阪本順治の『顔』をビデオで。
『佐藤信介ワールド・正門前行/月島狂奏』をビデオで
ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』
子供のかん高い奇声
夢をみた
ある日の会話。
スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』をビデオで
『みーんな、やってるか』と、たけし氏の冴えない側面
松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む
是枝裕和の『DISTANCE』を観る
高橋源一郎の『日本文学盛衰史』
日々の風景
松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)
マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』
ソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た
諏訪敦彦の『2/DUO』をビデオで
フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』
サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた
阪本順治の『顔』をビデオで。
01/5/19(土)
●阪本順治の『顔』をビデオで。これは素晴らしい。この映画がテアトル新宿で公開されていた頃、丁度ぼくは新宿で小規模な展覧会をやっていて、何度もその前を通っていて、面白そうだから観てみようかなあと思ったものだったが、結局やめてしまった。こんなことならその時にちゃんと観ておけばよかった。
お話としては、悲惨な話と言えるだろうこの映画が、しかし少しも悲惨な感じがしないのは何故だろうか。作中、豊川悦司が藤山直美に向かって、「お前がはしゃいでると、劣等感まるだしって感じで鬱陶しいんだよ」というようなセリフを吐くのだが、しかし実はそういう感じの鬱陶しさとは無縁の映画なのだった。引き蘢りの女が、自分を理解し保護してくれている唯一の存在である母親を失い、妹を殺して、母親への香典をかきあつめて逃亡する。腰を低く落として、がに股でドスドスと歩いてゆく藤山直美。彼女の逃亡の足取りは、寄る辺なく不安げなものであるのだが、同時にどこか解放された感じを観るものに与える。彼女は自分を保護してくれていたものを失って外へと放り出されるのだが、そのことによって、ワケアリの藤山直美が、世の中に点在する無数の「ワケアリ」の人たちと、接触し接続する機械が与えられた訳だ。(逆に言えば、彼女を二階の部屋に閉込めていたのは、母親の理解と愛情と経済力だったとも言えてしまうのだ。)彼女にとっては、母親の死を悲観したり、妹を殺してしまったことを後悔したする余裕などなく、ただその場から逃げるしかないし、逃げつづけるためには、逃亡中に出会う様々なアクシデントを、とりあえずはまるごと受け入れなければしょうがない。つまり、彼女を解放するのは、多分「逃亡」というその切羽詰まった状態なのだと言えると思う。
とにかくこの場所から逃げるしかない、一人で全て上手く事を運ばなくてはいけない、という切羽詰まった状況が彼女をある解放へと導いたとしても、状況が悲惨なことに変わりはないのだし、そこで次々に起こる様々な出来事は、卑小で馬鹿馬鹿しく、冴えないことばかりであるのだが、その卑小で馬鹿馬鹿しい事柄をことさら言い立ててグロテスクな笑いを誘うことも、ホロリとさせる人情話に仕立てることも、監督の阪本順治は周到に避けて、その出来事をそれ自体としてクールに示すことに徹している。ワケアリの藤山直美は、逃亡するなかでまるで不意の事故のように様様なワケアリの人たちぶつかり、何かしらの関係をもつ。しかし互いにワケアリであることから、(それぞれが抱えるそれぞれの「ワケ」によって)その関係は一時のものであり、一瞬の交錯の後に関係は解かれてゆくしかない。監督は、登場人物たちに対しても、過度な思い入れでも、過度な突き放しでもない、絶妙な、即物的な距離感とでも言えるような距離で描いている。(ぼくはここで、スピノザの有名なエピソード、蜘蛛を闘わせてそれを笑いながら見ていた、という「笑い」の視線を思ったのだ。)そしてここで何より素晴らしいのは、このような監督の、キャメラの視線に充分以上に拮抗している、俳優たちの存在であり、演技であるだろう。多くの俳優が、自分自身として「存在している」という抵抗感をカメラに対して示していて(これは「自己主張」というのとは違う)、特に主演の藤山直美は本当に素晴らしくて、周囲の状況や自分の置かれた立場に対して無関心で投げやり(つまり状況から隔絶されていて、反応が「鈍い」)な感じで、自分の身体をかったるそうにズルズル引き摺っているような感じでありながら、どこか不思議な部分で状況と繋がっていて、いつの間にかその状況のなかに入り込んで(順応して)しまう、妙なずうずうしさと言うか、生命感のようなものに貫かれているのだ。この人物は、悲惨な状況に置かれながらも、ほとんど「悲惨」という言葉とは無関係に(つまり「悲惨」なんていうのは、「言葉」にしか過ぎないのだ、という態度で)存在しているような、そんな強さとともにあるのだ。(撮影の笠松則通氏の仕事も素晴らしく、カメラを置く場所にも困っただろうと思われる、ワケアリの人たちの住む、ごちゃごちゃした乱雑な空間の雰囲気を、それぞれに的確に捉えていたと思う。)
ぼくはこの映画を観て、青山真治の『ユリイカ』に対する疑問をさらに深めたのだった。『ユリイカ』であの兄妹が「生きる」ことを邪魔しているのは、結局はあの家に残された財産であり、そして何より2人を保護し、2人のために生きようと決意した役所広司その人の存在なのでないだろうか。あの兄妹が、もっと悲惨で余裕のない生活を強いられていたとしたら、その「悲惨」のなかでこそ、余裕のない状況でこそ、生きることが可能になったのではないだろうか。兄が人を殺さなければならなかったのは、役所広司が保護者として存在する空間(あのペンション風の家や、バス)のなかから、壁を突き破って外へ出たいと願っていたからなのではないのだろうか。『ユリイカ』という映画の、どこか薄皮一枚隔たった感じ、耳に何かがつまってよく聞こえない感じ、即物的なものがグッと露呈する瞬間がない感じ、というのは、そういうところから来ているのてはないたろうか。『佐藤信介ワールド・正門前行/月島狂奏』をビデオで
01/5/21(月)
●『佐藤信介ワールド・正門前行/月島狂奏』をビデオで。これを観てみようと思ったのは、やはりどこかで『ひまわり』(5/7の日記参照)という映画が気になっていたからで(佐藤信介という人は『ひまわり』の脚本家でもある)、観て思ったのは、『ひまわり』の面白いところは、ほとんど脚本家である佐藤信介に由来していたのだ、ということだった。
●『月島狂奏』(16?/36分/95年)は、才能を感じさせる、とてもいい感じの映画。月島という土地、古い下町の建物のなかに高層マンションがニョキニョキと建ち、バブル崩壊で虫食いのように空き地が点在する土地の、夜から朝へと明けてゆく薄明るい湿った空気、夜露で湿った道路を歩く人や自転車、夏の蒸し暑さ。そのような舞台で、不意に父親が入院してしまった家族と、その周囲の人物たちの群像劇を、まるでエドワード・ヤンの初期を思わせるような乾いた情感と端正なショットの構成で綴ってゆく。
●『正門前行』(16?/66分/97年)は、『月島狂奏』で明確に才能を示した作家の、もはや才能を示すためだけに映画をつくっても意味がないという認識がはっきりと感じられる映画。映画を構成することで何らかの思考をくみ立てようとする意志によってつくられている。と言うか、観る者に思考をするように「誘う」ようにつくられている。ここでは『月島狂奏』のような「普通にいい感じ」よりも、むしろ才気ばしった「狙い」が先にみえてくるし、端正につくり込まれた細部もちょっとつくり過ぎという感じにさえみえてしまう。勿論それは非難されるべきことではなく、この作家の、自分の才能だけに安住することのない大きさを感じさせるものだ。
これらの映画を制作したアングルピクチャーズという会社(?)のHPに、西野基久という人が書いた『正門前行』の批評(http://angle.on-line.ne.jp/Nisino.html)が載っていて、それをざっと読んだのだけど、ぼくは全く同意出来なかった。ここには、映画を「知的」に読もうとするときに陥りがちな罠が示されているように思うので、申し訳ないけど引用しながら反論することを通じて、この映画について少し考えてみたい。『「リアル」といういかがわしさ』と台されたこの文章は、次のように始まる。
《 被害者不在の事件はいかに表象可能か。『正門前行』に課せられたのはこのような問いである。これにたいして主人公の神崎は、いかに映画をつくるかという問いを重ね合わせる。
物語は「ブレスレット盗難事件」の真相解明が基調となり、そのほとんどが事件を捜査する神崎の視点から描かれている。事件の被害者である小野寺は登場しない。だから、その真相が小野寺の口から明らかにされることはない。真相は隠され、前景化されるのは真相解明のプロセス自体だ。》
まずこの前提から違っているように思う。『正門前行』は確かに「ブレスレット盗難事件」を巡って展開されるのだが、問題になっているのは、被害者不在の事件をいかに表象するかということではなく、映画のなかで実際に喋られている「ブレスレット盗難事件」についての「噂=言説」そのものの方なのだ。この映画には事件の当事者である小野寺という女性は画面に一度も現れない。しかしこの当事者の不在は、別に大きな意味をもってはいない。(確かに『月島狂奏』ではまだ、不在の父親が、説話的な次元で強い磁力を発してはいるのだが。)何かが不在であると、すぐにそこに重大な意味があると思ってしまうのは、「知的」な思考の陥りがちな罠だと思う。この映画で描かれているのは、あくまで画面に登場してくる人物たちであり、彼らが噂=言説をどのように伝達し、それをどのように変質させ、それによって行動や認識がどのように影響をうけるか、ということなのだ。(どこかに真実としてある「ブレスレット盗難事件」をどのようにして表象するか、などということは少しも問題になっていない。)この映画の主人公は確かに「ブレスレット盗難事件」をネタにして映画をつくろうとしている神崎という男で、彼はそのために探偵の真似事もするのだが、この映画のもう一方の流れとして、神崎の映画の資金を暢達するために(神崎に内緒で)友人たちを尋ね歩く恭子という存在がいるのだ。映画はこの2人が一緒に朝食をとりながら会話しているシーンで始まり、その後別れた2人は、映画のラストに近くなって合流するまで、一度も交錯することがない。つまりこの映画には2つの同時に進行する流れがあり、「ブレスレット盗難事件」はその片方の流れにしか関係しない(最後に合流するところで初めて関係する)。まあ、神崎の方の流れが映画の主流となってはいるのだが、その神崎にしたところで、「ブレスレット盗難事件」の語り手=探偵という役割を、途中からはっきりと降りてしまうのだ。この映画は基本的に神崎/恭子というカップルの映画であり、この2人がそれぞれの意志でそれぞれの目的をもって別々に行動するにも関わらず、2人とも「人々を尋ね歩く」という同じ行動(身ぶり)を、お互いに知らないまましてしまっているというところが面白くもあるのだ。
《神崎は自作自演によって、この空白(被害者が不在であるということ)を狙いすましたように利用する。この点で『正門前行』は自己完結している。だがその反面、そこに置かれた事件の解釈(という行為)がきわめてうつろいやすく、とりあえずのものにすぎないことを、われわれは知っている。実際、この映画では登場人物がことごとく無責任な噂話を披露する。空白が空白として残る(在る)ことを示すためにのみ、その埋め合わせ作業は行われているかのようである。それどころか、この映画自体も、きたるべき本編を見ることの欲望をつかのま充足させるもの、つまり予告編であるといえるのである。『正門前行』は未だない映画に連結しているのだ。》
この映画で、登場人物たちがことごとく無責任な噂話をするのは、決して「空白が空白として残ることを示す」ための埋め合わせなどではなくて、事実かどうかも分らないいい加減な噂を、誰からどのように受け取り、その噂によってどのような行動が誘発されるか、あるいはその噂の解釈がどのように変化してゆくのか、という事が、登場人物たちの置かれた状況やその人間関係などを、あるいは他人に対する見方のようなのを、顕在化させるからだろう。つまり「ブレスレット盗難事件」を巡る噂話は、卒業制作を控えた美術大学の内部の人間同士の関係を顕在化し、また動かしてもゆく装置として採用されているのだ。第一、主人公の神崎がこの事件の捜査に乗り出すのは、映画のネタを得るという以上に、この事件の犯人であると噂されている人物(松永)が、恋人である恭子の元カレであり、普段からあまり良い噂を聞かない人物であるからという要因の方が大きいのだ。神崎にとっての興味は、はじめから「ブレスレット盗難事件」そのものではなく、松永という人物に向けられている。(不在の小野寺などどうでもいいのだ。)当初、事件の噂について懐疑的だった神崎が、松永の悪い噂を幾つも聞かされるうちに、すっかり松永が犯人だと思い込むようになるのだが、この変化(判断の混乱)の原因の1つに、恋人である恭子に対する感情があることは疑いようがない。こういう部分をみないで「空白」にばかり目をとられていると、この映画にとても繊細に仕掛けられている、人物同士の関係の微妙なズレや呼吸のようなものを、平気で見逃してしまいかねない。ましてや《この映画自体も、きたるべき本編を見ることの欲望をつかのま充足させるもの、つまり予告編であるといえるのである》などと言う考えは理解し難い。映画というのは、具体的に目に見えている映像であり、聞こえている音響であって、あらゆる思考はそこからはじまるのだと思う。
