそこだったのに対して、『カンバセイション・ピース』の「私」が40代半ばであることから必然的であろう。今後の保坂的「まったり」が、最悪の「おっさん同士のなれ合い」にならないためにどうするのか、というのは(人ごとではなく)結構重要な問題であると思う。保坂和志『カンバセイション・ピース』の連載1〜3回めまでを読み返した
03/06/27(金)
●保坂和志『カンバセイション・ピース』の連載1〜3回めまで(「新潮」02年8月〜10月号)を読み返した。最初に読んだ時は連載中で、つまり一月に連載一回分という風に小分けに読んでいたわけで、3回分をつづけて読んでみると、最初の時とはちょっと印象がかわった。(それに、最初に読むときはどうしても、「はやく先へとすすみたい」という気持ちが出てしまうのだが、一度最後まで読んだ上で読み返すと、「急ぐ」という感じがなくなっているという違いもあるかもしれない。)最初に読んだ時は、連載の第1回目はとても充実していたが、2回目、3回目はややダレた印象があり、特に2回目の庭木に水をやるシーンと、3回目の野球場のシーンは、やろうとすることは分かるけど、やはり冗長という感じは拭えないと思った。だが、まとめて読み返してみるとそんな感じはしなくて、むしろこの二つのシーンにはとても感心させられた。
●野球場のシーンについて。ここでは、いかにもホサカ的な二人の「変人」とともに主人公がベイスターズの試合を観戦している。この3人の間で、ファンであることの特徴のようなベイスターズに関する内輪でマニアックな話しが交わされ、試合の流れに沿った主人公の感情の変化や球場の様子が描写され、それらに寄り添って、球場で野球を観ることやある特定のチームのファンであることなどについての「考察」のようなものが記されて行く。このシーンでは一見、主人公の(保坂氏の?)野球観戦に関する「考え」や「蘊蓄」が述べられているようにも読めるかもしれない。そして、このシーンで主人公が「考えていること」の内容は、いかにも「ファン」であることによる偏向と言うか、意固地な思い入れや感傷を無理矢理一般化してしまうような傾向に流れていて、ぼく個人としては『カンバセイション・ピース』という小説のなかで様々に語られる主人公の「考えたこと」のなかで、最も違和感を憶える部分が多いと言える。にも関わらず、ぼくはこのシーンを(2度目に)読んで、まるで野球場へ行って実際に観戦しているかのような興奮を覚えた。(実際にはぼくはどこか特定の野球チームのファンということはないし、球場に足を運ぶこともあまりない。)それは、保坂氏の小説における「描写」の独特のあり方によるのではないかと思う。
つまり、保坂氏の小説においては、その時、その場で登場人物が「考えたこと」を記述することが、そのまま同時に、その時、その場で起こった事柄の「描写」になっているのだと思う。だからここで重要なのは、そこに記されている「考え」の内容そのものであると言うよりは、その「考え」が生み出されることが必然的であるような、「その場」のリアリティと言うか、その場とそう考える登場人物との絡み方そのものが刻み込まれているのではないだろうか。そこで起こっている事柄を描くためには、そこで考えた事が記述される必要があり、その時重要なのは、その「考え」の一般的な妥当性であるのではなく、その「考え」が表現している、その場所での出来事と登場人物の関わり方のリアリティの方なのだ。野球場のシーンで主人公によって示される思弁的なものの内容は、ベイスターズのファンであること(2000年にベイスターズが置かれていた状況)や、球場にいることの「熱」によって規定されたものであって、一般的な妥当性や科学的な正当性からは明らかな偏向がみられるが、だが、その色づけられた偏向をその記述から読みとることで「熱」を感じ、それが球場で観戦しているときの、球場全体を覆うある雰囲気がそこから読みとれるのだ。(そしてその「雰囲気」とは、野球場で野球を観る時の一般的な雰囲気ではなく、おそらく2000年にベイスターズを観ることという個別的な出来事と切り離せない「雰囲気」であり「感情」であるのだろう。少なくとも、2000年にベイスターズを追っかけていたわけではないぼくにもそう感じさせるようなものがある。)
●何かについて考えるということは、その「何か」の個別性を一般化し普遍化しようとするという傾向を必然的に持っている。しかし、考えた事の一般化された内容が、個別的な出来事である「何か」によって促され、導かれたものである以上、一見、一般的なものであるかにみえる「考え」のなかに、その個別性が実は描き込まれている。保坂氏が小説に描き込もうとしているのは、考えの一般化された内容の方ではなく、その考えのなかに描き込まれてしまっている、ある事柄の個別性の方にあると思う。『カンバセイション・ピース』の横浜球場のシーンが面白いのは、そこで示されている考えの内容には同意できないとしても、その同意出来ない「考え」のなかから、その考えを必然的に生み出すようなその場その時の状況や、その考えに導かれる「ある人物」の実在のようなもののリアリティが、小説の記述から読みとれるからだ。だからぼくは保坂氏の小説を一種の「哲学小説」のようなものとして読むのは間違っているのじゃないかと思う。保坂氏の小説に書き込まれる様々な「考え」は、なにかしら「確かなもの」を確定しようとする原理的(科学的)な思考とは何の関係もないように思える。(例えば、我々はあらゆることを疑えるが、それを「疑っている」主体である私の存在だけは疑えない=確定している、といような思考とは全くことなる。)むしろ、「考えること」と、見ることや聴くこととといった「知覚すること」との間に(そしてもっと言えば「妄想すること」との間に)基本的には差異が設定されていないような世界なのだ。ある「考え」は、一般化、普遍化、つまり「真理」に向けられたものではなく、ある特定の状況に対する特定の反応であり、それが、反射的行動や、知覚などよりも、ずっと「遅れて」やってくるという時間的な違いがあるというだけなのではないだろうか。だからこそ、「考え」を記述することこそが「描写」することでもあるという、独特なエクリチュールが可能なのではないか。もっと極端なことを言ってしまえば、『カンバセイション・ピース』という小説は、チャーちゃんという猫が「死んでしまった」という事実をなんとしても受け入れたくない気の狂った男の歪んだ「妄想」ばかりが綴られている小説で、この小説が表現している唯一の意味は、こんなに狂った男が「実在している」というリアリティだけなのだ、と言ってしまうことさえ出来るかもしれないのだ。(この最後の文と、その前の展開との繋がりと言うか、飛躍は、ちょっと説明不足で分かり難いかも知れないけど。)セザンヌ/花/春の嵐
02/07/13(土)
●セザンヌの「花」について。セザンヌの描く人物は、躍動するような生命感や切ったら血が出るような生々しさを外に向けて発しはしない。彼らはかたくなに自らの本質のなかに孤独に閉じこもって、それ以外ではあろうとしない。ぼくは、セザンヌは物事の「本質」や「存在」を描く画家だ、などという言い方に荷担したくはないのだが(そんな単純な分り易さのなかにセザンヌを閉込めたくないのだが)、それでもセザンヌの人物が生命のもっている不安定なうつろいやすさを捨てたところで成り立っていることを認めざるをえない。セザンヌにおいて生命の生々しさや官能性を現しているのは、静物画に描かれる果実たちであるだろう。しかしその果実たちにしても、ナイフで切ったり口に含んで噛んだりした時に芳醇な果汁がしたたるような瑞々しさ(それは、指で押しただけでもそこから黒ずんで痛んでしまうような「腐り易さ」でもあるのだが)を表現しているからではなく、その生命感はもっぱら、色彩の対比や形態、そしてそれらの画面上でのリズミカルな配置という構造的な要因によって生み出されていると言えるだろう。セザンヌは果実は描くが花は描かない。その理由は簡単で、セザンヌは一枚の絵を描くのにひどく時間のかかるのに、花はすぐ萎れたり枯れたりしてしまうからだ。(セザンヌの描いた花の絵のほとんどは、ドラクロアの水彩画からの自由な模写である。)果実は、ある生々しさやうつろいやすさをもってはいるが、あくまで「事物」であり「世界内的=現実的」な存在であるが、花は、事物と言うよりもむしろ「現象」に近く、「非世界的=非現実的」な存在であるように思う。おそらくセザンヌにとって「花」はあまりにも(「どぎつい」と感じられる程に)鮮やかに過ぎ、あまりにも手ごたえがなく掴みどころのないものだったのだろう。
セザンヌにとって例外的な花の絵(菊)を、バーンズ・コレクション展で観たこがある。その最晩年(1900年頃)の作品の図版が、今、手許にあるのだが、それには、いつ観てもちょっと冷静ではいられなくなってしまうようなショックを受ける。これは、ぼくにはセザンヌの仕事全体を破壊してしまうのではないかと思えるくらいに、乱暴に描かれた「どぎつい」絵であるように見える。セザンヌの作品は、とても慎重に吟味されたニュアンスの幅を持った色彩のタッチが、画面を循環するように配置されてゆく訳なのだが、この菊の絵においては、赤は画面のどの位置でも同じ(ニュアンスの差の無い)赤であるし、黄色は、あまりにもただ黄色であって、まるでパレットの上で色彩を充分に吟味する時間さえも惜しいかのように、矢継ぎ早に荒々しく筆が入れられたという感じなのだ。とりわけ「白」の色の生っぽさには、いくら見ていても目に馴染んでこないような、神経に触るような感触が残りつづける。中期以降のセザンヌで、こんなに色彩に対する配慮を欠いた乱暴な絵は、ぼくは他には知らない。セザンヌにおいては、ひとつひとつのタッチはとても注意深く慎重におかれるのだが、その集積としての結果が「凄いこと」になっている、というが普通なのだ。しかしこの作品は、たんに破綻した失敗作としては片付けられない、「作品」というものの臨界点のようなものを示しているように(作品というある「構造物」の生成と崩壊がどうじに起こるように地点を示しているように)感じられる。それはまるで、ふと寒さが弛み、あたりに一斉に花が咲きだした時に感じられる気持ちの悪さ、「春」の胸がざわつくような気味の悪さに通じるような感触なのだ。晩年のある日、普段なら決して描くことのない「菊」をふと描いてみようと思った時に、セザンヌを横切ったのは一体どのようなざわめきだったのだろうか。最晩年の、春の嵐?『木更津キャッツアイ』について、うだうだ。
02/07/14(日)
●ビデオで『木更津キャッツアイ』の1話から6話までを観る。(てっきり日テレのドラマかと思ってたら、TBSのだった。)出だしはとても面白いと思った。ドラマの組み立て自体は、あまり上等とは言えないやり方(例えば、物語を説明するための回想の多用や、小ネタを沢山盛り込むことで場を繋いでゆくような手法)でも徹底してやってしまえば「スタイル」になる、という今どきのドラマの系列上にあるという以上のものは感じられないけど、設定やキャスティングも含めた人物造形や感情表現のリアルさ、巧みさには驚いた。例えば、うぜえ、とか、重てえ、とか、なんだこの空気は、とかいう言葉で言われるようなものの内実をここまで的確に描いたドラマはぼくは他に知らない。このドラマを、10年前、20年前のドラマと比べてみると、人間同士が接触する時の(「感情」を「交換」する時の)やり方と言うか「作法」が、いかに大きく変化したかが分るだろう。一見、騒々しくも薄っぺらなだけにもみえる今日的な「接触の作法」のなかに、どれだけ繊細で豊かな感情表現を盛り込むことができるか、という点で、かなりの高度な達成を示しているように思う。一見平板で均質なものにみえる人間関係に、微妙で決定的な差異を設定している人物の配置なども素晴らしい。
しかし、気に入らないのは、こういうドラマなのにも関わらず、中盤での中だるみが生じるのを防ぐためには、ああいうやり方で「人を殺す」ことをしなければドラマを持たせることが出来ないのだろうか、ということだ。なにも、古田新太をああいうやり方で殺さなくても、あれだけ巧みな人物設定があり、あれだけの俳優がいるのだから、もっと豊かなバリエーションをいくらでもつくれたはずではないのか。劇作術としては最も安易で最低とも言えるやり方で、無理矢理に過剰な盛り上がりをつくろうとする、古田新太が死んでしまうエピソードで、それまでかなり面白いと思って観ていたのが一気にひいてしまった。こういう安直な「盛り上がり」をつくらなければ気が済まないという点で、ぼくはどうしても宮藤官九郎という脚本家を信用することが出来ない。このドラマの成功は、決して脚本家の手柄という訳ではないと思う。
02/07/16(火)
