got to give it up(映画・読書・その他、17)

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川上弘美の『センセイの鞄』を読んだ
アモス・ギタイ映画祭
 『ヨムヨム』

 『フィールド・ダイアリー』
 『ゴーレム、さまよえる魂』

「厚み」を奪われた時間と、近代的なフォーマリズム
冬雑記
ある日の「夢」
ジョン・カサヴェテスの『愛の奇跡』
鈴木清順『ピストル・オペラ』
フランソワ・トリュフォーと他者なき世界/『恋愛日記』
フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』
セザンヌと「見る」こと
セザンヌと村上隆とを同時に観ること/偽日記バージョン
「文學界」1月号の松浦寿輝『半島』
共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」、をめぐって


川上弘美の『センセイの鞄』を読んだ
01/11/28(水)
●川上弘美の『センセイの鞄』を読んだ。正直、この評判の小説の悪口を何か言ってやろうという嫌らしい気持ちが読む前になかった訳ではないのだけど、ほんの何ページか読んだだけで、そんな気持ちはすっかり消えてしまった。とても「いい感じ」というのがこの小説を読みはじめてすぐの感想で、興味深いとか刺激的だとか面白いだとか言うよりも、「いい」小説だという感じなのだけど、この「いい」というのがなかなか微妙なもので、普通、小説にかぎらず面白いと思えるようなものに出会うと、その作家の別の作品も読みたくなるもので、つまりその「作家」に興味を持つことになるのだけど、この小説はとても「いい」のだけど、だからと言って川上弘美の別の小説も読んでみたいとは大して思えないのだ。それは多分この小説が、ここから何かを発展させてゆくことができる可能性を秘めているとか、いままでの作家としての積み重ねの達成としてこれがあるとか、そういう感じのものではなくて、これはこれだけで独立して、自足していて、ぼわっと宙に浮いているような「完成された」感じがあるからだと思う。この小説が「完璧」だ、と言うのではなくて、この「良さ」はこれ自体で「完結」していて、これ以外にどこにも行きようがない、という種類の「良さ」なのだろうと思う。
●この小説の前半は、とても淡々と語られてゆく。登場人物であるツキコさんとセンセイの不思議な交流が、静かに淡々とした調子で、しかし、とても魅力的な細部の積み重ねによって描かれる。だが、この小説は、それだけで終わる訳ではない。これは非常にゆるやかにではあるけど、しかし確実に進行してゆく(深みにハマってゆく)恋愛を描いた小説であり、魅力的な細部がゆったりと重ねられてゆくのにすっかりと警戒を解いて流れに身をまかせていた読者は、ある瞬間に、ふいに、抜き差しならない地点にまで、ツキコさんとともに運ばれてしまっているのに気付かされ、うろたえることになる。これはヤバい。一体どうなってしまうのだろう。なにしろ相手(センセイ)は奇妙に魅力的な人物だとはいえ、かなりの「年寄り」な訳で、ツキコさんだって決して若くはないにしても、これだけの年齢差の、しかも高齢の男女の恋愛を誤摩化しなく描くとしたら、どうしたって前半の淡々としてサラッとした、上品な感じは損なわれてしまうだろうし、だからといって、ナマナマしい部分を排除して誤摩化したのでは、この小説全体が全くウソ臭いものになってしまうだろう。もしここで、恋愛というナマナマしい感情を、適度に抑制してスパイスを効かせる程度にしていれば、この小説は破綻なく、魅力的な奇妙な味わいの小説ということで終わっていただろう。しかし事態は、かなり危険な領域にまで突入してゆく。読者は、「下品な」あるいは「通俗的な」方向へと今にも流れだしかねない危険な「ニオイ」をそこここで察知しつつも、そのスリリングな展開に目がはなせなくなる。●とは言っても、この小説は最後まで淡々とした調子や上品さを失うことはない。物語上で波瀾に富んだ展開がある訳でもない。ここで激しく揺れ動くのは、ツキコさんの感情のみだ。それに、ツキコさんの感情は確かに切羽詰まって空回りはするのだが、小説はそれに対して常にユーモラスな余裕をもった距離感で対処している。だが、そうだとしても、ここではかなり切迫した恋愛感情が描かれている以上、前半のような、渋く枯れたイイ味を出しているような(「癒し系」とも言えてしまうような)男女関係の描写に留まっている訳にはいかず、ツキコさんやセンセイの行う、ひとつひとつの言動には、どうしたってナマナマしく湿った感情というか、イヤらしいとも言えるような「情慾」が絡まるようにして紛れ込んでくる。作家の筆は、そのような「情慾」を、隠蔽しようとも、露悪的に剥き出しにしようともせず、繊細な配慮でもって拾い上げてゆく。(例えば、ある時点から、センセイはツキコさんの頭に手を触れ、頭を撫でるという仕種をするようになり、ツキコさんはそれを「子供になったように」受けるようになるのだが、これは第三者的に見るとかなり引いてしまうようなエロい光景であるはずだ。)今や、ツキコさんの感情のちょっとした動きや、センセイのツキコさんに対するちょっとした振る舞いのそこここに、重ったるい「情慾」の気配が絡み付いてしまっている。一歩間違えば小説全体を台無しにしてしまいかねない気配(つまりそれは、ツキコさんとセンセイの関係が「汚らしく」見えてしまいかねない気配なのだが)が漂っていて、下手をするとツキコさんはただの満たされない物欲しげな中年女性に見えてしまいかねないし、センセイはただのフケツなジジイに見えてしまいかねない。この小説は、この2人の関係にどのような「あり得るべき可能性」を見つけるのだろうか。一体、この2人の「汚らしくない関係」というのはあり得るのだろうか。川上弘美は、このような危うい関係を、最大限の繊細な配慮で綱渡りのように「いい感じ」を見失わずに描き切ってゆく。
●この小説はツキコさんの一人称、つまり完全にツキコさんの視点のみから描かれている。だからセンセイという人物は、常にツキコさんという媒介を通して眺められた、つかみどころのない、不思議な人物としてのみ、形象化されている。しかし、この小説を全て読み終わった後で最も強く感じられるのは、ツキコさんの感情の動きであるよりむしろ、その強い感情を、どのように受け入れて良いのか分らず、途方に暮れて混乱さえしている年老いた男であるセンセイの実存のようなものだと感じられた。ここでは、センセイが混乱しているような様子は、直接的にはほとんど描かれていない。(風邪をひいて寝込んだセンセイが、「アイ?ニューヨーク」と書かれたヘンなTシャツを着ていたリするところに、記号の混乱として間接的に表現されているとは思うけど。)しかしこれは、もう年老いてしまった男には、感情を直接的に混乱させるやり方さえ分らないのだ、という、より深い混乱・困惑が示されているのだ思う。センセイの年老いた身体は、激しい感情や混乱を顕在化させる方法を知らないのだ。例えば、初めて2人で旅行に行った時、別々の部屋で眠りにつくのだが、夜中にふと目が覚めたツキコさんが悶々として眠れなくなり、たまらずにセンセイの部屋に押し掛けた時、センセイはまだ起きていて何と「俳句」をつくっているのだ。ツキコさんは、自分が悶々としている時にセンセイがのんびりと俳句なんかをつくっていることに愕然とする訳なのだが、年寄りが夜中の2時過ぎにまだ起きていて俳句なんかをつくっているというその状況自体が尋常なものとは思えず、つまりセンセイは自分の困惑した感情をやり過ごすためにはそのような方法しか知らないということであり、それはセンセイのより深い混乱を示しているのだとは言えないだろうか。
その後、2人は、初めてひとつの蒲団に入り、互いの体に触れることになるのだが、この時初めて実現された身体的な「触れ合い」はしかし、襲いかかってくる「眠気」によって暴力的に中断させられてしまう。初めて互いの体に触れ合うことの出来た2人は、互いにバラバラに分離されたそれぞれの眠りのなかへと引き裂かれながら落ち込んでしまうのだ。このシーンはこの小説のなかで最も美しく、そして壮絶なまでに悲しいシーンで、是非ともここで引用したいという誘惑にかられるのだけど、まだこの小説を読んでいない人もいると思うので、我慢しておく。
●このような悲痛さの後、小説は一転してたじろいでしまうほどの幸福感とともに幕を閉じることになる。このようなまるで「取って付けた」ようなハッピーエンド(と言っていいと思う)を、つくり過ぎだと非難することもできるだろう。しかし、こういうハッピーエンドできっちりと小説の結末をつけることができるということこそが、おそらくこの作家の「職業的な」上品さなのだろうし、そういう上品さによってこそ、このような「貴重な」小説が可能になったのだとしたら、このハッピーエンドは敬意とともに受け入れられるべきだろう。

 アモス・ギタイ映画祭
  『ヨムヨム』

01/11/30(金)
●アテネ・フランセ文化センター、アモス・ギタイ映画祭で、『ヨムヨム』。これは、明日の食事を心配しなくても良いという程度には裕福ではあるが、心身ともに疲労し切っている中年男と、彼の周囲にいる人物たちとの関係を丁寧に描いたもの。アラブ人の父とユダヤ人の母をもち、妻との修復不可能とも思える関係の悪化にいら立ち、妻との別居で居場所も定かではなくふらふらしていて、病気になることを望んでいるようにも見えてしまうような健康に対する不安を、日常的に抱えている(いつも野菜ばかりをバクバクと喰らっている)、妙に神経質な中年の男、という存在は、それがイスラエルという国家の現在を象徴している、とも読めてしまえる程度には図式的な存在でもあるだろう。一見、ヨーロッパ的な重たい「実存」の危機を描いている映画のようにみえて、実はその「実存」そのものは、深さを欠いた図式によって構成されているに過ぎないのだ、という手法は、現代映画を観慣れている人にはすんなり受け入れられるくらいには、珍しいものではない。図式は、誰にでも分るように示されているし、男の疲労や憂鬱は、深い絶望が刻まれていると言うよりもむしろ滑稽なものと言えるだろう。周囲から見れば滑稽に写ってしまうような、疲労や憂鬱を抱えた不器用な中年の男が右往左往するという意味では、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のヨーロッパのある種のフィルムのクリシェをそのままなぞっている、と言ってもいい。
図式的というのは、そのように読もうとすれば簡単に読めてしまうという意味だ。異なる2つのルーツに引き裂かれる主体とか。しかしこの映画においては、主人公の男は引き裂かれてなどいない。この映画からはユダヤとアラブの対立などほとんど見えてこないだろう。男はむしろ、それらの歴史的な根拠から切り離されて浮遊している。男は普段は、両親の時代にはアラブとユダヤのカップルが困難であっただろうなどということは全く意識していないようにみえる。ただ、無口で頑固な父親と、雄弁で実務的なことを切り盛りしている母親という、よくある「キャラ」の違いがあるだけなのだ。歴史的な矛盾や対立は、少なくとも男がおくっている日常生活の次元では顕在化されていない。男が陥っているのは、ヨーロッパ的知識人のような「孤独」や「存在の不安」であって、イスラエルが歴史的に抱え込んでいる矛盾とは無関係だし、政治の悪口を言っても、それは「誰でもがいいそうなこと」でしかない。恐らくここでギタイが描こうとしているのは、イスラエルで生活していながらも、イスラエルという歴史的な出来事とは切り離されて自己形成をとげ、そこから浮遊した「現実」のなかを生きているような人物(そのような世代の人物たち)なのだと思う。(この映画が意図的に、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のヨーロッパ映画のクリシェをなぞっているのはそのためだろう。)不動産業者は、古い建物を破壊し、ここに何があったかなどすぐに忘れてしまうだろう、という意味のことを言う。それに対する父親の「抵抗」は、息子の世代には理解されない。経済的、政治的にある程度安定した場所では、矛盾や対立は容易に忘れられる。実は、それらが完璧に隠蔽されてしまうことはなく、様々な場所に顔を覗かせてはいるのだけど、男はそれらを注視しようとはしない。(男は、この国は病気だ、と発言するのだが、何故「病気」たらざるを得ないのか、という必然性については、何も考えてはいないだろう。)しかし、男はそれらを、母の突然の死によって、緩やかにではあるが、突きつけられることになる。どのような根からも切り離されて、寄る辺ない浮遊の不安のなかにいた男が、自らのそのような存在さえも、自分でも知ることのなかった様々な歴史に貫かれてしまっているという訳だ。しかし、歴史を突き付けられることによって、男に存在の根拠となるような「根」が与えられる訳でもなく、歴史を背負いつつも、根を剥脱された「個人」として、より不安定な浮遊のなかを生きるしかないことに、かわりはないのだ。映画のラスト近くにみられる、夜の街をあてどもなく歩いてゆく男を捉えた、長回しのトラヴェリングが、そのことを雄弁に示しているように思う。

