実感と幽霊(青山真治/大友英良の対談より)
とても蒸し暑い夏の日の午後
『群像』2000年11月号/富岡多恵子と松浦寿輝
青山真治監督の『路地へ〜中上健次の残したフィルム』
トムの真夏の死
スティーブン・スピルバーグの『A.I』
タルコフスキーの『鏡』をビデオで
「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』
いしだ壱成/石田純一/浅田彰
台風が来る
笠井潔『群集の悪魔』/風俗/革命/ラカン/ジジェク(だらだらつづく話)
早稲田文学9月号のスガ秀実/芸術的労働と無為
ビデオで、相米慎二の『風花』
マノエル・デ・オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』
オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』について、その2
『nobody』の雑誌版への違和感/クレール・ドゥニへの違和感
松田聖子の『青いフォトグラフ』/80年代は彼方へ
天気の話/相米慎二の死
実感と幽霊(青山真治/大友英良の対談より)
01/8/9(木)
●青山真治氏の著書『われ映画を発見せり』に載っている、大友英良氏との対談に次のような部分があった。
《青山 あとね、DATで現場で音を録るでしょ? それを一回シネテープにあげて、それをもう一回マルチに入れてゆくとそこでもう全然音が違う。聞こえてくるタッチのスピードが全然違っちゃうんですよね。あれはヘンですよ。
大友 フォーカスの当っちゃう音が変わったりしますからね。
青山 だからいろんなメディアをくぐり抜けてくる音と格闘するしかないっていう。》
この本のなかで青山氏がくり返し述べている、「実感」と「幽霊」というのは、恐らくこのような事に関わっている。つまりここで言われている「実感」というのは、決して直接的に手で掴めるようなもの(現実的な対象)ではなくて、上記の「音」のように、複数のメディアを通り抜けてゆくことで(その過程で)、不意に発生したり、嘘のように消えてしまったりするような、これだと指さすように特定することの出来ない「幽霊」みたいな存在のことなのだと思う。つまり「実感」とは、複数のメディアの差異による「効果」に関わっている、と言うか、「効果」そのもののことだとさえ言っていいように思える。(そのことは何よりも複数の時間の衝突や共存にって成立してる青山氏の映画作品が具体的な形としてみせてくれている。)だから何度も「実感」を強調する青山氏の態度を、単純に素朴なものだと(言葉の足りない「作家」の素朴過ぎる言い種だと)受け取るのは完全に間違っている。それと同時に、上記の発言を、「完成」した「サウンド」の細部に対する「こだわり」と受け取るのも間違っているだろう。だからこの発言を受けて、インタビュアーである佐々木敦氏が「実際にそこまでこだわって作っても、これがまた映画館によって違ったりする。」と言っているのは、この対話で何が問題になっているのかを掴み損なっていると言うべきだろう。ここで佐々木氏は、作家の「イメージ」に忠実に「完成」した音が、映画館によっては忠実に「再現」出来ないことを問題としているのだが、勿論それはそれで問題ではあると思う(実際、青山氏は自分の映画がかかっている映画館の音の悪さを批判したりもしている)が、ぼくが感じた限りでは青山氏が問題としているのはそれとは別の次元の事で、現場で生で聞いた音と録音された音、録音された音がある媒体から別の媒体へと移動すること、そして制作・加工している時に聞こえている音と映画館に掛かった時に響く音、それらの間に横たわる不可逆的で決定的な差異のこと、その差異の中間で格闘すること、なのだと思う。そして「実感」というのは、その隙間のようなところから幽霊のように発生してくるようなものなのだ、と。だからそれは、作家の「イメージ」通りの音が速やかに制作され、それが完璧に再現されれば解決する、といった問題とは根本的に異なるのだ。(例えば青山氏は別の文章で自分が感化された音楽について「静かでのろくてすさんだ大音響」と説明しているが、このような言葉にすると、それはもう「イメージ」となってしまい、「実感」ではなくなる、と言えるだろう。)
「実感」はそれが生れてくる場所を特定できないし、何故そのように「実感」するのかという「根拠」をも明確に示すことは出来ない「幽霊」的なものだ。だとしたら、ある作家の「実感」を認めるということは、非常に古臭い「ロマン主義的」な意味でのヒロイックな「作家」という特別な主体をみとめるということになってしまいはしないだろうか。たしかにその危険は充分にあるというべきで、青山真治という映画作家はいつもそのような危険とキワキワな場所で仕事をしているという印象がある。しかし、青山氏の言う「実感」は、やはりそれとは微妙に違っている。青山氏は同じ本の別のページで中上健次が消滅しつつある「路地」を若衆とフィルムで撮影した時の記述を『熊野集』から引用している。
《若衆と私の違いは、映画を廻すのに一方は生れてからずっと路地に住んで来た者らしく、壊されて更地になるので現実の路地を撮ろうとするが、私は他所で住んだ者として見い出した路地を撮ろうとする事だった。見い出した路地とは単にこんがらかった配線の頭を持つ私のなかにある。それは言ってみれば発見する事によって侵略するようなものだった。つまり私が映画に残しておきたいのは小説家が視ることで侵略し発見する事で収奪したただ一人私所有の路地だった。(『石橋』)》
偉大な作家である中上健次氏によって「実感」された「視ることで侵略し発見する事で収奪したただ一人私所有の路地」である物語は、しかし、中上氏という英雄的な確固たる主体=内面によって見い出されたものであると言うよりも、「単にこんがらかった配線の頭」によって妄想のように(幽霊的に)浮かび上がってきたものに過ぎず、複数の配線が、短絡したり混線したりすることの「効果」として産出される「実感」であり「物語」であるのだと言える。つまり中上氏の「頭」とは、それ自体が既に複数のメディアが錯綜したものとしてあり、作家としての中上氏の「大きさ」とは、そのような配線の量と密度と複雑さによるのだ、と言えるだろう。そして、「実感」とは、いかに巨大ではあってもそのような「頭」の内部にあるのではなく、どこでもないような場所、あえて言うなら、内側にあるにもかかわらず外であるような「隙間」にしかありえないのだ、という言い方ではあまりにもあやふやに過ぎるかもしれないのだが。とても蒸し暑い夏の日の午後
01/8/10(金)
●とても蒸し暑い日の午後、適度に冷房の効いた場所でうたた寝をするほど気持ちの良いことがあるだろうか。イスに坐ったまま上体を反らせて(イスの背もたれがしなる)、壁に後頭部をつけて目を閉じる。外から、蝉の声がじわじわと染み込んできて、それに混じってカラスの鳴き声も時おり聞こえてくる。頭上では、エアコンがビビビビビビと小さな震動を伴いながら、ブーンブーンと大きくうなっている。頭のなかには、窓の外にあるはずの木々に重たくついている緑の葉の一枚一枚に光があたってきらきらとして、それらが風でゆっまりとうなるように揺れているイメージが、特定の視点をもたない奇妙に歪んだ空間として拡がっていて、満たしている。それと同時に、何か数学の問題でも解いているような、複雑で抽象的な思考も可動しているようなのだが、その考えには対象がなくて、ただ頭の働きだけがあるような感じだ。眠りと覚醒の中間あたりをゆっくりと行ったり来たりしながら彷徨っているような時に、ふと、今朝方にみた夢を、その細部までくっきりと思い出したように思うのだが、それはその後すぐに再び忘れてしまうのだった。そのうちに短いながらも深い眠りにスッと落ちこんで行き、そしてそれがパッと断ち切れるようにしてスッキリと目が覚めたのだった。
01/8/14(火)
●冷房を止めて、窓を開け放して、イスに座ったまま目を閉じて、頭を後ろに反らせて、うつらうつらする。肌の表面が、軽く湿り気を帯びる程度の暑さ、が、身体のまわりを漂っているのを感じながら。ときおり、いい風がすうっと入ってくる。蝉の声。車体をブルブルと震わせながら走っているような車の音が通り過ぎる。ヘリコプターのプロペラがパタパタと乾いた音で回転している。タイル張りの地面を踏みつけて行き来する人々の靴音。自転車のチェーンがカラカラいう音。
●沸騰したお湯が吹きこぼれるかのようにたわわに、深い緑から黄緑色までの葉を木々は茂らせているのだけど、雨が足りないせいなのか、その葉の一部分が壊死して、枯れたような、まるで紅葉のような赤や黄色に染まってしまっている。氾濫し散乱する濃いい緑から黄緑色までのグラデーションのなかに、何かの間違いのようにポツリポツリと侵入している赤や黄の暖色の小さな塊は、何か炎症のようにも見えるし、遠くからだと、狂い咲きした花のようにも見える。衰弱というよりも、過剰なもののような感じ。
01/8/17(金)
●午前中、炎天下のなかを散歩する。7月にはいったばかりという頃には、こんな暑さがまだ2ヶ月以上つづくのか、と、うんざりするばかりなのだけど、8月も半ばを過ぎると、この夏らしい暑さの日が、今年はあと何日あるのだろうかなんて、急に何かおしいような、この夏の陽気が貴重なもののように思われてくるのだった。今年の夏の、夏の陽気の、この感じを身体に記憶させてやるように、強くて、しかし不安定でやや濁った感じの光をモロに浴びて、汗だくになりながらも、ゆっくりと歩き、歩き回り、時間をかけてうろうろと散歩するのだった。(傾斜した道を登ったり降りたりする時に身体にかかる軽い負荷が、目から入ってくる強い光や影や濃く茂る緑、耳からの蝉の声、肌に感じる痛いほどにキツい日射しとジメジメした空気、などと混ざり合って、あるひとつの「夏」という感覚が合成され、身体のなかにジリジリ溜まってゆく。)
●昼間、あれだけ暑かったのに、夕方になって日が隠れると急激に暑さは弛み、涼し気な気持ちの良い風が吹いてきたりするのだった。
01/8/27(月)
●軽い狂気。昼間のガラガラに空いた、短い編成の電車。一番後ろから車両を次々と横切って来た男が、窓のブラインドを下ろしている。どの車両も、正確に同じ位置のブラインドを、その一箇所だけを下ろしてまわっているのだ。進行方向を向いて左側の、一番後ろの窓のブラインドを、几帳面に下ろしては、また次の車両に向かってゆく。おそらくこの男にとって世界は、「電車の車両の左後ろのブラインドはいつも降りている」という状態でなければ許せないのだろう。と言うか、それは、この混乱した無秩序とも思える世界を生きるための、最低限必要な「基底的な状態」「基準になる状態」なのかもしれない。もし、電車に乗るたびに、全ての車両の特定の位置にあるブラインドを下ろしてまわらなければならないとしたら、それは何と困難な生であるだろうか。
●電車を乗り換える。人身事故でダイヤが乱れて、乗り換え駅の情報が混乱していたらしく、電光掲示板の表示通りのホームから乗った電車が、目的地へ向かうのとは別の路線へと入っていった。仕方なく次の駅で降りて、折り返しの電車を待つ。ふいに生じた、宙に浮いたような十数分の時間。このような隙間の時間は、決して意識的に作ることが出来ないので、とても貴重なものなのだ。ベンチに座って、ありふれているけど、初めて見る駅前の風景をぼんやりと眺める。視線を塞ぐように大きなマンションが目の前に建っている。しかし、その脇にある砂利敷きの駐車場からは、先へと視線が伸びる。駐車場の向こうは、緑が多くてホコリっぽい、平坦な田舎道が続いている。空は白く濁っていて、散った雲に光が乱反射して眩しい。ホームから見えるのはマンションの裏側で、そこは駐輪場になっている。そこへ男の子が降りてきて、チャリンコを押して外へ出てゆく。なんていうことのない、ただの夏の遅い朝の光景なのだった。このような光景を、出来ればずっと眺めていたいなんて思うのだが、電車が来れば、さっさと乗ってしまうのだった。『群像』2000年11月号/富岡多恵子と松浦寿輝
01/8/12(日)