●台風が迫っている、明け方の4時頃。生暖かくて湿った強い風がゴウゴウという音をたてて吹き付けている。明るくなりはじめた空が、一面無気味な薄むらさき色に染まっている。
●DVDで『木更津キャッツアイ』の7話から9話。はじめの2〜3回くらいは面白かったのに、だんだんダレはじめ、後半はたんなるチープでジャンクな「小ネタ」の連発でもたせているだけのドラマで終わってしまった。はじめから「話」のつくりとしては弱かったが、人物たちの多様な関係性だけでもたせていたような話が、「オジー」が死に、「教頭」がどこかへ消えてしまい、「監督」も刑務所へ入ってしまったりで、どんどん世界が狭くなり、結局主役の5人の若者たちだけの話になってしまい、そうなるとただ「内輪ウケ」の「小ネタ」しか残らないのも当然だ。(外との関係が切れてしまえば、もともと外との関係によって成立強いた5人それぞれの差異もみえなくなってしまい、5人のキャラクターも平板になる。)例えば、「美礼先生」というギャラクターは、教頭や生徒たちとの緊張関係によって成立していたのに、教頭が消え、生徒たちとの関係も知らぬ間に緊張が無くなってしまえば、たんに間の抜けたオバサンになってしまうし(先生は教頭からしつこくセクハラ=ストーカー行為を受けていて、そのストレスから生徒たちにいやがらせをするようになる。教頭は教頭で家庭に大きな問題を抱えており、妻からのDVに悩まされ、そのストレスが先生への行為に繋がっている。そしてこの2人の関係が単純ではないのは、かつてはこの2人の間に信頼関係が成立していたらしい、ということで、この事実が2人の関係をいっそう捩じれたものにしている。このような微妙でリアルな関係が、軽いギャグの連鎖として描かれていたのだ)、ヤクザであると同時に物まね教室の講師である「山口」という人物は、ヤクザの手下であると同時に高校野球の監督でもある「猫田」という媒介的な人物によって5人と関係していたからこそ生きるキャラクターだったのが、猫田がいなくなってしまえば、たんに物まねを披露するだけの人物になってしまう。脚本家は、これだけ面白い設定をつくり、これだけのキャストを得ていながら、関係を展開させることを簡単に放棄して、ただどれだけ「小ネタ」を仕込むことができるか、という安易な展開に変更してしまったのだ。関係を展開することを放棄しておいて、そこにいきなり実名で「哀川翔」や「加藤鷹」といった有名人を登場させてみても、それはただの一発ネタに過ぎなくて、それ以上どのような展開も見込めない。有名人が実名で登場する回が特にテンションが低く感じられるのは、一発ネタにしか過ぎないもので、放送一回分をもたせようとするからだと思う。
02/07/17(水)
(『木更津キャッツアイ』について、もうちょっとだけ引っ張る)
●『木更津キャッツアイ』の主な5人の登場人物たちは、皆、ヘヴィーで厳しい、あるいはパッとしない現実に曝されている。なかでも主役の「ぶっさん」はガンであと半年足らずの命だと宣告されている。しかしだからこそ彼らは、彼らが生きている様々な局面において、「重た」くなったり「うざ」かったりすることを極端に嫌う。そこで彼らは、人間同士が関係する場面が決して「重た」くならないような「接触の作法」、「感情の交換の作法」を高度に洗練させてゆく。例えば「反省」や「内省」というのが感情の動きのひとつの形式だとするなら、決してそのような「うざ」い形式に陥らないような、感情の動きについての「別の形式」をつくりあげればよい。『木更津キャッツアイ』は、まずこのような決して「重たく」ならないような「接触の作法」の高度に洗練されたものの表現としてリアルだ。(そのような「感情の交換の作法」を表現の形式としている。)リアルだというのは、実際に最近の若者がそのような「接触の作法」を使用しているということではなくて、そのような「接触の作法」が要請されざるを得ない現実があるという感覚がリアルなのだ。まわりから見て、どんなに軽薄なふざけた態度にみえたとしても、彼らはそのようなふざけた形式を選択するしかないような、切実な現実のなかにいるのだ。しかし、いかに彼らが決して「重た」さや「うざ」さに陥らないような「感情の交換の作法」を洗練させたとしても、彼らのまわりにある複雑に錯綜した関係が、その洗練を常に脅かしつづけ、亀裂を生じさせる。「なんか空気重たくねぇ」と口にせざるを得ない状況になることは避けられない。このとき、徹底して薄っぺらにありたいと願う彼らの存在に否応なくある「厚み」が生じてしまう。(薄っぺらでありながら豊かなニュアンスに富んだ感情が湧出する)この時に「厚み」は、「深刻さ」とともにあらわれるというよりも「気まずさ」としてあらわれてくる。『木更津キャッツアイ』の物語は決して面白いものではない。それが多少でも気の効いたものにみえるとしたら、程よい時制の混乱によって視聴者を軽く刺激しているということだと思うが、しかし今どきその程度のことは珍しくも無い。このドラマのリアリティは、あくまで徹底して軽薄であろうとする「接触の作法」の洗練と、しかしそこに否応なく入り込んでくるノイズとしての「気まずさ」の緊張にある。それは「物語」によってもたらされるものではないだろう。
ドラマの中盤に訪れる「オジー」の死は、主人公の「ぶっさん」に、それまで自分でもイマイチ現実感が希薄だった「自分の死」に直面させるために導入されたものだろう。「オジー」の死によって「ぶっさん」は自分の死について深刻に考えざるを得なくなる。しかし、もともと物語としての構造がとても弱かったこのドラマの中盤に仕掛けられた唯一の「大仕掛け」である「オジー」の死は浮きまくっていて、それまで「物語」以外の要素によって保たれてきたドラマの緊張感が崩れ、安易なメロドラマ的な分り易さや「泣き」にはしらせてしまった。そして、この「オジー」の死を巡るエピソードが収斂した6話が終わった時点で、このドラマは事実上終わってしまっていた。7話から9話までは完全に緊張感を失った付け足しでしかなく、もはやここでは「接触の作法」の洗練もなく、だから「気まずさ」も生じることがなく、ただ、それほど面白いという訳でもない「小ネタ」の連続があるだけになってしまった。80年代と、ある水準について。
02/07/19(金)
●個人でも集団でも同じだと思うのだが、余裕がある時というのは、自由でオープンでいられるし、大きな視野をもつことも、ラディカルな実験も可能だし、他者に対して寛容であることも出来るのだが、余裕がなくなり、いっぱいいっぱいという状況では、とりあえず今もっている権利や財産に固執するようになるし、そのためにあからさまに野蛮な行いが生じ、その反動として安定した秩序にすがりたがるし、他者にも不寛容となる。このような条件からはだれも自由ではいられず、逆にだからこそ、余裕のない時にその人の真価が問われるということでもある。
『ぴあ』で80年代特集のようなことをやっていて、そこで糸井重里がインタビューに答えていた。糸井氏は、みうらじゅんに会った時に「幸せって何だと思う」と聞いたら、「あの頃糸井さんはそんなこと考えなくていいって言ったじゃないか」と本気でみうら氏が怒ったということを語っている。それでも糸井氏は、今、気になるのは「幸せって何だっけ?」ということなのだと言っている。みうら氏が怒るのも当たり前で、これを読んでぼくもかなりマジで腹が立った。でもまあ、結局糸井重里という人はこの程度だったということなのだろうか。それに対して、その仕事を評価するかどうかはともかく、糸井氏のことばに本気で怒ったというみうらじゅんは今でも、ある「線」から一歩も後退はしていないということなのだと思う。最近の、風俗としての80年代的なものの回帰に対しては、ぼくは「嫌な感じ」しかもたない。しかし、日本の80年代が、バブル景気にのっかっただけの全くたわけた馬鹿騒ぎに過ぎなかったとしても、そのような馬鹿騒ぎを可能にした経済的な「余裕」によって初めて獲得されたある一定の「質」と言うか「水準」というものが確かに存在したはずだし、馬鹿騒ぎが終わって厳しい時代に入ったからといって、そこで獲得された「水準」を簡単になかったことには出来ないという思いが、その時代にちょうど10代を過ごしてしまったぼくには抜き難くあるのだ。
●日本の「美術」にとって80年代はある捻れとともにある。世界的にみれば、絵画の死が決定的なものとなり、モダニズムの終焉の象徴ともいえるような新表現主義(ニューペインティング)の嵐が吹き荒れているその時代に、何故か日本では30年遅れで、モダニズムの最も純粋な形態とされるアメリカ型フォーマリズムの作品や理論が本格的に輸入され紹介され、そのような文脈で評価されるべき一定の質をもった作家も、何人か出現したのだった。欧米においては、新表現主義の台頭は絵画=モダニズムの終りとしてあったのに、日本では絵画=モダニズムの(再?)発見としてあらわれた。60年代以降のラディカリズムの行き着く果ての閉塞状況を打破するために要請された「描くこと(ペインタリーなもの)の復権」という文脈が、欧米ではモダニズムを終わらせ、日本においてはそれを召喚するという結果になったのだった。この時期の日本では、バブル景気の狂騒によってほんの一瞬だけ、モダニズム的な絵画の流行という現象が起こる。ぼくなどはこれにモロに影響されてしまった訳で、確かに、欧米の美術市場などからみれば、いまさらモダニズムを、ましてや東アジアの画家などに期待するなどということは全く有り得ない話だという意味において、ぼくなどは一種の「ガラパゴスの珍獣」のようなものなのかもしれない。しかし、それがいかに「ガラパゴスの珍獣」的なものに過ぎないとしても、そこで一瞬でも垣間見られたある決定的な「水準」を、そうそう簡単に忘れてしまうことは出来ない。
●この日記でも前に触れたけど、ぼくは今、80年代はじめ頃の柄谷行人に何故か惹かれている。この時期の柄谷氏は端的に言って「行き詰まっている」と思うのだが、その行き詰まりが異様なまでの緊張を生み出しているようにみえるのだ。
《言語学は言語を対象としますが、そもそも言語は言語学自体を可能にするものであり、そのようなものとしての言語はけっして考察されないのです。貨幣も国家も同様です。われわれは、「人間」や「人類」から国家をみることができるが、国家こそそのような超越を可能にしています。いいかえれば、われわれはあるシステムまたはコンテクストから超越しうるがゆえにそこに内属しているのです資本主義あるいは近代国家を超越する「社会主義」が前者に反転してしまっている事態に、今さら幻滅する必要があるでしょうか。》(「アメリカの思想状況」1981年)《「近代国家」を超越する原理(メタレベル)はない。たとえば、基本的人権・人間性は、国家によってこそ保証されるのである。国家をこえるあらゆる普遍的原理(神・人間・自由.....)は、そのままで、国家に下属してしまう、または国家主義に帰着する。これは矛盾でも転向でもない。そのような反転(図と地の)を阻止することはできない。「決定不能性」とはそういう意味である。われわれは確固たる世界を構築するための「基礎」を根本的に欠いているのだ。》《現在、世界的に露出しつつある国家主義を"直接的"にあるいは"超越的"に批判できる原理はない。むしろそのような原理が反転して国家主義となるのだ。しかし、これはべつに現代の特徴ではなく、いわば人間の条件であって、そのことが明瞭化してきただけだというべきである。》(「八〇年代危機の本質」1981年)
このような、緊張が強いる「水準」は、どんなに些細な「実践」の場においても譲るべきではないのではないだろうか。小島信夫の初期短編を集めた『殉教・微笑』を読む。
02/07/21(日)
●講談社文芸文庫の小島信夫の初期短編を集めた『殉教・微笑』を読んで意外だったのは、その読み易さだ。(ぼくは今まで小島氏の「小説」を最後まで読み切ることが出来てなかった。)この「読み易さ」は、いかにも文学的な小説作品としてよく出来ている、というところからくるように思う。確かに、例えば『小銃』には、通常フェティシズムと呼ばれるものとは違う、何とも不思議な感触でモノ=小銃への執着が、そしてその小銃が「女」と重ねられても、たんに象徴という機能では割り切れないかたちで描かれてはいるし、『微笑』では、小児麻痺をもって生まれた息子に対する、理不尽であり理解不能とも言える感情が、「てにをは」のおかしい、軸がぶれてしまっているような、距離感のくるっているような、あの独自の文章で描かれていて、そう簡単には「よく出来た」と言って済ますことなど出来ない、小島信夫的というような固有名を使ってしかあらわしようのないものではある。しかしそれでも、ここに納められた作品は普通に文学作品を読む時の読解のコードによって、かなりの部分まで読めてしまうように「きちんと」書かれていると言える。