  『フィールド・ダイアリー』
01/12/1(土)
●昨日に引き続き、アテネ・フランセ文化センター、アモス・ギタイ映画祭で『フィールド・ダイアリー』。1982年、ヨルダン川西岸、ガザ地区、レバノン南部。この映画はまず、カメラはそこにあるものを、見えるものを、はっきりと見えるように記録するのだ、ということを示している。冒頭の、広場を歩いている兵士たちを自動車のなかから捉えた特徴的なトラヴェリングは、何よりもそのことを印象づけている。だから、そこに行きさえすれば、誰にでも見ることのできる事実を隠蔽しようとする者たちによって、カメラのレンズはしばしば手で覆い隠されることになるだろう。ナーブルスの市長宅の内部を、四六時中望遠鏡で監視しているという兵士たちは、自分たちがカメラの視線に曝されることを嫌う。それは、そこにそれがそのようにしてあるのだ、という事実を隠したいからだ。(だから映画は、見えるものを記録するだけではなく、見えるものを隠そうととするものの存在まで写し出す。)人間の目が見ただけでは、それを「見なかった」ことに、見てはいても、「見えていなかった」ことにすることが出来てしまう。しかし、フィルムには写ってしまうのだ。
だが、見えるものが写っているだけでは充分ではない。見えないものを見えるようにするにはどうすればよいのか。例えば、ユダヤ人入植地で、子供たちとともに犬を散歩させている男がいる。この光景は、それだけを見るとのどかな、幸福な休日の一場面のようにしか見えない。しかし、こののどかな犬の散歩が、イスラエル軍の軍事力に支えられたものであること、パレスチナ人に対する暴力的な弾圧によって成立しているという事実を、見えるものにするにはどうしたらよいのか。見えるものを見えるようにし、聞こえるものを聞こえるようにすることを積み重ねることによって、今、ここには見えてはいない、しかし確実に作用している複雑に絡み合っている様々な「力」の存在を、見えるようにするにはどうしたらよいのか。このような問いが、この映画が描き出す軌跡を、運動を規定している、と言ってよいだろう。
ある一定の地域を、自動車で移動しつづける撮影隊は、そこに何が見えているのかだけではなく、その場所に一体どのような「力」が作用しているのかを探るために、丹念に様々な対象にカメラを向け、音声を拾ってゆく。そして、それによって明らかになってゆくのは、確かにそこにははっきりと暴力による支配があることにかわりはないのだが、しかし単純にはそれだけでは割り切れない、様々な微細な「力」が作用してもいる、という事でもある。勿論、まず第一に暴力の存在は告発されなければならない。この映画は、一義的には、イスラエル軍による暴力を示している。レバノンの難民キャンプや破壊された街を映した後に、「希望の門」とよばれる建設予定の入植地が対比的に映しだされることからも、それは明らかだろう。しかし、この映画にはただ告発だけに終わらない、様々なミクロな「力」の交錯に会する眼差しがある。製作から20年近くたった現在、この映画が興味深いのは、様々な微細な力に対する感性であり、それらを拾い上げることを可能にするスタイルであるだろう。

  『ゴーレム、さまよえる魂』
01/12/6(木)
●アテネ・フランセ文化センター、アモス・ギタイ映画祭で『ゴーレム、さまよえる魂』。この映画で、どうしても最後まで違和感を拭えなかったのが、斜め上からの俯瞰のショットが多用されていることだ。この映画は、簡単に言ってしまえば、旧約聖書で唯一ディアスポラについての物語であるという「ルツ記」やユダヤ神秘主義の「創造の書」などの、プレテクストとしてある強力なロゴスと、現在のパリで暮らす、具体的に固有な人物として存在する家族の放浪の物語とが重ね合されている、という訳なのだが、この2つの異なる次元を結び付けるのが、登場人物としては、冒頭、泥のなかから創造された放浪の精であるハンナ・シグラであり、そして、映画の形態としては、斜め上からの俯瞰ショットなのだ。聖書という決定的なテキストに書き込まれ、その後、歴史のなかで何度も反復されることになる、いわば神話=構造としてのディアスポラと、実際に自らの固有な生として、ディアスポラを生きざるを得ない人物たちの「固有性」との間には、当然齟齬がある訳だし、この映画が、たんに神話=聖書を現代を舞台にバランスよく翻案しただけというものとは違う、強い力をもっているのは、構造(形式)と固有性の間にある、微妙だけど決定的な差異に目を向けているからだと思う。しかし、斜め上からの俯瞰ショットという、ロゴスと固有性の中間にあって、それらを媒介するようなものの存在が、この2つの関係を妙に安定的なものにしてしまっているように思えるのだ。つまり「良く出来た映画」にしている訳なのだけど、それがぼくには何とも納得がいかないのだ。このような、作品としての「構造」の安定が、この映画の主題でもあり、ギタイの映画の特徴でもある、「さまよえる」感じを殺してしまっているとは言えないだろうか。
たとえば、2人の息子が車に轢かれて死んでしまった後、警察が検死を行い、死体が片付けられ、そこに母親が1人残される。ここまでは引いたポジションの俯瞰による長回しのショットで撮られている。このショットでは、物語の外にあって、物語を規定してもいるロゴスが語られている訳ではないのだが、物語内部の現実が語られているのともちょっと違う。警官の動きは段取りめいているし、死体を運ぶ仕種は儀式的なものだし、死体を運ぶトラックの影から母親があらわれるというのも、様式的な演出だと言える。つまりこのショットは、過度に様式化された演出によって、現実としての「物語」からやや浮き上がった、中途半端な超越性のようなものを獲得している。この映画では、斜め上からの俯瞰のショットはいつも、このような様式化された半超越的な演出と結びついているように思う。そしてこの中間的な次元において、ロゴスと物語が交錯が可能になり、2つの異なる次元の共存が保証される。この、引いたポジションの俯瞰による長回しのは、悲嘆する母親が歌を口づさんでいるバストショットに接続されるのだけど、そこではもう、物語の「現実」に戻っていて、ある生々しさが生じている。つまり、様式的な半超越的なショットと現実的なショットとが、「悲嘆する母親」によってスムースに繋がれてしまう。(例えば、ゴダールにおいては、このような中間的なものは存在せず、ロゴスと現実=固有な映像が直にぶつかり合ってしまい、決して安定した構造が成り立たないことが刺激的なのだし、アンゲロプロスならば、逆に、半超越的な中間的な時間ばかりが、じりじりするような緊張感をもっていつまでも持続してしまうことが、刺激的であり、官能的ですらあると思うのだ。)他には、シーツがびっしりと干してある中庭で、母親が2人の義理の娘に「母親のもとへかえれ」と言うシーンとか、ボアズとルツに赤ん坊が生れたことを暗示するシーンだとかが、斜め上からの俯瞰ショットによって構成されていて、それらはシーンとしては確かに素晴らしいシーンではあるのだけど、こういうシーンをこんな風に「処理」してしまうということがどうしても釈然としなくて、ギタイのなかにある「優等生」的な部分を感じてしまうのだ。
ロゴスと固有性の中間にあって、それらをスムースに結び付けるものとは、簡単に言ってしまえば「メタファー」ということになると思う。ぼくは何も「メタファー」が駄目だと言っているのではない。しかし、少なくとも映画においては、メタファーは徹底的に貧しいことによってしか生きないのではないだろうか。例えば、初期の青山真治の作品にくり返しあらわれる「トンネル」は、どうみても「空虚」のメタファーであるのだが、トンネルが空虚の暗喩であるなんて、全く馬鹿みたいに貧しい訳だけど、しかしその「貧しさ」が、映画というものが何かそこに「有る」ものを撮るのであって、「〜がない」という状態を撮ることが出来ないという、映画の根本的な構造を示してしまっているからこそ、その「貧しさ」は絶対的に正しいのだ。「〜がない」という状態を撮るためには、実際にどこかにあるトンネルを撮らなければならない。ここに生じる齟齬こそが、映画という表象体系のヤバさであり、魅惑であるのではないだろうか。
ギタイの『フィールド・ダイヤリー』においては、見えないもの、画面には写らないものをを見えるようにするものは、寄る辺なく彷徨いながらも、執拗に何度でも回帰して反復する、トラヴェリングという「運動」そのものだったのではないだろうか。冒頭の、走る車のなかから捉えられた、あの驚くべき生々しい運動が、執拗に何度も何度も反復されることによって、次第にその場所にいるだけでは見えてこないものまでが、浮かび上がってきたのだはなかったか。『ゴーレム、さまよえる魂』でも、やや宙に浮いた位置である車の荷台の上に座った母親とルツが夜の街を移動してゆくシーンの寄る辺なさこそが全てを語っていると思うし、家財を差し押さえるベルトリッチを前にした2人の表情や佇まいでもう充分なのではないだろうか。(このシーンの直後の俯瞰、斜め上からでなく、真上から街を見下ろす空撮は素晴らしい。)精霊はただ人物たちのまわりをフラフラ漂っていればそれで良かったはずだし、ロゴスは、現実の登場人物がいきなり場違いに口にすればそれだけで良かったと思えるのだ。冒頭近くに映し出されるエッフェル塔のような、中途半端な垂直性=超越性が、この映画に無駄なぜい肉を呼び込んでしまっているように感じられた。(しかし、エッフェル塔の撮影自体は素晴らしくて、パリに行ったことなどないぼくとしては、松浦寿輝氏が『エッフェル塔試論』を書いたきっかけが、夜のエッフェル塔の美しさだった、というのがはじめて納得出来たのだった。)

  「厚み」を奪われた時間と、近代的なフォーマリズム
01/12/2(日)
●時間がバラバラに切り刻まれる。今は緊急の事態だ。ほんの一瞬の遅れが命取りになる。うだうだとシチメンドクサイ理屈をこねている時ではない。決断せよ。行動せよ。このような強制が、人から「時間」の厚みを奪い、生活を軍事化し、社会を軍事的=警察的に管理し支配することを可能にする。現在を、リアルタイムを強調することは、現在という時間が実は、大部分が過去で出来ていることを、現在がずっと先の未来にまでつながっているということを、忘れさせることなのだ。『無産大衆神髄』(河出書房新社)で山の手緑は、戦争中、「時局」に支配されていた親が、戦後、リアルタイムに関心をなくし、文学全集などを一所懸命読んでいたことについて語っている。《自分の親は戦争の時まだ子供なんですけど、両方とも疎開とか疎開的な経験をしていて、空襲警報は両方とも聞いているんだよね。要するに戦時中というのは、情報がすべて空襲警報的で、いまどうなっているかということすべてが非常事態だから、時局というものが強い力をもつわけじゃないですか。》《ごはんを食べてても、空襲警報が鳴れば穴の中に駆け込まなければいけない。そういう「時局」というものに刻まれた日常を送ってきて、戦後をむかえた人がリアルタイムというものにまったく興味を失って、古典とか歴史とか、過去の作品とかを読むというのは、何かわかるような気がするんですよね。》《リアルタイムが刻まれてゆくという時間では、文脈がどんどん切断されていくわけじゃん。だから戦後になって、戦時中に奪われてしまった自分たちの時間を回復するものとして、古典とか、近代の文学とか、歴史とかを読むということがあったんじゃないかと思うんです。》
●リアルタイムの専制は、文脈をどんどん切り刻んで時間の「厚み」を奪い、即断、即決を要求し、すぐにあらわれる結果を要求する。例えば、究極の選択というものがある。「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、食べるならどっち」みたいな。誰がどうみたって、これは問いの立て方が間違っている。どっちも食べないに決まっている。(どっちも食べたい、とい「マニア」もいるかもしれないが。)しかし、そのような正論を言うことは「場」が許さない。そんな正論はせっかく盛り上がっている場をしらけさせるだけだからだ。かくして人は、どうしたって間違うしかないような答えを答えることを、しかも即座に答えることを強いられる。そして答えたからには、それを自らの意志で「選択」したことにされてしまうのだ。(これはほとんどコイズミ政権のやり口と一緒だ。)
●しかし、だからと言って、時間の「厚み」が、歴史や古典とのなめらかな連続性として保たれれば、それで良いという訳にはいかない。なぜ、リアルタイムがいつも問題にされなければならないかと言うと、そこではいつも亀裂が起こっているからだと言える。現在とは過去からの亀裂のことだ。現在というのはつまり、亀裂が発生している時間のことだと言い換えてもいい。だから現在は、コンフリクトで満たされている。そのような意味において、現在は常に非常事態であるだろうし、現在という時間が軍事的な用語によって理解され、軍事的に処理されてしまうという必然性はそこにこそあるのだと思う。現在がいつも亀裂としてしか現れないことを忘れ、あるいは遍在するコンフリクトを覆い隠して、過去とのなめらかなつながりの「物語」が求められてしまうとき、そこには他者への暴力的な支配(あるいは排除)を正当化するような物語しか出てこないだろう。時間をバラバラに切断することで文脈を不可能にする、「現在」という時制の専制には時間の「厚み」によって抵抗しなければならないが、同時に、過去からのなめらかなつながりによって時間の「厚み」を強調するような物語には、切断することで抗わなければならないだろう。
●『無産大衆神髄』から、上で引用した山の手緑の発言を受けて矢部史郎は言う。《山の手さんが言ったリアルタイムということ、時間の深みを切断してゆくということは、考えてみればポップというコンセプトがそうなんですよね。突然脈略を無視して登場しますよ、というのがポップじゃないですか。》いわゆる「正当な」文脈を切り裂いて、利用可能な部分だけカットアップしてサンプリングし、おいしいとこだけを組み合わせていきなりガーンと押し出す。本来ポップはエスタブリッシュメントに対するカウンターであり、反教養主義によって教養の蓄積を破壊するような、つまり「終身雇用」「年功序列」的な連続した時間の「厚み」や「深み」への不快感をあらわしたものとしての「下剋上」のようなコンセプトとしてあらわれたと言えるだろう。しかしそのようなポップな手法は、ナカソネ「民活」以来、いつの間にか主流派(勝ち組)のものとなっていて、今やコイズミ政権下においては、たんなる現状是認(勝ち組が勝ちつづけるための技術)以外のなにものでもないものへと成り下がってしまっているのだ。
●近代的なフォーマリズムというのは、つまりは、バラバラに切断されていて文脈をつくることの出来ない現在という断片のなかにいても、何かを生産し、何かを判断することが出来るために要請されたものだ。(「普遍」というのは、そういうとなのではないか。)生産し、判断すると言うことは、そこに「厚み」を、「深さ」をつくり出すということでもある。そのためには、その場その場での、適当な過去へのアクロバティックなアクセスが必要となる。それには、過去からのなだらかなつながりを保証するような教養とは別種の、反教養主義的な教養の「厚み」が必要だろう。(『無産大衆神髄』では、「とにかく分厚い本を読む」「闇雲に読む」ことが奨励される。あるいはかつての蓮實だったら、とにかく年間150本以上は見ろ、と言ったのだった。そのような闇雲な吸収によってしか得られないような教養の「厚み」のこと。)過去からのなだらかにつづく「厚み」とは違う、その場その場での「創造」的な過去へのアクセスによって生産される時間の「厚み」。リアルタイムという軍事的な時間の専制に抵抗するための、時間の「厚み」や「深み」とは、正当性が保証された過去からの連続によってうまれるのではなくて、その場その場で不断に行われる創造によってうまれるのだ。