●古本屋でたまたま見つけた『群像』の2000年11月号に載っていた、富岡多恵子と松浦寿輝の対談はとても良いものだった。これは富岡氏の『釈迢空ノート』(どんなものなのか全然知らないけど)の完結を受けてなされたものらしい。ここでは特に何か目新しいことや、凄いことが語られている訳ではないのだが、何と言うのか、ある人物が別の人物に会って、「言葉を交わす」ということ、そこにある「緊張ある関係」が生み出されるということ、そういう当たり前の出来事のかけがえのなさが、しっかりと記録されているように思う。松浦氏による富岡氏の仕事に対する評価の言葉から、ごく普通に開始されるこの対談は、すぐに富岡氏からの松浦氏の仕事への、かなり本質的な鋭い批判によって返される。この対談は、一応釈迢空を巡っているのだが、内容としては雑談めいた逸脱や迂回が多く、ゆったりと進められている。ゆったりとした調子で、決して下品に相手を打ち負かそうなどという気配とは無縁に進行しながらも、全体を通して富岡氏が松浦氏の仕事に対して鋭いツッコミを入れ、それに松浦氏が防戦一方で応じている、という感じなのだ。ここで繰り広げられている、まあ、軽い論争と言ってもいいような応酬は、互いに相手の仕事を尊重しつつ、決して不躾にならないような配慮がなされながらも、しかし無駄な遠慮は排してツッコムべき所は容赦なくツッコミ、そしてそのツッコミに対しては適当にはぐらかすことはせず、しっかりと、しかし柔らかく返す、ということが行われている。折口が、弟子に口述筆記させたものを、そのまま一字一句違わずに講義させ、そしてさらにその講義を自分で聞く、という逸話を巡って、それを純粋な自己愛の発露だとする富岡氏に対して、松浦氏はそこに強い権力意識の発動をみる。そこから、折口が愛する者を追っ掛ける「しつこさ」について、それは一種ストーカー的なものでまともな男性の行動ではないとして、それを母親的な権力と結び付ける松浦氏に対し、富岡氏は、たしかに「しつこい」がそれが愛情というもので、ちっとも異常ではないし、それを母親的といわれても困る、と反論する。おそらくこの対立は本質的なもので、たんに折口を巡る解釈の違いではなくて、この2人の、仕事に対する、そして世界に対する根本的なスタンスの相違であるだろう。勿論この対立が、この対談によって解消されたりはしないのだが、それでも互いに相手の話をじっくりと受け取り、返し、細かい部分では変化なども生じるのだ。ここで行われている対話は、仲間同士での、ほとんど荒っぽい愛撫のような自己満足的な論争とも違うし、自分の優位を相手に是が非でも認めさせようという言い合いとも違う。過度に相手に気を使って、お話を伺う、というのとも違うだろう。ここでは、かなり火花が散るような真剣なバトルが行われているのだが、それと同時にバトルをきちんと下品にならないように成立させるための、充分な配慮が行われてもいるのだ。こういう「対談」を読むと、人と言葉を交わすということの貴重さを改めて思い知らされるのと同時に、ちゃんとした立派な大人にならなくちゃ、と今さらながら痛感するのだった。(東浩紀とかには、絶対こういう対談は出来ないだろうなあ、と、ふと思ったりするのだった。)
とても聡明な松浦氏であるのだから、普段、対談などの席でこのような「鋭いツッコミ」に曝されることはあまりないのだと思うが(実際この対談は、ぼくが知っている限りでは松浦氏の仕事に対する最も鋭い批評になっていると思えた)、字面だけで読み取る限りでは、松浦氏は、年上の女性から厳しく突っ込まれるというその状況そのものに、かなり嬉々としていて、歓びさえ感じている様子で、その様子から松浦氏の倒錯性というか、はっきり言って変態っぽさがじわーっと滲み出ていたりしていて、それがまた富岡氏の柔らかいながらもさっぱりと乾いている様子と好対称をなしていて、何やらとても良い感じなのだった。青山真治監督の『路地へ〜中上健次の残したフィルム』
01/8/13(月)
●澁谷のユーロスペースで、青山真治監督の『路地へ〜中上健次の残したフィルム』。冒頭から、車の中に据えられたカメラが、運転する井土紀州越しにフロントグラスの外の風景を捉えるショットが続くのだが、そのカメラがふいに外へ出て、国道42号線であることを示すプレートの立ってる、山々を望む平坦な土地の風景をフィックスの画面で映し出した時、ぼくは、ああ、これだ、と思ったのだ。つまりこの感じこそが、ぼくが『Helpless』に見た、青山真治という未知の名前と共に発見した風景の「感じ」なのだった。ぼくはその後しばらく、青山真治という監督名を持つ映画のなかに、この風景の感じを探していたのだが、2作目以降の青山監督の映画からは、この「感じ」を見つけだすことはできなかった。そして『EUREKA』に至っては、そこに映し出されるあまりに美しすぎる風景は、まるで書き割りみたいに嘘寒いリアリティのないものにしか見えないのだった。(それでも冒頭のバスの走行のシーンとかは素晴らしかったけど。ぼくは『EUREKA』の悪口をいろいろ書いているけど、この映画が大変面白く刺激的なものであるということに異論はないのだ。しかし、どうしても納得出来ない部分が幾つもある、ということなのだ。)この『路地へ』には、ぼくが『Helpless』で感じた、独特の風景の、空間の把握の仕方が何箇所かで見られて、その度に、ああ、この感じこの感じ、と思った。同じ、青山真治=田村正毅の両氏によって撮影されたにも関わらず、『Helpless』や『路地へ』と『EUREKA』とでは何故こんなに風景から受ける印象が違うのだろうか、『Helpless』や『路地へ』にあって『EUREKA』にないものとは一体何なのだろうか、と、この映画を観ながらずっと考えていたのだが、結局良くは分らなかった。
この映画には、中上健次の故郷であり、その小説の主要な舞台である紀州の風景が映し出されているのだが、実際にその画面だけを見る限り、それは『Helpless』の舞台となった北九州のどこかの地方都市とそれほど変わらないように見えるし、その奥深い山中の道も、ぼくが幼い頃何度もドライブで連れて行ってもらった箱根の風景と大した違いはないように思える。恐らくここでは、いかにも「紀州」という特徴的な風景は周到に排除されているのだろう。しかしこれらの風景はただの風景ではなく、予めテキストによって染めあげられている風景なのだ。ぼくは中上氏の小説のそれほど熱心な読者ではないのだが、一応その代表的な小説は読んではいる。そのような観客にとっては、いちいち井土氏による朗読やナレーションが入らなくても、ひとつひとつの風景から、どうしても中上氏の小説のある部分が想起され、それとの比較で画面が見られるということになってしまうのだ。ここで示される映像は少しも中上的ではない。(中上的映像というのがどんなものだかは分らないけど。)冒頭から、まるでストローブ=ユイレみたいなショットが続くかと思えば、ヴェンダースみたいな、車と列車が並走するショットがあったり、そこにいきなり極めて青山的な風景ショットが挿入されたりする。しかしこのフィルムが『路地へ』と題され、中上氏に関する映画だと知っている以上、これらのショットはあの強烈なテキストと、頭のなかで強引なまでに関連づけられてしまうのだ。冒頭から延々と続く車の走行を見ながら、『枯木灘』の紀州の地理を説明するシーンだとか、秋幸が土方仕事が終わった後にトラックの中から山中の風景を見ている描写だとかを思い出さずにはいられないし、井土氏が車を降りてタバコを買いに行くショットなどでは、いつ何をするにも誰かの目に見られている、という路地についての記述を不意に思い出したりした。この映画が、ひたすらに移動という運動のなかにいる間じゅう、それを観ているぼくも、思い出す限りの中上氏のあの小説のあの場面から、また別の小説の別の場面へと、次々と想起される場面が移動してゆくのだ。勿論、極めて熱心な読者という訳ではないぼくの想起は、記憶の欠落や思い違いや混濁に満ちているのだが、そのような混乱も含めた想起の移動の軌跡や運動が、この映画自身、つまり映像と音響の運動に刺激されつつ、重なり合ったりズレたりするのだ。目の前に提示されている映像は、「まるで中上の小説の世界のようだ」などというものからは程遠いのにも関わらず、それらの映像は中上氏の名所旧跡めぐりであることから、中上氏のテキストの強い磁力の下にある。(ぼくは夏芙蓉というのがどういう花なのか実際には知らないのだけど、画面に白い花がクローズアップにされれば、それはもう「夏芙蓉」でしかありえないと思ってしまう、というくらい強い磁力があるのだ。)だからこの映画は、実際に提示される映像と音響と、それを観る観客1人1人の中上健次の読書体験との間に、それこそ「幽霊」のように浮かびあがるようなものとして、仕掛けられているのだと思う。
しかし、そのような強い中上的磁場がふいに解けて、そこに映っている映像そのものが解放されるような瞬間もこの映画にはあるのだ。その瞬間とは、外でもない中上氏によって撮影されたショットが挿入されるシーンなのだ、と言ってしまうと、それはあまりに図式的な理解になるだろうか。でも、中上氏によって撮られた風景の、何と中上氏のテキストから自由であることか。中上氏のフィルムからは、今はそこにあるのだが、もうすぐに無くなってしまう目の前の愛しい、親しいものたちを、とにかく記録しておきたいという思いに駆られている感じが手にとるように感じられる。(8/9の日記で引用した『石橋』の記述のような感じはないのだ。)いかにも素人っぽい腰の据わらない構図に、セカセカと落ちつかなく動き回るフレームは、あれも撮っておきたいし、これも撮っておきたいというような、ああ、あそこにもあんなものがある、というような、急き立てられるような気持ちのあらわれなのだろう。その映像は、そこに映されている物が、建物が、人が、光が、かつて本当に存在していたのだ、ということ以外のことは何も主張していない、という意味で、極めて唯物論的な輝きに満ちている、とは言えないだろうか。
だとすれば、この映画の終り方はどうしても納得が出来ない、ということにならざるを得ない。ここで、まるで全ての根源であるかのように、中上氏の生原稿が映し出されてしまうのは、この映画の運動そのものを否定してしまうことにはならないだろうか。そして何よりも、坂本龍一氏による感傷的な音楽によって、中上氏の撮影した路地の風景が過度にノスタルジックなものとして見えてしまうのは、納得できないのだ。それは、失われつつあるものを撮影する、という意味で充分にノスタルジックでありながらも、それが断片のまま放置されているということによって辛うじてノスタルジーと拮抗し、そこから逃れているフィルムであったはずなのだ。それを感傷によってノスタルジーの方へ押し戻してしまっても良いのだろうか。青山氏は、自分の映画にとって異物である中上氏のフィルムを、感傷によって飼いならして同化させてしまおうとしているのではないだろうか。トムの真夏の死
01/8/6(月)
●アトリエの隣の犬(トム)は、すっかり弱ってしまっていて、1日じゅう地面に伏せたままでほとんど動けない状態だそうだ。あれほど臆病で、誰彼かまわずに、見境なく吠えまくっていた犬が、触れるくらいに近くに寄って顔を覗き込んでも全く反応しない。もう、どうにか生きてるって感じなのよぉー、と隣のオバさんは言うのだった。それでも、アトリエにいると時おり、クウゥゥゥ〜ゥォォオオンとお腹が鳴るような情けない声を上げるのが聞こえてくるのだった。お隣りは、通りに面した窓のところに、垂木を格子状に組んで取り付けていて、そこに朝顔の蔓を巻き付けている。それを目隠し代わりにして、窓は涼し気に明け放してある。紫色の小さな花がいくつかついていた。
01/8/12(日)
●雨、というほどではないのだが、アトリエのある中腹の辺りは真っ白い靄で覆われていた。格子状に組まれた垂木に巻き付いている朝顔の蔓から咲いている紫色の薄い花びらが、湿ってしんなり下を向いていた。隣の犬は、セメントで出来た三和土に新聞紙を敷いて、その上で小さく丸まっていた。もうほとんど動けないのだろう、鎖も首輪も外されていた。
01/8/15(水)
●驚いたことに、アトリエへ向かう途中にある中学の校門の脇で、今頃まだ、紫陽花の花が、半球状になった一塊だけポツンと、薄紫に咲いていたのだった。この場所は、7月の頭頃の暑さで、他の紫陽花の花が皆焼け爛れたように萎びてしまった後も、いつまでも涼し気に平然と花をつけ続けてていた場所なのだが、一体どうなっているのだろうか。アトリエの隣の老犬トムは、三和土に敷かれたタオルの上で、もううずくまってさえもいなくて、足を投げ出した格好で、グターッと横になっていたのだった。隣のオバさんは、トムが元気な時から、いつもひっきりなしに、トムや、トムトム、トムちゃん、トムちゃんさん、とか声を掛け続けていて、それが結構大声でアトリエにまでよく聞こえてきて、制作が上手くいってない時などには耳障りに感じる程なのだが、今でも同じような調子で側を通る度に声を掛けていて(わざわざ立ち止ったりはせず、用事をしながら、いつもの調子で)、トムはもうその声にほとんど反応しないので聞こえているのかどうかも分らないのだけど、そのように以前と変わらず声を掛けられながらゆっくりと衰弱して、ゆっくりと生命活動を停止してゆき、フェイドアウトするように死を迎えるのだろうか。