そのような意味で、最も典型的によく出来た小説が『吃音学院』(昭和28年)だろう。ここにはまず世界=言語への根本的な違和を現すものとしての「吃り」かあり、それを矯正するための「吃音学院」という、世間から隔絶された、まただからこそ世俗的なものがより凝縮されたかたちであらわれる場所がある。もうこれだけで充分に「文学」ではないか。話者であり主人公であり、そして「実在する作者」そのものにきわめて近い存在でもある「僕」という人物は、一見道化的な役割を与えられているようにみえて、実は物語を記述するための最もニュートラルで「まとも」な、いわば「信頼できる話者」とも言い得る安定した位置にある。その「僕」に対して、世俗的なものをグロテスクなまでに体現した諸都という人物が、ちょうどライヴァル関係にある者として設定される。そしてもう1人の重要な人物として、吃音を矯正するために学院にいるにも関わらず、一言も言葉を発しない女、柿本がいる。彼女は沈黙によって吃音と拮抗しているような存在であり、抑圧された言葉のかわりに部屋いっぱいにあふれるほどの折り鶴をかざっているような女である。醜い「吃り」に対して、折り鶴という「美」によって抗っている沈黙の女。一方にあまりに世俗的な男がいて、もう一方に超俗的な、「沈黙する女」がいる。実際に書かれている言葉を読めばそうでもないが、この設定だけみると、ほとんど「通俗」とギリギリの(川端康成みたいな)典型的な「文学的」設定と言えるだろう。「僕」は柿本に対して恋愛感情をもつのだが、その「純粋な感情」そのものが、ライヴァルである諸都が「百人という悲願」をもつ、というような男であり、その標的として柿本を狙っている、というところから発しているのだ。これは典型的な「三角関係」であろう。そして、この「沈黙する女」がはじめて声として言葉を発するところでこの小説は締めくくられる。何と見事な「サゲ」と言うべきか。(このように書くと、つまらない小説のように思えるかもしれないが、これは「文学的なコード」に沿って書かれていることを示すためにあえて凡庸に要約しているのであって、実際に読めばとても良い小説なのだ。)
小島信夫という名前を『別れる理由』によって知り、主にそれ以降の小説によってイメージをもった者としては(最後までは読んでいなとしても、かなりの数の小説を「読みかけ」てはいるのだ)、このように「きれいに」つくりこまれた小説を読むと驚いてしまう。しかしそれでも、『アメリカン・スクール』(昭和29年)になると、何か妙な歪みが小説の構成にみられ、独自の「きもちわるさ」がみられるようになる。
(明日へ、つづく。)
02/07/22(月)
●『微笑』においては小児麻痺をもって生まれた子供、『吃音学院』においては吃り、つまり、主体に過度な緊張を強いて、世界との関係に躓きや歪みを生じさせる現実的なものに当るのが、『アメリカン・スクール』では、アメリカであり英語である。しかし『吃音学院』では、吃音という現実に対しての抵抗としてあらわれる「沈黙」は、主人公=主体にとって恋愛の対象である「女」によってなされていて、つまり沈黙は「美的」な抵抗としてあった。対して、『アメリカン・スクール』では、アメリカ=英語に抗する手段としての沈黙は少しも美的ではなく、たんに馬鹿げていて滑稽なだけであり、それを担っているのも女ではなく、『吃音学院』における「僕」にあたるような、とりあえず中心人物と言っていいだろう伊佐という人物である。(中心的な人物である伊佐に対してライヴァル関係にある過度に俗っぽい人物として「山田」という男がいて、この2人のライヴァル関係を刺激するような存在としてミチ子という「女」がいるという設定は、『吃音学院』とほぼ同じであると言ってよい。)つまりここでは、中心人物が滑稽で理不尽な思考や行動をとっている以上、この人物は世界を観察し記述するニュートラルな者として適当ではないことになる。いや、世界に対する不可解で理不尽な態度そのものをみずからの歪んだ視点から記述することはできるだろう。例えば『微笑』という作品はそのようなものだ言える。しかし『微笑』では、「僕」の息子に対する様々な歪んだ感情や態度を、そしてそれが常に妻や世間という第三者の視線を意識したものとして生じるらしいという気配を、描くことは出来ても、「僕」と息子と妻という三者の関係の力学のようなものを『吃音学院』のようにして描くことは出来ない。『微笑』においての「僕」の不条理とも言える記述は、言ってみれば「僕」の孤独な「思い込み」の強度によって支えられていると言えるからだ。だから『吃音学院』における「僕」の位置に、『微笑』の「僕」を代入することが、『アメリカン・スクール』では目指されているよう思う。このことから、『アメリカン・スクール』では三人称が採用されるのだろう。しかし、三角関係とも言える関係を三人称で描くといっても、三人の人物全てに焦点が当てられる訳では無い。『アメリカン・スクール』において焦点化されるのは、中心人物である伊佐と、あとミチ子との2人であり、山田という人物はいつもこの2人の視線によって浮かび上がるような存在でしかない。
伊佐はあきらかに中心人物であり、その存在によって『アメリカン・スクール』の世界の基調を支えているひとつの「人格」である言える。しかし、伊佐がアメリカ=英語に対して抱いている違和感は理路整然とした明確なものではなく、それは異様なまでに頑な沈黙や滑稽さとしてしか現れようのないものであり、それは自分自身を記述するやり方では捉え切れず、第三者の視点によって外から描かれることが必要となるだろう。だからミチ子という人物はまずは、伊佐の滑稽さを、外側から眺める存在、相対化する存在として要請されている。だからここで、伊佐に対してもミチ子に対しても山田に対しても、ひとしく襲いかかる強力な現実、絶対的に優位にある他者としてのアメリカ=英語という環境があり、それに対する反応として、『アメリカン・スクール』という小説の基調をなしている見苦しくも滑稽な伊佐的世界があり、それを相対化するミチ子的な視点があり、ということになればこの小説はすっきりと読める訳なのだ。
しかしそう簡単にいかないのは、見苦しい滑稽さを強いられているのは伊佐だけではなく、ミチ子も山田も同じであるというところなのだ。山田という人物はいわば伊佐の裏返しであり、徹底した沈黙をまもろうとする伊佐に対して、自分の英語力を相手(アメリカ側?)に誇示することで、自分の圧倒的な劣位を跳ね返そうとするマッチョなのだが、その行為そのものが圧倒的な劣位の証明以外のなにものでもないという意味で滑稽である。ミチ子は、山田以上の英語力をもちながら、伊佐的な「恥ずかしさ」の感覚をももっているという点で、最も自身の位置に自覚的であり、程よくバランスのとれた聡明な存在とも思える。しかしそのような「聡明さ」など、圧倒的に優位にたつ他者の前では何の役にもたたないことが示される。
だからここでは、ある中心的な存在とそれを相対化し記述する視点があるのではなく、たんに2つの軸があるだけなのだ。しかし2つの軸が同等なものとして併置されるというのとも違う。軸はあらかじめ重なりつつもブレているのだ。アメリカという絶対的に優位な他者とそれぞれの人物との関係が示されているだけではなく、同時に劣位にいる人物同士の関係も示されている。つまり、伊佐と山田との関係は、「アメリカと伊佐との関係」と「アメリカと山田との関係」の関係であり、伊佐とミチ子のと関係も、「アメリカと伊佐との関係」と「アメリカミチ子との関係」の関係であるしかないのだ。そして、伊佐の頑なで滑稽な態度は、たんにアメリカとの関係にだけよって出来上がったされたものではなく、山田的な人物との関係、つまり「アメリカと山田との関係」と伊佐との関係によっても強いられているのだ。(「恥ずかしさ」というのはそういうことだろう。)ミチ子とアメリカの関係にしても、それは、「ミチ子と伊佐と山田との関係」とアメリカとの関係であるしかない。だからこそミチ子個人の「聡明さ」ではどうすることも出来ない。頑なまでに滑稽な、記述されるべき特異な存在としての「伊佐」という軸と、比較的聡明でニュートラルな、安定した記述を可能にする存在としてのミチ子という軸の2つがあって、それによって記述の流れにブレが生じるだけではなく、それぞれの軸がすでに複数の関係の交錯や複合によってブレてもいるからこそ、『アメリカン・スクール』の記述には、何とも把握しがたいギクシャクとした歪んだ動きがあり、その記述の運動自体の滑稽さは、伊佐やミチ子や山田が強いられている滑稽さによって要請され、強いられているのだと言えるだろう。クリストファー・ノーランの『メメント』
02/07/25(木)
●クリストファー・ノーランの『メメント』をDVDで。(以下、ネタバレあり。)人は自分に対しても嘘をつくが、嘘をついたこと自体を忘れてしまう。忘れてしまうことが分かっているからこそ、自分に嘘をつくことが可能になる。この時、嘘をつく自分と騙される自分は非連続であり乖離している。しかし結局どちらも自分でしかなく、その行為は閉じている。記憶をごく短い時間しか保持することのできない『メメント』の主人公は、確定的と思える事実を自分の身体に刺青として彫り込み、とりあえず目先の行動に必要な記憶の代用として、ポラロイド写真やメモをスーツのポケットにいれている。彼は、記憶は嘘をつくが、物質的な痕跡として残されているこれらの記録は確かなものだ、という意味のことを言う。しかし結局は、一時的な感情によって自ら書き込んだいい加減な記録=情報によって騙されることになる。様々な記録=情報が現在の彼の手許にはあるのだが、それらの記録たちそれぞれの「来歴」はすぐに忘れられてしまう。来歴が失われてしまった記録の信ぴょう性を保障するものは何もない。ただ、自分が自分を騙すことはないはずだという信頼だけが、その信ぴょう性を保証しているにすぎない。しかし、自分は平気で自分を騙す。と言うか、そもそもそれ以前に、今、たまたま自分のまわりに集められているそれらの記録たちが、本当に自分の手であつめられたものなのか、他者の何かしらの悪意やらあるいはたんなる偶然から、何かしら不純なものが紛れこんでいないという保証さえないのだ。しかし彼は自らあつめたそれらの記録を疑うことはない。その理由は、彼の前には次々と新たな解決しなければならない問題=状況があらわれてくるので、彼には「懐疑」している余裕などないからでもあるが、それと同時に、彼はどこかで実際には「騙されたがっている」からということも言えるのだ。つまり、騙している自分と騙されている自分は乖離していて、だからこそ「騙す」ことが可能なのだが、しかしやはりどちらも自分でしかない以上、騙したい自分の利害は、騙される自分の利害とどこかで繋がっていて、つまりあらかじめ「騙されたがっている」自分でしかないのだ。
●たとえば『ブレードランナー』においては、記憶は他者によって捏造されたものである。しかし『メメント』では、自分の記憶や記録を歪め、嘘をつくのは自分自身であり、その感情である。(そしてつまりその「感情」とは、自己正当化以外のなにものでもない。)だからここにあるのは完璧に閉じられた世界である。『ブレードランナー』であれば、自らの固有性を最終的に保障するものであるはずの「記憶」が、そっくりそのまま他人のものであることが分かったその時、「にもかかわらず、考える主体」としての「人間」があらわれる(ジジェク)、と言うことができるかもしれないのだが、『メメント』にあるのは完璧なまでに閉じられた迷宮のなかを、自己の現在地さえ探られないままにひたすら迷走をつづけるうちに自家中毒に陥ってゆく姿があるだけであり、そこに「考える主体」など生まれようもない。ここでは一切の「超越論」性が断たれてしまっている。観客として外側から眺めている限り、『メメント』の世界にはほんの僅かの謎もない。全ての事柄を明確に把握できるし、あらゆる細部がきれいに説明されている。見事に伏線が張り巡らされ構築されたこの映画では、どんな些細なシーンをもカットすることが出来ないだろう。確かに、時系列を逆転させた構成によって、映画を観ているその最中だけは、主人公とほぼ同等の混乱のなかに観客も入ることになるのだが(そしてそのことが、主人公への「感情移入」を可能にするのだが)、観終わってしまえば観客は全てを理解し、観客と主人公はすっぱりと切断され、この両者はどのように関係することも出来なくなってしまう。主人公は『メメント』の世界のなかに永遠に取り残されたままだ。
(もうちょい、つづく。)
02/07/26(金)
(昨日からのづき、『メメント』について。)