《最終場面、神崎にブレスレットが手渡され、映画が完結したと思われた瞬間、事件の他の解釈が発生する。(掛井と藤城は、神崎から奪ったメモを分析することによって、別の物語を再生させる意図を明らかにしている。)いいかえれば、映画『正門前行』の正当な出自が明かされ、ひとつの全体をなそうとした瞬間、他の場所で解消不能な分裂が生成されるのだ。事件の複数の解釈を束ねているのはブレスレットであり、それを媒介に登場人物たちの行為(解釈という)は交換されている。だが、われわれとしては、唐突に出現したブレスレットによって、この事件が代理されうるということよりも、まさにそのことによって、相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所さえ与えられてしまうことに注目すべきだろう。ブレスレットは事件を表象しつつ隠蔽する装置なのだ。》
《相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所》は、唐突に出現したブレスレットによってもたらされる訳ではないし、《事件の他の解釈》は、映画が完結したと思われる瞬間に発生するのでもない。事件の他の解釈は、映画が開始された当初から掛井と藤城というもう一組の「探偵」から何度も提出されているし、恭子の友人の口からも提出されている。つまりこの映画は始めから《相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所》としてあるのだ。そして、映画のラストに神崎の手にブレスレットが舞い込んだ後でも、事件の真相は曖昧なままで宙吊りにされている。(ブレスレットは何ら特権的なオブジェクトではない。)つまり「ブレスレット盗難事件」そのものについては、この映画の始めも終りも大して変わらず、よく分らないままなのだ。しかしそれは決して「表象の不可能性」などを示しているのではなくて、たんにこの映画では誰も本気で「ブレスレット盗難事件」について探ろうとなどしていないという事実を示しているに過ぎない。ただ、それぞれの人物が自分勝手な思惑や成りゆきから、噂を受け取り、それによって行動し、また誰かに伝達しているだけなのだ。それらの噂の流れを、超越的に俯瞰して捉えられる人物などどこにも存在しない。だからそれぞれの人物が、まるで松永がしているビリヤードの玉のように、バラバラに行動し、偶然にあっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、予期せぬ方向へ動いていってしまうのだ。人は全てを知ることは出来ず、自分の知っていること(や利害や感情)から物事を判断するしかない。主人公の神崎は、当初事件の無責任な噂について冷静で真っ当な判断をしてたのだが、松永が女子校生と歩いてるのを目撃して疑惑を感じ、調べてゆくうちに松永の悪い噂ばかりを聞くことになり、いつの間にかすっかり松永を犯人だと思い込むのだが、実際に松永と会ってみると以外にいい奴で、彼の話は噂とは全く違っていて、松永との間に友情すら芽生えかけるのだけど、ラストの女子校生とブレスレットの出現で、再び彼に対する信頼は揺らぎ疑いが生じてしまう。《映画『正門前行』の正当な出自が明かされ、ひとつの全体をなそうとした瞬間、他の場所で解消不能な分裂が生成される》のではない。解消不能な分裂は常に至るところで生成されつづけているのだ。我々の住んでいる世界では、解釈はいつも暫定的にしかありえず、ある解釈の成立と同時に解消不能な分裂は必ず生まれてしまうのだ。過去に起こった(知り得た)事柄を分析することである解釈を構成することはできるが、それは常に未来に起こる(知り得る)出来事によって書き換えられるという可能性とともにあるしかないのだ。そのような世界のなかに存在している人物たちが、それぞれの暫定的な解釈に基づいて行動し、それらが偶然にぶつかり、互いに影響し合いながらも、バラバラに動いてゆくのがこの社会という場所なのだ。(神崎と恭子との恋愛も、そのような社会のなかで「発生」しているのだ。)映画『正門前行』は、そのような世界像をたぐい稀な繊細さ周到さで構成しようとしているように思う。この映画における「リアルさ」とは、つまりそういうことなのだ。ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』
01/5/24(木)
●澁谷のユーロスペースで、ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』。『ベレジーナ』が傑作であるということは、直接的にも間接的にもいろいろと聞いていて、観る前からかなりの作品だろうと予想し、期待もしていた訳だけど、そういうこちらの予想などあっさり裏切ってしまう程に、これは本当にあっけにとられるしかないような傑作なのだった。本当の傑作というものは、こんなにも何げなく、当たり前の表情であらわれるものなのか。実を言うと、シュミットで傑作と言ったって、今どきそんな「傑作」を観せられたってなあ、という気持ちがないではなかったのだけど、そんな「傑作」よりも、ヴェンダースの失敗作の方がずっと刺激的なのではないだろうか、なんて考えがなかった訳ではないのだけど、傑作というのは、完成度が高いとかテンションが高いとかではなくて、ごくあっけらかんと、ただもうこれ以外にあり得ないと言うような形で「傑作」なのだ。こんな映画が現代に登場してしまって良いのだろうかと思えるくらい「完璧な洗練」を獲得していながら、1999年にしか制作され得なかっただろうという「現代性」も同時に兼ね備えている。
●この映画の素晴らしさについて、どのように言ったら良いのかよく分らないのだ。確かに、多くの人が言っているように、ルビッチを想起させるような、洗練を極めたコメディである訳だけど、だからと言って、古典を規範とした、古典のような完璧なフォルムへの回帰を目指したようなフィルムではなくて、例えば主演のエレナ・バノーヴァの魅力は、容姿も含めてその現代的な感じにあるのだし、出てくる老人たちの何とも言えない生き生きとした表情などは、『トスカの接吻』の監督だからこそ捉えられたものだと言えるし、この作品そのものも、ただスイスのみならず、現代のヨーロッパの姿に対する強い批評性を持ってもいるのだし、誰も本気にはしないようなとんでもない結末で平然と映画を締めくくるところなどは、いかがわしさの権化とも言えるシュミットならではのことだと言えるのだ。反復は常に差異として出現する。この、ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』が、いきなり1999年に転生してきたような映画は、しかし真面目な生徒がお手本に忠実に(あるいは、お手本に批評的な距離を導入しつつ)作り上げたようなものとは程遠くて(真面目な生徒というには齢をとりすぎてもいるし、何よりシュミットが真面目な生徒であるはずはないのだが)、まるで中空からいきなり湧いて出てきたかのような唐突な完成度によって出来ているのだった。(勿論、実際には数々のお手本があることは観れば分るのだが、それでもなお、「いきなり」な感じなのだ。)
●映画を観ることの「驚き」とは、つまりこういうことだったのだ、その昔、映画とは「荒唐無稽の反記号」だと、さる偉大な批評家が言っていたことは勿論憶えている訳だが、しかし今どきそんなことを改めて言い出すのは、何とも反動的で下らないことだという気持ちも持っているのだけど、それでもこんな映画に突き当たると、「荒唐無稽なものへの驚き」とか、「機械が透明に作動してしまうことの驚き」とか、そんな風な言葉しか見つからないのだった。しかもその「驚き」が、シュミット風の濃さにおいてではなく、いかにも堂々とした巨匠の仕事というような、あっさりとした単純さによって生み出されていることが、さらなる驚きなのだ。シュミットがあくまでシュミット自身でありながら、「シュミット」という作家名を軽々と裏切っている、その何とも人をくった、冴えた感覚が、この映画の隅々にまで行き渡っていると感じられる。勿論その裏切りは、あらかじめ「シュミットの観客」という人たちを想定してのことではなくて、もっと開かれていて自由なものに向かっているのだ。
●パンフレットには、青山真治氏による、まるで80年代に逆行してしまったかのような、ベタベタにシネフィル調の文章が載っている。《全体にエルンスト・ルビッチ的なシュールレアリズムの流れを汲む細部を絡めつつ、それをブニュエル的毒気で受け、スタージェス的な喧噪とともに転回し、結末はいかにもシュミット的な方法でつける。これが映画『ベレジーナ』である。》確かにこの映画の凄さは、このようにして凄い名前を並べることでしか言い様がないのだし、これらの流れを、ワイルダー=キャプラ的な、土臭い、ヒューマニズムに対する、都会的で畸形的なものの闘争だと位置づけるもの正しいように思う。しかしこのような固有名の羅列は、ヘタをすると「映画的な教養」による、正しい映画史上の位置付け(血統書)のようにも、見えてしまいがちだろう。しかし青山氏のやろうとしていることはそういうことではなくて、『ベレジーナ』という映画において作動している様々な機械=回路を、分析的に取り出してみて、その取り出した機械=回路に付けられた仮の名として、「ルビッチ的」とか「ブニュエル的」とか言うことができる、とのことだろう。しかし、その機械=回路に「ルビッチ的」とか「ブニュエル的」とか名付けられると言うことは、過去にルビッチとかブニュエルとかいう作家が存在したということであり、彼らの存在を尊重するということでもあり、それはつまり、映画には歴史があるということを尊重することでもある。正しい映画的な教養による血統書を尊重するということと、過去に偉大な作家あるいは作品が存在したという事実を尊重することとでは、微妙ではあるがはっきりとした違いがある。シュミットとは、何よりも過去を尊重することで映画をつくってきた作家であるのだが、その「過去」とは、正しい血統書などとは何の関係もないところに突如として出現するものであるところが貴重なのだ。
●現代に突如として現れたルビッチ的な洗練が、手垢にまみれた現代スイスのクリシェの真ん中を堂々と横断してゆき、そのなかから、エレナ・バノーヴァのような人物のエロや、嘘と欺瞞がそのまま凝固してしまったような存在でありながらも、同時に魅力的でもある数々の妖怪的な老人たちの徘徊する姿が浮かび上がってくる。そして終盤、ほとんど幽霊と化してしまったような人物たちによる、過去の彼方に埋め込まれてしまっていた遺物のようなローテク機械が、突然嘘のように透明に作動する様(チャールズ・ブロンソンの出ていた『テレフォン』という映画を、ちょっとだけ思い出したのだが)を映し出す映画は、懐古的であるのとは全く違った意味での、過去への尊重と恐れとをはっきりと示していて、痛快でありながらも空恐ろしい、身震いを感じるような映画=機械の作動ぶりなのだった。THE SPECTRE IS STILL ROAMING AROUND !子供のかん高い奇声
01/5/26(土)
●子供がしばしばかん高い奇声を発するのは、おそらくそれによって自分の身体の存在を確認しているのではないかと思える。声が喉を震わし、脳天から身体を突き抜けてゆくその感覚を感じることで、自分自身の身体像を、その運動性を、視覚的なものとは違った形で把握しようとしている、と言うか。そしてそれは、多分に性的なものと同質の身体的な快感をともなうもので、だからしばしば行為は、親などにこっぴどく叱られるまで、本来の目的を超えて歯止めなく増長していってしまう。つまりそれは、もともと外に対する働きかけ、親に対して注目してほしいという表現として発せられている行為ではなく、多分に自己完結的なものであるようにみえる。しかし、それは赤ん坊が泣くような、全くの「自然」に近い行為とも違って、子供は独自の狡猾さをもってもいる訳で、それが結果として周囲の他人の注目を集めてしまう、という事実も充分に知ってはいるのだ。子供の発する奇声、あるいは中学生とか高校生くらいのガキが必要以上にデカい声で笑ったり喋ったりしている声が、妙に神経に障ったり、苛立たしい感情を喚起したりするのは、そのような声の、自然でも自己完結でも表現でもないような独自の中途半端さのなかに、どうしても狡猾さや媚びのようなもののにおいを感じとってしまうからではないだろうか。
と、こんなことを考えたのは、土曜日の夜の駅前の至る所に陣取ってはギターをかき鳴らして歌っている奴らの間を通り抜けながら歩いている時で、風がなくてへんに生暖かいムシムシする空気とともに彼らの身体から切り離されることがないままで中空に漂い出てくるような甘ったれた声が鬱陶しく身体に纏わりつく感覚に促されてのことだ。夢をみた
01/5/28(月)