01/8/23(木)
●アトリエは、山と言うほどのこともない小さな山の斜面の中程にあって、谷と言うほどのこともない浅い谷底には川が流れているのだけど、その川の水が昨日の台風の影響でかなり増水していて、轟々と大きな音をたてて流れている。その音は谷あい全体に拡がっていて、アトリエの内部にまで聞こえてくる。しかしその音は、アトリエ内部ではシャーッという小雨がパラついているような音に変化している。水音に囲まれ、水音で満たされたアトリエで制作する。隣の犬は、もうほとんどエサを食べられないくらいに衰弱しているそうだ。
01/9/2(日)
●アトリエの隣の犬はいつの間にかいなくなっていて、まあ、多分死んでしまったのだろうと思うけど、隣のオバさんに、トムは死んじゃったんですか、とはなかなか聞きづらくて(オバさんも特に何も言わないし)、いつも通りの挨拶と気候の話なんかをしたただけだった。そう言えばぼくがまだ小さい頃に家で飼っていたペルという犬も、しばらく調子が悪くて、ある日幼稚園から帰ったらいなくなっていた。親は元気になるために病院へやった、とか何とか言っていたけど、それが嘘だということは何故だかすぐに分かった。当時4、5才だったはずのぼくが「死」というものをどのように捉えていたのかは今となっては分らないけど、何か「取り返しのつかない事」が起こったのだ、ということは理解していたように思う。ぼくはペルととても仲が良かったらしいのだけど、その事は両親や祖父母からの話で知っているだけで、ぼく自身はほとんどおぼろげにしか憶えていない。でも、その時の「悲しさ」の記憶は、幼稚園から帰って来た時の家の中の情景とセットになって、それだけ切り貼りしたようにして記憶している。でも、その「悲しさ」は実は、親(大人)にもどうすることも出来ない「取り返しのつかない事」がこの世の中にはあるのだという事実を突き付けられたことからくる、突き放されたような、寄る辺ない不安感のようなものが多分に含まれていたのだろうと推測する。だからそれは、ペルの死に対する「悲しさ」であると同時に、自分がこれから生きてゆくことに対する「恐怖」の感情だったのかもしれない。スティーブン・スピルバーグの『A.I』
01/8/16(木)
●吉祥寺のバウスシアターで、スティーブン・スピルバーグの『AI』をやっと観た。観ながら、いろいろなものを思い出していた。一度インプットされてしまった「愛」によって、地の果て時の果てまで突き進んでゆくロボット、というのは楳図かずおの『わたしは真悟』みたいだ、とか、プールの水中で1人取り残されるシーンは、岡崎京子の『水の中の小さな太陽』の浮遊したような孤独感がチラッとよぎったし、ジュード・ロウのセックスロボットは中上健次の『讃歌』で性のサイボーグと呼ばれていた主人公イーブが重なってみえた(この小説も、順列組合わせ的な構造によって、システマティックに「愛」を描き出そうとしていた)し、人間が死に絶えた後も、死ぬことが出来ずに、2000年も閉ざされた場所でひたすら祈りつづけているロボットは、いわば黒沢清の『回路』の幽霊たちみたいじゃないか、とも思った。考えてみれば、あの幽霊たちの「助けて」という呻き声と、男の子ロボットの「ぼくを本当の人間にして」という言葉とは、その言葉自体は空虚で全く意味がないものである(もし本当に人間になれたとしても、実は問題は何も解決しない。母親との関係で障害になってるのは、もう1人いる「本当の息子」の存在なのだ。彼がいる限り、母親と2人きりの蜜月はありえないのだ。)にも関わらず、ある回路が作動しつづける限り発せられつづけ決して消えることのない、軋みというかノイズのようなものだという点で、ほとんど同じものだとも言える。水没したマンハッタンのロボット製作者の所で、「自分は特別にユニークな存在でありたい(特別な存在として母親に愛されたい)」という自己中心的な叫びをあげて自分と同型のロボットを叩き壊してしまうシーン(この行為は、生き返った「本当の子供」がロボットに対して意地悪をする事の正確な反復であるだろう)などを目のあたりにすると、何だよ『エヴァンゲリオン』まで動員されるのか、とも思ったり。この映画はこのように様々な要素が混乱したまま詰め込まれ、それが、ここまで歪むか、と思うくらいに歪んだフォルムを描き出している。これは本当に凄い映画だ。
「それがどんなに単純なものでも、一度開かれてしまった回路は、作動しつづける」というような事を、『回路』のマッドサイエンティストである武田真治は口にしていた。つまり『AI』とは、ただただ作動しつづける回路=装置について映画である、ととりあえず言ってみることは出来るだろう。その装置がどんな目的で開かれたか(息子を失った母親へ息子の「代理」として開かれた)、その「愛」の対象が何であるか(勿論、母親である)とは無関係に、一度作動を始めた装置は、本物の息子が再生しようが、母親どころか全ての人間が死滅しようが、全く孤独に動きつづけてしまう。そんなものはただのプログラムに過ぎないと言っても無駄なのだ。一度起こってしまった事件(愛を求めるロボットの生成)は、決してその原因(プログラム)に還元されはしない「余剰」として存在しつづるのだ。ここでスピルバーグにとって興味の対象であると思われるのは、その「余剰」であり、つまり装置の、外界から隔絶された孤独な作動ぶりであって、人間や愛などではない。第一このロボットの愛の対象は「母親」であって母親個人では全くないのだ。(あくまで「ユニークな存在」でありたがるこのロボット少年は、特殊性と単独性とを取り違えている。)だからここに「関係」など発生しようもない。(もしこの映画に「愛」が描かれているとしたら、それは母親によるロボットへの「愛」と「裏切り」であるだろう。母親はこのロボットを、他でもない「このもの」として、戸惑い、受け入れ、そして裏切ったのだ。だいたい「裏切り」の可能性を伴わない「愛」などというものがあるだろうか。)この映画のラストにあらわれる母親は、勿論「母親」の虚しい幻影にしか過ぎない。ここで母親は、父親やもう1人の息子という邪魔ものを排してたった1人であらわれる。そして、このロボットである少年を、少年の語る物語を、どこまでも優しくて空虚な眼差しで受け止め、同じく、優しくて空虚な微笑みを返すだろう。そしてこの全く空っぽで空虚な眼差しや微笑みこそが、彼の求めていた「愛」な訳なのだ。彼は、存在しもしない妖精を2000年も祈っていたのと同じように、存在しもしない母親の愛を受けとめているに過ぎないだろう。この母親は、彼自身の記憶装置によって組み立てられたようなものであり、つまりロボットは自らの物語のなかに閉じ込められたようなものなのだ。しかしこのようなグロテスクさは、装置が孤独に作動している限り不可避なものなのだ。この映画が恐ろしいのは、この映画が終わった後、一度目的を十全に達してしまった後でも、今度こそ本当に何の望みも祈りの対象もない状態で、何もない空白のなかで、このロボットは存在しつづけるのだろうということなのだ。この映画が終わった後に、このロボット少年は、本格的に『回路』の幽霊のような存在になるのだろう。
この映画は、前半と後半でパックリと2つに割れてしまっている。前半、ロボットが捨てられるまでの部分では、物語=演出上の視点は恐らく人間の側にある。最初、あきらかに異質なものとして違和感とともに描かれていたロボットが、愛情がインプットされることによって自然に愛の対象となり、それが息子の再生によって揺らぎ、結果としてロボットを裏切ることになる。ここまでは、人間(主に母親)の視点でのロボットという存在、母親とロボットとの関係が描かれている。もしこの映画に、「関係」とか「愛」とかが描かれているとしたら、おそらくこの前半部分に限られている。ロボットが捨てられて以降は、もうただただ一度開かれた装置が一直線に作動しまくるという話になって、人間の存在などほとんどどうでもよくなってくる。その意味で、この時点で既に人間は絶滅してしまっている、と言ってもいいくらいだ。この映画の分り難さ、捉え難さの大きな原因の一つは、このように映画の真ん中で、視点(狙い)の分裂が起こってしまっている、ということがあると思う。この分裂を平気で放置してしまうところがスピルバーグの凄さであり、リアルさであり、グロテスクさでもあるのだと思う。タルコフスキーの『鏡』をビデオで
01/8/18(土)
●タルコフスキーの『鏡』をビデオで。ぼくは基本的にアート系の映画好きだったりするので、たまにはこういう、きっちりと丁寧に作り込まれている上に、全体が作家の意志と美意識でピタッとコントロールされているような、それでいてあくまで「アート」ではなくて「映画」が勝っているようなものを、ヘーッと関心したり、ウーンと唸ったりしながら観ていたいという欲望を抑え切れないのだった。やっぱ、何だかんだ言ってもタルコフスキーはスゲーや、格か違う、という感じなのだ。勿論、全面的に受け入れるという訳にはいかないのだが。
この映画は、「解釈」という次元においては難解なものは何もない。ある1人の男を中心として、3世代に渡るひとつの家系があり、その家系を巡る複数の出来事が、時間的な順序とは無関係に、尻取りのように蝶番となるイメージの連鎖によって次々と移り変わり、示される。この映画には一応現在と言い得る時制が存在するのだが、しかし決して「現在」を中心として過去が回想として構成されている訳ではない。
この映画において、「物質」はとても豊かな表情を持っている。しかしそれは、物質が「このもの」としての即物性を示しているからではない。むしろ、ここにあるこの物が、ほかならぬ「これ」であるという属性ははく奪されている。例えばしばしば画面にあらわれるミルクは、それが撮影されたその時にその場所にあったミルクというのではなく、いつでもどこでも変わらずに普遍である「ミルク」の本質であるかのようなものとして、白く、まさに乳白色に輝いているのだ。ここでは物質が、物質としての豊かな表情を示しながらも、その固有性をはく奪されることで、ほとんど「言葉」のようなものとして機能している。つまりこのミルクは、今、ここにあるミルク(のイメージ)ではなくて、ミルクという物質の永遠のイデアであるようなものなのだ。この映画においては、「炎」や「水(雨)」もほとんど同じように機能している。それらは、即物的な物質の露呈でも、テマティックな表層の表情の戯れでもなく、言葉であると同時に、物質的な豊かさや深さを備えて重たく響いているような、「象徴」としてあるのだ。だからこそ、男が子供の頃に見た納屋の火事の「炎」と、現在時制での、男の息子が庭で焚き火をしている「炎」とが、時間を超えて正確に同一のものの反復として、異なる時間、異なる場所を繋げ、相互に浸透させる効果をもつのだし、だからこそ、現在進行している時間としての今と、現在からみた過去(現在に従属した記憶)というヒエラルキーは成立せずに、あらゆる時間が定位する位置をもたずに漂うようにある、ということが可能になるのだ。
人物も同様で、ここには個人というものが登場しない。男の母親と男の別れた妻とは、別々の人物とは言えず、たんに「女」である。男の子供時代と現在の男の息子も、たんに「男の子」であるに過ぎない同一の存在の反復であるだろう。特定の位置を持たずに浮遊する複数の時間を、その過剰なまでのナレーションによって束ねている中心人物と言える、現在時制での男(男は物語を語る主体というより、辛うじて複数の時間を束ねているに過ぎない存在だ)は、画面には一度も姿を見せない声だけの存在なのだが、ほとんど同一の分身=鏡像=反復であると言える、男の父親が登場するのだ。この映画での反復は、まるでまったく同一なものの反復であるようにみえる。子供時代の男が、母親と共に宝石を売りに行った家で鏡を覗き込むと、そこには(現在の)男の息子があらわれるのだし、男の別れた妻が部屋で鏡を見ると、そこには男の母親があらわれる。ここでは「鏡」という装置が、その反映によって、本来異なる者同士の差異を打ち消し、相互浸透させ同一化するという機能をもっているのだ。勿論、本来、異なるものの反復であるはずの「反復」が、同一性の反復となるときに失われるのは、人物の固有性だけではなく、具体的な「歴史」ということになるだろう。