●目を瞑っても現実は消えない。『メメント』の主人公は、ある人物から、復讐を成功させたとしてもあなたはその事実さえ忘れてしまうから無意味ではないか、と問われて、そう答える。もし自分が忘れてしまったとしても、現実の有り様は変わらないのだ、と。妻を殺した人物は実在するし、自分がそいつを殺せばそのことを忘れてしまったとしてもそいつの死はかわらない。しかしその「現実」とは一体何なのか。彼にとって知り得る現実とは、因果関係が分らないままに次々と目の前に生起する事柄であり、それを読み取ることを可能にする手がかりである、ポケットのなかの写真やメモ、自身の身体に刺青として刻まれた文字だけである。彼は記憶がないかわりに、次々と感じられる「感覚」の生々しいリアリティを信じている。まさに「今を生きる」主人公は、この「感覚」によってこそ、現実とつながっているのであり、そのことだけは確かだ、と信じている。しかし実は、それを読み取った上である特定の文脈上に配置することの出来ない「生々しい感覚」とは、「夢」と何らかわりはない。ある「経験」が、それを「経験する主体」の外側にある現実と繋がっているという保証はどこにもない。彼にとってその「感覚」が決して「夢」ではなく現実だと信じさせるもの、つまり「現実感」(文脈あるいはフレーム)の構成を可能にしているのは、「妻は殺された。よって、妻を殺した者を殺さねばならない。」という強い決意、つまり思い込みであり信仰であるにすぎない。何も彼は失った妻への深い愛情によって執拗に犯人を追っている訳ではなく、彼はそのようにしてしか「現実」を生きることが出来ないということなのだ。(つまりこれは徹底して彼の都合の良いように組み立てられた物語である。)彼が「営みの不在」へと落込むことなく、現実を構成しその内部で生きることが出来ているのは、他でもない「妻を殺した人物」の存在であり、殺人者が「存在してくれている」おかげである、とさえ言える。この映画で唯一確実な「事実」と言えるのは、繰り返すが、「殺人者のおかげで主人公は現実を生きることが可能なのだ」ということだけである。彼には一応、生まれてから妻が殺されるまでの記憶は正常に保持されていることになってはいるのだが、映画の終盤にはこの記憶の信ぴょう性すらが疑われることとなる。彼の「生」にとって最も避けられなければならなのは、どのような現実的な「危険」でもなく、「実は殺人者などいなかったのではないか」という疑いを持ってしまうことなのだ。その疑いは、彼の「生の営み」を不可能にしてしまう。だから彼は、その疑いから逃れ、「殺人者は実在する」と自分自身に思い込ませるためになら、どのようなことをするのも厭わないだろう。幸いなことに彼は、自分で自分を騙したことをすぐに忘れてしまう。だから、彼の感じている感覚の生々しいリアリティなどは、彼と現実の繋がりなど全く保証してはいないのだ。彼は、自分は記憶を次々と失ってしまうのだ、という彼の生の前提として与えられてしまっている「条件」以外の、どのような現実とも繋がってはいないのだ、とさえ言える。自分のした事をすぐに忘れてしまうということを、何よりも自分がよく知っている訳なのだから、自分の「生の営み」を維持するために都合の悪いことがあれば、簡単に自分を騙すことができるし、そのためには平気で人も殺す。人を殺してもどうせ忘れてしまうのだから、罪悪感とも無縁でいられるのだ。(回帰する記憶こそが他者を存在させる?)だからこそ出口が無い。唯一の出口は彼自身の死しかない。これはおそろしく滑稽で悲惨なことであるだろう。しかし実は、誰でもが彼と似たり寄ったりの存在であり、よって誰も彼を笑うことも哀れむことも出来ないだろう。『絵画の準備を!』(松浦寿夫×岡崎乾二郎)/「誰がセザンヌを必要としているか」
02/07/28(日)
●本は、目次を眺めて一番「美味しそうなところ」から読むので、『絵画の準備を!』も「誰がセザンヌを必要としているか」という6章から読み始める。ぼくがセザンヌについて書かれた本を読んでいつも不満に感じるのは、セザンヌの絵はあんなにも「異様」なものなのに、何故誰もそこから考察を始めないのだろう、ということで、しかしこの本ではまさにその地点から話が始まっていて、とても納得がいく。「異様」といっても、はじめから異様な絵にしようと「狙っている」ような異様さ、つまり「異様さ」によって絵を成立させようとしているような異様さとは違っていて、結果として異様にならざるを得ないような何かしらの必然性によって引っ張られているということだ。そして、かくも「異様」なセザンヌの絵が、何故20世紀の初頭にこんなにも広く受け入れられたのか、という問題になる。どう考えたってそんな絵ではないにも関わらず、「近代絵画の父」とか「画聖」とか呼ばれるようになってしまう。セザンヌは孤高の天才などではなく、20世紀で最もポピュラーな画家であるのだ。ここには2つの問題がある。こんなに異様な絵を熱狂的に受け入れた20世紀初頭の観客たちの欲望というのはどのようなものだったのだろうか、という事と、一旦受け入れられて「立派なもの」だということになると、人々はこんなに異様な絵でも平気でアカデミックなものとして眺める事が出来てしまうのは何故なのか、ということである。
セザンヌが一見アカデミックに見えてしまう一因として、セザンヌ以降の美術史家や批評家、そして画家の多くが、セザンヌを通してそれ以前の古典的な絵画(の観方)を発見したからだ、ということがある。セザンヌの絵にはそのような力があり、だからこそ多くの人々に影響を与えることになった。しかし、セザンヌの絵は確かに広くて深い美術史的な教養によって支えられているのだが、たんに美術史的な教養の新たな組み替えというだけでは納まらない、根本的な「歪み」のようなものの上に構築されているようなところがあり、だからこそ、多くの人に影響を与えながらも、誰もセザンヌの示した可能性を正当に継承することが出来なかった。例えば、セザンヌの作品から感じられる異常な「緊張」、それを観ている者の身体をも硬直させてしまいかねない程の緊張というものを、美術史的な教養などから説明することは出来ないだろう。
あまりにも単純な解釈に着地させてしまうのは慎まなければいけないと思うけど、ぼくはそこにセザンヌという身体の固有性の問題は外せないように思う。(あまりこのことを強調すると、作品を「作家」の方へ囲い込んで閉ざしてしまうことになるのだが。)セザンヌには確かに誰よりも広く深い教養があり、誰よりも本質を鋭く見抜く目があったのだろうが、同時に誰よりも不器用でヘタクソな「手」とともにあったのだ。下手という言い方は、上手/下手という判断を成立させる安定した価値体系を前提としたようなものではなくて、例えば、スポーツのある特定の種目におけるルールや技術体系を前提にしなくとも、ある程度は「運動神経がある/ない」という言い方が成立するだろう、という意味において、運動神経がない=下手ということなのだ。つまり、手がスムースに目と連動しないということ。このような意味での下手=運動神経のなさは、人に自然な身ぶりを失わせ、身体のあらゆる部分に過度な緊張を強いるだろう。このような「自然」の失調こそが、人に過剰な勉強や教養を要請するものでもある。これは「自然さ」の欠如を埋めるために、その代用としての教養が要請されるというのとは違う。むしろ自然という秩序から常にズレてゆく溢れるような力が、スムースな流れを疎外するようなノイズとしてあらわれるということだろう。(だいたい、簡単に「自然と一体」になれるような人が、わざわざ自然を前に絵など描こうとするはずがない。)セザンヌの絵が、それを観る者に、ちょと過剰とも思える程の身体的=情動的な反応を誘発するのもそのためではないだろうか。
この本では、セザンヌの絵は、「観客」と「壁に垂直に立てられた絵画」とが、一対一で対峙するというあり方、つまり「視点」(例えそれが「多視点」であろうと)とか「正面性」とか言われるような絵画のあり方がそもそも成立しないような絵なのではないか、と主張している。その時思い出すのが、セザンヌが屋外で絵を描いてる時の一枚の写真だ。この写真では、前屈みになって描いているセザンヌに対して、何故かイーゼルの上のキャンバスも前に倒れた姿勢になっていて、つまり画家と絵とが「ハ」のような形(まるで『水浴図』の構図のように)で向かい合っているのだ。普通に考えればこんな状態では画面が歪んで見えてしまうので(画面を一望のもとに見渡すような)絵は描けない。画家が前屈みの「/」ような姿勢で立っていればキャンバスも平行になるよう「/」という風に設置して、画家とキャンバスは「//」と並ばなくてはならないはずだ。そういえばマティスがヌードのデッサンをしている写真でも、画家とモデルの距離が異様な程に近くて、これでは画家がモデルの頭から足先までの全身を一望するのは無理で、大きく首を上下に動かさなければ見えない、という写真もある。このような画家とキャンバス、画家とモデルの関係だけをみても、この2人の画家が「視点」などというものとは無関係な「イメージ」をつくろうとしていたことが分ると思う。
02/07/29(月)
(もうちょっと、『絵画の準備を!』の「誰がセザンヌを必要としているか」について)
●この章にには、セザンヌの異様なまでに緊張を強いるような作品に対して、もうちょっとリラックスした、いわゆる「偽物」としてのピカソ(による名画のヴァリエーション)が取り上げられている。これは個人的なことなのだけど、ぼくが絵画においての「空間」とか「構築性」とかいうことをはじめて意識したのが、ピカソによる、ベラスケスの『ラス・メニーナス』のヴァリエーションを観た時だったことを、今でもよく憶えている。(ちなみに、たんに色の汚い下手糞な画家としか見えなかったセザンヌを、はじめて「分かった」と思った瞬間もよく憶えている。それは勿論ピカソよりすっと後で、大学に入ってからだった。)ぼくにはピカソのこの連作が、絵画の空間構造についての物凄く的確で分り易い解説に見えた。ピカソの作品は、的確に通俗的であることによって、高い教育的な効果をもつのだと思う。ピカソによる『ラス・メニーナス』を観て、そこに絵画的に構築された「空間」を感じた時、画集のそのページには確か数枚のヴァリエーションが載っていて、それと同時にぼくの頭のなかにおぼろげながらベラスケスのオリジナルも何となく浮かんでいたはずだから、この時、絵画の空間性、構築性は、複数の作品の間の差異によって「見えた」のだと思う。だから、この本のなかで岡崎氏が、ピカソの一連のヴァリエーションの作品について、展覧会などに展示してあると一枚一枚独立した作品のように見えるが、実は「パラパラマンガ」のようなものだ、と言うのは、すごくよく分る。(ここでも、作品と観者が一対一で対峙する、というような鑑賞の仕方が批判されている。)ピカソは、自らの「手」に対する絶対的な自信によって、緊張感とは無縁である。自らの「手」がつくりだすものは何でも肯定してしまうというくらいの勢いなのだ。つまり《ひとつの最終的な結論、もっとも本質的なデッサンを目指して絵をどんどん変化させている過程がここにあらわれているとする考え》は根本的に間違っていて、むしろその逆で、《巨匠によって完成された最終作から逆に、その完成以前のほかにもありえたであろう失敗作、ヘタで猥雑なヴァリエーションを無数に引きだす》ということか行われていた、とする。これはピカソの基本的な方法であり、このようなやり方も、何かを創作する時の方法として、とても重要かつ有効な方法である。これはもっともっと強調されていいはずだと思う。ピカソははじめから、「決定的な傑作」を生み出そうとなどは考えていないようにみえる。あり得べき様々な可能性のヴァリエーションを、この世界のなかに顕在化してみせること。これは「芸術」にとってとても重要な事柄である。何も決定的な傑作や特権的な天才を生み出すためにだけ「芸術」がある訳ではない。
●この章の最後で岡崎氏は、サイ・トゥオンブリーを例に挙げて、視覚原理優位の空間とはまったく違う「ライティング・スペース」とも言うべきものがあって、このあたりを展開してゆくと、いままで容易には解消しなかった「フォーマリズム」と「イコノロジー」の理論的対立を揚棄する可能性があるのではないか、と言っている。らいてぃんぐ・スペースとは《電話で話しながら文字を書いてるようなときにしばしばありますが、文字は文字の大きさもそれらの文字が同じ空間内に重なっていても平気で成り立つわけですね。紙面全体の空間的配置も、文字相互の関係なんかも無視しても、そこで文字を書くということは平気で成り立つわけです。》というようなことだ。これはとても重要な指摘だ思う。と言うか、手前味噌になるけど、ぼくはずっとそんなことばかり考えて絵を描いているつもりなりだ。書く=描く原理と、それを見る原理とでは全然違う。だから、自分の書いた文字でも読めないということが起こったりするのだ。絵画はそのように異なる原理が同時に作動しつつ描かれるのだ。書く=描く原理からみれば、フレームなどというものも、ほとんど関係はない。しかし、ライティング・スペースというのも「見られて」はじめて成立するものな訳だが。『絵画の準備を!』(松浦寿夫×岡崎乾二郎)/判断/カント