●夢をみた。小さなオープンカーで、友人たちとドライブをしている。この友人たちは、夢のなかでは友人という設定になっているが、現実のぼくの友人とは違う。そのことをぼくは、夢のなかで意識している。ドライブをつづけるうち、車は妙な場所へ入り込む。戦災にでもあったかのように、ボロボロに崩れた建物が達ち並び、建物の壁から剥げた塗料とか紙屑とか、とにかく細かい屑のようなものが、至る所で風に吹かれてヒラヒラ舞っている。生暖かい湿った風が、強くもなく弱くもなく、常に一定に吹きつづけている。風景の感じも何となく妙だし、人々の様子もどことなく変わってる。友人のうちの一人が急に表情を曇らせて、ここはぼくが生まれた地方と同じ人たちの場所だ、と呟く。お前、どこの出身だっけ、と聞いても、何も答えない。その男の導きで、小さな貧しい小屋のような家屋にみんなで入ってゆくことになる。小屋の内部は外にも増して細かい紙屑で溢れていて、障子や壁紙もびりびりに破けて、そのままだらりとぶら下がっている。そこの住民は、ぼくたちを遠巻きにして恐れるように眺めている。ここでは小屋全体で蚕を飼っているらしく、床に散乱している紙屑の下で、無数の蚕がガサガサと動いている。一歩、足を出すごとに、蚕を踏み潰してしまい、ブチッ、という感触が足の裏に感じられる。その感触に耐えられず、小屋に入る時に脱いで手に持っていた靴を履こうと思ったのだが、片方をなくしてしまったようだ。小屋の内部は以外と広くて、迷路のようにどこまでも続いている。所々に一塊になった住人たちがいて、ぼくらの方に非難がましい視線を送っている。迷路はいつの間にか外へと通じていて、ヘドロのように黒々とした、泥だらけの坂道を下っていた。そこでも片足は裸足だ。空も真っ暗で、道のまわりだけが、ぼうっと明るい。しばらくして坂を登ってくる警察の一団と出会う。警察は、ヘドロのように黒々とした泥にまみれた犬や象といった動物たちを荒っぽく強引に連行している。ぼくは、警察の犬たちに対する態度を許せないと感じ、抑え難い怒りが沸き上がってくるのを感じた。しかしその一方で、警察がこれをやらなかったら困るのは我々なのであって、彼らは、いわば「汚い仕事」をぼくらにかわってやってくれているのだ、ということを頭ではきちんと理解しているのだった。それでも沸き上がってきた感情を抑えることが出来ずに、警官たちに抗議をしようとするのだが、あまりの興奮で舌がもつれて言葉にならず、それでも、居ても立ってもいられなくなって彼らに殴りかかろうとしたのだが、足がもつれて転んでしまい、ヘドロのように黒々としていて妙に粘ついて嫌な臭いのする泥に、全身どっぷりと浸かってしまったのだった。ある日の会話。
01/5/30(水)
●よく晴れておだやかだった空に、いつの間にかどんよりとした雲がかかって光を遮り、風がザザーッと渡ってきて木の葉を鳴らす。「嫌な雲が出てきたねえ」「なんか、降りそうですよね。」「昨日みたいになるのかねえ、昨日はひどかったからねえ」「いや、このへんはそんなには降らなかったんですよ」「あ、そう、そうなの、西の方は明るかったからねえ、向こうは凄かったよ、車走らせんのに、ライトつけなきゃなんないくらいだから」「そんなに降ったんですか」「いやあ、凄かったねえ、驚いたねえ、今日もまた降るのかねえ」湿った風が次から次へと吹きつけ、木の枝がうねるように揺れる。植え込みのところでガサガサ音がするので目をやると、かなり太くて長い蛇が、身体をくねくねくねらせながらスルスルと薮の奥の方へ消えてゆく後ろ姿(?)が見えた。そのすぐ後にS君と会ったのだが、S君は縄のようなものを手に持って振り回していて、近づいてよく見ると、それは青大将だった。「なに振り回してんの、蛇がかわいそうじゃん」「こうやってないと噛まれちゃうんですよ、ほら、さっき捕まえようとして噛まれちゃいましたよ」と、右手を見せる。「何も、そんなにまでして捕まえなくても...昼飯にでもする気?」「みんなに見せようと思って、見せたら離してやりますよ」「尻尾の方じゃなくて頭を持たないと、だから噛まれちゃうんだよ」そう言えばS君は、去年の今頃も蛇を捕まえて写真に撮っていた。このあたりはまだ雨になっていないけど、東の方向から走ってくる車の車体には、細かい水滴がついている。Kさんに「さっき、蛇見ましたよ、青大将と、あとあれは確かヤマカガシだったですかねえ」と言ったら、「ああ、そう、じゃあ今日はきっと何かいいことあるね」と言われた。
01/6/17(日)
●駅に、ヤマボウシの花の白が目に鮮やかなポスターが貼ってあった。しかし、この白い、花に見える部分は総苞片(ソウホウヘン)と言って実は「葉」であるらしい。Kさんに、この辺にヤマボウシって咲いてますかね、と聞く。ヤマボウシっていやあ、あれだねえ、確かハナミズキの仲間じゃなかったっけ、(はあ、)ちょうど今頃の時期だねえ、あれはねえ、あれじゃねえか、あの、この北側の道路んとこにずっと生えてるやつ、あれ確かヤマボウシじゃなかったっけ、(ああ、あれがそうなんですか、)ねえ、あれ、そうだよ、落葉樹なんだけど、寒いころにも狂い咲きみたいにして咲くこともあんだよねえ、ちらほらとねえ、白いのがこうねえ、(寒い時期にですか、)うん、変な時期に咲くことあるねえ、あれはねえ、(へーえ、)赤い実をつけんだよねえ、ちっちゃこいの、でも、ここいら辺じゃあ気温のせいでかきれいに真っ赤になんないんだって言ってたねえ、Tさんがねえ、こう、だいだいってか、黄色っぽい赤ってか、真っ赤にまでなりきらないってねえ、なんでかねえ、あれねえ、山んなかなんかじゃあ真っ赤になるらしいけどねえ、Tさんそう言ってたねえ、気候のせいかねえ、こう、赤っぽいオレンジってのか、そんなくらいまでにしかなんないんだねえ、(駅にポスター貼ってありましたよね、)ああ、そうだねえ、あったねえ、あったよ、うん、今、ちょうど、時期だからねえ....。スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』をビデオで
01/5/31(木)
●スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』をビデオで。テレンス・スタンプとピーター・フォンダは、本人の役で出演しているという訳ではないのだけど、現実の世界のテレンス・スタンプ、ピーター・フォンダという人物の実在が、映画のフィクション内部の人物に、映画の外側にまでも拡がりだすような「厚み」を与えるような仕掛けになっている。つまり、映画の内部でテレンス・スタンプが演じる、強盗常習者である人物の過去を示す映像に、実際に彼が若いころに出演した映画(『夜空に星のあるように』というものらしい)の部分が引用されて使われているし、ピーター・フォンダの方は、彼自身ではないにしても、どこか本人を思わせる、60年代(映画のなかで、60年代とは正確には66年と67年のはじめのことだ、と口にするのだが、これは『イージー・ライダー』が撮影される少し前という感じの時期だ)の夢の後を生きているような人物を演じている。映画のなかで描かれる架空の人物を、実在する俳優が演じるということは、もともと、映画の内部に実在の人物を引用するようなものなのだが(特にスターの場合は、実際には彼は誰々だ、ということを誰もが知っている訳だし)、この映画では、俳優の過去の映像や、俳優についての観客の知識=イメージが利用されることで、その事実をよりはっきりと示している。例えばキューブリックは、実際の夫婦(撮影時はまだ夫婦だった)に夫婦の役を演じさせるのだが、それはつまり俳優の「現在」を引用しているのだけど、ここでのソダーバーグは、俳優の(についての)過去から現在に至るまでの記憶(あるいは時間)の「厚み」を引用していると言える。
これは、記憶を巡る映画だと言える。冒頭、かなり複雑に時制が入り乱れているようにみえるものの、観客が物語を見失うことは決してないし、映画は結局、全てが終わった後の帰りの飛行機のなかで事件を回想している、という形式にきれいに納まる。(しかしそれは映画の最後になってはじめて分るのだが。)つまり映画全体が「記憶」であるのだ。(時制の乱れ、多少の叙述の混乱はそこに由来する。)娘の死の真相(つまり、まだ知ることの出来ていない欠落)を探ろうとする、男の過剰なまでの執念は、何度も刑務所を出入りしていた男にとって、もともと娘についての記憶が欠落だらけであり、その記憶の欠落を埋めること(断片を補強し、再構成するこ)こそが愛情だという強い思いを持っていることからきている。男の行動が無謀なまでに大胆であるのは、彼が犯罪のプロであるというだけでなく、もはや現在などどうでもよく、過去の記憶(欠落だらけの断片的な記憶を再構成すること)のなかでだけ生きているような男であるからだろう。(しかしそのどうでもいい「現在」のなかで、2人の友人と出会う訳なのだが。この友人たちとの「友情」が、この映画の最も美しい部分かもしれない。)もう一方の、娘の死の原因であると疑われている男もまた、現在ではなく、過去の記憶の上に大きな屋敷を建てて住んでいるような男なのだった。この、過去に生きている2人の男の記憶が、一人の同じ女(娘)の、同じ言葉、同じ身ぶり(「警察に通報する!」)、によって不意に重なり合う時に、娘の死の真相が明らかになるのだった。
ソダーバーグは、この過去に生きる男たちの映画を、まるで他人の記憶をちょこっと借りてきただけ、という軽いクールな手付きで演出している。(他人のアルバムから、適当に数枚の写真を貰ってきて、それを並べ替えてお話をつくる、みたいな。)おそらくソダーバーグの世代から考えて、テレンス・スタンプやピーター・フォンダに特別な思い入れがあるとは思えない。つまりこれは、映画マニアが敬愛する人物を引用してオマージュを捧げるといった身ぶりとは全く異なっている。使える素材を使っているたけだ、というクールな距離感があるのだ。彼は、このいくらでも複雑に難解になりうる素材を、あくまで軽めのB級犯罪活劇という枠を外すことなく仕上げている。決して淀むことのないリズムで映画は進行してゆくのだが、それはひたすら滑らかに、というのではなく、所々に小さな「違和感」や「断層」を幾つも埋め込んでいて、むしろそれによってリズムが活気づけられる感じなのだ。(例えば、ピーター・フォンダの屋敷のパーティーで、テレンス・スタンプが巨漢のボディーガードを軽々と谷底へ突き落としてしまうような、小さな見せ場となるようなシーンを、室内にいるピーター・フォンダを中心にしたショットの窓越しにチラッと写すだけで、ごくあっさり処理してしまうかと思えば、そのパーティーで、テレンス・スタンプがピーター・フォンダを撃とうとして歩み寄り、結局ためらって止めてしまうだけの仕種を、何度もしつこいくらい反復して見せたりする。)「驚き」というほどに大げさなものではなく、「へえーっ」とか「そう来るか」という感じの小さな冴えを随所にバランスよく配置することで、映画の持続を支えているのだ。時制を複雑に入り組ませても、聞こえてくるセリフと示されている画面をズラしてみせても、ショットを断片化したり脈略なく短い回想ショットを挿入したりして複雑なモンタージュを試みても、決して説話を混乱させることはないし、マニエリスティックに過ぎてミュージック・ビデオみたいになってしまうこともない。こういう仕事を見せられると、ソダーバーグが今、アメリカの映画業界で重宝に使われているのも納得できる。ぼくは現在のアメリカ映画をそんなに熱心には観ていないのだけど、特に目新しいアイディアや、大きな予算や、話題性などなくても、演出の力だけでここまで面白く、新鮮に観せてしまうことの出来る人は、そう何人もいる訳じゃないだろうと思う。『みーんな、やってるか』と、たけし氏の冴えない側面
01/6/2(土)
●北野武の『みーんな、やってるか』という陰惨な映画をビデオで観ながら思ったのは、漫才ブームも終了し、『オレたち、ひょうきん族』のようなバラエティーも行き詰まりをみせていた頃、ビートたけし氏がテレビでやたらと量産していた、どうしようもなくやる気のないような詰まらないコントのことだった。『ひょうきん族』というのは、当時としては「新しい感覚」のお笑いだった訳だけど、たけし氏がその頃に追求していたのは、いかにも古典的な(古臭い)コントの設定を使って、そこからどれだけ沢山のバリエーションを展開できるか、というようなことだったのだが、そこには全く何の「冴え」も「やる気」も「新鮮さ」もない、ただひたすら「疲労」を蓄積させてゆくことだけが目的であるような、投げやりで機械的な反復があるだけなのだった。それは本当に、観ているこちら側が疲労してしまうような、不毛で詰まらないもので、またそれを、やる気もなく疲れ切っているのがミエミエなのにも関わらず、しつこいと思えるほどのかなりな量を制作していたのだった。キャスティングにしても、普通コントをやるときは、いわゆる芸人だけでなく、ちょっとした人気タレントとか、冴えた素人とかを適当に混ぜて「新鮮さ」を出したりするのが定番のやり方だと思うのだが、たけし氏はストイック(と言うよりも、ただ面倒臭いからという感じなのだが)なまでに、軍団とマイナーな売れない芸人だけでコントをつくっていた。(こういう、「無名性」にこだわるところなどは、後の映画のキャスティングなどにもみられるのだが。)彼らはたんにヘタクソな上にやる気もなく、古典的なパターンのバリエーションといえばすぐ思い出すような、吉本新喜劇みたいな洗練には及ぶべくもなく、と言うか、はじめからそんな洗練など狙ってさえいないという感じなのだった。よく、お笑いの芸人さんは、会場がどっとウケた時の快感が忘れられない、というような事を言うのだが、たけし氏は、本当は人を笑わせることが好きではないのじゃないだろうか、そんなことより、才能もやる気もない奴らのつくりだすクズのようなコントの、その「荒んだ」空気や、彼らの「荒んだ」雰囲気のなかに埋没している事を、「荒んだ」雰囲気のなかでひたすら自分の身体や感覚を疲労させて尽くしてしまうことを望んでいるのではないだろうか、というようなことを当時ぼくは思っていて、そのようなたけし氏の「荒んだ」実存に思い入れしつつ、どうしようもなく詰まらない、うんざりするしかないようなコントを結構沢山観ていたのだった。(まあ、今から考えれば、そのような思い入れはあまりに文学的なもので、それは、タモリ氏やさんま氏、あるいは紳介氏のようには、すんなりバラエティーに順応することの出来ない不器用な芸人であるたけし氏が、脱・漫才以後にもテレビ業界で生き残るための、必死の試行錯誤のひとつだったのかもしれないのだ。あるいは、たけし氏としては、「作品」としての「コント」や「テレビ番組」よりも、実生活での「軍団」や「芸人さん」たちとの関係や付き合いの方が重要で、作品としての「コント」などは、本当にただいいかげんに、投げやりにつくっていただけなのかもしれないし。それにしても、たけし氏には、「無名性」や「荒んだ空気」の方へと傾倒してゆくような傾向があることは、確かだとは思えるのだが。)