しかしこの映画には、歴史的な事件のニュースフィルムが挿入されるのだ。第2次世界対戦のフィルム、原爆実験のフィルム、中国の文化大革命のフィルム、そしてスペインの内戦のフィルムを挿入するためだけに(としか思えない)、全く唐突にスペインから来た人物を登場させたりもしている。このニュースフィルムの挿入が、この映画をどれだけ風通しのよいものにしているだろうか。この、唐突な転調のように挿入されるニュースフィルムによる「過去」は、この映画の他の部分の「過去」のように、他の時間、他のシーンへと浸透しようとせずに、そこだけ別の空気を運び込んでいる。例えば、『サクリファイス』においての「核の爆発」は、具体的な画面として全く示されないだけではなく、なんとある「犠牲」によって無かったことになって(リセットされて)しまうのだが、『鏡』においてのニュースフィルムは、最後まで消化されない残余のようなものとして消えることなく引っ掛かっているのだ。しかし、それにしたところで、周囲を取り巻く、強力に相互浸透し合うタルコフスキー的な磁場に埋没してしまいがちであって、微妙なことろではあるのだが。
●この『鏡』という映画を、強引に、もっと刺激的なものとして読み替えるとしたら、『鏡』から「鏡」を差し引いてみる、と言うことは出来ないだろうか。例えば、この映画での「男の母親」と「男の妻」とが、同一なものの反復であるというのは、その見分けのつきづらい類似性と、鏡の反映による重ね合わせに保障されているのだが、そこから鏡を引くと、同一性という保障のない、類似による混乱、錯乱だけが前に出てくることになる。つまり、男の母と男の妻は同一のものの反復であるかもしれないし、そうでないかもしれない。同一であるか異なっているのかを最終的に判断する審級が無くなってしまうのだ。そうなると今度はさらに、男の母が男の母である、という同一性までもが危うくなってしまうだろう。そこにあるのはただ複数のイメージが、その都度結びついたり、切り離されたりするという運動があるだけになってしまうだろう。勿論そんな場所では「象徴」など機能しない。しかしそれこそが、リアルなのではないだろうか。以前にもこの日記で引用した、岡崎乾二郎の『ルネサンス・経験の条件』から、同じ部分を再度、引用する。
《たとえばある人物Sがある場所Aで「道で歌を歌っている老人」を目撃し、その後、電車に乗って出掛けた先の場所Bでまた「ランニングをする老人」を目撃したとする。さらに夕刻、彼が自宅附近Cに戻ってきたら、またもや「道端で将棋をさす老人」に出会ったとしよう。Sに、この三つの場所A、B、Cで出会った老人がまったく同一人物のように見えたとしても、にもかかわらずSにはそれを信じることは容易ではない。その可能性は否定しきれないとしても、それはあまりにも非現実的に感じられる。老人か同一人物である保障はどこにもないのである。その可能性は老人が幽霊であることを認めるのと同じくらい困難に思える。これは実際の経験に基づいた話であるが、このような事態は、しかし日常にありふれている。すべて幽霊は結局のところ、微細であれ、なんらかの物質を媒介にしないかぎり、その出現は無視されてしまう。それと同じ程度に、すべての現実的な人物の同一性も、(略)観念に憑かれることではじめて成り立つ幽霊同然の存在であった。よって観念も物質も仮の項目であり、それを結びつけている関係性のみがかろうじて問題たりうる。知覚された事象どおり正確に記述すれば、目撃されたのは三つの異なる時と場所に位置づけられた三人の人物であり、決定不能なまま開かれたそれら三つの項目のあいだの関係である。この三人の人物が一つに結びつけられるのは、それらのばらばらに目撃された現象が、それを目撃したSの行動の時間順序に添わせて理解されようとしたときだけであり、その事象を認識した時間順序と、実際に出来事が生起した順序とが、混同されてしまうときである。人物の同一性などというものは、おおかれ少なかれこうした錯誤を含んでいる。》「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』
01/8/20(月)
●ビテオで、「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』。(注意、ネタバレしまくり。)あらゆるショット、あらゆる人物の行動や言葉などが、ただそれとして投げ出されるようにしてあって、それらが特定の「意味」へと収束してゆくことないままで放置してあるような感じがとても面白い。(それぞれのシーンや人物の言動が、物語を構成するための要素としてあるのではなく、ただそれとしてある。それでもそれらがいくつか重ねられると物語は発動する。しかし、それぞれのシーンや人物の言動が物語のなかでどのような位置をしめるのかは、依然として不確定なままであるのだ。)
例えば、登場する4人の人物が何故、わざわざあの廃校になった中学まで出掛けて行ったのか、と言う物語の前提からして、充分に説明されているとは言えない。一応、中学時代に犯して、それ以降ずっと引っ掻っている行いに対する罪の意識を解消するために、「花子さん」を実施する、という目的は分るのだが、その目的は冒頭部分でさっさと済まされてしまっている。まるでそれは何かの始まりでしかなく、これから本格的に事を起こすのだ、とでもいうように、人物たちは大きめの教室に陣取り、パソコンをセットして何かを打ち込んだり、沢山のコンビニのビニール袋のような物を机の上に並べたりしていて、何かが始まりそうな気配ばかりが漂うのだが、彼らは一向に事を起こそうとはしないのだ。何かを共同して行うためにやって来たはずの彼らは、すぐにバラけて、1人1人が思い思いにフラフラしはじめてしまう。
人物同士の関係も不思議だ。一応恋人同士であるとされる男女は、しかし、まるで互いの存在に気付かないかのように行動し、一言も言葉を交わさない。(ケンカしているという訳でもなさそうだ。)中学時代の新聞部の仲間だという2人の女の子(AとB)がいて、Aの年下のカレシであるCがいる。この3人で物語は始まるのだが、3人一緒にいても、言葉を交わすのはいつも、AとBか、BとCであって、AとCという組合わせがないのだ。Cという人物はいわば部外者であって、Aとの関係があるからこそこの場にいるはずなのに、AとCとはまるで両立し得ない異なる次元の存在であって、Bという媒介によって辛うじて同じ場所にいるように見えているだけだ、とでもいう感じなのだ。
そこへ、一番最後にやってきて、一番最初に消えてしまうDという男(同級生)があらわれる。4人は一応、一つの集団を形成しているはずなのだが、この作品では一度も、4人が一同に会することがない。後から来たDは、一対一でしか人と対面しない。と言うか、この作品は4人の人物による集団劇にみえるのだが、実は登場人物たちはそれぞれ一対一でしか人と対応していないのだ。4人のうち、少なくともA、B、D、の3人は「過去」を共有しているはずで、その共有している「過去」によって、この場に集まっているはずなのだが、3人の過去に対する言葉は一致することがなく、だから共通のパースペクティブを持った「過去」が、観ている側に対して明確に示されることはない。AとB、AとD、BとC、BとD、CとD、(AとC、という組合わせはないのだ)という、それぞれの組合わせで語られる過去に関する断片的な言葉は、その都度異なった部分で重なり、異なった部分でズレをみせるので、過去についての「一つの物語」を語り得る地平を形づくる事ができない。彼らを結びつけているのは、どうやら「中学時代にいじめていた女の子の死」という出来事のようなのだが、それについて語られる言葉は一向に焦点を結ぶことがなく、まるで小津の、「あれはどうだった」「ああ、あれはよかったんだ」「そうか、よかったのか」のようなセリフのみたいに、ただ言葉が言葉として行き交うだけで、過去そのものへは全く届かない。加えて、この作品は20分足らずの短さにもかかわらず、何故こんなシーンがこの作品(この物語)に必要なのかよく分らないようなシーンがいくつかあって(たとえば、屋上でDがCに、結婚式の祝儀袋に名前を書いてもらうシーンとか)、そんなこんなで乱反射が激しく、ホラーというより不条理劇に近い様相さえみせている。
しかし、この作品は全てを曖昧に済ませてしまっいる訳でない。物語の不在の中心であり、消失点でもあるはずの、「中学時代にいじめていて自殺した女の子」の「顔」を、学生時代の写真として、具体的にきちんと見せているのだ。見せるべきものは、きっちりと見せる、と言うのが黒沢氏の演出であるとしたら、この作品で、最も「見せるべき」ものだとされているのは、この女の子の「顔」なのではないのだろうか。この「顔」の顕示が、ぼくにはこの作品中最もショッキングなものに思えた。「あいつ、どんな顔してたっけ」とか何とか言って、男がアルバムのページをめくり始めた時、えっ、顔を見せるのか、ここでヘタな顔を見せたら台無しになってしまうぞ、とドキドキしたのだが、しっかりと予想を上回る「顔」を見せてくれるのだ。この「顔」を選択するには相当気を使ったのではないだろうか。ここで「顔」をしっかりと見せることで、人物たちの噛み合わない会話や不可解な行動が上滑りにならずに成立するのだろう。(それを見た者全てを消してしまう、と言う花子さんの顔を示すことは、原理的に不可能である訳だからなおさらだ。)しかしもっと突っ込んで考えると、この「顔」が本当にその女の子の顔である、という保障は、実は何処にもないのだ。過去とも、過去に関する言説とも無関係に、ただ、この「顔」だけがある、のかも。
過去についての登場人物たちの言葉は、「過去」そのものについては全く焦点を結ばないのだが、「過去に対する態度」の違いは明確にさせる。Cは、「花子さん」という儀式によって、過去をすっきりと忘れてしまおうとしているのに対して、Aは、逆に儀式によって「いろいろと嫌な事」を思い出した、これらを都合良く忘れることなど許されない、と言う。そしてDはと言えば、どうやら自分に都合の良いように過去の記憶を書き換えてしまっている気配なのだ。(全く、「歴史」に対する態度というのは、どこでもこのようなものなのだ。)しかし、主体による「過去への態度」がどのようなものであっても、そんなこととは無関係に、「過去」は等しく彼らに回帰してくるのだった。
この作品でまた面白いのは、非世界的存在=幽霊が、複数存在する、ということだ。ここで登場する「花子さん」と「女の子の幽霊」は、全く別のものであって、けっして共同して人間をやっつけた(復讐した)訳ではない、という点を忘れてはならない。(加えてもう一つ、人間には全く無関心な、ただ廃校でウロウロと走り廻っているだけの学生服姿の幽霊もいる。)花子さんと幽霊は、丁度、AとCとが、同じ場所に居ながらも決して「関係する」ことがないのと同じように、たまたま同じ時空に現れた次元の異なる存在であると言える。(AとCと同時に関係し、花子さんと幽霊とを同時に見ているのは、ただBという媒介的な人物だけなのだ。)花子さんは、あくまで花子さんの原理に従って呼び出され、自分の原理に従って作動しているだけだし、幽霊もまた、自身の原理によって出現し作動しているだけなのだ。しかし、これらの2つの非世界的な存在の異質な原理が偶然に重なり、たまたま同時に作動してしまったことによって、人はそこから逃れる術を失ってしまったのだった。つまり、黒沢清氏の言う「運命」とは、世界の原理と偶然とが重なり合う場所に出現するもののことなのだ。いしだ壱成/石田純一/浅田彰
01/8/21(火)
●いしだ壱成の逮捕に関する、石田純一の記者会見をたまたま目にした。一貫してチャラチャラした、いいかげんでだらしない男でありつづけた「愛と平成の色男」も、自分の不祥事ならともかく、息子に関するものであるかぎり、「立派な父親」であり「大人の男」として振る舞うことを強いられてしまう。これが関係が強いる権力というものなのだろう。ここでは「大麻は文化だ」とか「大麻なんて大した問題じゃないし、逮捕なんていつでも出来るのたから、せめて公演が終わるまで待ってくれたっていいのに」(そうすれば関係者の「被害」は最小限ですむ。)とかいう、ごくまっとうな正論を言うことすら許されない。さらに、ここでは石田氏自身も、「立派な父親」を演じることが出来て満足げだという気配すら漂わせている。レポーターや視聴者は、石田氏が意外にもきちんとした「大人の男」であることに満足するかもしれない。でも、それって、どうなの。《もとから脆弱だったんだけど、脆弱な上に自信が持てなくなったちゃったんじゃないかな。だって、「弱っちくたっていいじゃん」っていうふうに、あまり思わなくなってきてるもんね。(岡崎京子)》《以前からあり、今後もおそらくあり続けるだろうというただそれだけの理由で、我々に白か黒かの選択を迫り、同時に白を黒と言いくるめもするある作用、それが私がイメージする「政治」なるものにかなり近いような気がする。(黒沢清)》注意すること、そして、思考すること。だらしなく「享楽」しつづけること。ENJOY YOUR SYMPTOM!