02/07/30(火)
●『絵画の準備を!』(松浦寿夫・岡崎乾二郎)は、対話という形式上、纏まったテーマを深く掘り下げるというよりは、数々の刺激的なアイディアや指摘が、確定された場所をもたないままで散乱しているような本で、折に触れて部分的に何度も読み返したくなるような本だ。特に面白かったのは、後に『ルネサンス・経験の条件』へと纏められてゆくようなアイディアを語りつつ、想起を可能にする「場」としての、パラディグマティックな空間の可能性を探ってゆく2つめの対話と、モダニズムの条件というか、「芸術」の条件のようなものを、カントを参照しながら語ってゆく、『トランスクリティーク』とも直接繋がっているようなカント講義である最後の8つめの対話だった。
●最後の対話においては、カントによる「分析的判断」と「反省的判断」との違いが示される。分析的判断とは、「自動車は走る」のような、あらかじめ主語に与えられている概念に含まれているもの以外は合理的としないのに対し、反省的判断は、「自動車は監禁する」のように、前もって予想のつかない事態が事後的にそこから引き出され得るものだ。通常、科学は分析的判断のみを扱い、反省的判断は特殊な(偶発的な)ものとして排除される。そして、特殊を排除したまま分析的判断を無限に拡張することで、反省的判断まで包み込むことができるはずだという信仰を暗黙の前提としている。しかし、もし分析的判断によって全てを覆い尽すことが可能だとしら、あらゆる事柄は全て前もって決定されていたことになり、つまり「自由」も「責任」もあり得なく(無意味)になってしまう。さらに、分析的判断によって扱えないものが、たんに特殊な(偶発的な)ものでしかないとしたら、反省的判断はたんに事後的な事実確認でしかなく、我々は事物=世界を見ることで新たな意味を発見し生み出すことが出来なくなってしまう。そこで、アプリオリな総合的(分析的)判断というものが要請される。事後的なものとしてしかあり得ないはずの反省的判断が、アプリオリにあり得るという「理論的信」がある、と。つまり、実際の場面としては予想不能な不可避の事態であったとしても、そこから過去へと遡って考えることで、あの時ああすればこの事態は避けられた、と反省することができる。それはまた、未来に同じ事態が再帰した時にその事態をコントロールできる可能性の確保でもあるのだ。つまりそれによって、偶発的(特殊)な事態を「普遍」として扱うことが可能になる。例えば大地震で多くの人が死ぬ。これは不可抗力で、人間の理性など何の役にも立たない。しかしここから、理性や認識など無意味だという「意味」を引き出すのではなく、将来に関して、地震を避け得る「可能性」というのを見い出すことができる。つまりAという状況では不可抗力で責任など問えない出来事も、Bという状況であれば責任をとり得る。そして、Aという状況からBという状況を見る(差異を認識する)ことによって取る得る態度のなかに初めて「自由」が見いだせるだろう。それは、我々の前には、普遍は常に特殊としてあらわれるということであり、主体は結果が充分に予想されるよりも「手前」で判断を強いられ、それに対し責任を負わされる、ということでもある。(このような「責任」など主体にとっては理不尽なものでしかないのだが、しかし、この理不尽な「責任」によってこそ「主体」は支えられている、のかもしれないのだ。)
●そうは言っても、いきなり何が何だか分らない状態で「判断」を迫られ、その破れかぶれで出鱈目な判断に対して「責任」をとれなどと言われても、そんな無茶な、という話になる。こういう時に出てくるのが、共同体によって強制される慣例とか礼楽というようなものだ。何か個人では判断のしようのない出来事に見舞われた時にこそ、どのような合理的な解釈にも解消されないがゆえに誰も否定出来ない、強い命令として響いてくる共同体の形式的、儀礼的な習慣が強力に浮かび上がってくる。とにかく昔から「そういうこと」になっているのだから、そうしておけば間違いはない、と。これは非常に強力であり、ほとんど無敵と思える。しかしこのようなものを切断できないとしたら、モダニズムの命題としてある、特殊を普遍とする、先験的な反省的判断というものも、すべて「伝統と歴史」に吸収されて消えてしまうしかない。ただ、さらにややこしいのは、その「先験的な反省的判断」というものにしても、実は、順応し習得すべきドグマとしての文化的な環境があらかじめ与えられていない、全くの白紙状態(無垢、あるいは白痴、または無知、つまり「自然」?)では成り立ちはしないということなのだ。そこに「趣味」というものを巡る複雑な問題が浮上する。引用する。
《たとえば共通感覚といわれるものは、個々の主体の感覚に、権利として、可能性として与えられているだけで、いまだその共有が確定しえないものとしてしか本当はありえないわけですね。たとえば美術作品を作る時、自分が作っているものを単に主観的な自分だけの特殊な判断によるとは思わずに、普遍的な判断でありうると勝手に確信するところがあるゆえに作るわけです。いまだそれが認められていないにせよ、それが普遍だと、同意を権利としてもとめることができるゆえに作る。それが普遍として可能だと。しかし対して、一般的に趣味というのは、事後的に形成してしまうものなのですね。すでに外的な対象として存在している事物の集合があって、それによって趣味が規定されてしまうということです。はじめはどこがいいか、わかんなかったけど、お母さんも好きだったし、お父さんも好きだったし、これはいいにちがいないと。こうして包囲された環境に訓化されるように趣味が形成されてゆく。》《そこの区別が難しい。カントなんかを読む時に、その「未だ」という可能性を強調すれば批判の原理になるけれども、前もってその共同性というのが個々の主観に刷り込まれているとしてしまうと裏返ってしまう。しかしまったく白紙から出発しても何も起こらない。とりあえずこれを見るべき対象であるという命令が生まれない限り、新たな意味の生成も批判も起こらなくなってしまう。何らかのかたちで命令がなければならない。ここがむずかしい。》
●何かを判断するためには、「古典」としての「文化=伝統=記憶」が必要なのだ。しかし「古典=記憶」は、その価値や意味が確定され保証されたものとして扱われればキッチュと化し、文化的なドグマ、共同体の礼楽のようなものでしかなくなってしまう。古典=作品=記憶は、「未だ」に意味が確定されず、浮遊し錯乱し、答えが出ていないがゆえに、保存され提示され参照されつづけなければならないのだ。例えばグリーンバーグの言う「趣味」とは、文化的なドグマとなる、共同性が保証される「一歩手前」で踏み止まるという状態をキープすることなのだ。美的判断をするためには「趣味」が必要だが、美的判断は(文化的な、共有された)趣味判断とは違う。「未だ」趣味が「趣味」として確定されていない場所で行われる、先験的な反省的判断であるという訳だ。
●最後に岡崎氏は、ジム・キャリーがアンディ・カウフマンという天才的なコメディアンを演じている『マン・オン・ザ・ムーン』という映画に触れる。(ぼくは観ていない。)
お笑いというのは、まさにウケたかウケないかということだけで、つまりその場でのエフェクトだけで全て判断される。しかしカウフマンは、その場で共有されているお笑いという「ゲームのルール」を変更することにこそ興味があった。だからどんどんと、本人しか面白がれないような、前衛的なウケない芸になってゆく。《シュミレーション、ニセモノばかりの世界のなかで、世界のルールが変更できるということを見つけることは、唯一の希望だというんですね。マン・オン・ザ・ムーンというのは超越論的な主体Xなわけですね。まさにREMが唄っていた主題歌どおりにGREAT BEYONDなわけです。実際は存在しないし、知覚もできないけと、それ=ホンモノがいるものとして行動しろというのがカウフマンにとっての命題であって、それが面白い。カントの命題とまったく同じだといっていい。》
《ニセモノばかりの世界のなかで、世界のルールが変更できるということを見つけることは、唯一の希望だ》《実際は存在しないし、知覚もできないけと、それ=ホンモノがいるものとして行動しろ》これそが「芸術」というものでないのだろうか。『地獄の黙示録・特別完全版』をビデオで。
02/08/02(金)
●『地獄の黙示録・特別完全版』をビデオで。もとのヴァージョン(と言ってもそれ自体がいくつか違うヴァージョンがあるのだけど)が公開されたのは確か小学生の頃で、その頃観て以来、テレビなどで断片的に観た以外は見直していないので、記憶がはっきりしている訳ではないが、新たに加えられたシーン以外でも、細かい部分で手がはいっているように思った。例えば、有名な、サーフィンをするためにひとつの村をパナーム弾て焼き払ってしまうシークエンスでは、確かランスがサーフィンをしているショットがあったように思う(サーフィンをしているショットで切れて、次のシークエンスへ移ったのではなったか)のだが、『特別完全版』では、ランスはサーフィンをせず、ただギルゴアのサーフボードを持って逃げてしまう。(このシーンは結構好きだ。)まあ、そのようなちょっとした細部ではなく、かなり大幅に変更されているという印象をもったのが、ラストのカーツの王国での一連のシークエンスだ。以前のヴァージョンでは、ここはもう少し丁寧に描き込まれていたように思う。「王国」そのものの描写ももう少しあったはずだし、それにカーツが、もっといろいろな事を語っていたのではなかったか。『特別完全版』では、この王国のシークエンスは、ウィラードの身体的な疲労と衰弱による意識の混濁に沿った形で、時間の経過や空間の構造などがはっきりと分らない、まるで夢とか幻覚に近いような形態で編集されている。(何が映っているかすぐには分らないような構図、闇と混濁した光との強いコントラスト、断片的なショットとクローズアップをオーヴァーラップで繋いでゆくモンタージュ、いかにもな「オリエント」的舞台装置、などによる。)この意識の混濁とともにあるようなシーンは、しかし少しも混乱などしていなくて、むしろするすると流れてゆくような分り易さだ。200分をこえる映画の行き着く場所であり、やたらと「恐怖」だ「地獄」だというセリフが聞かれるにしては、このラストはあまりにも弱いと言えるだろう。だが、元の『地獄の黙示録』という映画が、哲学的で難解な映画だなどと誤解されたのは、このラストのシークエンスの印象のためだと言える訳で、もともとこのラストは明らかに失敗しているのだ。だいたいマーロン・ブランドが最悪で、ぼくには「ひょうきん族」などでコントをやっている時のふんぞりかえった安岡力也みたいにしか見えない。そのことを充分に自覚しているコッポラが、できるだけ作品全体におけるラストのシークエンスの比重を軽くして、途中の、舟が川を上ってゆく宙吊りにされたような時間の持続の方を充実させたい、と考えたのがこの『特別完全版』の基本的なコンセプトなのだと思う。
確か蓮実重彦が以前、カーツの殺害は「王殺し」というよりもむしろ「家族崩壊」というイメージだ、と言っていたと思うのだが、新しく加えられた、フランス人たちの経営する農場に立ち寄るシークエンスが、蓮実の指摘の鋭さを証明している。ここではまさに、ジャングルのなかに閉ざされて取り残された、腐っていて今にも崩壊寸前の「大家族」の姿が、いかにも地味で実直な演出家であるコッポラの資質に相応しい形で描かれている。(撮影のヴットリオ・ストラーロの面目躍如という感じのベルトリッチ的なシーンもある。)ここのシークエンスがしっかりとあれば、ラストのカーツの王国の比重は軽くても大丈夫、ということだろう。(しかしそれにしても、あっさりと片付け過ぎたという印象がある。元の『地獄の黙示録』では、確かカーツは病気で、だからこそ「殺される」ことを望んでる訳だし、カーツの身体的なけだるさや退廃の気配が、王国全体の「腐ってゆく」感じと重ねられていたのはなかったか。これ(『特別完全版』のラスト)だけだと、神秘とオリエンタリズムの余りに安易な結びつき、というもの以外には何もみえてこなくなってしまう。)
ベトナム戦争に取材した映画であるにも関わらず、アメリカとともに戦っていたはずの南ベトナムの兵士すら姿をみせず、徹底してベトナム側が描かれていないこの映画は、川を上っていって「父」を殺すという全体の構成からみても、戦争映画というよりもむしろ内面的な「幻想」映画と言うべきもので、ホテルの部屋で目を覚ますウィラードの顔のクローズアップに様々な映像がオーヴァーラップして始まり、ジャングルの映像にウィラードの顔のクローズアップがオーヴァーラップして終わるラストから考えて、全ての事柄はホテルのベッドの上のウィラードの幻覚だ、とも言えてしまうように映画なのだった。つまり、戦争を