『みーんな、やってるか』という映画が、とりわけ陰惨なものに見えてしまうのも、現在から振り返ってみると、それが「事故」直前に制作されたものだと知ってしまっているからで、実はただの失敗作、映画も5本めで、最初のような新鮮さもやる気も何となくなくなって気が弛んだところに、たけし氏(たけし的手法)の弱点が一気に出てしまっただけだ、と言えないこともない。出だしの、カーセックスを巡る妄想の部分はちょと面白いけど(この部分だけ、クローネンバーグの『クラッシュ』と並べて上映したら面白いかも)、その後、ネタが続かなかった、というだけかも。松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む
01/6/3(日)
●松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む。どの本だか忘れてしまったけど、松浦氏の本に、《何ものをも表象しないし、何ものによっても表象されえないものが「女」だ》とかいうことが書かれていたと記憶しているのだが、つまりはそういう見方のことを「マッチョ」と言うのだ。これは丹生谷貴志氏が《男であることの恥ずかしさによって書く》というのと、一見近いようでいて全く違っていると思う。このような事実を、聡明な松浦氏が意識していないとは思えない。ぼくは、松浦氏が小説を書くということは、つまりは「マッチョ」に居直るということであるように思う。自分は今後、マッチョなエロジジイとして生きてゆくのだ、という開き直りこそが、松浦氏の小説であるのだ。詩人としての松浦氏が、世界にあらわれるあらゆる繊細な表情の変化のなかに官能性を見いだしてゆくことによって、マッチョなエロを解体しようとしていたのに対して、小説家としての松浦氏は、「女」を、世界にあらわれる繊細な表情の変化へと還元してしまうことで、マッチョなエロを完成させようとしているように、ぼくには見えてしまうのだ。つまりは、小説家である松浦氏にとっては、「女」が何を言おうが、それは木の葉が風に舞ってたてるサラサラいう魅惑的な音と基本的には変わらない、という態度で接するのだ。そうでなければ、女の白い背中のイメージと、満月の白い光のイメージが、あんなに見事に重なり合うはずはないし、あるいは、暗闇のなかで空中浮遊する女の白い身体のイメージと、白い紙に毛筆で引かれた「一」という黒い文字のイメージとが、白黒を反転させた同一のイメージとして、あんなに見事に納まってしまうはずがない。この小説において、巴=朋絵は、それ自体として過不足なく満たされた完全な記号であると同時に、だからこそ何も意味しない空虚な記号でもある訳だが、朋絵という記号がそのように機能する時に、隠蔽され、無かったものとされてしまうのは、実際に朋絵という役割を演じさせられた具体的な身体の存在であり、その身体を描写するために使用されたひとつひとつの言葉たちであるというのは、この小説にも示されている通りだろう。朋絵の「正体」が徐々に明らかにされてゆく過程(と言うか、イメージが徐々に流動してゆく過程)で、揺らいでしまうのはただ主人公であり話者でもある大槻という人物にとっての世界(意識)であるに過ぎず、そこでは朋絵であることを強要された身体の存在はいつの間にか不問に伏されてしまうし(あの、地下に隠されたヘドロで満たされた水槽のなかに捨てられているのだろうか)、冒頭からかなりの量費やされてきた、朋絵に関する描写の言葉は、具体的、即物的な言葉として存在していたのではなく、ただ大槻と言う主体の内部にのみ従属していたに過ぎないことになってしまう。
●この『巴』という小説の説話的なつくりは、かなり通俗的なものだと言っていいと思う。(形而上学的推理小説?、しかしこれをミステリーと言うとミステリーファンは怒るだろう。)松浦氏は、この通俗的なパズルを、充分に楽しみながら筆を進めているようにみえる。何しろ、「女」の説話的な機能や、舞台設定、あるいは暴力やポルノ的な雰囲気の漂わせ方などをみると、思わず村上春樹(『世界の終り...』や『ねじまき鳥...』)を連想してしまうくらいだ。しかし何よりも、朋絵という女から連想されるのは『エヴァンゲリオン』の綾波レイだろう。実は、松浦氏は密かに『エヴァンゲリオン』のファンなのではないか。あの、地下の実験室のような場所にある水槽のなかに、無数の綾波レイの出来損ないが浮かんでいるシーンなどを思い出すと、そのままあのイメージが、この『巴』という小説の基底をなすイメージと繋がっているようにさえ思えてくるのだ。そう考えると、主人公であり話者である大槻という男の、鼻につくほどの自己中心ぶりなども、碇シンジのそれとピッタリ重なるようにも思えてくるのだった。まあこれはほとんど冗談だけど、でも、この34歳の男(ぼくと同じ年齢だ)によって語られる意識=世界は、エヴァ的(精神年齢14歳的)な幼く稚拙な自己中心的な意識=世界の姿を、おそらく確信反的な居直りによってなぞったものとして設定されていると思われる。精神年齢14歳のマッチョ・エロジジイが、綾波レイを追って、ハードボイルド・ワンダーランドを駆け抜けてゆく。『巴』はそんな小説である、と言ったら言い過ぎだろうか。
●松浦氏がここで問題にしているのは「イメージ」なのだ、ととりあえず言ってみることも出来るかもしれない。つまりここで言う「女」とは「イメージ」のことであり、「イメージ」とは実体もなくいくらでも反復=複製が可能であり、それには決して触れることも近寄ることも出来ないにも関わらず、目の前に歴然として現前してしまっているもののことだ、と。例えば、「イメージ」とは、アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンで無造作に反復させるマリリン・モンローやジャクリーン・ケネディのようなものであり、スクリーンの上で微笑むファム・ファタールのようなものであり、つまりは深層(物質的な基盤との連続性)を欠いた表層それ自体のことである、と。深層とは無関係にそれ自体としてしかありえない「イメージ」こそが、《何ものをも表象しないし、何ものによっても表象されえないもの》なのだ、と。まあ、これが『平面論』などで展開されている、松浦氏による1880年以降の西欧においてあらわれた近代的な「イメージ」なのだった。だからつまり、朋絵とは始めから最後まで「イメージ」であるのだから、それが物質的な基盤としての具体的身体を持たないのは当然のことなのだ、と言えるのではないか。しかし、確かに「イメージ」は深層(物質的な基盤)とは異質な切り離されたものであるのだが、物質的な基盤=基底材なしに「イメージ」が立ち上がることが出来ないのも事実なのだ。スクリーンで微笑んでいる女の微笑みが、スクリーンやフィルムやプロジェクターとは切り離され、独立したものではあっても、スクリーンやフィルムやプロジェクターなしに、女の微笑みがあらわれることはないのだ。基底材は、それが「見えなくなる」ことによって「イメージ」を立ち上げる。しかし、それはそこにあるのだ。近代芸術というのは、簡単に言ってしまえば「イメージ」と「基底材」との血みどろの闘いのことでもあるのだ。(例えばセザンヌ。)だからぼくとしては、朋絵という「イメージ」を立ち上げることを可能にした身体が(あるいは描写が)、作中でいつの間にか消え去ってしまって、それが無かったかのように扱われてしまうことには、どうしても引っ掛かってしまうのだった。(朋絵に限らず、この小説のなかに幾つか登場するはずの「死体」も、即物的には顕在化せず、大槻の夢のなかと、ヘドロで満たされた水槽のなかへ隠されてしまっているのだった。)
●以上のように、否定的な事ばかりを書き連ねてみても、ぼくはどうしても松浦氏の小説の魅惑には逆らうことが出来ないのだった。ごめんなさい、すごく好きなんです。途中、何度もうんざりするような引っ掛かりを感じつつも、『花腐し』も良かったけど、『巴』もスバラシイなあ、本格的に小説家っぽい、「俗っぽさ」と「汚れ」が身についたのだなあ、なんて思いながら読んでました。多分、ぼくはだらしなくもこの小説を、おりにふれて何度も何度も読み返してしまうでしょう。《空気が汚れのない水気をたっぷり含んでどこもかしこもかすかに振動しているような夏の早朝》に咲いたアサガオについての記述を引用してみる。
《色というものがこれほどじかに瞳に染みてくるものかと今さらながら子供のように感嘆し、ここから染料が採れるむのもむべなるかなと思う。これはとてもじゃないが眩しすぎる、世界のこんなみずみずしさにはとうてい太刀打ちできるものかと心中で呟き、暗い部屋に戻って湿った布団の上にまた横たわるのだが、瞑った瞼の裏に浮かび上がる幻影のアサガオの眩しさは、わたしの心をわずかなりと浮き立たせてくれもするのだ。》是枝裕和の『DISTANCE』を観る
01/6/5(火)
●澁谷のシネマライズで、是枝裕和の『DISTANCE』を観る。物凄い傑作と言う訳にはいかないにしても、とても面白い映画だった。この映画がどんな映画かというと、夜も更けて冷えてきて、伊勢谷友介とARATAと浅野忠信が焚き火を囲んでいるところに、後から夏川結衣がやってきて輪に加わる時に、火の前で手を擦りあわせる、その、手を擦る音がよく聞こえてくるような映画なのだった。そういう音響をわざわざ強調しているというのではなくて、そういう微妙な物音や表情がよく聞こえよく見えてくるような、そんなゆるやかな時間の流れのなかに入り込むような映画なのだ。夏川結衣が、突然前触れも無く帰ってきた夫を追い返すために裸足のまま玄関先まで出ると、案の定足の裏は汚れているのだが、その足の汚れを、とても生々しくリアルに感じられるような時間が流れている。それは「足の映画」とかいうようなテマティズムやフェティシズムとは無関係の、ああ、裸足のまま出れば、それは汚れるだろうなあ、ザラザラしていて冷たい感触なのだろうなあ、と納得するような、世界の微細な表情に改めて気付かされるような感覚なのだ。
ピーンと張った緊張感が漲っている訳でもないし、ぎゅっと凝縮されたような充実した時間が流れているのでもない。何か驚くべき過剰なものが露呈している訳でもないだろう。どちらかというとルーズでゆるーい時間が流れているのだが、心地よく微睡んだり、トランス状態へと誘い込まれたりはしない。大したことは何も起こらないままズルズルと進んでゆく時間は、それでも常にどこか軽い違和感を内包していて、緊張が完全に弛んでしまうことはない。かなりゆったりとしているのに、外に対する感覚は鋭敏に開きつづけるのだ。ショットは明確に(段取りによって)演出されている訳ではなく、ハッとするような映画的空間が出現する訳でもない。俳優の演技はイイ感じに脱力している。おそらく、俳優は状況設定だけを指示されて自由に動かされ、カメラはそれを即興的に追っているのだろう。撮影が特に素晴らしいということもない。つまり、これは、映像と音響のモンタージュによって、ある充実した、凝縮された物語やイメージを示すような映画ではないのだろう。映画を観ることによって、この映画でしか得られないような質の「時間の流れ」を体験する、というような映画なのだ。
物語も、ゆったりまったりとしながらもどこか所在無いような宙吊りの時間を描く。明らかにオウムを想定したと分る宗教団体による無差別テロが物語の背景にある。舞台は事件の数年後。実行犯の遺族(実行犯も教団によって殺されている)4人は、毎年その事件の日に、彼らが殺された山奥の湖へ供養に行くことになっている。そこで元信者(実行犯の一人である筈だったが、事件の直前に脱退した)に会う。彼らは車やバイクを盗まれて帰ることが出来なくなる。そこで、実行犯の遺族4人と元信者は、実行犯たちがアジトにしていた山小屋で一夜を過ごさざるを得なくなる。既に事件から時間が経っていて、それぞれの生活があり、供養も形式的なものになりつつあるが、かといって事件の記憶から解放されている訳でもない遺族たちと、実行犯たちと行動を共にしながら直前で逃げた元信者が、アジトで、朝までの微妙な時間を過ごす。何か決定的な対立が起こる訳でもなく、お互いに理解を深め親交を深める訳でもなく、遠慮がちで途切れがちで核心を避けたような会話が、ぽつりぽつりとつづき、それぞれの過去が回想として浮かびあがる。そこで何ごとかが起こる訳でもない微妙な時間がゆったりと過ぎてゆき、それでも5人の間には「一晩を同じ場所で過ごした」という不思議に親し気な空気も漂うのだが、しかし一人一人は全くバラバラな別の現実と繋がっているという距離を忘れることはない。
この映画の物語を、「あの事件」に関する考察/批判として捉えるならば、全然充分ではないという意見が正しいだろう。特に、映画の後半、「あの事件」の意味を「父性の不在」という方向へと強引に着地させようとする態度は同意しかねる。しかし、この映画が「あの事件」の批判たりうる強度を持つとすれば、それはこの映画に流れている「時間」の質に、どこまでも散文的な強度、ゆるーく流れる何も起こらないような、それでいて微細な差異が立ち上がってくるような、そんな時間の質にこそあらわれていると思うのだ。
(時間の質というのとは少し違うかもしれないのだけど、常に複数のチャンネルと接続している感じ、というのも重要だろう。例えば、寺島進は、妻と同級生が教団に出家するというのに激昂して、喫茶店で2人にタバスコを投げ付け、2人が去った後は絶望して頭を抱えているのだが、割れたタバスコの瓶を片付けにきたウェイトレスには、そんな状態でありながらも、「すいません」と一言言うのだ。これはたんに彼のそういう人柄を描いている、というだけではないように思われる。つまり「現実」に向き合うというのは、ある特別の一点によって世界と触れあうのではなくて、同時に複数のチャンネルと向き合うということだと思うのだ。この映画の登場人物たちは、それぞれ別個に複数のチャンネルと向き合っている。山奥のアジトという、今、ここの場は、そのうちの1つであり、複数のチャンネルのうちの1つを共有しているに過ぎないのだ。)