01/8/29(水)
●初めて知ったのだが、浅田彰氏のやっている「i-critique」対応について、この日記の8/21の記述とかなりかぶっているコメントがあって、なにしろむこうは天下の浅田彰なのだし、これではぼくが浅田氏のコメントからそのままパクッたと思われても仕方が無いことになってしまう。まあ、そこで述べられているのはごく普通の正論である訳で、かぶったとしても少しもおかしくはないのだが。ぼくはこの「i-critique」を、いくつかの項目についてチラッと眺めただけなのだが、改めて浅田氏の驚くべき博識と揺るぎない「趣味判断」の的確さを思い知らされた。ここで浅田氏は、主に現代のアートなどについて述べているのだが、混迷し迷走していて、とてもじゃないけどある明確なパースペクティブに納めることなど出来ない現代のアートシーン(と言うか「シーン」というのが成り立たない)に対して、個々の作家や作品についてその都度明解な判断を示し、的確な文脈をつけて位置付けを行っている。そしてそれを可能にしているのは、驚くべき博識とともに、自分の趣味判断に対する揺るぎない自信のようなものなのだと思える。勿論、浅田氏は自らの「趣味」を無自覚に振り回しているという訳ではない。それでも、ここには、充分な教養と明晰な頭脳に支えられた自分の趣味判断は、ある程度は「良識」として有効であるはずだ、という自信に支えられた認識がある。批評家としての浅田氏はあくまで「良識」の人であって、対象に深く踏み込んで関わってゆくのではなく、俯瞰的な視点で位置付けを行う。あらゆる場所で「基準」となるものが崩れ去っているような現代において、まともな「良識」による価値判断を示すことが出来るというのはとても貴重なことではあるし、その良識による判断は、おそらくかなりの確率で「正しい」のだろうとも思う。しかし(昨日の日記でもチラッと触れたけど)ぼくはどうしても、浅田氏の批評のなかでの「趣味」の機能の仕方に引っ掛かってしまう。「趣味」が悪い、と言うのでもなく、「趣味判断」をするのが駄目だ、と言うのでもなくて、批評文の持続のなかである瞬間に自分の趣味を発動させる時の、そのやり方が、何か人を上手く言い包めるような感じ、と言うか、「これはボクの趣味なんだけど当然キミも受け入れるよね、ボクの趣味はボクの博識に裏打ちされてるんだもんね」みたいなニュアンスが漂ってくる感じなのだ。(勿論、文章そのものはそんなにエラソーなものではなく、むしろ読者にとても親切なガイドという感じなのだが。)論証抜きに、「趣味」を自明のものとして出してくる、と言うのか。つまり、それに反論するには、浅田氏の趣味の悪さについて言うしかなくなってしまう、みたいな。ちょっと前に、映画批評なんかで「才能」という言葉が、作家や作品を切って捨てる時の重宝なキメの言葉として乱用された事があったけど、勿論そこまで乱暴ではないにしても、それに近い感覚がもっと洗練された形で出ているように思えてしまう。繰り返すが、それが必ずしも批判されるべきことだとは思わないし、そういう良識ある人物の存在によって「何か」が保たれているというのも事実だとは思うのだが、ぼく個人としては、どうしてもその引っ掛かりを消すことが出来ないのだった。(例えば『BT』に掲載された「原宿フラット」の座談会で、村上隆氏の作品について、村上氏のデザイナー的なセンスの良さについて、あたかもそれが「決定事項」であるかのように、それに対する反論などありえず、あったとしてもマイナーなとるに足りないものでしかないように、サラッと口にして済ませてしまう。サラッと口にすることで、それが万人が認める「事実」であるかのようにその場を支配してしまう。そしてそのことが、村上氏の作品に対する批評的な言葉をそこでストップさせてしまうように機能する。鋭敏な村上氏がその危険を察知して、「ぼくの作品がデザイン的にセンスがいいとしたら、それはたんにデザイナーに発注してるからだ」と反論してももう遅くて、すくなくともその場においては、「センスがいい」ことは揺るぎないこととなってしまう。浅田氏の正しさは、しばしばそのように発展する余地を塞いでしまう。それに「センス」とか言っちゃうと、自信のない人にはなかなか反論できなくなってしまうのだ。しかもその発言が他ならぬ浅田氏から出たものであれば尚更だ。)台風が来る
01/8/22(水)
●今日はこれから台風が来る。朝から断続的に降る強い雨がバシャバシャ地面をを叩きつける。雨は時おり、ふっ、と弱まり、空も白く明るくなったりもするけど、またすぐにカーテンを引くようにサーッと激しく降りつけ、風も強くなる。雨の濃度は、パラパラマンガみたいに、不安定にチカチカ移り変わる。一時的に雨が弱まると、どこから現れたのか小鳥がピーピーと鳴きながら乱れ飛び、いきなり蝉が狂ったように声をあげる。そしてまた雨と風が強くなるとすっと消える。降りつける雨粒が木々の緑の葉にあたって跳ね返る音と、吹きつける風で葉と葉がうねって擦れ合う音が混じって、じゅぅぅぅううぅぅわぁぁあああぁーっっっつっ、という炭酸が発泡するような音が沸き上がってくる。木の枝が激しく首を振っている。窓を開けて室内から外を見ている。水しぶきがはいってくる。
昼過ぎ頃から、風がふっとやみ、雨もかすかな小粒という状態がしばらく続いた。べたべたとして湿った生暖かい空気が、もわあ、と辺りに充満する。濡れそぼった木々の緑が無気味なくらいピタッと静止したままでヌッと立っている。嵐の前の静けさか。さあ、さあ、来るのか。とうとう来るのか、台風が。と思ったら、いつの間にか、過ぎ去って行った後だった。
夕方、ギラギラと照りつける西日と、それが大きな水たまりに反射した光とが、二重に射してきて、ひどく眩しいし、チクチクと暑い。笠井潔『群集の悪魔』/風俗/革命/ラカン/ジジェク(だらだらつづく話)
01/8/24(金)
●古本屋でたまたま見つけた笠井潔『群集の悪魔』を読んだ。ぼくは笠井氏の書くものは批評にしても小説にしても、基本的に興味がないのだが、このミステリー小説は、1848年のパリを舞台にしていて、探偵があのオーギュスト・デュパンで、ワトソン役とも言える焦点人物がボードレールだったりするし、その他、クールベやジョルジョ・サンド、バルザックや、なんとド・モルニーとかマルクスとかまで登場するみたいだし、巻末の引用・参考文献のリストを眺めると、これは何となく、二月革命からルイ・ナポレオンのクーデターくらいまでの時期のパリの姿を、パッサージュなどの風俗的な記述も絡めつつ描いたものなのだろうとアタリをつけ、それも笠井氏のことだから、歴史的な事柄をたんにミステリーの背景として使用するというのではなく、どちらかというと歴史的な記述の方が主になるのだろう、と思って読んでみたら、ほとんどその通りだった。なにしろ美術批評家としてのボードレール(詩人としてはあまりよく知らない)やリアリズムの代表的な画家クールベ(しかしこの小説のなかでは、たんに腕っぷしの強いアンちゃんという程度のキャラクターに過ぎないのだった)、探偵小説を生み出したポー、それにド・モルニーにルイ・ナポレオンときたら、表象=代行機能の失調(象徴形式の機能不全)という「近代的な問題」の基本でもある訳で、これはお勉強として読んでおいてもいいかなあ、と思ったのだった。
実際、読んでみると、ミステリーとしては貧弱だと思うし、同じく風俗の描写なんかにしても、小説の「言葉」としてはやはり貧弱だと言わざるを得ない。それに、革命や詩作にかんする記述などには、かなりうんざりさせられるところが多い。しかしその分、歴史的な記述に関しては予想以上にがっしりしっかりしていて、お勉強としては最適な本だと言える。パッサージュ成立の起源、下水道設備などいわゆるインフラの状態、当時のパリ市民の生活、ブルジョアや労働者の生活環境や生活習慣から匂いの好みの変化まで、そして新聞という新しいメディアの出現、新しいタイプの「個」である「群集」の成立、パリという都市の地理的な配置等々、風俗的な背景をしっかりと記述しつつ、貧困の廃絶を求める労働者たちと、共和制を求めるブルジョアたちが手をとることで奇跡的に成立した二月革命と、その奇蹟が、本来立場のことなる労働者とブルジョアの亀裂の深まりや、反動的な勢力の駘蕩によって、多くの革命的労働者の決死の努力にも関わらずズルズルと崩れてゆき、それが最悪の帰結を迎えてしまうまでの、様様な政治的な出来事の描出はとても具体的で見事なもので、興味深い(色んな意味で勉強になります。)。そして、一方にパッサージュに集ってくる具体的な階級や固有性に基づかない無名の人々である「群集」という新たな出来事の出来があり、もう一方で二月革命後の混乱した政治状況(「革命」の致命的敗北)という事態によって、ルイ・ナポレオンが登場し得る土壌が整備されつつあったのだ、ということになる。
笠井氏の野心としては、このミステリーに描かれている「事件=犯罪」によって、このような背景をもつこの時代そのものが凝縮した形で表現されている、というように、つまり、様々な資料をもとにしたある時代の具体的記述とは別に、犯罪=詩のようなものとしてその時代のエッセンスが凝縮して形象化されたものを作品のなかに埋め込み、さらにその犯罪=詩を探偵=批評家が読み解く、という形にして、そこにボードレール=詩と、ポー=デュパン=探偵小説(あるいは批評)という文学形式上の対決のようなものまで示したかったのだろうと思うのだが、そこまでは上手くいっているとは思えないのだった。
01/8/25(土)
●(昨日のつづきと言うか、補足というか、うだうだと。)古典的な探偵小説においては、探偵というのは実は詩人と対立するような存在ではなくて、散文化した詩人のような存在と言うべきなのかもしれない。詩人が、その神秘的なインスピレーションによって「世界の真実」を明らかにするように、探偵は、その卓越した嗅覚によって痕跡を嗅ぎ出し、明晰な頭脳で推論を組み立てて「世界の真実」を解明する。そこには神秘的なインスピレーションと論理的な思考の違いはあっても、どちらも真実を解明するための特権的な技術(アート)を持った特権的な人物によって「世界の秘密」が解き明かされる、という形態であることに違いはない。凡庸な知性(レギュラーな知)には決して見えてこないだろう真実が、ある特別の知性(イレギュラーな知)によって覆いを剥ぎ取られ、白日のものとされる。賢者がその秘術によって現された真実を否応なく押しつけてくるのとは違い、論理立てて、噛んで含めるように誰でもが分る道筋で示される真実。しかしどちらにしても、颯爽と真実を口にすることのできる、特別な主体が要請されていることに変わりはない。
ところで、鎌田哲哉氏による、スガ秀実氏の『探偵のクリティック』等に対する批判は、(レギュラーな知としての)警察的な知と、(イレギュラーな知としての)探偵的な知という対立には、複数の差異が闘争=論争する場としての「法廷」という次元が抜け落ちている、というところにあった。(参考までに)これは、存在からの「呼び声」は一つではなく複数ある、というデリダ=東的な理屈にも通じるものだろう。いかに探偵という存在が零落した存在であろうと、それが「真実を告げる唯一の存在」としてある以上、それがロマン主義的な超越的主体であることに変わりはないだろう。ぼくはミステリー小説についてあまり知らないのだが、まさか現代のミステリーが、古典的なミステリー同様に「特権的な知性としての探偵」という存在に頼ってばかりだとは思わない。しかし、少なくとも、(現象学的な本質直感によって事件を解決するという矢吹駆シリーズに代表される)笠井潔氏の小説は、事件自体やその背景がどんなに複雑に構成されていようと、それを全面的に解決するのは「探偵」という1人の特権的な主体であるという構えが、崩れる事がない。つまり結局のところ、笠井氏にとって世界とは、ロマン主義的な特権的存在によって過不足なく解明され表象されるようなものとしてあるのだろう、と思わざるを得ないのだ。『群集の悪魔』という小説は、膨大な資料を卓越した構成力で組み建てなおすことで、1848年のパリの姿を立体的に見事に描き出しているのだが、今述べたような笠井氏の視点からだと、この小説のテーマでもある、どのような階級にも還元されない、全くの無名で純粋な砂粒のような個の集まりとしての、「群集」というものを捉えることが出来ないのではないだろうか。(この小説における「風俗」の描出が、お勉強として有効である、という以上の拡がりも厚みみもたないのは、風俗というものが決して特権的な主体に関わるものではなく、「群集」にこそ関わるものであるという事実を笠井氏が掴み切れていないからではないか。)それに「革命」という出来事もまた、ある1つの特別な理念、あるいは一つの視点に還元されるものではなくて、様々な場所で、様々な異なる立場や利害関係をもった人たちが起こした出来事が、同時多発的にあちこちで重なってしまった、ということなのではなかったのだろうか。だからそれを、ある1人の主体内部における、世界と一体になるような高揚感」と重ねあわせるように、例えば次のように描いてしまったのでは、多分駄目だと思うのだ。(次の引用はボードレールの内省として語られている)《美的なものを奇蹟のように実現するには、ダンディズムにおいても、そして詩作においても、高揚した激情と冷たい形式化の意志が、絶妙に均衡していなければならない。二月のバリケードの日々には、それが確実なものとして感じられた。(...)氾濫する大河さながらに膨大な破壊の力が、王政を倒し共和国を樹立しようという民衆の明晰な意志と、だれが仕組んだものでもないのに、見事に均衡していた。》『群集の悪魔』
01/8/26(日)