扱った映画ではなくて「戦後」の映画、戦争から帰ってきた者が、毎晩ベッドでうなされる悪夢を描いたような映画であるのだろう。ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』
02/08/03(土)
●シブヤ・シネマ・ソサエティで、ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』。最近のアメリカ映画を映画館で観ることはほとんどなくなってしまっているのだが、傑作だという声が各方面から聞こえてくるカーペンターの新作を見逃す訳にはいかない。大音響の「音楽」で耳が痛くなることを除けば、これは文句のつけようがないくらいに素晴らしい。とにかく、ガンガンと押しまくるひたすらな「力技」と、周到で繊細で高度な、ほとんど巨匠の粋にまで達した「技巧」が何の矛盾もなく同居している。かなり複雑なことをやっているのに全く難解なところがなく、一見すると、ただただ物語が一直線に突き進んでいるだけようにもみえる。だが実は、「語り」の構造としては、回想が幾つも分岐しながら進んでゆくような、かなり複雑なものなのだ。にも関わらず、この映画が一直線に進んでいるようにみえるのは、これが「直線的な往復運動」を中心にした映画だからだろう。まず、列車というまっすぐに進んでは引き返す装置があり、駅から刑務所までのまっすぐにのびるメインストリートがあり、そして、列車から原子炉までの直線的な往復運動がある。駅と刑務所の間、列車と原子炉の間に拡がる、敵から身を守るどのような盾もない無防備な空間を直線的に往復することが、この映画の最も大きな見せ場となる。大勢の敵に取り囲まれた広い空間のそのど真ん中を、無防備なままで突っ切ってゆく。勿論これは、アメリカ映画のアクションを生起させる基本的な空間構造である。
シネマスコープの画面の的確な使用、登場人物たちの配置(どのようなキャラクターを設定し、どのような順番で登場させ、誰に何をやらせ、どこまで引っぱり、どこで殺すか、など。)、複雑でありながらそれを感じさせない語りの技法、アクションを生き生きと駆動させるための空間的な設定、どれをとっても一部の隙もないと言える。表面的なチープさ、ある種の人たちが簡単に喜んでしまうようなあからさまな「趣味」とは裏腹に、ここには抽象的ともいえる「形式」の完璧さがある。内容としてはゲテモノ的なB級SFホラー以外のなにものでもない訳だが、高貴とも言える抽象性に達している。だが、それもこれも結局「古い」アメリカ映画の魂の再現に過ぎないじゃないか、それに何よりも、カーペンターの映画のつくりはみんな一緒じゃないか、という非難もあり得るかもしれない。しかしこの映画には、ただほとんど巨匠の粋にまで達した「技巧」があるだけではなく、同時に、ガンガンと押しまくるひたすらな「力技」も同居していることを忘れてはならない。
「力技」という側面をどのように分析したらよいのかは分らないのだが、ただ言えるのは、ここには力強い「物語」がある、ということだ。例えば『スクリーム』のような映画に典型的にみられるのは、その物語が「あり得べき可能性」のなかの一つにしか過ぎないようにみえる、ということだ。(デプレシャンなんかも、そうだと思うけど。)つまり、ある設定が与えられて、ある人物たちが登場すれば、その設定のなかで起こり得る物語の可能性のヴァリエーションがいくつか自然に出てくるだろう。そして実際の映画作品で語られる物語は、無数にあるそのヴァリエーションのうちの一つでしかない、という感じなのだ。だから、全く同じ設定で全然別の結論を引き出すことは難しくない。『スクリーム』が無気味なのは犯人は誰でもあり得るし誰であっても構わない、というところにある。まったく別の犯人であったとしても辻褄をあわせることは簡単にできるし、また、そのような続編が作られたとしても少しも不自然ではない。つまりここにあるのは可能世界のなかの、あり得る可能性の一つ、順列組合わせの一つという以上のものではない。作品がこのような状態にある時にだけ、東浩紀の言うような「世界観」を消費するということが可能になる。しかし、『ゴースト・オブ・マーズ』においては、他で有り得た可能性など考えられない。起こったことは起こってしまったのだ。それがどんなにありそうもない可能性の低い偶然が重なったような事柄でも、起こってしまった事は変えようがない。「あとがねぇ、生き延びるぞ」というセリフは、まさにそのことを言っているのだ。このような力強さが、たんに映画オタク的な形式の洗練とは根本的に違うところなのだと思う。
とにかく『ゴースト・オブ・マーズ』は無茶苦茶に面白い。映画を観ながら、思わず、「うわっ」とか「ひえっ」とか声を出してしまったのは何年ぶりだろうか。それと、とくにラストシーンが素晴らしい。ホークスの魂は生きているのだ。映画における不自然さ、類型的について
02/08/06(火)
●黒沢明の『白痴』をビデオで観た。仰角とクローズアップの映画。オーソン・ウェルズとカール・ドライヤーをレファランスとした大映ドラマのような映画。ドストエフスキーを「実写」でやると大映ドラマになってしまう、という困難。観念的なテーマ、抽象化された関係性といったものを「実写」でやろうとすると、どうしても、演技がわざとらしいだとか、こんな奴はいねえよ、みたいなことの方が気にかかってしまう。映画というメディアが、実在の人物が写り、実際の風景が写ってしまうものである以上、この困難はぬぐいがたいものだろう。このような部分を括弧に入れて観ることができれば、『白痴』はかなり面白い映画である。(勿論、「自然な演技」みたいなものも、こういうものを「自然」とする、というお約束に過ぎないのだが。)
青山真治のような監督の困難もそこら辺にあるだろう。青山氏の映画は基本的に、観念的なテーマを扱った「寓話」的なもので、登場人物も皆、類型的なものだ。(例えば昨日放送された『私立探偵濱マイク』の「名前のない森」など典型的だろう。)つまり、明らかに不自然な人物たちが、不自然な台詞をしゃべり、不自然に行動する。このような不自然さは、例えば『ゴースト・オブ・マーズ』のように、あるジャンルだとか、特定の「趣味」のようなものを前提としていれば、すんなりと受け入れられるのだが、そうでない場合には、どうしてもそこに一定の「抵抗感」が生ずる。勿論、映画というのははじめから人工的な構築物であって、それが「自然」にみえたり「不自然」にみえたりするのは、たんに文化的なコードによるもので、それは作品の(内在的な)良し悪しとはまったく関係はない。例えば『名前のない森』において、鈴木京香や大塚檸々のキャラクター(の描き分け)はあまりにも類型的過ぎるとも思えるのだが、そのこと自体が悪いということは言えなくて、それが映画作品をどのように動かしてゆき、作品の内部でどのように機能しているのかがみられた上で評価がなされるべきだろう。で、『名前のない森』はどうなのかと言えば、それはもう「濱マイクシリーズ」の他の監督たちとははじめから比べようもないくらいの圧倒的な力量はあきらかだと思うし、細部の刺激的なアイディアも面白いものがあるのだが、しかしそれでも、1時間のテレビドラマとしてはいくら何でもテーマが大きすぎて、ただ監督のアイディアの概要をザッと見せられたという感じで、作品としての良し悪しは言えない、次を期待させる予告編のようなものとしてしか観られなかった。
02/08/07(水)
(昨日の補足をちょっとだけ)
●青山真治の映画の登場人物が類型的だというのは、柄谷行人が大江健三郎の登場人物は固有名でなくタイプ名だと言ったのと同じような意味においてだ。『名前のない森』においては、例えば大塚檸々は、「男に求められるたびに死にたくなる」なんていうことを言ってしまうようなある種のタイプの女性を代表しているのだし、セミナーを卒業したとたんに通り魔殺人をしてしまう人物も、ある種の殺人者のタイプを代表している。鈴木京香が演じる「先生」は、ファム・ファタルという形象の図解のような存在として、この映画の構造のど真ん中に空虚として位置している。もともと彼らは類型であり固有名を持つような存在ではない。青山氏の映画が寓話であるというのはそういう意味だ。だから、青山映画という環境はそのまま、固有名を排除する『名前のない森』の自己啓発セミナーにごく近いものだともいえてしまうだろう。(例えば『ゴースト・オブ・マーズ』において、まさしくホークス的なカップルといえる主役の男女は、この手のジャンルの典型的な登場人物でありまさに類型そのもの、反復そのものであるのだが、彼らは決して何かを代表している訳ではない、という意味において、つまり「ジャンル」の無数の反復のうちの一つであるという意味において、彼ら自身の一回的な生のなかにいる人物であり、つまり固有名をもつ人物であるだろう。)
自分自身以外の何かを代表することで類型を生き、固有性を失う人物たちが、さらに固有名を否定するセミナーに集まってくるという『名前のない森』の物語は、『EUREKA』の2度目のバス、『月の砂漠』の田舎の家といった青山的アジールの裏ブァージョン、ネガティブ・ヴァージョンのようなもの、つまり自己批評としてとても興味深い。今まで肯定的な実験の場として示されてきた青山的アジールが、じつは危険と裏腹であることに、俊敏な青山氏が意識的でないはずはないだろう。だからこそ1時間というテレビドラマの枠内ではなく、もっとじっくりと展開されたものを是非観たいと思う。「文學界」9月号の、松浦寿輝『五極の王』を読んだ
02/08/11(日)
●「文學界」9月号の、松浦寿輝『五極の王』を読んだ。
(これは連作の2作めにあたる作品で、しかも独立した短編として読めるようにはなってなくて、前の作品を読んでいなければ話が分からないにも関わらず、どこにも「連作」という文字はみられないし、この作品の後にも、あきらかに話はつづくようになっていて、完結していないのに、最後に「了」という文字がみられる。こういうのって、不親切というのを通り越していて、ちょっとどうかと思う。「文學界」は、毎号全ての小説に目を通していない読者は、読者とは思っていないのだろうか。ぼくはたまたま、松浦氏の小説は目についたら読むようにしているので、読み始めてすぐに、あっ、これは前の続きだな、と分かるけど、いきなりこれを読んだ人は、途中に唐突に出てくる断片的な映像の意味や、人物関係などが把握できない。こういう掲載の仕方は「文芸誌」では慣例になっているのかもしれないが、これってあまりに閉鎖的なのではないか。作法を知らない奴のことは知らないっていう姿勢でいいのだろうか。たんに「連作・2」という文字を印刷すればそれで済むことなのに。)
松浦氏の小説は、あいかわらずいつもの通りという感じで、『巴』なんかもそうなのだけど、高級な『パノラマ島奇談』というか、枯れた親父の妄想的なエロ話で、また、あからさまに「女は存在しない」という話でもある。<いることといないことが矛盾しないような仕方>、<ありとなしを分かつ境界など、それもまたかりそめのもの>と書かれる、まさにそのような微妙な境界上、薄い皮膜そのもののような言葉で描かれるような世界の持続が、なにかのきっかけでふと、「なし」の世界、「非在」の世界にはまり込み、深淵のようなイメージを垣間見てしまう、といういつも通りの「つくり」の反復で、しかも、微妙な境界の世界(つまりそれが「日常」なのだが)から、非在の世界、あやかしでもあり深淵でもあるようなイメージへと移行してゆくときに媒介となるのが、暗闇であり、酩酊による意識の混濁であり、迷路に迷い込むことである、というような「仕掛け」もまた、いつもの通りと言うしかないようなものなのだ。このようなつくりも仕掛けも、何の新鮮さもなく、どちらかと言えば凡庸な、ありきたりのものと言えるだろう。にも関わらず何故、松浦氏の小説はこんなにも魅力的なのだろうか。全く刺激的ではないし、「作品」というものがこういうところに入り込んでしまうのは、むしろかなりヤバいことだとすら思う。それでもややうんざりしつつ読み始めると、いつの間にか強い力で作品のなかにぐっと引き込まれてしまうのだ。『巴』などでは、ある「長さ」を持たせるために、かなり映画的な装置などを導入して「動き」をつくったりしていたと思うのだが、この連作では、ほとんど「動き」などなくても、中年と言うか、初老の男の、どんよりとした非活性的な身体感覚の推移だけで、ある「長さ」を持たせてしまえるという強い確信がみえるように思う。詩人としての松浦氏は、やはりどこかで「反復」を嫌うような潔癖さがあったように思うのだが、小説家としての松浦氏は、ほとんど同じような話ばかりを、あえて徹底的に反復して描いてゆくようなずうずうしさとともにあり、意図的な「停滞感」を選択しているようにみえる。同一パターンの徹底的な反復によって強度を高めて行くという意味で、松浦氏はとても「アメリカ映画」的な作家であり、もしかしたらジョン・カーペンターと非常に近い場所にいる作家なのかもしれない。澤野雅樹『少女--中間的なものへの感受性』(秘密と秘密基地と泥棒)