  冬雑記
01/12/4(火)
●午後になって雨があがると、メタセコイアの葉がものすごい勢いで散りはじめた。何かのスイッチがはいってしまったとでもいうように、まるで夕立みたいに次から次へとバサバサ葉っぱが落ちてくる。落ち葉はみるみる道路を覆い尽し、自動車のタイヤの通る跡の4本の線をのこして、道路は黄金色に染まってしまう。細くて短い葉っぱのクロスハッチングで覆われた地面、すっかり埋もれたマンホールのフタ。手に持っていた鞄や書類を頭の上に掲げて、落ち葉を除けながら足早に走り抜けるスーツ姿の人たち。路駐してある車のワイパーの上には、こんもりと山になって落ち葉が溜まり、どこから入ってくるのか建物のなかのリノリウム貼りの床の上にもそれは散らばっている。この不思議な、もともと化石として発見されたという、絶滅したと思われていたスギ科の原始的な植物には、一体どのような装置がセットしてあるのか、3〜4時間もすると落ち葉はピタッととまってしまうのだった。夕立が去ったみたいに。あれだけ派手に大量の葉っぱを降らせていたのに、立ち並ぶ木々にはまだ4割くらいの葉っぱが残っているのだ。
01/12/8(土)
●その縁のあたりが反り返ってしまうほどにカラカラに乾燥しているので、足で踏むとバリバリッと小気味のよい音をたてて崩れてゆくような落ち葉が、この辺りに建ち並ぶ建物やなんかの地形のために、常に南からばかり吹きつづけている風に少しづつ運ばれてきて、タイル敷きの地面をコロコロと転がるように滑ってゆくときに擦れてたてる、カラカラカラ、カラカラカラ、という音が、ほんの僅かの間だけ途切れることはあっても、ずっと持続して聞こえつづけている。つまり、風はずっと一定の強さで吹きつづけていて、一体どこから運ばれてくるのか、落ち葉も途切れることなく供給されつづけ、転がりつづけているのだった。遠くから、踵の高い靴の、堅い底の部分がタイルを踏み締めているコツコツコツコツという音が近づいてくる。キリキリキリキリーッ、というチェーンの空回りする音とともに、表面に凹凸のあるゴムが回転しながら地面と触れ合っては離れてゆく2つのタイヤが転がり、自転車が走り抜けてゆく。モコモコと着膨れした人のウインドブレーカーの、腕と脇腹の部分が歩くたびに擦れて、ガサガサと摩擦音をたてている。あっ、あっ、あっ、あっ、という声と、やーっ、ひさしぶりぃーっ、という声とが、高い音域で交錯する。カバンについているらしい鈴の音が、チリチリいう。
01/12/10(月)
●アトリエの大家さんのところへ家賃を支払いに行く。振り込みとか自動引き落としとかじゃなく、大家さんの家まで払いに行くし、行くと大家のお婆さんの茶飲み話につき合うことになったりするので、そうそう毎月行っている時間もなく、3〜4ヶ月分くらいまとめて支払うことになるのだけど、3ヶ月ぶりに見る大家のお婆さんは、何かちょっと老け込んだという印象だった。とはいえ、来年90歳になるという婆さんが、結婚前に銀座でビジネス・ガールをやっていた頃から使用しているという御自慢の5つ珠のソロバン(今どきこんなソロバンどこにもないのよ、ほら、いい音するでしょう、こんな音するのないのよ、名古屋だかどこだかにソロバンの博物館みたいのがあって、寄付してくれって言われてんだけど、こればっかりは絶対手放せないのよ。)を弾く姿はとてもしっかりしていて、計算も素早く正確だ。しかし計算そのものは正確でも、計算の段取りと言うのか、順番というのか、何かへんに複雑で面倒なやり方をしていて、その複雑な行程のあいだにどこかで間違いがあったらしく、最初は大家さんに言われる通りの額を支払ったのだが、大家さんが金額を説明するために数字を並べて書いてた広告の裏を使用したメモを眺めていると、千円多く支払っていることに気付いた。大家さんの計算方法は独自の不思議な複雑なやり方で、このことを納得してもらうのにかなり骨が折れたのだけど、ちゃんと納得してもらわないと、たかだか千円ばかりのお金を、年寄りから口八丁で騙し取るみたいになってしまうので、出してもらったお茶をすすり、煎餅をバリバリ喰らいながら、何度も何度もソロバンを弾き直す大家さんを、あまり混乱させない程度に説明を加えながらも、じっと待っていることになるのだった。おばさん最近ホントに馬鹿になっちゃって、いやんなっちゃうわよ、という、今のアトリエを使うようになってから何度聞いたか分らない大家さんの口癖を聞きながらソロバンを弾いている姿を見ていると、その後ろにはお爺さんの遺影があって、このアトリエを使いはじめて来年で10年になるのだけど、10年前にはこのお爺さんも生きていて、家賃を支払いに行くといつもお婆さんと2人で炬燵にはいっていて、昔の苦労話を聞かせられたのだったし、勿論アトリエの隣のトムも元気で吠えまくっていたし、この10年はまったくアッという間だったのだけど、いろいろ変化があったと言えば変化があった訳だ。帰りがけに、お茶菓子よかったら持って行きなさいよ、と煎餅を何枚も貰ったので、ポケットはパンパンに膨らんでしまい、帰りのホームの寒い吹きっさらしでも、ベンチに座りながら、バリバリ音をたてて喰らっていたのだった。
01/12/11(火)
●真っ黒な夜空に、本当に、降ってくるように星が出ていて、クラクラした。ぼくは夜空の星を見上げるようなロマンチックな趣味はないし、獅子座流星群とか言われている時も、ふーん、というくらいなものだったのだけど、体の芯までギュッと縮みあがるように冷えている深夜、人通りのない坂道を、自転車のチェーンの音をカラカラさせながら下っている時にふと見上げた空があまりに真っ黒く澄んでいて、その澄んだ黒一面に、大小様々な黄色い穴がチカチカしながら散らばっているのが目にはいってきたので、坂を下りきった体育館のところで自転車を止めて、しばらく口をあけてポカンと眺めていた。寒かったから、ほんのちょっとの間だけだったけど。それに、こんな、底が抜けてしまったようなものを長いことみてたら、つかみどころのない恐怖で、頭がおかしくなってしまいそうだったし。
01/12/14(金)
●香料の強い石鹸で手を洗い、ついでに顔まで洗ってしまったら、甘くて重ったるい匂いがいつまでも顔のまわりにまとわりついていて、どこまでもついてきて、そのしつこさにうんざりする。匂いと言えば、しんしんと冷えている夜の道を歩いていると、どこの家から漏れてきたのか、石油ストーブに火を入れてから完全に着火するまでの間にプーンと拡がってくるあの独特の焦げたような匂いが、通りにまで漏れでてきていて、冷たい空気と混じり合って薄く漂っていた。もう本格的に忘年会のシーズンに入ったのか、電車のなかではアルコールの匂いが籠っていた。乗客のコートは、飲み屋の煤けた匂いをたっぷりと吸い込んで、それを少しづつ発散していた。そういえば、大学の頃、友人の女の子は、いきなり、匂うはずもない場所でどこからともなく匂ってくる線香の匂いを感じると、親しい者の死を知らせているようで不吉だ、としきりに気にしていたのだった。
01/12/20(木)
《事件は起こったのだった。ほとんど料理などすることはないのに、ちょっと鍋でもつくってみるか、と考えたのがそもそもの間違いだったのだろうか。火にかけた鍋を前にして、いいダシが出るという理由で買ってきた魚肉ソーセージのパックを歯で引き千切ろうとしたとき、妙に滑るような感触とともにガリッという音がして、前歯が1本きれいに欠けてしまったのだった。え.....。あまりにあっけなかったので、しばらく何が起きたのか理解できなかった。事件とはこのように不意打ちするものなのだ。マジ.....。舌先で触れようとしても、そこにあるべきものはもう無いのだった。自分の顔を鏡に映し、口を「ニッ」と開いて歯を露出させると、間抜けな歯欠け顔があらわれる。笑った。もう一度「ニッ」とやって、また笑う。もうこれは笑うしかないでしょう。ははは。すぐに歯医者に行ったとしたって、刺し歯だか入れ歯だか知らないけど、そんなにすぐにできるはずもなく、年末年始はこの歯欠けの間抜け顔で過ごすしかないみたいだ。それにしても、こんなに簡単に歯が折れてしまうようでは、ぼくの身体は大丈夫なのだろうか、と、ちょっとだけ不安にもなるのだった。急に齢をとったような気がした。》
01/12/26(水)
●久しぶりにゆっくりと散歩する。駅の南側の住宅地にポッカリ空いた穴のように拡がっている冬枯れの畑。冬枯れと言うより、普段からあまり有効には利用されていなくて、荒れていて、半分空き地のようなスペース。かなり広く拡がるその畑の真ん中を斜めに貫いている道を歩いて抜ける。土もパサパサ。畑のなかには、一本の根から扇状に何本も幹が生えている巨木が生えているし、作物はほんの片隅にほとんど手入れされていない状態で、しおれたように小さく縮こまってあるだけなのだった。一箇所、1m四方くらいを厳重に金網で囲っているところがあって、これは一体何なのだろうかと近づいて見るのだけど、立っている立て札が錆び付いていて、文字が全く読めない。振り返ると、駅裏にニョキニョキと生えている背の高い団地群が畑越しに見える。米を炊いているような匂いがムッと漂ってきて、しばらく行くと、ガレージのような場所で、白い割烹着に白い帽子にマスクをつけた10人程の人たちが集まって、正月用の鏡もちをつくっていた。ガレージのなかは湯気であふれ、幾つもの扇風機が湯気をかき回していて、こっちでは蒸しあがったばかりの真っ白く柔らかいカタマリ(うわっ、何て白いんだ)を容器から出して粉をまぶしていたり、あっちでは様々な大きさに丸めていたりしている。勿論音はたっていたはずなのだけど、今その情景を思い出すと無音の印象がある。(あまりにも「白い」という視覚的な印象が強いせいなのだろうか。)その数件先にある昔ながらの雑貨屋は、昔ながらのつくりで店のなかが暗くて人の気配が感じられなくて、ラジオから流れているような怪し気なシャンソンみたいな音楽が奥の方から聞こえていた。大学生の頃何度か食べにきたことのある、異様に値段が安いのだけどいかにも安いだけのことはあるという定食屋は、確かこの辺りにあったはずなのだけどなくなっていた。(いかにも質の悪そうな脂が充満し、壁にもテーブルにもしっかりと染み込んで浮き出ているような感じだった。)とても特徴のあるヘンな店の名前だったのだけど、それがどうしても思い出せない。銭湯の裏にはリヤカーが停まっていて、蒔きにするのだろう木材がこんもりと積み上げられている。銭湯の裏庭にも木材が雑然と、しかしみっしりと詰め込まれていた。平べったい土地が、いきなりこんもりと盛り上がって小高い山になっていて、その頂上にまでまっすぐに伸びている階段を登ってゆく。片側は住宅だけど、もう片側が竹林になっている。頂上には水道局の貯水地があって、四方を金網が取り囲んでいる。空っ風が吹き抜ける。高いところから駅の方を見下ろす。
01/12/27(木)
●前歯が折れてしまって、歯医者に行っている。前に歯医者に通っていたのは確か90年か91年頃で、それもほんの短い間だけで、その時通っていた歯医者の場所のおぼろげな記憶を辿って、この辺だったはずだよなあ、というあたりの雑居ビルに歯医者がはいっていたので、そこにすることにした。そこにはY歯科医院という看板が出ているのだけど、昔通っていたのは、記憶ではA歯科医院とかだったと思うのだけど、エレベーターで3階まで昇って、扉が開いたとたんに、その場所の記憶が鮮明に甦って、ああ、ここだ、間違いがない、と確信したのだった。そうそう、待ち合い室がこんな感じで、受付がこうあって、診察室は確かこういう感じだったはずだ、と細部までハッキリと思い出し、そう言えば、診察中に口のなかを照らすためにググッと顔に近付けられる可動式のライトには、多分メーカーの名前なのだろう「BELMONT」という文字が刻まれていて、口のなかをギリギリと削られているときにその文字がいつも目に入っていたなあ、ということまで思い出したのだった。ただ、歯医者の先生の印象は甦った記憶とはかなり違っていて、もっと若かったというのは10年以上経っているのだから当然としても、もっと太った、お坊っちゃんみたいな感じの人だったように思うのだが、ごま塩頭の、ちょっと高橋悠治みたいな感じの人なのだった。しかし、喋っている声を聞いて、この人に間違いがないと思い直した。低く太いよく響く声に、柔らかい甘味が加わっているような、本当に歌手のような良い声で、喋る言葉の端々に、見かけや声に似合わない子供っぽいと言うか幼い感じが混じるのも、記憶にある通りだった。人は、外見などは月日とともに大きく変わっても、案外喋り方の癖やなんかはあまり変わらないものなのだなあ、と思った。(しかし10年以上も一度も思い出したことなどないそんな歯科医の喋り方の「癖」を、よくもまあ憶えているものだ。)
折れた歯を「根」の部分だけ残して削り落としてしまって、残った根から芯をたてて、そこに「歯」をかぶせることになりますけど、年内はもう工場がやってないので、今日は仮の歯をつけておきます、と言って、ギリギリ、ガリガリと歯を削った後に、歯科医の先生は歯科技巧師だと思われる人にバトンタッチした。(前歯がきれいに削られてしまうと、「濯いで下さい」と言われて口をグチュグチュ濯ぐ時に、その隙間から水がピュッと漏れてしまうのだった。)歯科技巧師の人は、噛み合わせなんかを何度も確認しながら、「仮の歯」を微妙に削って形を整えてゆくのだけど、その作業の過程を見ているととても面白い。見ている、と言っても治療中で半ばイスに縛り付けられているも同然なので、横目でチラチラと見ることしか出来ないのだが。「仮の歯」を削る歯科技巧師の作業は、まるでゴダールの『新ドイツ零年』に出てくる、スピノザがレンズを研摩しているところみたいで、歯医者のいろいろな作業の行程を丁寧に映画で描写すると結構面白いんじゃないだろうか、とか思って、顎の筋肉が疲れるほどずっと大きく口をあけっぱなしのまま、歯医者を主題にした映画って何かあっただろうかと考えるのだけど、森田芳光の『愛と平成の色男』くらいしか思い浮かばないのだった。