●(一昨日から、何かダラダラと続いている)ポーによる探偵小説『盗まれた手紙』を特権的なテクストとしているのだから、ラカン派の精神分析もまた同様に、探偵=分析医であってみれば、「複数の差異による闘争の場としての法廷」という次元を欠いている、と言う鎌田氏の批判があてはまってしまうのではないだろうか。例えばジジェクは『汝の症候を楽しめ』の、デリダを批判している一章『「手紙はかならず宛先に届く」のはなぜか』の註の部分で、例外的に手紙が届かない可能性のある例として、精神病的な主体を挙げている。《「手紙が宛先に届く」ためには、主体がコミュニケーションの回路に入らなければならない。すなわち主体に、真理の所在地としての〈他者〉との弁証法的関係を引き受ける能力がなければならない。》つまりそのような能力に欠ける精神病=分裂病者に限っては、手紙は届かないこともあり得ると言っているのだ。手紙は主体間の象徴的ネットワークによって配達される。そして、たまたま偶然にその手紙を受け取った(呼び掛けに応えた)者こそが、手紙の目的地=宛先なのだ、と。(手紙か偶然着いた場所こそが、手紙の宛先だと言うのだ。)だから手紙は必ず届くのだが、他者の呼び掛けに応えようとしない精神病者(つまりそれは、主体間の象徴的ネットワークに参入することなく、ただひたすら「現実界」のみと関わっている、という意味だ。)には、手紙を受け取ることが出来ない。しかしこれだと、「手紙が宛先に届く」ためには、他者との関係があらかじめ内面化されている場合(つまり神経症者)に限る、と言うことになってしまう。ジジェクによれば、ある主体が他者からの呼び掛けに応える、というのは、その主体の象徴的幻想空間に開いた空無である場所に、たまたま何か(手紙)がスッポリはまってしまった、と言うことであり、だから象徴的幻想空間に空位があることによってしか、ある主体は、主体間の象徴的なネットワークに参入することができないと言うことなのだ。これでは、あらかじめ差異を消去した、ある程度同質化され関係が内面化されている範囲に限り、手紙は必ず宛先に届く、言い換えれば、手紙が必ず届く範囲においては、手紙は必ず届く、と言っているだけなのではないだろうか。つまりこれは、1人の特権的な主体によって解明(あるいは表象)できる範囲に限っては、世界の秘密は解明される、という探偵小説的な知とかわらないのではないか。
ジジェクは、デリダへの批判として、手紙は届いた瞬間に手紙になるのであって、手紙が届く前に、ある目的地へと向けて投函される訳ではない、と述べている。だから、到着に先立って、手紙が何処かを彷徨っているような状態などありえない、と。つまりそれは、無意識が実体として何処かにある訳ではなくて、ある痕跡があって、そこから遡行すること(読み取ること)によってはじめて無意識の存在が露わになるのと同じである。届いた瞬間に手紙となり、届いたその場所こそが宛先であるような手紙が、何故、誤配されたりするのか、という訳だ。しかしデリダによって問題とされているのも、宛先に既に届いている手紙に、かつてあったはずの誤配可能性、ということだったのではないか。例えばそれは、アウシュヴィッツにおいてハンス少年が殺された、という事実があった時に、《ハンスが殺されたことが悲劇なのではない、むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ(東浩紀)》、と言うような意味での誤配可能性のことなのだ。すでに「そのように」あってしまったことが、「そうでなかったかもしれない」可能性を想定することが出来る、ということが誤配の可能性であり、届かなかったかもしれない、というその可能性によって、主体は「幽霊」に憑かれるのだ。(だから、どのような特権的な主体によっても、「幽霊」を解消すること=世界を解明することは、できないのだ。)それは、手紙が届いてしまったことを主体の「運命」だと速やかに受け入れるジジェクとは根本的に違っている訳なのだ。早稲田文学9月号のスガ秀実/芸術的労働と無為
01/8/28(火)
●早稲田文学の9月号でのスガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』では、宇野経済学と赤瀬川原平による「模型」千円札に触れて、芸術と労働力という、「等価交換」というフィクションを危うくする2つの特異な「商品」について述べている。(宇野経済学では、商品Aが商品Bの使用価値によって表示されるという場合、商品Bは商品Aの所有者の「欲望」の「表現」とみなすべきではないか、という考えによって「等価交換」という概念が破壊される。)芸術の制作という労働(あるいは芸術作品という商品)においては、商品の交換価値が、そこに投与された労働量で測られる、とすることで成り立っている「抽象的人間労働」というフィクションが成立しない。(同じような絵を同等の技術・労力で描いたとしても大家と無名の画学生とではその交換価値に膨大な開きが生じる。または、赤瀬川氏が3ヶ月かけて胃痙攣を起こすほどの労力でつくった「畳一畳程の偽千円札」と、同氏が展覧会の会場でササッと作った「梱包」は、作品としてはあくまで同等である。)それは資本制の等価交換という論理がそこで挫折せざるを得ないデッドロックなのだが、逆に資本制は「芸術商品」を自らの限界として(外部的な支えとして)設定することで、その内部を構造化することが出来る、という意味では、資本制は芸術を必要としている。(だから資本制を批判しようとする「芸術」は必ず失敗する。)そして「労働力」という商品もまた、芸術と同様に「等価交換」というフィクションにあてはまらない特異な商品である。労働者の一日の労働の対価は、不況下のマイノリティー系労働者のように、労働力を再生産するのに足りない程のものでも、一部のテクノクラートのように莫大なものであっても、極端に言えばパン一個であっても、それらは全て等しく等価だとみなされてしまう。(このような「労働力」という商品の特殊性によって「搾取」が可能となり、資本主義社会は「成長」することが出来る。)《労働力商品は、それへの対価がいかなるものであっても「等価交換」であるという意味で、もっとも資本制市場経済にふさわしい商品であり、いかなる等価交換も論証できないという意味では、商品経済が破綻するデッドロックでもある。(スガ秀実)》だとすれば、資本制市場経済への批判は、労働者が自らを「労働力」としてではなく「ジャンクな芸術家」として規定して、「労働」ではなく(バタイユ=ナンシー的な)「無為」を行う、ということによって可能になるのではないか、と。勿論ここで言う「芸術家」とは、その作品によって「世界の真実」を開示するような者でも、「美」を実現する特別な技術をもった者のことでもなく、《「町内に必ず1人や2人いるやや変質的な奇行のオジさん」のたぐいが出品する「廃品類の奔流」によって「自己破壊にまで至った」》のだと言う「読売アンデパンダン」的な、単なる「廃品」(=無為)を制作するようなジャンクな芸術家である訳だ。おそらくスガ氏にとっての「68年的なもの」の可能性というのは、「(ジャンクな)芸術家」としての「労働者」の生産する「無為(=廃品)」によってこそ資本主義への批判が可能になる、という一点に集約されるのではないのだろうか。(だから「J」はあくまでジャンクでなければならず、「J回帰」つまりジャンクなジャパンへの回帰であってはならないのだ。)
だからこそ、赤瀬川氏を中心としたネオダダ・オルガナイザースやハイ・レッド・センターなどの「反芸術」的な前衛美術家集団の活動から、「反芸術」というニュアンスを差し引かなければならないのだろう。(アンチ巨人が「巨人」の存在によって可能であるように、または、高橋源一郎氏の感傷的=反動的な「文学主義」に、一見して距離を置いているようにみえる大塚英志氏の「ぼくは文学に直接的に触れることはしないよ」というスタンスが、実は「文学」を「聖域化する」という点で表裏一体であるように、「反芸術」は「芸術」という枠組みを認めた上でしか可能ではない訳で、つまりジャンク=無為にはなりきれないのだ。)確かに赤瀬川氏やハイ・レッド・センターの活動の一部にスガ氏が指摘するように「反芸術」の範疇を超えるような可能性があったとしても(「偽千円札」や「首都圏清掃整理推進運動」のように「ただ似ている」ということの暴力性を提示し得たものとか)、しかし基本的には彼らの活動は、「反芸術という芸術」という範疇にあるものであって、だからこそ赤瀬川氏は『父が消えた』後では、前衛美術家としての活動を停止しなければならなかったし、ハイ・レッド・センターのメンバーであった中西夏之氏は、現在、日本のファインアートの画家としては最も高い値段で作品を売る画家の1人である(「売れている」のかどうは知らないけど)と同時に、芸大の教授でもあるという、芸術内部での「父」の座に納まることになるのだ。ぼく個人としても、60年代の前衛美術家たちの、ジャンクなものとしてのアッケラカンとした即物的な明るさに強く惹かれもするし、憧れさえ抱いているのだが(彼らの作品は今観ると本当にみすぼらしくてクズなのだ。しかしだからこそ「開かれた」感じがするのだ。)、しかしそれはあくまで、「芸術」というものが強力なものとしてあった上での「反芸術」であって、言ってみれば「芸術」という枠組みによって守られたノーテンキさであったのだと思う。例えば、現在、「反芸術」など少しも信じられない村上隆氏などは、もっと直接的に「資本制市場経済」と格闘しなければならないので、赤瀬川氏のようなアッケラカンとした明るさとはほど遠く、もっと姑息に嫌らしく立ち回る(「無為」ではない「労働」をする)訳だが、その「姑息な嫌らしさ」は現在ある程度は不可避であるとさえ思われる。(しかしぼくとしては、村上氏の作品に一定の評価と興味とを持つものの、決して「好き」にはなれない。赤瀬川氏や中西氏の方がずっと「好き」ではある。)だからぼくには、スガ氏による「ジャンクな芸術家としての労働者=オブジェを持った無産者」というイメージが資本主義に対する批判としてどこまで有効なのかは疑問なのだ。しかし、「芸術批評」としてこの文章を読むとすれば、例えば浅田彰氏のような、妙に中途半端な腰の座らない感じながらも高邁な趣味に居直っているみたいなものよりも、ずっと刺激的で面白いと思うのだ。
(それにしてもスガ氏のこの文章は、同じ雑誌の同じ号に掲載されている鎌田哲哉氏の文章と好対照で、まるで狙ってやったみたいだ。)ビデオで、相米慎二の『風花』
01/9/1(土)
●ビデオで、相米慎二の『風花』。相米の新作を公開時に劇場で観なかったのは、考えてみれば初めてのことだ。ぼくにとって相米は最初の映画作家であり、青春の映画作家であるのだ。蓮實を読んだりゴダールに衝撃を受けたり黒沢清に熱狂したりするよりも前に、映画というものが作家というある特定の固有名と結びついているということを、まだ中坊だったぼくは『翔んだカップル』によって思い知らされた。勿論それ以前にもスピルバーグとか黒澤明とかキューブリックとかいうエラい映画監督という人たちが存在することは知っていたし、『未知との遭遇』とか『影武者』とか『シャイニング』とかいう映画を、これはエラい人のつくった映画なのだなあ、と思いながら観てはいたのだが、そのようなクレジットされた名前としての作家ではなく、どのシーンをとってみてもそこにある固有の呼吸のようなものが染み付いているという意味で、相米の映画は否応なく相米慎二という作家の存在を主張しているように当時のぼくには思えた。(それに相米の映画に溢れているある「感傷的な雰囲気」や「不条理な悲しさ」は、若い頃のぼくの「実存」の感覚のようなものにぴったりとフィットしていた。)その後、蓮實を読み、映画史上の傑作をいろいろ観たりしても、ぼくにとって相米はいわば「別格」という感じだった。しかし、青春は終わるものだし、青春の愛情は容易に憎しみ(と言う程のものでもないが)にかわってしまいがちなもので、『光る女』あたりから徐々に違和感を感じるようになって、『夏の庭』で決定的にシラケてしまい、それからは相米の映画とは何となく距離を置きたいという感じが強くなって、とうとう『風花』は観に行かずじまいだった。(何度も観に行こうと思ったのだが、その度に無意識による「抵抗」がある、みたいな感じだった。)
しかし実際に観てみると、『風花』は拍子抜けするほど普通に「へー、いいじゃん」と思えるような映画だった。ここにはもうかつてあった「熱狂」できるような要素はきれいに洗い流されて無くなっていて(だからこそ「普通に」観ることが出来た)、そこにはずば抜けて力量のある映画作家の姿が立ち上がって見えた。冒頭、チラチラと散る桜の木で始まった時には、ああ、また相米だあ、と嫌な感じがしたのだが、しかしその冒頭の長回しのショットは俳優の演技なども含めて素晴らしいもので、そのショットが終わる頃には既にこの映画を受け入れようという体勢が出来てしまうのだった。少しでも相米の映画を熱心に観たことのある人なら分るとおもうのだが、この映画では「相米節」とも言える相米独自の演出の手法が、ほとんど総決算と言っていいほどちりばめらているのだが、かつては細部を際立たせ、リズムをギクシャクとしたものにすることに貢献していた、(祝祭的な、と言えるような時空を生み出していた)相米的な異化の手法とも言えるそれらの演出は、この映画では細部を突出させることなく(まるでどこまでも平坦につづいている北海道の道路のように)滑らかに流れていて、だからと言ってそれが物語に従属しているのではなく、あくまで優れた濃密な「描写」として際立っているのだった。かつては、平坦な土地に亀裂を入れ、波立たせることによって突出していた相米の演出は、ここではあくまで滑らかな流れのなかで濃密な時空を積み重ねることに徹して、それを見事に成功させている。(しかしその描写に引っ掛かりが全くない、と言う訳ではない。例えば、回想として示される、小泉今日子が結婚していた頃の描写などは、いくら何でもダサ過ぎやしないだろうか、とか。この映画にはいろいろな場所にいわば「日本映画的」とも言えるようなダサさや嘘臭さがチョコチョコと顔を出している。相米は基本的にはいわゆる旧「五社」体制という意味での「日本映画」的な感性の人であって、そこが「日本映画」が完全に崩壊したことによって活躍の道が開けた黒沢清以降の作家とは本質的に異なっている。いわゆる「撮影所出身」の最後の世代ということであるのだが。それがある意味強みであると思うのだが、ちょっと気を抜いて相米が「相米節」に安住しようとするとき、どこからかスーッと「日本映画」の幽霊が出て来てしまうのだ。)
この映画について何か書くとしたら、俳優の素晴らしさについて書かないで済ませる訳にはいかないだろう。ぼくは昔から小泉今日子という人が嫌いで、実質的に大した仕事を何もしていないのにも関わらず、ちょっとした才気とイメージ戦略だけで、いつも自分を有利な位置に置くことしか考えていない、という印象があったのたが、この映画で初めて小泉今日子の「ちゃんとした仕事」をみたように思えた。(悔しいことに小泉今日子はいつも「いい」のだけど、その良さが常に中途半端で、計算が透けて見えるところが嫌だったのだ。)浅野忠信については、みんながあまりにも絶賛するのであまり誉めたくはないのだけど、しかしこの映画でもやはり彼は圧倒的に素晴らしいのだった。ぼくは相米の映画をずっと観ているのだけど、相米の圧倒的な演出に対して、俳優がその「演技の質」によって「批評的」であり得たというのは初めてみたように思う。浅野忠信はその演技によって、相米の演出を常に脅かし、脅威を与え続けているように思えた。
オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』
01/9/3(月)