この映画で素晴らしいのは、何といっても俳優たちだろう。(特に伊勢谷友介と浅野忠信)何よりも素晴らしいのは、一人一人の人物の身体的な差異がはっきりとあらわれている、と言うことだろう。つまりそれは同じ場所に居ながらそれぞれが別のチャンネルをもっているということだろうと思う。それは決してカサヴェテスの映画のように、身体が圧倒的に過剰なものとして露呈してくるには至らないのだが、だからと言って物語やキャラクターに還元されてしまうことはない。それこそが映画というものなのではないか。
01/6/6(水)
●昨日の日記で触れた是枝裕和の『DISTANCE』が、決して「物凄い傑作」ではないのには幾つか理由がある。
昨日、夏川結衣の足の裏の汚れが、テマティズムともフェティシズムとも無関係だ、と書いたけど、この映画が、あからさまに「水」と「炎」という主題に貫かれていることは、誰が観ても明らかなことだろう。宗教をテーマにした映画が、森のなか=自然を舞台にした「水」と「炎」という主題の交錯によって描かれる。これだけでもう、かなり恥ずかしいことだ。最後にARATAによって、湖にかかる桟橋が燃やされ、湖と炎が同一のフレームに納まってしまうシーンを観た時などは、あーっ、やっちゃったよ、と正直思った。こういう「象徴的なイメージ」に頼ってしまったら、この映画がそこまでやってきた、「時間の質」を全て台無しにしてしまうのだ。この映画は、教団の教祖を安易に「父」になぞらえてしまったりする所も含めて、本当にキワキワなところがあるのだ。あるいは、山のなかで、自動車という便利な移動装置、携帯電話という外への通信装置を奪われて、人と人とが本当に「向き合う」みたいな(あるいは「距離」を確認する、みたいな)物語にも読めてしまいかねないし。(しかし彼らは決して「向き合」ったりはしない。同じ場所で時間を共有しながらも、一人一人がそれぞれ別の方向を向いてるように思う。別の方向を向いた人たちが、偶然から同じ場所に留まらざるを得なくなった、という状況で流れる微妙な時間こそがこの映画なのだ。)つまり、「読み方」によっては、もうこういうのはカンベンしてくれ、というような最悪の映画のようにも見えてしまうものだ。
しかし、監督によって明らかに意図されている「水」と「炎」というイメージの交錯は、この映画ではそれほど鮮明な効果を発揮しているようには見えない。なんかやたらと水辺の風景ばかりが目につくなあ、と思いはするものの、「水」のイメージが特に際立って何かを訴えたりはしないし、伊勢谷友介がスイミングスクールでバイトしていたりするのも、あざとい「水」という主題系のひとつと言うよりも、こんなにイイ身体してたら、やっぱ裸を見せときたくなるよなあ、という印象の方が強い。山小屋での焚き火にしても、炎のイメージが際立つのではなく、炎を前にした人々の佇まいとか、「焚き火を囲む時間」の方が前面に出てきているように思う。この映画では、幸いなことに「水」と「炎」という象徴的な主題の交錯は不発に終わっているのだ。(だからこそ、最後の桟橋炎上のシーンが、あんなに取ってつけたような感じになるのだろう。)是枝裕和という人は、象徴的なイメージを物質的な生々しさとして出現させるような才能とは、徹底して無縁であるように思える。
この映画で重要なのは、メタ・レヴェルで映画全体を制御しているような主題=イメージではなくて、あくまで具体的に流れている時間の質であり、俳優の演技であるのだ。ここで言う、俳優の演技というのがまた微妙なもので、これをいわゆるドキュメンタリー・タッチの自然な演技と捉えるのは間違っているだろうと思う。ここにみられるのは滑らかな「自然さ」というよりむしろ「小さな違和感」の集積のようなもので、「手持ち無沙汰」とか「所在なさ」という言葉で言われるような、滞る感じ、ピッタリとは決まっていない感じが幾つも折り重なってゆく様だと言える。そのひとつひとつは強いものとは言えないかもしれないが、しかしそれらは決して自然さや物語には回収されてしまわず、ノイズとして引っ掛かりつづける。その微妙にズレたこなれない感じを消してしまわないための、即興なのではないだろうか。しかし、監督の是枝裕和は、自らの俳優に対する演出意図を明確には掴み切ってはいないのではないかという危うさも感じられ、それが弱さでもあると同時に、そのことが微妙な揺れを映画にもたらしているようにも思えた。高橋源一郎の『日本文学盛衰史』
01/6/7(木)
●なんとなく、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読みはじめて、半分くらいまで(「原宿の大患3」まで)読んだ。つくづく高橋源一郎という作家は、「感傷的」な作家なのだなあ、と思う。明治の作家たちの群像を描いていると言えるこの小説の登場人物たちが、自分に新たに芽生えてしまった「内面」というものを表現するための「言葉」をまだ持つに至っていなくて、自分がいつの間にか持ってしまっていた「内面」と、書いてしまう「言葉」とのあいだのズレに苦しむのだとしたら、高橋氏の場合は、自分が持ってしまっている「古臭い文学的な内面」と、自分が使うことの出来る「現在の言葉」との間にあるどうしようもないズレに苦しみつつ、そのズレ自身をみつめることよってアクロバティックなまでに捩れたテキストを生産している、という感じか。そして、「現在の言葉」を使用して構築されているはずのそのテキストは、何故か古臭い文学的な感傷でどっぷりと満たされてしまっているのだ。この、形式と内容の不一致というか、捩れ工合が高橋氏の小説の特徴であり、そこから、独自の「感傷」や「寂寞感」のような、魅力の中心をなすものが生み出されているのではないのだろうか。しかし、いかにそれが「現在の言葉」の使用による果敢な実験であるとしても、その落とし所がいつも「古臭い文学的な内面」における亀裂であり、湿った「感傷」であるという事実はどうしようもなくあるのだ。高橋氏はとてもクラシックな作家である。勿論、それは尊重されるべき事柄ではあるが、でもぼくが今、現在を生きているときに感じているリアリティは、高橋氏の小説とはかなり違ったものであるということは、どうしようもなく感じてしまう。
基本的に「湿った感傷」によって特徴づけられる高橋氏のテキストは、しかし何故かAVを素材にしている時に、ふっと乾いたナンセンスのようなものに触れる瞬間があるように思う。とても充実した、緊密に構成された高橋氏的テキストで滑り出し、「硝子戸の中」から「HANA-BIみたいな散歩」のあたりでは、しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』を思わせるような、シュールなイメージの集積が何とも良質の抒情を描きだす高橋氏の言葉たちは、そこから「布団98・女子大生の生本番1」のあたりでがらりと表情をかえる。高橋氏のAV物といえば『あ・だ・る・と』も良かったけど、ここではさらに明治の作家(主に田山花袋と島崎藤村、そして石川啄木)が加わることで、厚みが増し、時空も錯綜して、立体的になるのだ。「布団98・女子大生の生本番1」から「我々はどこから来たか、そして、どこへ行くのか4」までの展開は本当に素晴らしいと思う。登場人物である明治の作家たちのキャラも、このあたりらシャープに立ちはじめるし。高橋氏のAV物が素晴らしいのは、おそらく高橋源一郎という人が、テキストを通じて世界と接している人で、AVというのが、いかに日々、泡のように大量につくられ、消費されて消えてしまうような風俗の一部だとだとはいっても、それは制作されたものであり、ビデオテープという基底材に定着されたものであり、それを制作する人(つまり「作家」)が存在するもの、つまり一種の「テキスト」であるからだろうと思う。それは「ガングロに白メッシュのコギャル」のように、必ずしも「テキスト=言葉」には回収されない「存在」であり、日々不安定に流動しつづける「風俗」そのものであるようなものとは違うのだ。勿論、「ガングロに白メッシュのコギャル」というのも「言葉」に過ぎないのだが、その言葉が指示する対象や、その言葉の他の言葉に対する位置がとても不安定でうつろいやすい「風俗」としての言葉なのだ。事実、「ガングロに白メッシュのコギャル」という言葉は数年前にくらべて確実にインパクトがなくなっているし、それが何か突出した意味を表象するような言葉ではなくなっている。その上、その指示対象である「ガングロに白メッシュのコギャル」自身が、今や絶滅の危機にさえあるのだし。逆に言えば、高橋氏は「風俗」を描くときでも「風俗」のただなか(あるいは「風俗としての言葉」のただなか)において描くのではなくて、比較的安定したAVという「テキスト」を必要としてしまう、というのが、クラシックな作家としての高橋氏の限界であるとも言えるのだ。
ともあれ、田山花袋や島崎藤村のテキストと、現代の風俗的なテキストであるAVが(あるいは、「露骨なる描写」と「ビデオという装置」が)交錯したところに浮かび上がってくる「布団98・女子大生の生本番1」から「我々はどこから来たか、そして、どこへ行くのか4」までの展開は冴えていて、『日本文学盛衰史』の後半部分を続いて読みすすめてゆくよりも、この部分だけ何度も読み返した方がいいのではないか、とまで思ってしまうのだった。(この部分に続く「原宿の大患」の最後で、モーツアルトとか、死を前にした病人とかを出してくるような展開は、ちょっとどうかと思う。こういう所が、高橋源一郎の最も嫌な部分だとぼくは思うのだ。あと、どうでもいいことだが、「原宿の大患」の冒頭で「ぼく」という人物の娘の名前が「茉莉」になっているので、当然この一人称の「ぼく」は現代に出現した鴎外のことだと思って読んでゆくと、実は「高橋」という現代作家なのだった。これは意図的に引っ掛けようとしているのか、それとも高橋氏は、実際にも自分の子供に「茉莉」と名付けているのだろうか。)
01/6/14(木)
●外に雨の気配を感じながら、一日中部屋に籠っていた。高橋源一郎『日本文学盛衰史』の後半部分を読む。前半の感想(6月7日の日記)に付け加えるべきことはあまりない。と言うか、後半は全然面白くなかった。後の方へいけばいくほどボロボロになる感じ。(ボロボロと言うよりぐズルズルぐちゃぐちゃヘロヘロという感じか。)涙腺の緩くなったオヤジの酔っぱらってする青春談義。(オレたちの頃あなあ....。昔はなあ....。)あらゆるアプローチは、「感傷」と「郷愁」へとだらしなく雪崩れ込んでゆく。(つらい、悲しい、寂しい、苦しい、ぼくちゃんのこの気持ち分かってよ...。)高橋氏によっふ過去から呼び出された明治の文学者たちにしても、だんだん、サラリーマンとかが何故か自分を織田信長とか徳川家康とかになぞらえて語るのと変わりがないようにみえてくる。「大逆事件」を意識して書かれている章(後半では「WHO IS K?」)だけは、辛うじて最低限の緊張感を保っているように思えるけど、その「WHO IS K?」にしても、最終的には「漱石と啄木のすれ違い」みたいな「感傷的な」シーンに着地してしまうのだ。(漱石による「ぎこちないのだ」という緊張感の漲ったセリフは、結局、漱石と啄木の面会のシーンの「しんみりとした寂しさ」へ解消されてしまう。)こうしてみると、明治の文学者たちはたんに高橋氏の感情移入の対象でしかなく、この小説はハナから「歴史」に対する緊張感などとは無縁のものだったのではないかとさえ思えてしまう。「やみ夜」という章は、おそらく意図的に通俗的で紋切り型の青春小説の文体を用いて書かれているのだと思うのだが、この章などを読むと、「通俗的で紋切り型の青春小説」へのパロディーとしての距離感というものよりも、ああ、この人は本当はこんな風に書きたいのではないだろうか、という感じがとても強くしてしまうのだ。「ケツの穴がムズムズする」ような文章というのは、こういうもののことを言うのだろう。ちょっとだけ引用してみる。《その晩、ぼくたちは遅くまで話をした。北村さんと彼女の熱い言葉の応酬の余韻が残るなかで、ぼくたちは話を止めようとはしなかった。最初のうち敵意を剥き出しにしていたまんも、いつの間にか彼女と同じ意見を吐くようになっていた。ぼくたちはみな若く、そして一瞬も休まず変わりつづけていたのだ。(略)「朝よ」といったのは彼女だった。ぼくたちは海岸に繰り出した。ばら色に染まりはじめた海から生ぬるい風が吹いてきた。「泳ぎましょう」彼女はそういうなり、いきなり着ていたスリップドレスを脱ぎすてると、海に向かって走った。》ひえーっ、「青春」じゃん。ここまでやってしまえば、少なくともこの部分に関してだけは、決して「嫌い」ではないけど。笑えるし。最後の方は、かなりいい加減に流して読んだのだけど、それでも辛かった。「文学的な、あまりに文学的な」などは、考えられる限りで最低の、文学オヤジ的たわ言だと思う。ふん、それでもかわいいって言ってくれる人が沢山いるんだから、いいんだもん、という高橋氏の声が聞こえてくるような気もするのだが。日々の風景
01/6/8(金)
●一斗缶から黒々とした液体が零れている。そのなかには、だらしなくふやけて膨らんだ吸い殻がびっしりと浮かんでいる。パチンコ屋の店員が、吸い殻入れのなかの濁った水を、店の表の下水道に捨てている。吸い殻が下水道へ落ちてしまわないように、大きな茶漉しのような笊をかけている。道の隅にしゃがんで、重そうに一斗缶を持ち上げている女子店員。タール混じりの真っ黒な水が垂直に垂れる。時々、濁った水を吸ってふやけた吸い殻が一斗缶のなかからポロポロッと零れ、笊の上に落ちる。店の自動ドアが開いて、なかからの音が溢れ出てくる。店内からの光とネオンの光。