  ある日の「夢」
01/12/5(水)
●久しぶりに、夢を起きた後まで憶えていた。たいした夢じゃないけど書いておく。恐らく、実家の近くの川だと思う。河口に近くて、かなりの川幅かあり、たっぷりとした水量が威圧的にさえ感じられる。日曜か祝日らしくて、大勢の人が出ているし、川にはモーターボートなどもはしっている。なんとなく華やいだ雰囲気だ。川岸のあたりの水面にとても大きな影が動いているのが見える。影が動くたびに水面が盛り上がったり、流れに乱れが生じたりする。それは巨大な古代魚のような魚で、大きさはイルカよりも二まわり以上は大きいと思われる。水面から上には、古代魚的なトゲトゲした形の背ビレと、真っ黒くてゴツゴツして瘤のあるような、ヌラヌラと濡れている背中の一部が時々姿を現して、それが見えるだけだ。魚が水面に近くまで浮上してくると、なだらかな水面は乱れ、波紋が拡がる。水面の乱れから、姿の見えない魚の、身のよじり方や動きが感じられる。周囲の人たちも、物珍しそうに魚を見に集まってくる。父親が子供に、ほらご覧、と言いながら指さしている。その時何故か、水面を、まるで風呂に浮かべるオモチャみたいにして、自転車に乗った子供がプカプカ水に浮かびながら自転車を漕いでやってくる。魚はその子供をあおるように脇を通り抜け、その波紋で子供は、これまた風呂のオモチャが倒れるように自転車ごとパタッと倒れてそのまま動かない。それ以上沈みはしないが、子供は横になって水に浸かったままだ。ぼくは、助けなければ、と思うのだが、これから用事もあるし、寒いし、で躊躇している。周囲の人たちは、子供に対して何の反応も示そうとはしない。ザワつくことも無く、何も見てはいないという様子だ。誰が助けにいく奴はいないのか、と思いながらも、しばらくイヤな躊躇の宙吊り時間がつづく。その時、父親と2人連れだった子供がスッと手を伸ばし(何と手を伸ばすだけであたりまえのように届いてしまったのだ)、またまた風呂のオモチャを立てるように、倒れていた子供を立て直し、すると子供はゼンマイ仕掛けの人形のように、何ごともなかったように自転車を漕いでゆくのだった。ぼくはホッとしながらも、イヤな罪悪感に苛まれて、その気持ちのまま目が覚めたのだった。
01/12/16(日)
●兄弟だか親戚だか、とにかく身内のなかの誰とは確定できない誰かが、ひどく残虐なやり方で殺された、という夢を見た。多分、葬式か何かなのだろうが、親戚じゅうが集まっているところに、現像があがったばかりの写真が届けられる。それは普通に街のプリント屋に出して上がってきたサービスサイズの写真で、24枚撮りだとか36枚撮りだとかのフィルム1本分を一纏めにした袋が、幾つもゴムで束ねられている。それらは全て、殺された親類の無惨な死体を写した写真で、集まった親戚一同は、皆でそれを一枚一枚廻して見ながら、涙を流したり、故人の思い出話をしたりしている。でも、ぼくはそれらの写真がとても恐ろしくて見ることができない。写真に写っている、無惨な姿の死体が恐ろしいのではなくて、その写真自体が、その物体が恐ろしいのだった。それは本当に、体の芯からブルブルと小刻みな震えが電気のように表面へ向けて駆け抜けるような恐怖だった。サービスサイズでプリントされたその写真という物質が、そのまま、抗うことも逃げることも出来ない「暴力」をそのまま物質化したもののように感じられたのだった。あまりの恐怖で目が覚めた。すると、蒲団がはだけていて、上半身が冷えきっていた。ぼくの場合は、体の「冷え」による「震え」が、夢のなかでは震えるような「恐怖」へと変換されるみたいだ。

  ジョン・カサヴェテスの『愛の奇跡』
1/12/7(金)
●吉祥寺のバウスシアターで、ジョン・カサヴェテスの『愛の奇跡』。これはカサヴェテスのフィルモグラフィーでも、とても重要な作品で、いわゆる「カサヴェテスらしさ」が見られないというだけで、たんにプロデューサーとの関係が上手くゆかなかった不幸な作品として位置づけてしまうのは間違っているように思う。確かに、大枠としてハリウッド的な物語や演出の枠内に納まってしまっていると言えるだろうし、カサヴェテスがやりたいことをやり切っていないという中途半端さがあることも否定しようがない。しかし、ここには既に、カサヴェテスにとって重要なものは全て出そろっているとさえ思えた。
青山真治氏の著書によると、カサヴェテスはこの映画について、《編集しなおされる前の私の映画は、知恵遅れの子供たちがどこで生活したってかまわないというものだった。そういう問題は子供たち自身の問題ではなく、大人である我々の問題なのだ。》と言っているらしい。(青山氏は「どこで生活したってかまわない=どこにいたってかまわない」ということを、主体の意志の問題ではなく、遍在性=偏在性として捉え、これをその後の映画、特に『ビック・トラブル』と繋げている。これはとても興味深いと思う。)この映画はまさにこの説明の通りの映画であって、子供たちは「どこで生活してもかまわない」、つまりどこにいても変わらない、変わりようのない、いつも自分自身としてだけ存在しているような人物たちで、彼らはいつもそのままそこにいるだけで、この映画の物語が描いているのはむしろ、彼らを分類し、囲い込み、矯正しようとする「大人である我々」の態度についてなのだ。プロデューサーによってハリウッド風の物語へと編集しなおされようと、基本的にそれはかわっていない。生徒に教えるよりも生徒から学ぶことの方が多いですよ、などというのは教育者のよく口にするクリシェに過ぎないが、この映画において、知的障害者施設の教師である術を学び、自らの「居場所」をみつけることになるのは、教師として赴任してきたジュディ・ガーランドであって、知的障害のある子供たちは、自分たちの居場所などどこにもなく、しかし、居場所がないということは、どこにいたってかまわない、ということでもある。(施設を脱走した少年が、フットボールをする子供達の集団にふとしたきっかけで加わり、ゲームに参加し、しかしほどなく仲間はずれにされてしまう、というシーンはとても素晴らしい。彼の居場所はどこにもないが、しかしだからこそ、どこにいたってかまわない、のだ。)どこにいたって変わらない子供たちを「知的障害者」として線を引いて分類し、ある場所へと囲い込むのは「大人である我々」の都合であって子供たちの問題ではない。どこにいようと子供たちの歓びが「歓び」であり悲しみが「悲しみ」であることに変わりはないだろう。しかし同時に、彼らが「大人である我々」の都合から自由になることもあり得ないのだ。どこにいたってかまわない彼らは、しかし、どこでだって生活出来るという訳ではないのだ。
この映画には、いわば分裂した2つの流れがあると言えるだろう。一つは、新しく赴任してきた音楽教師が、無理矢理に子供たちに規律を教え込もうとする施設の責任者に反発し、そこから落ちこぼれてしまっている少年と何とか心を通じさせて少年を救おうとして、それに失敗する、という物語で、そこには音楽教師の過去から引き摺った内面の問題や、少年との触れ合いや葛藤、そして上司との対立などがあるような、ハリウッド風のメロドラマとして成立するような物語で、もう一つは、実際に知的障害をもった子供の姿や、その施設で普段行われていることなどを、物語とは関係なく描写しようとする流れで、ここには「どこにいたってかまわない」子供たちの姿が、まさにそのようにして描かれている。カサヴェテスは実際に知的障害者とともに仕事をし、そこにいる彼らを、彼らの生きている環境を、カメラにおさめるのだ。(多分カサヴェテスは、この2つを分裂させてしまったことが根本的な間違いだと思ったのではないだろうか。この後、『フェイシズ』以降は、どこにいても構わない者=居場所が確定されない者としての「個人」同士が、複数関係することによって起きる物語という、危うい線を追求することに本格的に乗り出すのだ、とは言えないだろうか。物語によって要請されるような人物とは、根本的に異なる人物たちの「物語」。カサヴェテスの映画で、あんなに人が酔っぱらうのは、正体なく酔っぱらうことによってようやく、どこにいても構わない=どこにも居場所のない状態(=個人)へと移行することが可能になるからではないのだろうか。)
愛情によって彼らを理解し、救うことが可能だと考える音楽教師は、しかしそれによって少年に決定的な悲しみ(親と引き離される事)を、再び反復して味あわせてしまうことになる。対して、施設の責任者であるバート・ランカスターは、彼らはすでに独立した人格としてあり、それはそのまま尊重されるべきだと考えているのだろう。彼らは彼らの歓びを生き、彼らの悲しみを生き、彼らの孤独を生きるしかないのだ。しかし、どこにいたってかまわない彼らは、どこででも生活できるという訳ではない。彼らはいつも「大人である我々」の都合に左右されざるを得ない。だとしたら彼らが生活できる可能性のある場を少しでもひろげてやるために、生活規範を教え込み、発音を矯正しなければならない。いや、誰も社会から逃れられない以上、彼らも彼らなりの社会性を分担せざるを得ないから、それは強制的に身に付けさせられるしかないのだ。知的障害者は、社会の外へと疎外されるのではなくて、「知的障害」という社会的分担のなかに囲い込まれるのだ。少年の父親に対して施設の使いの者は「彼なら皿洗いや荷造りくらいはできるようになりますよ」と言うが、父親は「そんなものに何の意味がある?」と答える。それにつづけて施設の使いは「では、あなたや私のしていることに何の意味がありますか?」と問う。ここからの闘争=逃走や抵抗については、今後のカサヴェテスの映画において、くり返し描かれることになるだろう。

  鈴木清順『ピストル・オペラ』
01/12/9(日)
●テアトル新宿で、鈴木清順『ピストル・オペラ』。鈴木清順の新作に、何か新しい刺激を求めることは出来ない。鈴木清順はただ鈴木清順を反復するだけだろうから。こういう言い方をするのは、作家に対しても、映画に対しても、そして世界に対しても、何て傲慢な態度なのだろうか、ということを思い知らされるような映画だ。ここに見られるのは確かに鈴木清順の「スタイル」でしかないな訳だが、しかしにもかかわらず明らかに2001年に撮影された「新作」であるのだ。『夢二』を観た時、ああ、もう鈴木清順は終わってしまったのかなあ、と思えてしまったのだけど、そんな懸念を軽く吹き飛ばしてくれる。単純に面白いし、楽しい。浮き浮きする。テアトル新宿から新宿駅までの夜の道を、思わずスキップして行きたくなるような感じだ。
●この映画はとても単純に、ほとんど単調とスレスレくらいにシンプルに演出されている。たしかに、セットや美術は、いかにも「清順美学」っぽく凝ったつくりになっているけど、この映画には本当はそんなものは必要がない。幾何学的な骨組みだけのようなセットと、いくつかの色彩があればそれで充分なのだ。ちょっとやり過ぎだと思えるような「清順美学」的なものの方ばかりに目がいってしまうような人は、この映画の生命とも言える、アクションのシンプルな律動を取り逃がしてしまうだろう。鈴木清順の映画において、ショットとショットを繋ぐものは、空間の同一性ではなくて、アクションの連続性であり、テキストの連続性である。鈴木清順の映画では、空間というものにほとんど意味がない。スクリーンは文字どおり平べったく平面的なもので、奥行きもなければ、後ろ側もない。(だが、何故か「裏側」はあるのだ。どんでん返しや回転舞台によって「裏側」が表に露呈される。そして回転すものという主題は、樹木希林の廻す石うすに引き継がれる。)この映画がピストルを主題にしているのも、映画においてピストルは、距離や空間という概念を無化する小道具であるからだ。誰かがピストルを撃つショットがあり、それにつづいて誰かが倒れるショットがあれば、2つのショットはスムースに繋がる。決して画面には見えていない不可視の銃弾によって、空間の不連続性はいとも簡単に乗り越えられる。だから鈴木清順には決して時代劇は撮ることが出来ないだろう。刀による勝負とは「間合い」の勝負であり、次第にジリジリと近づいてゆく距離が、ある瞬間に不意に零になるまでの駆け引きなのだから。(つまりそこにあるのはメロドラマ的な空間の伸縮の劇なのだ。)この映画においては、アクションやテキストが、ピストルの弾と同じような役割を持っている。例えば、ほとんど単調という印象を与えかねないくらいに執拗に繰り返される、空間的には繋がらない切り返しが、いとも簡単に繋がってしまうのは、そこで全く異なった背景の前に立たされている2人の人物の「会話」が平然と成り立ってしまっているという事実からなのだ。「小寺醤油店」の前にすくっと立っている江角マキコと、鉄柱の立ち並ぶ境の前のソファーに横になっている山口小夜子は、全く異なる空間に属していながらも、会話が通じているからには「向かい合って」もいる、という訳だ。そして、言葉が行き交うことかできるのだから、時おり、相手の陣地へもう一方の人物が無限の距離を踏破して不意に割り込んだとしても不思議はないのだ。ここでの2人の距離は、無限に隔たっているか、もしくは不意に密着しているかのどちらかであって、緊張感を孕んだ距離が、伸びたり縮んだりすることはない。ここで鈴木清順は何も特別なことをやっている訳ではない。映画における「切り返し」とはそういうものなのだ。鈴木清順は、むしろ何の技巧もなしにそのことを露呈させているだけだ。だからここでは「不連続性」そのものが重要な訳ではない。それよりも、江角マキコのすっとした立ち姿と、山口小夜子のしんなりした横たわり姿の対比や、江角の後ろに見える紫がかったエンジの布の質感と、山口の後ろに見えるトゲトゲと尖った鉄柱の対比、江角のアクションや声と山口のそれの対比と融合、それらを交錯させるリズムなどが、そのリズム感そのものがアクションとしてたちあらわれる、そのアクションの律動を感受する事の方がずっと重要であるはずなのだ。(つまり、原初的といってもいい程シンプルなアクション映画なのだ。)
この映画におけるアクションは「平面的=表面的」なものとして構築されている。つまり画面の左から右へ、右から左へ、そして上から下へ、下から上へ、というアクションであって、画面の手前から奥へ、奥から手前へ、というものではない。なにしろ江角は何度も「左から右へ」と口にするし、画面はしばしば全く奥行きを欠いた、文字どおり「影絵」のようにさえなる。そのことを最も象徴的にあらわしているのが、何の意味もなく画面を左から右へと横切る電車の車両だろう。(この電車の何とも「のろい」間の抜けたスピード感は素晴らしい。)そういえば、唐突にあらわれる「犬」も、画面の左から右へと駆け抜けてゆく。(この「犬」の登場は、「野良猫」と呼ばれる江角マキコの顔が、実は猫よりも犬に似ていることから、正当化されるだろう。)この、アクションの平面性には、全く何の謎もないし、別に美学的な「様式性」を狙ったものでもなく、この映画が基本的に空間の連続性というものを軽蔑していることから必然的に導かれたことに過ぎない。この映画では「距離」は、具体的に目に見える横への「幅」としてしか表象されない。(平面的な「折り重ね」は多用されるが、それは「深さ」を構成しない。)しかしもちろん、この映画にいわゆる「縦の構図」が一切使用されていないという訳ではない。この映画では、画面の手前から奥へという奥行き(深さ)は、いつも「衰弱した者」のために与えられている。だからそこには衰弱したアクションしかない。すでに技術が衰え、プロとしての技量を持っていないにも関わらず、いつまでもランキングという幻想に囚われている殺し屋である平幹二郎の登場するシーンに、縦の構図が多く用いられているのがその証拠と言えるだろう。床にワインの入ったグラスをいくつも並べ、それを画面奥から撃ち抜こうとする平が、画面の一番手前のグラスを撃ちそこねてしまうシーンに、それは最も顕著にあらわれている。だから、江角と山口の撃ち合いのシーンで、江角が山口を、画面の奥から撃ち倒した時に、観客は既に江角が「死」に向かっているのだということが自然に理解されるだろう。
●この映画での江角マキコは素晴らしい。どのようなニュアンスにも、深さにも頼らずに、純粋に表面的な、美しさ、立ち振る舞い、アクション、のみで勝負している。(そういえば、江角のテレビでの辺り役、「ショムニ」でも、彼女は「内面的」な深みとは全く無縁の役によって輝いていたのだった。)もう、映画を撮りたいという気持ちなどほとんど無くなっていたように見えた鈴木清順は、江角マキコという存在によって「本気」になったのではないだろうか。