●BOX東中野で、オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』。これを今まで観ていなかったなんて、恥ずかしくて言えない。冒頭から最後までのあらゆるショットが刺激的で、一瞬も息をつく暇なく見入ってしまう。なにしろ、レナード・ベルタによって完璧なまでに美しく撮影された画面がほとんど冗談としてしか見えなくなってしまう、というくらいに面白いのだ。全く食えないジジイの揺るぎない老練な態度と、まるで生れたばかりの子猫が世界のあらゆる様相を驚きとともに発見してゆくような初々しい視線とが平気で同居している。自らに課した単純な規則を律儀に(単調に)最後まで守り抜くことがそのまま、途方もなくいい加減でかつ大胆なことであってしまうという不条理(車のなかで各々の人物を捉えるカメラポジションは、厳密に一定で全く変化しないのだ。それが厳密であることの何といい加減なことか。)。厳密であることに実は何の根拠もないのだというナンセンス、そして厳密さがナンセンスにまで突き抜けてしまうことによって立ち上がる、硬質で唯物論的とも言える輝き。この奇妙に厳密で単調とも言える反復は、映画というシステムが(あるいはこの世界が)登場人物とも観客とも別の原理で作動していることをはっきりと示している。この映画でカメラは主観的であることを徹底して避けていて、非人称的な視線に徹しているが、登場人物たちに常に寄り添ってはいる。しかしそのような寄り添う視線とは別の、突き放した「異質の視線」が何度かふいに現れる瞬間があるのだ。例えば、川を挟んで4人の人物が学校を眺めている、異様なまでに規則的な切り返しの連続で組み立てられたシーンの直前に、目が霞んで良く見えないというマストロヤンニのために誰かが車のなかに双眼鏡を取りにゆく時、カメラは先まわりして無人の車内のシートの上にポツンと置かれた双眼鏡を示すのだ。ここでは双眼鏡を取りに行くということは事前には一切説明されておらず、いきなり「あり得ない視線」によってシートの上の双眼鏡が示されてしまう。あれだけ、反復するカメラポジションの厳密さにこだわっていたオリヴェイラが、ここではあっさりと規則破りをするのだ。つまりオリヴェイラにとっては、厳密に規則を守ること(作品としてのあるスタイルを確立すること)が問題なのでもないし、逆に規則を破って出鱈目さを示すことが問題なのでもなくて、「面白い」かどうかということが問題なのだ。ここで言う「面白さ」というのはつまり、様々な力が錯綜している「世界」が与えてくる「驚き」のことであり、その「驚き」の発見に対していつも開かれている状態のことを言うのだ。「それ」がただ「そのようにしてある」ということへの驚き、(例えばマストロヤンニの老いた猫背と、女優のスッと伸びた首筋の対比は、ただそれが「そのようにしてある」だけで「面白い」のだ)『世界の始まりへの旅』ではそのような「驚き」が始めから終りまでずっと持続している。『世界の始まりへの旅』について、その2
01/9/5(水)
●浅田彰氏の「i-critique」によると、オリヴェイラの『クレーヴの奥方』は古典的なテクストを悠然としたテンポで完璧に映画化したものだが、大時代的で紙芝居のようなものでもあり、そのことに自覚的なオリヴェイラは、映画のラストにブルジョアたちの世界の外側であるアフリカへと主人公を旅立たせるのだが、その姿は映し出されることはなくただ彼女からの手紙が朗読されるだけで、つまり「アフリカの現実」のようなブルジョア世界の外側で起こる事柄を、映画は決して捉えることが出来ないのだ、ということを示してもいる訳で、そのような意味で徹底した映画批判にもなっている、と言うことなのだ。勿論この言葉を素直にとってはいけない。これはとても遠回しにヒネったオリヴェイラ批判であって、彼の映画はどんなに完璧でも結局西欧のブルジョア的なものの粋をはみ出すことはない、と浅田氏は言いたいのだ。
だいいちオリヴェイラは、「映画」を批判するために「映画では現すことの出来ない限界」を示す、ことなどしない。そのような「否定」を介した表現や思考などとは無縁であって、ただたんに映画に出来ることをして、「出来ないこと」は「しない」というだけなのだ。ただ見せるべきものを示し、聞かせるべき音を響かせるだけなのだ。だからピリピリするほどエッヂの際立ったシューベルトと、ユルくてボケていて甘ったるいヘンなロック歌手の曲とが対置されるようにあっても、その対立に何か意味がある訳ではなく、ただそれがそれとしてそこにあるだけなのだ。それは『世界の始まりへの旅』でも変わらない。ほとんどぶっきらぼうとも思える素っ気なさで同一のカメラポジションが延々と反復される時、そこにあるものをそのまま示すことが出来れば、それだけで充分に見るに値するものがあらわれる、という世界の豊かさに対する確信があるのだし、(勿論イロイロと仕掛けは必要なのだが)映画は「映画に出来ること」をするだけで、そのような世界の豊かさに開かれていて、その幾分かを捉えることが出来るのだ、という確信に貫かれているのだ。
●『世界の始まりへの旅』で移動するワゴン車の内部のショットは4種類しかない。4人の登場人物それぞれを捉えるその4つのショットは、少しの狂いもなく同じ場所に据えられたカメラの同一のレンズによって撮影されている(と思う)。移動し、位置をかえるのは車の方であってカメラでも人物でもない。(しかし、車の移動による光の変化、走行する車の微妙な震動、映し出される人物の顔、表情、そしてその声などによって、少しも単調でも退屈でもないのだ。)ほとんどバカバカしいくらいに律儀な反復は、撮影される対象よりも、フレームとそのフレームの交代するリズムが先行してあって、撮影対象である人物はそれら従属しているようにさえ感じられる。フレームが先行すると言っても、あらかじめ監督なりカメラマンなりがイメージした「画」があって、そのイメージに撮影対象が従属しているという感じは全くない。ただ、はじめにひとつの「規則」があり(イメージがあるのではない)、その規則には何の根拠もないのだが断固としたものとしてあって、出演者も監督もスタッフも皆等しくその「規則」に従っている、という感じなのだ。この理不尽ともいえる規則の徹底は、しかし堅苦しさや単調さではなく、ユーモラスな「可笑しさ」を生み出している。人物は車の内部ではフレームに規定されて(まるで物のように)ほぼ動きを奪われてしまっているのだが、それによってかえって1人1人の肉体的な特質が生々しく露になっているようにも思える。(この、人物の「物」のような固着が、いきなり挿入される、シートの上の双眼鏡のショットを呼び込むのかもしれない。)
この映画にはロードムービーにつき物の、車窓から捉えられた外の風景というショットはない。窓枠というフレームを画面のフレーム内に入れることで、イメージが人称化して、車内にいる誰かの視線を感じさせてしまうようなショットは周到に避けられている。(ペドロ・マカオ像を発見するショットなどは、実に「不自然」に窓枠をフレームから排除しているように思える.)あるのはただ車の後方に取り付けられたと「思われる」、「まるで」自動車の窓から見た「かのように」移動するイメージ(画面)ばかりである。それらのイメージが、登場人物たちの乗っている車から見えるものである保障(例えば窓枠や車内の人物越しに外の風景が示されているような)はどこにもない。だから車の走行するシーンでは、車内にいる4人の人物それぞれの固定ショットと、彼らとどのような関係にあるのか明確でない、移動する風景のショットとが、希薄で危うい感じで結びつけられているだけなのだ。つまり一つ一つのショットが、他のショットとの関係が明確でなく、まるでそのショットがそれだけで独立してあるかのようにバラバラな感じでひしめいているのだ。
この映画は決して規則的に組み立てられたシーンからだけ出来ている訳ではない。廃墟と化したホテルの庭先でのシーンのように流麗な移動撮影もあれば、俳優が父親の姉と邂逅する応接間のような場所でのシーンように、目を見張るような斬新なショットの組み立てによって出来ているシーンもある。しかし、それらも含めて全体として、中味より先に、厳密に形づくられた「器」がある、という感じが強くあるのだ。だがそれは、中味よりも器が重要だ、ということを決して意味しない。オリヴェイラはまず厳密に器をつくり、そこに現実を満たしてゆく。(だからそれは「器」というより「捕獲装置」といった方がいいかもしれない。)ある「器」によって掬われた「現実」というのは、勿論その器によって「限定」されたものでしかない。そうだとしても、そこに少しばかりの「現実」が捉えられていることに変わりはない。オリヴェイラは、「思考が決して思考できないもの」をどのように思考するか、とか、「映画によって表象不可能なもの」をどのように表象するのか、といった考え方から自由であるのだ。それが限定されたほんの僅かなものであっても、そこに「現実」があり「事物」があるのなら、それこそが重要であり、そのことを肯定すればよい。不可能なことを夢想するのではなくて、可能なことを徹底してすればよいのだ。
01/9/6(木)
●オリヴェイラの映画においては、視線は容易には交わらない。人々は大概向かい合わずに並んでいるし、切り返しはギクシャクする。誰かがある人物を見つめていたとしても、その視線は一方的なものであって、相手からは見返されない。(例えば『アブラハム渓谷』で、エマは多くの人から一方的に見られる対象として存在しているし、『クレーヴの奥方』でクレーヴ夫人が見つめる相手であるロック歌手はサングラスをしているので、彼の見返す視線は画面では捉えられない。)『世界の始まりへの旅』においても、人物たちはほとんどお互いを見ない、という印象がある。車のなかでは当然、シートに座っているのだから同じ方向を向いているし、車から降りても、彼らは横に並んで同じ方向に目をやっている。彼らが見ているのは、川の向こうにある学校であり、廃墟と化したホテルであり、ペドロ・マカオ像であり、俳優の叔母である年老いた女性である。しかし彼らは決して同じ物を見ている訳ではない。彼らの視線は、ほぼ同じ方向を向いてはいても、結構勝手によそ見をしているのだ。例外的に彼らの視線を集中させるのは、終盤に登場する俳優の叔母だろう。(しかしそんな時でもマストロヤンニなどは部屋に置いてある剥製を見たりしているのだ。勿論剥製は彼を見返したりしないのだから、ここでも視線は一方的なのだ。そして彼はヘンな寄り目の表情をする。)いや、実はこの、俳優とその叔母が初めて会うシーンでのショットの構成はとても複雑で、必ずしも皆が叔母を集中して見ているとは言えない。しかし恐らくここで初めて、カメラがほぼ正面からしっかりと、そしてじっくりと人物を捉えるのだ。だから正確には、登場人物たちの視線が彼女に集中するのではなくて、この「映画」の視線が、ここで初めて1人の人物へと集中してゆくのだ。このシーンとこれにつづくどこかの暗い部屋のなかで叔母が語るシーンで、「映画」は1人の人物をジッと見つめることになる。(ここで捉えられる老女の眼差しは、恐らくこの映画で最も強い印象を与える眼差しであると思う。しかしこの眼差しは何処を見ているのか定かではない。つまり映画を観ている我々観客の老女に向けられた視線は、老女の眼差しによって応えられることなくはぐらかされ、自分の視線が一方的なものでしかない、ということを自覚せざるを得なくなる。)この映画としては例外的に、1人の人物に視線が集中してゆくとき、登場人物たちもまた、例外的にお互いを見ることが許されるのだ。ここで叔母の語るポルトガル語を理解出来ない俳優に対して、2人の人物がかわるがわるフランス語に翻訳をする。(翻訳者が複数であることは結構重要だ。)俳優は、語っている叔母を見るだけではなく2人の翻訳者を見ては問いかけ、彼らの話を聞き、翻訳者たちも、叔母の話を聞いては、俳優に話し掛ける。このことで今までバラバラに散っていて交わることのないように思えた視線や言葉が、ここで初めて「辛うじて」交錯するのだ。(ここで、俳優と叔母との交錯は、翻訳者という媒介によっているのだし、翻訳者たちと俳優との交錯は、叔母という媒介によっているのだから、当然ある程度噛み合わない部分もあるギクシャクとしたものではあるのだ。)そしてマストロヤンニ演じる監督だけがポツンと1人で、彼らからやや離れた場所でそれらの事柄を外側から見ている。(しかし、離れた場所から、つまり「一方的な視線」ではあっても、彼もその時初めて彼らをちゃんと見ているのだ。)
しかし実は、オリヴェイラの映画においては、視線が常に一方的であり、見つめる視線がそれに応えてくれる対象を持たず、見られた対象がそれを見ている明確な視点を特定しない、つまり見つめ合う関係(見る/見られる、という関係)が成り立たないというそのことによってこそ、イメージそのものの開放性や純粋性が保たれ、強度が生み出されていたのではなかっただろうか。あたかも車窓から見られたかのように見える風景が、実はそれが本当に車窓からのものであることを保障する根拠がどこにもないからこそ、あの移動する風景はあんなにも素晴らしいものとなったではないのだろうか。あるいは、叔母のあの視線があんなにも力強く感じられるのは、それが何処を見つめているのか定かではないからではなかったか。だとしたら、ぼくがここでとりあえず書き上げた「叔母という存在によって可能となった視線の交錯」という物語は罠でしかなく、すぐに廃棄されるべきもののかもしれない。
01/9/7(金)