●夜9時すぎ、本屋の二階にいる時、外から何やら不穏な叫び声と、それにつづいてやけにかん高い笑い声が聞こえ、それが何度か繰り返された。ざわついた妙な気配。表で何かあったのだろうか、と思った。本をレジへ持って行って、お金を払い、階段を降りて外へ出ると、もう既に騒ぎの気配は全く無くて、普段通りに大勢の人たちが乱れることなく行き来していた。しかし、少し先の駅前のあたりで、やたらと大声を張り上げている男がいることに気付いた。近づいてゆくと、何のことはない、「明日、6時から、○○ホールで、都議会議員選挙のための討論会を行います」と叫んでいるのだった。しかし、声を枯らして叫んでいるその男は、拡声器さえ使っていないし、近くでビラを配っている人がいる訳でもなければ、のぼりが立っている訳でもない。人々の喧噪が渦巻き、バスのエンジン音も聞こえ、ビル風も吹いている駅前の騒音のなかで、そのなかに呑み込まれ、たった一人で、通らない声を張り上げているのだった。
01/6/9(土)
●夜中の3時前、ふいに一羽の小鳥がピーピーとかん高い声で鳴き始めた。その声が少し開いた窓から入ってくる。辺りはまだ真っ暗だし、鳥の声が聞こえてくるような時間ではない。かしましい夜の虫の声がジンジンと響いている季節でもなく、しーんと静まったなかで、その声は気に触るほどキンキン耳につく。勘違いに気付き、そのうち鳴き止むだろうと思っていたのだが、まるで、自分が場違いにたててしまった音に自分で驚き、その思い掛けなく周囲から浮き立ってしまった音に我を失い、自分の声に反応するようにさらに鳴きつづけ、鳴きつづるうちにさらに興奮が増してしまってまた鳴きつづけるという風に、いつまでも鳴き止まない。鳥の声と言うより金属の擦れ合う音のようにも聞こえてくる。はじめは、ただ、うるさいなあ、と思っていただけだったのが、その声に応える者もないままに、ただ一羽だけで、留め金が壊れてしまったかのように鳴きつづける声に、ふと恐怖のようなものさえ感じてしまう。ものぐるおしい、ヤバい感じ。
01/6/13(水)
●ドアを開いて、アパートの廊下へ出ると、真新しい畳のようなにおいをがしていた。表へ出るとかなり強い雨が降っていて、傘をとりに一度部屋まで戻った。郵便受けの脇に生えている、一年じゅうわさわさと豊かに葉をつけている人の背丈ほどの木がびっしりと水滴をつけていて、蛍光灯がそれをぬらぬらと照らしだしている。毒々しいほどの黄緑。傘をさして駅まで。
リノリウム貼りの電車の床は、濡れた靴で歩くと引っ掛かる感じでキュッ、キュッと音がする。傘の先から垂れた水が床に溜まって、表面張力でこんもりと盛り上がる。電車の床、傘の先端の尖った部分、表面張力で盛り上がる水たまりから、やがて一筋つーっと流れる。これらの映像を目にすると、別に実際に見たという訳でないのに、何故か「地下鉄サリン事件」を連想してしまう。あれは確か、水に溶けたサリンの入ったビニール袋を床に置き、実行犯がそれを傘の先端でつついて穴を開けたのではなかったか。ぴんと張りつめたビニール袋に、ぷちん、と穴が穿たれ、そこから一筋の水がつーっと流れた、のだろうか。
01/6/15(金)
●粒が細かくて密度の濃い雨が、静かに吹きつづける風に流されながら次々と落ちてくる。それ程は強くない風で、重そうに葉をびっしりつけている枝がなまめかしくゆっくりと揺れ動きつづけている。四方八方に伸びている木の枝は皆、水分をたっぷりと含んだ葉の重みでしんなりとしなって垂れている。沢山の葉のそれぞれに雨粒が当って、その音が重なってチリチリと響く。建物の屋根を伝って、ヒサシから落ちてくる水滴が、地面に当ってたてる音が規則的に響く。しっとりと湿って、黄緑色にぼうっと輝いているようにみえる芝生を、濃い青の雨ガッパを着た清掃員がくまでで引っ掻いている。濡れた土のにおい。濡れた草のにおい。濡れた髪のにおい。
ちょうどここからは、木の影になって身体が隠れてしまう場所で、黒い傘をバサバサッと開いたり閉じたりして水気を払った人がいて、その傘が一瞬、やけに大きなカラスが羽ばたいているように見えた。それは、この建物の裏にカラスが巣をつくっていて、子供を育てているというそのカラスに襲われた人がいるらしい、という話を今朝聞いていたからかもしれない。スピーカーから割れた声でがなりたてている選挙カーの声が、墜落してくるんじゃないかと思えるほどの轟音で飛んでくる米軍機にかき消される。でも、雲った空で姿は見えない。
01/6/19(火)
●帰り、まだ音がつづいているので、雨が降っているとばかり思って傘をさすのだが、もう雨は止んでいて、ずっと持続して聞こえていたのは、アトリエの前の道路から斜面を下った谷底(と言うほど大げさなものではないが)に流れている川の音だった。やや水嵩の増した川の流れの音が、いつの間にか耳のなかで雨音と入れ替わっていたのだった。やけに濃いもやがかかっていて、ふたつの小さな山に挟まれた狭い住宅地が、白い霧状の水粒に覆われている。小さな山の斜面の道を下ってゆく。もやで視界がきかず、街灯のオレンジの光が滲んでいる。強い水のにおい。湿度が高いのに、不思議に重くはない空気。駅までの道の途中の住宅の切れ目に、鬱蒼と葉をつけた巨木が1本あって、なぜかそこだけ周囲と比べて一際明るく強い光の街灯が設置されているのだが、その、街灯の光に浮かび上がって立つ巨木の下を通りかかると、どう聞いても蝉の鳴き声としか思えない、ギーギーいう虫の声がかなり派手に、場違いな感じで響いていた。間違えて土中から出てきてしまったのだろうか。それとももうそんな時期なのか。松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)
01/6/10(日)
●松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)。この本の中心をなす「修辞的身体」という文章を、大学の頃図書館で初出の本(現代哲学の冒険4『エロス』)からコピーして、何度も読み返した憶えがある。ぼくは基本的には「そういうタイプ」の人間なのだ。でも、今はちょっと駄目だ。『口唇論』なんかにしてもそうなのだが、松浦氏のこの手の文章は、読み始めてすぐ、そのあまりのナルシズムの強さに「うっ」となってしまって、それ以上読みすすめることが出来なくなってしまう。(小説だとすんなり読めるのだが。)だからこの本をぼくは今、第2部と第3部しか読むことができない。
松浦氏はここで、現在の電子的なメディアにおける「イメージ」の「直接的」で「無媒介的」なあり方を批判し、「イメージ」のなまなましさとは、「媒介されたもの」のなまなましさであり、その「間接的」な遠さや隔たりによって、「媒介するもの」の不透明な厚みによって、その抵抗を感じそこへゆっくりと溶け込んでゆく過程において、浮かび上がるようなものなのだ、としている。だいいち、電子的なメディアによるイメージが、「直接的」で「無媒介」なものとしてあらわれるとしても、それは「電子的なメディア」という「媒介するもの」の効果でしかなく、そこには明らかに「媒体」が横たわっているにもかからず、それを隠蔽するような力が働いているとしたら、それこそ危険なのではないか。
ここでの松浦氏の「電子的なメディア」に対するイメージが、あまりに通り一遍なものであり、一方的な「決めつけ」のような気配を確かに感じはするものの(例えばインターネットにおける情報が断片化し拡散してゆくような効果を、『エッフェル塔試論』などにおける「空気」というような主題と結び付けることは可能なのではないか、とか。)、基本的にはこの指摘には納得させられる。確かに「イメージ」が直接性を追求してゆくとすれば、そこにはほとんど反射に近いような「素早い」反応しか呼び起さなくなってしまうだろう。(しかし、ここでも、東浩樹氏の言うような「過視的なもの」という逸脱も起き得るのだ。)この、イメージによる素早い反応がいかに危険なものであるかは、凶悪な犯罪などが起きた直後のメディアの反応や、それにつられて人々が口にしてしまうとんでもなく短絡的な感想などによって、嫌と言うほど感じさせられているではないか。発信と着信の間に分厚い不透明な層を差し挟むこと。その層の内部でイメージがある「遅れ」の時間のなかで乱反射する様を、それが「遅れて」来るまでの時間の差を、「待ち」の姿勢のまま耐えつつじっくりと見守ること。この「遠さ」こそが我々の生きる空間であり、「遅れ」こそが生きる時間でるとさえ言えるのかもしれない。例えばリアリズムにおける即物的な「物質」の露呈は、イメージが直接的に示されることによって発生するのではなく、むしろその「媒体」の不透明な抵抗感によってもたらされるのだった。クールベのリアリズムは、物を見えるままに描写することによるのではなく、むしろ油絵具の物質的な抵抗感を強調することで、つまり視覚的なリアルに抵抗するような形でなされている。
しかしここでさらに重要なのは、この「遠さ」や「遅れ」がけっして一元的なものではなく、我々は同時に複数の「遠さ」複数の「遅れ」のなかにいるのだ、ということだ。一方に近代的な遠さと遅れとともにあるイメージがあり、それと断絶したもう一方に電子的な直接性に訴えるイメージがあるのではなくて、それは同じ場所に同時に、折り重なってあるのだ。(単純に言って、反射による素早い行動が全く起こせないとしたら、我々は生物学的に「生きて」行くことが難しくなっしまうし。)だが、ここで松浦氏は、それを性急に一元化し、絶対化してしまっているようにみえる。「帝国の表象」という文章でカフカの『皇帝の綸旨』という短編を取り上げる松浦氏は、この小説にボルヘス的な閉じられた迷宮のイメージによる解釈をあたえることで、発信と受信の間にある「待ち」の時間(つまり媒介するものの不透明な厚み)を永遠化してしまうのだ。廃墟のような帝国の内部=外部を彷徨いつづけて、決して届くことのないだろう皇帝の言葉を、「夕暮れごとにわが家の窓辺に坐って」待ちつづける「きみ」という形象。松浦氏が「情報論的な早漏」とでも言うべき現在のメディア空間を批判して、このような「永遠の中間」みたいな形象を持ち出してくるのは理解できるが、しかし、永遠に訪れることのないものを待ちつづける、というのは、いくら何でもロマンチックに過ぎるのではないだろうか。誰が永遠に来ないものを待ちつづけることが出来るというのか。「待つ」という不安定な姿勢は、それが訪れるまでの時間が「零」かもしれないし「永遠」なのかもしれないという不確定さのなかでこそ初めて可能になるものなのではないのだろうか。いつ来るか分らない、もしかしたら永遠に来ないかもしれないのだが、すぐに来るかもしれない。待つことはこのような寄る辺無い時間に耐えることであって、そのような時間を永遠化=絶対化してしまうと、それはたんなる神話に成り下がってしまうのだ。「絶対的であり、かつ空虚な唯一のもの」を「永遠」に待ちつづけるのではなくて、バラバラにやってくる複数のものを、その都度それにふさわしい姿勢で「待つ」しかないのではないだろうか。マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』
01/6/11(月)
●銀座テアトルシネマで、マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』。これはもう必見。透明でどこか淡い感じの光のなかで、黒が黒々と輝き、白が繊細に浮かび上がり、白に近い薄い水色がこれ以上ないような美しさで映える。水色の衣装をつけた黒い髪の女が、白いシーツに包まれて今にも消えてしまいそうに弱々しく語りかける母親のベットの傍らに立っている。背景にある家具のシャープで艶のある黒さ。別に何か特別なことをやっている訳では全然ないのだろうと思うのだが、こんなに艶のある画面を最近ちょっと見たことがない。それは勿論、撮影とか照明とかの技術の素晴らしさでもあるのだろうが、それだけではなく、カメラの前に人物をどのように立たせ、どのように動かして、それをどう捉えるのか、についての野性的な嗅覚の持ち主であるオリヴェイラの、恐ろしいほどの眼差しの力によるのだろう。キアラ・マストロヤンニが、ふっと立ち上がる、わずかに身をかがめる、窓の外へ視線を投げる、そのほんも僅かな動きの度に、その場の空気がぐぐっと揺れ、大きく撹乱する。彼女のどんな些細な動きも見逃すことは出来ないという張りつめた緊張で画面を観つづけるしかない。思い返してみても、演出は「あっけない」と感じるほどシンプルなものだ。シンプルと言うより、ほとんど投げやりとすら思える部分もある。(しかし投げやりさすらも「的確」なのだ。)にも関わらずこの空気の濃厚さは何なのだろうか。いや、たんに濃厚な訳ではなくて、スカスカな感じと濃厚さが、何とも言えない妙な形で「あっさりと」同居している。
冒頭の、いきなり「あっさり」とカトリーヌとクレーヴが出会ってしまう(と言うかクレーヴがカトリーヌを見初める)宝石店のシーンを、切り返しと言っても良いだろう2つの構図の単純な交差によって「あっけなく」描いてしまうところから、もうすでにオリヴェイラの術中にすっかりハマッてしまっている。だから次のシーンで母親とその友人が、娘(カトリーヌ)について、思いっきり説明的なセリフをやり取りしていたとしても、もう無条件に受け入れるしかないのだ。その2人のツーショットで示されていた画面が、幾つかのショットを挟んだ後に切り返しになるのだが、その時に友人の方を示すショットの背景には、大勢の観客の姿が映り込んでいて、それまでそこは人影のまばらなカフェかパーティー会場だと思っていたのが、多くの人の集まるコンサート会場であることが判明し、それと同時に、いつ頃から聞こえていたのか、ザワザワという人々のざわめきの音が被せられていることにふっと気付く、という仕掛けになっている。こういう演出が特に目覚ましいという訳ではないはずなのに、このシーンを目にすると、ああ、これが映画なのだ、とほとんど白痴的に動揺してしまう。こんなに単純で些細な事柄が、なぜここまで凄いことになってしまうのか。