  フランソワ・トリュフォーと他者なき世界/『恋愛日記』
01/12/12(水)
●だから、まだ半分しか観ていないのだが、『恋愛日記』はとても面白い。この映画の主人公は、ある時、過去に自分が関わった女性についての本を書こうと思い立って、タイプライターを打ちはじめ、このタイプライターを打つ音によって過去が呼び出されるような構成になるのだけど、この時の、タイプを打つ男を捉えるフレーミングや照明、男のナレーションの調子、タイプを打つ姿と過去との交錯のさせ方、そして何よりタイプを打つ音の使い方、響かせ方などが、ゴダールの『映画史』とそっくりで、案外モトネタはここらへんにあるのかも、と思ったりした。
トリュフォーの映画も、鈴木清順とは違った意味でだけど「深さ」というものを構成しない。(「深い」画面をつくらない、「深い」空間を利用しない、という意味とは違う。画面が、常に表面的で、淀み無く流れてしまう、という感じ。)この「深さ」のなさは、フレーム外の存在が希薄であるということと関係があるように思えるのだが、それだけではなくて、事物の画面に映っていない側、つまり裏側の存在さえ希薄な感じがするのだ。トリフォーの映画では、世界には画面に写っていない部分も確かに存在しているのだ、という確信というか、暗黙の了解のようなものがあまり感じられないのだ。そして、このことがトリフォーの映画に独特の「狭さ」、「拡がりのなさ」を感じさせる原因になっているようにも思える。ぼくはここで、ドゥルーズの『ミッシェル・トゥルニエと他者なき世界』の記述を思い出す。
《私が見ている客体には私には見えない部分があるが、私はそれを他者の方からは見えるのだという風に前提にしている。だからその自分には見えない部分を見るためにその後ろに周るとき、私には自分に見えなかった部分を見るというよりも、すでにそこを見ていたと前提とされていた他者の視点に参加して、予め予知していた事物の全体性を確認するのだ。》《他者とは世界における余白の部分と視線の移行を保証してくれるのである。》
トリフォーの映画には、このような意味で、事物の裏側の存在や世界の余白を保証してくれるような、他者の存在が希薄なのだ。(これは「物語」のレベルではなくて、エクリチュールのあり方にその原因があるように思うのだが、しかし物語のレベルにまでその影響はしみ出してきている。)トリュフォーの映画からは、外へと開かれた感じが全くしない。例えば、『恋愛日記』では、セックスの後の上気した顔を冷まそうとして、女が走っている車の窓から顔を出して外の風にあたる、というショットがあるのだが、ここでは息詰るような車内の空間に、ふいに外からの風が吹き込むような解放感はなく、ただ息詰る空間が外までも拡張してゆくだけなのだ。(女が顔に受ける風は、あくまでも人工的な、予め「意味」を確定されているような風であって、世界に遍在しているような風ではないのだ。)トリュフォーの映画の登場人物は、ロメールの登場人物ならいつも体に受けているだろう風を受けることがない。そして、このような息詰るような閉塞感は、世界の裏側を確信できないような不安感が、薄っすらと常に持続しているような感じと密接な関係があるのではないだろうか。トリュフォーの映画に独自な、あの神経症的なリズム感や、単線的なエクリチュールも、このような事と深い関連があるように思える。
01/12/13(木)
(昨日のつづき)
●『恋愛日記』に限らず、トリュフォーの映画は(セカセカしたものも、ゆったりしたものも)、あまり引っ掛かりがなく滑らかにスルスルと進んでゆくという印象がある。その滑らかさはトリュフォーの映画にどこか「平板な」印象を与えるだろう。ものごとの表面だけを追い掛けてスルスルと滑ってゆくような映画、と。しかし、トリュフォーの映画を観るということは、先ず何よりもこの滑ってゆくような感覚を味わうということなのだ。蓮實重彦はそのトリュフォー論『フィルム的な磁力の誘惑』で、トリュフォーの映画を特徴づける3つの軸の運動を分析しているのだが、その一つである水平軸の運動(横移動)について次のように書いている。《その運動それじたいよりは、むしろ背景が流れて行くといった印象がここでは強調されることになる。空気のように、あるいは水のように背後の光景が移動し、人間はむしろ画面の中央にとどまり続ける。その結果、踏破される距離の意識よりは、宙に吊られたまま流れる時間を自由にかいくぐるといった、摩擦のない世界がそこに出現することになる。》しかしこれは、水平軸の運動に限ったことではなく、トリュフォーの映画そのものの印象のように思える。
●世界の「厚み」を保証してくれるのは「他者の存在」だ、と言う時の「他者」とは、柄谷行人の言うような「子供、あるいは外国人」という「他者」のことではなくて、「私は、他者の欲望を欲望する」とか言う時の「他者」のことであって、言ってみれば「象徴界」のようなもののことだ。そのような他者の存在が、他者が存在するということが、私にとって確信されていることによって、今、目の前に見えてはいない場所でも(あるいは見えているものの裏側でも)、見えているこの場所と地続きの現実が拡がっているのだ、ということが信じられるのだ。(私がそれを見ていない時でも他者がそれを見ているし、私がその場所にいない時でも、誰かがそこにいるから。)それによって、事物は「厚み」をもち、空間は「拡がり」をもつ。もし、そのような機能が失調してしまったとしたら、他者の存在に確信がもてなくなってしまったら、世界は、今、目の前に見えているものや聞こえているものが、常に流動的に流れつづけているような場所になり、それは厚みも拡がりもない、文字通り「スクリーンに映写された映像」のようなものになるだろう。
●全てのトリュフォーの映画を観ている訳ではないので断言は出来ないのだが、トリュフォーにおいては、そこで語られる物語がどのようなものであろうと、摩擦のない滑らかな、そして単線的な「流れ」が支配的であるように思う。だからそこに恋愛が描かれていようと、いさかいや、犯罪や、殺人といったものが描かれていようと、そこでは登場人物同士の葛藤や対立よりも、「流れ」が優先される。激しい感情や狂気に貫かれた人物が登場しても、その激しさによって流れが歪んだり淀んだりすることがない。『恋愛日記』において、主人公の男は何人もの女性の間を文字通り「渡り歩いて」いるだけで、次々とあらわれる女性をとの、遭遇、追跡、説得、そして性行為の成功、あるいは失敗が繰り返されるだけで、ある女性との遭遇によって男に何かしら決定的な変化が起こるということがない。まるで、宙に吊られた男を中心とした構図の、背景としての女性たちが《空気のように、あるいは水のように》摩擦なく流れてゆくという感じなのだ。男は、女性の脚に少なからぬ執着をもっているのだが、その執着の対象である脚は、画面上ではいつも、動いている=歩いている脚という姿で登場するのであって、つまりそれはいつも滑らかな運動とともにある脚であって、フェティシズム的に固定された、オブジェと化した脚ではないのだ。
そして、トリュフォーにおける滑らかな流れは、淀むことがないというだけでなく、切断されたり分裂したりすることがなく、まるで上手に剥かれた林檎の皮のように単線的に繋がって流れてゆくように思う。ずっと前に観たっきりのあやしい印象なのだけど、『トリュフォーの思春期』のような、複数のエピソードがバラバラに配されているよな映画でも、複数のエピソードが分裂したまま同時に進行してゆくというより、ひとつながりの流れとしてのリズムが優先されているように思う。つまり、厚みや拡がりを欠いているトリュフォーの世界では、複数性というものが成り立たないように思うのだ。
●たしか手塚治虫のマンガたったと思うのだが、主人公の少年が、実は世界は自分が今見ている部分だけが映画のセットのようにとりつくろって出来ているだけで、見ていない部分はドロドロの不定型で、親や友人たちも、自分が見ている前でだけそのように演技しているのであって、見ていない所では全然別の妙な生物なのではないかと疑う、という話があった。このアイディア自体は全く幼稚なものでしかなく、このような幼稚な妄想は恐らく誰でもが幼い頃にもっていたものだろうと思う。この妄想はあまりに自己中心的で天動説的なものであって、人は成長するにしたがって、世界はそんな「私」を中心にしたパースペクティブで出来上がっている訳ではなく、どこまでものっぺりと拡がっている空間の片隅に「私」はいるに過ぎないことが理解される訳なのだけと、このような「理解」が成立するためには、自分には見えていない場所を見ている、自分には見えていない場所でも自分と同じようにして生きている他者が確かに存在しているのだ、という確信が必要なのだ。そのためには、自分が普段接している他者(経験的な他者)だけではなく、象徴的な形式としての「他者」、という構造を受け入れることが必要となる。(象徴的な形式としての他者は、具体的に接している経験的な他者との関係によって獲得されるしかないのだけど、逆に、象徴的な形式としての他者という構造が成り立っていることによって、経験的な他者との関係が可能になる訳でもあるので、この2つは不可分であり、同時に発生するとしか言えないだろう。)
しかし、現象学なんかだと当然の前提にしてしまうかもしれない「象徴的な形式としての他者」という構造は、実はそんなに確固としものとしてある訳ではなくて、それは恐らく、日常的な他者との関係が、それほど大きな問題なく(問題があったとしても、それがいつも棚上げされ、先送りされていて、決定的には露呈していないという状態で)、なんとか成立しているという事実によって、常に確認されつづけてることでようやく保証されているような危ういものでしかないと思う。(だから、他者との関係のちょっとした失調によって、簡単に空間は歪み、事物の厚みは失われる。)
●トリュフォーの映画が描きだす世界は、上記の手塚マンガの世界に近いのでないだろうか。そこでは、他者という構造が完全に失調しているという訳ではないのだが、どこかに僅かな機能不全があって、どうしてもフレームの外にあるべき空間の存在を、今はフレーム内にはいない人物の存在を、確信することが出来ないような世界なのだ。フレーム外にはドロドロの不定型の世界が拡がっていて、カメラが向けられることでどうにかかりそめの秩序が約束される。『恋愛日記』の主人公にとって、今、目の前にいる女性、あるいは頭のなかで想起されている女性が全てであって、それ以外の女性は世界から消えてしまっている。そして、また別の女性が「唐突」に、世界という厚みを欠いた平面上にあらわれると、他の女性は世界の表面から消えてしまう。男は、主体的な選択などは無関係に、ただ彼女たちを追い掛ける以外なすすべはない。厚みと拡がりを欠いた世界において、存在を活気づけるものは、ただ運動し、明滅する事物や人物のつくりだすリズムだけだと言っていいだろう。言い方をかえれば、そのような世界に住む人物は、絶対的な外部としてあり、世界の外側から世界を規定している、明滅と運動の「リズム」に完全に従属せざるを得ないような存在であるのだ。点滅する光のように流れ、現れては消える事物や人物。フォート・ダのリズムに支配された永遠の宙吊りの世界。それがトリュフォーの映画の世界なのではないだろうか。

  フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』
01/12/17(月)
●フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』をビデオで。今まで、ぼくにとってトリュフォーというのはイマイチ苦手な監督で、それほど多くは観ていなかったのだが、『恋愛日記』と、この『野生の少年』を観て、俄然興味が湧いた。森に捨てられ野生化した少年が、博士の献身的な「教育」によって人間的になってゆくという物語は、観る前の人をどうしたってうんざりさせてしまうようなものだろう。そこでは、文明だとかロゴスだとかの専制が無自覚に前提とされているのではないのか、その逆に、文明に対する野生が安易に賛美されているのではないのだろうか、トリュフォーの出自から考えると、そこにはパザンとトリュフォーとの関係が透けて見えるようなものなのではないか。しかし実際に観はじめてみれば、そこには充実した細部の積み重ねがあるばかりで、まずはトリュフォーの映画作家としての力量を見せつけられることになるだろう。
●この映画は誰が観たって「教育」をめぐる映画であるということになるだろう。それはまず、身体を測定し、言語によって描写し記述することによって体系のなかに囲い込むことから始まるだろう。教育とはなによりも、「抑圧」であり「強制=矯正」であるだろう。この映画はそのことを巡って、具体的な場面を丹念に積み重ねてゆく。それはまず姿勢を矯正することから始まり、言語の習得をもってその成果がはかられる。しかしここでは、自然児が矯正されて文明化してゆく様が描かれている訳ではない。(それが賛美されている訳でも批判されている訳でもない。)森に捨てられた少年は、既に「森という環境」によって、森で生きてゆけるように「教育」されているのだ。(勿論、「森」による教育には、トリュフォーが演じる博士のような「象徴的な父」つまり「他者」という審級は存在しないのだろうが。)だからこの映画は、自然状態にある野生児が文明化する話ではなくて、ある体制のもとに組織化された身体が、別の体制へ、新たな組織化へと移行してゆく時の、その移行の過程=中間が描かれているという風にみるべきなのだと思う。(勿論、この「移行」は強制的に行われるのだら、この映画が強権的てあり植民地主義的であることは免れなのだが。)少年は、「森」と「ブルジョア的な家庭」との中間の、どこでもない場所、うつろい行く場所に存在しているのだ。ドゥルーズ的に言えば、領土化、脱領土化、再領土化、それぞれの力が少年の身体を、または少年と博士と家政婦という関係の場を、複雑に絡み合いながら貫いているのだ。この映画の数々の充実した細部は、そのように見られる時こそその豊さを充分に発揮するのだと思う。つまり、「文明化する」という目的が重要なのではなく、その過程にあって、どこにも属さない変化しつつある状態にあること、そのような身体を貫く様々な知覚の強度こそが重要なのだ。ろう学校や博士の家の庭で、1人雨にうたれながら身体を揺すっている少年の姿は、中間状態にいることからくる「軋み」の露呈であると同時に、その「歓び」の発露でもあるのだ。(同じ「水」をめぐる細部でも、「水好き」の少年への学習の成果に対する「御褒美」として、コップに入った水を与えられて窓辺で外を見ながら飲む、という時は、その「歓び」が「文明」によって囲い込まれている様を表現している。たんに演出という面からだけみても、この映画における「窓」の使い方は特筆されるべきだろう。それは文明によって囲い込まれた外部であると同時に、しばしば少年を外へと誘惑し、気を散らせて学習をさまたげ、実際に外への逃亡も可能にする危険なものでもあり、両義的なのだ。)少年が初めて涙を浮かべるシーンが感動的だとしたら、それは少年に人間的な感情が芽生えたことが感動的なのではなく、そこで身体の体制がググッと変化した、その動いてゆく感覚、そしてそこで新たな次元としての感情という平面が成立したことこそが感動的なのだ。(だがここで獲得された「人間的な感情」そのものは、強権の発動者である父=博士によって強いられたものでしかないのだが。)少年が黒板にチョークでグルグルと渦巻きを描き出すシーンには、線を引くことの身体的な歓び(チョークと黒板との摩擦による震動が指先から伝わって身体を貫く)に満ちあふれているように感じた。文字を書くということは、そのような身体的な歓びに動機づけられていなければ、おそらく可能ではないのだろう。線を引くことの原初的な身体の歓びが、一度脱領土化され、新たな次元を獲得することで再領土化されて書くことが可能になる。だから文字を書き列ねることは、たんに記述し描写することで対象を囲い込もうとするという欲望だけでなく、同時に線を引くことの身体的な歓びとも繋がっているのだ。ひたすら文字を書きつづけるトリュフォー演じる博士と、黒板にグルグルと線を描く少年とは、本当はそのような「歓び」という点でのみ繋がっているのだとも言える。

  セザンヌと「見る」こと
01/12/21(金)
●「現代思想」12月臨時増刊号「現象学」に掲載されているセザンヌ論『ただ「在る」こととただ「見る」こと』に決定的に欠けているのは「見る」ことだ。この文章では、セザンヌの作品を具体的に取り上げて、それがどのように「見えて」くるかを記述し、それについて分析するということをほとんどやっていない。ただ、哲学的な言説、セザンヌ自身の言葉、セザンヌを巡る言葉、が次々と引用されて論が展開されてゆく。このように論の展開されるとき、セザンヌの作品は実はほとんど必要とされていない。筆者はセザンヌの作品そのものから刺激を受けているのではなく、ただセザンヌを巡る様々な言説から刺激を受けているだけなのではないかと勘繰りたくなってしまうくらいだ。(それはそれでアリなのかもしれないが。)勿論、どのような「概念」とも無縁の、純粋な「見る」ことなどあり得ない。だからこそ、具体的に何かを「見ている」ときに何が起こっているのかが、できるだけ正確に記述されなければならないはずなのだ。この文章のような書き方がされる時、筆者の「目」が疑われることはないだろう。つまり、自らの「目」の不確かさや無根拠さを曝してしまうような一切の危険を回避した上で絵画を論じているのだ。ここで言われている《ただ「見る」こと》というのは、実際にセザンヌの作品を見ることとはまったく別の事柄になってしまっている。
●松浦寿輝は『物質と記憶』に収録されている『見ることの閉塞』という川端康成論で、川端の「眼力」を疑っている。川端という人は、初対面の相手でもまるで「物」を見るかのようにジロジロ無遠慮に見たと言うし、気に入った骨董品などがあると、周囲に客がいることなど忘れてそれを見ることに「没頭」しまうと言うのだ。普通に考えればたんに失礼で非常識でしかないこのような振る舞いが、ただこのように振る舞うことだけが、文豪の「眼力」という神話を形成していたのではないか、と。文豪と呼ばれもするエラい先生が、何も言わずに黙々と何かを眺めていると、ただそれだけでそこに何か「深い」ものが隠されているように思えてしまう、という効果をもつのだ。しかし、そこで「見られたこと」が言葉によって記述された時、実は彼がどの程度しか見ていなかったかということが、はっきりと露呈してしまうだろう。実際に川端の小説の「描写」を読んでみれば、川端という人が実は目の前にある「対象」など全く見てはいなくて、ただ「あわれ」とか「うつくしさ」とかいう、だただ空疎な概念を弄んでいただけだということがはっきり分るだろう。ぼくは川端の小説をあまり読んだことがないのだけど、傑作と言われている『眠れる美女』を読んだ時、裸で眠っている若い女を描写する言葉が、その身体の生々しい物質の感触に突き当たることなく、その向こう側に見える空疎な比喩の連鎖へとスルスル滑っていってしまうのを読んで、濃厚なエロ話だと思っていたぼくは、すっかりバカバカしくなってしまったという記憶がある。(当時、受験生として日々デッサンに苦しんでいたので、文学者というのは、こんなに何も見ないでも成立してしまうのか、と思ったりした。)まあ逆に考えれば、川端という人は、自分は徹底して「物」を見ることを拒否するのだ、という意志を書き込んでいるとも言える訳で、確かに『眠れる美女』にはその凄味というのはあるのかもしれないのだが。つまり、見るにしろ見ないにしろ、そのことが「言葉」として書き込まれて初めて、「見る」ことについて何かがハッキリするのだと思う。そうでなければ、文豪が没頭して見ているのだから、そこには何か凄いものがあるに違いない、みたいな「神話作用」だけがまかり通ることになってしまうのだ。
●『ただ「在る」こととただ「見る」こと』のなかで、一箇所だけセザンヌの作品についての具体的な記述がある。引用する。
《我々がまず見るのは、始めのうちはそれが何を「意味」しているか分らない色班の渦であり、色班のマトリックスの群れとでも言うべき「テクスチャー(きめ)」である。しかし、我々がその絵にある距離をを置きながらじっと眺めていると、やがて、そこに、寡黙に一生を庭の木々を相手に働き続け、その他はこの世におそらく何の痕跡も残さなかったであろう庭師ヴァリエが顕われてくる。何ら個としての自己主張の痕跡もなく、彼はただ只菅そこに確として座っている。その時、我々は、実は、我々がヴァリエによってすでに見られていたことによって、我々の「見ること」が成就したことを覚えるのである。》
これは庭師ヴァリエの肖像についての記述なのだが、ぼくがこの絵から見てとれるものは、まず半ば背景と一体化したような空間から浮かび上がってくる、鬚をはやし帽子を被った老人が座っている姿が、その老人の目線よりやや低い位置から捉えられている図像であり、それと同時に、その図像とは一見無関係にも見える、緑から茶色にかけてのグラデーションによって形づくられている、画面全体に散らばるようなリズムで書き込まれた筆致であって、決して《寡黙に一生を庭の木々を相手に働き続け、その他はこの世におそらく何の痕跡も残さなかったであろう庭師ヴァリエ》という「意味」ではない。この老人が、庭師ヴァリエであるということは、ただタイトルから推測することができるだけだ。確かに、この人物像からは、恐らく「目」が明確に描きこまれていないことの効果にもよるのだろうが、寡黙で静かで、やや動物的な実直さのようなものも感じられはするだろう。しかし、そのゴツゴツした身体からは、年老いることによって存在が固着してしまったような頑なさや、頑固さのようなもの、長い年月を雨風に曝されてきたであろう身体の、強い自己主張のようなものこそが見えてくるのであって、たとえ饒舌には見えないにしても《何ら個としての自己主張の痕跡もなく、彼はただ只菅そこに確として座っている》などということはなく、決して抵抗なく「自然」のなかに溶解してしまうことのない、「個」としか言い様のない何か「抵抗」のようなものが、どうしようもなく露呈しているように見えるのではないだろうか。それに、この絵を見て、まず最初に見えてくるものは、おそらく画面のやや左寄りの中心を貫く、白いシャツに包まれた頑として存在する身体であり、その次くらいに目のない動物的な顔であって、《それが何を「意味」しているか分らない色班の渦であり、色班のマトリックスの群れとでも言うべき「テクスチャー(きめ)」》ではない。むしろ、画面全体に散らばり、ウネウネと振動するような筆致やテクスチャーは、その後から(その時間差は、ほんの僅かなものなのだが)、その頑な存在感をジワジワと侵すように、次第に顕在化してくるのではないか。このことは、晩年のセザンヌにしてはむしろ例外的なことで、この作品に限ってのことなのだけど。(他の作品はもっと解体してしまっている。)しかしそれにしても、何故この絵を「見る」ことだけから《寡黙に一生を庭の木々を相手に働き続け、その他はこの世におそらく何の痕跡も残さなかったであろう庭師ヴァリエ》ということまで読み取れてしまうのだろうか。この絵のモデルであった人物が実際にそのような人物であったということなら、事実として確認できることかもしれないのだし、文学的な「想像力」としてそのような人物を想像することは可能かもしれないのだが、しかしこの筆者は、何度も、ただ「見る」ことを強調し、「文学的な」意味を排除しようとしているのだ。にもかかわらず、ここでは、特定のある「作品」を「見ること」が記述されているのではなく、ただ、それについて「知っていること」が次から次へと披露されているに過ぎない。