02/08/13(火)
●「現代思想」8月号<ドゥルーズの哲学>に掲載されている澤野雅樹『少女--中間的なものへの感受性』は面白かった。澤野氏の(あるいはサドッホの)、『千のプラトー』でのドゥルーズ=ガタリの文体模写のような一連の文章は、一見いかにもチープで軽薄な(しかも流行遅れの)まがいもののようにみえて、その最良の瞬間には、あらゆる重力を振り切ろうとする舞踏的な思考の運動が感じられる。こんなものはポストモダン的な遊技にすぎないという人もいるだろうが、最良の遊技のもつ無償な運動の輝きから「喜び」を得ることの出来ない人に対しては、ただお気の毒にと言うしかない。ただ、冒頭からしばらくつづく、ドゥルーズについての直接的な言及の部分は、もたもたしていて、どうでもいいことに無駄に言葉を費やしているようにみえてしまう。しかし中盤以降、話が「少女」と「秘密」を巡る、ドゥルーズ的主題の自由なヴァリエーションにはいると、俄然面白くなる。以下、興味深い部分を引用しつつ概略をまとめてみる。
●まず、「秘密」が、それを宿らせる場所として、「秘密基地」という、あるテリトリーをもつことについて。
【もしも秘密基地が秘密そのものと関連するものであるなら、その元来の機能は何かを重くすることにあるのではなく、むしろ何もかも軽くし、秘密に固有の素早さに身をゆだねられるようにすることにある筈だろう。】【ルパン三世の正式な住所を銭形警部が知らないのは、現住所や本籍地が周到に隠されているからではない。ルパンには元々本籍も現住所もないのだ。代わりに無数のアジトがあり、千の秘密基地があるのだ。さらに言えば、峰不二子は、そのルパンの手からさえも逃れ、至るところにいながら、誰の手にもおちるこなく、それゆえどこにもいない。ルパンがカリオストロ城に入ったとき、どうして不二子は既にそこにいたのだろうか?】
●しかし、秘密は人を縛ることもある。そして秘密基地が、あるテリトリーである以上、国家装置によって捕獲される危険がある。そこでは「秘密」を「共有しろ」という命令によって、人をアイデンティティーに縛り付ける暴力が生じる。
【ある種の暴力はどんな空間であれ、少女を欲望の餌食にすることで、秘密基地を暴力的な変換装置(少女に少女であることを許さず、強制的に女へと移行させること)にしてしまう。そして、少女が棘を抜く前に、いわば棘の運命論を植えつけようとするのである。「このことは誰にも言っちゃダメだよ」。この言葉は秘密の共有を宣言し、なおかつ命令を下している。あるいは約束の関係を結ぼうと企んでいると言ってもよい。】【少女は一方的に棘を刺されたにも拘わらず、なぜかそれを共有された秘密として受け入れるように促され、一種の共犯関係を結ばされてしまった。】【黙している限り、共犯関係は持続し、被害者はおらず、存在するのは共犯者だけであることになる。命令の内容はこうだ。忘却の素振りを演じつづけよ。この命令は表面的には忘却の命令にみえるのだが、実際はその逆であり、忘却の禁止なのである。こうして少女は秩序(命令)の牢獄に監禁され続けることになる。】
●だからまず、少女は秘密をもらし、共犯者であることをやめ、裏切り者にならなくてはいけない。しかし.....。
【彼女は秘密を洩らす事により、長年の共犯関係から逃れたわけだが、同時に約束を破った裏切り者にもなったことになる。この事実を(ジュネのように)快楽と感ずるか、良心の呵責に慄えるかは、実に彼女次第なのである。】
●しかし、秘密をもらしただけで、そこから解放される訳ではない。むしろ、「棘」が、たんに「棘」にしかすぎないということを知ることが重要なのだ。
【魚の小骨の痛みでしかないものを地獄の責め苦や悪魔との契約のような大袈裟なものと見なしてはならない。だから棘のつくる小さな傷口を無理やり切開し、全身に傷跡を残すような重症に育てたりしてはならない。元々、それは小さな絆創膏で十分だったかもしれないのだ。】【少女の掌に乗った棘は、ふっと息を吹きかけるだけで飛んでしまい、手を離れたが最後、二度とみつからなくなるほど小さなものだったのだ。棘になってはいけないし、棘の痛みと一体化してもいけない。それらは暴力によって区分されたことを受け入れようと努めることだからである。】
●人は常に、既に、無数の棘に貫かれ、無数の傷とともにあるのだから、何もそのうちのどれかを特権化して、それをじくじくとした「膿」にまで育てることはない。まして、「膿」を中心として形成されるアイデンティティーなど最悪だ。膿によってつくられた一つの「本籍地」。そうではなくて、無数の棘を無数のアジトへ、千の傷を千の秘密基地へと変換してゆくことこそが重要なのだ。再び『ルパン三世・カリオストロの城』へ。
【だからこそ、新たなる秘密基地が必要になるのである。宮崎駿が『ルパン三世・カリオストロの城』で証明したように、囚われの少女と神出鬼没の怪盗は運命的なカップルを生きる。】【彼女が餌食に選ばれるのは、彼女の身分が系譜を体現し、彼女の指輪が系譜の秘密を体現しているからである。対し、ルパン一味はどんな国家よりも素早い戦争機械であり、ルパンのジャケットの中身はそれだけで既に十分な秘密基地だった。】【極論すれば、少女と泥棒は同じ生成変化の二つの面なのであり、ルパンはあらゆる者になる者であるからこそ、生成変化の核心にある「少女になること」を熟知している(「何もなかった」の女性形態)。言い換えるなら、泥棒が少女を救出しなければならないのは、その責務を全うすることこそ泥棒が泥棒自身を救出することにほかならないからなのである。系譜からの解放。アルセーヌ・ルパンの三代目であるルパンは、おのれをアイデンティティの病から永遠に逃走させ続ける者の後裔であるからこそ、牢獄に囚われた少女を解放しなければならない。】
●つまり「少女」とは決して欲望の対象ではないのだ。(欲望の対象としたとたんに、少女は死に、別の者となってしまう。)そうではなくて、人は自ら「泥棒」となり、少女となることが出来る。人は泥棒となることで少女となり、少女である自分自身を救うために少女を救出しなければならないのだ。「泥棒」と「少女」のカップルとは、このようなものとしてしか成立しない、という訳だ。
02/08/14(水)
(昨日のつづき。)
●つづけて澤野氏は、青山真治の『ユリイカ』をも、囚われの少女を<別のバス>によって救出する話として読もうとする。【バスはもう一つの家ではないし、家の代わりでもなく、移動する秘密基地であり、可動性のアジトである。これだけでもバスに乗り込み、旅する一行が疑似家族などではなく、よくて流浪の一味でしかないことが分かる。やがて道連れは一人減り、もう一人減り、最後には沢井と少女だけになる。が、はたして何かが減少しことになるのだろうか。いや、始めから少女を凍結した家から連れ出すことが目的であり、彼女に少女固有の力を返すことが課題だったのではないのだろうか。】しかしこの時、沢井=役所公司は、ルパンが、少女を救出する泥棒であると同時に(泥棒であることによって)、自らもアイデンティティーの病から逃れる「泥棒=少女」と化す存在である、というのと同じように「泥棒=少女」でありえたのだろうか疑問である。加えてもう一つ、この映画にはもう一人の少女として「少年」が登場しているのを忘れてはならないだろう。だから、まず『ユリイカ』は、「少女」(そして少年)を「欲望の対象」として欲望する「おっさん的主体」の話として読まれるぺきなのではないだろうか。
冒頭のバスジャック事件を、ある絶対的な出来事、トラウマ、あるいはドストエフスキー的な体験だという風に見なければ、たんにある一つの触発、登場人物たちに「社会」との間に無意識のうちに結んでいた「自明の繋がり」を断ち切らせ、より実験的な空間へと導くための一つの契機にすぎないという風に見るならば、『ユリイカ』という作品の意味はずいぶんと変わってくるかもしれない。例えば、役所が事件後に失踪したのは、事件による影響というよりも、もともと家族関係にうんざりしていたからであり、妻の国生さゆりから逃げたいと思っていたからだ、と言えるだろう。(国生との別れのシーンは、だから、役所がただ自分の気持ちを確認し決着をつけるために必要な段取りであり、田舎芝居にすぎない。)つまり事件は、役所に決定的な傷を与えたのではなく、ずっと同じ順路を回っているしかないと思われたバスに、別の道があり得ることを指し示したという訳だ。だから、帰還後の役所が宮崎兄妹と共にあろうとするのは、彼らを救おうとするためというよりも、たんに彼らの美しさに魅了され、欲望を感じているからだといえるだろう。(役所が少女だけでなく少年に対しても欲望をもっていることは、例えば役所が宮崎兄に車の運転を教える素晴らしいシーンに漂っている官能的な空気をみても明らかだろう。)自分を、社会的な役割(本籍地)に閉じこめようとする家族関係や妻=大人の女との関係を断ち切った役所は、しかし再び、少年、少女たちとの閉ざされたエロティックな関係(秘密基地)へと入り込んで行く。だが、もともとあるものとして半ば強制的に与えられている家族関係とは違って、エロティックな結びつきだけを根拠とする新たな共同生活に閉じこもるのは簡単ではない。役所は、生活を維持するために「エロスの館」を後にして「外」へ働きにいかねばならない(この時の労働の場は、家族的な関係とはまた少しズレたものである、ホモソーシャルな朋輩関係によって確保されるのだ。『ユリイカ』では、家族や大人の女との関係には否定的であるのだが、ホモソーシャルな社会に対してはある程度は肯定的であるのだ。)し、親戚たちを納得させるために、部外者(と言っても殺人現場に居合わせたという共通の経験があるのでその「資格」はあるのだが)でありスパイでもある斉藤陽一郎を受け入れなければならない。(斉藤の存在は、3人のエロティックな関係に何の影響も与えない限りで、つまり、斉藤がどのような意味でも役所のライバルたり得ない存在であることによって、許されているに過ぎない。終盤、斉藤がバスから追放されるのは、斉藤の言葉のためではなく、ただ役所が宮崎あおいと2人きりになりたかったからだ、と考えれば納得がゆく。)役所が外に働きにゆけば、そこには断ち切ったはずの「大人の女との関係」の誘惑も待っているだろう。役所を誘惑する女が殺害されなければならなかったのは、この女が役所に再び社会的な関係へ、大人たちとの関係へと、つまり本籍地への帰還をうながすような関係を強いる存在であったからだろう。(つまりこの殺人は、実は宮崎将によるものではなく役所の手によるものだったのではないか。)役所たちの暮らす「エロスの館」がもともとは、宮崎兄妹が両親とともに住んでいた家である以上、記憶が重すぎて、秘密基地としては十分でないと考えた役所は、<別のバス>を用意することになり、そこから実験は第二段階へと入ることになるだろう。だからこのバスは、閉ざされた空間を外へと開くものではなく、閉ざされたままのエロティックな関係を、そのまま空間的に拡張してゆこう、世界のあらゆる場所を秘密基地としてしまおう、という試みだといえるだろう。実験の第一段階は、社会があたかも先験的なものであるかのようにして強いてくる諸関係を、(少年、少女とのエロティックな関係によって)まずは断ち切ることに主眼がおかれていたのだが、第二段階では、それとは違う場所へと出て行こうとしている。それについて澤野氏は次のように書く。【旅立つ集団は、たとえ家族であっても、もはや家族的なものではない。バスのなかの四人は、あたかもより離れてゆくかのように集い、より遠ざかるようにして接近してゆく。彼らは一人一人が無人島なのである。】【そのとき、「彼ら」や「我々」という代名詞は、陸の共同体が口を揃えて発する主語ではなく、群島のそれぞれがばらばらに発する主語となるだろう。】【島々は互いを見ることもないのだが、にも拘わらず手を携え、波はそれぞれの島から砂を浚ってゆく。バス=秘密基地は、無人島を作り出す装置であり、群島はバスという可動性の接続詞によって結ばれている。】つまり、もともとばらばらであり、無人島である彼らは、バスから追放されようが、刑務所に監禁されようが、空間的な居場所などどうでもいい存在となっている、という訳だ。(それを可能にしたのが「バス」という装置だという訳だ。)しかし、だとしたら、やはり宮崎兄妹がテレパシーのようなもので繋がっているのはまずいのじゃないだろうか。熱い夏
02/07/02(火)