しかしこの映画は、ただ些細な事柄を繊細に、かつ濃厚な官能性ととに描いているだけの映画ではない。何よりも「笑える」映画でもあるのだ。何が笑えると言って、妙チキリンなロック歌手が出てきて、それがもう単純に笑えるのだ。この、黒沢年雄を思わせもする、変な帽子を被って、変な靴を履いていて、変なカッコ悪い歌を歌うロック歌手は本当に得難い逸材で、ただもう立っているだけで笑ってしまう。屋敷の玄関のドアを開くと、そこにサングラスに妙な帽子のロック歌手が立っている。たったそれだけで、キアラ・マストロヤンニを中心に成立していた、息づまるほどに緊迫した官能の空気に亀裂が生じ、もうただ笑うしかないという状況になるのだ。一体誰がこの2人の秘められた恋愛などを信じることができるだろうか。しかし、この映画の真に驚くべきところは、その信じ難いことがあっけらかんと成立してしまっているという、恐るべき「雑居性」にこそあるのだ。映画には、このロック歌手のコンサートの模様がかなり長く挿入されるのだが、そのシーンを観ながらぼくは思わずドリフターズの『8時だヨ、全員集合』の劇場中継を連想してしまったほどだ。(オリヴェイラは絶対に「ロック」をナメ切っている。そうに決まっている。)しかしそれでも、このシーンはこの映画のなかできちんと成り立ってしまっているのだ。もっと驚くことは、この映画のなかでも特別に美しいと思われる、仰角で捉えられた窓越し(半透明のカーテンが揺れている)のキアラ・マストロヤンニのショットと、その窓の下で間抜けに突っ立ってるロック歌手のショットが、こともあろうに切り返しとして接続されて交互に示されてしまっているところがあるのだ。えっ、こんなことがあっていいのか。しかし、それはちゃんと成り立っているし、この映画の完成度をいささかも損なわせることがないのだ。いや、それどころか、そういう「雑居性」こそがこの映画の恐らく誰にも真似の出来ない素晴らしさであり、この荒唐無稽で反時代的な構築物のなかに世界のリアリティが「あっけらかん」と顔を覗かせてしまう理由でもあるのだ。恐るべし、オリヴェイラ。ソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た
01/6/16(土)
●ビデオを整理していて出てきたソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た。このどうしようもない退屈さと、でろっとした気持ち悪さはやはり素晴らしい。この退屈で淡々とした時間は、しかし決して一様なものではない。基本的な流れとして、タジキスタンの国境附近で駐屯する兵士たちの日常の時間が捉えられているのだけど、その兵士=人間の日常という「基本的な線」はノイズのようにそこに差し挟まれる様々に異質な時間によって埋め尽されて、見え難くなってしまうほどなのだ。淡々としていながら、リズムは常に微妙に変化しつづけている。それは作品全体として調整されたり、効果を狙って構成されたリズムの変化ではなくて、様々な異質なものを受け入れ、それらに向かって開かれ、それらを平然と接続させてしまうような懐の深さやおおらかさによっているように思う。そしてそれは、ビデオという装置とも深く関わっている。タジキスタンの乾燥して荒れた風土は、ビデオ特有の電子的でのっぺりとした画質によって妙に平板なトーンへと変換されてしまうのだが、そのことによって、恐らく現実にその場に立つのとは全く異質のリアリティーが浮かび上がっている。ビデオによって捉えられた自然、気象の変化や大気のなかの湿り気の変化、風向きがかわり、砂ぼこりが舞い上がり、雲がもくもくとあらわれ、雑草がもくもくと茂っている様は、自然とも人工とも違う、その中間にだけ発生するようなジャリジャリとした何ともいえふない触感をもっている。そして何よりもビデオの特性を生かしていると思えるのは、ファインダーも覗かないで回しっぱなしにして撮影されたとしか思えないショットが、ある意図をもって(しかし、その意図もよく分らない場合が多いのたが)撮られたショットが混在していることだ。ビデオカメラを扱ったこかある人なら誰でも、いつの間にかスイッチが入ってしまっていて知らないうちに撮れてしまっていた映像の不思議な生々しさに驚いたことがあるのではないか。その誰でも知っているはずの生々しさ(あるいは寒々しさ)を、こんなにも見事に意図的なショットと接続して作品化した例は、ぼくの知っている限りでは他にはない。(おそらくソクーロフは、撮影前にそれを狙っていた訳ではなくて、撮影の後、自らが撮ったビデオを観ることで、あるいは編集しつつあるなかで、それを発見したはずなのだ。)それはつまり、偶然によってしか撮影することのできないような「異質なもの」と「作品」との接続なのだ。しかしそれを受け入れることによって、作品は作品としての持続性や統一性を失ってバラける一歩手前まで行ってしまうのだが。機関銃を撃っている兵士のショットの後に接続された、カメラの前を横切るバッタの映像の驚きは、それがバッタを撮影しようと思って撮ったのでは決して撮ることの出来ないであろう、まさに置いてあったカメラの前をたまたまバッタが横切ったショットだからであって、だからこそそこに、人間が感知することの出来ない、人間とは無関係の時間が露呈してしまうのだ。そしてそれが、気象の変化や、個人の力を超えた戦場という場所、その戦場での人間の営み、そこに生えている草花、などの映像と平板な電子的ビデオ画面のヌラッとした質感によって平然と接続されてしまうのが凄いのだ。この作品を構成する映像たちは、どこまでがきっちりと意図されて撮られていて、どこからが適当に流して撮られたのか判然としないし、何よりこの『精神の声』という作品自体が、何を狙って何を描こうとしているのかよく分らないのだが、その分らなさのなかで幾つもの「異質なもの、異質な時間」が錯綜し、結びついていて、そこから何ともいえない気持ちの悪い触感がヌラヌラと染み出してくるのだ。この作品が何か「潜在的なもの」を「顕在化」しているとすれば、それはおそらく「ロシア的な魂」のようなものであるよりもずっと深く、「ビデオ的な装置」のもつ潜在性であるように思う。こんなことを言うとソクーロフ(やその信者)は激怒するだろうが、この作品にはアダルト・ビデオから感じられるものと近い感触さえ感じられもするのだ。AVを支えている物語は、うんざりするようなマッチョで性器中心主義的なイデオロギーである訳だが、実際のその映像を注意深く眺めれば(しかし、AVを素面で観るというのは、全く寒気のするような「痛い」行為なのだが)、そんな自らの物語を裏切って解体してしまうような(ポルノグラフィーとしての存在価値を危うくするような)無気味な感触やノイズに溢れてもいるのだ。AVの観客は、自らがマッチョなイデオロギーに欲情しているつもりで、実は全く別種のものに日々蝕まれている訳なのだ。そしてその「別種のもの」はソクーロフと全く無縁という訳ではないのだ。諏訪敦彦の『2/DUO』をビデオで
01/6/18(月)
●諏訪敦彦の『2/DUO』をビデオで。諏訪敦彦の映画はとても明解な図式によってつくられている。『2/DUO』も『M/OTHER』もどちらも、男女の、あくまでプライヴェートな関係に、ある「社会的なもの」が侵入してくることで、その関係が揺らぎ、破綻する様が描かれる。(まあ、もともとある男女の関係つまり「恋愛」が、外から与えられた「恋愛」という物語、つまり超越的な価値としての「恋愛」という物語なしにあり得るかどうかは難しいところだけど、とりあえずそれは置いておくとして。)その「社会的なもの」は、映画のなかでは「言葉」としてあらわれる。例えば、『M/OTHER』においてそれは「母親」という言葉である。『M/OTHER』の渡辺真起子は、最初戸惑いはしたものの子供とは良い関係をもつことが出来ている。だから彼女にとって問題なのは、実際にそこにいる子供ではないし、不在の母親でも男の身勝手さでもなく、彼女が受け入れざるを得ない社会的な「母親」という役割なのだ。彼女は「母親」という言葉との距離を測るべく揺れ動き、ついにはそれを受け入れることを拒否する。男との関係が破綻するのはその時である。『2/DUO』においては「結婚」という言葉がそれにあたる。お互いに対する不満や様々な不安定な要素をもちつつも、それなりに安定していた2人の関係は、男がふっと口にしてしまった「結婚」という言葉によってヒビが生じる。それなりに良い関係を構築していた男女の間に、否応なく侵入してくる「社会的なもの」。こんなに分り易いメロドラマ的な図式はないだろう。
このような明解な図式が遵守されるからこそ、映画は、前もって脚本もなく、行き先も不安定なままの状態での、俳優たちのインプロビゼーションによってつくりだされる微細なニュアンスに富んだ表情を拾い上げることができるのだろう。この映画の「リアル」さというのは、演技のいわゆる「自然さしさ」(例えば木村拓哉のような)によるものでは全くない。ここでの「演技」とは、どのようなテキストも与えられずにカメラの前に立たされて「演じる」ことを余儀なくされた身体の「緊張」によって成り立っていると言えるだろう。カメラを向けられ、スタートがかかったからには、俳優たちはそこで何かをし続けていなくてはならない。しかしそこには頼るべきテキストも段取りもない。そのような切羽詰まった状態に置かれた身体から、なんともリアルな動作が、表情が引き出されてくるのだ。そこには何の根拠もないままに「演じる」ことを強要された宙吊りの時間があり、その時間の緊張感に「演じ」つつ耐える俳優という身体があるのだ。ここにあるのはだから、現実の時間から明確に枠取りされ切り離された、カメラが回っている=演じている時間という抽象的な宙吊りの時間なのだ。例えばハーモニー・コリンの『ジュリアン』が、80時間以上もDVを廻していたという時、その撮影現場では、どこまでがカメラを回している時間でどこからが回っていないのか、どこまでが役を演じている時間でどこからがそうでないのか、が判然としない状態であった筈だと思うのだが、そのような現実の時間と撮影される=演じられる時間とが渾然一体となってしまうのとはまるで逆のことが行われているのだ。俳優たちは、カメラが回っている=緊張している時間というはっきりと現実から切り離された時間のなかで「演じて」いるのだ。これによって、「演じる身体」が物語の枠を超えて突出することはないものの、「演技」が物語を語ることに過不足なく従属するのでもない、微妙に何かが足りなくて、微妙に何かが過剰であるような、つまりそれこそが「リアル」だと感じられるような「抵抗感」が生ずるのだろう。
諏訪敦彦の映画はいつも明解であり、流れが混乱したり、未整理によって曖昧だったり難解だったりする部分が生じてしまうことがない。コンセプトははっきりしているし、その結果も高い達成を示している。ぼくが『2/DUO』で何より感心したのはそのメロドラマとしての完成度の高さだ。俳優(と言うより役の上での人物)へのインタビューやショットの途中の黒みなどが何度も挿入されて、これが語られた物語であり映画であることを常に意識させようとしているのだが、それでも物語のなかに思わず入り込んでしまうし、それこそ胸にグッときてしまうようにつくられている。(こっそりと紛れ込んでいるメロドラマ的な演出も実に的確だ。)これはかなり大したことだ。しかし、それが諏訪氏の映画作家としての聡明さであると同時に限界であるようにも見えてしまうことがあるのも事実だ。これではあまりに「映画」の内部で全てがうまく処理されてしまい過ぎている、という感想も出てこざるを得ない。もっと上手くいかなくて、何かが壊れていた破れていたりして良いと思うし、事実そういう部分があるはずだと思うのだが、それが隠されてしまっているのではないだろうか。フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』
01/6/20(水)
●バシフィコ横浜(フランス映画祭)で、青山真治の新作『月の砂漠』。今日はあまり時間がないので、取り急いで、ちょっとだけ。この映画が混乱していて、物語の語りが不器用にギクシャクしているとしたら、それは主演の三上博史が演じる人物像による。彼は、普通に統制のとれた人格を失っている。社員の前では冷酷な経営者であり、テレビカメラの前では自信満々の成功者であり、友人の前では家族を失って取り乱している男であり、一人でいる時には家族のビデオをだらしなく眺めているだけの男である。この人物が外に対して示す対応の仕方は、くるくるとめまぐるしく変化して、その基底となるべきひとつの人格(超越論的統覚)は見いだしがたい。しかし、勿論、彼は正常だ。その局面、局面に対して的確な対応をしているのだから。しかし逆に言えば彼は、ある局面に的確に反応する、ということ以外のことを何もしていないのだ。(記憶がない、上の空だ、というのはそういうことだろう。)映画の出だしの部分では、彼の見事なまでの状況への対応ぶり(分裂ぶり)が、ビデオ装置やテレビ放送などの複数のメディアを通してキビキビと手際よく示されるだろう。しかし、この絵にかいたようにヒューム的な人物である彼が、次第に、「的確に対応」すべき状況を失って、通常の社会生活の隙間(成功のすぐ近くに潜んでいる不幸)の時空、正常な対応に対して正常な反応が返ってくる訳ではない、彼の今までの生活空間からしたら異次元のような時空へと迷い込んでゆくにしたがって、彼はどのようにも対応することが出来ずにひたすら混乱して迷走をはじめ、それにあわせて映画の語りそのものも方向性を見失い、ギクシャクし、混乱して、時間が淀みはじめる。