  セザンヌと村上隆とを同時に観ること/偽日記バージョン
01/12/22(土)
●セザンヌと村上隆の「DOB」シリーズとの共通点についてちょっと書いておく。まず、セザンヌの絵画(特に静物)の特徴を挙げておくと、それは一枚の絵画が一つのイメージを提示しているのではない、ということだ。例えば写真は、一枚で一つのイメージしか提示できない。だから人はそれを、基本的には「一目」で見ることができる。細部まで異様なほどにピントの合っている写真は、確かに見るのに時間がかかるだろう。それは我々の距離感覚を狂わせ、全ての物が等距離にあって、しかも目の前に貼り付いてしまいそうな歪んだ空間を形成するだろう。しかしそれは「全ての物が等距離に置かれている」という一つの歪み方をしているたげだ。だから、その歪み方さえ理解してしまえば、それを見るのにどんなに時間がかかったとしても、我々とイメージとの関係は常に安定しており、だから安心してじっくりと細部を眺めることができる。しかしセザンヌの絵画におけるイメージは、一目ではそれを把握することができない。そこでは、一つのパースペクティブが決定されていて、それに沿って事物が配置されている訳ではなく、複数のパースペクティブが互いに排除しあいながらも共存しているのだ。これはキュービズム的な単純な多視点というものとは違う。ただ視点が複数あるというだけではなく、異なる視点同士の接続のさせ方、ある視点が別の視点へと移動してゆく時の歪み方が、一様ではないのだ。だからこそ我々は、静止した画面を、自らも静止したままその正面から眺めているだけなのにも関わらず、ちょっとした視線の動きや、注目している範囲の移動だけで、事物や色彩が置かれている秩序そのものが、つまり基底的な空間そのものが、ググッと動いてゆくのを感じることができるのだ。この、基底的なものが動いてしまう、という感覚が理解できない人には、セザンヌやマティスに代表されるような近代絵画の様式というものが、たんに視覚的な様式の変化、つまり交換可能な新たな意匠への移り変わりの一つのようなものにしか見えないだろう。
●村上隆の「DOB」シリーズの最も完成度の高い作品、例えば2001年に制作された『Melting DOB D』や『Melting DOB E』といった作品を観た時に、セザンヌやマティス、あるいはゴーキーやポロックといった画家の作品と共通する「感覚」を感じないとしたら、その人は絵画を「形式的」に観る能力に欠けているのだと思う。村上氏がそのことをどこまで意識しているのかは知らないが、これらの作品は「近代絵画」的に相当高度な作品だと思う。『Melting DOB D』を観てみる。この作品は大きく3つのブロックに分かれ、それぞれがDOBくんと呼ばれているキャラクターの顔の歪んだ像になっている。しかし、ただ3つの大きなキャラクターの顔が画面のなかで独自のバランスで歪みを加えられて配置してあるだけなら、幼児的なキャラクターがアンバランスに歪んでいることから精神的な危うさを表象しているというような、今どきのありがちなデザインにすぎないだろう。ここでは、一つのブロック=一つの大きな顔というカタマリのなかに、その大きな顔のものとは別に、目、鼻の穴、口、睫毛、といった、顔を構成するパーツが無数に、様々な大きさ、様々な方向、様々な歪み方で、バラバラに散らばって配置されている。絵を観ている我々には、まず3つの大きなブロック=3つの大きな顔が目の入ってくるのだが、しかしすぐに、そのなかには隠された(実はちっとも隠されてなどいないのだが)無数の小さな顔があることが発見される。まあ、ここまでだったら、ダマシ絵だとか隠し絵だとかが、高度に複雑化されたものだということにしかならない。だが、ダマシ絵においては、表面に顕在化されているイメージと、その裏側に隠されているイメージという2つの層があって、その2つの層が安定した構造(つまり、表/裏という構造)に納まっている訳だが、この作品においてはそのように明確に表と裏の区別がなくて、全て同一平面に並んで曝されている。つまり表と裏は非常にルーズに切れ目なく繋がっていて、パッと目に入ってくる大きな顔=表を見ているうちに、いつの間にかその中にある様々な散乱した無数の小さな顔=裏の方へと注目が滑っていってしまい(だからそれを表/裏と言うことは本当は適当ではないのだが)、スルスルと視線が移動してゆく度に、そこに新たな顔(無数の小さな顔)が新たな空間とともに出現することになるのだ。(そしてまた、いつの間にか大きな顔の方へ戻ってくる。)ここでは、複数の異なる次元がルーズに繋がってはいるのだが、しかしそれでも次元の違いというのは明確に構築されていて、だから一つの大きな顔のなかにたくさんの目が描き込まれていても、「たくさんの目をもつ顔」という風には見えなくて、ある一つの顔を見ている時には、他の顔を構成している「目」や「口」は、見えてはいるのだけど「意味」は構成されないようになっている。(つまり、ある一つの「顔」を認識している時は、別の顔は「顔」としては見えなくなっている。)ここでは、どこまでもノッペリと表面的でありながら、同時に複数の異なる次元が成立しており、しかも異なる次元同士がルーズに繋がっているのだから、我々の視線は絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動きつづけざるを得ない、ということにが起こっているのだ。もし、近代絵画的な、「同一平面上の複数の次元」ということを理解しない人がこのような絵を描いたら、たんに目がたくさんある顔に見えるか、そうでなければ、目は「目」に見えず、顔にたくさんの発疹ができているようにしか見えないだろう。だからこの作品は、非常に高度な近代絵画的な目によって制御されて描かれていると言えるのだ。(ほとんど同じような絵柄でも、例えばあまり上手くいっていない『たんたん坊』のような作品は、基底的な空間が固定してしまっているから、そのなかでどんなに複雑なことがなされようと、それはたんに丁寧に描き込まれたマンガのような絵にしかならないのだ。)
この作品がとりわけ上手くいっているのは、これが「顔」を素材にしたものだからだろうと思う。人間の認識は、「顔」に対してとても敏感に反応するようにできている。抽象的な形態や色彩やテクスチャーだけで、同等の効果をつくるのはとても困難だろう。例えば、心霊写真などというものがあって、人は、ただの影や汚れにすぎないものに、「顔」という「意味」を発見したりしてしまうのだ。そのくらい、「顔」に関する認識は「食い付き」がいいのだろう。まあ、心霊写真の場合は、汚れだか何だか分らないノイズのようなものに、「顔」という意味を付与して、意味を固着させ、固定化してしまう訳だけど、この作品の場合はむしろ逆で、顔という食い付きのいい要素を利用して視線を引っ掛からせて、意味が生成したり解けたりする「動き」をつくろうとしている訳なのだ。
01/12/23(日)
(昨日からの、つづき。)
●『Melting DOB D』を構成する「顔」たちは皆大きく歪んでいるのだが、それはたんに四角いフレームのなかでの視覚的なバランスをとるための歪みではないし、オタク的な「萌え」を誘発させるための「萌え要素」としての歪みでもないだろう。それは、それ自体はのっぺりした、全てを表面に曝した「平面」でありながら、我々がそれを「見る」とき、一目で全体を見渡すことの出来ない、複数の異なる次元が視線の移動によって明滅してゆくような、時間を含んだ「平面」をつくるために必要とされる歪みであって、それはセザンヌの絵画における歪みと同等なものなのだ。(付け加えて言えば、絵画が含みもつ「時間」には大ざっぱに2種類あって、一つは、観る人の視線が画面のなかを動いてゆくことや、描く人の筆がある地点から別の地点へと動いてゆくことによって生まれる、水平方向への拡がりが可能にする時間で、もう一つは、基底材がありその上に下地が塗られ、その上に何層もの絵具が置かれる、という垂直方向へ積み重なる地層のような時間である。村上氏がこの2種類の時間に対して意識的であるということは、DOBシリーズの展開を見れば理解できるだろう。)
例えばセザンヌの『キューピットの石膏像のある静物』を観てみる。この作品の空間は、大きく捻れながら画面の奥がせり上がってくるように歪んでいて、その空間の歪みにあわせ、個々の事物の形態にも複雑な歪みが見られる。普通、このような空間の歪みは、遠近方的な空間の表象よりも、平面上での視覚的なコンポジションを優先させるためだと説明されるのだが、おそらくそれは間違っている。(セザンヌは、視覚的な配置としての「構図」などにはほとんど興味はないはずなのだ。それはセザンヌのエスキースがほとんどフレームを問題にしていないことからも分ると思う。)この絵の空間が歪んでいるように見えるとしたら、それは画面全体を一挙に、一つのパースペクティブによって見てしまおうとするからなのだ。しかし実はこの絵は、全体を一挙に観ることは出来ないように描かれている。(無理矢理、全体を一挙に見ようとするならば、「絵具のこびりついたカンバス」という物質として見るしかない。勿論、この絵にはそういう次元もある訳だ。)我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の「動き」として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく「見る」という行為の持続によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。画面上に描かれた事物を図像として追っている時でも、その視線は決して素早くスムースの動くことはできない。例えば、画面の中央を垂直に貫いている白いキューピットの像を感じながらも、視線は決して上から下、下から上へと一気に移動することはなく、キユーピーの顔とその背景の壁との関係、キユーピーの腹の丸さと、背後にある林檎の丸さのと関係、キユーピーの像を支える台座の形とその脇にあるタマネギの形との類似性、などに視線は引っ掛かり、さらにそこから別の場所へと視線は逸脱してゆく、という風に画面のなかを目が彷徨いつづけることになる。だからあえて言えば、この絵は、複雑なカメラの動きを伴って移動撮影された長回しのショットが、一枚の静止した平面上に圧縮されたようなものとしてあるのだ。もし、このような絵の「画面全体」というものがあるとすれば、時間をかけて画面のなかを彷徨った視線によって、その都度構成された様々な感覚の折り重なりとして、その厚みとして、頭のなかに(四次元的に?)「構想」されるだけだと言えるだろう。あらゆる要素が隠されることなく表面に曝されている平面でありながら、複雑に折り重なる複数の異なる次元がひしめき合っていることから、決して視覚によってその全体を一気に把握することができない平面。だから「スーパーフラット」というコンセプトは新しくもなければ古くもない。それは「近代絵画」の根本的な要素の一つであるのだ。
01/12/24(月)
●おとといからの日記で、セザンヌと村上隆の特定の作品とに共通する「ある感覚」について、書いてきたのだけど、勿論ぼくは、セザンヌと村上隆が、全く異なっている作家だということは知っているつもりだ。なにもぼくは、セザンヌという歴史的なビックネームとの類似を示すことで、村上隆を正当化しようというのではないし、逆に、村上隆という「人気者」を利用してセザンヌについて啓蒙しようというのでもないつもりだ。(ぼくは村上氏の仕事に対して、基本的には批判的な訳だし。)セザンヌと村上隆という、個体の著しい再にも関わらず、そこに共通してあらわれる「絵画」というメディアのイデアの普遍性みたいなものを示そうというのでもない。ただ、目の前に提示されてる作品やイメージというものを、丁寧に見て、それを記述し分析することが、現代の「美術」を巡る言説のなかにあまりに欠けているから、それが必要なのだと言いたいだけなのだ。それがなければ、批評はただの知的な饒舌にすぎなくなってしまうし、作品の評価は、「好み」や「気分」や「感情」、あるいは「トレンド」といったものに流されてしまうことになるからだ。ぼくは決して、「好み」や「気分」や「感情」による評価を否定するつもりはないのだが、しかし、それだけでは絶対に足りないのだ。(例えば、その場を支配している「気分」に無批判に従ってしまうことの危険さや、しかしそのような「気分」に抵抗することの困難さというものは、特に9・11以降は、誰でもが強く感じているのではないだろうか。)
作品を丁寧に「見る」ということは、そこに込められた細かなニュアンスや、言語化できないような感触までを繊細に感じ取る、ということであるのと同時に、一度、それらのニュアンスや作品の意味=価値をとりあえず一旦括弧に入れた上で、それを形式的に「見る」ということでもあるはずなのだ。(人間は気分や感情から決して逃れられないからこそ、それらを相対化する「技法」が必要なのだ。)それによって、一見かけ離れているように思われている者同士(例えばセザンヌと村上隆)の以外な接点がみえたり、あるいは、親しいものだとされている者同士の質的な差異(例えば、村上隆と奈良美智とのあいだに歴然とある「質」の差異)が見えたりするはずだし、何よりも、その場を支配してしまっている「気分」や、ウワサ話や人間関係による「感情」に、知的な無駄話を付け加えただけのような「批評」を相対化し異義を申し立て、それらによって固定化されてしまっているものの見方に亀裂を入れることが可能なはずだと思うのだ。記述や分析という手続きは、自分のものの見方を「正当化」するための手続きではなくて、固定化されてしまっているもののなかで、多少でも自由に動くことのできる空間をつくりだすための手続きなのだと思う。

  「文學界」1月号の松浦寿輝『半島』
01/12/25(火)
●「文學界」1月号の松浦寿輝『半島』。松浦氏の小説はいつも、読んでいる間は何か物足りないと言うか、うーん、どうなんだろう、という疑問がなくなることがなくて、圧倒的に引き込まれるとか、驚きとともに読みつづけるとかいうことはなくて、例えば描写の濃度なんかにしても、さらさらと心地よく流れてゆくという訳でもなくて軽く粘つくような感触はあるのだけど、ゴツゴツしていて気合いを入れないと読み進めないとか、あまりに濃くて息苦しいとかいう程ではなく、魅力的なのだけど食い足りないという、何かもどかしい感じのまま読みすすめることになるのだし、いつもいつも同じような、世間から半分降りてしまったような人物が、茫洋と流れる時間のなかで、適度に知的でありながらも別段刺激的という程のこともないようなヌルい会話を交わしながら、酒を酌み交わし、ついつい飲み過ぎてしまううちに迷宮的なところに入り込んでしまい、そこで何か「深遠」のようなものを垣間見てしまう、というような話ばかりをくり返し描きつづけているのもいい加減どうなのかとも思うのだけど、それでもそこに流れている繊細なヌルさの魅力というものに導かれながら最後まで辿り着き、読み終わってみれば、ああやはり松浦はいいよなあ、と、釈然としないながらも曖昧に納得させられてしまうのだった。つまりこのような、ヌルくてだらしなくて(しかし、だらしないとはいっても、それは知的に制御された適度なだらしなさであって、例えば小島信夫のような本質的なだらしなさとはかなり違うのだ)、どこまでもズルズルと流れてゆくようなもどかしさの持続こそが、松浦氏にとって小説的なエクリチュールということなのだろう。松浦氏の詩の愛読者としては、松浦氏が小説を書くとすると、例えば『逢引』のような、世界の表情が濃密に描写されていながらもそれが粒子状に粒だって拡散する、濃密でありながらも大気的な軽さをもったエクリチュールが寄せては返すように延々とつづくことを期待してしまったりするのだが、それをやる気はさらさらないのだろう。松浦氏の小説は、世界が震えながら清々しく立ち上がってくるような新鮮さではなくて、もう若くはない人物の肌のたるみや肉のだぶつき、世界に対する諦めや倦怠、自分の人生において自分を根本的に変えてしまうような真に驚くべき出来事などもう起こりはしないだろうという諦めからくるある種のずうずうしさ、にもかかわらず自分を支えているものはひどく不安定で頼りないものでしかないという感覚からくる寄る辺なさ、などと不可分な言葉たちから出来ているのだ。とは言ってもそれは、例えば古井由吉のような、どこまでも衰弱をつづけ、衰弱すればするほど 逆説的に「死」に抗する生命の意固地さというか、瘤のようなものがギラッと立ち上がってしまうような「凄味」とは無縁なのだ。つまり松浦氏の小説はどうしようもなく「オヤジ臭い」のだ。
松浦氏の小説の「オヤジ臭」さが最も顕著にあらわれるのが、いわゆる「官能的」なシーンであると思う。何と言っても松浦氏の描く「女」というのが、いくら何でもこれはどうなのよ、と思うくらいに「オヤジ好み」の形象ばかりなのだ。まるで竹久夢二の絵にでも出てくるような薄っぺらさなのだ。リアルじゃない、という言い方は、リアルな「女」というものがどういうものなのかはぼくだって良くは知らない訳だから、適当ではないのだが、たんに小説のなかの人物の「形象」として、小説に官能的な震えを導入するための「装置」としてみたとしても、それがあまりに単調で貧しいことは疑いがないように思える。とにかく松浦氏の小説に「女」が登場すると、とたんに小説が厚みを失い薄っぺらになるという印象を拭うことが出来ないのだ。しかしおそらくこれは半ば意識的なことであって、松浦氏の小説の「女」は、「月」と対応しているような存在で、それ自体で光を発することなく、ただ太陽の光を反射して、その光を寒々としたものに変換してあくまで薄っぺらく青いアヤシイ光を放っている月のように、女はいつも「幻」や「あやかし」であり、「イメージ」そのものとしてあるのであって、それは具体的な「他者」としての厚みをもたないものとして描かれているのだ。だから、松浦氏の小説のエロい性交シーンというのは、他者との関わりの痛い「官能」ではなく、イメージとの、シュミラークルとの関わりにおける空虚さ、虚しさとともにあることの「官能」であると言える。(『半島』には性交シーンはないけど。)つまり、基本的に、松浦氏の小説には、男同士の交わりしか描かれていないとも言えるのだ。男同士が互いに酒を酌み交わしながらつらつらと語り合うときにだけ、濃密で「擦れ合う」ような接触が可能になり、そこにこそそこはかとない官能の気配が漂う、という、考えてみればおそろしくホモソーシャルな小説であるとも言えてしまう。松浦氏の小説は、吉田健一的な文体に、J・G・バラード的なイメージが継ぎ木されたような感じがあると思うのだけど、「女」の描き方に関しては川端康成的だと言ってしまってもよいのではないだろうか。(ただ、『花腐し』で、想い出として何度も反復して想起される、死んでしまった昔の恋人のイメージだけは、川端的な単調さから逃れた、主体によって制御出来ない「他なるもの」としてのイメージの生々しさをもっていたように思う。)