●『世界の始まりへの旅』を構成するショットは無人称的であり、主観性は排されているのだが、その無人称の視線は基本的に「旅する人物」たちの傍らにいて、彼らとともに移動しているような視線である。しかし時おり、いきなりという感じでそれとは「異質のショット」が挿入される。その「異質のショット」は、まるで定点観測する監視カメラか、あるいは地縛霊の視点でもあるような、「その場所にずっといつづけている視点」であるように見える。そして、監視カメラの映像など普段はほとんど見られることがなく、何か事が起きた時にだけ、あとからビデオテープが巻き戻されて再生されるだけなのと同じように、「その場にずっといつづける視点」はあくまで潜在的なものであって、その近くを旅人が通りかかる時にだけ、彼らの視線と交錯することで顕在化するようなものなのだ。例えば、ワゴン車で旅をする一行が、途中、村の辻のような場所で地元の人に道を聞くというシーンがあるのだが、このシーンはこの映画では例外的に俯瞰からのロングショットで示されている。ここで恐らく映画はもう半ばを過ぎていて、ここまでずっとこの映画を観てきた者は、このショットが映画のなかで異質であることを感じざるを得ない。この「異質」な感じは何処からくるのだろうと考えると、まずこの映画ではここまで、全体的な状況を一挙に示すような形のロングショットはひとつもなく、その場の状況は常に、部分を示すショットの組み立てによって示されていたのだ、と気付く。そして、無人称ではあっても、カメラはいつもその土地の外部から来た旅人の傍らにあって、彼らとともに移動していたのだとも。つまりこの俯瞰のロングショットが異質なのは、これがまるでこの土地にずっと居ついている土地の神か何かによる視線のように見えるからなのだ。そしてこのショットから考えると、ここまであからさまに「異質」ではないにしても、同様の違和感を伴ったショットが他にいくつかあったことにも思い至るのだ。ペドロ・マカオ像のある家の前に佇む人物を、その家の庭の内部から門越しに捉えたショットや、俳優とその叔母が邂逅するシーンで、その家の応接間の様子をドアの外側から捉えたショットなどは、土地の神とまではいかなくても、その家の氏神とでみ言ったらよいのだろうか、つまり「その場所にずっといつづけている視点」によるものなのだ。そう考えると、誰もいなくなった車のなかで、ポツソとシートの上に置いてある双眼鏡を示すショットなども、常に車と共にありつづける視点による映像が、マストロヤンニの「よく見えない」とか何とかいう言葉によって呼び出され、顕在化したものと言えるのかもしれない。「その場所にずっといつづけている視点」は、普段は決して自らを主張しようとせずに忘れ去られたままで、自分が居るその「忘れられた場所」にずっと存在しつづけているのだが、その近くをたまたま通りかかった「旅する視点」とふいに交錯することで沈黙を破り、ふっとその姿を現す。これはこの映画のひとつの重要なテーマでもあるのだ。
この「その場所にずっといつづけている視点」をそのまま人物化したのが、終盤に登場する、俳優の叔母という人物だろう。彼女はこの「世界から忘れ去られたような場所」にずっと存在しつづけているのだ。彼女は言う。「世界は私たちのことなどすっかり忘れていて、戦争のときくらいしか思い出さない」と。つまり「旅する視線」による顕在化とは同時に、戦争に利用できるものを見つけようとする「権力による検索=捕獲装置」のようなものでもあるのだ。だから彼女は、いきなり現れた弟の息子だという人物をなかなか信用しようとはしない。世界に張り巡らされた視線の網の目に引っ掛からない者=物は、そこに確かに存在していても、常に忘れ去られている。マイナーであるということはそういうことなのだ。しかし映画はたんにカメラを向けるだけでその存在をそのまま示すことが出来る。しかし、何故それは示されなければならないのか(忘れ去られたままでは駄目なのか)、何故他の何かではなくそれを示すのか、それを示すという行為というのは一体どういうことなのか(それが何に貢献してしまうのか)、という「政治性」からは決して自由ではいられないのだが。『nobody』の雑誌版への違和感/クレール・ドゥニへの違和感
01/9/4(火)
●昨日、BOX東中野で『nobody』の雑誌版を手に入れた。大絶賛という訳にはいかないけど、それなりに興味深い内容だった。「佐藤公美インタビュー」が載っているというだけでもコアなファンは必見だろうし、まだ公開されていない(近日公開という話も聞かない)『月の砂漠』論(この文章は力作)を冒頭にもってくるあたり、挑発的と言うか、公開に向けて盛り上げたいという熱さが伝わってきて、イイ感じだ。ただ、雑誌全体として「青山真治」という作家を応援しようというのは分るのだけど、これだけ多くの執筆者がいて、みんながみんな声をそろえるように青山真治を誉め、判で押したように是枝裕和を貶す、(そういう印象をどうしても持ってしまう)というのはどういうことなのかとも思う。勿論ここで言われていることは正当なことで、たんなる贔屓のひき倒しでも下らない個人攻撃でもないことは充分に分る。それにしてもなかに1人くらい、『ディスタンス』もそう捨てたもんでもないんじゃない、とか、『ユリイカ』ってホントにそんなに凄いのか、みたいなことをちょっと別の視点から言い出すヒネクレ者がいたっていいはずだと思うのだが。どうしても、ある「場」が強制する「同質化された」価値判断のようなものの気配を、チラチラッと感じてしまう。(例えば、青山氏がまだ無名の監督で、何としてでも人々に青山という作家を認知させるのだ、という意図があるとしたら、このような戦略もアリかもしれないけど。)ある統一された趣味や価値観を「売り」にするような商業誌ではないのだから、1人1人がもっと自分勝手にやった方が面白いのではないだろうかと思うのだった。
●ちょっと引っ掛かったのは、黒沢清の『降霊』について書かれた加藤千晶という人の文章で、この文章自体はとても説得力のある面白いものだと思うのだけど、ただ最後に引用されている、『大いなる幻影』についてのクレール・ドゥニの言葉にどうしても違和感があるのだ。引用する。
《私にはとても素晴らしい映画に見えました。その素晴らしさは風だと思うんです。窓の外に木々が見えていて、その葉は風になびいていました。(...)確かに海岸に骸骨が浮かぶシーンは死をイメージさせます。けれども、この映画では常に風という「生」を意識させるものばかりが存在していました。(カイエ・デュ・シネマ・ジャポンHP「パリの黒沢清」よ
り)》
この言葉はカイエのHPで初めて読んだ時にも引っ掛かったのだが、今回この部分だけ抜き書きされているのを読んで改めて違和感を憶えた。ぼくに分らないのは、何故「風」が何の手続きもなしにいきなり「生を意識させるもの」となるのか、ということだ。ここでは「風」一般のことではなく、黒沢の映画で吹いている風にとりあえず限定したとして、それは何より「生」と「死」という対立とは無関係に、ただそこらじゅうに遍在するもののことではなかっただろうか。この文章で加藤氏は、黒沢映画の幽霊について、それは人の心のなかにあるものではなく、人間の意志とは無関係にその外側に「在る」もの、つまり他者であって、そしてそれが質量を持ったもの(=他者)として世界に存在するとしたら、それは視線を持っているはずで、つまり私が幽霊を見るだけでなく幽霊も私を見る、と書いている。幽霊の視線を受けること、幽霊と見つめ合うという緊張感に耐えるということ、それこそが決定的な恐怖であり、同時に世界へと向けられた映画の倫理なのだ、という加藤氏の文章の展開はとても説得力があると思うのだが、それが何故最後にいきなり風=生という図式によって「生の肯定」のような地点に着地してしまうのだろうか。繰り返すが「風」は生と死というシステムの外側に、それとは無関係にただ「ある」ものなのだ。人が生きていようと死んでいようと、そんなこととは無関係に風は吹いているのではいのだろうか。だから『回路』において黒く固着した死を、風はこともなげに吹き飛ばしてしまうのだ。(「風」は『回路』の物語の外側に存在しているのだ。)にもかかわらず「風」を「生を意識させるもの」としてしまうとしたら、それは風を生というシステムに隠喩として従属させてしまうということで、つまり幽霊を「私の恐いと思う気持ち」に還元してしまうのと同じことになってしまう訳で、それは「他者」の存在を、私とは別の存在を、認めないということになってしまうのではないだろうか。松田聖子の『青いフォトグラフ』/80年代は彼方へ
01/9/8(土)
●黒いワゴン車が道端で止り、ドアが開いてオッサンが降りてきた。開いたドアの中から松田聖子の『青いフォトグラフ』(たしかこんなタイトルだったと思う)が聞こえてきた。♪今一瞬あなたが好きよ/明日になれば分らないわ/港の引き込み線を/渡る時そう呟いた...。いきなり聞こえてきた松田聖子。オッサンと松田聖子との取り合わせも妙にそぐわないのだが、今、この場所に、この曲が流れているというそのことが、妙にそぐわない、と言うか、妙に空々しいことのように思えてしまうのだった。たしかこの曲は、どれくらい前だったか忘れたけど、石黒賢と二谷由里恵が主演で原作が宮本輝のドラマの主題歌だった。(この2人が大学生の役をやっても不自然ではないくらい前という事だ。大学のテニスサークルの話で、川上麻衣子のテニスウェア姿が妙にエロだった、という印象以外のことはあまり憶えてはいないのだが。)とくに好きでハマッていた訳ではないけど、割とよく観ていたと思う。特に好きではないと言っても、よく観てはいたのだから、当時のぼくの「感情」を惹きつけるようなものが何かしらあったのだと思う。それで、いきなり聞こえてきた松田聖子の曲によって、このドラマを観ていたであろう当時のことを生々しく細部までくっきりと思い出したかと言えばそうではなくて、逆に、ふいに聞こえてきたこの曲の、妙にそぐわないと言うか、古惚けて焦点の結ばない、何か遠くて白々しい感じが、そのまま当時の出来事の記憶や、当時のぼくの抱いていた「感情」のようなものの記憶と重なってしまい、それが霞んでしまうほど遠くにある、白々しくて嘘臭い違和感のあるもののように感じられてしまったのだった。当時のぼくを取り巻いていた空気感のようなものや、ぼくを支配していた「感情」のようなものから、今のぼくはなんて遠く離れているのだろうか、という感覚というのか。
ぼくは一体何を言いたいのか。つまり、道端に停まったワゴン車から不意に聞こえてきた松田聖子の曲が、聞き覚えのある、懐かしいと言ってもよいようなものであるはずなのに、それがまるで異次元から聞こえてくる音楽であるかと思えるくらいに、遠くて空々しい違和感のあるものとして聞こえてきて、特に好きだったという訳ではないにしても、そういうものを普通に受け入れていたであろう当時の自分との間に、決定的とも言えるような感覚の断絶を感じた、という訳なのだった。ただ、インターフェイス-データベース型世界観ではないけど、これはあくまで松田聖子(の『青いフォトグラフ』)というワードで記憶が検索された時の結果であって、全く同じ時期のものでも、もし全然別の曲が聞こえてきたのだとしたら、当時に対する感覚はまた別のものになっていたのだろうとは思うのだし、同じ松田聖子でも、曲が例えば『青い珊瑚礁』だったら、記憶はもっと生々しいものであったと思うのだ。天気の話/相米慎二の死
01/9/10(月)
●不安定な天気。割合明るい曇り空から、いきなり多量の水が落ちてくる。しかしそれはほどなく小雨にかわり、サラリとやんでしまう。湿って乱れた風が空気中に混じり込み、目には見えないマーブリング模様をつくる。吹き荒れる風が木々の枝や葉を不均一に揺り動かし、しかしいきなりピタッととやむ。空気の動きが全くなくなる。そこに湿り気がじわじわと染み出すように拡がる。また、雨がどっと落ちてくる。荒れた降り方だ。雨粒の大きさも均一ではないし、濃度も降ってくる方向のてんでバラバラだ。その雨もまた、すぐに力を失い、かすれたように消えてゆく。空気に不穏な感じが残る。台風が近づいている。腰痛持ちのYさんは、とても調子が悪そうだ。
気象が人間に与える影響は、絶大で、何か決定的なものがあるように思う。もともと生物は、ある特別な気象状況のなかでしか生まれ得なかったのだし、ある限定された気象条件のもとでしか、生き続け、存在しつづけることは出来ない訳だ。時間とか、あるいはリズムという観念も、ある一定の気象状況が反復的に回帰することから生れた訳だろうし。子供の頃のぼくは、朝からどんよりと曇っていて、学校へ行く途中あたりから軽くパラパラと振りだして、午前中のうちに教室の窓から見える風景を覆ってしまうくらいに雨がサーッと降ってきて、教室のなかに雨の湿った匂いがどこからともなくスーッと拡がってくる、という天気に弱かった。弱かった、と言うのは、そうなるとほとんど条件反射のように、身体全体が悲しさに貫かれてブルーに沈み込んでしまい、ほとんど泣いてしまいそうになるのだ。このことを人に話すと、お前は何て感傷的なガキだったんだ、と鼻先で笑われ、そんな「感性」はいらねえよなあ、とバカにされるのだけど(まあ、それももっともなことのだけど)、これは「感性」の問題なんかじゃなくて、もっと存在論的なと言うか、ぼくが存在してしまっている物質的な前提と関係があるようなものなのではないだろうか。何と言うのか、この時ぼくが感じていた「悲しさ」や「感傷」には全く何の理由も対象もなくて、つまり何の意味もないもので、しかし何の意味もないからこそ、その「悲しさ」や「感傷」こそが、ぼくが感じるあらゆる場面での悲しさや感傷という「感情」の基底をなすものなのではないのか。そしてそれは決して抽象的なものではなくて、ある具体的な気象状況と、そのなかにいる僕の身体との関係に結びついたものなのだ。(その条件下での、ぼくの身体に具体的な反応として現れたものとしての「感情」)つまり感情と言うのは、ある気象(暑いとか寒いとか湿っているとか乾いているとか風が強いとか、それら諸々の混合体)に対して身体が示す様々な反応によって生じたノイズが、心的な領域に染み出てきたものが元になって出来ていて、だから感情とは唯物論的なものなのだ。まあ、そういう大げさな物言いはとにかくとしても、ぼくはとても「お天気」に左右されやすい人間なのだ。(昔、中学生くらいの頃、たしか栗本慎一郎の本を読んでいて、「自分は根源的なことにしか興味がない。だから例えば「お天気」の話などには全く興味を持てない」みたいな事が書いてあって、多分これは私小説な何かの描写についての批判だったように思うのだが、それに対して、だって「お天気」ってスゲー根源的なことじゃんか、と随分反発を感じたのを憶えている。いや、当時栗本氏の熱心な読者だったんで。)
●相米慎二が亡くなった。台風情報を観ようと思って、つけたテレビに相米の顔が映っていたので、何かヤバい事件でも起こしたのだろうか、と思ったら亡くなっていたのだった。9月1日の日記で『風花』について書いた時には、まさかこれが遺作になるとは思ってもみなかった。90年代に入ってからの相米の作品については、やや冷めた態度をとらざるを得ないのだけど、相米がぼくにとって最初の映画作家であり、青春の映画作家であることにかわりはない。特に『ションベン・ライダー』は、80年代日本映画の産んだ最良の作品の一つであることは当然のこととして、あくまでぼくの「個人的な体験」として言えば、「80年代」とか「日本映画」とか、あるいは「映画」とかいう限定をとっぱらって、この映画を観てしまったことが、ぼくの人生のなかで最も重要な出来事の一つである、と言ってもいいくらいに貴重な作品なのだった。ビデオで観たのも入れれば、おそらく30回以上は観ているだろう『ションベン・ライダー』を、今、改めて観直そうという気にはなれないけど、とにかくとても動揺しているのだった。