この映画はどうみても成功しているとは言い難いようにみえる。これが『ユリイカ』と同じ監督の手によるものと信じ難いくらいに、流れは淀んでいて、演出は不器用で荒っぽくさえみえるし、主張は幼稚に空回りしてさえいる。しかしこのような混乱は、三上博史が演じているような人物を中心に据えた映画をつくろうとする時に必然的に現れてくる「混乱」であるはずなのだ。(むしろ非難されるべきだとしたら、混乱の度合いがこれではまだ足りない、中途半端に物語として整合性に頼ってしまっている、という点にあるだろう。)実は「混乱」と言っても、この映画における青山氏の「主張」はかなりシンプルで平易なものなのだ。しかしその平易な物語=主張は、決して滑らかに進行してすみやかに「結論」にまでは達することが出来ない。常に「物語を語る欲望」を口にする青山氏は、しかし実は物語=主張を器用に説得力をもって語ることが上手な監督ではない。(諏訪敦彦のように「聡明」な監督ではない。)むしろその映画(映像と音響)のあり方が、その物語=主張を裏切ったりしてしまうことがしばしばあるのだ。だから青山氏は、そう簡単に人を納得させるような「傑作」をつくってしまうような作家ではないと思う。そして、青山真治という作家の価値や現代性は、そのような「亀裂」そのものを生きているという事実にこそあると思われる。簡単に言えば、『月の砂漠』は、よく分らないヘンな映画で、とても面白かったのだ。いろいろと文句はあるものの、青山氏が現在最も支持されるべき映画作家であることは間違いがないように思えた。
01/6/21(木)
(引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。)
●『月の砂漠』はとりあえずは、「家族」という関係をつくり直す物語だと言える。自然なもの、所与のものとしてある家族ではなくて、新たに「人工的」につくり直されるものとしての「家族」。その意味では明らかに『ユリイカ』との関連がみられるだろう。しかしここでは、役所広司のような人物が自らの「意志」によって制作しようとするのとは少し違っていて、第三者の介入によって、ほとんど偶発的に成立してしまう関係が示されている。
●図式的に整理してみる。まず一方に、現代の都市に住み、資本主義的な構造のただ中にいて、それが強いてくる様々な状況に正確に対応することのみに追われている、三上博史が演じる人物がいる。あまりに多様化、多層化する状況に接しているので、ほとんど複数にバラけた統覚なき主体と化しているこの人物は、ふと立ち止って(立ち止ることを余儀なくされて)みると、自分が何をしてきたのかほとんど憶えていない、ほとんど上の空だったことに気付く。つまり複数の状況によって複数の自己へと断片化して砕け散った自己は、「記憶」(という超越的なもの)によって束ねられることさえも可能ではなくなり、自分の向かっている方向すらも分らないまま「上の空」で走っているのだ。(この人物からは『EM』の多重人格の少女からの微かなエコーが感じられる。)この人物の人格かが崩壊してしまわないのは、おそらく、会社を維持することと家族を維持することという、2つの「責任」を背負っているからだと言えるだろう。しかし既に家族は彼のもとを去っており、会社も危機を迎えて友人たちにも裏切られている。正確に対応すべき状況そのものが崩れてしまっていて、責任を果たすべき対象もなくなって、人格を束ねている力は既に消失していて、だから次第に彼の人格は(そして彼の周りの時空も)、歪んで、不定型に漂って流れ出してしまうことになるのだ。この映画の中盤以降、男は、酒に酔っていたり、クスリをやっていたり、左肩を銃で撃たれていたりで、ほとんどまともに立っていることが出来ず、危う気にヨロヨロと歩いたり、床や地面に突っ伏してばかりいるのが、そのことの最も見えやすいあらわれだと言える。そして映画自身のフォルムも、この男とともに混乱しはじめるのだ。
そして、もう一方に、とよた真帆が演じる女がいる。彼女は子供を連れて家を出ていて、アルコールに溺れたりなどもしているのだが、男とは違って、望んでいるもの、行くべき方向は常にはっきりしていて揺らぐことがない。男が、もはやなくなってしまったもの(関係)の残骸でしかないようなビデオテープの映像を繰り返してみることしか出来ないのに対して、女の前には望まなくても家族の亡霊(まぼろし)があらわれて、行く先を導いてくれるのだ。女は、子供と二人だけで「めんどくさいこともきちんとやる」ような関係を築き、そのなかで生きてゆくために、今はもう誰もいなくなった実家へと向かう。この映画において、田舎にある実家の空間は、都市空間が様々なメディアの交錯する立体的な空間として描かれているのに対して、意図的に閉ざされた、貧しくて、薄っぺらい、抽象的な空間として描かれる。(この家はだから、『シェイディー・グローブ』の「森」や『ユリイカ』の「家」のような、外部から切り離された架空の人工的な空間なのだ。だからこそ三上博史がここへ到着するためには、途中で携帯電話を捨てなければならなかったのだ。)この場所は、まるで舞台装置のように、家とその前の拡がりという一方方向への拡がりしかもっていない。(裏側のない、表側だけの空間)クレーンを用いた360度のパンも、この空間の閉ざされた狭さを強調するものなのだろう。そして時おり、まるでこの空間の不自然さを強調するように、キリキリと亀裂のようなノイズが被さるのだ。
一方に方向を見失って自ら混乱そのものと化して迷走する男がいて、もう一方に自分の求めるものへと突き進んでゆく女と子供がいる。互いを求めていながらも行き違って離れてゆくばかりの2つの流れが、第三者の偶発的な介入で嘘のように(しかし予定調和的に)結びつくのがこの映画なのだった。この3つめの流れをになう人物たちは、ちょっと、イカニモという感じの「J文学」にでも出てきそうなキャラクターだ。柏原収史が演じるキーチという人物は、資本主義社会の成功者である男の写真が印刷された大きな看板の下に住んでいるホームレスで、金持ちに身体を売っている男でもある。キーチは方向を見失った男を引きづり回して、男が「手に入れたとたんに無になってしまった」と言ったその「手に入れたもの」をさえ、決して「手に入れる」ことのできない人物たちの世界を見せつけ、その後、強引に家族のもとへと連れてゆく。結果として家族を結びつける触媒のように動くことになるこの人物は、例えば『シェイディー・グローブ』における「携帯電話」のように機能する、と言ってよいだろう。あるいは『ユリイカ』で、子供たちと役所広司を結び付ける「バスジャック犯」とか、『冷たい血』の鈴木一真とか。(ぼくには、この映画の出来がイマイチである原因の最も大きなものは、この媒介的な人物の造形や設定が甘かったからのように思えてしまったのだった。)この、天涯孤独で、たった一人で土の中から生れてきたようにもみえる人物も、実は「父親への激しい憎しみ」によって、「家族」に対する強いこだわりをもつ人物でもあるのだった。
(もう少しだけ、つづく。)
01/6/22(金)
(6/20から、引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。)
●まるで「2度目のバス」のような「2度目の家族」の成立を、この映画はどのように示すのか。それは実に簡単なことだ。カアイと呼ばれている娘は、とよた真帆のことを「アキラちゃん」、三上博史のことを「ナガイさん」と呼んでいるのだが、それが「お母さん」「お父さん」へと変化することで「2度目の家族」の成立が示されるのだ。この、あまりの分り易さは感動的ですらある。しかしこれだと、3者が向き合うという「約束」によって成立するはずの「2度目の家族」が、子供を中心とした「子供の承認」による「家族」ということにすり変わってしまいはしないだろうか。それと、男は、「クソみたいな仕事だけど、俺には友達に対する責任がある」ということを口にするのだが、結局、男はこの友人たちに対する責任を放棄する(放棄させられる)ことによって、家族のもとに残ることになる訳だけど、ここで分らないのは、何故「家族」が成立するために、それ以外の人間との関係を全て断った(あらゆるメディアのスイッチをオフにした)抽象的な場所が必要とされるのか、ということなのだ。(もともと女は、娘と「2人だけ」で向き合って暮らす「約束」をして、この抽象的な場所へやって来たのだった。なぜ、「2人で」ではなくて「2人だけ」でなくてはならないのか。)この、青山氏の奇妙なまでの閉鎖性への指向=嗜好というのは何を意味するのだろうか。それはこの映画に関してだけではなくて、他の青山作品、例えば『シェイディーグローブ』や『ユリイカ』などに対するぼくの根本的な疑問とも繋がっている。(例えば、黒沢清の『ニンゲン合格』のあの「家」、様々な人々がやって来ては去ってゆくあの開放性とは全く違っている。)あと、もう1つ、メディアに関する扱い方なのだが、男がくり返し観ているビデオによる映像が、もはや失われてしまった家族の空虚なイメージであり、ほとんど偽の映像(それを撮影したのは男ではなく男の友人のTVディレクターだ)であるのに対して、女が直接的に(どのようなメディアも通さずに)観るヴィジョン=幻覚は、女をある方向へと確実に導く力強いものとして示されている訳だが、これだと、ある媒介を通してあらわれるものよりも、無媒介に直接的にあらわれるヴィジョンの方を明らかに優位としているようにみえてしまう。しかし、それこそ「現前の形而上学」とも言うべきもので、それはとても危険なことなのではないだろうか、と感じてしまうし、それこそ「映画(映像と音響のモンタージュ)による思考」を否定してしまうことにもなりかねないのではないかとも思うのだ。サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた
01/6/23(土)
●サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた。これはまるで夢のように掴み難くて、夢のように難解で、夢のように分裂が分裂のままであり、夢のように逃げ場(外側)がなく、夢のように切実で、そして夢のように美しい物語なのだった。これを読むと、人称というものが、後から意図的に整理されることで初めてあらわれる、人工的なものであることが実感される。《彼は自分について、まるで他人についてのように話す。自分について話しながら、彼は言うのだ、彼はまるで他人について話すように自分について話していると。》決してその外へと出ることが出来ない暗闇があり、そこに「おまえ」という二人称で語る声が響く。その声と、声を聞く者、そしてそれらすべてを想像している者....。それらは全て自己であり、自分自身を自分の伴侶として想像することであるのだが、しかしそれらのバラけた者たちは、決して「自分」というひとつのものには、回収されないし、統合されない。《ただ一人。》という言葉で締めくくられるこの物語は、《ただ一人》という徹底して閉ざされた暗闇のなかにうごめく複数の声たちの統制不能な反響として綴られている。その暗闇すらも複数あるらしいのだが、しかしそれも含めて《ただ一人》なのだ。《おまえといっしょに闇のなかにいる他人についての作り話。闇のなかにおまえといっしょにいる他人について作り話をするおまえについての作り話。》
徹底して《ただ一人》であることが、すでに複数であること、にも関わらずどこにも外はないということ、そのような場所で自分自身を自分の伴侶として想像すること。このような物語に、それでも「他者」のイメージがほんの微かなエコーのように響いてはいる。例えば、かつて「おまえ」が出かけるときにいつも傍らに居た「父親」のイメージ(しかし、それはもういない。)、あるいは、「おまえ」の若い盛りを想像するときにそこにあらわれる「彼女」のイメージ(しかし、それももういない。)。この「彼女」のイメージはあまりにいいので、思わず書き写したくなってしまう。
《おまえは、ポプラの下に横たわっている。その震える影のなかにいる。彼女は、肘をついて体を直角にまげて横になっている。おまえのつむった眼は、彼女の眼のなかをのぞきこんていたところだ。闇のなかで、おまえはまたのぞきこむ。もう一度。おまえは自分の顔の上で、彼女の長く黒い髪の端が、静かな空気のなかに動いているのを感じる。髪の束の下におまえたちの顔が隠れる。彼女はづぶやく、葉っぱの音を聞いてよ。おまえたちは見つめあい、葉のすれる音を聞く。その震える影のなかで。》
しかしこの美しいイメージは、「思い出」などではなく、暗闇のなかで「おまえ」と語りかけてくる声によって語られた、「おまえについての作り話」に過ぎず、しかもそれを暗闇のなかで横たわって聞いている「誰か」は、その声が自分に語りかけているものなのかかどうかも分らないのだ。だからこのイメージは誰にも所属せず、ただ言葉として宙を(暗闇のなかを)漂っているだけなのだった。
01/6/24(日)
●昨日読んだ(初めて読んだということはないはずなのだが、ほとんど憶えていなかった)ベケットの『伴侶』がとても良かったので、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』などををパラパラとめくり返してみていた。
《ときどきイメージを作りだすこと(「できた、私はイメージを作りだした」)、芸術、絵画、音楽にこれとは別の目的がありうるだろうか。たとえイメージの内容はまったく乏しく、実に凡庸であってもよい。(略)イメージとは、時期が到来したときの、視覚的あるいは音声的な、ちょっとしたリトルネロ(リフレイン)なのだ。(略)つまりイメージはその内容の崇高さによって定義されるのではなく、その形態、つまりその「内的緊張」によって、それが発揮する力によって定義されるのだ。こうしてイメージは空白を生み出し、あるいは穴をあけ、言語の拘束を解きほぐし、声のうるおいを乾かせ、みずからを記憶と理性から解放する。非論理的、記憶喪失的で、ほとんど失語症的なちっぽけなイメージが空虚のなかに保たれ、開かれたものにおいて震えている。イメージは1つの物ではなく、「プロセス」である。このようなイメージは物の観点からは実に単純でも、その力能は未知のものだ。》