  共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」、をめぐって
01/12/29(土)
●ようやく『批評空間』を購入する。共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」に目を通す。この本が刺激的で、読むことによってある「解放感」が感じられ、多少なりとも自由に動けるためのヒントのようなものが得られるのは、なによりも岡崎氏の記述の運動神経のようなものによるところが大きいのだし、そしてそれは、浅田氏が何度も強調しているように「形式主義」で押せるところまで押す、という手法が可能にしたものなのだと思う。確かに田中純氏の提出する「憑きものとしてのイメージ」という問題や、大澤真幸氏の言う「顔」という問題は、イメージというものに関わる時に、避けて通ることの出来ない問題てはある。しかしこの本の面白さの核心は、それを充分に意識していながら、と言うか意識しているからこそ、イメージが呪物となってしまいそうな瞬間を機敏に察知してそれを常に解体してゆきながらも、ずんずんと分析を先へ進めてゆく記述のあり方にあると思うのだ。別に実作者という立場を特権化する気など全くないのだが、下手な「罠」に引っ掛かってそれに囚われてしまうのを避け、逆にその罠の効果を利用し「どのように使えるか」という問いに変換してゆくのは、実作者として当然の健康な感覚だと思う。岡崎氏は言う。《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》
だから、大澤氏が「顔」という問題を提示して、顔は何も表象しないが「表情」があり、表情こそが「他者」の存在を表していて、それは決して「私」を中心とした、「私に対してあらわれる世界」という秩序には納まらない訳で、だから他者というのは容赦のない差異としてあり、、常に遠隔化してゆく、逃げてゆく、というような「否定」を介してしか捉えられない、と言うように、まさに「他者」を「否定」によって神格化、神秘化、(つまりそれは「否定」という形式に固定してしまうということなのだと思う)してしまうのに対して、岡崎氏が、《逆遠近法は神をいかに描くかという問題を、むしろ神という語を、視点の交換可能性あるいは変換可能性と置き換え、それをいかに描くかという問題構制へずらしたものとして捉えた方がいいと思います。大澤さんのおっしゃったように、顔とはまさに、こうした関係性のことですね。顔、表情というものはつねに、こうした視点の交叉にこそ関わっている。だから顔を見ているのではなく、顔によって見られているということを見ている。もしくはそれ---顔が何かに思いを寄せているというところを見ている。》という風に、俗っぽく、と言うか、射影幾何学的に、フラットに(「斜めに」と言うべきか)押し広げて流動化させてしまうという「動き」そのものが刺激的なのだと思う。大澤氏は、岡崎氏が「やや曖昧にしている点」を「最後まで展開」させると言っているのだが、岡崎氏の本は、決してそのような意味では「最後まで展開」されていないような幾つもの部分が、複雑なヒネリをくわえられながら接続されていることで、それらの部分をまさに「ポリフォニック」に鳴り響かせることによって、そこに「動き=経験」を実現させようとしているのではないのだろうか。
(余談だけど、ぼくが、顔を顔として捉えながらも決して「顔」をフェティシュ化しない、「顔」という意味に固定化しない、というような見方を教わったのは、80年代始め頃のゴダールの映画においてだった。そこでは顔は「顔」であると同時に、ほとんど風景のようなもの、なだらかで美しい曲線であり光を繊細に反射する表面であるようなものとして捉えられていた。多分ぼくはそれまで呪物としてのイメージというものにかなり強く囚われた人間であったのだと思うけど、その時に初めて人の顔というものを発見したという気さえしたのだった。『パッション』や『カルメンという名の女』のミリアム・ルーセルの顔が、人間のものとは思えない程に美しいのは、その顔が半ば以上「顔」であることをやめてしまっている顔だからだと思う。そしてそのことが、ぼくの近代絵画に対する理解に強い影響を与えている。例えば、晩年のセザンヌや、あるいはマティスは、人物を描いてもほとんど「顔」を描かない。そこでは人間の目が敏感に反応してしまい、それによってそこに意味を過剰に見い出して、そこに情念などを固着させてしまうような「顔」は解体されているのだ。勿論、顔を描かなければよいという訳ではなくて、通俗的な抽象絵画は、顔を描かないことで、むしろ平気で画面全体を「顔=表情」と化してしまうのだが。逆に、12/22の日記で言及した村上隆氏の『Melting DOB D』のような作品は、顔を過剰に描き込むことで「顔」を解体している。と言うか、「顔」の生成と解体が交錯する「動き」をつくりだしている、と言うべきか。このような、「顔」を描かないという近代絵画的な感覚は岡崎氏にも貫かれていて、岡崎氏の作品がイマイチ「絵画好き」に評価されないのは、その作品が「顔」と化してしまうことに対して徹底して禁欲的であるからだと思う。だから、『ルネサンス 経験の条件』での分析においても、岡崎氏は、顔が示す「視線」に対しては丁寧にこだわって分析しているのだが、「顔」か示す「表情」については、それに必要以上に入り込むことを自らに厳しく禁じているように思える。)
01/12/30(日)
●決して形式的なものには還元できない、「憑きものとしてのイメージ」がまとうフェティシズム的な魅惑が歴然とあり、それをどのように「悪魔祓い」するのか、という問題の立て方をする田中純氏や、まず「私」というものを立て、その私の前にたちあらわれる「顔」というイメージがあり、顔の現前によって、私にとって「容赦のない差異」としてある他者があらわれる、という論を組み立てる大澤真幸氏に対して、岡崎氏は、「イメージの魅惑」や「顔」という固定的な形象をたてることなく、ひたすら「横」へとズレてゆく「動き」を強調している。《ずらずらと横に増殖しているのではなく、それらは共通した場の上にもないし、すべてを一望に眺める点もない。横と横の間には断絶があり変換というジャンプがあることが重要なんですね。》(ここでの岡崎氏の発言を最も分り易く効率的に図示しているのが、やはり12/22の日記で触れている村上隆氏の『Melting DOB D』という作品だろう。なお、この作品はMOTで行われた村上氏の展覧会の図録で観ることができる。この図録は大型書店の美術コーナーでも、しばしば見かける。)そして岡崎氏があげるのは、「ブルーノート」というあくまで技術的な例だ。《ブルー・ノートをノーテーションで確定しようとすると、まったくブルー・ノートではなくなってしまう。要するに純粋に音がズレているという知覚を与えることが大切なんで、音のパターンとしてそれを確定しようとしても固定しきれないのですね。(...)すなわちそうやって与えられた不均衡を修正するために他の音が次々産み出される。しかし最初のブルー・ノートが何のコードから逸脱しているのかは明らかでない。》ここで岡崎氏のあげるのは「ブルー・ノート」であり、「ブルース・フィーリング」と言うような、しばしばフェティッシュな欲望の対象として「固定化」されてしまうような「感覚」のことではない。ここでの岡崎氏は、つまりまず「ズレ」を知覚することが最初にあって、その「ズレ」の感覚の効果として「ブルー・ノート」のような「実体」があたかもあるかのように出現するというようなことで、それはつまり、まず「差異」を最初にたてて、その効果として「主体=私」と「客体=他者」という双方が同時に産出される、というドゥルーズ的と言っていいような理屈であって、例えば、「顔」というイメージにとり憑かれたように魅惑されることによって、そこに決して和解することない「容赦なき差異」としての他者があらわれるのではなくて、ある解消し難い差異のある場所に「顔」という形象をはり付けてしまうに過ぎない、という訳だ。顔があるところに差異を見い出すのではなくて、差異のあるところに無理矢理にでも顔をはり付ける。例えば幽霊というのはノイズの人格化だし、心霊写真では、よく訳の分らないノイズの部分から顔という形象を読み取ってしまうのだ。だから実は、解消し難い差異にすぐに顔=他者という形象をはり付けてしまうというのは、何とも俗っぽいと言うか、幼稚な行いであるはずなのだ。(幼稚なアニミズム)本来なら《その音が何から逸れているのかわからないほどスリルがあってファンキーだという話》になるはずなのだ。だから優れた絵画作品の魅惑というのは、「ズレ」がフェティシズム的なイメージとして(まるで「顔」をはり付けたように)確定され、そのイメージの呪力の強さによるのではなくて、《何から逸れているのかわからない》ような《スリル》ある「ズレ」が、それを見ている間じゅう次々と産出されつづけるような、つまり呪力が生まれてはバラされ、また生まれてはバラされするような「装置」としてのものであるはずだ。(付け加えれば、ぼく自身は必ずしもイメージのフェティシズム的な側面に溺れることを否定しない。何よりも、ぼくは幼稚なフェティシズムに滅法弱い人間である訳だし。ただ、それはとても「恥ずかしい」ことだという自覚はあるし、それだけでは足りない、という思いが強いのだ。)
01/12/31(月)
●岡崎氏は『ルネサンス 経験の条件』のあとがきで、「他人がみている青と自分がみている青」が同じかどうか分らないというだけでなく、「自分がみている青と自分がみている青」さえ同じかどうか分らない、という条件のもとでの「経験」について述べているのだが、そのことをもっと明確に言うと、《そもそも主体自体がブルー・ノート的だと僕は思っている。昨日の自分と今日の自分の同一性自体が根本的に揺るがされているということが同時に埋め込まれている。あるいは昨日の自分と今日の自分を一望に見渡す視点はありえず、その間にたえず不透明、不均衡な贈与が刻一刻と行われている、そういうことで説明は済む気もするんですね。問題はその理念的説明ではなく、それを可能にする具体的な贈与の方法であり、技術的創意の解明にある。》と言うことになるだろう。昨日の自分と今日の自分は違うということなど誰でも口にするのだが、重要なのは、その「違い」を指摘できるような視点、昨日の自分からも今日の自分からも等距離にあるはずの第3の視点などあり得ず、「違う」という意識を持ったとしても、それは昨日の自分とも今日の自分とも違う「今」の自分へ変質している訳で、それらの間には不透明な断絶がある、という訳なのだ。(「違う」と言っている「現在」によって想起され組み立てられた「昨日」と「今日」の差異であり、実際に昨日そうであった自分と今日そうであった自分との差異なのかどうかは分らない。つまり昨日自分がみた青と今日自分がみた青が同じであるかどうか分らない。)ヒューム的な懐疑と言ってしまえばそれまでかもしれないが、おそらくこの感覚は岡崎氏の理論や作品の根本的なところにある感覚であり、だから、大澤氏が「他なる視点が次々と増殖してゆく原因」「つまり展開の作用を支えるベースの体験」と言ったり、田中氏が「横への視点のダイナミックな動きをもたらしているものは何か」と言ったりするような問題に、岡崎氏ほとんど関心がないようにみえる。なぜと言って「差異」とはあらかじめ与えられているものなのだし、主体が分裂をつづけるのは当然のとで、「世界」とはそのような場所であり、そんなことは明白な事実なのだから、それを「なぜ」などと問う必要はなく、そんなものは「ハウ」があるからだ、とでも言っておけばいい訳で、問題なのは、そのような「世界」のなかで、何をどうすることが可能なのか、どのようにすれば「より良く」ズレて、動いてゆくことができるのか、という具体的な方法や技術を探り解明することの方なのだ、と。
(余談だが、あらかじめ「ハウ」が与えられているのだ、という言い方は、以前、「何故小説を書くのか」という問いに金井美恵子が「小説を読んだからだ」と答えたと言う話を思いださせる。当時これは、いかにも小説論的な小説、小説の小説を書く作家らしい答えだとうけとられていたと思うのだが、それは間違いではないか。これは、「私」が目覚めた時には既に、過剰なものとしての「小説」に取り囲まれていて、あらかじめ与えられている圧倒的な不均衡としてそれはあった訳で、だからそれに触発され、あるいはそれへの負債に強制されるような形で、「書く」ということが始まったのだ、始めざるを得なかったのだ、という事なのではないだろうか。)
《理念的説明》ではなく《具体的な贈与の方法であり、技術的創意の解明》が重要だと言うのは、何も岡崎氏が実作者であって理論家ではないから、ということではなくて、岡崎氏にとって「技術」こそが、「現在」(「生きられた身体」に現前する「いま・ここ」としての「現在」ではなく、「良き想起」を可能にし、未来と過去とをともに組み換えることが可能であるような、確定されない場所としての「現在」)に関わっているからだと思う。
《ですから現在はどこにあるのかというのが、この本のひとつの問題点ですが、曖昧というか、未来と過去が変換される対称点として、いわば、そういうカードをシャッフルしうる状態として、現在とは、とりあえずその変換を可能にする点としてそのつど担保される固定されないもの---そういう言い方で逃げている部分があったかもしれない。しかし、今それを言えば、それは個々のカードの集め方、そしてその時間的な繰り出し方、その順序、時間軸の生成にこそ関わっているものだと思います。》「技術的な問題」というのは、カードを、どのように集め、どのようにシャッフルし、集めることの出来た手持ちのカードをどのような順番で繰り出してゆくのか、という問題であって、つまり「技術」によってこそ「現在」の生成(つまりそれは過去や未来を「組み直す」ということなのだ)に関与することができるというのだ。


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