●いつまで干しておいても生乾きなままの部屋干しの洗濯物みたいにじっとりと湿ったアスファルトから、むっとする熱気がのぼってきて足元に絡みつく。厚い雲が蓋のように空を塞いで湿気が逃げ場を失い、熱気を帯びて充満している。植え込みのぬらぬらした土に生えている鱗がぼうっと輝くように見える。この辺りの除草作業を請け負っている、三宅島から来たシルバー人材センターの人たちが、ほおっかむりに割烹着の姿で、野球場の裏のベンチで集まって休憩している。刈られた草は一定の間隔をあけて集められ、湿気で黒ずんでいるアスファルトの上にこんもりと丸い黄緑の山をいくつもつくっている。黄緑の雑草の山の周辺では、刈られた草の切り口から空気中に放出される青臭い粒子が、鼻にツンとくるほどの濃度で、はじけ、散って、漂っている。歩いているだけで汗ばむのだが、身体の表面を覆うベタつく汗が、内側から染み出てきたものなのか、外側に漂うものが付着したのかよく分らないような感じだ。
02/07/04(木)
●久々に晴れて日が出た。強い日射しにやられて、近所の紫陽花の色にやや濁りが混じり、少し萎れた感じなる。雨降りの部屋のなかでは丸1日干しておいても湿っている洗濯物が、晴れた外ではみるみる乾く。あまりに乾きがはやいので、それを取り込んだ後に着ているものを脱いで洗濯機をもう一度まわした。買い物から帰ってくると、部屋の前にハンガーにかけて干しておいた赤いTシャツがゆらゆらと風に吹かれて揺れていた。
02/07/07(日)
●気がつくと、ジージーと鳴く今年はじめての油蝉の声に浸されていた。強い日射しを濃い緑で跳ね返す街路樹の葉が微風でゆっくりと擦れ合い、道の両側につづく建物の白く輝くコンクリートの壁の広い平面に、チラチラと揺れるモザイク模様の影を落としてる。真上からの光でくっきりと浮かび上がるまっすぐに伸びている道路は、橋を渡ってすぐに下り坂になって視界から消え、その先は空の青へと抜けてゆく。植え込みの土に小さく空いた蟻の巣のまわりでは、沢山の赤茶色の蟻がびっしりと複雑に交錯し合う不思議な秩序でわらわらと行き交っていて、その行列をしばらく追ってゆくと、15メートルほど離れた場所にもうひとつの巣があった。立ち並ぶ団地の隙間にぽっかりとある雑草が伸び放題の空き地は一部分を除いて草がきれいに刈り取られていて、今までほとんど日の光に触れていなかったオレンジ色の土をすえたようなその匂いとともに露出させている。なぜか中央部分だけ刈り残されていて、モヒカン刈りのように残された草の黄緑の茎や葉が勢い良く天に向かって伸びていて、土のオレンジと横縞模様をつくっている。
●昼間の熱気が行き場を失ったまま停留し、ぼうふらのようにふらふら漂っている深夜のアスファルトの道路で自転車を漕ぎ、左手にサッカーグランドのあるゆるやかに長くづづく坂道を上っていると、上りきったところにある植え込みの暗がりののなかで、白く咲いているクチナシの花が幾つもぼうっと浮かび上がっているのが見えた。ガムを噛んだあとに口のなかに残っているような香りを、その吹き出物のように咲く白い花は熱気のなかに混じり込ませ散らしてていて、人気のない深夜の道に妙になまめかしい、胸がザワつくようなあやしげな表情を広げていた。
02/07/12(金)
●アパートの隣にある屋敷では、庭の敷地いっぱいに様々な木が植えてある。庭を美的に構成するとか、そんなことはいっさいおかまいなしと言う感じで、とにかく雑多に植えてある植物がいつも屋敷に影をおとし、陰気な表情にしている。敷地いっぱいという言い方は適当ではないかもしれなくて、平面的に考えても、立体的に考えても、敷地や空間に対して過剰すぎる数の木がぎゅうぎゅうに詰め込まれていると言う方が正確だろうか。通りに面した方角などは、過剰に詰め込まれた木々の枝や葉が零れ出るように外へはみ出していて、そのうち大きな一本の木などは、枝葉を道路の半分を覆ってしまう程にまで敷地から飛び出して伸びてしまっている。(大型車が通ると必ずこの木に引っ掛かる。)道路の方にまで大きく張り出したこの木の上の方には、薄っすらピンクがかった白い色の南国風の大きめの花がたくさんついていて、昼間は強い日射しを跳ね返して眩しく輝き、夜はちょうどその真上にある街灯の光を受けて暗闇からヌラッと浮かび上がっている。
02/07/23(火)
●夜中になって雨が落ちてくる。本を読んでいたら、窓からシュワァァァァーッという音とともに涼しい空気が入ってきて生ぬるく淀んだ室内の空気を静かにかき回す。表へ向いた窓から網戸越しに外を見る。細かな雨粒が落ちるチリチリチリという音が地面から拡がり、遠くの方から微かに、雨樋を伝っているうちに大きくなった水滴がガラスだか陶器だかの水の溜まった容れ物に落ちているような、チャポッ、チャポッ、と響く音が間をあけて聞こえてくる。ほんの少しだけの水分をしっとりと吸い込んで街灯の光を反射するアスファルトの静まりかえった道を、傘をさした人がたったひとり音もなく歩いてゆく姿が、薄っぺらいシルエットのように見えた。
●雨はすぐにあがった。うつらうつらしていたら、表を通るバイクの音で目が覚めた。なかなか寝つかれずに寝返りを繰り返す。午前4時を過ぎると、ジージージーという虫の声をかん高い鳥の第一声が引裂き、すぐにうるさいほどの鳥たちのざわめきが呑み込む。薄青い弱い光が窓から入り込んでくる。
02/07/24(水)
●駐車場を抜けて東へまっすぐ行ったつきあたりを右に曲がると、野球場が見えて急に視界が大きく拡がる。野球場がだだっ広い平面だからというだけではなく、この辺り一帯が高台にあって野球場の向こう側すぐがガケのようになって下っているから視界を遮るものがないのだ。野球場の先きの低くなった土地はマンションの建設予定地なのたがずっと放置されていて、大きな面積の中心のあたりを下水道用なのかコンクリートでかためられた溝が斜線のように横切っているのが上から見ると分るほかは雑草が生え放題だったのだが、しばらく前から整地がはじまっている。その土地には2台の巨大なクレーンが置かれていて、高台にある野球場の方から見ると、強い午後の日射しに照らされて鮮やかに浮かび上がる芝生の黄緑と、遠くの台風のせいかダイナミックに荒れた表情の雲が浮かんでいる濃くて深い青い色の空との、その境界というか接点から、いきなりそこから生えているように、オレンジ色に着色された2本のクレーンのアーム部分が天ヘと向けて高々と伸びているのが見える。それは、駐車場の先きのつきあたりを右に曲がるとすぐに目に入ってくるのだった。
02/07/27(土)
●夜になるとほとんど人通りがなくなる、右手が竹林になっている細い下り坂の中程、「く」の字のように折れ曲がった坂道のちょうど折り目のあたりに、白く眩しい光を発する街灯が設置されている。その街灯の発光している電灯部分の真下に、大きくて網目の細かい見事な蜘蛛の巣が張っていて、光に誘われて集まってきた小さな羽虫や親指の爪程の小型の蛾が、まるで細かな水玉模様をつくるようにびっしりと貼り付いていた。蜘蛛の巣は、直接見ると目が痛くなるくらいの強い白い光を受けてきらきらと輝き、ふわりふわりとゆっくり揺れていた。ばっさばっさと鱗粉をまき散らすように羽ばたくおおきな蛾が数匹、光のまわりを「∞」を描くように飛び回っている。
02/08/01(木)
●顔をあげるまで、しばらくは、電球の切れた街灯が点滅しているのかと思っていた。ぼんやりとしたピンク色に染まる薄曇りの夜空が、時おり、稲光りで真っ白くなる。空が白くピカッと光ると、地上の暗闇は一瞬だけ、紫陽花の花のような薄むらさき色の光で照らしだされる。まだ遠くにある小さな雷鳴のグルルルルルッというお腹の鳴るような音がいくつか重なりながら、西の方から東の空へと移動してゆく。ポツポツと雨粒が落ちてきてすぐに、今にもザッときそうな気配が湿気とともに拡がってゆくのだが、そのまま持ちこたえてなかなか強くは降ってこない。陸上競技場に沿った歩道の植え込みの、すっかり茶色くくすんでしおれたくちなしの花が、それでもまだ、噛み込んだガムにまだ残っていた香りがふと口中から鼻腔へとぬける時のような、かすかな香りをじっとりした空気中へと放っていた。
02/08/5(月)
●点火した火の熱に曝されてどろどろに溶けだしたロウソクの蝋が、そのまま冷えて固まったような木肌のサルスベリの木に、赤むらさき色の花が咲きはじめている。サルスベリの濃い緑色の葉は、まるでカリフラワーかキノコの傘のように、木の最上部に偏って茂り、全ての葉の表面を上へと向けてつけていて、赤むらさきの花はその上から蒔き散らされたように乗っかって咲いている。
●強い日射し、焼かれるような照り返し、湿って暖められた土のにおい、切り株から木のにおい、切れ味の鈍いカマで引きちぎるように刈られた雑草の切り口から放出される粒子状のツンとする草いきれ、耳にべったりと貼り付くように聴覚全体を均等にうめつくし、外で鳴っているのか頭のなかの音なのか分らなくなるように重層的に拡がる蝉の声、どっちを向いても必ず視界の一部に入り込んでくる繁る黄緑色、木漏れ日がつくる光のまだら模様が、風でかき回される。
02/08/09(金)
●近所の駐車場から車がなくなり、その中央にやぐらが組まれているのは知っていたのだけど、夜7時すぎに、レイトショーを観にゆくためにその前を通りかかったら、オレンジ色の無数の提灯の光でぼうっと照らされていて、すっかり「夏祭り」という雰囲気だった。しかしまだ時間がはやいのか、盆踊りのような催しは始まってなくて、まさに人が集まりはじめたばかりというような、小さなざわめきがいくつか空間のなかで散っていて、さあ、これから何かがはじまるぞ、という落ち着かないような気配が広がっていた。深夜の帰り道にそこを通ったときには、勿論もう誰もいなくて、不器用につくられてややかたちが歪んでいるやぐらだけがぽつんと立っていた。
02/08/12(月)
●竹の葉は細長くて、風に吹かれると、濃い緑の葉を重たく茂らせた常緑樹のように一塊りとしてゆったり動くのではなく、葉の一枚一枚がサラサラという感じでバラバラに細かく動くので、雑木林の南側の斜面にある竹林のなかを抜ける遊歩道に落ちる木漏れ日は、影の部分が真っ黒な影になり切らずに薄ぼけて、光の部分と半ば混じり合っていて、風が吹くと、陽炎がもわあっと揺れるように、炭酸水の小さな空気粒がしゅわぁぁぁっとなるように、または小さくて細長い無数のウジ虫がうじゃうじゃと蠢くように、揺れ動くので、地面で揺れるその影についつい見入ってしまい、あまりにじいっと見ているとくらくらっとする。雨と雪と雹が混ざっていっぺんに落ちてくるように何重にも重なった蝉の声が降り注ぐ雑木林の遊歩道には、そこここに蝉の死骸も落ちている。手足を縮こませたまま硬直して乾燥した死骸は重心のバランスが悪くて、手のひらの上で表側を上にして置こうと思っても、すぐにコロンと裏返ってしまうか、手のひらから落ちてしまう。
02/08/18(日)
●朝からどんよりとした空で、強く降るでもなくやむでもない雨がつづいている。雨の降るなかでもセミの鳴く声が盛んに聞こえているが、その一方で、もはや力強く鳴くことも高く飛ぶことも出来なくなった衰弱したセミが、ギギギ、ギギギギッーという「鳴き声」とは言えないようなノイズを発しながら、目の高さよりやや高いくらいのあたりを、方向を見失ったように乱れて飛んでいる姿が目につく。気づかずに踏んでしまうと、サクッという心地よい感触で潰れるような、中身の空っぽな、6本の足を硬直させて裏返しになっている死骸も、そこここに落ちている。緑地のやや高くなった斜面から見下ろすと、雨に濡れた日曜のマンション建築現場では、詰め込むようにしてびっしり置かれている建築資材の隙間にスポッと上手くはまり込むように、平日には空高く伸びている巨大なクレーンが横倒しになって収まっている。急に、雨粒が大きく、降りも激しくなると、どんよりした空がパッと白く明るくなり、ひとつひとつの大きな雨の粒もまるで内側から発光しているかのようで、空の白い光が地上にまで染み込んできて、露出オーバーのフィルムのように白い光が当たりを覆う。大きな雨粒が荒っぽく傘にぶつかってくる、ダダダダダダ、という連打音が、ちょうどプロジェクターがフィルムを送るために回転する音のようにも聞こえる。
02/09/03(火)
●ブルーがかったメタリックグレーの軽自動車が道端で半ば歩道に乗り上げ斜めに傾いで停めてあり、その屋根から窓ガラスにかけてに空と雲と街路樹がフィルターをかけたように歪んだ形でくっきりと映り込み、強い日射しがまぶしく反射している。ずんぐりとした車体に映り込んでいる青く歪んだ空間と、その外側のこちら側の空間との境界線あたりを漂っているかのように、一匹の蜻蛉が車体に接するか接しないかギリギリで、すいーっ、と飛んでいる。上から覆い被さるような街路樹の枝葉からはセミの声が降ってくるし、車道と歩道の継ぎ目からは雑草が勢い良く吹き出している。